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第三章 リトルレディズ・メランコリー

 二階堂家にいつもの朝がやってくる。七時には目覚め、優雅な朝食を頂き、外行きの服に着替えて琴音を小学校へと送る。最初の頃は慌ただしかったこのルーチンも、一週間以上してしまえばもう慣れたものだ。

「信明さん、コーヒー入りましたよ」

「あ、ありがとうございます。今行きます」

 薫子さんからコーヒーを受け取り、軽くあおる。朝のコーヒーはやっぱり目が冴えるな。

 しかし、ここに来てからというものの、生活スタイルがやたら健康的になったような気がする。ひとり暮らしの時は夜更かし上等の自堕落生活だったからな。給料ももらえるし、いいことずくめなんじゃないか?

 そんなことを考えているうちに、寝ぼけたままの琴音が姿を見せる。前からそうだったが、朝が弱いんだな、こいつは。

「おはよう琴音。朝ご飯ができているよ、早く準備しなさい」

「はぁーい……」

 文哉さんの言葉に、琴音は気の抜けた返事をした。いつもの針山みたいな態度が嘘みたいだ。

 琴音が朝食を食べ終わるのを待ち、それに合わせて俺も席を立つ。

「それじゃ、俺はそろそろ」

「いってらっしゃい信明くん。気をつけてね」

 玄関でスニーカーに足を収め、つま先で軽く地面を鳴らす。時刻は八時前。十分大学にも間に合うな。

「琴音、準備できたか?」

「できたわよ。ほら、さっさと行くわよ」

 振り返ると、そこには制服に着替えてすっかり準備万端という装いの琴音。寝ぼけ眼はどこへやら、いつも通りのわがままスタイルが復活している。

「さっきまで寝ぼけてたくせに」

「うるさいわね!」

 薫子さんに見送られ、他愛もない会話を繰り返しつつ車に乗り込む。なんというか、家庭教師の身ながら俺も家族の一員になった気分だな。

 山道を降りる最中、前々から気になっていたことを琴音に訊いてみることにした。

「そういえばさ、琴音と弥生って学校じゃどんな感じなんだ?」

 何かと敬遠されがちな琴音。そんな彼女のことを弥生は少なくとも理解しているようだった。ならば、二人はどんな関係なんだろうか、というのは気になるところだった。

「なんであんたがそんなこと気にすんのよ」

 口を尖らせる琴音の姿がバックミラーに映る。そうはしつつも、彼女は遠くを見つめながら話してくれた。

「弥生は……そうね、いつも私の後ろについてくるわ。うざったらしいことこの上ないけど、なんか邪険にはできないのよね……」

 琴音は大きな溜め息をついた。その様子があまりにもわざとらしくて、思わず噴き出してしまう。

「何よ、今の話がそんなに面白かったわけ?」

「いやっ……何だかんだ言って、弥生のこと気に入ってるんだなって思ってさ……ぷぷっ」

「はあっ!? そそ、そんなわけないじゃない!」

 ちょっとからかったつもりだったのだが、案外怒らせてしまったようだ。その怒った顔も、意外と満更でもなさそうなのが面白いところだが。

「はいはい、ごめんごめんって」

「もうっ、謝る気ゼロじゃない!」

 ともかく、何とか学校でも上手くやれていそうで安心した。琴音がひとりぼっちのところなんて、あまり想像したくないしな。

 それにしても、琴音の後ろをついて歩く弥生か……絵面が面白そうだ。一度見てみたいな。

「あ、また笑ったでしょ!」「笑ってねーよ! ったく、いい加減にしてくれよな」

 琴音と言い合うのも、もう見慣れたいつもの光景だ。そんなことを繰り返しながら、車は学校へと走るのだった。



 その日の夕方。また二階堂家を訪れた弥生を交えつつ、勉強会を開始する。

「ノブアキ、ここ分からない」「はいよ、ちょっと待ってな」

 前回の反省点を基にして、今回はなるべく二人を均等に見ることにしたい。前の琴音、どう見ても若干拗ねてたしな。もう二度と同じ轍は踏まない……と信じたい。

「琴音、何か分からないところとかないか?」

「そんなのないわよ……あ、いや」

 教えようと琴音の方へ近寄ると、彼女はわずかに考える素振りを見せた後、プリントの上の一部分を指さした。

「ここ……教えて」「おう。任せろ」

 理科の問題か。これくらいなら少しヒントを与えれば解けるはずだ。一週間付き合って分かったことだが、琴音は頑固だが地頭は悪くないらしい。それとなく示唆するとスラスラと解けるみたいだ。

