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第六章 恋の華咲く夏の空


「……よし、っと」

 ぎゅっと帯を締め、鏡の前で軽くポーズを取ってみる。良い感じだ。一息つくと身体を楽にし、カレンダーに目をやる。八月も下旬、世の小学生は夏休みの宿題を焦って終わらせる頃だ。

 そして、家庭教師としての俺の役目に終わりが見えてくる頃だ。

 今日の日付欄には大きな赤丸と、「夏祭り」という文字が書かれている。今日は琴音の待ちに待った日だ。

 この日に至るまでに一番驚いたのは、文哉さんが俺たちの分の浴衣を用意してくれたことだった。現物を見た時の琴音の表情はといえば、喜びと驚きがジェットコースターに乗ってやってきたような反応だった。あれはなかなか見物だったな。

 思い出し笑いを堪えながら、今度は時計の方に目をやる。そろそろ琴音も着替え終わる頃だ。先に出る準備を整えておくか。

 階下に降り、玄関に置いてある下駄に足を突っ込むと、背後から文哉さんの声が聞こえてきた。

「信明くん、もう準備万端みたいだね」

「はい、おかげさまで」

 振り返って彼に頭を下げる。彼も自前の浴衣を身につけて、すっかり夏祭り気分といった様子だ。

 琴音はいつ降りてくるかなんて話をしているうちに、上から足音が聞こえてきた。

「お、噂をすれば何とやらだね」

 慣れない足袋を履いているせいか、琴音はおぼつかない足取りで階段を一歩ずつ降りてきて、やっとの思いで廊下に足をつく。そうして彼女の浴衣姿が露わになる。

「ど……どうかしら……?」

 すごい。俺の貧弱極まりない語彙ではその一言をひねり出すことしかできなかった。この前二人で出かけた時とはまた違う魅力が発揮されている。おおよそ何を着ても似合ってしまうのではないかと思うほどだ。

「えっと、めちゃくちゃ似合ってると思うぞ」

「そ、そう……。あんまりじろじろ見ないでよ」

 そう言うと彼女は縮こまって衣装を隠した。見てほしいのか見てほしくないのかどっちだよ。

「もう、琴音ったら。せっかく似合ってるんだから、隠してちゃダメよ」

「椿さまの言うとおりですよ。もっと胸を張りましょう」

 いつの間にか階上から椿さんと薫子さんも降りてきていた。二人も綺麗な浴衣姿だ。

「で、でもっ……」

 普段着ない衣装がよほど恥ずかしいのか、琴音はたじろいで食い下がる。するとその時、薫子さんが彼女の背後に回るのが見えた。

「ほーら、隠すの禁止です!」

「わっ……ちょっ、薫子ってば、何すんのよ!」

 薫子さんが腕を鷲掴みにして持ち上げて、再び琴音の衣装が露わになる。もちろん琴音はそれに抵抗してじたばたと手足を動かす。

「見るなぁっ! バカ信明っ、変態!」

「俺全然関係ないんだけど!?」

 何もしてないのに変態扱いとはこれ如何に。

 人口密度の高まった玄関が喧噪で満ちる。そんな調子で下手な茶番を繰り返し、ようやく出発まで漕ぎ着けたのだった。

 静かなコンクリート舗装の道に、下駄の鳴る音が響いては消えていく。からんからんと不規則なリズムが静けさと相まって、下駄が遊んでいるように聞こえる。

 そんな中、他から浮いた速いテンポで刻まれる下駄の音がひとつ。俺たちの集団から抜け出して、琴音が前を歩いていた。

「なあ、琴音」「…………」

 彼女に並んで話しかけてみても、一切の反応が返ってこない。俺には目もくれず、むすっとした表情で前だけを向いて歩いている。

「ったくもう、そんなに怒るなよな」

 どうやら出発前のあの一悶着でへそを曲げてしまったらしく、家を出てからというものずっとこの調子だ。

「……別に、怒ってなんかないし」

 だったらなんでそんなに機嫌が悪そうなんだ、という突っ込みは野暮だな。そこからしばらくの間、お互いに黙ったまま会場までの道を歩く。

 やがて会場が近づき、騒がしい祭りの声が一行がいる所にも届いてくるようになった。それに合わせるかのようにして、琴音は俺だけに聞こえるように言った。

「信明が私のこと、楽しませてくれたら……許してあげても、いいわよ」

 その言葉を聞いて危うく噴き出してしまうところだった。目を逸らしたまま心底仕方なさそうな風に言ったせいで、誰がどう見たって本心がバレバレになっていた。

「はいはい、分かったよ。めちゃくちゃ楽しませてやるから、せいぜい覚悟しとけよな」

「望むところよ。……ふふっ」

 威勢の良い物言いだったが、その直後に頬が緩んだのを見逃すことはなかった。最近の琴音は発言と態度が矛盾しまくって、傍から見ているととても面白い。彼女の名誉のため、それを口にすることはなかったのだが。

「お、そろそろ見えてきたな」

 そんな話をしている間に、会場はもうすぐ目の前まで迫ってきていた。流石にここだと雑踏も騒々しさを増し、その規模の大きさが直に伝わってくる。

 楽しそうな人々の声、あちらこちらで漂う食べ物の香り、そして肌で感じる「夏祭り」というイベントの熱気。その全てが、俺の気分を変えてしまうには十分すぎる要因だった。

「――うぅ、こうしちゃいられないわ!」

 もちろん、それは琴音も例外ではなかった。先ほどまでの仏頂面を無邪気な笑顔に変えて、いてもたってもいられないと目を輝かせている。

「お父さんもお母さんも薫子も、早く来てよね! 待ってるわよ!」

 十歳の小さな手が俺の掌へと寄せられ、細い指でしっかりとそれを掴んだ。そのまま後ろへ呼びかけたかと思うと、バネのように駆け出し、俺の腕を思いきり引っ張った。

「ちょっ、待てってば琴音! みんな置いてってるからな!?」

「お祭りは待ってくれないわ! これは一分一秒の戦いよ!」

「何言ってんだか……」

 彼女の歩幅に合わせつつ、手を繋いだまま入り口までの短い距離を駆け抜ける。その横顔は、確かに笑っていた。家族で訪れる夏祭り、それが嬉しくて楽しくてたまらない、そんな表情をしていた。

