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第五章 対峙


 平穏なまま夏休みも過ぎ、二階堂家にセミの音が響き渡る。ある土曜日、琴音は今日も今日とて夏休みの宿題に明け暮れていた。もちろん、すっかり常連になった弥生も一緒だ。

「ねえ信明、ここ分からないんだけど」

 そんな中、弥生の問題を見ている俺の背中に琴音の声が飛んできた。

「ほいほい、弥生のが終わったらな。待てるか?」

「ふ……ふんっ、仕方ないわね、特別に待ってあげるわ」

 どういう返し方なんだそれは。琴音の呼びかけに応えつつ、急いで弥生の問題に目を通す。あんまり待たせると前みたいに機嫌を損ねられるからな。急がないと。

 その時、読んでいた問題用紙を弥生が引き抜いた。驚いてそちらの方を見ると、なぜか微笑みを湛えた彼女がそこにいた。

「ど、どうしたんだ? なんかあったか?」

 おそるおそる問うてみると、彼女は顔を近づけて小声で話し始めた。

「……弥生はいいから。コトネのこと、構ってあげて」

「え、でも――」

 弥生の問題は終わってない、と言い切る前に、彼女が次の言葉でそれを遮った。

「コトネ、怒っちゃうよ?」「うっ……」

 あの裏庭で見た彼女の泣き顔が脳裏にフラッシュバックする。あんな表情を見るのはもう嫌だ。

 もう一度弥生の顔を覗き込むと、彼女も笑顔で返してくれた。

「頑張れ、ノブアキ。応援してるよ」

「お、おう……。ありがとう……なのか?」

 サムズアップで励ましてくれる弥生。疑問に思うところは多々あったが、彼女の好意に甘えて琴音の方へ向かうのだった。

「お待たせ、琴音。やろうか」

「へっ? 弥生のはもういいの?」

 琴音の隣に腰を下ろすと、彼女は目を丸くした。

「なんか、弥生がもういいってさ」

「ふ、ふーん……そう」

 理由を説明すると、彼女は少し恥ずかしげに目を逸らした。どういうことか分からずその横顔を見ていると、彼女はみるみるうちに真っ赤になっていった。

「ふんっ、きっと弥生に愛想尽かされたんだわ。信明ってば、教えるの下手なんだから」

「何だよそれ、どういうことだよ!?」

 俺、そんなにダメだったのか……? 弥生の方を見てみても、ただニコニコとするばかりで何も答えてくれない。

 いや、『ニコニコ』というよりは『ニヤニヤ』だ。こいつ、この状況を楽しんでるな。琴音をからかって遊んでいるらしい。一ノ瀬弥生、やっぱり底が知れない。

「ほ、ほら、さっさとやるぞ」

「はいはい。ちゃんと教えなさいよね、信明」

 弥生に振り回されぬよう精神の平穏を取り戻しつつ、問題の続きを解き始めるのだった。

 それから数分後。座卓を囲み、琴音も弥生も集中して問題を解いていた。お互いに真剣な面持ちで鉛筆を動かす姿には、普段の面影は見当たらない。いつもこうだといいんだが。

 それからさらにしばらくして、琴音が机の上に鉛筆を転がした。

「よーしっ、今日の分終わり!」

「おっ、やるじゃん琴音! いい調子だな」

 大きく伸びをする彼女。その隣で答え合わせをしていく。解答欄は全部埋まっているし、正答率も大分上がってきた。最初の頃に比べればかなり成長したといえる。

「はい、答え合わせ終わったぞ。お疲れさん」

「コトネに先、越された……」

 嬉しそうな琴音とは対照的に、弥生が少ししゅんとする。そういえば、いつもは弥生の方が早く解き終わっていたんだっけか。これも大きな進歩だ。

「ふふん、私が天才だからよ! ざまあみなさい!」

「お嬢様がそんなこと言うんじゃないぞ……」

 俺の忠告などつゆ知らずといった様子でうきうきと宿題をしまい込む琴音。鼻歌なんか歌いながら着々と作業を進めている。陽気で何よりだ。

 そして片付け終わり、いざ遊ぼうと立ち上がる。

「さ、信明、遊ぶわよ!」

 そう言った瞬間、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。続けて薫子さんの声が聞こえてくる。

「琴音お嬢さま、椿さまがお呼びですよ」

「むぐ…………」

 あ、今露骨に嫌な顔したなこいつ。せっかく遊べると思ったのにこれでは無理もないか。

「今行くわ、ちょっと待ってて」

 不満げにしつつも素直に従い、部屋を出て行こうとする琴音だったが、不意に振り返って言葉を投げかける。

「後で信明の部屋行くから。先に行ってて」

「おう。また後でな」「ん」

 手を挙げて応えると、彼女はにっと笑って部屋を出て行ったのだった。


 弥生の宿題が終わり、琴音に言われたとおり自室で琴音が戻ってくるのを待つ。そんな折、床にあぐらを掻いてのんびりしていると、その隣に弥生が腰を掛けた。

「ノブアキ、ゲームしよ?」

「おう、ちょっと待ってな」

 重い腰を上げて、荷物の辺りをがさごそとまさぐる。この前の話なのだが、琴音も弥生もテレビゲームというのを一回もしたことがないらしいのだ。それゆえ、初めて手持ちのゲーム機を見せたときはとても興味深そうに食いついていた。てっきり一度くらいはやったことがあると思ったが……親が厳しいのかもしれないな。