「電池ってさ、たしかプラスとマイナスを逆にすると電流が逆になるんじゃなかったっけか?」

「そういえば……あ、ってことは……」

 閃いた様子だ。なかなかいい調子だな。

「……ありがと。助かったわ」

「お、おう……」

 あ、笑った。弥生の影響か、最近は琴音に笑顔が増えた気がする。普段むすっとした表情をしているせいか、笑うと結構可愛らしく見えるんだよな。できればそのままでいてほしいが。

「早く来てー、ノブアキー」

「はいはい、今行くっての。……じゃあな」

「あっ……うん」

 琴音に別れを告げて、弥生の方へと身を動かす。彼女のオーダーは歴史の問題らしい。若干自信がないが、まあ大丈夫だろう。多分。

 弥生は琴音とは対照的に、一から詳しく教えていくのが合っているらしい。何でも素直に聞いてくれるおかげで、こちらとしても熱が入る。

「歴史は丸覚えするよりも、人の動きを把握すると覚えやすいかもしれんな。例えばここでこの戦いがあったからこの武将が動いた……みたいな」

「なるほどー……」

 俺の言うことに対していちいち頷く弥生。赤べこみたいでちょっと面白い。

「……ちょっと弥生には分かりにくかったか? ごめんな、あんまり上手く教えられなくて」

「ううん、ノブアキの教え方、分かりやすくて好き」

 本当に素直でいい子だな。こういうところも琴音とは対照的だ。良い意味で親の顔が見てみたいよ。

「よし、次の問題も行くか」「ん」

 そんなこんなで弥生の宿題は順調に進んでいく。この調子ならすぐにでも終わってしまいそうだ。

 そして十数分後。琴音と問題を考えているところに、弥生が駆け寄ってくる。

「終わったよ、ノブアキ」

「おっ、やるじゃん。弥生は優秀だな」

 答えが全て埋まったプリントを見せびらかして褒めてほしそうにするので、思わず俺も彼女の髪を撫でて褒めちぎる。教え子のこういう表情を見ると、こっちまで嬉しくなってしまう。

「えへ……ね、ノブアキ、折り紙しよ?」

 そう言うと、彼女はカバンから折り紙の袋を取り出しつつ、俺のすぐ隣に着座した。

「え、ちょっ……弥生?」

「弥生ね、折り紙、得意なの。待ってて」

 ダメだ、全然話を聞いていない。そのままいそいそと折り紙を折り始める弥生。微笑ましい光景ではあるのだが、この場から全く動けなくなってしまった。

 仕方がないので、彼女を見守ることにした。幸い琴音に教えろとも言われないし、しばらく弥生の相手をしよう。

 だが、その判断が既に間違いなのだった。

「ノブアキ、ほら。バラだよ」

「ほー、よくできてるな」

 弥生から手渡されたバラの折り紙は、たしかに綺麗に折れていた。手先が器用なんだな。

「ノブアキにあげる。部屋、飾って」「おう。ありがたく受け取っとくよ」

 礼を言うと、弥生はますます嬉しそうにした。そして、「もっと作る」と意気込んで続きを作り始めるのだった。 そんな彼女により、座卓の上にはあっという間に色とりどりの折り紙の花が並んだ。作りすぎたせいで若干琴音のスペースを浸食しつつある。

「弥生は何でもできるんだな」

「うん。弥生、頑張ってる」

 偉いな、と再び髪を梳こうとしたその時、視界の端から尋常でないオーラを感じ取って手を引っ込めた。

 これはまずい。非常にまずい。取って食うとでも言わんばかりの負の感情が溢れ出している。

 おそるおそる、そのオーラの発信源を視界に入れる。それは、明らかな不快感を表に示した琴音だった。その迫力たるや、獲物を前にした蛇と言っても差し支えない。

 そこでようやく、忘却の彼方にあった前回の反省点を思い出す。二人のバランスを忘れていた……!

