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第四章 凸凹小旅行

 ある朝のこと。窓から入る気持ちの良い光を浴びて、大きな伸びをする。今日が晴れてくれて本当に良かった。

 壁掛けカレンダーの七月の面をちぎる。世の小学校は夏休みか、などと考えつつ、それをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ捨てる。新しく出てきた面の最初の日付には、「琴音とお出かけ」と記されていた。その文字を見て、小さく息をつく。

 今日は琴音と出かける予定の日だ。琴音の前で粗相を起こすわけにはいかない。緊張感に思わず身が引き締まる。

「……よし、やってやろうじゃねえか」

 めぼしい場所は手帳に書き込んでおいた。俺の計画に狂いはないはず。

 カバンよし、手帳よし、忘れ物はないな。準備万端だ、いつでも出発できる。そろそろ琴音を呼びに行かないと。部屋を出て、琴音の部屋の前へと向かう。

「琴音ー、もう準備できたぞ。早く出てこいよ」

「も、もうちょっと待ちなさいよ! あんまり急かさないでよね!」

 扉の向こうから、焦った様子の琴音の声が聞こえる。耳を澄ませば薫子さんの声も聞こえてくるし、いったい何をしているんだ?

 考え事で時間を潰しながら待っていると、しばらくして琴音の部屋の扉が開いた。

「お……お待たせ」

「おお……」

 奥から姿を現した彼女は、今までに見なかったようなガーリーな格好をしていた。琴音の魅力を最大限に引き立たせる、秀逸なコーディネートだ。なるほど、薫子さんはこのためにいたのか。

 俺は思わず目を見張ったが、当の彼女は少し恥ずかしいらしく、顔を背けて表情を隠していた。

「お嬢さま、せっかくお似合いなんですから、もっと堂々としていないと」

「堂々とって言われても……こんなの、ガラじゃないわよ……」

 たしかにまあ、琴音がこんな格好をしているのは見たことがない。いつも落ち着いた色合いやシルエットの服ばかり着ているし、元からそういう服が好みだったんだろう。

「うぅ……似合わないわ……恥ずかしい……」

「そんなことありませんよ! 信明さんもそう思いますよね?」

「えっ!? 俺!?」

 薫子さんが急にこちらを見るので、驚いて何も返せなくなってしまう。

「信明さんも、似合ってるって思いますよね?」

 まっすぐこちらを見据えたまま、笑顔を崩さずに問い詰めてくる彼女。その笑顔が威圧感を帯びていて逆に怖い。

「……あ、ああ、似合ってると思うぞ、琴音……」

 結局のところ、そう返すことしかできなかった。似合っていると思ったのは本当のことだが。

「ほら、信明さんもこう言っていることですし」

「ぐぬぬ……仕方ないわね……」

 琴音は心底不満げに、しかしどこか満更でもなさそうにして、薫子さんからカバンを受け取った。

「……さ、準備できたわ。行きましょ、信明」

 気を取り直して、改めて荷物を確認する。俺も琴音も忘れ物はない。さあ、出発だ。

「それではお嬢さま、楽しんできてくださいね。信明さんも、お嬢さまをよろしくお願いします」

「はい。任せてください」「行ってくるわ」

 玄関で薫子さんに頭を下げると、二人は門へと歩いて行った。

 二階堂家がだんだんと離れていく中、住宅街に面した坂道を徒歩で移動する。少しは楽しみにしてくれていたのか、先ほどからしきりに琴音が話しかけてくる。

「車使わないでどこに行くの?」

「近所の駅から電車に乗って、ちょっと遠くまで出かけようと思ってな」

「へー。ふふ、期待してるわよ?」

 琴音が無邪気に笑う。なんというか、彼女にしては――と言うと失礼だが、素直にこの日を待っていてくれたんだな。そう思うと、自然にやる気が湧いてくるようだった。

「まあ、せいぜい頑張ってエスコートしてよね」

「言われなくてもしてやるよ」

 二人で言い合いをしている間に駅にやってきた。目的地までの切符を買い、電車が来るのを待つ。ホームのベンチに腰掛け、琴音は退屈そうに待っている。

「……あーあ、歩いたら喉渇いた。何か冷たいものが飲みたいなー……」

 そう言って彼女はこちらを向いた。視線を戻したと思いきや、もう一度。さらにもう一度。俺と目が合うたびに、彼女は期待するような目を向けてくる。

「……こっち見たって何も出ないぞ」

「もー、分かりなさいよー! そこは『お茶でも買ってやろうか』とか言うところでしょ」

「知らねーよそんなの!」

 この前は少ししおらしくなったと思ったが、やっぱりこいつはわがままお嬢様だ。相手をするだけで疲れる。とはいえ、あんまり邪険にするわけにもいかないか。この小旅行自体、琴音への埋め合わせのために俺から切り出したことなのだし。

