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第1話 これは、むかしのこと

 進三郎しんざぶろうは見てしまった。見てはいけないものを、決して見てはならぬと言われたものを。

 武家の三男坊、好奇心だけは旺盛だが人一倍小心者の木村進三郎佑成きむらしんざぶろうすけなりのその些細な浅はかさがまさか末代までたたることになろうとは、そのときの進三郎には知る由もなかった。

 あのとき、雨に降られなければ、そしてあのとき、あの山寺に泊まらなければ。

 石のつぶてにやられた左眼の痛みを紛らわせるため、進三郎はこれまでの出来事を反芻はんすうしていた。しかしそれらすべては後の祭り。

 今、進三郎は空を仰ぎながら朦朧とする意識の中で清涼な沢のせせらぎに耳を傾けつつ、ただただ自責の念に包まれていたのだった。



――*――



 進三郎は歩く、ひたすら歩く。先を急ぎながら何度も何度も空を見上げる。木々の間から覗く空の色はどんよりと鈍い灰色で、その色は刻々と濃く暗くなっていった。


「早いところ雨風をしのげるところを探さねば」


 一刻ほど前までは眩しいくらいの日差しだったではないか。それが今ではすぐにでも泣き出しそうな空模様に加えて、木々をざわめかせ始めた風はだんだんと強まり、その風は袖の袂を吹き抜けては汗ばんだ身体に不安な冷たさを感じさせている。進三郎は山里の天気を少しばかり侮っていたと自責していた。


「ムッ、ついに来たか……」


 進三郎は頬に落ちる冷たい一粒を感じた。途端にその粒は数を増す。そしてそれはあっという間に大粒の雨となって山道に降り注いだ。

 進三郎は焦った。せめて雨宿りができる軒先でもないものか。歩を速めたくとも濡れた石畳は思いのほか滑りやすく不安定だったし、街道筋とは言えこんな山の中には人家などあるよしもなかった。雨は一向に弱まる気配もなく、気ばかりが焦る進三郎は額を流れる雫をぬぐいながらひたすらに山間の街道を歩くのだった。


 着物も草履ぞうりもすっかり水を含んでずっしりとした重さに疲れを感じ始めた頃、進三郎の行く先に雨にけぶる小さな山門が見えた。


「ありがたい。どれ、あそこでしばし雨止みを待たせてもらうか」


 ところどころに苔の島が浮かぶ茅葺かやぶきの小さな屋根の先からはぽたりぽたりと雨の雫が垂れていた。進三郎はその下で荷物を下ろして身を休めた。

 変わらぬ雨模様に暇を持て余した進三郎は山門の中に目を向けた。そこには裏山に張り付くようにして建つ小さな寺があった。まだどきというのにすっかり薄暗くなった中に淡い明かりが浮かんでいる。おそらくこの山寺を守る坊守ぼうもりでもいるのだろう、ならば今夜はここにやっかいになれないものか。進三郎はそんなことを考えながらも、かと言って寺を訪ねるわけでもなく、ただただそこで雨止みを待つのだった。


 雨は止む気配なく静かに降り続く。そのさまからこの雨はすぐには止みそうにないことが進三郎にもわかっていた。空気は益々重く冷たく、山道の途中にあるこの山門のあたりも気がつけばすでに夜目よめの効く者であっても難儀しそうなくらいの暗さになっていた。

 進三郎、何を躊躇しているのだ、このまま山門で夜を明かすことなどできぬ。さあ、この山門をくぐり寺の門を叩くのだ。そう逡巡しゅんじゅんする進三郎の耳に木々の葉を叩く雨音に混じって、ぱしゃりぱしゃりと足音らしき音が聞こえてきた。

 進三郎はその音の方、山門の中に目を向けた。はたしてその音の正体はこちらに向かって歩いてくる人影の音だった。人影は法衣ほうえに身を包み雨の中を急がずにゆっくりとこちらに向かってくる。見たところこの山寺の僧侶であろう、履いている草履も法衣の裾も雨を含んですっかり濡れていた。