「ほら、今日は何する?」

「えっとね、あのね、あれ、戦うやつ!」

「どれだよ」

 舞い上がりすぎて言葉がまとまってないぞ。彼女が落ち着きを取り戻すまで少し待ち、ゲーム機の電源を入れる。画面に見入る横顔が本当に楽しそうだ。

 それからしばらくプレイが続く。勝っては負け、勝手は負けの繰り返しだ。

「あう、また負けた……ノブアキ、これ、強い……」

「ここはな、こういう感じで上へ行くと――」

 半べそをかく弥生に手取り足取り教える。なんだか、勉強を教えるときのやり方がそのままゲームにも生きているような気がする。

「あ、できた……ありがと、ノブアキ」

「どういたしまして」

 プレイに一段落がつき、弥生がコントローラーを置く。そして、ぽつりと呟いた。

「……コトネ、遅いね」「ああ、そういえば……」

 琴音の部屋を後にしてから、もう大分時間が経ったはずだ。それなのに未だに琴音は帰ってくる様子を見せない。椿さんに呼ばれていたようだったが、何かあったのか。

「ちょっと心配だな」「うん……」

 はあ、と溜め息がひとつ、静かな部屋に溶ける。するとその時、勢いよく扉を開く音が割り込んできた。

「わっ!?」「ひゃあっ!?」

 予告なく静寂を破られ、心臓が五回転ぐらいするかのような驚きが全身を駆け巡る。そのせいで相手を捉えることを忘れていたが、よく見ると乱入者の正体は琴音のようだった。

「も、もうちょっとゆっくり入ってくれよ……」

「うん。すごく、びっくりした」

 二人で口を揃えて琴音の入り方を非難するも、彼女はそれに何も応えずに俺のベッドへと近づき、そのまま突っ伏した。

「……あの。それ、俺のなんだけど」

「…………」

 これにも反応しない。彼女からは「今は話したくない」というオーラが明らかに放たれていた。

 今は無理に動かすべきじゃないな。下手に構ってしまうと、余計に機嫌を損ねるかもしれない。

「弥生、次行こうぜ」「え、でも――」

 反論しようとする弥生を手で制する。親友として、彼女を心配する気持ちは分かるけれど。

「今はそっとしておくべきだ。何があったかは知らないけど、訊かない方がいい。分かったか?」

「……うん」

 少し不服そうな様子の弥生だったが、小さく頷くとコントローラーを手に取った。

 同調しながら、布団に顔を埋める琴音を横目に見る。ああは言ったものの、琴音が心配なのは俺も同じだ。

 大丈夫だよな、多分。そう自分に言い聞かせながら、ゲームの続きをプレイするのだった。



「そこ、後ろから敵来てるぞ」

「おっとと……うん、ありがと」

 ゲームを再開してからどれだけ経っただろうか。熱中しすぎると時間を忘れるというが、まさに今その状態だ。大分ステージ数は進んだはずだが、まだ琴音の様子に変化はない。

 拗ねているのは分かるが、そろそろ何か動きがあってもいいはずだ。そんなことを考えていると、視界の外で彼女の身体がのそりと動いた。

「あっ……」

 その瞬間に気を取られて操作が狂い、ゲーム内のキャラクターがミスしてしまった。

「……ノブアキ、下手っぴ」

「いやいやいや、だって琴音が……!」

 弥生に煽られて指を差した先で、琴音はこちらを気怠げな目で見ていた。二人の視線を一身に受けて、彼女は少し恥ずかしそうにする。

「えっと……私もやっていい?」

「あ、ああ。ほら」

 そう言ってベッドから降りてきた琴音は、おずおずとコントローラーを受け取る。そして当然のように俺と弥生の間に腰を下ろすと、「早くしなさいよ」と催促をするのだった。

 何だろうか。ペースが狂うというか、いつもの琴音と違うような。むしろ、いつも通りを装っているせいでぼろが出ていると言ってもいい。

 椿さんに呼ばれてから一悶着あったのは確かだろうが、やはり尋ねるのは気が引ける。迷いに迷いながら、淡々と時間とゲームだけが進んでいく。

 思考にもやが掛かったまま過ごしていると、琴音の操作していたキャラクターがミスしてしまっていた。

「お、琴音がそんなとこでミスるなんて珍しいな」

「う、うるさいわね! ちょっとぼんやりしてただけよ……!」

 口を尖らせて反論する姿こそいつもの琴音だが、やはりどこか引っかかるような気がしてやまない。その時だった。弥生がおもむろに口を開き、琴音の目を見据えた。

「あのね、コトネ……弥生たちに隠し事、してるでしょ」

「えっ……!?」

 弥生の見透かすような言葉が琴音を捉え、その場から動けなくさせた。弥生のこんなに冷ややかな表情、初めて見た。それは琴音も同じらしく、狼狽えた様子で弥生を見つめていた。

「ちょ、弥生、お前……」

「……ほっとけない、やっぱり」

 彼女の表情に陰が落ちる。琴音の感情を損ねる可能性よりも、彼女は親友としてあることを選んだようだった。素晴らしきかな友情。

 文字通り蛇に睨まれた蛙といった状態で、ただお互いがお互いを見たままで黙りこくる。俺はといえば、口を挟むべきではないと思い、ただ見ていることしかできなかった。

「弥生……コトネのこと、友達だと思ってる。だから、話してよ」

 弥生の気迫に気圧されたのか、琴音が少したじろいだ。強張った表情が和らぎ、握り拳は床に向けられる。どうやら観念したようだ。

「……分かったわよ。話すわ」

 彼女は小さく溜め息をつく。その横顔は、少しだけ満更でもなさそうな風に見えた。

 改めて琴音はこちらの方へ向き直り、深呼吸をひとつすると、階下へ降りた後の経緯を話すのだった。

 とはいえ、その顛末は至極単純なものだった。

「えっとね……少し、お母さんと喧嘩しちゃって……」

「喧嘩?」「コトネのママ、と?」

 俺と弥生、両者とも首を傾げた。琴音ならともかく、普段から温厚そうな椿さんが喧嘩するほど感情を露わにすることがあるだろうか。あるいは、実の娘が相手ならそういう態度を取るのも辞さないということか。

 そう思っていると、琴音が次の言葉を続けた。

「お母さんってば、私のこと全く分かってないんだから……。無神経だし、なんにも気付いてくれないし。全部お母さんが悪いのよ……」

 伏し目がちに彼女は呟いた。その言葉で、ああなるほど、と自分の中で腑に落ちる音がした。

「それで一方的に怒って、飛び出してきたって訳か」

 琴音の身体がびくりと跳ね上がる。どうやら図星らしく、悲しさと気まずさが入り交じったような表情で頷いた。やっぱり椿さんが怒るとは思えないし、琴音のことだから逆ギレしたとしか考えられなかった。

