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第二章 わがままお嬢さまと黒髪お嬢さま


 カーテンの隙間から陽の光が零れる朝。目覚ましの鳴る音が俺の耳をくすぐる。いつもの朝の一幕を彩ってくれる、よく聞き慣れた音だ。布団から腕だけを伸ばし、枕元に置いてあるそれのボタンを叩く。月曜日は授業がないから、もう少しだけ寝られるはず。大きく欠伸を漏らすと、再び穏やかな眠りに――。

「信明ぃっ! いつまで寝てるつもりよ!」

 ――つくつもりが、扉を蹴破るようにして入ってきた琴音によってそれは妨害された。

「……ああ、琴音。おはよう」

「おはようじゃないわよ! 何時だと思ってんの!? 私のこと送り迎えしてくれえるんでしょ!?」

 今は何時……七時だ。送り迎え……そういえばそんなことも言われて――――あ。

「ごめんマジで忘れてた! 今から準備するからちょっと待て!」

 よく見たら琴音は制服姿でもう準備万端じゃないか。俺はそんな琴音を放ったらかしにして惰眠を貪っていたらしい。これは大罪だ。

 急いで着替えて車に乗り込み、あらかじめ教えられていた場所――琴音の通う小学校まで車を飛ばす。

「まったく、昨日あんなこと言ったばっかりなのに……しっかりしなさいよね」

「面目ない……」

 ぐうの音も出なかった。俺が悪いのは火を見るより明らかだった。

 ともかく、無事に定刻までに琴音を送り届けることに成功し、二階堂家へと帰還したのだった。

「はぁ……」

 そして自室のベッドに座り込み、大きく溜め息をついた。仕事を開始して早々これでは情けなさ過ぎる。琴音にでかい口を叩いた手前というのもあるし、信用してくれている文哉さんに申し訳ないというのもある。

 じっとしていると次々に良くない想像が浮かんできてしまう。ダメだ、このままじゃ自責の念に潰されて死にそうになる。とにかく何か身体を動かそうと、リビングまで降りていった。

「あら信明さん、おはようございます。今朝は大変でしたね」

「薫子さん……そんな他人事みたいに……」

 リビングに出ると、薫子さんが部屋の掃除をしているところだった。ちょうどいい、何か仕事をもらうか。

「何か手伝えることありませんか? 今手持ち無沙汰で」

「いいんですか? 家事掃除はしなくてもお給料は出るはずですけれど」

「俺が金の亡者みたいな言い方はやめてください」

 琴音といい薫子さんといい、この家の住人は俺のことをどういう目で見てるんだ……。まあ、日給二万五千円なんて破格の給料がついてるのは紛れもない事実だが。そして、それに釣られてこんなことを引き受けてしまったのも紛れもない事実だが。

「それじゃあ、お庭のお掃除をお願いできますか? 箒は玄関を出て右の倉庫にあると思いますので」

「わかりました」

 薫子さんに言われたとおり、玄関を出て所定の場所にある箒を取り出し掃除に当たる。その時はたかが庭掃除と高を括っていたのだが、程なくして俺はそれを後悔することになった。

「はあ……はあ……」

 二階堂家の邸宅そのものに負けず劣らず、庭――少なくともそう呼べる領域――も、とにかく広かった。風に煽られて落ちた木の葉なんかを掃いて集めるわけだが、それを一点に集めるだけですでに重労働だ。これが秋になったらと思うと……想像するだけでおぞましい。

「よくやるよこんな仕事……」

 薫子さんに畏敬の念を抱きつつ、掃き掃除を進める。木の葉を見つけては掃き、見つけては掃きの繰り返しだ。やってられない。

 そんなことをしていると、庭の片隅にふと目が止まった。邸宅の隅、ちょうど倉庫が置いてある辺りだ。そこに人一人分くらいの幅の小道があり、それが奥に繋がっているようだ。

