第一章 史上最悪の出会い
対向車はない。続くのは舗装された道路のみ。そこから陽炎が幽霊のように揺らめいている。
夏真っ盛りの七月の土曜日、俺はなぜか愛車で山道を走り続けていた。
別に俺に峠を攻める趣味があるとかそういうわけではない。そもそも、この夏は取ったばかりの免許でどこかに旅行に行って、楽しい思い出をたくさん作る計画だった。それなのに……それなのに。
「はあ……二万五千円っつっても、そんな上手い話があんのかよ……」
欠伸とともに大きな溜め息が車内に漏れる。今こうしてこんなことをしているのも、全部親父のせいだ。呪ってやる。密かに恨み言を吐きながら、こうなってしまった経緯を思い出した。
あれはある日の夕方だったか。大学から帰ってきて羽根を伸ばしていたところに、親父からの電話が舞い込んできたんだ。今思えば無視しておけば良かったものを、普段電話なんか寄越さないから何事かと受けてしまったのが運の尽きだったか。
その電話というのは、俺にオススメのバイトがあるとかいったことだった。内容は家庭教師、相手は親父の親戚の家の娘だとか。それだけならば一蹴して事無きを得ていただろうに、次に続けた親父の言葉が完全に俺を打ちのめしてしまったのだ。
「聞いて驚くなよ……なんと報酬は日給二万五千円だ」
もちろん最初は自分の耳を疑った。しかし何度訊いても同じ答えしか返ってこないのだ。日給二万五千円。工事現場で働いたってなかなかお目にかかれない数字だ。
「……それ、マジで言ってんの?」
「ああ、マジも大マジだ。父さんがこんなしょうもない嘘をつくか?」
「ノーコメントで」「父さんも信頼が落ちたなぁ……」
そんなやり取りはともかく、とんでもなく高給取りのバイトであることは間違いないようだった。話している側からバイト代の使い道を考えて頬が緩んでしまう。結局金に目が眩んでしまい、その場で快諾してしまった……が。それが大きな間違いだった。
「よし、それじゃあ来週には家を出て向かってくれ。一週間分の着替えと、生活用具もまとめておけよ」
「……は?」
家を出る? 一週間分の着替え? 生活用具? どういうことだ?
意味不明な言葉を並べられて困惑する俺に、親父は思い出したように衝撃発言を繰り出した。
「ああ、言い忘れてたな。家庭教師は家庭教師なんだが、住み込みでやってもらうことになってるんだ」
「はあ!? それじゃ話が違うだろ!」
そういうことは先に言え! つまり大学には夏休みに入るまでそっちから通えと言うのか? 冗談じゃない。親父は昔から大事なことを言い忘れる人間だったが、よりによってこんなところで発揮されてしまうとは。
「とにかく、そんなの断るに決まって――」
「すまん、今しがた先方に承諾のメールを送ったところだ。そういうわけで、よろしく頼むな。んじゃ」
そこまで言ったところで、逃げるように電話が切れた。無機質なコール音。静寂が戻る室内。呆然と立ち尽くす。
「……あのバカ親父が――!」
その時の俺には、ただ叫ぶことしかできなかった。
あれ以来、気まずいのか親父は電話に出ないし、相手について得られた情報といえば後に送られてきたメールに書いてあった住所だけと不明瞭な状態が続いて、退き引きならないまま約束の日を迎えてしまったのだった。
「マジで次会ったらブッ殺す……」
つけどもつけども悪態はなくならない。本当は断ってしまいたかったが、先方に連絡が行ってしまった状態でドタキャンするのも、それはそれで気が引ける。それにあんな親父でも俺の肉親ではあるし、それなりに面子は守ってやりたいしな。
ということで結局行くことになり、今に至る。だが、正直なところ、名前も顔も知らない人間相手に上手くやっていけるのか不安だ。親父が仲介してくれている以上、悪い人ではないだろうが、それでも上手く行くという保証はないわけで。
溜め息の数が両手両足の範疇を越した辺りで、カーナビが目的地の接近を報せた。車を脇に止め、地に足を付けてその「目的地」を見上げる。
それは、山道を抜けた先の住宅街に位置する大きな一軒家だった。それを目にした瞬間、俺の口は開いたまま塞がらなくなってしまう。
「嘘だろ…………」
俺の貧弱な語彙で例えるならば、芸能人が建てるような豪邸。洒落た門があり、そこから庭が広がり、その奥に今時のスタイリッシュな豪邸が構えている。良くも悪くも田舎じみた住宅街の中で、この家屋だけ明らかに異質な雰囲気を放っていた。
素人目に見ても分かる、これは俺のような一般人には一生縁のない家だ。将来どれだけ稼いだって、それこそ逆立ちしたってきっとここの家主には敵いっこない。こんな家に住んでいるなんて、俺の親戚はいったい何者なんだ……?