「あー……琴音さん? これはいろいろと理由があってだな……別に忘れてるとかそういうわけでは……」

 説得を試みるも、俯いたまま彼女は何も言わない。聞いているのか聞いていないのか分からず、それが逆に恐怖を煽る。

 彼女の握り拳に力が入り、怒りの程を感じさせた。風船が膨らみ続けるように、琴音の怒りも腹の中で煮えたぎり、増幅しているのだろう。

「――そんなに……」「……琴音?」

 そして、それは限界点を突破した。

「そんなに弥生の方が好きなら、ずっと弥生と遊んでればいいじゃない! 信明のバカぁ!」

 涙声でそう叫ぶと、琴音は弾かれたように立ち上がって部屋を飛び出してしまった。

「……………………」

「……………………」

 鬼のような剣幕に押され、部屋に取り残された二人の間に静寂が通る。その様子は虚無と言うべき他なかった。そして顔を見合わせ、事の重大さを理解する。

「……ノブアキ、ごめん……」

「いや、弥生が謝る必要はねえよ……俺が、もっとちゃんとしっかりしてれば……」

 傷ついた表情をする弥生を宥める。元はと言えば、俺がバランスを取って見られなかったのが原因だ。わがままな琴音のことだ、あれだけ放置されたらへそを曲げて当然だったんだが。

 自責やら後悔やら情けなさやらを全部詰めて、大きな溜め息がひとつ漏れる。琴音は今どんな表情をしているのだろうか。泣いてなければいいけれど。

 ふと、脳裏に彼女の泣き顔が浮かび上がった。その映像はやけに現実味を持ち、俺の心をきつく締め上げた。息苦しさを覚えるほどに胸が痛む。その苦痛を堪え、今はただ彼女のことを考える。