「何なんだここは……?」

 童心と言うべきなのか、得も言われぬ好奇心が胸の内から湧き出て、その道へ一歩踏み出そうとする、まさにその時。

 突然吹いた強風が、今まで集めていた山をさらっていってしまった。

「だああああ!? せっかく集めたのに!」

 こんなことをしている場合ではない。急いで掻き集め直さないと、一生終わらなくなってしまう。

 そんなこんなで集めたゴミを袋に詰めて一息つく頃には、太陽は頭上高く昇ってしまっていた。

「信明さん、お疲れ様です。そろそろお昼にしませんか?」

 腹が減ったなんて考えているところにちょうど良く薫子さんが顔を出したので、ご相伴にあずかることにした。

 昼食のオムライスを頬張りつつ、彼女と他愛もない会話を繰り返す。そんな中、薫子さんがふと言葉を漏らした。

「そういえば、琴音お嬢さまはあれでも信明さんのことを気に入っているんですよ」

「えっ、そうなんですか? っていうか分かるんですかそんなの?」

 一応拒否はされなかったが、今朝のアレといい、心証はあんまりよろしくないと思っているのだが。

「ふふ、伊達に長く使用人してませんから。お嬢さまのことくらい、言葉を交わさなくとも分かるんですよ」

「おお、流石……」

「――というのは、軽い使用人ジョークですが」

 椅子から滑り落ちそうになった。ジョークかよ。一瞬でも使用人すげえと思ってしまった自分が悔しい。

「琴音お嬢さまは小さい頃から人見知りでして。知らない人……特に大人には滅多に心を開かない人でした。かくいうわたしも最初は苦労しましたよ」

「なるほど……そうだったんですね」

 琴音が人見知りか。あのノリからは想像もつかないな。それでも、薫子さんが言うなら信用してもいいだろう。

「だから、出会って間もない信明さんにあそこまで口を利けるのは、それだけ信明さんを気に入っている証拠です」

「……うーん、そうなんですかねぇ」

 とは言っても、やはり実感は湧かないのだった。彼女のあの態度から何をどう読み取れば『気に入られている』と思えるのだろう。

 心にもやもやを残したまま、時間は刻一刻と進んでいくのだった。


 そして、暗雲はさらに濃くなってゆく。

 小学校まで琴音を迎えに行き、仕事に取りかかることにする。今日は学校で出た宿題をこなす予定だ。さっそく琴音の部屋を訪れ、座卓を囲んで教えることにしたのだが。

「うーん、その答えは違うんじゃないか?」

「……あんた、その台詞三回目よ。だったら解き方を教えなさいよ」

「だってお前、すぐ分からんって言い出すじゃん」

 家庭教師なんてもちろん初めてなので、その道のりは困難を極めていた。人に物を教えるのはなかなかに難しい。簡単な仕事だと思ったのだが、物事はそう上手くは運んでくれない。

「いいか、この展開図を組み立てると、こういう感じの立方体になるんだ。じゃあこの例みたいな模様にするには、展開図にどうやって線を描けばいい?」

 精一杯、俺にできる最大の噛み砕き方で問題文を伝える。それに対して、琴音はじっと深く考え込んでいた。

「……分からない!」

「諦めんの早すぎじゃねえか!?」

 問題に取りかかってから十分もしないうちに、琴音の集中力は底をついてしまったようだ。小学生にはやや厳しい難易度なので、無理もないと言えばそうなのだが。

「もうやだ! 答え見る!」

「ちょ、ちょっと待てって――」

 解答集を取り出そうとランドセルをまさぐる彼女を制止しようとしたが、あえなくその手は振り解かれてしまう。

「だったら、ちゃんと分かりやすいように教えてよ!」

 そして彼女が言い放ったその言葉が、俺の心に深く突き刺さった。そうだ。俺がもっと上手く教えられていたら、こんな状況にはなっていないのだ。正論を頭から浴びせられ、返す言葉が見つからなくなる。

「もういいわ。……今日は一人でできるし」

 見放すように言った琴音のそばで、俺はただ黙って見ていることしかできなかった。



 次の日。大学の授業が終わり、二階堂家に帰還するべく車を走らせる。相も変わらず対向車のいない山道を行きつつ、ふと昨日の琴音のことを思い出した。

「はあ……大丈夫かな……」

 反射的に溜め息が漏れた。なんというか、あそこまで俺に人を教える能力がないとは思わなかった。何だかんだ言いつつも上手くやれるんじゃないか――そう思っていたのが一瞬で打ちのめされた気分だ。琴音のあの呆れた顔もごもっともだ。