 なら俺は、それに負けないくらい彼女を楽しませてやらないといけないな。心に火を灯しつつ、期待に胸を躍らせて、砂利へと変わる道を蹴り出すのだった。



 入り口を抜けると、駐車場のような広場へと出た。もちろん夏祭りということで車の姿はなく、本来あるべきスペースには代わりに屋台が並んでいる。

 そしてその奥、視界の向こうまで並ぶ屋台群を区切るようにして、俺たちの目の前に大きな鳥居が立っていた。

「ここ、神社なんだな」

 それを見上げるようにして呟く。もうこちらで生活して大分経つというのに、知らないことが多すぎる。

「そうよ。この辺だと大きな神社はここくらいかしら?」

「へー、すごいな。俺の住んでる所はこういうのなかったな」

「ふふっ、すごいでしょ?」

 琴音は自分のことを自慢するかのように笑った。別にお前のことを褒めたわけじゃなかったんだけどな。

 そんな他愛もない会話を繰り返しながら、周りを見回す。この辺りで弥生と待ち合わせをする予定だったのだが、いったいどこにいるのだろうか。

「弥生、見えないわね……」

「どうやって来るのか聞いときゃ良かったな……」

 電話でも掛けようかと携帯を取りだした瞬間、琴音の背後から弥生の姿が近づいてくるのが見えた。あっ、と声を出す間もなく、彼女は琴音の肩に手を置いた。

「コートネっ」

「ひゃああああっ!?」

 その瞬間、琴音は幽霊でも見たかのような勢いで飛び上がって声を上げた。そうしたかと思うと、逃げるように俺の陰へとその身を潜めた。その早さたるや、人間の限界が垣間見えるほどのスピードだった。

「なんで今日はこんなのばっかなのよぉ! バカ! バカぁ!」

「落ち着けって琴音、弥生だからな!?」

 当の弥生はというと、してはいけないことをしてしまったという顔で居たたまれなさそうに立ち尽くしていた。

「つい、出来心……ごめん、コトネ……」

「うぅ……謝って済むなら警察はいらないのよ……」

 なんか二人とも泣きそうになってるし。祭りの雑踏にも負けないくらいの騒がしさだ。

「それにしても、よくここまで来れたな。帰りはどうするんだ?」

「ん、えっと……ママが迎えに来てくれるって、言ってた」

「なら送っていく必要はないか」「うん」

 雑談を交わしつつ、二人を宥める。そんなことをしているうちに、後からついてきていた文哉さんたちが追いついてきた。

「あら、弥生さんも来てらしたんですね」

「あ、カオルコ……。うん、よろしくね」

 薫子さんに向けて弥生はゆっくりお辞儀をする。続けて、二階堂夫妻の方にも頭を下げた。

「改めて……一ノ瀬弥生、です。よろしくお願いします」

「なんだ弥生、敬語も使えんじゃん」

 普段から誰に対しても――それこそ薫子さんに対しても、平然と呼び捨てとタメ口を使っているせいで、すっかりそういうキャラだと思い込んでいたのだが。

「偉い人には、敬語、使うよ? ノブアキは……うん」

「……そこで言葉を濁すんじゃない」

 俺だって弥生よりは偉いとは思ってるんだけどな。これは親しまれていると取るべきか、舐められていると取るべきか。まあ間違いなく後者だと思うが。

「ぷぷっ、信明は威厳ないもんね。ご愁傷様」

「言ったなお前!?」

 弥生のは許したがこれは聞き捨てならない。俺は怒ったって良いはず――だが、ここで怒っては格好が悪い。ぐっと堪えろ、金城信明……!

 琴音曰く威厳のないその目で睨み付けたのを余所目に、二階堂夫妻は揃って弥生に挨拶をしていた。

「ははは、賑やかなのは良いことだね。僕は二階堂文哉、琴音の父親だよ。改めまして、よろしくね」

「二階堂椿よ。この前は見苦しい所を見せちゃったわね」

 そう言って、椿さんは少し俯いた。薄暗い闇と相まって、その表情に暗い影が落ちる。

「……でも、琴音の背中を押してくれてありがとう。これからもよろしくね」

「よっ、よろしくお願いします……」

 椿さんから差し出された手に、弥生は両手で包み込むことで応えた。二人にばっかりいい顔しやがって。

 さて、いつまでもこんな調子なのでは、ここで駄弁っているだけで夜が更けてしまう。早く出発すべく、琴音を呼び寄せることにした。

「とりあえず、早く行こうぜ琴音。お祭りは一分一秒の戦い、なんだろ?」

「ちょっ……信明っ、それは……!?」

 さっきの軽いお返しのつもりだったのだが、思った以上に効果てきめんだったらしく、琴音の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。

「ふふ、たしかにそうですね。お嬢さま、ずっとこの日を楽しみにしてましたもんね」

「か、薫子までぇ……っ!」

 赤くなって弱ったところに、薫子さんの援護射撃が飛んできた。

「コトネ、かわいい」

「うぅ…………信明っ! 絶対許さないからぁ!」

 堪忍袋の緒が切れた琴音が走ってくるのに合わせて、楽しむように逃げ回る。祭り囃子に負けないくらいの調子で、二人の逃走劇は続くのだった。


* * *


 銘々が声を張り上げて呼び込みに精を出す屋台に挟まれて、暖色系のランタンが照らす砂利道を琴音と歩く。前方には談笑する弥生たちが見える。一方、琴音はというと、今日の行きと同じようにつんとした顔で澄ましていた。

 琴音が機嫌を損ねるのはいつものこととはいえ、少しやりすぎてしまったみたいだ。

「弄って悪かったよ。そんなに恥ずかしがるなんて思わなくてさ」

 俺の言葉を聞くと、彼女は一度だけこちらの方を見やって、すぐにまた前方へと視線を戻してしまった。

「……だって、お祭り楽しみにしてるって言ったら、なんか子どもっぽいじゃない」

 さっきのことを思い出したのか、彼女は頬を赤らめて呟いた。小学四年生は子どもではないのか、という言葉は胸の内にしまっておくとして、今の言葉は少しだけ胸に引っかかった。