「……くよくよしててもしょうがねえな」

 泣かせてしまったのなら、その涙は自分で拭きに行くべきだ。頬をぴしゃりと叩き、ゆっくりと立ち上がる。

「……よし。探しに行くぞ、弥生」「うん」

 合図とともに弥生も立ち上がる。琴音を探しに行くため、二人は琴音の部屋を後にするのだった。



 弥生と手分けして、琴音を求め家中を探し回る。俺の部屋、夫妻の部屋、書斎、その他いろいろ。どこを探しても琴音の姿は微塵も見当たらなかった。

「琴音ー、琴音ー!」

 念のために外も見て回ることにしたが、それでもやはり見当たらない。広すぎる庭を隅から隅まで探しても同じ事だ。どこへ行ったのやら……。

「あ、ノブアキ。見つかった?」

 近づいてきた弥生に対して首を横に振る。しょげた顔をしたあたり、あちら側も状況は芳しくないようだ。

「まさか、外に出たとかいうことはないよな……?」

「それは……困る……」

 そうなるともう手の打ちようがなくなる。そんなことはないとは信じたいのだが、否定もできないのが歯がゆい。日が暮れれば危ないし、不安は募るばかりだ。

「とにかく、一旦中に戻って作戦を考えるか」

 ひとまずは落ち着かねばならない。焦っていては思考能力をいたずらに消費するだけだ。

 重い足取りでリビングまで出てくると、ちょうどそこには薫子さんの姿があった。

「あら、信明さんに弥生さん。どうしたんですか、人生どん詰まりみたいな顔して」

 いったいどんな顔なんだ……。いやまあ、いろいろな意味でどん詰まりなのは間違いないのだが。

「えーと、実は……」

 ともかく、事の経緯を薫子さんに語る。

「――お嬢さまが出て行ってしまった、ですか……」

「はい……すみません。俺がもっとしっかりしてれば……」

 我ながら情けない限りだ。話しながら、思わず頭を垂れる。

「気に病むことはありませんよ。お嬢さまは今とても不安定な状態ですから。思春期、というやつですね」

「はあ……」

 思春期は十二歳頃から始まる、と講義で聞いたことがある。琴音は今十歳だから、少し早くはないだろうか。そんな俺の疑問を汲んだように、薫子さんは言葉を続ける。

「知っての通り、文哉さまも椿さまもお互い重役で忙しい方です。最近は帰ってくることが多くなりましたが、昔は家を空けて帰ってこないこともあって」

 なるほど、そういうことか。合点が行った俺の隣で、弥生は首を傾げている。そんな彼女のために、薫子さんはさらに語る。

「両親と触れ合う機会が少ないということは、必然的に大人びていくわけです。……ただ、無理に振る舞っているだけで、中身はまた別の話なんです」

「あ……そっか……」

 そこまで来て、弥生もようやく理解した様子だった。

「無理を言うのは承知ですが、どうかわがままに付き合ってあげてください」

 そう言って、薫子さんは頭を下げた。弥生がこちらを見るので、同様にして顔を見合わせる。言葉はなくとも、お互いの言いたいことは分かっていた。

「俺たちにできることなら、いくらでも」

 そう返すと、薫子さんはその表情を明るくさせた。

「本当ですか、助かります――あ、それで、お嬢さまの場所でしたね」

 彼女は首を捻り、一瞬の間考え込む。そしてすぐに結論を出した。

「そうですね。もしかすると、『裏庭』にいるかもしれないですね」

「裏庭……そんなのあったんですか?」

 今の今まで一度も聞いたことがなかったけれど。疑問の表情を見せる。

「庭に倉庫があるのは知ってますよね。そこから奥の方に進むと、少し広まった場所に出るんです。そこのことをお嬢さまは『裏庭』と呼んでいました」

 たしか、前に庭掃除をしたときに小道を見つけていたはずだ。きっとあれの事を指しているのだろう。

「ありがとうございます。弥生、行こうか」

「二人とも、お嬢さまをよろしくお願いしますね」

 再び琴音の表情を思い浮かべる。背伸びして気丈に振る舞っても、中身は未熟で甘えん坊。きっと俺は、琴音のことを誤解していたのかもしれない。

 早く迎えに行こう。薫子さんに感謝の言葉を告げ、裏庭へと出発した。


 玄関を出て右手、ぽつりと鎮座する倉庫の周りに奥へと続く道はある。前回は用がなかったが、今回はそういうわけにも行かない。

 薫子さんの言葉が確実なら、ここに琴音がいるはずだ。一呼吸置いて気持ちを整え、ゆっくりと雑草の生えた小道に足を踏み入れた。

 奥へ奥へと進んでいくと、やがて開けた場所へと出た。ここが『裏庭』で間違いない。

 当の琴音はというと、探す間もなく俺たちの目の前で立ち尽くしていた。

「なっ……なんで、あんたたちが、ここを……」

「薫子さんから聞いたんだ。ここにいるかもって」

 俺がそう言うと、琴音は露骨に不快な表情を浮かべた。薫子さん、後で怒られたりしないだろうか。ちょっと心配だな。

「どこまでも追いかけてきて……ほんと何なの、あんたたち! ほっといてよ!」

 不満を口にする琴音だったが、その表情に覇気がないのは見るからに明らかだった。目元が赤くなっているのを見るに、さっきまで泣いていたようだ。

「んなこと言ったってほっとけねえよ。琴音に謝りたいんだ、俺は」

「えっ……?」

 彼女の瞳が丸くなり、驚きの色を見せる。そこですかさず次の言葉を繰り出した。

「俺は琴音の気持ちなんて全然考えてなかったし、知ろうともしなかった。でも、薫子さんの話を聞いて気がついたんだ。琴音はずっと寂しがってたんだって」

 自分の内から出た言葉なのに、もはやその意味を確かめることなく発語する。心の奥から湧いてくる言葉をそのまま組み立てて、説得しようと試みる。

「……ごめん。まっすぐ向き合うべきだった」

 そう言って、深く頭を下げた。誰も何も言わず、静寂が裏庭の中に立ちこめる。視線を琴音の方に戻すと、彼女は呆然とした表情で立ち尽くしていた。

「っ……」

 やがてその顔が歪んだかと思うと、頬に一筋の涙が通り、雫となって零れ落ちた。

「だったらっ……もっと構いなさいよ……! バカぁ……!」

 泣きじゃくりながらぼろぼろと感情を漏らす琴音。本来なら慰めの言葉のひとつでもかけてやるべきなのだが、こんな時に限って何も言葉が見つからない。結果としてただ立ち尽くすだけだった。