 そして悲しいことに、琴音と俺は今日も対峙しなければいけない。これをあとしばらくは繰り返さねばならない。そんなことを考えるだけで、溜め息は底なしに出てきてしまうのだった。

「ただいま戻りましたー」

 車を駐車場に止め、玄関をくぐる。もうこの広い玄関も慣れたものだ。

 荷物を置いてリビングに出てくると、休憩中なのか、薫子さんがコーヒー片手に佇んでいるところだった。

「あ、お帰りなさい。一緒にコーヒーいかがですか?」

「いいんですか? じゃあ、いただきます」

 隣に失礼して、淹れてくれたコーヒーを啜る。あまりこういうのには詳しくないが、美味しいというのだけは分かる。思わず息が漏れた。

「はぁー……」

「……信明さん、何かあったんですか? 大きな溜め息ですけれど」

 怪訝そうな顔をする彼女に指摘されて初めて、自分が嘆息していることに気がついた。他人がいるというのにリラックスしすぎだ。急いで佇まいを直す。

「おっ、俺また溜め息ついてましたか!? すいません、ぼんやりしてて……!」

「ふふ、いいんですよ。良ければお聞きしましょうか?」

 いい人だ。薫子さんの抱擁するような笑顔に救われつつ、琴音とのことについて話した。

「――なるほど、お嬢さまに上手く教えられないと……まあ、やはり素直ではない方なので」

 素直じゃないというか、あれは完全に怒りとか失望とか、そういった類いの素振りだったけどな……。

「俺は教えるの下手くそですし、どうしたらいいのかさっぱりで……」

 薫子さんは難しい顔をして首を捻った。なんか、難しい質問をしてしまった気がするな。そんなことを思いつつ彼女を見守っていると、思いついたように手を合わせた。

「そうですね、やはりここは敬意をもって接するべきかと思います」

「敬意……? どういう意味ですか?」

 もちろん言葉の意味は分かるが、その意図するところが掴めない。

「難しい意味ではありませんよ。相手を尊重し、蔑まずに対等に接することです」

「ああ、なるほど」

 そこでふと昨日の琴音とのやりとりを思い出した。あの時俺は、問題が分からない琴音に対して苛立ったりしなかったか。眉根を寄せる琴音を疎ましくは思わなかったか。全くないと言えば、多分それは嘘になるだろう。

「敬意か……たしかに、考えたことなかったかも……」

「人付き合いのコツは、とにかく根気強く、まっすぐ向き合うことですね」

 深いなあ。人生の重みのような何かが詰まった言葉だ。薫子さんは見た目では二十代ぐらいに見えるけれど、実はもっと年上なのではないだろうか。とても気になる。

「……? どうかしましたか?」

「あ、いや、何でもないです……」

 余計な詮索は止めておこう。こういう温和な人ほど、怒らせると大変なことになるから。

 話している内に、琴音を迎えに行く時間がやってきた。

「あ、もうこんな時間だ……。それじゃ、失礼します。いろいろありがとうございました」

「ふふふ、いいんですよ。今度は上手くやれるといいですね」

 本当にだ。次こそはちゃんとやってやる。彼女に向けて深く頭を下げると、急いで車へと向かうのだった。


 そして迎えた二度目の対面。昨日の今日ということで、互いの間には微妙に気まずい雰囲気が流れていた。向こうもばつが悪そうに押し黙って座っている。

 じれったいな。こういうときは、まず自分から切り出さないと話にならない。

「……よし、やるぞ」「う、うん……」

 ダメだ、やっぱり気まずい。何も会話がないまま教科書やらプリントを取り出し、無言のまま勉強が始まる。

 口を挟むのは野暮かと思い見守っていたので、そのまま黙々と問題を解いていく琴音。初歩的な問題については難なくクリアしている。だが、ある問題を前に鉛筆がぴたりと止まってしまった。