 琴音という奴は、こんな時でも背伸びをしたがるみたいだ。むしろ両親や薫子さんのいる場だからこそ、大人っぽく振る舞いたがるのかもしれない。自分から望んでというよりは、周りから期待されて、あるいは周りの目を気にしてそう振る舞っているように見える。

「子どもっぽくて何が悪いってんだよ。楽しみなもんは楽しみじゃん」

 あまり琴音には自分を抑え付けないでほしい。自分を解放した姿が、一番彼女らしいと思うから。

「逆に、楽しいところでは思いっきりはしゃぐのが大人……みたいな?」

「……ふふ、何よそれ」

 俺の説得が上手く行ったのか、彼女はくすっと笑った。こうやって素直に笑っているときが、一番生き生きとしている。

「今日はめいっぱい楽しもうぜ。もちろん、何でも言ってくれていいからな」

 そう言って胸を張った。少しは大人としての威厳を見せられただろうか。そんなことを思っていると、少し空いていた二人の距離を、不意に琴音の方から縮めてきた。

「……じゃあ、ひとつ、いいかしら」

 丸い瞳に見つめられて少しの間言葉を失い、肯定の意として頷きで返す。

 彼女は微笑んだかと思うと、ゆっくりと唇を開いた。

「……手、繋いで?」

 言葉とともに伸ばされた手は、ぶら下がっていた俺の指を控えめにつまんだ。

「……っ」

 ダメだダメだ、ちょっとドキッとしてしまった。彼女はいつもの身を守る殻を脱ぎ捨てて、今まさに本来の姿で俺にすがってきたのだ。これでドギマギしない人間なんておおよそ存在するとは思えない。

 ただ……ダメだ。倫理的にもまずいし、何より娘相手にドキッとしたなんて文哉さんに知られたらただじゃ済まない。そんなわけで、可能な限り平静を保ってその手を握り返した。

「……おう。いくらでも握ってやるよ」

「ありがと。……えへ」

 ちょっと今は琴音の顔を直視できないと思う。見たら、きっとこの平静が崩れてしまうから。

 彼女の掌から伝わる熱を感じつつ、喧噪の中を二人並んで歩く。少し歩いていると、今まで前方にいた椿さんと弥生が踵を返してこちらの方に向かってきた。

「琴音、何か欲しいものある? 今日は琴音のためなんだから、何でも言ってね」

「見て、ノブアキ……水笛、買ってもらった」

「えっ? あ、ああ……そうね」

 二人に話しかけられたのに驚いてか、琴音は握っていた手を離してしまった。そんな彼女は気にも掛けず、弥生は水笛を吹き鳴らしているが。

 咄嗟のことで琴音は悩み込んでいたが、やがて答えを出した。

「……綿あめ、買って」

 そう言った彼女の視線は、綿あめ屋の屋台に向かってまっすぐ吸い込まれていた。

「お安い御用よ。――すみませーん」

 椿さんが屋台に向かって行き、その場には琴音と弥生、俺の三人が取り残される。椿さんの帰りを待つ間、水笛に興じていた弥生がふと口を開いた。

「ねえねえ、コトネ」「えっ? 何よ?」

 彼女の呼びかけに琴音が応えると、彼女は俺から離れ、手招きする仕草で琴音を呼び寄せた。

「ちょっと、こっち来て?」

「何よもう……仕方ないわね」

 溜め息をつきながらも、満更でもなさそうな様子で弥生の方へと向かう琴音。何やら弥生が耳打ちしている。

 最初は黙って彼女の言葉を聞いていた琴音だったが、突然顔を真っ赤にして飛び跳ねた。

「なっ……。そ、そんなこと……!」

「コトネだって分かってる、はず。素直、素直」

「でも、心の準備がまだ……!」

 一体何の会話なんだ……? ここから見ているだけでは何が何やらさっぱり分からない。琴音にとってとんでもない会話だったということは推測できるが、それ以外はさっぱりだ。

「がんばれ、コトネ」「うぅ……」

 なぜか頭を撫でられて励まされる琴音。どうしても耳打ちの内容が知りたくて、会話が終わった後に弥生に聞いてみることにした。

「なあ弥生、さっき何の話をしてたんだ?」

「……んー……」

 弥生は目を丸くすると、いたずらっぽく微笑みを浮かべて、ひとつだけ言葉を呟いた。

「……ひみつ、だよ」

「何だよそれ、もったいぶるなよな」

 こんなやり取りを前にもしたような気がするんだが。俺が頼み込んでも、彼女はただ突っぱねるだけだった。

「ノブアキは、まだ知らなくていい」

「ええ……」

 正直なところ気になってたまらないが、まあ仕方ない。

すごすごと引き下がると、ちょうどそれに合わせて椿さんが戻ってきた。

「琴音、綿あめ買ってきたわよ。信明くんもどうぞ」

「あ、ありがと……」「ありがとうございます」

 それぞれ綿あめを一本ずつ受け取り、一口かぶりつく。ふわふわとした感触が口の中で溶け、甘さが広がる。

「美味しいか?」「うん」

 琴音はこくりと頷いたが、突然俯いて押し黙ってしまった。綿あめを見つめたまま、ぼんやり何かを考えている。

「……どうした?」

 彼女がこちらを見上げ、照れるようにまた顔を伏した。何かと思ってその様子を見つめていると、呟くような声で語ってくれた。

「なんか、ね。ちょっと嬉しいな……って、思って」

「嬉しい……?」

 どういうことだ? 綿あめが美味しいからだろうか? そんな旨のことを言うと、琴音に思いきり睨まれた。

「そんなわけないじゃない。あんたってそういうとこだけバカじゃない?」

「やかましいわ」

 呆れた琴音の言葉がぐさりと突き刺さった。

 俺だって人の心を透視できるわけじゃない。ましてやそんな突飛な発言の意図なんて読めるわけがない。理不尽ここに極まれり。

「そういうことじゃなくって」

 彼女は呆れてはいたが、それに対して驚くほど穏やかな表情を浮かべていた。

「お母さんが私の目の前で綿あめ買ってくれて、そこでようやく家族で来てるんだ、って実感してさ」

「ああ……そういうことか」

 もしかすると、その場で親に何かを買ってもらう、という経験がなかったのかもしれない。あるとするなら、小遣いをもらって自分で買うか、買ってきた現物だけを後日渡されるかの二つだろう。