 そして僧侶は山門の手前で立ち止まると両手を合わせて進三郎に向かって一礼した。


「お侍さま、急な雨でさぞかしご苦労されたことでしょう。私はこの寺で住職をしておる者でございます。さあ、どうか拙寺せつじでお休みになってください」

「これはご住職、一宿一飯の恩義、まことにかたじけない」


 住職を名乗るその僧侶からの思いもかけない言葉に気持ちが高揚した進三郎は、この寺に泊めてもらえるものと、つい本音が出てしまった。

 しまった、口が滑った。しかし、この天気とこの寒さ、それにこの暗さである、進三郎がつい口を滑らせてしまったのも致し方ないことだった。そしてそんな進三郎の気持ちをおもんぱかってか、住職は続けた。


「ははは、お侍さま。この雨、そうそうすぐには止みますまい。さあ、お風邪など召さぬよう、こちらに。今夜は拙寺でゆっくりとお身体からだを休めてくだされ」


 そう言って住職は踵を返すと寺に向かって歩き出した。


「これはなんとも……まことにかたじけない。それでは」


 そして進三郎も荷物を手にして先を歩く住職の後について山門をくぐったのだった。



――*――



 住職は山門に立つ進三郎に気づいたときから支度をしていたそうで、進三郎が部屋に通されたときにはすでに白木綿しろもめんの浴衣が用意され、夕げの準備も整っていた。


「粗末なものではございますが……」


 法衣ほうえから白い木綿の着物に着替えた住職は進三郎の前に小さな膳を用意した。膳の上には雑穀の粥と青菜の漬物、それと小皿に少量の塩が盛られていた。

 進三郎は膳の前で姿勢を正すとあらためて住職に向かって自身の名を名乗り深々と頭を下げた。


せつは木村進三郎と申す。理由わけあって上州のさるお方に親書を届けた帰路、この雨で難儀しておったところ、此度こたびのご住職の施しにはまことに痛み入る。あらためて礼を申す」

「まあまあ、お侍さま、お気持ちを楽になさって。さあさあ、冷めないうちお召し上がりください」


 夕げの後、進三郎と住職は熱い茶を前にしばしの歓談を楽しんでいた。進三郎は江戸での出来事を身振り手振りを交えて面白おかしく披露した。

 そんな楽しい団欒も一段落したとき、住職はおもむろに襟を正すと進三郎に向かって静かな口調で話し始めた。突然のことに進三郎も背筋を伸ばして向きなおりその話に耳を傾ける。


「ときにお侍さま、今宵お泊まり戴く部屋でございますが……その部屋の違い棚に、そこに漆塗りの箱がございます。それは拙寺せつじに代々伝わるものでございますが、お侍さま、どうか、どうかその箱にはお手など触れませぬよう、切にお願い申し上げます」


 住職は進三郎に向かって深々と頭を下げた。しかし好奇心だけは人一倍の進三郎は住職に向かって問いかけた。


「ご住職、どうか頭を上げてくれ。それよりその箱とやら、いったい何物であるか。そもそもさわられたくないものを何故なにゆえ客を通す間に置いてあるのだ」

「それは……」

「どうした、ご住職。ますます気になるではないか。それではまるでせつにその箱を手に取れと言わんばかりの……」

「なりませぬ、それはなりませぬ!」


 突然語気を荒げた住職に進三郎は続く言葉を飲み込んだ。


「お侍さま、どうか、どうかご容赦を」


 住職は畳に額をすり寄せるように頭を下げながら続けた。


「あれは……あれは触れてはならぬのです」

「ご住職、話はわかった。わかったからどうか頭を上げてくれんか」


 進三郎は冷めかけた茶を一口すすって再び住職に問いかけた。


「ご住職、その箱とやらには何が収められておるのだ?」

「それは……それは知りませぬ、わかりませぬ」

「なんだ、中身もわからずに怖れておるのか」

「目が、目がつぶれます。あれを見ようとした者はみな、そうなります」


 住職のただならぬ様子に進三郎はこれ以上の問答はせず、その忠告に素直に従うことにしたのだった。



――*――



 雨は夜半にはすっかり上がっていた。空を覆っていた黒く厚い雲も今ではすっかり姿を消して、かわって明るい月の光が山間の木々の隙間から濡れた境内を照らしていた。

 旅の疲れのため沈み込むように寝入っていた進三郎であったが、夢かうつつか人の気配を感じて目を覚ました。静まり返る客間、月明かりで青く照らされる障子の向こうにはかすかに風に揺らぐ影が映っていた。