「…………」

 琴音は固まってうんともすんとも言わない。答えが分からずに行き詰まっているのだろうが、こちらに助けを求めることもせず、ただプリントとにらめっこを続けているだけだ。

 何か助け船を出してやった方がいいのだろうか。アドバイスをしようと口を開いた瞬間、薫子さんの言葉が脳裏に蘇った。

 敬意とは、相手を尊重し、蔑まずに対等に接すること。

 ――よし。実践してみよう。吐き出そうとした言葉を一旦飲み込み、それに代わる別の言葉を用意する。

「……一緒に考えるか?」

 琴音の丸い目がこちらを見据えた。面食らった表情で、何か言いたげに口をわずかに動かしている。そしてしばしの硬直の後、「考える」と頷いた。

「よし、じゃあやるか」

 プリントの内容は昨日の復習のようなもので、また展開図の問題が出ている。どうやら同じところでつまずいているみたいだ。

 どうしようか。昨日のように上から目線でアドバイスをしては同じ轍を踏むことになる。あくまで重要なのは、対等な姿勢に立って考えること。

 踏み出したのはいいのだが、なかなか形にするのは難しいな。何かこう、お互いに見える形で解いていければいいのだが。

「ん……お互いに見える形……?」

「うん? どうしたのよ?」

 そうだ、その手があったか。琴音の問いを無視して、俺は興奮冷めやらぬままに自室へと駆ける。そしてカバンの中を急いで抱え上げ、琴音の部屋へと舞い戻るのだった。

「待たせたな琴音……いい解決策を思いついた」

「どうしたのよ急に……てっきり頭がおかしくなったのかと思ったわよ」

 呆れる琴音をよそにノートを取り出し、その一ページを破る。

「思ったんだよ。実際に展開図を作って組み立てればいいんじゃないかって」

「…………!」

 我ながらとっさの思いつきだった。これならお互いが組み立てる様子を共有できる。プリントにある図を元に定規で線を引き、外枠に合わせてはさみで切り抜く。あっという間に立方体の展開図ができあがった。

「これをこうして……っと。ちゃんと立方体になったな。これなら分かりやすいだろ」

「……うん。できる」

 何度も何度もお手製の展開図とプリントを見比べる琴音。そしてしばらく考えた後、解答欄に答えを書き込んだ。

「よし、できたな。じゃあ次のやつも作るか」

「あ、今度は私がやりたい。貸して」

 琴音が寄越せとせびるので、ノートと紙を手渡した。楽しそうに線を引く琴音の横顔を見ていると不思議な達成感に包まれる。教える喜びというのは、こういうことを言うんだろうか。

 そうだ、今の感覚を忘れないように手帳でも付けておくか。ちょうど大学から配られた手帳が一冊あったはずだし。カバンの中を探ると、それはすぐに見つかった。

 琴音が展開図作りに集中している間に、手早くメモ書きを済ませる。同じ視点に立って取り組むことが大切……と。琴音の反応とか、いろいろ書いておこう。こうしてみると、ちょっと今のは家庭教師っぽかったんじゃないか、なんて考えてみたりして。

「――信明、何ニヤニヤしてんの。さっさと次の問題行くわよ」

「っと、悪い悪い。この調子で進むか」

 これで一歩前進、か。不安がひとつ晴れたな。訝しむ琴音を軽くあしらって、次の問題を解き始めるのだった。



 今日も今日とて琴音を迎えに行くために車を走らせる。時刻は午後四時。これなら余裕を持って着けそうだ。

 程なくして小学校の前に到着し、車を脇に止める。それにしても、やたら大きい学校だ。たしか私立とか言ってたっけ。感覚が麻痺しすぎてここ最近は実感していなかったが、やっぱり金持ちはすごいな。俺の通っていた学校なんて、これの半分くらいの規模しかなかった。

 よくよく考えるとこの夏は新しい出会いばかりだった。琴音に薫子さん、あと文哉さんと椿さん。大学に入ったばかりの頃と同じような新鮮さを感じる。今となっては慣れたものだが。

 そんなことを考えながら息をつく俺の下に新たな風が吹き込まんとするのに、その時の俺は気付かなかった。

 車内のデジタル時計に目をやる。午後四時二十分。そろそろ琴音がやってくる頃合いだな。ぼんやり窓の外から校門を眺めていると、琴音らしき人影がやってくるのが見えた。だが、その様子が普段と少し違うように見えた。

 違和感の正体はすぐに特定できた。歩く琴音に追従するようにして、黒髪の少女がこちらへ向かってきている。彼女が琴音に話しかけると、琴音は迷惑そうな素振りを見せる。そんなやり取りを続けたまま、二人は車の近くまでやってきた。助手席の窓を開けて琴音を呼び寄せる。