その圧倒的な存在感に気圧されつつも、豪勢な門のインターホンを鳴らした。
無機質な電子音が虚空に響いた後、家の扉を開いて初老ほどの男性が姿を見せた。門を開けてくれたところで、挨拶をする。
「あっ、ええと、金城信明です。父に紹介されて家庭教師をしに来ました。よ、よろしくお願いします」
事前に台詞を用意しておかなかったせいで、思わず挙動不審になってしまう。やらかしたと思いつつ顔を上げるも、彼は気にすることなく穏やかに自己紹介をしてくれた。
「君が信明くんだね。話は昭裕くん――お父さんから伺っているよ。僕は二階堂文哉、これからよろしく頼むよ」
握手を求められ、反射的に差し出された手を握り返す。その時、ふと脳裏にある違和感が湧いて出た。
「二階堂……文哉……?」
その名前、どこかで聞いたことがあるような。ええと、何だったかな。何かのバラエティ番組で目にした気がするんだが。二階堂、ニカイドウ、ニカイドー――。
「ま、まさか、ニカイドー製菓の二階堂文哉社長!?」
思い出した。一年前バラエティ番組でニカイドー製菓の特集があったときに、ちょうどこの人がテレビに出てたんだ。
ニカイドー製菓。その名の通り菓子を開発する会社であり、そのシェアは国内でもトップクラスだ。ニカイドー独自の技術で作られたチョコレートは評判が良く、今やスーパーやコンビニでニカイドーの名前をを目にしない日はないと言ってもいい。
そしてそんなニカイドー製菓を一代で大企業にまで押し上げた張本人が二階堂文哉社長であり、今俺の目の前に『親戚として』立っている人物なのだった。
現実が受け入れられず呆然とする俺とは裏腹に、彼は不思議そうな顔をする。
「確かにそうだけど……それがどうかしたのかい?」
「どうもこうも、そんな人が俺の親戚にいるなんて全く知らなくって……」
親父は文哉さんのことを「自分の親戚」と言っていた。だが、そんなことは自覚したこともないし、ましてや聞いたことなんてただの一度もなかった。
俺の言葉を聞くと、二階堂社長はますます怪訝そうな様子を深めたが、すぐに合点のいった表情をした。
「ああ、昭裕くんは君に伝えてなかったんだね……」
親父、結構忘れっぽいからな……。もうちょっと幼い頃に言ってくれたら、俺の人生も少しは違ったものになっていたかも、なんて思ったりした。
邪な心は一旦脇へ置いて、彼の続きの言葉を聞く。
「僕は昭裕くんのいとこだったんだ。だから、君から見たら僕はおじいさんの妹の息子、ということになるね」
「な、なるほど……」
結構ややこしい。頭の中で家系図を描くだけでも精一杯だ。とりあえず、遠い親戚とだけ憶えておけばいいか。
そんなことをしている間に話が大きく脱線してしまった。気を取り直して本題に戻ることにする。
「そういえば、娘さんの姿が見えないみたいですけれど」
ニカイドー製菓の社長・二階堂文哉の娘とくれば、歴とした社長令嬢だ。そんな子どもに物を教えると思うと、今更ながら緊張してきたな。
「おっと、これは失礼。少し家の前で待っていてね」
俺を門から家の前まで誘導すると、文哉さんは扉の向こうへと消えていった。
それにしても、すぐ近くまでやってくると改めてこの家の大きさがよく分かるな。俺の実家の何倍広いんだろうか。いろいろ考えていると悲しくなってくるので、それ以上考えるのはやめることにした。
程なくして文哉さんは姿を見せた。その背後に、鮮やかなブロンドの少女を連れて。
「僕の娘、琴音だ。君にはこの子に勉強を教えてもらおうと思う」
手入れの行き届いた身なり、無駄を感じさせない立ち方。琴音と紹介された彼女はいかにも良家のお嬢様、という出で立ちをしていた。だが、問題なのはその表情だった。つんと澄ましたと言えば聞こえはいいが、その実お世辞にも友好的とは言えない険悪な表情をしていた。
どう見ても俺を受け入れてくれそうな様子には見えないのだが、大丈夫なのだろうか。
「ほら琴音、信明くんに挨拶しなさい」
文哉さんに促されて彼女は一歩前に歩み出たが、何も言わずにただ俺を睨み付けるだけだった。俺から言うべきことも見当たらず、無言の時間だけが続く。これは流石に気まずい。文哉さんもすごく困惑したような顔してるし。