「しょうがねえな、お茶でいいか?」

「うんっ。やればできるじゃない」

 近くの自動販売機から出てきたペットボトルを琴音に手渡す。ちょうどその時、ホームに電車がやってきたのだった。

 夏休みシーズンだというのに、車内には誰ひとり乗車しておらず、広いシートを二人で独占する形になった。

 電車が駅を離れ、景色が動き出すのを、琴音は窓に顔を近づけて見ている。外をじっと見つめたりして、まるで幼い子どものようだ。

「どうした琴音、そんなに珍しいか?」

「あっ……い、いや、別にそんなことないわよ? ちょっとぼんやりしてただけなんだから」

 本当かよ。慌てて否定する琴音を訝しく思って眺めつつ、電車の揺れに身を任せる。そのまま一駅を過ぎた辺りで、彼女が不意に口を開いた。

「私ね、電車ってあんまり乗った記憶がないのよね」

「そうなのか? 今時珍しいな」

 今や電車といえば現代人にとって欠かせない交通機関だ。近くに駅がないとかならともかく、近所に駅があったのに乗ったことがなかったのか。

「ほら、学校へは薫子とか信明が車で連れてってくれるし、旅行もあんまりしないから」

「あー、なるほどな。たしかにいつも車に乗ってるよな」

 わざわざ電車を使う理由がない、というわけだな。少し移動するくらいなら車を使った方が楽だからな。

「でも、こうやってゆっくり電車に揺られるのもいいもんだぞ」

「うん。今そう思ったわ」

 それを区切りにして会話が終わり、再びレールを転がる規則的なリズムに意識を傾ける。その間にも、琴音は窓の外に目をやったり、天井に吊られた広告を読んだりしている。あまりに落ち着きなく動くので、こちらにも彼女の興奮が伝わってくるようだ。

 そのまま揺られること三十分。長い電車旅も終わりを告げ、俺たちは目的地のホームへ足を付いた。

「ふー、なかなか面白かったわ」

 俺に続いて降車した琴音が、楽しそうに大きく伸びをする。

「こんなところで満足しててどうすんだよ。お楽しみはこれからだぞ」

 むしろここからが本番だ。まだ時刻は十二時にすらなっていない。今から夕方に再びここを訪れるまでに、たくさん琴音を満足させてやらねばならない。

「ふふ、そうね。それじゃ信明、エスコートよろしくね」

 ごく自然な流れで彼女の小さな手が差し出される。それを目の前にして一瞬だけ逡巡する。今更ながらの話だが、恥ずかしく感じて彼女の方を見た。

「……な、何よ」

 驚いた。彼女と目が合ったこともそうだが、何より彼女が真っ赤な表情をしていることに驚愕した。きっと琴音のことだから、不満げな表情で「さっさと繋ぎなさいよ」とでも言うと思ったのだが。

 彼女にそんな表情をさせているのであれば、俺の方がしっかり手を引いてやるべきか。一呼吸置いて、その手を取った。

 彼女はびくりと身を震わせたが、すぐさま安心したような表情を見せた。

「よっしゃ、行こうぜ」「うん。よろしく」

 お互いに手を握りしめると、二人は駅の外へと駆け出した。

 軽やかに改札を通り抜け、扉から駅の外へと出る。外の景色を見た途端、琴音は息を呑んだ。

「ひ、広い……!」

 初めて見るであろう町並みに、琴音は興奮を隠しきれない様子だ。背伸びした様子も今は鳴りを潜めている。ひとしきりあちらこちらを眺めた後、彼女はぽつりと呟いた。

「さっきさ、旅行しないって言ったでしょ」

「ああ……そういえば、電車の中で言ってたな」

 そのことについて何か言うことでもあっただろうか。不思議に思いつつも、彼女が二の句を継ぐのを待つ。

「お父さんってさ、休みの日でも忙しい人だから、あんまり出かけるような暇がないのよね」

 薫子さんが同じ趣旨のことを言っていたのを思い出す。

 旅行に行く暇がない。琴音のその発言は、生活を共にしている俺にも共感できる話だった。文哉さんがゆっくりしているのを見たことがない。

「……ありがと、連れてきてくれて」

 琴音はぷい、と顔を逸らした。照れているのがよく分かる。

「どういたしまして」

 これで彼女が喜ぶのなら、いくらでも連れてきてやりたいぐらいだ。今この時点でも、ここまで足を運んだ甲斐はあったな。

「さ、行くぞ。早くしないと日が暮れちまう」

 立ち止まった琴音の手を導くように引き、都会の雑踏へと繰り出すのだった。

 手を繋いだまま、二人はショッピングモールへとやってきていた。

「へえー、結構有名なブランドもあるじゃない」

「そ、そうだな……」

 あの夜、琴音から計画を立ててほしいと言われた後、俺は乏しい知識を頼りにいろいろと計画を練っていた。その中でひとつ、女性は買い物好きであるという話を思い出し、ぴったりだと思って計画に組み込んだのだ。

 だが、後になってよく考えてみると、琴音は社長令嬢であるというのをすっかり忘れていた。彼女なら、きっとここにある店よりもっと高いブランドの服を持っているだろう。ぴったりどころか、むしろ彼女をこんな所に連れてきてしまって良かったのだろうか。