「待たせたわね」

 車の前までやってくると、黒髪の少女の方は琴音の後ろに控えるように立った。

「お疲れ琴音。その子は?」

「あー……えっとね、学校でうっかり信明のこと話したら、どうしても弥生が会ってみたいって……」

 琴音はばつが悪そうに目を逸らした。弥生と呼ばれた少女の方を向くと、同様にこちらを見る彼女の視線とぶつかった。

「一ノ瀬弥生、です。よろしく」

「金城信明だ。こちらこそよろしく」

 反射的に挨拶を返したものの、続ける言葉が見当たらない。何か言うべきかと慌てて文章を組み立てていると、弥生の言葉がそこに割って入った。

「ねえノブアキ、弥生も一緒に連れてって」

「はっ?」

 突飛すぎる発言に思わず変な声が出るところだった。ただ、俺以上に驚いたのは琴音の方だった。

「なんであんたが来るのよ! 信明よりまず私に聞きなさいよ!」

「えー……ダメ……?」

 態度を崩さぬまま彼女は琴音に詰め寄った。それにしても不思議な子だ。なんか表情といい所作といいぼんやりしている感じで、何を考えているのかいまいち掴めない。

「来るにしてもさ、親の許可とかいるだろ?」

「ママにはメールする。だから大丈夫」

「は、はあ……」

 最近の小学生は進んでんな。言うべきことを全て失い、琴音に目で合図を送る。

「……どうするんだよ」

「知らない。好きにすれば?」

 なぜか不服そうに彼女は目を逸らした。何か怒らせるようなことでも言っただろうか……?

 ともかく、もはや断る要素もないので、弥生を車に迎え入れることにした。ひとり増えた客を乗せて、エンジンは勇ましく音を立てた。

 住宅街を進みながら、ふとバックミラーに視線を動かす。琴音と弥生はお互いに話すこともなく、各々が窓の外を眺めている。学校では話していたらしいし、仲が悪いわけではないと思うんだが、不思議な関係性だな。

 そんなことを考えているうちに家の前まで戻ってきた。

「ただいま戻りましたー」

「おかえりなさい琴音お嬢さま、信明さん。……あら、可愛らしいお客様がいらっしゃいますね」

 薫子さんと目が合うと、弥生は自ら前に出て自己紹介した。彼女が相手でも弥生は物怖じしない様子で淡々と語り続ける。これは将来大物になるな。

「弥生さんですね。わたしはこの家の使用人、水嶋薫子です。以後お見知りおきを」

「しよーにん……?」

「ほら、さっさと行くぞ」

 玄関でたむろするのも良くないと思い、首を傾げる弥生の背中を押すようにして階上へと誘導した。向かう先は琴音の部屋。いつも通り家庭教師の仕事が始まる。

「わー……コトネの部屋、大きい、かわいい」

「……ふんっ。これくらい普通よ」

 中に入った弥生がまず一言。自分の部屋を褒められて、琴音は満更でもなさそうな表情だ。

「さ、勉強始めるぞ。宿題出せ」

 仕事開始だ。予想外の展開だったが、面倒を見る相手が二人に増えただけだ。案ずることはない……はず。

 琴音と弥生、両者の宿題が机に広げられ、いつもの座卓が少し手狭に感じる。二人とも同じクラスなのか、出された宿題は全く同じ物だった。教える手間が少し省けるな。

「分からないところがあったら俺に聞けよ」

 琴音はこちらを一瞥して返事の代わりとし、弥生はうん、と小さく答えた。しばらく二人は黙々と問題を解いていき、俺が口を挟むこともなく静かな時間が流れる。

 その静寂の中に紛れ込むようにして、弥生がおずおずと手を挙げた。どうやら行き詰まったらしい。

「ノブアキ、ここ教えて」「ああ、どこだ?」

 指を指した先の問題を黙読する。国語の抜き出し問題か。これならすぐにでも教えられるな。

「この問題はこの人物の言葉を抜き出すんだから、この辺の文でこいつの発言を探せばいいわけだ」

「あ……見つけた。ありがと、ノブアキ」

「おう、どういたしまして」

 その後も弥生はちょくちょく手を挙げては俺の助け船を求め、解けた後は笑みとともに礼を言ってくれた。ここまで事あるごとに感謝されると少し落ち着かないな。

 不思議で何を考えているのかさっぱり分からないけれど、どこか素直で、言ったことが奥に染みこんでいくような感じだ。弥生もまた、琴音とは違うベクトルで育ちが良いんだろうな。