 そうだとすると、俺がかけてやる言葉はひとつしかないだろう。

「それは、謝った方がいいと思うぞ」

「ん……弥生も、そう思う」

 俺の主張に弥生も同調してくれた。二人から同じ事を言われ、琴音は困った顔をした。何か言いたげに口をもごもごと動かし、躊躇いながらも次の言葉を続けた。

「……わ、分かった、分かったから……。少しだけ、時間ちょうだい……」

 視線を逸らして、彼女はもじもじとする。

「心の準備、まだできてないから……」

 しおらしい様子の琴音を見て、弥生は俺にアイコンタクトを求めてきた。言わんとすることは多分一緒だ。軽く頷くと、再び琴音の方を向いた。

「ったく、しょうがねえな。ちゃんと今日中には謝れよ?」

「うん……ありがと」

 かくして、部屋から出られない琴音をなぜか匿うことになったのだった。今日は長い一日になりそうだ。



 その後も琴音の気が済むまでゲームに興じていると、いつの間にか時刻は十二時を回ってしまっていた。それに気付いた瞬間、都合良く腹の虫が鳴いたのだった。

「もうこんな時間か。腹減ったな」

「弥生も、お腹空いた……。カオルコに何か、作ってもらう?」

 俺と同じくして、弥生も腹を擦る仕草をした。彼女の問いかけにそうだな、と応えつつ、階下へ向かおうと部屋の扉に手を掛ける。

 そこで琴音の存在を思い出し、振り返る。

「そうだ、琴音はどうする? 一緒に降りるか?」

 俺が見たのは、硬い表情をして首を横に振る琴音の姿だった。

「……やだ。降りたくない」

「ま、そうなるよな……」

 下に降りれば必然的に椿さんと顔を合わせることになる。そのときの琴音の反応は想像に難くない。

「うーん、薫子さんに何か作ってきてもらうしかないか」

 琴音が出られない――もとい、出たくない以上、彼女を残して俺たちだけが降りるわけにはいかない。結局こういう状況になるのは薄々感じていた事だった。

「じゃ、頼んでくるよ」

「なんか……ごめん。私のせいで……」

 再びドアノブに手を掛けた俺に、心底申し訳なさそうな声のトーンで彼女は言った。

「まあいいって。そういうときは誰しもあるだろ」

 へそを曲げて自分から飛び出しておいて、その後一丁前に罪悪感が湧いてくるところが素直じゃない。何だかんだ言っても性根は優しいんだよな。

 だから、今回の一件も時間が解決してくれるだろう。まあ、今日中に解決できるのが一番良いのだが。

 階下にやってくると、ちょうど薫子さんがこちらへと駆け寄ってきた。

「あっ、信明さん。良いところに来られました。あの、その、お嬢さまは……」

 慌てた状態で急に喋ったせいか、言葉が渋滞を起こしている。それだけ琴音を心配しているということだ。

「琴音ならまだ拗ねてますけど、そのうち機嫌を直すかと」

「そうですか、それは良かった……。椿さまもお嬢さまのことを心配なさっていて……」

 彼女はほっとして胸を撫で下ろした。愛されてるな、琴音は。ただ悲しいことに、その愛情はすれ違ってしまっているようだが。

「それで、用件なんですけど。琴音のためにご飯を作ってやってほしいんです。やっぱりまだ出てきたくないみたいで」

 そう伝えると、彼女は力強く頷いてくれた。

「分かりました、お任せください!」

「ありがとうございます。助かります」

 こういうときに薫子さんは頼りになるな。軽く頭を投げると、俺はその場を後にした。

 再び自室へと戻ってくると、そこでは琴音と弥生が何やら話し込んでいるようだった。

「二人とも、何してんだ?」

「あ、ノブアキ、おかえり……。今ね、弥生のパパとママのことを話してたの」

 パパとママ……そういえば今更だが、弥生の両親について何も知らないんだよな。

「私が弥生に、『自分の親のことどう思ってるの』って訊いたのよ」

 ああ、なるほど。そういうことだったか。琴音たちの隣に腰掛けて、会話に混ざり込む。

「弥生はね、パパもママも好きだよ?」

 その後に続けた弥生の答えは、きわめて簡単なことだった。ばっさりと言い切った辺り、自分の気持ちに相当自信があるのが見て取れる。

「二人とも弥生のこと、好きって言ってくれるし……。時々、家族みんなでお出かけしたりするよ」

「ふーん……そうなんだ」

 きっと一ノ瀬家は家族皆が仲が良いのだろう。それを語る弥生の口調も表情も、少し華やいで見えた。一方、黙って聞いていた琴音はというと、どこか浮かない表情をしていた。

「コトネは……どう? パパとママ、好き?」

 沈みきった様子の琴音だったが、弥生に促されてふと顔を上げる。震えた唇から、ゆっくりと発声しようとする。

「……私、は…………」

 その瞬間、部屋の扉を叩く音がその言葉を遮った。

「ひゃあああぁっ!? だ、だだ、誰!?」

 突然の訪問者に不意を突かれたのか、琴音は思いきり飛び上がって部屋の隅に縮こまってしまった。

「ま、まだ、心の準備、できてないのに……っ!」

「落ち着けって琴音! 薫子さんだから!」

 ドアを開けると、お盆を持った薫子さんが立っていたのだった。琴音の悲鳴が外にも聞こえていたのだろう、口を開けて怪訝そうな目をしている。

「すごい声が聞こえましたが……大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫です……気にしないでください」