 だからこそ、今この瞬間が琴音にとってとても響いているんだな。

「そりゃ良いことだな。あんだけ頼み込んだ甲斐があったってやつだ」

 あの時はどうなることやらと思ったが、無事丸く収まって、こうして琴音が笑顔でいてくれて本当に良かった。

 琴音に向かって笑いかけると、琴音はうん、と頷く。不意に漏れ出た幼い笑みが、彼女を可憐に彩った。

「……はっ、い、今の見たわね!?」

「見てねーよ。何も見てないっての」

 そんな自分に気が付いて、思わず紅潮する琴音。そんな様子もまた、コミカルで可愛らしいのだった。

 その時、向こう側から薫子さんの呼ぶ声が聞こえた。

「お嬢さまー! こっち、面白いものがありますよ!」

 声のする方に振り向くと、薫子さんがいつになくテンションの高い様子で手を振っていた。隣には穏やかな笑顔を湛えた文哉さんの姿がある。

 琴音と二人で顔を見合わせ、ほぼ同時に噴き出す。言葉はなかったが、何を言いたいかはある程度分かるような気がした。

「――ほら、二人とも呼んでるぞ。夏祭り、家族と一緒に楽しんでこいよ」

「うんっ。……ありがと、信明!」

 そう言うと、琴音は駆け出していった。その後ろ姿をただ見送っていると、何者かが俺の袖を引っ張った。振り返らなくとも犯人は分かる。

「どうしたんだ、弥生?」

 袖の先をつまんだ弥生が、俺の背後でちょこんと立っていた。

「コトネのママも、コトネのとこ、行くから……。弥生はノブアキと一緒」

「ん、なるほどな」

 そういうことなら、弥生と行動を共にするとしよう。俺が承諾すると、椿さんが頭を下げて奥の方へと駆けていった。

 彼女が家族と合流するのを見届けると、弥生が俺の手首をぐいと引っ張った。

「じゃあ、行こっか」

「行くって、どこへだよ?」「いいから」

 えらく強引だな。とはいえ、ここでぼんやり待っているだけというのも興がない。そして他にできることも特にない。仕方がないので、彼女に腕を引かれるままに歩き出すのだった。



 二階堂家とは行動を別にし、弥生と二人で雑踏の中を歩く。琴音の時とは打って変わって話すこともなく、無言のまま時間ばかりが過ぎていく。

 そんなことをしていると、弥生の視線が一点に集中しているのに気が付いた。つられてそちらの方を見てみると、鯛焼きの屋台が建っていた。

 ……まさか。

「ノブアキ、鯛焼き食べたい」

 やっぱり。しょうがないなとぼやきつつ、財布から小銭を取り出して彼女の手に握らせる。彼女はパタパタと屋台に向かっていくと、戦利品を手に帰ってきたのだった。

「おかえり。どっかで座って食うか」「ん。そうする」

 屋台が並ぶ通りから少し横に逸れて、小さな段差に腰を下ろす。鯛焼きにかぶりつく弥生を横目で見ながら、大きく伸びをした。

 人混みの中だと心穏やかではいられないから、こうして少し離れると落ち着くな。

 目を閉じたりして聞こえてくる会話に耳を傾けていると、そこに弥生の声が割って入ってきた。

「ねえねえ、ノブアキ。ちょっといい?」「ん?」

 その声に応答して、どことなく真剣そうな彼女の顔を見つめる。対して彼女は通りの方をぼんやりと見渡しながら話を始めるのだった。

「ノブアキ、もうすぐコトネのお家から、帰るんだよね」

「ああ……って、なんでそれを?」

 たしかに二ヶ月で文哉さんとの約束の時期が来る。だが、弥生にはそれを話した覚えがないのだが。

「コトネから聞いた」「なるほどな……」

 そういうことだったか。どうして琴音がそんなことを言うのかはよく分からないが。

 両者の間に無言の時間が訪れ、弥生は再び鯛焼きをかじり始める。だが、しばらく過ごした後にまた彼女は口を開いた。

「ノブアキ、もひとつ聞いていい?」「まあ……いいけど」

 先ほどと同じく真剣そうな顔をしている。今度は何を聞かれるのだろうか。ろくな事ではなさそうだが。俺の不安をよそに、彼女は唇を動かす。

「ノブアキってさ……コトネのこと、好き?」

「その質問前にもしたよな、たしか」

 あれは初めて弥生と出会った日の帰り道だったか。突拍子のなさ過ぎる質問に動揺した記憶がある。あの時は「仕事だから」とか「心配」みたいな、そんな曖昧な答えを返していたと思う。

「今はコトネのこと、どう思うの?」

「今は、か……」

 どうなんだろう。あまり意識してこなかったけれど、俺は琴音のことをどう思っているんだろうか。うめき声を上げながら、自分の気持ちについて考えてみる。

 琴音と出会って、二ヶ月間同じ時間をともに過ごして、様々なことを経験して……。琴音の笑顔や些細な言い合い、様々なことを思い出す度に、心の中でひとつの感情が大きくなっていくのが分かる。

「……そうだな」

 その感情に与える名前を、俺は確かにこの手の中に握りしめていた。

「好きなんだな、きっと」

 キャッチボールでもするかのように、ぽん、と吐き出した言葉は、そのまま中空へと消えていった。

「できることなら、ずっと側にいてやりたいって思う。仕事だからとか、そんなんじゃなくて、ただ単純に力になってやりたいって思うんだ」

 それが俺の結論だった。強がりで泣き虫な彼女を守る手になりたい。それだけをただ考えていた。この感情に、嘘偽りは一切ない。

 そう言い終えたところで、弥生がニヤニヤと笑っているのに気が付いた。少し考えて、その意味するところを理解する。

「べっ……別に、恋愛感情とかそういう意味じゃないからな! 単に年上としてってだけだからな!?」

 まずいまずい、今度こそ洒落にならない。危うく事案になるところだった。道半ばにしてお縄を頂戴するわけにはいかないのだ、俺は。

「ふふっ……分かってる……ぷっ」

「本当かよ……」

 そう言いつつも噴き出してるし。弥生のせいで余計なことまで喋って恥を掻いてしまった。

「ったく、琴音には絶対言うなよ。あいつなら絶対バカにしてくるだろうしな」

「ん、分かった。ひみつ、ね」

 小指を突き出してくるので、同じく小指を重ね合わせて指切りをする。若干信用ならないところもあるが、そこは弥生の良心に任せるとしよう。……大丈夫だよな?