「弥生は物分かりがいいな。素直だし、教え甲斐があるよ」

「……そう、かな」

 何の気なしに褒め言葉を口にすると、弥生は照れくさそうに笑って返した。本当に素直だな。

 少し弥生に構い過ぎていたので、琴音の方へと意識を向ける。俺が話していた時は何も聞いてくることはなかったが、ちゃんと問題は解けているんだろうか。

 そこでふと琴音と目が合った。急な出来事に反応できず、無意識のうちに固まってしまう。先に目を逸らしたのは琴音の方だった。

「ど、どうした? 分からないとこでもあったか?」

「別に何でもないわよ。ほら、さっさと弥生の相手でもしてればいいんじゃない」

 この反応は露骨に拗ねてるな。なんかやりづらいな……。こんなわがままお嬢様と渡り合ってきた薫子さんの苦労する顔が目に浮かぶようだ。

「ノブアキー、ちょっと来て」「はいはい、今行く」

 今度からは二人のバランスを考えて相手しないといけないな。それが俺の仕事だし、何より琴音の機嫌を損ねてはいろいろとまずいし。後で手帳にメモしておこう。


 二人の宿題とともに、時計の針も刻一刻と進んでいく。もうどれほど経ったであろうかという頃、弥生がおもむろに携帯を取り出した。

「あ、もうこんな時間……帰らなきゃ」

「本当だ、急がないと」

 彼女につられて俺も時計を見ると、時刻は午後六時を示していた。小学生ならそろそろ家に帰らないと心配される頃だ。早めに送り届けてやらねば。

「ほら、パパッと準備して行くぞ」「うん、待ってて」

 マイペースに荷物を詰め終え、弥生は立ち上がると、琴音の方を向いた。お互いの視線がぶつかり合う。

「今日、すごく、楽しかった……また、来るね」

「……別に、好きにしなさいよ」

 不思議な笑顔にあてられて、琴音は照れたように顔を背けた。何だかんだ言って、仲は悪くなさそうだ。

「ありがと、コトネ」

 琴音はそっぽを向いたまま何も言わない。へそを曲げているわけではないだろうから、このままでもいいか。

「そろそろ行くぞ。んじゃ、ちょっと待っててな、琴音」

 玄関まで降り、車のエンジンを吹かす。そして弥生を家へ帰すべく、カーナビを頼りに車を発進させるのだった。

「ねえ、ノブアキ」「うん? どうした?」

 運転していると、後部座席の方から弥生の呼ぶ声がした。さすがに顔は向けられないので、返事だけを返す。

「ノブアキって、コトネのこと、好きなの?」

「なっ!?」

 動揺のあまり手元が狂うかと思った。突拍子もない発言をぶつけられ、どうしようもなくなってしまう。

 できる限り平静を保つように意識しつつ、その質問に応答する。

「逆に聞くけど……どうしてそう思うんだよ?」

「だって……コトネ、学校だと、友達そんなに多くない」

 えっ? 今、聞き捨てならないようなことを聞いた気がしたのだが。詳しく問い質す前に、弥生は口を開く。

「コトネ、ちょっと怖い、から……あまり人、寄ってこない。コトネにいっぱい構うの、ノブアキくらい」

「ああ、なるほどな……」

 薫子さんが『琴音は人見知り』と言っていたのを思い出す。加えてあんな意地っ張りな性格だと、誤解されても仕方がないだろうな……。琴音は普段、学校でどんな風に過ごしてるんだろうな。