「弥生ばっかり構って……ぐすっ、ひっく……!」

 何か、何か言ってやらないと。思考をひたすらに回すも、彼女の心にちょうどあてがえる単語はない。それどころか却って混乱する始末だ。

 その時、考え込む俺の背中を強い力が押した。不意を突かれてふらつき、琴音の眼前に足をつく。

 そんなことをする犯人――弥生の方を振り返る。彼女は何も言わない。だが、その目は何かを訴えるようにこちらを見据えていた。

 ――深くは考えるな。行け。

 きっと彼女はそうとでも言いたいのだろう。そんな目をするのなら、やらねばなるまい。覚悟を決めろ、俺。

「…………」

 ひとつ息を吸うと、腕を伸ばし、俺はその華奢な体躯を優しく包み込んだ。突然の事態に、腕の中で琴音は身体を強張らせる。

「ちょっ、なっ、何してんのよ……!」

 彼女はじたばたと腕から逃れようとするが、それには構わずただ抱擁を続ける。琴音が安心できるように、胸の内より溢れ出す精一杯の優しい言葉を投げかける。

「……ごめんな、寂しい思いさせたな……」

 やがて、彼女は抵抗することを止めた。俯きがちになり、その身を小さく震わせている。それが涙を堪えている動作だということに気付くのには、それほど時間は掛からなかった。

