第2話 そして、いまのこと
そのバーの入口には店の名である「ドルフィン」に掛けたイルカのオブジェが置かれていた。白熱灯に照らされて真鍮色に鈍い光を放つ背びれの向こうに見えるカウンターには、その中ほどの止まり木で寄り添う男と女がいた。
「……と、言うわけさ。その侍ってのがオレの遠い遠い御先祖様ってわけ」
男は左手に持つ冷えたグラスを下がり天井から吊るされたアンティーク調のランプに灯る明かりにかざしてカラリと揺らすと、次にそれを口元に下ろして甘く香るシングルモルトの水割りをひと舐めする。この男がそんな仕草をするときは目の前のすべてに辟易しているということを、カウンターの向こうでシェーカーを振るバーテンダーはよく知っていた。
「それで、そのお侍さんは死んじゃったの?」
「死んじゃってたら今オレはここにいないだろ」
即座に返す男の言葉の端に少しばかりの棘が感じられた。しかし男は手にしたグラスをコースターの上に置いてさらに話を続けた。
「それが祟ってかどうか、とにかくオレん家の男連中には決まって左眼にトラブルが起きるんだ。それも全員ってわけではなく、左利きのヤツだけにね」
「そう言えば佑也って」
「そう、オレも左利きさ。兄二人は右利きなんだけどね、オレと親父とあとは爺さんがね」
佑也と呼ばれる男は女の顔を見ることなく、グラスに浮かぶ氷を見つめながらなおも続けた。
「迷信だとか偶然だとか思い込みだとか言う連中もいるけどさ、死んだ爺さんも左眼は極端に視力がなくて晩年はほとんど見えてなかったって言うし、親父も最近医者から左眼が白内障になりかけてるから注意しろ、なんて言われてさ。まあこれは加齢のせいかも知れないけどね」
「ふ――ん、そうなんだぁ。佑也、なんかいろいろ大変」
男の右隣に座る女も白く半透明な液体に満たされたカクテルグラスの足を右手でつまんで、男の仕草を真似るように目の上に掲げて応えた。
男はそんな女の仕草にまるで自分が茶化されているような軽いイラ立ちを感じたが、そんな気持ちはおくびにも出さず、女にチラリと視線を向けて問いかけた。
「ねえ、マヤ、聞いてる? オレの話」
「ん? うん、聞いてる、聞いてるよ。お侍さんの祟りとか」
「いや、それもそうだけど……」
男は再びグラスを左手で掲げると、液体と氷が織りなす光の屈折に目を細めた。
国内有数の大手ゼネコン「キムラ」の三男坊である彼の名は木村佑也、家業は長男と次男とで継ぐことがすでに決まっており、佑也は言うなれば一族に万一のことがあった場合のリリーフ投手のような扱いで、帝王学と称しながらそこそこ甘やかされて育ってきた。
国内のエスタブリッシュなご子息、ご息女が通う小学校に入学、そのまま苦労することなく大学までエスカレーターで進学した佑也は、卒業後、キムラグループの系列企業に1年ばかり勤めてからは親の出資でベンチャー事業の真似事を始めた。
ところが、どうせ三男坊のお遊びだろうという周囲の予想をよい意味で裏切ることになる。蓋を開けてみたら、そんな佑也が生来持つ、ややもすると冷徹ともいうべき性格と思い切りの良さで事業は瞬く間に軌道に乗り、いまでは数多くの会社のオーナーとなっていたのだった。
「ねえ佑也、そんなことより来週のパーティーのことなんだけど……」
思った通りこの女はオレの話などこれっぽっちも聞いてないのだな。あきれた顔で佑也が口にした水割りはやけに苦く感じられた。
「パーティー?」
佑也は女の方にちらりと視線を向けると怪訝な顔で聞き返した。
「ほら佑也のお友だちの婚約パーティー、今度の土曜日の。もちろん私も一緒よね。実はちょっと楽しみにしてるんだ」
マヤが言うパーティーとは佑也がオーナーをしている小さなベンチャー企業の経営者、と言っても佑也に雇われた経営者だが、の婚約パーティーのことだった。
ベンチャー企業にとってなによりも重要なのは、技術やアイディア、他社との差別化による優位性なんてものではなく、実際のところは出資者と確実な資金繰りの確保である。そのためには有力者を身内に取り込むのがもっとも手っ取り早いのだと佑也は考えている。下世話な話ではあるが佑也は自分がオーナーとなっている企業の経営者には若い、いわゆるイケメンな男を充てていた。そして佑也自身がそうされてきたように、若き経営者たちにはマナーや教養を高める教育も施してきたのだった。