「指切りげんまん。……ノブアキ、そろそろ行く?」

 見ると、すでに弥生は鯛焼きを食べ終えて、ゴミと化した包み紙を手で弄んでいるところだった。琴音たちの様子も気になるし、ここに長居する意味もないか。

「だな。行くか」「うん」

 段差から立ち上がると、再び通りへと戻るのだった。


 喧噪の中、二階堂一家を求めて屋台の林を行く。辺りを見回してみるが、なかなか姿が見当たらない。

「みんな、いないね」

「ああ……もうちょっと奥まで探してみるか」

 屋台通りの奥、本殿がまつられているであろう方に向かって歩き出すのだった。

 その後も弥生にりんご飴をねだられつつ歩いていると、前方によく見慣れた後ろ姿が映った。

「お、いたいた。おーい、琴音」

 俺の呼びかけに琴音が振り返る。その姿を見て、俺も弥生も思いきり噴き出してしまった。

「ぷぷっ……琴音、何だよそのお面……っ!」

「コトネ、かわいい……ふふふっ」

 彼女の頭には、ゴム紐でアヒルのお面がくっつけられていた。俺たちの様子を見て、彼女は顔を真っ赤に染める。

「わ……笑ったわね、あんたたち……!?」

「ふふ、可愛いでしょう? わたしが付けてあげたんですよ」

 薫子さんが自慢げに笑って琴音の肩を持つ。だが、当の彼女はお面を外してしまい、半ば無理矢理薫子さんの手に握らせた。

「もうっ! 薫子のバカっ!」

 琴音はぷいっと顔を背けると、椿さんの方に駆けよってくっついてしまった。対して薫子さんはショックを受けてすっかり落胆した様子だ。

「さっきまで機嫌良く付けてらしたのに……」

 まあ、琴音の気持ちは分からなくはないが。それからしばらくの間、気落ちする薫子さんと相変わらずマイペースな弥生を連れて、二階堂親子の後方を歩く。

「琴音、本当に楽しそうですね」

「はい。あんなに三人が話されているのはいつぶりだったでしょうか……」

 琴音はもとより、文哉さんも椿さんも、普段見ている姿よりも格段に明るく、また笑顔もたくさん振りまいていた。仲良く会話をしたり、屋台に寄ってみたりするその姿は、どこにでもいるような家族のそれだった。

「あれでちょっとでも距離が縮まるといいんですけどね」

「きっと大丈夫ですよ。……ふふ、わたしも勇気を出した甲斐がありましたね」

 薫子さんは、まるで自分のことを喜ぶように笑った。

「ほんと、ありがとうございます。薫子さんがいなかったら、今こうなってはなかったかもしれないですし」

「お嬢さまのためですから。気にしないでください」

 そんな会話をしながらふと弥生の方を見ると、何やら様子がおかしいことに気が付いた。琴音たちの方をじっと見ながら、眉間にしわを寄せている。

「どうした弥生? そんなしかめっ面だとしわになるぞ」

 よほど集中していたのか、俺が話しかけると彼女は驚いて少し肩を震わせた。

「……うるさい」

 そして不服そうな表情でこちらのことを睨んできた。また眉間にしわが寄ってるし。

「それはともかく、どうかしたのか? ずっと琴音の方見てたみたいだけどさ」

「ん……別に、何でもないよ。ちょっと、ぼーっとしてただけ」

「そうか? ならいいんだが……お前、何聞いてもだいたい何でもないって言うしさ」

 さっき弥生が琴音に話しかけた時も適当にはぐらかされてしまったしな。

「ほんとに、何でもない。ノブアキ、弥生のこと、疑う?」

「そういう聞き方は良くないと思うんだけど」

 まあいいか。これ以上聞いたところで話してくれそうにもないし。ただ、何でもないと言う割にはかなり思い詰めた表情で見つめていたが……。

「ま、弥生がそう言うんならそうなんだろ。信じるよ」

「んっ。ありがと、ノブアキ」

 相変わらず掴み所のない奴ではあるが、少なくとも悪いようにはしないだろう。あまり問い質すのもよろしくないな。

 そう思って会話を切り上げた時、どこからともなくアナウンスの声がお祭り会場に流れ出した。その声は、三十分後に花火が上がることを伝えて途切れた。

「花火……もうそんな時間か」

「楽しみですね、信明さん」

 薫子さんの言葉に頷きで返す。ここの花火は結構大規模なのだと琴音から聞いていたので、否応なしに期待は高まっていく。

「ちょっと、コトネのとこ行ってくるね」

 弥生が二階堂親子の方へ走っていくのを眺めつつ、ぼんやりと考え事をする。

 何というか、今日は琴音も弥生も様子がおかしいような気がする。様子がおかしいと言うよりは、いつもと比べてやけに明るいというか。夏祭りの空気に当てられでもしたのだろうか。こんな活気の中に入っていけば、誰だって少しくらいは変わるだろうしな。

「なんて言いつつ、俺も人のこと言えないけどな……」

 いつもと気分が違うのは俺も例外ではなかった。心の中で渦巻いているこの興奮を止めることは、当の俺自身にさえ不可能だ。感情の赴くまま身体を動かすのみだ。

「何か言いました、信明さん?」

「いや、何でもないですよ。それより、俺たちも先を急ぎましょうよ」

 花火に向けて、限りなく高まった感情がさらに逸る。足を動かす速度を上げると、琴音たちの方へ歩を進めるのだった。



 花火を見るスポットを探すべく、俺たちは一団にまとまって会場内をぐるぐると歩いていた。

「もう結構場所が埋まってしまってますね……」

「そうだね。みんな考えることは同じ、か」

 見晴らしが良く、人が来なさそうな場所はほぼ全て先客が陣取っており、俺たちは毎回後塵を拝することになっていた。落ち着いて花火を見たいものだが、なかなかそう上手くは行ってくれないみたいだ。