何か言うべきかと切り出そうとした瞬間、彼女は踵を返して家の中へと戻ってしまった。
「琴音、待ちなさ――ふう、申し訳ない。やはり琴音も気難しい年頃のようでね」
「いや、別に……気にしてはないですけど」
嘘だ。あんな対応をされては、これからの展望に否応なく暗雲が立ちこめる。俺はこの家で本当にやっていけるのだろうか……。
「……ともかく、我が家の中を案内しよう。と言っても、僕はこれから仕事があるから、別の者に任せることになるが」
別の者……? 奥さんとかだろうか。
そんなことを考えつつ中へ通される。慣れない匂いのする廊下を抜けて中へと足を踏み入れた瞬間、俺は思わず目を剥いてしまった。
広い。とにかく広いのだ。近代的な住宅特有のリビングとダイニングが一体化した部屋なのだが、その広さが尋常ではなかった。俺のワンルームのアパートがウサギのケージに見えるレベルで広い。十倍以上は広いんじゃないだろうか。これだけの広さを持ちながらも、まだ愛娘の部屋だったり寝室だったりがあるのだから、金持ちすげえという言葉しか出てこない。
「それではね信明くん。また夜に会おう」
そう言って文哉さんは出て行ってしまった。仕方がないのでソファーに座って待っていることにしたが、落ち着かないことこの上ない。辺りをきょろきょろとしてしまう。窓とか広いし、ただでさえ少ない語彙がゼロになってしまうレベルで凄まじい。
ただの不審者と化しつつ待っていると、扉を開けて廊下から人影が現れた。
「あ、信明さんですね。お待たせいたしました」
入ってきたのは、落ち着いた服装の女性だった。穏やかな表情。丁寧な所作。彼女が纏うお淑やかなオーラを感じ取って、思わず口が滑ってしまう。
「もしかして……文哉さんの奥さん、ですか?」
「えっ……?」
不意に言葉を口にした瞬間、彼女の表情が固まる。そこで初めて、どうやら俺はまずいことを言ってしまったらしいことに気がついた。慌てて何か訂正の言葉を探したが、そうする間もなく彼女は噴き出したのだった。
「ぷぷっ……ふふふ、奥さんだなんて……そんなわけないじゃないですか、ふふっ……!」
「あ、違うんですね……!」
しまった、やらかした。自分でも分かってしまうくらいに顔が熱い。今すぐこの家を飛び出して走り回りたいぐらいには恥ずかしい。
俺の言葉がよほどおかしかったのか、彼女はしきりに笑いを堪えている。笑い飛ばしてもらえるのはありがたいが、やっぱり複雑だな。
「わたしは水嶋薫子、この家で勤めている使用人ですよ。文哉さまの頼みで、信明さんに案内をと」
ああなるほど、そういうことだったのか。道理で奥さんにしては若いと思った。
しかし、使用人か。そんなものまで雇えるなんて、ますます金持ちすげえという言葉しか出てこないな。どうやら世界には俺の知らないものがまだまだあるようだ。
それでは参りましょうか、と踵を返す薫子さんに合わせて、俺も足早に部屋を後にした。
そこからはまさに驚きの連続だった。まず荷物はここに、と通された自室が持て余してしまうほどに広い。ついでに必要な家具なんかも揃っている。俺ならこの部屋に万年床を敷いて終わりだったのでこれは嬉しいぞ。
他にも部屋がたくさん紹介されたが、覚えきれる気が全くしない。庭も広いし、この家の広さにただただ目を回すことしかできなかった。
そんなこんなでようやく解放され、自室で自由のひとときを過ごすこととなった。天上の触り心地のベッドに身を投げ出し、とりあえず深呼吸を繰り返す。この家を訪れてからの情報量が多すぎて正直理解が追いついていないので、それの整理もついでにしておく。
俺の親戚にニカイドー製菓の社長・二階堂文哉さんがいて、その娘である二階堂琴音に俺は家庭教師をすることになった。二階堂家はとにかく広い。あと使用人として水嶋薫子さんが働いている。優しそうな感じの人だったな。
――今分かるのはこれくらいか。改めて、とんでもない所に足を踏み入れてしまったと思う。まるで異国の地に訪れた旅人だ。常識がものすごい勢いでアップデートされるのを感じている。
心を落ち着けるために、しばらく目を閉じて思考を無にする。吸って、吐いて。精神統一だ。
「……よし」