その成果が実ってか、佑也がオーナーを務める会社の雇われ社長の一人が先ごろさる資産家一族の次女のハートを見事に射止めた。ならばその二人を早々に婚約させることで今後の資金繰りが盤石なものとなることを、派手な披露パーティーで周囲に知らしめてやろうというのが佑也による周到な計画だった。
そんな屈折した経営哲学を持つ佑也であるが、実は当の本人もリリーフならではの宿命で幼いころからすでに許嫁が決まっていた。しかしそんな話にはまったく乗り気でない佑也はその相手とは会おうともせず、やりたい放題の浮名を流していたのだった。
「ああ、あれか……」
そういえばピロートークでそんな話をしたこともあったっけ。こいつ、それを真に受けて同伴するつもりなのか。と、佑也は冷めた視線を女に向ける。
「ねえ佑也、やっぱり正装よね。あ――どんなコーデがいいのかなあ。エステも行かなきゃだし、ネイルも……そうだ、ねえ佑也、アクセはどうしようか。理想としてはいくつか新調したい気分」
期待に胸を躍らせてはしゃぐマヤの声が佑也の耳にはまるで遠くの喧騒のように聞こえた。
赤の他人の婚約披露に君はどうしてそこまではしゃげるんだ?
エステにネイルにアクセサリー?
それらをオレにねだる君は自分にそこまでの価値があると思っているのか?
パーティー当日までのプランを矢継ぎ早にまくし立てるマヤの姿をまるでテレビの向こう側でしゃべりまくる二流タレントを見るかのような冷めた視線で眺めながら佑也は心の中で本音をつぶやいた。
「身の程をわきまえろ」
身体の相性も悪くはないし、男性好みの派手な見栄えで仲間内のイベントでもウケがいい。なので連れて歩くにはまずまず悪くはない。しかし今度のパーティーに同伴させるような人間ではない。佑也はそう考えると今度は吐き捨てるようにつぶやいた。
「潮時……か」
ひとりで勝手に盛り上がるマヤの耳にその一言は届いていなかったが、カウンターの中でグラスを磨くバーテンダーには声は聞こえずともその表情ですべてが伝わっていた。
――*――
カラン、コロン――
ドアベルの乾いた音色とともに一組のカップルが入店してきた。バーテンダーはカウンターではなく奥の小さな二人掛けテーブルを指してそこに客を案内した。こんなとき、佑也以外の客をカウンターに着かせるべきでないことを彼は十分承知していた。
カウンターに座るマヤと佑也の背後を今来たカップル客が通り過ぎて行く。それまで手持ち無沙汰そうにネイルの様子をチェックしていたマヤは顔を上げて左隣に座る佑也の横顔を見ると同時に、その目は脇を過ぎ行くカップルの背中を追っていた。
コツン、コツン、コツン、ツツツ――――
今度はカウンターで何かが転がる音がした。マヤは音の方に視線を向ける。そこでマヤが見たものは……じっと自分を見つめる黒い瞳の眼球だった。
「ヒッ!」
マヤは咄嗟に息を詰まらせながら声にならない声を上げた。そしてひと呼吸の後、かすれた叫び声が店内に響き渡った。
「キャ――――ッ!」
今しがた席に着いたばかりのカップルも、奥のボックス席の客たちも、皆が何事かと腰を浮かせてカウンターに目を向ける。するとそこには平然と水割りのグラスを傾ける佑也の姿と些か困った顔でカウンターの二人を見るバーテンダー、そして膝を震わせて今にも崩れ落ちんとカウンターにしがみつくマヤの姿があった。
グラスを磨く手を止め慌ててカウンターを飛び出して客たちに一礼したバーテンダーが足早に元のポジションに戻ってくる。佑也も手にしたグラスを置くとジャケットのポケットからハンカチを取り出してそれを左眼に軽く当てる。そして右目だけでにやりとした笑みを浮かべながら肩で息をするのが精いっぱいのマヤに向かって平然と嘯いた。
「驚かせちゃったな。けど君がいけないんだぜ、オレがせっかく話をしてやってるのにさ、肝心なオレへの気遣いがないんだから」