 不安を抱きつつ彼女の方を見ると、向こうは不審そうな顔で返してきた。

「何よ、申し訳なさそうな顔して」

「あー、いや……ショッピングとか好きだったかな、って思ってさ……」

 自信満々で連れてきただけに、情けない限りだ。彼女はしばらく呆れた表情でこちらを見ていたが、やがて何かを察したのか、いたずらっぽく笑った。

「別に好きでも嫌いでもないけど、今は好きって言ってあげるわ」

「はっ……?」

 彼女のひねくれた言葉の意味が分からず、思わずまごまごしてしまう。

「自分の選択に自信を持ちなさいって、そう言ってんの。……薫子の受け売りだけど」

「あ、ああ……」

 どうやら琴音に気を遣わせてしまったらしい。なんかもう、計画がどうというより、男として失格のような気がしてきた。

 心の中で静かに落胆していると、俺の袖を琴音が引っ張った。

「でも、あんたのセンスは悪くないわ。認めてあげる」

 そう言うと、彼女は踵を返してしまった。今のは褒められた……ということでいいのか。その言葉が、五里霧中の心に小さな光を灯してくれた。

 よし。元気が出た。気を取り直してショッピング再開と行こうじゃないか。小さく息をつくと、彼女の背中を追って歩を進めた。

 琴音とともにやってきたのは、バッグ類専門ブランドの店だった。その入り口の前で彼女はふと立ち止まる。そして自分のカバンの中から何かを取り出すと、それを俺の手に握らせた。

「これは……財布?」

「お父さんが持って行きなさいって。これはあんたが持ってて」

「いいけど……なんでだ?」

 琴音の物を買うのだから、そのための資金は琴音が持っていても構わないはずだが、と思ったのだが、すでに目の前には顔をしかめた彼女の姿があった。

「……私がお金出したら、あんたの面子が立たないでしょうが」

 思わずはっとしてしまった。たしかにそこまでは気が回らなかった。常に周りを見て行動する、彼女の優しさが垣間見れたように思えた。

「ありがとな、助かるよ」「……別に」

 また顔を逸らされてしまった。これは絶対照れてるな。素直じゃない奴め。

 そんなやり取りをしながら店内へと進むと、俺たちは店員の代わりにバッグの陳列棚に出迎えられた。専門ブランドなのだから当然だが、右を見ても左を見てもバッグだらけだ。どれも高そうだと思ってしまうのは、貧乏人故の悲しい性か。

「これは……なんかデザインが合わないわね。こっちは……」

 ぼんやりと辺りを見回していると、すでに琴音は品物を物色し始めているようだった。彼女の邪魔にならないように近くからその様子を見守る。

「うーん……デザインは良いけど……普段使いには向かないかも……」

 バッグを見る目が本気そのものだ。骨董品の鑑定でもするような目つきでそれぞれのバッグを見比べている。世の女性もこんな感じでショッピングに励んでいたりするのだろうか。琴音以外の女性と行ったことがないので分からないが。

 物色し始めてしばらく経った頃、煮詰まったと思しき表情で琴音がこちらを振り返った。

「信明、あんたもこっち来て一緒に考えてよ」

 早歩きでこちらに歩み寄り、俺の服の裾を引っ張って棚へ連れて行こうとする琴音。

「ちょ、待てって、俺ができるわけないだろ」

 服とかならまだともかく、バッグを選ぶなんて生まれてこの方一度もやったことがない。できる気が微塵もない。

「いやいやいや、マジで無理だから!」

「いいから黙って付き合いなさいって!」

 抵抗するにもかかわらず、無理にでもと言わんばかりに引っ張られる。服が伸びそうだ。

「まったく、さっき言ったこともう忘れたの?」

「さっき……?」

 さっきというと、ショッピングモールに来てから店に入るまでの間のことか。

「言ったでしょ、自分の選択を信じなさいって。それにあんたの意見も普通に聞いてみたいしね」

 今日二度目の言葉が俺の心を強く打った。目の前の琴音は、自信に溢れた顔でこちらに微笑んでいる。

 そこまで言われてしまったら、もう後には引き下がれない。今は琴音の言葉と自分を信じてみることにした。

「俺なんかで良ければ、よろしく頼むよ」

 そう言って、彼女の隣に並んだ。そして棚の方へと移動し、何か彼女に似合いそうなバッグを探してみる。そこでようやく、彼女は満足げな表情を見せた。

「最初からそれでいいのよ。さ、選ぶわよ」

 琴音も品物を手に取り、再びバッグの品定めを始めるのだった。

「――琴音ってこういうバッグが似合いそうだと思うんだけどな」

「それね……実はさっき目を付けてたんだけど、メインには小さいかもって思って」

 その後も琴音と意見のぶつけ合いを続ける。彼女には彼女なりのこだわりがあるらしく、提示したバッグに対してそれぞれ気になる点を述べていく。

「これはデザインが――うーん、悩むわね……」

 うんうんと唸りながらも、その横顔は確かに楽しそうな表情を浮かべていた。悩んでいる時間が一番楽しい、というやつだろうか。

 そして数十分が経った頃、ようやく琴音お気に入りのバッグを見つけることができた。

「琴音、これなんかどうだ?」

「ん……それ、ちょっとこっちに貸して」

 取り上げたバッグを受け取り、琴音はそれを隅々まで確認する。底を見たり、中に触れて素材を確認してみたり。まさに吟味に吟味を重ねる、という言葉がよく似合っていた。ここまでじっくり確認するということは、彼女の琴線に触れるところがあったということか。