 背後では軽いパニックに陥った琴音を弥生が宥めている。部屋の中はさながら阿鼻叫喚と言ったところだった。

 こういうとき、どんな顔をして受け答えをすれば良いのだろう。少なくとも今の俺にはそれが分からなかったので、申し訳ないが薫子さんにはご退場いただいた。

 困惑したまま彼女が部屋を後にして数分後、ようやく琴音は平常を取り戻した。

「……ごめん。少し取り乱したわ」

 三人の間には、やや気まずい空気が流れている。中でも琴音は、恥ずかしいのか顔を伏せてしまっている。

「少し、なんてレベルじゃなかったろ。どんだけ怖がってんだよ」

「し、仕方ないでしょ! 今は顔を合わせるのも気まずいんだから……!」

 まあ、その気持ちも分かるけれど。喧嘩した相手と顔を合わせるなんて、すぐにはできない話だ。

「ま、飯でも食おうぜ。腹一杯になりゃ落ち着くだろ」

「……分かったわよ」

 そろそろ本格的に腹も空いてくる頃だ。三人揃って昼食に手を付けるのだった。

 しばらくして全員の皿が空になり、お盆には空の皿が三枚重ねて置かれた。

「ふわぁ……お腹いっぱい……眠い」

 箸を置いて、弥生が大きな欠伸を噛み殺す。満腹になった昼下がりの休日と来ると、眠気がやってくるのはよくある事だ。やることもないし、このまま一眠りするのも悪くない。

 だが、琴音の発言がそれを打ち消した。

「……えっと、あのさ。さっきの話……」

「さっきの話? どしたの、コトネ?」

 視線を浴びて、琴音の肩が少し震える。それを振り切るように、彼女はそのまま流れに乗って言葉を繰り出した。

「薫子が来る前にした、お父さんとお母さんの話。私は……二人が好きなのか嫌いなのか、よく分からないの」

 苦悶の表情を浮かべて唇を噛む琴音。

「弥生のところと違って忙しいし、あんまり構ってくれないし……家族旅行なんて、ほとんど行ってない」

 彼女は膝を抱えて、顔を半分ほどそこに埋める。彼女の主張は、これまで幾度となく聞いてきたことだった。

「お父さんもお母さんも、仕事頑張ってるのは分かってる……。偉い人だから、みんなのために働かなきゃいけないのも分かってるし、尊敬もしてる」

 いつしか彼女の双眸には涙が湛えられ、瞬きのたびに瞳が揺れて輝いていた。

 そして彼女は、次の言葉を紡ぎ出す。

「………………でも」

「でも?」

 蓄えられた雫はついに零れ落ち、彼女の頬を伝う。それを皮切りに、琴音の本心が解放された。

「……でも……やっぱり寂しい……」

 声を上げて泣きたいところを押し殺して、彼女は小さくすすり泣く。それでも堪えきれなかったのか、時々悲壮な嗚咽がそこに混じる。

 俺たちがいないところでも、彼女はこうして泣いていたのだろうか。甘えたがりな本心を隠して、寂しさにただじっと耐えていたのだろうか。

 もしも、彼女の寂しさを埋めてやれるとしたら、俺は動かねばならない。家庭教師としてだとかそんな建前ではなく、目の前にいる彼女の友人としてそう直感した。

 気付けば、俺の口はひとりでにものを喋り始めていた。

「……なんか分かるよ、その気持ち」

 琴音の目がこちらをじっと見た。その表情には、驚きや不信感といった感情が含まれているように見える。だが、それでも構わず俺は語り続ける。

「うちの親も忙しくてさ。毎日夜遅くまで働いて偉いなあとは思ってたけどさ、家族で飯食うのが遅くなるのはやめてほしいって思ったよ」

「…………」

「親父は酒飲みだし、時々叩かれたし、お袋はお袋で面倒くさいときもあったし……。正直、恨みたいことはいくらでもあった」

 ここまでは琴音と同じだ。けれど、俺の話には『答え』がある。

「……でもさ、何だかんだ言っても肉親なんだよなって思うと、さ……」

 許すとは言わないが、あくまでそんなものかと割り切ることはできていた。それが俺の答えだった。

「なんか意外と、みんなそんなもんだと思うんだよな」

 そこまで言い切ったところで、黙って聞いているだけだった弥生がぽつりと口を開いた。

「弥生の家も、そう。ママは、怒ると怖いよ……。パパも、いつも疲れてて、ちょっとイライラ……」

 そんな言い草とは裏腹に、弥生は小さく微笑んでいた。

「でもね……パパとママが弥生のこと好きだから、弥生もパパとママが好き、だよ」

 俺と弥生、二人の言葉を受けて、琴音はじっとこちらの方を見た。涙を手で拭い、困惑の目で二人を交互に見やっている。

「……そんなもの、なのかな」

 自信なさげに呟かれた言葉に、俺たちは頷いて返した。その瞬間、彼女の表情が少し明るくなった。

「そっか……そうなんだ」

 うわごとのようにそう言い、彼女は笑顔を取り戻す。すっかり、とはまだ言えないが、琴音は少しずつ立ち直りつつあった。

「ありがとね、二人とも。ちょっとだけ元気出たわ」

「いいってこった。な、弥生」

「うん。コトネが元気ないと、弥生も悲しい」

 三人で向かい合って笑う。弥生の言うとおり、琴音が落ち込んでいると心配で仕方ない。元気になってくれて良かった。

 そこでふと、琴音が本来ここに何をしに来たのかを思い出した。

「そうだ琴音、結局何のことで喧嘩してたんだよ?」

 あまり詮索しない方が良いかと放置していたことだが、琴音が落ち着きを取り戻した今なら訊いてみても問題ないだろう。

「あー……それなんだけどね……」

 しかし、訊いた途端に彼女はばつが悪そうにもじもじとし始めた。何かあったんだろうか。

「教えて、コトネ。弥生も喧嘩の理由、知りたい」

 そこに弥生のダメ押しが入る。その圧に押されたのか、琴音はすっかりたじたじになってしまっていた。

「……笑わない?」

 二人で顔を見合わせて、こくりと頷く。すると琴音は安心したように身体の緊張を解き、ポケットから何かを取り出した。どうやら何かのチラシを折り畳んだものらしい。

「これは……?」

「実はね、もうすぐ近所で夏祭りがあるの」

 彼女は畳まれたそれを広げて俺たちに見せる。そこには夏祭りの開催を告げる文言と、開催日時が書いてあった。

「それでね、一緒に行きたいってお母さんに言ったら、信明と薫子と一緒に行きなさいって……。お母さんもお父さんも忙しいから無理だって言われて……」

 語っているうちに、だんだんと彼女の顔がチラシの裏に隠れていく。自分で言うのがよほど恥ずかしかったのか。

 その時の俺は、笑いを堪えることで精一杯だった。

「あー、やっぱり笑ってるじゃない! うそつき! だから言いたくなかったのに……」

「ごめんって、笑うつもりはなかったんだよ」

 本当は真面目に話を聞く予定だったのだが、「夏祭りに一緒に行ってほしい」と頼み込む琴音のいじらしさを想像すると、どうしても笑いがこみ上げてくる。

「コトネ、かわいい。甘えん坊」

「はあ!? べっ、別に、違うわ! 単なる気まぐれよ!」

 完全に余裕をなくしている。弥生がいじればいじるほど、琴音は面白い反応を返す。あれは完全に弥生のおもちゃだな。

「気まぐれだけど、パパとママに断られて、怒った……? ふふ、やっぱり甘えん坊。かわいい、ね」

「うぅ……! そ、それは……!」

 とはいえ、このまま放っておいては弥生が琴音をいじり倒して一日が終わってしまう。せっかく彼女の本心を聞けたのだから、きりの良いタイミングを見計らって、二人の会話に割り込むことにした。