「あの影は……」


 進三郎は枕元においた刀を手に障子を少しだけ開けて様子をうかがった。はたしてそこにあったのは、本堂に下がる天蓋てんがいの飾りが風に揺れるさまだった。


「なんだ、おどかしおって」


 進三郎は再びとこに就くために障子を背にした。仄暗ほのぐらい青に染まった客間の中に障子の隙間から月明かりの明るい青が差し込む。その光は客間を斜めに横切り、進三郎のとこの足元を見下ろす違い棚に向かっていた。そしてその明かりの先、違い棚の上には明るく照らされた漆箱があった。


「なりませぬ!」


 住職の言葉が脳裏をよぎる。進三郎は手にした刀を元の場所に置くと、障子を閉めずにその明かりをたよりにして違い棚に近づいた。

 今、目の前にはあの漆箱がある。それは青い月明かりに照らされ、なまめかしい光沢を放っていた。進三郎は右に左にと身体を傾けてはいろいろな角度から箱を観察してみた。

 気になる、とても気になるが住職のあの様子ではこれは確かに触れてはならぬものなのだろう。しかしおそらく住職すらもこの中を見たことはないのであろうに、何をそんなに怖れているのか。

 いや待て、自分は恩を受けている身、ここでそれを行なったならばそれは恩をあだで返すことになるのではないか。

 そうは言うものの、もし自分がそれを行なった結果、何事もなく無事であったならば住職もくだらぬ因縁から解放されるのではないか。

 それならば……いやいや待てよ、もし自分に何かがあったなら……進三郎は月明かりの中でただひとり漆箱を前にして悶々とするばかりだった。


「ええい、ままよ!」


 進三郎は漆箱の蓋に両手で触れた。固く目を閉じ指先で漆塗りの感触を確かめる。物音ひとつしない部屋の中、自分の鼓動だけがやたらと大きくドクンドクンと響いていた。

 進三郎は両手に軽く力を入れてみる。蓋は思いのほかすんなりと持ち上がった。進三郎はここでひと呼吸、続いて大きく深呼吸をすると思い切って両目を開いた。あと少しの思い切りでその中身が見えるだろう。しかしそのとき、再び住職の言葉が進三郎の頭をよぎった。


「目がつぶれます!」


 進三郎は手を止めた。そして軽く目を閉じて顔を右に背けた。背けながら再び両手に力を入れる。蓋はゆっくりと上がる。あと少し、その手ごたえがあと少しで蓋が開くことを伝えてくる。

 進三郎は右に背けたその顔の左眼のみを薄く開いて漆箱を見つめた。薄青く照らされたその色が箱の黒さを一層強調させる。そしてついに蓋は箱の胴体から離れ、その手ごたえも軽くなった。進三郎は月明かりが箱の中を照らすように少しだけ蓋を右にずらした。

 進三郎の肩越しに月明かりが蓋の隙間からその中を照らす。そしてその瞬間、進三郎の左眼に飛び込んできたものは、この世のすべてがそこに吸い込まれてしまわんばかりの漆黒の闇だった。


 進三郎はすぐに蓋を閉じると何事もなかったかのようにその場から下がり、月明かりが差し込む障子を閉めると茫然自失のていとこの上にへたり込んだ。それは極度の緊張感からの解放によるもので、後に残ったのは汗でびっしょりと濡れた浴衣の不快感だけだった。



――*――



「お侍さま、よい天気ではございますが、まだまだ足下あしもとは悪うございます。どうか道中お気をつけください」


 木々に残る昨夜の雨のしずくがキラキラと照らされる中、住職は寺を後にする進三郎に向かって手を合わせた。


「ご住職、世話になった。この恩、いずれ何かのかたちで……」

「お侍さま、どうかお気になさらずに。これも何かの縁、いずれまたこの地に来られたときには是非とも拙寺せつじにお立ち寄りいただければと存じます」

「では、ご住職、世話になった」


 そう言って進三郎は山門を出ると今一度振り返って一礼し、そして寺を後にした。


「お侍さま、道中何卒ご無事でありますように。何卒、何卒……」


 住職は進三郎が去った後の山門に向かって手を合わせいつまでもそうつぶやいていた。



――*――



 進三郎は歩を速めた。昨日の雨ならまだしも、この好天の中、誰一人街道を歩く人の姿を見かけないのだ。それになんとなく感じる胸騒ぎ、身体全体を包む冷んやりとした不安感。このざわつきはあの箱を見てしまったせいなのか、はたまた住職への後ろめたさのせいなのか、兎にも角にも進三郎は一刻も早くこの地から遠ざかりたかった。