そろそろあの気難しそうな娘に声を掛けに行くとするか。アルバイトとはいえこれも一応仕事なんだし、挨拶ぐらいはしておくべきだろう。ベッドから飛び起きて髪を整え、先ほど紹介された琴音の部屋へと向かう。ドアの前で深呼吸して、軽く三回ノックをする。
「…………」
返事の気配はない。どこかに出ているのだろうかと思ったが、この家の中で彼女を探し出せる気もしない。一度中を覗いて、いなかったら時間を改めてまた来ることにしよう。
ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと扉を押す。広がっていく部屋との隙間――その向こう、椅子に腰掛ける琴音と不意に目が合ってしまった。いないと思ったものがいたことに思わず動揺を見せそうになったが、すんでのところで堪えて笑顔を作る。
「よ、よう。お父さんから紹介されたと思うけど……金城信明、です。よろしく……」
だが、声の方までは隠しきれなかったようだった。緊張と動揺のダブルパンチを食らってしどろもどろの声が出てしまった。
そんな情けない自己紹介を聞いて、彼女は心底呆れたような表情をしていた。
「……何よ。いきなり人の部屋に入ってきたりして」
ごもっともだ。急に訪れた挙げ句、何が言いたいのかあやふやな自己紹介をするなんて俺だって考えていなかった。考え得る限りで最悪のパターンだ。
「えっと、一応挨拶しておいた方がいいんじゃないかと思ってな……。さっきはしそびれたし」
彼女は無言のまま、こちらを睨み付ける表情を崩さない。蛇に見込まれた蛙とはまさにこのことか。石化したみたいに何も返せずにいると、ようやく彼女はよそを向いて「別に、好きにすれば?」とだけ呟いた。その言葉でようやく硬直が解け、へなへなと床に正座したのだった。
少しして気付いたのは、彼女は別に俺を拒絶しようとはしないことだった。本当に俺のことが嫌なら、挨拶を済ませた時点で「出て行け」なり何なり言うはずだ。しかし、彼女はこうしてなぜか部屋にへたり込んでいる俺を追い出そうとはしていない。不思議ではあるが、敵愾心を抱かれていないのは良いことだ。
しばらく時間をともにしていると、琴音は不意に溜め息をついた。
「……本当は、こんなこと望んでないのに」
「えっ?」
あまりにも小さな声で喋るので、俺は一瞬だけその意味を掴みかねた。困惑する俺を一瞥して、琴音はぼんやりと語り続ける。
「あんた、お父さんに頼まれて来たんでしょ」
「あ、ああ……まあ、そんなところだ」
正確にはうちの親父を伝手にして頼まれたわけだが。俺が答えると、琴音は再び露骨な溜め息をついた。
「やっぱりそうなのね……。まったく、いつも私の気持ちなんて考えもしないで勝手なことして……」
「お、おい……?」
「だいたいいつも放ったらかしにしておいて、こんなときだけ娘のためだなんて……」
状況がよく分かっていないのだが、彼女はどうやら文哉さんに対する不平不満をあげつらっているらしい。反抗期というやつか。
父親の愚痴を漏らす横顔を見ていると、少しだけ微笑ましくなった。よく分からない奴だと思っていたが、こうして見ると年頃の女の子らしいんだな。
「はあ……って、いつまでここにいるつもりよ」
そんなことを考えていると、琴音がこちらを凝視して眉根を寄せていた。そろそろ彼女の限界が来たようだ。
「ああ、ごめん。邪魔して悪かったな」
軽く頭を下げて、俺は琴音の部屋を後にしたのだった。
その夜。リビングまで出てくると、薫子さんが夕飯の支度を調えているところだった。奥のテーブルには文哉さんと俺の知らない女性が控えている。
「あら、信明さん。ちょうど呼びに伺おうと思っていたところなので助かりました」
もうすぐ支度ができるので待っていてください、とテーブルに通され、文哉さんとは反対側の一番端の席に腰を下ろした。
だが、文哉さんが俺の名を呼んで席を立ったので、俺もすぐに立ち上がる羽目になった。
「信明くん、ちょっといいかい」
「はっ、はい」
文哉さんに合わせて隣の女性も立ち上がる。彼女は文哉さんの合図に合わせて前へと出た。
「僕の妻の二階堂椿だ。僕共々よろしく頼むよ」
「信明くんね。頼りにしているわ、よろしくね」
なるほど、文哉さんの奥さんだったか。たしかによく見ると、どこか琴音に似ている部分がある。琴音の綺麗な顔立ちは、彼女から受け継がれたものだったんだな。