「えぐっ、ぐすっ、バカっ、バカぁ……」

 琴音の細腕が背中に回され、絶対に離すまいと俺よりも強い力でかじり付く。そんな彼女の心を解きほぐすように、ゆっくりと背中を撫でさする。

 やがて、彼女の動きが落ち着いた。たくさん泣いて疲れたのだろうか、どことなくぼんやりしているようにも見える。

 そして彼女は、泣き腫らして赤くなった目をこちらに向ける。涙で潤んだ瞳が俺の心を打った。

「ありがとう。私のこと、追いかけて来てくれて」

「……どういたしまして」

 俺にだけ聞こえるように囁いた言葉は、確かに彼女の本心を孕んでいた。少しだけ素直になった琴音は、台風一過の青空のような清々しい表情をしていた。

「――ノブアキ、終わった?」

「わわ、や、弥生っ!?」

 抱きしめ合う俺たちの背中に弥生の声が飛ぶ。慌てた琴音は腕を振り解き、一瞬にしてそっぽを向いてしまった。

「あう、あ、ずっと見られてた……」

「コトネ、照れてる。かわいい」

「可愛くないし……! バカ! 見ないで!」

 恥も外聞も捨てて泣いていたのがよほど恥ずかしかったのか、彼女は耳まで真っ赤にして怒っているのだった。

 悶々とする琴音はそっとしておいて、その間に弥生の方へと近づく。

「さっきはありがとな。助かったよ」

「……別に。ノブアキ、優柔不断そうだから。コトネのこと、元気にしてあげられないって、思っただけ」

「手厳しいなオイ……」

 そりゃあ、優柔不断なのは間違いないが。ここまでなし崩しでやってきたみたいなところは少なからずあるし。

「ほら、そろそろ行こ。もう帰る時間」

「あ、もうそうか。琴音ー、うじうじしてんなよ」

 腕時計の針はしっかり午後六時前を指していた。早く弥生を送り返してやらないと。顔を覆って駄々をこねる琴音を宥め、部屋へと戻るのだった。



「弥生、準備できたか?」「ん。もう行けるよ」

 準備を整え、弥生を車へと乗せる。すると不意に、彼女の裾を同行していた琴音が引っ張った。

 引き留められる形になった弥生が琴音の方を振り返ると、彼女は何か言いづらそうに口をもごもごとさせていた。

「ん……どしたの、コトネ?」

「えっと、あのさ……っ」

 当然弥生は怪訝な顔をするが、それでも琴音は自信なさげに言葉を濁すばかりだ。仕方がないので、彼女が意を決するまで待ち続けることにする。

 やがて、ようやく踏ん切りが付いたのか、彼女はその唇を震わせながら動かした。

「えっと……っ! さっきは、ひどいこと言って、ごめん……!」

「…………」

 俺も弥生も、ぽかんとして琴音の顔を覗き込んだ。いつになくしおらしい様子の彼女に驚き、言うべきことを見失ってしまったのだった。

「な、何よ、人が謝ってるのに、その態度は……」

 想定していた反応と違ったせいか、琴音はやや困惑しているようだ。

「あ……ちょっと意外、だっただけ」

 弥生は軽く微笑むと、琴音の前へと歩み寄った。そして、その髪に優しく手を乗せる。

「大丈夫、気にしてない」

 彼女の言葉を聞くと、琴音の表情はすぐに晴れやかになった。だが、弥生は嬉しそうな琴音の耳元に近寄り、何かを囁いた。

「…………っ」

 その瞬間、琴音の顔が一瞬だけ凍り付いた。すぐに顔を真っ赤にして、弥生に対して何やら反論している。距離が遠く、ここからでは何を言っているのか聞こえない。

 もう時間が遅くなりそうだ。弥生の背に言葉を投げる。

「何話してんのか知らねーけど、そろそろ帰らないと時間まずいぞ」

「あ、うん……行こっか。じゃ、コトネ、また明日ね」

「そ、そうね……また明日」

 ぎこちない琴音の反応に違和感を覚える。だが、今は気にせずに車に乗り込むことにしたのだった。

 そのままエンジンを始動させ、車は琴音を家に残し発進する。走る途中、ふと先ほどの弥生の言葉を思い出した。

「なあ弥生、さっき琴音に何言ってたんだ?」

 バックミラー越しに弥生がこちらを見る。そして、不敵に笑って言った。

「……ひみつ」

「何だよそれ、余計気になるじゃねーか」

 彼女の不敵な笑みは、すぐにいたずらっぽい笑みに変わった。こいつ、人をからかってるな……。

「……でも、本当に琴音のことを考えてんだな、弥生は」

「うん……大切な友達、だからね」

 静かな車内に、弥生がぽつりとそう述べる。その言葉は驚く程真剣で、切実な物だった。琴音も良い友達を持ったもんだな。

 多分弥生は、俺なんかよりずっと琴音のことを理解している。そう思って、彼女にひとつ問いかけてみることにした。

「弥生から見た琴音ってさ、どんな感じなんだ?」

 良き親友として琴音の一番近くにいる彼女なら、何か琴音との付き合いに関するヒントがもらえるかもしれない。

 彼女は困った風に首を傾げていたが、やがておもむろに口を開いた。

「うーん……口悪いし、あと、意地っ張り……」

「やっぱ弥生から見てもそんな感じなのか……」

 一番の理解者の口からもそういう発言が飛び出るとは、琴音の性格は筋金入りだな。つん、と冷たい表情をした琴音の顔が脳裏に浮かび上がる。

 これからどうやって向き合っていくべきか、などと考えていると、弥生は「でもね」と続けた。それでまた彼女の方へと耳を傾ける。

「いつもは、周りのこと、ちゃんと見てる。空気も読めるし、お話はちゃんとできる。ほんとは、真面目で優しい子なの」

 それを語るときの彼女の顔は、先ほどまでの笑みとは違う、純粋で穏やかな笑みを湛えていた。

「あんなに甘えん坊、なのは……きっと、お家だから」

「家だから、ね……」

 それはおそらく、琴音が俺のことをわがままを言える相手として認識しているということで。そう思うと、少しだけ心に火が灯るような気がした。我知らずハンドルを握る手に力が入る。

「ありがとな、弥生。いろいろ教えてくれて」

「ん……いいよ、別に。家庭教師、がんばれ」

「おう。誠心誠意頑張らせてもらうよ」

 そうだ。俺は二階堂琴音の家庭教師だ。その役目を果たすべく、これからも頑張っていかないとな。

 夕日の空の下、決意を乗せて車は走り続ける。



 その日の晩。琴音との個別講習と夕食を終えた俺は、いつものように机に向かって今日の出来事を記していた。

「……なんか、今日は情報量の多い一日だったな」

 朝起きて、送り迎えして、勉強して、それで琴音が飛び出して、薫子さんに話を聞いて、琴音がめちゃくちゃ甘えてきて、それでその後弥生から話を聞いて。

 長い。一日を振り返るだけで、思わず溜め息が漏れてしまう。我ながらよくあんなに動けたものだ。これがひとり暮らしだったら、あれほどの活力なんてどうやっても湧いてくるわけがない。おかげでもうクタクタだ。今日はよく眠れるかもしれない。

 だが、それが心地よい、心底楽しいと感じている自分もいた。琴音や弥生、二階堂家の面々と描く一日という絵巻は、この世のどんな芸術品だって比肩できない程の価値を持つ、最高の宝物になりつつあった。