 とにかく急ごう、そして宿場に着いたらまだ日は高いが今日はそこでゆっくり休むことにしよう。そう考えて進三郎はひたすら歩くのだった。


 半刻はんときほど歩いた頃、しかしいまだに前にも後にも街道を歩く人の姿はなかったが、進三郎が進むその先に数人の人影が現れた。それらはまるでそこを通るすべての者の行く手を阻むように並んでいた。明らかに様子がおかしいが、しかし山間の街道に脇道はない、このまま進むしかないのだ。

 帯刀しているとは言え、腕に覚えがあるわけではない進三郎は躊躇した。できればなんとかやり過ごしたい。だがこんなときに限って進三郎以外に街道を行くものはひとりもいなかった。

 まずい、まずいぞ、いくらなんでも、ひいふう……五人か……俺一人で五人、いや、無理だ、無理、無理、しかし……なんとかやり過ごさねば。


「よし、行くか」


 進三郎は呼吸いきを整えると毅然と前を見てずんずんと歩き進んだ。近づくにつれ五人の風貌がハッキリしてくる。どうやら刀や槍などの武具は持っていないようだった。五人それぞれが手にしていたのはかまくわすきなどの農具、それと棍棒らしきものだった。進三郎はざっと見積もる。とにかく鋤には気をつけねば、あとはあの棍棒か……よし、決めたぞ、鎌だ。あの鎌の男の脇を抜けるのだ。いざとなれば刀をチラつかせれば腰も引けるであろう。

 進三郎は向かって左端の鎌を持つ男を睨みつけながら歩を進めた。野盗の列まであと十(けん)、九間、八間……その距離五(けん)ほどになったところで進三郎は右肩に鈍い衝撃を感じた。そしてもう一撃、加えてもう一撃、その衝撃は右肩に続いて右胸、再び右肩と続く。進三郎は目指す鎌の男から衝撃の方向に視線を移す。するとそこには地べたに広げられた風呂敷と雑に積まれた瓦礫らしきものが見えた。進三郎を襲うその衝撃の正体は野盗たちが投げる石礫いしつぶてだった。男たちは足元に握りこぶし大の石のつぶてを並べ、それを次々と進三郎めがけて投げてきたのだった。


「うぬ、や、やめんか、貴様ら、やめんか!」


 進三郎は両腕を顔面の前に出し、身をかがめながら左端の鎌を持つ男に近づく。次々と礫を投げる男たち。そのひとつが進三郎の額に命中し、血を滲ませる。とにかく早くここを通り抜けようと進三郎はじりじりと進む。

 その間にも石の礫は進三郎に容赦なく襲い掛かってきた。そしてついにひとつの礫が進三郎の左眼に命中した。


「ぐわっ!」とうめき声を上げてその場にうずくまる進三郎。同時に男たちが駆け寄る気配を感じた進三郎は左手で左眼を抑えながらもう一方の手で刀を抜き、滅多やたらと振り回した。刀に当たる衝撃が進三郎の右腕を震わせる。おそらく男たちが手にする農具や棍棒で応戦しているのだろう。しかしそんなことはどうでもよかった。とにかく、ここを切り抜けよう、さあ、もうすぐだ、あと数歩であの鎌の男をやり過ごせる。そうしたらすぐに走り抜けるのだ。


 進三郎は刀を振り回しながら、その動きを止めることなく左へ左へ、前へ前へと進んだ。

 そのとき、右手の刀に重たい衝撃を感じた。おそらく奴らの棍棒を受けたのだろうか、そしてそのまま反対側によろめいたとき、進三郎から方向とバランスの感覚が失われた。次に進三郎が感じたのは肩と背中と頭に次々と襲い掛かる鈍い痛みと木々の間から見える空が遠ざかっていく様だった。

 進三郎は野盗の攻撃を受けつつよろけながらそこを切り抜ける際に迂闊にも足を滑らせ、崖下に転げ落ちたのだった。



――*――



 進三郎は左眼に激しい痛みを感じながらもなんとか目を開けようとした。しかし、その左眼が光を感じることはなかった。そして転げながら受けた全身の傷も徐々に痛みを増してきた。


「やはり……やはり見なければよかったのだ、あんなものを」


 今、進三郎は激しい痛みで朦朧とする意識の中、右眼に映る雲の流れを見つめながら清涼な沢のせせらぎに耳を傾けつつ、ただただ自責の念に包まれていたのだった。



つづく


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