マヤは目の前で自分を見つめる眼球を自分の視界に入れないよう注意しながら、涙で潤んだ目を佑也に向けた。そんなマヤに佑也は冷めた薄ら笑いを浮かべて言った。
「一言聞いてくれたら口で説明してやったんだけどさ、君はオレよりも自分のことでいっぱいだったからね。だからさ、現実を教えてあげたんだよ、とってもわかりやすくね」
そして佑也のにやけた右目が鋭い眼光に変わる。
「子供の頃にね、草野球でデッドボールを喰らってさ、見事左眼に命中ってやつさ。どう? このハンカチの下も見てみる?」
マヤは怯えた顔を右に左に振りながらカウンターの助けを借りてなんとか立ち上がった。そして震える声で佑也に返した。
「ご、ごめんなさい、そろそろ……あの……しゅ、終電が……」
怯え慄くマヤに向かって佑也は意地悪そうにたたみかける。
「マヤ、君はオレの車で送ってもらう魂胆だったんじゃないの?」
マヤはなおも否定するように首を振りながら声をうわずらせた。
「そ、そんな、送らせるなんて……」
「でもさ、まだ終電って時間じゃないだろう」
「あ、バス……そう、バスです、終バスです。早いんです終バス」
マヤは震える膝を引きずりながら、以前に佑也からプレゼントされた人気ブランドのポーチを手にとると背後を伺いながら後ずさりした。
「ごめんなさい、失礼します、ごめんなさい、ごめんなさい」
ドタバタと乱れた足取りで店を出ていくマヤ、後にはがさつに閉じられたドアベルの音が「ガラリン、ガラリン」と鳴り響いていた。
――*――
飲み残されたカクテルグラスの前でこちらを睨みつける黒い瞳の眼球模型を手にした佑也はそれを弄びながらバーテンダーに二杯目の水割りをオーダーした。
佑也は左眼にあてていたハンカチをカウンターの上に無造作に置くと、その手でバーテンダーからグラスを受け取った。そしてそのハンカチの下にあったのは何のことはない、いつもと変わらぬ佑也の左眼だった。
「ねえ英ちゃん、見た? あの女、まさか目の前で腰を抜かすなんてな、ほんとウケるよ。ま、これで見納め、いい潮時だったよ」
「なあ佑也、おまえが店に来たときの雰囲気で今夜あたりだろうな思ったから、こうして他の客はボックスの方に案内したけどさ、いい加減この店でやるのは勘弁してくれよ」
「まあ、そういうなって。こんなことできるのは英ちゃんの店でしか……」
「そりゃこのビルは佑也のとこがオーナー、お前は大家さんなわけだけどさ、店の評判ってのがあるだろう。それにもうこれで五人目だぜ。そろそろマンネリして噂にもなるんじゃないか?」
「ま、そんときはそんとき。なんなら英ちゃんにはもっと駅近の物件を紹介してもいいし」
「そういう問題じゃないって……」
佑也とバーテンダーはそんな軽口をたたきながらグラスを掲げて乾杯した。
バーテンダーは佑也がその球体をジャケットのポケットに入れるのをカウンター越しに目で追いながらグラスの水割りをひと舐めすると苦笑いを浮かべて言った。
「しかしよくできてるよな、その目玉。俺も初めて見たときはビビったもんな」
佑也は眼球をつまみ上げると、バーテンダーに向かってそれを自分の左眼の上にあてがって見せた。
「こんなもんが目ン玉の穴の中に入るわけないのにな。ちょっと考えればわかるだろうに。そもそも義眼が球形ってのも先入観ってやつなんだよ」
バーテンダーは自分のグラスを手にして薄めの水割りをグイっと喉に流し込むと、佑也の手元に再び視線を向けた。するとそこには半球状のお椀を伏せたような小さな物体が置かれていた。そしてそれもまたマヤが見たのと同じように黒い瞳が天井のダウンライトの光を反射させている。
「本物はこんな形さ。これをうまい具合にかぶせるのさ。球体じゃないんだよ」
バーテンダーは佑也の声を受けてその顔に目を向ける。するとそこには安っぽい映画に出てくる海賊がするような黒い革製のアイパッチを左眼に着けた佑也の微笑む顔があった。
突然のことにグラスを磨く手を止めるバーテンダー。
カシャ――――ン!
そして今度は力の抜けたバーテンダーの手からスルリと滑り落ちたカクテルグラスが床に落ちて砕け散る音が店内に響き渡ったのだった。
左ノ目奇譚
―― 完 ――