「らしくねーな、こういうのは……」

 そこまで考えて、思考を振り払うように首を横に振った。この胸の内にある気持ちは真実でも、あまりロマンチックなのは俺には向いていないからな。

 そっと手帳を閉じると、何者かが扉を三回ノックした。

「……信明? まだ起きてる?」「起きてるよ」

 噂をすれば影が差すとはこのことか。扉越しから琴音の声が聞こえる。ドアノブが回ると、扉の隙間からおずおずと彼女が姿を見せた。

「どうした?」

 部屋の中へと入ってきた琴音だったが、突っ立ったままもじもじとして動かない。またか、と思った矢先、彼女はばっと頭を下げた。

「そのっ……今日は、ほんとにごめん!」

 ゆっくり顔を上げた琴音は、今にも泣きそうな顔をしていた。このままだと本当に泣いてしまいそうなんじゃないかと思い、慌てて宥める。

「と、とりあえず座れって。ほら、こっち」

 彼女をベッドに誘導し、俺も距離を開けて隣に座る。

「別にお前がそんなに謝る必要ないよ。俺の方にも問題があるからさ」

 弥生に構い過ぎたのは明らかに俺のミスだ。バランスを取らねばと誓ったものの、それはなかなか難しいことに気が付いてしまった。それがとても心苦しいし、琴音は感情が露骨に表に出るタイプだから、余計に見ていて怖い。

「でもっ……信明と弥生に、迷惑掛けたし……」

「琴音……」

 俯きがちになる琴音。こういうところだけ真面目な奴め。とはいえ、今日の一件で少しだけ素直になろうと思ったのかもしれない。

 ここは、俺から何か提案してみるべきか。

「じゃ、じゃあさ、何かしたいこととか欲しいものとかないか? それでおあいこってことでさ」

「したいこと……?」

 琴音は目を丸くしてこちらを覗く。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろうか、うろたえた様子で沈黙する。

「……何でもいいの?」

「あ、ああ、俺にできる範囲でな……」

 すっかり忘れていたが、相手は大企業の社長令嬢だった。いったいどんな要求が飛び出すことやら――。

「――じゃあ、遊んでよ」

 えっ?

 琴音からは出てきそうもない発言に、一瞬だけ俺は自分の耳を疑った。

「ごめん、今なんて言った?」

「だから、一緒に遊んでって言ってんのよ。聞こえなかったの? 信明ってバカなの?」

「バカは余計だバカは」

 流石に言い過ぎではなかろうか。少ししおらしくなったと思ったらすぐこの調子だ。まあ、それは琴音がいつも通りであるという紛れもない証拠なのだが。

「聞こえてはいたけどさ……琴音のことだし、もっといろいろ言われるのかと思ったよ」

 俺の言葉に琴音は露骨な顔でむっとする。そんな顔をされても、普段の身の振り方から簡単に想像できると思うんだけどな。彼女はお気に召さないらしい。

「それで、どうやって遊ぶんだ?」

「えっと、それなんだけど……信明が決めてほしいの」

 再び固まる。今度はバカにされないために、何か返答を考えて問いかける。

「……正気か?」

「何言ってんの、正気に決まってるじゃない」

 本気なのか、こいつは。女性経験の数なんて片手で足りるくらいの俺が考えつく場所なんて、当たり障りのない所かセンスの欠片もない場所くらいしかない。

 対する琴音は「期待してるわよ」とでも言いたげな視線をこちらに向けている。無知の目が痛い。こんなしがない大学生の端くれに何を求めているというのか。

「……どうしても俺じゃなきゃダメか?」

 琴音は大きく頷いた。これは退っ引きならない状況、というやつだな。受けるより他ない、覚悟を決めろ!

「しょうがないな、じゃあ俺が決めるよ」

 動揺すればまた琴音にからかわれる。なるべく平静を装って、余裕の表情で受け答えした。

「それじゃ、よろしくね。楽しみにしてるわ」

 くすりと笑うと、彼女は颯爽と部屋を出て行ってしまった。扉が閉じられ、言葉を失ったまま部屋にひとり取り残される俺。

 これはかなりまずいことを引き受けてしまったのでは。どうしよう、先が思いやられる。

 深く溜め息をつきながら、携帯で場所を調べ始めるのだった。これから忙しくなりそうだ。


一週間おきに更新すると言ったな。あれは嘘だ(レ○プ目)

死に体なので初投稿です。次の更新も頑張ります…

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