「なあ琴音、ちょっといいか?」

 俺の呼びかけに反応して、二人は会話を止めてこちらを向いた。一呼吸置いて気持ちを落ち着かせてから、言おうと思っていたことを話し始める。

「俺が思うに……それはちゃんと言わないと、伝わらないと思う。怒って出て行っただけじゃ、何も変わんねえ」

 琴音の真剣な二つの目がこちらを覗き込む。その目を捉えたまま、俺は語ることを続ける。

「だからさ、もう一回だけ話してみようぜ。俺も一緒について行くからさ」

 あと一回だけ話せば、椿さんも文哉さんも理解してくれるかもしれない。しかし当の琴音はというと、あまり乗り気でない様子だった。

「……たしかに……そうだけど……でも……」

 やはり逆ギレしてしまった手前、今更のこのこと出て行くのは気が引けるのか。もじもじと指を弄びつつ、しきりに思考を巡らせているようだ。これはあと一押しが必要かもしれないな。

 そう思い、次にかけるべき言葉を選んでいる時だった。

「……ノブアキの言うとおり。逃げたら、一生分かり合えない。なのにコトネは、いつも逃げてばっかり」

「……っ!」

 弥生がまた冷ややかな目をした。彼女の視線に貫かれ、琴音は身を凍らせる。文字通り蛇に睨まれた蛙の構図となり、部外者の俺は一瞬にして排斥された。

「私は……逃げてなんか……」

「パパとママに分かってほしいなら……自分から行かないと、ダメ。コトネはそれ、分かってない」

「おい、弥生……!」

 俺の制止する声も虚しく、弥生の糾弾は続く。より饒舌に、より感情的に。先ほどまでからの豹変ぶりに、俺だけでなく琴音も困惑を隠しきれない様子だった。

「裏庭の時だってそう。コトネは、ずっと受け身。それじゃダメ。……分かってる?」

「…………」

 彼女の重みを持った言葉に圧倒され、琴音は完全に言葉を失ってしまう。二人に見つめられながら、茫然自失として震えているだけだ。そんな状態で何かを言えるはずもなく、部屋の中を静寂が包む。

 どうしたものかと必死に思考を巡らしているうちに、琴音がぽつりと呟いた。

「……ごめん。少しだけ、考えさせて」

 彼女は力なく立ち上がると、後を追う間もなく逃げるように扉の外へと消えていってしまった。

 そして部屋には、俺と弥生だけが取り残された。

「……弥生、お前……」

 弥生は愁いを帯びた顔つきで、琴音が出て行った先をただ見つめている。その横顔に語りかけた。

「…………っ」

 しかし、彼女は俯いて口をつぐむだけだった。何とか言ってもらおうと口を開いた、その瞬間だった。

「……ごめんね、ノブアキ……弥生、我慢できなかった……。コトネに、分かってほしかったから……!」

 突如、弥生の瞳からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。初めて見た彼女の涙に俺はどうすることもできず、ハンカチを差し出すぐらいのことしかできなかった。

 とりあえず興奮してしまった弥生を宥めようと、言葉を探して投げかける。

「弥生が琴音のことを想ってるのは、ちゃんと分かってるよ」

 だからこそ琴音の態度に怒り、追求したのだろう。ただ、伝えたいことを正しく伝えるには、そしてそれを冷静に諭すには、彼女はあまりにも幼かっただけだ。

「後は俺がやるから、弥生はここで待ってな。ここは頼れる大人にドーンと任せな!」

「ん……ありがと、ノブアキ……」

 涙を拭うと、弥生は小さく微笑んだ。その頭を軽く撫で、琴音の後を追うべく部屋を出るのだった。



「琴音、いるか?」

 自室を出たその足で琴音の部屋の前に立ち、扉をノックする。少し待ってみたが返事はない。ここにはいないようだ。念のため扉を開けて中を確認したが、結果は同じ事だった。

 自室にはいないとなると、向かった先は裏庭に違いないな。こうしちゃいられないと踵を返し、急ぎ足で階下へと向かうのだった。

 階段を降りると、そこで椿さんとばったり鉢合わせた。彼女も先ほどの薫子さんのように、どこか困った様子をしていた。

「信明くん。ちょうど良かった、琴音を見ていないかしら?」

「ああ、琴音は――」

 そこまで言いかけたところで、ふと思いとどまった。仮に俺が琴音の居場所を教えたとして、彼女が琴音に干渉したとしたら。親友の思わぬ叱咤でぐちゃぐちゃになったであろう琴音の心がさらに乱れるのは目に見えている。