 しばらくバッグを見ていた彼女だが、ふと顔を上げると、にっと笑って親指を立てた。

「……最高じゃない! ダメ出しするところがない、これこそ私の求めていたバッグだわ!」

 琴音は再びそのバッグを見回して、満足げな様子で見つめている。彼女の嬉しそうな顔が見られて、こちらまで嬉しくなってしまう。

「私、これ買うわ! 今すぐレジに行くわよ! 早く!」

「せっかちだな……」

 逸る彼女の背中を追い、俺もレジへと向かう。手筈通りに財布を取り出し、俺が代金を支払う。

「今すぐ背負っていくのか?」

「当然よ。こんな素敵なバッグ、早く使いたくてたまらないもの」

 もともと持っていた荷物を詰め替えると、琴音は戦利品を肩に背負う。なるほどたしかに、そのバッグは彼女の雰囲気に合った物だった。

「よく似合ってるぞ」

「そう? ふふ、信明が選んでくれたんだしね。大切にするわ」

 くるくると回ってバッグを見せびらかす琴音。そんな彼女を連れて、俺たちは店を後にするのだった。

「――悪いわね、長々と付き合わせちゃって」

「気にすんなよ。俺も琴音と買い物ができて楽しかったからさ」

 まっさらな空の下へと戻った二人は、辺りをぶらぶらとしていた。素肌に突き刺さる日射しに空を見上げる。気が付けば、太陽はすでに頭上高くで輝いている頃だった。

「もうこんな時間か……。琴音、腹減ってないか?」

「そうね……少し減ってきたかもしれないわね」

 そんなことを言って、彼女は腹を擦ってジェスチャーをする。

「この辺で良さそうな店見つけたんだよ。そこ行ってみるか」

「ろくでもない店だったら承知しないわよ?」

「ははは、それは勘弁してくれよ」

 冗談を言い合いつつ、あらかじめ目星を付けておいたカフェへと向かうのだった。

 程なくして目的の店へと辿り着いた。店員に案内され、窓際に用意された席に座る。中は冷房が掛かっているが、窓の外から差し込む陽の光で中和され、程よい気温が保たれている。

「へえ、なかなか良い所じゃない。信明、やっぱり良いセンスしてるわ」

「そうか? それはありがたいな」

 とは言いつつも、少しむず痒い気持ちになってきたが。ちょうど良いところに店員がやってきたので、適当にパスタを頼んでそれで話題を誤魔化すことにした。

 それからは食事が運ばれてくるまでの間、何か雑談でも交わして時間を潰すことにした。そんな折、琴音が不意に口を開く。

「あのさ、信明」「うん? どうした?」

 普段より少しだけ落ち着いた声のトーンに気付き、俺は瞳を丸くした。琴音がこういう声を出すのは、たいてい深刻な話をしようとするときだ。

 俺がじっと見守る中、彼女はゆっくり唇を動かす。

「私たちって、今どんな風に見られてると思う?」

「どんな風か……」

 俺と琴音じゃ結構な年の差があるし、やはり兄妹みたいに見えているんじゃないだろうか。こんなに物を言い合うデコボコ兄妹は見たことがないが。

 そんな旨のことを口にすると、琴音の顔色が少し変わったような気がした。

「そ、そう。やっぱり信明はそう思うのね……」

 おろおろと焦る彼女の様子に妙な不審さを覚える。まるで期待していた反応と違って困っているように見えた。

「……なんか別の答えを想定してたのか?」

「は、はあっ!?」

 彼女は飛び上がり、その頬を真っ赤に染めた。さっきから表情がころころ変わって忙しい奴だな。突然のことで動揺しているのか、しどろもどろになりながらも彼女は次の言葉を絞りだそうとしている。

「べべ、別に、もしかしたら親子に見られたかもって、お、思っただけよ! バカ!」

「俺そんなに老けてんのか!?」

 彼女はついと視線を窓の外へ逸らしてしまった。

 俺はまだ成人もしてない若々しい男のはずなんだ……。決して小学四年生の少女と隣に並んで「お父さんとお買い物?」なんて言われるような見た目じゃないはずなんだ……。

 俺の心の叫びは、終ぞ彼女に届くことはなかった。

 昼食を食べ終え、机には食後のコーヒーとひとつのパフェが並んでいた。琴音はその一角にスプーンを刺し、塊をすくい上げて口へと運ぶ。

「ふふ、信明ってば気が利くじゃない。ありがと」

「おうよ……」

 彼女が美味しそうに食べるパフェは、機嫌を直してもらうために俺が頼んだ物だった。あのままへそを曲げられたままではこれからが気まずくなってしまう。なので必要な出費だったのだ、これは。