 流石に歩き疲れて、一行は近くの屋台の陰で立ち止まる。その隙を突くようにして、先ほどまで弥生と話していた琴音が袖を引っ張った。

「ねえ、信明。ちょっといい?」

「ん? ああ……いいけど、どうした?」

 やけにこそこそとしているのは何だろうか。俺が応えると、彼女は声を潜めて話し始めた。

「えっと……私と一緒に、来てほしい所があるんだけど……いいかしら」

「来てほしい所?」

 突拍子のなさに思わずオウム返ししてしまった。が、彼女は真剣な面持ちで頷いて返した。

「……文哉さんたちはどうすんだよ」

「弥生がうまく説明してくれるって言ってたけど……。ほら、早く行くわよ!」

 弥生公認なのかよ。それってどういう――などと考えている暇もなく、一行が再び歩き出したのに合わせて琴音は俺の手を引いた。振り返ると、二人が消えたことには気付かず離れていく軍団の姿があった。

 琴音に半ば引きずられる形になりながら、屋台通りを鳥居に向けて逆行する。一体どこへ行こうというのか。無我夢中で走っている琴音の口からは何も語られない。

「そろそろどこへ行くのか教えてくれたっていいだろ」

「別に、どこだっていいでしょ。黙ってついてきて」

 そんなめちゃくちゃな。とはいえ琴音の頼みを無下にするわけにもいかず、ただひたすらに走るのみだった。

 やがて二人は鳥居を後にし、夜も更ける住宅街を通り抜ける。そうして十分ほど経った頃だろうか。走り続けていた琴音がようやく足を止めた。その勢いで前につんのめりそうになり、急ブレーキを掛ける。

「っとと……何すんだよ」

「着いたわ。ここに来たかったの」

「ここ……あれ、ここって……?」

 見覚えのある歩道に道路。その奥には小高い丘へ続く階段。俺はこの光景を知っている。

「たしか、前に買い物に出かけた時に寄った……」

 首肯する琴音。そこは、二ヶ月前に彼女と買い出しに出かけた時に訪れた高台だった。

 行くわよ、と彼女は俺に先んじて階段を上っていく。

「あ、おい待てよ」

 後を追って階段を上ると、広大な星空が俺たちを出迎えた。

「おぉ……!」

 足下に見える町明かりのせいで満天、とまではいかないものの、遮るもののない空は見る者を圧倒するには十分すぎる規模だった。

「ここなら花火が見えるって、弥生が言ってた」

「お、おう……じゃあ、上がるまで待つか」

 なんで二人だけで来たんだ、と突っ込みたいところだったが、彼女の真剣そうな様子に免じて黙っておくことにした。

「…………」

 そうすると、何も話すことがなくなってしまい、夜の静寂に虫の鳴く音だけが静かに響くことになった。琴音は一向に何も語らないし、俺は俺で何も言うべきことが見つからない。時々彼女の方に眼を向けてみるが、夜景の方を眺めており、視線が合うことはなかった。

 結局琴音は、俺を呼び出して何がしたかったのだろうか。本当に花火を見たかっただけなのだろうか。花火を待っているのにも飽きた頃、視界の端で琴音の姿が動いた。

「……ねえ、信明」

 彼女からしおらしい声が発せられ、やや動揺して彼女の方を見る。こいつがこんな声色になるのは、大抵落ち込んでいるときとか悩んでいるときだ。

「なんだ? 何かあったか?」

 目に映った彼女の表情は、落ち込んでいるとも、睨んでいるとも取れるような表情だった。その状態のまま彼女はぽつりぽつりと言葉を落としていく。

「信明……ほんとに、もうすぐ帰るのよね?」

 彼女から問われたのはそんなことだった。そんな当たり前のことを真面目な顔で訊かれてしまったため、こちらも思わず表情が強張る。

「あ、ああ……そうだな。それが文哉さんとの元々の契約だからな」

 二ヶ月前、初めてここにやってきた時に、彼と交わした約束だ。八月三十一日、琴音の夏休みが終わるまで勉強を教えることになっていた。

 それは琴音自身も聞いているはずなのだが、なぜ今更そんなことを問うてくるのか。

「……そっか。そうよね」「……?」

 琴音はうわごとのように何かを呟いた。その内容を掴めずにいると、彼女はすかさず次の言葉を呟いた。

「家へ戻っても頑張りなさいよ。私がいないからって寂しくなったって知らないんだからね」

「…………」

 彼女は笑っていた。清々しいほどの笑顔だった。高台に灯る仄かな街灯が、彼女の姿を美しく彩っていた。

「……信明がいなくなったら、家が少し静かになるわね」

 そう言って溜め息をひとつする彼女。そしてベンチから立ち上がると、まるで表情を隠すように手すりにもたれかかってそっぽを向いた。

 嘘だ。琴音がこんな表情をするときは、絶対に何か隠し事をしている。二ヶ月間付き合ってきて彼女のことも大分分かってきた今ならそう確信できる。

 覚悟を決めて、次の言葉を口にする。

「……本当のところは、どうなんだよ」

 何のために俺をここに呼んで、何のためにこんなことを言ったのかは分からないけれど、今彼女が小さな嘘を吐いたことは分かった。内に秘めた気持ちを悟られたくなくて、強がりという盾で封じた、そんな風に見えた。