「――俺の部屋で寝てますよ。今はそっとしといてあげてください」

 これでいい。今は彼女を守ってやりたい。そのためなら、これくらいの嘘なんてどうってことはない。

 感情の揺らぎを気取られぬよう、椿さんの目を見据えてはっきりと嘘を吐いた。

「あら、そう? なら仕方ないわね。琴音をよろしくね、信明くん」

 そう言うと、彼女は元来た方向――リビングの方へと戻っていった。

「…………よし」

 胸中を一抹の罪悪感が去来したが、そんなことを気にしている場合ではない。今は琴音を探しに行くのが先決だ。リビングに背を向け、玄関へと向かった。

 邸宅の外へ出て右方向、突き当たりの倉庫をさらに右。その先に琴音がいると信じ、ずんずんと進んでいく。目的地に近づくにつれ、人の気配がするのを感じる。

 そして俺は、裏庭に琴音の姿を認めた。靴底が砂を噛む音に、彼女は驚いて肩を震わせる。

「……信明……」

 彼女はおずおずと振り向く。靴音の正体が俺であることを知ると、その表情がわずかだが和らいだ。

「お迎えに上がりましたよ、お嬢さま」

「何よその言い方……ふふっ」

 琴音がおかしげに笑った。慣れないジョークは、彼女の心にちゃんと届いたようだった。


 無造作に置かれたベンチに座り、二人並んで語らう。てっきりべそでもかいているかと思ったが、意外とそうでもないようで良かった。

「えっと……さっきはごめん。弥生にいきなりいろいろ言われて、何が何だか分からなくなっちゃって……」

「まあ、しょうがねえよ」

 あんな剣幕で詰め寄られたら、誰だって驚くに違いない。それが普段大人しかった弥生であればなおさらだろう。実際俺も驚いた。

「あいつ、言い過ぎたってすごい落ち込んでたよ」

 俺の言葉を聞くと、彼女は目を丸くしてこちらを覗き込んだ。そしてその意味を理解したのか、ゆっくりと首を横に振った。

「……ううん、言い過ぎなんかじゃないわ」

「と、いうと?」

 昼下がりの空を遠くに眺めながら、琴音は誰に聞かせるでもないような素振りで語り始めた。

「あの後考えたの、私。そしたら、弥生の言うとおりだったの。……私は、ずっと逃げてたんだ」

 琴音の口から思いがけない言葉を聞くことになり、今度は俺が彼女の顔を覗き込む。俺の驚いた表情に多少むっとしつつも、彼女はそのまま自分の思いを打ち明ける。

「いつだって私は、誰かが助けてくれるって思ってた。……あの日、ここに来たときだって、心のどこかではきっと信明は迎えに来てくれるって思ってたの」

 自嘲気味に笑いながらも、彼女は語ることは止めなかった。まるで自分の全てをさらけ出さんとするかのように、次々と言葉を発していく。

「受け身のままじゃ何も変わらないって、弥生が教えてくれたの。……それと、信明も」

「俺も……?」

 今回に関しては、何もしていない……否、何もできなかったと思ったのだが、彼女は首を縦に振った。

「信明って、いつも自分から動くタイプでしょ。みんなのこと考えてて分かったの。私とは、まるで逆」

 そうだろうか。いろいろ思うところはあったが、今は口をつぐむことにした。

「いつも信明がお手本を見せてくれてたのよ。……ありがと」

「お、おう……どういたしまして」

 いつになく素直な琴音を前にしてどぎまぎする。これが新しい気づきを得た彼女なのか。わがままだったあの時から、どことなく見違えたようにも見える。

「……私、もう逃げないわ」

 胸に当てた彼女の手が握り拳に変わる。その手と瞳には、確かに決意が宿っていた。

「言葉にしなきゃ伝わらないから。ちゃんとこの口で伝えて、私のことを分かってもらうわ」

「その意気だ。頑張れよ、琴音」

 にっと笑って、彼女は立ち上がる。

「さあ、行くわよ信明。決着を付けるわ!」

 小走りで裏庭を後にする琴音。その背中を眺めながら、俺も決意を固めるのだった。


 二階堂家、その一角。大事な対面の前に、琴音は俺の部屋へと足を運ぶ。扉を開けると、座っていた弥生がバネのように立ち上がった。

「あっ、コトネ、ノブアキ……!」

 長い間待たせてしまったのだろう、待ちわびたような表情でこちらへと駆け寄る弥生。だが、コトネの目の前にやってきた瞬間、一瞬だけ逡巡する様子を見せた。そして、その直後。

「……ごめん」「ごめんなさい……っ」

 琴音と弥生、両者が頭を下げたのはほぼ同じタイミングだった。声がハモったことに驚き、目を丸くしてお互いを見やっている。

「……っ、あの、えっと……っ」

「さっきは逃げたりしてごめん。……私、もう逃げないから」

 琴音が先に謝罪の言葉を口にする。それに負けぬよう、弥生も自信の内に秘めた想いを伝える。

「や、弥生こそ、ひどいこと言ってごめんね……」

 やはりまだ悔やんでいるのか、心から申し訳なさそうな表情をする弥生。だがそれに対して、琴音は首を大きく横に振って笑った。

「でも、私は弥生に言われなきゃ一生気付かなかったと思うの」

 そこから先の言葉に詰まり、躊躇うような、戸惑うような素振りを見せる彼女。少しの間その状態が続いたが、首を横に振ると、それは決心した表情に変わった。

「この際だから、ちゃんと伝えるわ。……いつも一緒にいてくれてありがとう、弥生」

「……コトネ……!」

 その瞬間、弥生の表情が明るくなったかと思うと、思いきり琴音の身体を抱きしめた。あまりの勢いに琴音は後ずさったが、それでもなお彼女は抱きしめ続ける。あまりの感激ぶりに、もう一度泣いてしまうのではないかとはらはらした。

「えっ、ちょっ、弥生……!?」

「コトネ……大好き、だよ……」

 琴音がどれほど動こうと、弥生はそれを離すまいと腕を背中へと回す。これはしばらく収まりそうにないな。

「もう、弥生ってば……ふふっ」

 まあ、当の琴音も嬉しそうだし、別に気にすることもないか。二人の気が向くままにしておこう。

 二人が心を通わせ終わり、本来の落ち着きを取り戻した頃を見計らって本題へと戻る。

「……さて、椿さんと文哉さんの話だけど」

 その名前を出した途端に、二人の表情が渋くなるのが分かった。彼女らを邪魔するつもりではなかったのだが、なるべく早く解決しておきたい問題なので仕方がない。怪訝な視線を押して話を続ける。

「覚悟は決まったか、琴音?」

「……うん」

 力強く頷く琴音。その姿を見て、弥生は安心した様子を見せた。琴音はそんな彼女の方を振り向いた。

「でも、やっぱり不安だから……弥生にもついてきてほしいの。……ダメかしら?」

「えっ……!?」

 唐突な琴音のお願いに、弥生は目を丸くする。おろおろとする弥生だったが、対する琴音は真剣な表情だった。

「……お願い、弥生」

 弥生はしばらくの間逡巡し、決心するように答えを出した。

「……分かった。コトネの役に立てるなら、弥生も頑張る……!」

「良かった……。ありがと、弥生」

 安堵した表情を見せると、琴音は改めてこちらの方を見る。その目には、先ほどと同じように決意が表れている。

「……信明、準備はいい?」「おうとも。いつでも行けるぜ」

 俺の言葉を聞くと、彼女は不敵に笑って返してくれた。いつもの、自信家で意地っ張りな彼女の笑顔よりそれは一回り大人びて見えた。

 さあ行くわよ、と音頭を取ると、彼女は部屋を出てリビングへと向かうのだった。



 階段を降りる琴音に続き、俺と弥生がその後ろを行く。彼女の足取りは決して早くはないが、一歩一歩踏みしめるように前へと進んでいく。

 そして階段を降りきり、廊下とリビングとを繋ぐ扉の前に立つ。そこで琴音の足がぴたりと止まった。

「……やっぱ怖いのか?」

「怖くないって言ったら嘘になるわよ」

 何を今更、とでも言いたげに口を尖らせる彼女だったが、その後に「……でも」と続けた。

「ここまで来たら後戻りなんてありえないわ。ただまっすぐ進むのみ、よ!」

 そう言って迷いなくドアノブに手をかけ、扉の向こうへと一歩足を踏み出した。

 リビングへと躍り出た一行は、それぞれ個性的な反応を見せた三人に出迎えられる。驚いた表情の椿さん、こちらを一瞥して目を見張る文哉さん、なぜか感極まりそうになっている薫子さん。それぞれがじっとこちらを見ている。