 しかし、そうは言っても、パフェを前にした彼女が嬉しそうで、ついこちらまで嬉しくなってしまうな。琴音を喜ばせる計画、今のところは順調だ。

 そんなことをぼんやり考えていたせいで、先ほどから俺を呼ぶ琴音の声が耳に入っていなかった。

「――信明! 聞いてる?」

「あっ、ああ、ごめん、聞いてなかった……」

 我に返り、むくれる彼女の顔を見る。

「もう……ま、いいわ。ここのパフェ、本当に美味しいのよ。ほら、信明も食べなさいよ」

 生クリームやら果物やらが乗ったスプーンを突き出して促す琴音。とは言っても、間接キスが気になるので、そこから頂くのは遠慮したいのだが。

「うーん、スプーンないし、店員に頼んで持ってきてもらうか。すみませ――」

 その瞬間、彼女の持っていたスプーンが俺の唇の隙間に突き刺さった。当然驚いて口を開き、中へとパフェが転がり込むのを感じる。

「んぐ……んんっ! 何すんだよ急に!」

「別に呼ばなくたっていいでしょ! 私のスプーン使えばいいじゃないの」

 そう言い放った彼女に再び驚く。そんなこと、いつもの琴音じゃ絶対に言わなさそうな台詞だ。

「で、でもさ、間接キスとか気にならないのか?」

「そっ……それは、そうだけど」

 彼女の性格からして、間接キスを気にするのは俺ではなくむしろ彼女の方だと思っていたのだが。当てが外れてしまったが、なぜか琴音は俯いて語気を弱めた。

「っ……別にいいでしょ、気にするのは私の勝手なんだから! ほら、もう一口あげるわ。口開けなさい」

「そんな無茶苦茶な……」

 傍若無人、とはまさにこのことか。こうなると何を言っても無駄だな。諦めて催促されるままに口を開け、彼女のスプーンを受け入れる。

「んぐ……たしかに美味いな」

「でしょ。この店に来て良かったわ」

 今度は確実にパフェを味わい、率直な感想を述べた。それを聞くと、彼女の表情が明るくなる。そしてその笑顔のまま、とんでもないことを口走った。

「じゃあ信明、私にも同じことやってくれる?」

「……は?」

 聞こえないふりで通そうかと思ったが、ご丁寧に彼女は同じ文言を一字一句違わずに繰り返してきた。どうやらこちらが聞く気になるまでやり続けるらしい。死ぬほどうっとうしい。

「何よ、女の子の頼みが聞けないって言うの?」

「こんなときだけそういうこと言って……ったく、しょうがないな」

 彼女からスプーンを受け取ると、パフェから一塊を取り分けて彼女の前へと差し出す。

「ほら、あーん」

 小鳥に給仕するかのごとくスプーンを突き出すと、琴音はそれを頬張った。何というか、とても恥ずかしいなこれは。やっていることはカフェとかで若いカップルがやっているようなことそのものだし。相手が子どもとはいえ、周りから見られていると思うと、どうしても落ち着かない。

 俺の胸中などつゆ知らず、琴音はパフェを味わっていた。どういうわけか、先ほどよりもさらに嬉しそうな表情になっている。女心――もとい、琴音心はよく分からない。

「ふふ……美味しいわ。ありがとね、信明。もう一回やってくれたっていいのよ?」

「えー、やだよ。結構恥ずかしいし」

 その後も押し切られてパフェを食べさせるたび、彼女はご満悦の様子なのだった。

 無事パフェを完食し、再び町の通りへと繰り出す。太陽は折り返し地点を過ぎ、西の空へ向けて動いているところだった。

「いい天気ねぇ……眠くなってくるわ」

 心底気持ちよさそうな様子で伸びをする琴音。後ろ姿が猫のようだ。そんなことを考えつつ、俺も大きな欠伸をひとつした。本当に天気がいい散歩日和だ。

 そんな調子で気ままに町並みを楽しんでいると、先行していた琴音がぴたりと足を止めた。ぶつかりそうになりながらも、すんでのところで留まる。

「っと……どうした、琴音?」

 彼女はどこか一点をじっと見つめている、つられるようにしてその視線の先を辿ると、そこにはゲームセンターが一軒建っていた。もちろん中は喧噪で溢れており、人が出入りすると扉の隙間から爆音が漏れ出してくる。