「…………っ」

 琴音は何も言わない。依然として俺に背を向け、沈黙を貫いている。

 これはもう少し次の手を打ってみるべきか。

「俺は琴音の素直な気持ちが知りたいんだ。それを知らなきゃ、俺はお前に何もしてやれない」

 その思いを理解することも、寄り添うこともできない。彼女がつま先をこちらへ向けてくれなければ、いくら歩み寄ろうとも手は届かないのだ。

「だから、逃げないで話してほしいんだ。強がらない、琴音の本当の気持ちを」

「……っ!」

 彼女の肩が一瞬だけ震えた。相も変わらず何も言いはしないが、俺の言葉はちゃんと届いていると確信した。あとはただ、彼女が打ち明けてくれるのを待つのみ。

 そして少し待った頃だった。何かを呟く声が、静寂の中ではっきりと聞き取れた。

「そん……なの……」

 彼女のつま先がぴくりと動いた。それは徐々に向きを変え、やがて身体ごとこちらの方を向いた。

 振り返った琴音は、今にも泣きそうな顔をしていた。夏祭りに来るときに見せたような、強がりのベールがはがれた感情豊かな彼女の本当の姿だ。

 下ろされた手は、ぎゅっと浴衣の裾を掴んでいる。そして、極限まで溜め込まれた感情は決壊する。

「そんなの……寂しいわけ、ないじゃないの……っ!」

「……琴音……」

 容量を超えた感情たちは涙となり、琴音の頬を濡らしていった。今まで耐えていた分、一度溢れ出したそれは留まることを知らず、ぼろぼろと器から零れ続ける。今までで一番、感情のこもった涙だった。

「初めて薫子以外で、信頼できる大人に出会えたって、そう思ったのに……!」

 彼女の想いは悲痛な叫びに変わる。感情が高ぶったその勢いで我を忘れ、彼女はただ訴えることしかできなくなっていた。

「私のことも信じてくれて……それが、すごく嬉しかったのに」

 拭けども拭けども、その度に勢いを増して涙は零れてくる。俺がそれを止めてやらなければいけないと、考える間もなく直感した。それなのに、彼女の言葉に打ちのめされたように身体が動かなかった。

「……ひとりぼっちに、逆戻りよ」

 何をしているんだ、俺は。自分に強く問いかける。

 お前のすべきことは尻をベンチにくっつけておくことじゃないはずだろう。今すぐここから立ち上がり、少しでもいいから何かあいつに言葉をかけてやることだ。

 半ばパニックになった脳味噌を整理して、口にすべき台詞をひねり出そうとする。

 対する彼女は、激しい感情をまき散らして疲れたのか、すっかり肩で息をしている。いつものわがままお嬢様の表情は、苦悩と悲哀で歪みきってしまっていた。

 そして、彼女が吐き出すように呟く。

「……こんなに辛い思いをするなら、最初から信明と出会いたくなんかなかった……!」

「――――っ」

 それが、俺の最後のエンジンのパーツになった。先ほどまで動かなかった身体が嘘のように軽くなり、俺はその場から勢いよく立ち上がった。

「ど、どうしたの……?」

 そこから動き出すのは簡単だった。迷いのない足取りで琴音の側まで歩み寄り、琴音の目をじっと見つめた。

 そして意を決すると、腕を伸ばし、彼女の薄い背中をしっかりと抱き寄せた。

「……っ、の、信明……!?」

 あの時裏庭でやったときと同じだ。彼女が内に溜め込んだ熱が俺にまで流れ込み、俺の感情も高ぶってくる。

「そんなこと言わないでくれよ……!」

 琴音にはそんな悲しい発言をしてほしくなかった。琴音が俺に見せてくれた、全ての表情、全ての言葉を、たった一言で無意味にはしたくなかった。

 俺と琴音が出会ったことには、確かな意味があった。そう信じていた。

「俺はちゃんとお前の所に帰ってくる。約束する」

 だって、俺は琴音のことが好きだから。もちろん恋愛感情のそれではないけれど、それでも彼女を愛おしいと思い、側にいてやりたいと思う。今はほったらかしにしてきたアパートのことなどもあるし、一度は戻らなければならないが、機会さえあれば絶対に二階堂の家に戻ってきたい。それが俺の本心の全てだった。

 ひとしきり彼女を抱きしめた後、ゆっくりと腕を放す。

「…………琴音」

 俺より一回り小さい琴音は、俺に隠れるようにして雨に濡れた子犬のごとく震えている。

「……ぐすっ、信明、のぶあきぃ……!」

 そして彼女は、もう一度涙を流して俺に掻きついた。何度も何度も俺の浴衣を掴み、声を上げて泣いていた。

「……っ、一緒に、いて……」

 鼻を啜りながら、嗚咽混じりに小さく言葉を漏らす琴音。精一杯の素直さで甘えてくる彼女の姿をとても愛おしく感じた。

「今だけで、いいから……!」

「……ああ」

 火照った彼女の髪を撫でてやると、再びその体躯を抱きしめた。今度は先ほどよりも長く、先ほどよりも優しく。沸き上がった彼女の熱が治まるまで、肩を擦ってやる。

 対する琴音は、ただひたすらに俺の胸に顔を埋めるだけだった。長くはない腕を背中にしっかりと回して、体温を確認でもするかのように掻きついている。

 そうして二人で寄り添っていると、少しだけ落ち着いた琴音がぼそりと呟いた。

「……ありがと、信明」

 上目遣いの彼女が可愛らしくて、もう一度頭を撫でた。彼女は目を瞑り、黙って俺の手を受け入れてくれる。

 その時だった。星だけが浮かんでいた夜空に一筋の光が浮かび上がったかと思うと、それは閃光と共に大きな花を咲かせた。眩しさと、遅れてやってきた轟音に、二人は並んで空を見上げる。

「……花火、始まったわね」「だな」

 花火が上がれば、楽しかった祭りももうすぐ終わってしまう。美しさに見とれながらも、一抹の名残惜しさが胸中を通り過ぎていく。俺だって琴音が悲しむところなんて見たくはないから、このままここから帰らなくてもいいと思った。だが、そんな思いなど知る由もなく、花火は夏の夜空を染めていく。