 思いを伝えるべき相手を前にして、琴音は少し怯んだかのように見えたが、勇敢にも一歩前へ進み出た。

「……お母さん」

 椿さんの前に立つと、ゆっくりと唇を動かして言葉を紡ぎ出す。

「さっきは……怒ったりして、ごめん」

 彼女が丁重に頭を下げた瞬間、三人の表情が動いたのがはっきりと分かった。おおかた、あの琴音が自分から謝りに行くなんて何があったのか、といったところだろう。

「二人とも忙しいのは知ってるし、私のことを養ってくれてるのも分かってる……」

 三人の様子など気に止めることもなく、胸中にある言葉を編んで重ねて、次々と伝えていく。

「……でもっ、それでも……私は、家族みんなで、お祭りに行きたいの……!」

 ついに彼女の口から、家族には明かさず隠し続けていた本心が漏れ出した。彼女なりにプライドもあっただろうが、そんなものは不要だとばかりにかなぐり捨てていた。

「お願いっ……! 夏祭り、一緒に来てほしいの……!」

 彼女がもう一度、今度は先ほどより深く頭を下げた。見とれている場合ではない。今は俺も加勢しなければ。

「俺からもお願いします。琴音のために、ついて来てあげてほしいんです」

「や、弥生も! お願いしますっ……!」

 後ろに控えていた俺と弥生も揃って頭を下げる。文哉さんの方から、何かをおもんばかるように息をつくのが聞こえる。

 顔を上げた俺たちは、全員真剣極まりない表情をしていたと思う。ここで諦めてしまったら、弥生の叱責も、琴音の覚悟も、全部が無駄になってしまうのだから。

 たかが夏祭りだが、されど夏祭りだ。ここにいる皆、生半可な気持ちで頭を下げていたわけではない。

「……ふむ……」

 文哉さんが溜め息とともに考え込む仕草を見せる。椿さんはどこから取り出してきたのか、手帳を開いて中を確認している。

「それでもやはり、仕事がね……」

「……っ」

 後ろに回した琴音の手が握り拳に変わる。これだけ頭を下げてもダメなのか。だんだん頭に血が昇ってきた。

 あんたたちにとって琴音はいったい何なんだ。琴音に自分の都合を押しつけて独りにして、構ってくれるのは薫子さんだけで。琴音は優しい奴だから、本当に言いたいことは胸の内に隠したまま育って、ようやく今それを――「甘えたい」って本心をぶつけてきたっていうのに、あんたたちの対応は……。

 血液が沸騰しそうなほどに熱い何かが身体中を駆け巡る。それがそのまま口を衝いて出そうになった瞬間、薫子さんの声が遮った。

「――わたしからもお願いしてもよろしいですか、文哉さま、椿さま」

「……薫子……?」「薫子さん……!」

 その場にいた全員の注目が彼女の下に向けられた。それでも彼女は臆することなく、はきはきとした物言いで続ける。

「無礼な真似をお許しください。……しかし、お嬢さまを残して仕事に行かれているのは、他でもないお二人です」

 俺が言いたかったことを全て、理知的かつ冷静に彼女が代弁していく。

「そのお嬢さまが今こうして、自分の気持ちを伝えているのです。ならば、それに対して誠実に応えるのが親の努めであると、わたしは思います」

 彼女の言葉は徐々にだが、確実に文哉さんと椿さんの心に染みこんでいる。劣勢だった戦局が、変わろうとしている。

「わたしはあくまで、使用人の立場でしかありませんから。お嬢さまの心の穴を埋めることは叶いません。これは親であるお二人にしかできないことです」

 そして、誰よりも深く、その頭を下げた。

「もちろん、お忙しいのは承知の上です。……ですが、お嬢さまとともに、夏祭りへ行ってあげてほしいのです。お願いします……!」

 視線を薫子さんから二階堂夫妻の方へと動かす。文哉さんはもう一度溜め息をついた。椿さんは何度も彼の顔を見やっている。

 今度こそ、四人の思いが合わされば認めてくれるはずだ。仮にもしこれでもダメなら、俺は――。

「……そこまで言われてしまったら、断る道理はないね」

「――っ!」

 琴音が、弥生が、そして俺も、一斉に息を呑んだ。

「仕事については何とかする。大事な我が娘のことだ、僕も腹を括るとしよう。それで構わないね、椿?」

「ええ、構わないわ」

 椿さんは優しく微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。それに続くようにして、文哉さんも腰を上げる。そして琴音の前に立った。

「今まで独りにしてごめんなさい……寂しかったわよね」

「今更許してくれるとも思わないけれど、謝らせてほしいんだ。……寂しかったろう」

 二人の手が、琴音の柔らかな髪を優しく撫でた。

「……そん、なのっ、気にしてないわよ……えぐっ、バカぁ……っ!」

 琴音の声はみるみるうちに涙混じりになり、鼻を啜る音も聞こえる。彼女は泣いていたが、その声色は幸せと言っていいものだった。

「……良かったな、琴音」

「うん。コトネ、すっごく嬉しそう。コトネのあんな顔、今まで見たことなかった……かも」

 琴音の表情を見ると、これ以上ないくらいの満面の笑みだった。長年くすぶり続けていた問題がようやく解決して、心の中がさっぱり綺麗になったような、そんな清々しい顔をしていた。

 そんな中、弥生がふとこちらを向いて話しかけてきた。

「……ねえ、ノブアキ」「うん? どうした?」

 呼びかけに応えて目を合わせると、彼女はやや赤面した様子で言葉を漏らした。

「あの……えっと。コトネのこと、励ましてくれて……その、ありがと……」

 言い終わると同時に目を逸らした彼女が面白くて、思わず頭を軽く叩いていた。

「いいってこった。弥生こそ、琴音のことちゃんと叱ってくれてありがとな。助かったよ」

「んっ……どういたしまして。……えへ」

 そんなやり取りをしていると、夫妻との会話が終わったのか、琴音が俺たちの所へ戻ってきていた。

「二人とも……本当にありがとう。二人が背中を押してくれたおかげよ」

 彼女が俺たちに向けてくれた笑みは、椿さんに似た柔らかい笑みだった。

「コトネの親友……だもん。当たり前、だよ?」

「ああ。困ったことがあったら助けるのが当然だろ」

「信明はいつから私の親友になったのよ?」

 そう言って三人で笑い合う。先ほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、いつもの穏やかな雰囲気が俺たちの間を通り過ぎていく。