 そんな所を見てどうしたのか……まさか。

「……入りたいのか?」

 俺が尋ねると、あろうことか琴音は力強く頷いた。

「私ね、UFOキャッチャーとかゲームとか、いろいろやてみたいの」

「はあっ!? ダメだっての、こういう所はお嬢様が行くような場所じゃないって」

 女の子、それもまだ年端もいかないような少女がゲームセンターなんかを訪れたら、どんな危険な目に遭うか分からない。そうなってしまうととても困る。

 あの手この手で止めようとしたのだが、琴音はつむじを曲げてしまった。

「……信明は、私の言うこと何でも聞いてくれるんじゃなかったの?」

「ぐっ……!」

 琴音との約束を取り付けたとき、俺はたしかにそんなことを言っていた。今更になってそれを持ち出してくるなんて、たちが悪いにも程がある。

「それに、何かあったら信明が守ってくれればいいじゃない! ほら、行くわよ!」

 頭を悩ませているうちに、彼女は俺の手を取って走り出してしまった。もうどうにでもなれだ、行くしかない。覚悟を決めた上で、彼女に合わせて俺も駆け出した。

 自動ドアをくぐると、真っ先に轟音の波が襲いかかってきた。それは「波」と言って差し支えないほどの圧力で、まるで質量を持ったかのように二人の全身に叩きつけられた。

「すごい音ね、信明!」「やっぱ慣れねーな、こういうのは」

 ゲームの音に負けぬよう声を張って会話する。その間にも、彼女は事前の宣言通りUFOキャッチャーのスペースへと向かっていた。無邪気な瞳で筐体を見て回っている。

 その中で、ふと彼女の目が止まった。視線の先ではうさぎのぬいぐるみが鎮座している。

「欲しいのか、それ?」「なっ……あ、あんた……!」

 あまりにも琴音がぬいぐるみを直視し続けるので問うてみると、彼女は露骨に慌てた様子を見せた。

「べべ、別に、欲しいとかそういうわけじゃ……」

「ふーん……?」

 そうは言いつつも、思いきり目が泳ぎまくっている。もはや隠す気もないな。

「もう、あっち行ってなさいよ! こんなの、私ひとりでも十分なんだから」

「へいへい、分かったよ」

 彼女の言葉通りに大人しく身を引き、少し離れた場所からその挑戦を見守ることにした。

 手始めに琴音は千円札を両替し、それを筐体に積み上げて態勢を整える。そもそもUFOキャッチャー自体に慣れていないのか、しきりに操作方法を確認している。そしてようやく一枚目の百円玉が投入された。

 ボタン操作に合わせてアームが動く。照準はぬいぐるみの真上。移動を終えたアームは目標めがけて降下する――が、ぬいぐるみを捉えたのは片方の爪だけだった。

「まあ、一発で行くわけないよな……」

 彼女もさすがに一度で成功できるとは思っていないらしく、顔色ひとつ変えずに次の硬貨をシューターへと突っ込んだ。

 そうして二度目のチャレンジが始まる。これも失敗に終わる。三度目――失敗。六度目――狙いが正確になりつつあるも、やはりこれも失敗する。積まれていた百円玉の山はあっという間に機械の中へと吸い込まれたのだった。

「ぐぬぬぬ……」

 琴音の顔に焦りが見え始めた。だがそれでも彼女は次の千円札を両替機に差し込んだ。戻ってきた彼女の目には、闘志とでも呼ぶべき気合いが宿っていた。これから面白くなりそうだ。

 リベンジマッチ、一本目。真剣な眼差しでガラス越しのぬいぐるみを眺めている。彼女のボタン操作は、最初に百円玉を投入したときよりも格段に精密になっていた。

 縦移動のボタンを放すと同時にアームが降りる。標的――ぬいぐるみの一番掴みやすい位置を狙った完璧な調整だ。琴音の思惑通り、アームの爪はがっちりと目標を捉えた。そのまま上昇し、最高高度へ到達する、その時――。

 アームが力尽きた。昇りきった際の衝撃に耐えきれず、ぬいぐるみを取り落としてしまったのだ。

「…………」

「…………」

 当然行けるものとでも思っていたのだろう、琴音も俺も呆れた顔でその場に立ち尽くすことしかできなかった。わなわなと彼女の腕が震え始める。我慢していたものが噴出せんとするような、そんな様子だった。

「……私を敵に回したこと、後悔させてやるんだからぁっ!」

 気が付いたときには彼女は百円玉をまとめて投入していた。どうやら完全にキレたみたいだ。あんな負け方をした以上、無理もない話だが。

「おい、ほどほどにしとけよ……」

「うるさいわね! あっち行ってて!」

「はい……」

 止めに入ろうとしたが、あえなくはね除けられてしまう。数多の百円玉が消えていく様子を、俺はただ黙って見ていることしかできないのだった。

 そして、三枚目の千円札が両替機に消え、そこから出てきた百円玉が全て筐体に吸い込まれた頃。

「はぁ……はぁ……」

 むきになって頭に血が上ったせいか肩で息をする琴音。そんな彼女の気迫とは裏腹に、進捗は芳しくなかった。

「ぐぬぬぬぬ……なんで取れないのよ……!」

 苦虫を噛み潰したような顔をして、彼女はこちらの方をちらりと見る。目が合ったかと思うと、睨み付けながらずんずんと歩み寄ってくる。この展開は、まさか。

「ちょっとあんたもやってみなさいよ」

 やっぱり。この展開は断り切れないやつだ。溜め息とともに財布を取り出し、硬貨を突っ込む。

 ボタンを操作し、アームをぬいぐるみの上へ移動させる。それは対象をしっかり掴んだのだが、琴音のときと同じように落としてしまう。

「はぁ……やっぱりダメね……」

「できるわけねーっての……」

 俺もUFOキャッチャーは得意な方ではない。子どもの頃、欲しかった景品のために大量に小遣いを突っ込んだのはいい思い出だ。たしか、散々挑んだ挙げ句できないと大泣きしたんだっけ。