 無言のまま、二人は打ち上げられていく花火を見つめている。すると、今まで隣で俺の手を握っていた琴音が、ふと口を開いた。

「ねえ、信明」「ん、どうした?」

 俺が彼女の方を向くと、彼女は文哉さんのように穏やかに、椿さんとよく似た微笑を浮かべていた。

「また来年も……私と、ここで一緒に花火を見て欲しいの。……ダメ、かしら」

「…………」

 そんなの、イエスかノーを選択するまでもないじゃないか。一瞬さえ迷うことなく言葉を返した。

「ああ。またここで、二人で花火を見よう」

 そう言うと、琴音の表情は花火にも負けないくらいに明るくなった。

「うん……約束ね。指切り、しよ?」

 彼女が小指を伸ばすので、それに合わせて俺も小指を絡ませる。重なった指と指はしばらく触れ合うと、名残惜しそうに別れた。

 そして、お互いの指と指を見つめて、琴音は小さく噴き出した。

「どうしたんだよ、いきなり」

「ううん……なんだかね、約束なんて今までしたことなかったなぁって」

 そういえば、たしかに琴音とは約束らしい約束をした覚えがない。不思議なもので、小指を繋いだ瞬間、心の中でも何かが繋がったような感じがした。

 それは、きっと琴音も感じていることなのだろう。

「約束、破ったら許さないわよ? ……ふふっ」

 にっと笑うと、彼女はまた花火の方へと目を向けた。音と光のパーティに目を輝かせ、ひとつ、またひとつと花が咲く度に歓喜の表情を浮かべている。

 対して俺はというと、閃光に照らされた彼女の横顔に見とれながら、今までのことをぼんやり考えていた。

 純粋な眼で夜の華を眺める彼女を見ていると、この二ヶ月にはちゃんと意味があったのだと思う。

 二ヶ月前、あれだけとげとげしかった彼女が、今では柔らかな笑みを見せてくれている。彼女のことなんて何も知らなかったけれど、今は自分のことのように分かる気がする。

 琴音に出会えて良かった、いろいろな時間を共有できて良かったと、心からそう思うのだった。


* * *


 時間は有限であり、楽しい時間にも必ず終わりがやってくる。花火大会のラストを告げる大きな花火が連続で打ち上がり、濃紺の空を色とりどりに染めた。その壮大な光景に、二人合わせて思わず息を呑む。

 何度も何度も、夏の終わりに抵抗するように、花火は咲き続ける。そして、ひときわ大きな花火が煌めいた。

「……綺麗ね」「ああ……」

 やがて花火は宵闇に消えていき、辺りは完全な静寂に支配された。轟音の余韻がまだ耳に残っている。

「花火、終わっちゃったわね」

 琴音は名残惜しそうな顔でそう呟いた。まだ帰りたくないのだろう。二人で過ごす夢から覚めたくないのだろう。

 それは俺だって一緒だ。もう少し、この静寂に身を委ねながら、いつもより素直な琴音と語らっていたい。だが同時に、そんなことを言っていられるほど俺は子どもでもなかった。

 夢からは、覚めなければならない。

「……みんな探してるかもな。行こうか」

 伸ばした手に、彼女は一瞬だけ逡巡する。それでも、ちゃんと彼女はその手を握ってくれた。寂しそうな表情をする琴音の手を引き、階段を降りるのだった。

 走ってきた道を今度は歩いて引き返し、会場だった神社の方へと向かう。花火が終わったことで、帰路につく客もちらほらと見られた。

 十分ほどして神社の大鳥居の所までやってくると、背後から俺たちを呼ぶ声がした。

「お嬢さま、信明さん!」

 振り返ると、大きく手を振る薫子さんを筆頭に、二階堂夫妻と、弥生が並んで立っていた。ようやく見つけたといった表情だ。

「いくら信明さんが一緒だといっても、流石に連絡するところでしたよ」

「はは、すいません……」

 大分待たせてしまったみたいだ。琴音と二人で深々と頭を下げたが、彼女たちは怒ってはいなかった。むしろ、何かを期待するような目でこちらをまじまじと見ている。その真意を掴みかねて、俺たちも彼女たちの目を見つめ返すしかなかった。

 すると、椿さんがにやつくのを堪えながら口を開いた。

「それで……二人とも、進展はあったのかしら?」

「進展……?」

 何のことかと首を傾げると、薫子さんがやはり笑いを抑えながら補足した。

「男女二人っきりで花火なんて、何も起きないはずないじゃないですか……!」

 その言葉でお互い顔を見合わせ、彼女たちが言わんとすることに気が付いた。

「なっ……弥生、あんた、みんなに何言ったのよ!?」

「お前、うまく説明してくれるんじゃなかったのか!?」

「知らないわよ! 私だって弥生のこと信じてたし……!」

 顔中に全身の血液という血液が昇っていくのが自分でもよく分かった。畜生、やっぱり弥生は底が知れない。何を考えてるんだあいつは……?

 並んで弥生を糾弾するが、当の彼女はいたずらな笑みを崩すことはなかった。むしろ、俺たちの焦りようを見て、それを楽しんでいるようにすら見えた。

「言うべきことは言った、よ? 弥生は……それに、ちょっと味付けした、だけ……♪」

「その味付けがおかしいって言ってんだよ!?」

「この悪女……!」

 逆に、何をどう味付けしたらこんな惨状になるのか教えてほしい。砂糖と塩を故意に取り違えましたみたいなノリだ。

 まさに四面楚歌とはこのことか。薫子さんと椿さんは何があったかと興味津々の様子だ。こういうことには興味がなさそうだと思っていた文哉さんも、自分の娘のことだからか興味を寄せた顔をしている。そして、いつも通り飄々とする弥生。逃げ場なんてなかった。

「はあ……こんなことなら弥生のこと信じるんじゃなかったわ……」

「まったくだよ……」

 頭を抱えて、溜め息をひとつした。身体中に疲労がぐったりとのしかかる。

「それで、どうなったんですか!?」

「コトネ、上手く行った?」

「信明くんも黙ってないで教えてよ」

「これは気になるところだね」

 全員から好奇の目で見られ、ついに琴音の我慢が爆発してしまった。

「……もうっ! みんないい加減にしてよ! もう知らないんだから!」

「あっ、ちょっ……、琴音!?」

 堪忍袋の緒が切れた彼女は俺の手を握ったかと思うと、その場から弾き出されたかのように走り出した。その手を離すことができず、俺は半ば引きずられながら神社を後にした。

「あっ、お嬢さま、待ってください!」

「ふふ……みんな、仲良しだね」

 喧噪の止まぬ夏の夜空、その星々の間に六人の声は消えていくのだった。

エピローグと同時投稿になっております。なにとぞ。

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