 一通り話し終えた後、琴音は不意に振り返って薫子さんの方へと歩いて行った。

「薫子も……巻き込んじゃって、ごめん。……でも、ありがと」

 どうやら琴音は、薫子さんが加勢に出たことを負い目に感じているらしかった。たしかによく考えてみれば、使用人が雇い主に対して物申すなんて、なかなかありえない話だ。

「いいえ、お嬢さま。これはわたしが望んで取った行動ですから。巻き込まれたなんて思っていませんよ」

 しかし琴音の思いに反して、薫子さんは微笑してそう言った。それを見て、彼女の不安も少しは和らいだようだ。

「わたしの心配までしてくださるなんて、やっぱりお嬢さまは優しい人ですね」

「そ、そんなこと……ない、わよ……」

 あ、照れた。相変わらず褒められ慣れてないみたいだ。

「ともかく、一件落着って感じだな」

「ん。みんな、幸せ……よかった」

 夕暮れの光が差し込む二階堂家には、和やかな時間だけが流れていたのだった。



 その日の夜。今日も今日とて、日課のノートを付ける。今日は怒濤の一日だった。ひとつの喧嘩を皮切りに、弥生の本心が少しだけ見えたり、琴音がまたひとつ成長したりした。情報量が多すぎて、今思い出すと疲れが一気に込み上げてくる。

「はあ……なんかマジで今日は疲れたな……」

 椅子に背中を預けて、思いきり伸びをする。背もたれが軋んで悲鳴を上げる。その音に重なるようにして、扉を叩く音が聞こえてきた。

「信明、いる?」「おう、いるよ」

 琴音の声に応えると、ドアノブを捻って彼女が顔を出す。いつも通りというか何というか、彼女は寝間着姿で部屋へと入ってきた。脳裏に一抹の予感がよぎる。

「えっと……今日も、その、いいかしら……?」

 やっぱり。一瞬悩んだが、せっかくの琴音の誘いを無下にしてしまっては悪い。

「ったく、しょうがねえな」

 重い腰を椅子から上げると、琴音に連れられて部屋を出るのだった。

 琴音の部屋はすでに室内灯だけが点いており、寝る準備万端といったところだ。前回と同じように、椅子を引き寄せてベッドの近くで琴音を見守る。

 彼女が布団に潜り込んで少しした頃、小さな声で何かが聞こえてきた。

「……改めて、今日はありがと」「おう」

 俺に背中を向けたまま、彼女は独り言のように、しかし確かに語りかける。

「なんだか、信明が来てから急にいろんな事があったわね」

「ああ……そうだな。本当にな……」

 最初は会話さえままならないくらいギクシャクしていたのが、二人で買い物に行ったり、些細な喧嘩をしたり、小旅行に行ったりして。そんな出来事が暴走特急のように過ぎ去っていった。

 そして気が付いた時には、彼女の側に居て、力になってやりたいと思うほどの存在になっていた。

「私が変われたのも、お父さんたちが変わってくれたのも、全部信明のおかげだって、そう思ってるわ」

「ええー……言い過ぎだっての」

「そんなことないわよ。自信持ちなさいって」

 いつの間にか彼女はこちらを向いて笑っていた。いつか見た、絶対的な自信に満ち溢れた笑顔だ。

 ただ、そんな笑顔をされたからといって納得がいくわけではない。琴音が変わったのは間違いなく琴音自身の成長だし、文哉さんと椿さんが変わったのも彼女の精一杯の告白のおかげだと思っているのだが。

 そんな俺の表情から思考を読み取ったのか、琴音は眉根を寄せた。

「……ね、ひとついいかしら?」「ん? どうした?」

 問いかけに応えると、彼女は何かを絞り出すように呟いた。

「……信明は、なんでそんなに私たちのために頑張ってくれるの?」

 思いの外直球な質問に、思わず言葉を忘れてしまう。それから改めて、その文章の意味を考える。しかしいくら考えたところで、答えが変わることはなかった。

「そりゃ、俺は琴音の家庭教師だしさ」

 多分家庭教師の本分とは違うのかもしれないが、俺には彼女のために尽くす義務があると思っている。

 だが、そんなものは建前でしかない。

「……でも、何より。困ってる人間が目の前にいて、助けないわけないだろ」

 つまりはそういうことだった。単なる綺麗事かもしれないが、良心のある限り俺はそうし続けると思う。

「……ふーん、そっか」

「なんだよその反応、興味なさそうじゃねえか」

 適当な返答をされるとちょっと傷つく。それが口にするには恥ずかしいような台詞だと余計にだ。

 言って損した。そんなことを思いながら椅子を回し、中空へと視線をずらそうとしたその瞬間。

「私……信明のそういうところ、大好きよ?」

「はっ……!?」

 驚いて椅子を戻し、彼女の顔をまじまじと見つめる。今、こいつは……。

「ふふ、なんてね。さ、もう寝ましょ」

 問い詰めようとする前に、彼女は布団を頭まで被ってしまった。かける言葉が見当たらず、俺はその様子を見ていることしかできなかった。

「お、おう……そうかよ。おやすみ、琴音」

 琴音が寝息を立てるまでの間、さっきの言葉について考えてみる。まさか琴音の口からあんな台詞が聞けるなんて思いもしなかった。人は変わるものというが、それにしても驚きだ。

 きっとあれは彼女なりの好意の表し方だったのだろう。ちょっと伝え方がマセていただけだ。いろいろ思うところはあったが、今はそう思っておくことにした。

 彼女が不意に寝返りを打った。それに合わせ、表情が露わになる。もうすっかり熟睡しているようだった。

「ったく、いろいろびっくりさせやがって……」

 それでも言われて悪い気がしないのは、相手が琴音だからなのだろうか。自分に聞いたって、心の内にある今の気持ちを言語化する術は持ち合わせていない。

「……なんか、らしくねーなぁ……」

 背もたれに身体を預け、大きく溜め息をついた。琴音のあんな一言にどぎまぎさせられるとは。布団から覗いたあどけない寝顔が愛おしくもあり、憎たらしくもあった。デコピンしてやろうかな。

 そんなことを考えたところで、ふと笑みが零れた。こんなことをしている時間を楽しんでいる自分がいる。

「変わったのは、琴音だけじゃない……かもな」

 今まで見たこともなかった世界に足を踏み入れ、そこで見つけた出会いに触れる度、自分の中の価値観も変わっていくような気がした。

 そして、いつでもその中心に居たのは、周りを振り回して笑う琴音の姿だった。

 出会ってくれてありがとう――なんて、まだ口に出しては言えないが、確かにその言葉を胸に感じていた。

 きっとこの出会いは偶然でも、無駄なんかでもない。穏やかに眠る琴音を眺めながら、更けていく夜にそんなことを思っていた。


よかったら評価よろしくお願いします……(小声)

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