 そんな俺がUFOキャッチャーに挑むということは。

「できんのかな、これ……」

 相も変わらず鎮座するぬいぐるみの前で頭を抱え、深く溜め息をつく。これが成功するビジョンが一切見えないのだが、大丈夫だろうか。

「できるできないじゃない、やるのよ!」

「今このシチュエーションで聞きたくなかったなあ」

 とはいえ、琴音の三千円を無駄にするわけにはいかない。腹を括ってやるっきゃないな。気合いを入れよう。

 その後は店員にアドバイスを請うたり、位置の調整をしてもらったりして、何度もぬいぐるみに挑戦する。

 そして十数分が経過した。ガラスの向こうに目を凝らし、慎重にボタンを操作する。すでに自分の身体のごとく操れるようになったアームがぬいぐるみを抱え込み、高度を上げる。そして最高高度まで到達し、衝撃でアームが横揺れする。だが、アームは依然として標的を掴んだままぶら下がっていた。

「……っ!」

 お互いに表情を明るくして顔を見合わせる。二人とも思っていることは同じだ。行けるぞ、これは。

 固唾を呑んでアームの行く末を見守る。それはゆっくりと横移動を始め、多少の振動をぬいぐるみに与えながら取り出し口の上まで戻ってくる。

 そして、自らを拘束していた爪から解き放たれ、自由落下したぬいぐるみは――見事、取り出し口の穴をくぐり抜け、我らの元へとやってきたのだった。

「や……やっ――!」

 信じられない、とでも言いたげな顔で、こちらを覗き込んだ琴音が震えている。俺はゆっくりと頷く。すると、彼女の表情はみるみるうちに明るくなった。

「――や……やったあああ!」

 思わず二人で大声を張り上げ、ガラにもなくハイタッチを交わす。琴音は興奮のあまり泣きそうな顔になっている。しかし、それは俺も同じ事だった。ここまで苦労して、金を積み上げて。その努力の結晶がこのぬいぐるみだと思うと、不思議な感動がこみ上げてくる。

「やるじゃない信明! 見直したわ!」

「ああ、琴音もよく頑張ったな!」

 二人ともこれ以上ないくらいの清々しい笑顔をしていた。嗚呼、UFOキャッチャーとはこれほどまでに人の心を動かすものだったのか。奥が深いな、UFOキャッチャー。

「帰ったら薫子に自慢するわよ! 私たちが頑張って取ったんだってね!」

「ははは、薫子さんどんな顔するだろうな?」

 すっかり盛り上がってしまい、とりとめもないことを話し出す。そんな俺たちを見守るかのように、袋に収まったうさぎのぬいぐるみが笑っているような気がした。

 ゲームセンターを後にして、帰路につくために電車に乗り込む。時間帯が遅いこともあり車内にはそれなりの人数がいたが、それでも俺たち二人が座れる程度のスペースは確保されていた。

 ゆったりと座席に疲れた身体を投げ出す。今日一日、全身をフルパワーで稼働させ続けていたせいか、座り込んだ瞬間に疲労感がどっと噴き出してきた。琴音に至っては、電車が動き出す頃には既に睡魔の誘惑に負けて、こちらにもたれかかって寝息を立てていた。

 つられて出た欠伸を噛み殺しながら、少し考え事にふける。今日は琴音と出会ってから一番……いや、今までの人生で一番楽しかったと言っても過言ではないくらい充実した一日だった。

 今日という日だけで、琴音のいろいろな表情や一面が新たに浮かび上がってきた。もう一ヶ月ほど付き合って彼女の扱いも大分慣れてきたと思ったのに、俺が見たことのない彼女がまだまだ存在するのだと思うと、これからの生活が楽しみになってくる。それは、いつしか来たる明日への活力となっていたのだった。

 他の乗客の邪魔にならぬよう、小さく伸びをする。俺も少し眠くなってきた。電車が揺れるリズムに任せるまま、ゆっくりと目を閉じるのだった。


* * *


「ただいま」「ただいま戻りました」

 空高くあった太陽もすっかり山の端へと姿を消そうかという頃、二人はようやく二階堂家へと帰り着いた。扉を開いた俺たちを、ちょうど夕飯の準備をしていた薫子さんが出迎えてくれる。

「あら、おかえりなさい二人とも。……お嬢さま、今日は楽しかったですか?」

 彼女に尋ねられた琴音は、何も言わず振り返って俺の顔をまじまじと見つめた。その視線の意図が分からず、琴音の顔を見つめ返すことしかできない。だが、程なくして彼女は視線を戻した。

「……うん。とっても楽しかったわ」

 こくりと頷いて、彼女はそう言った。彼女がどんな表情をしていたのかは分からなかったが、それを見た薫子さんは満足げな様子で微笑んでいた。

「それは良かったです。さあ、もうすぐ準備ができますので急いで降りてきてくださいね」

「あ、そっか……分かったわ」

 彼女がそう言い、琴音が物憂げに返して階上へ昇ったところで、俺はある違和感に気が付いた。夕飯を準備するにしてはやたら時間が早くないか? 文哉さんたちの姿も見えないし、これはいったいどういうことなのか。