「それで……ノブアキは、コトネのこと好き?」

「まあ、好きとか嫌いとかの以前に、仕事だからっていうのはある」

 家庭教師として、教え子にアプローチするのは当然の勤めだ。だけど。

「ま、少し心配かな。そういう意味では好き……なのか?」

 琴音からしたら大きなお世話に違いないが。それでも気になるものは気になるのだ。

「ふーん……そっか」

「人に聞いておいてなんだその興味のなさそうな返事は」

 真面目な空気が一瞬で無に帰った。一ノ瀬弥生、やっぱり謎だ。こちらの理解を超えている。

 ともかく、無事に弥生を送り届けることができたのだった。


 一ノ瀬家から引き返し、二階堂家まで戻ってくる。自室で一息つこうと思い扉を開けると、そこにはなぜか琴音の姿があった。

「悪い、間違え――ん?」

 入る扉を間違えたと思い、急いで部屋から出ようとしたが、どう考えてもここは俺の部屋だ。その中、ベッドの上に琴音が腰掛けている。

「……どうしたんだ?」

「信明に宿題、教えてもらおうと思って」

 こちらに向かってプリントを突き出す彼女。それで俺をずっと待ってたというのか。一応理由を尋ねてみる。

「……いいから。早く教えてよ」「お、おう……」

 しかし琴音の気迫に押されてしまい、しぶしぶと了解した。琴音を俺の使っている机に座らせ、延長戦をスタートする。

「――こういう問題は、どの台詞を誰が喋ってるのか、この行動は誰のものなのか整理すると良いかもな」

「えっと……つまり、ここで喋ってるのは――」

 肝心の宿題だったが、存外普通に上手く行っていた。昨日に比べてやたら物分かりが良いというか、普段からは考えられないほど素直に俺の言うことを聞いてくれる。

「終わった……」

 延長戦を始めてから三十分もしないうちに、琴音はプリントにあった問題を全て解き終わってしまった。これまでとは比べものにならないほどのハイスピードだ。

「すげーな琴音! やればできるじゃんか!」

「そ、そう……? ありがと」

 思わず賞賛の言葉を贈ると、彼女は照れて目を背けた。そのままじっと何かを考え込むように佇み、不意にこちらの方へと視線を向ける。

「……あのね、信明」「ど、どうした?」

 彼女が見せた表情は、いつもの傍若無人なお嬢様の顔ではなく、十歳の幼い少女の顔だった。

「弥生が帰ったら、またこうやって勉強、教えてほしいんだけど……ダメかしら」

 最大の決断、一世一代の頼み。緊迫した琴音の表情からは、そんな言葉が読み取れた。そんな姿勢で頼まれた以上、俺に断る理由なんてものはない。

「分かったよ。教えればいいんだな」

 俯いたまま頷く琴音。垂れた前髪の奥から見えたその様子が少し嬉しそうだったのは、俺の見間違いだっただろうか。

 そして顔を上げると、もうそこには普段通りの琴音の顔があった。

「契約成立ね! 一度でもサボったら許さないわよ!」

 じゃあね、と言うと、彼女は勢いよく部屋の外へと出て行ってしまったのだった。相変わらず凄まじい奴だ。

 緊張の糸が解けて、先ほどまで琴音が座っていた椅子に腰掛ける。何だったんだろうか、あれは。

「そうだ……手帳手帳、っと」

 引き出しから大学の手帳を手に取り、机の上に広げる。夕飯まではまだ時間があるし、今のうちに今日の振り返りでもしておこう。簡単な日記と、気をつけるべき点、あとは琴音と弥生が今日つまづいたところを書き込む。

 書き付けていくと、今日あった出来事が鮮明に脳裏に蘇ってくるようで、思わず頬が緩んでしまった。

「いろいろあったけど、今日も楽しかったな……」

 琴音のことは徐々にだが分かってきたし、弥生のこともこれから知っていけばいい。明日のことを考えるだけで、どうにもこうにも胸が躍ってたまらないのだ。ここに来た当初に感じていた不安は――消えたと言うには、まだ時間が掛かるだろう。だが、琴音の新たな一面を知るたびに、その不安がひとつずつ無くなっていくのを感じていた。

 手帳を閉じ、大きく伸びをする。大きな欠伸を噛み締め、気付けに頬を叩いた。

「……よし、これからも頑張るぞ、金城信明!」

 二階堂琴音と一ノ瀬弥生。二人の少女と紡ぐ毎日は、きっとかけがえのないものになるだろう。確証なんてものは一切なかったが、確かにそう思った。

 これを良き思い出とするためにも、もっと二人のことを知っていかないとな。決意を胸に深く刻み込み、俺は四回目の夜を終えた。


一週間おきに更新すると言ったな?あれは嘘だ。\ウワアアアァァ/


我慢できなくなりました(自白)

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