「……あの、薫子さん。今日、文哉さんと椿さんはどうしたんですか? あと、なんか今日は準備が早くないですか?」

 俺の問いに、彼女はさもありなんといった表情をした。

「今日は会議があって遅くなるらしいんです。お二人がご飯の時間に間に合わないときは、こうしていつも早めに準備しているんです」

「ああ、なるほど……そういうことなんですね」

 それで琴音はさっき少し落ち込んでいた様子だったのか。両親不在の食卓、か。俺の家でも時々あったことだが、嫌に静かな食事風景というのは寂しいものだ。二階堂家には薫子さんがいるとはいえ、それでも琴音がどう思うかなんて容易に想像がつく。

「久しぶりに家を空けられましたし、お嬢さまが落ち込むのも無理はありませんね」

「…………」

 俺が考え込んだのに気が付いてか、彼女は付け加えて言った。

「お嬢さまも理解はされていると思うのですが、それを強いてしまっているのは、心苦しいですね……」

 二人揃って深い溜め息をついた。きっとこれは誰も責められない問題なのだろう。だからこそ質が悪いのだが。

 そこから何も言えずにいると、階上から階段を降りてくる足音が聞こえてきた。

「……二人とも、そこで何してんの? 信明はさっさと着替えなさいよ、ご飯冷めるわよ」

「あ、ああ。ごめん、すぐ着替えてくるよ」

 部屋着姿の琴音に急かされ、薫子さんに軽く頭を下げる。そのまま入れ違いになるように階段を駆け上がった。


 夕飯を食べ終えて自室でぼんやりと携帯を眺める。今日のノートは付け終わったし、暇を持て余したまま時間ばかりが刻々と過ぎていく。時刻はすでに十一時前。やることがないなら寝た方がマシかもしれない。

 そんなことを思っていたとき、部屋の扉を叩く音が聞こえた。

「……信明?」

 どうやら向こうにいるのは琴音らしい。適当な返事をして扉を開ける。彼女は寝間着に着替えており、もういつでも寝られる状態になっていた。そんな彼女が何の用だろうか。それを訊く前に、彼女の方から用件を伝えてきた。

「……あのさ、私が寝るまで一緒にいてほしいんだけど」

「え……?」

 何言ってるんだこいつ。唐突な発言に思わず問い返すと、彼女は顔を赤くしてそっぽを向いた。

「……何度も言わせないでよ。……一緒に寝てほしいの」

 俺の聞き間違いかと思ったのだが、どう考えても彼女の言葉は先ほどと全く同じなのだった。

「待て、ちょっと待てよ。なんで急にそんなこと言うんだ?」

「……何よ、契約相手の話が聞けないって言うの?」

「そ、それは……」

 不服そうな琴音の目に見据えられて思わずたじろぐ。というか、俺の契約相手は琴音じゃなくて文哉さんなんだけどな。

「ったくもう、分かったよ……。ほら、さっさと行くぞ」

 早々に根負けして白旗を揚げた。今日は両親もいないし寂しがっているだろうから、たまには甘やかすのもいいだろう。

 琴音に連れられて、常夜灯の点いた部屋までやってくると、俺は椅子を手繰り寄せてベッドの近くに座った。

「……そういえば、さっきの話だけど」

 一方布団に潜り込んだ彼女は、顔を背けてぽつりと呟いた。さっきの話、とは何を指しているのか。

「別に私は……そんな気遣い求めてないから」

「……聞いてたのか」

 思い当たる節といえば、夕飯の前に薫子さんと話していたことくらいだ。その予想は当たっていたらしく、彼女は小さく頷く。

「私は寂しくなんてないもの。別に気遣いなんてされなくたって平気よ」

「琴音……」

 中身のない虚勢、ただの強がりだ。そんなことくらい、俺がいくら鈍くたって分かる。普段から大人ぶって周りを遠ざけようとしているんだ。そして、それが本心でないことだって分かる。あの時裏庭で見せてくれた顔だってそうだ。こいつはいつも周りを遠ざけた中心で、孤独に唇を噛んでいる。

「こうやって一緒に寝てほしいって甘えてきた奴は、いったいどこのどいつなんだ?」

「……うるさいわね」

 つっけんどんな答えが返ってきた。素直に認めればいいものを、相変わらず天邪鬼な奴だ。

 それでも、彼女は小さく呟いた。

「……小さい頃は、こういうの、してもらえなかったから……付き合ってくれて、ありがと」

 きっと、その心は徐々に氷解しつつある。今まで見せていた冷たい殻は破れ、薫子さんや弥生が知っている、優しくて真面目な彼女の本質が見え始めている。そう感じていた。彼女は少しずつ変わっているんだ。

「どういたしまして」

 こちらを向いた彼女の顔には、温かな微笑みが確かに浮かんでいた。

「……さ、もう遅いし寝ようぜ。おやすみ」

「うん。おやすみ、信明」

 そう言って琴音は目を閉じる。程なくして穏やかな寝息が聞こえてきた。

 もう一度だけおやすみと告げると、常夜灯のスイッチを落とした。

 明日も彼女にとって、良き一日でありますように。少しだけそんなことを考えて、彼女の部屋を後にした。さあ、俺も寝るとしようか。


更新サボってないです。うん。


というわけで物語も折り返し地点に突入しております。よろしくお願いします。

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