挨拶もほどほどにして、夕食の時間が始まる。薫子さんに呼ばれたのか、いつの間にか琴音もリビングに降りてきていた。
家族全員が一堂に会しているのを見て、先ほどの琴音の愚痴を思い出す。傍から見れば家族団らんの穏やかな光景に見えるだろうが、あれを聞いた後だと少しだけ気まずい気がする。心なしか琴音の表情も険しいし。
しかし俺の心配とは裏腹に、家族の時間は何事もなく過ぎ去っていった。当の琴音も、文哉さんから話しかけられれば普通に受け答えするし、露骨に嫌がったりはしない様子だ。もしかすると、俺の前で見栄を張っていただけなのかもしれない。
平穏なまま夕食を終え、俺は自室に戻って仕事内容の確認をしていた。主な仕事は琴音の送り迎え、あと家庭教師。それとは別に大学にも行かねばならないし、大変な暮らしになりそうだ。
こうしている間にも不安は募っていく。琴音のこと。文哉さんや椿さんとの付き合い方。あと、生活スタイルの確立。五里霧中というべき状況に、ただ唸ることしかできない。
「……頑張るしかないよな」
飛び込んでしまった以上、やるしかない。そんなことを考えながら、俺は眠りにつくことにした。
* * *
翌日、今までにない心地よい感覚で目覚め、布団からゆっくりと這い出る。
大きく伸びをして、部屋の中を見回す。ここはワンルームの薄暗いアパートではない。二階堂文哉社長の邸宅、その一室だ。
改めて非日常の世界にやってきたのだと感じながら、部屋着に着替えリビングへと降りる。そこにはすでに二階堂夫妻と薫子さんが朝食を楽しんでいる最中だった。
「あ、おはようございます信明さん。今朝食を用意しますね」
「おはようございます。ありがとうございます」
忙しそうに走り去る薫子さんに頭を下げ、昨日と同じ場所に座る。少ししてコーヒーを持ってきてくれたので、ありがたくいただくことにした。
「おはよう信明くん。少しはこの家にも慣れたかな」
「まあ……でも、まだ驚かされっぱなしです」
正直なところ、こうして話している文哉さんや椿さんのことも、本来関わらないはずの立場の人間だと思うと全く慣れない。
「はは、そうかい。これから慣れていけばいいのさ」
それでも、俺の不安を吹き飛ばすように笑ってくれる彼のこういうところは助かるな。椿さんも優しそうな人だし、ひとまずは問題なく過ごせそうで安心する。
「私たちのことも本当の家族だと思って接してくれればいいからね。わがままだって言ってくれてもいいのよ」
「……それは遠慮しておきます……」
向こうがどう思うかよりも、俺の中で罪悪感が爆発して死にそうになると思う、それは。
そんな調子で話していると、寝ぼけたまま琴音も降りてきて、家族揃っての朝食が始まった。穏やかな時間だ。
しかし、そんな時間は椿さんの言葉を引き金にひっくり返されることになった。
「――あら、もう牛乳が無くなっちゃったわ」
「代わりの物をお持ちしま――あっ、もう牛乳切らしてたんだった……」
牛乳がないと話し合う椿さんと薫子さん。俺は食パンを頬張りつつ聞くだけだったが、思わぬ所に火の粉が降りかかってきたのだった。
「ふむ……買いに行きたいところだが、生憎僕は仕事があってね」
「私も用事が少しね……ああ、そうだ」
椿さんは対面に座る俺と琴音を一瞥して、思いついたと言わんばかりに手を叩いた。何か嫌な予感がする。
「ねえ、二人とも。少しおつかいを頼まれてくれないかしら? 牛乳と、あと足りない食材を買いに行ってほしいんだけど」
「はあっ!?」
その言葉に真っ先に反応したのは、俺ではなく琴音の方だった。先ほどまで寝ぼけていたのが嘘のように飛び上がり、早口でまくし立てる。
「なんでこいつなんかと一緒に買い物に行かなきゃいけないわけ!? 買い物なら薫子に頼めばいいじゃない!」
そう言われ、全員の視線が薫子さんの方へと向く。予想外の展開に彼女は身を固め、その視線を一身に受け止めることしかできない様子だった。可哀想に。
「あー、お庭のお掃除をしなきゃいけないんでした……」
嘘だ。目が泳いでいる。空気を読める人なんだな、薫子さんは。
再び視線を夫妻の方へ戻しても、彼らもただニコニコとするばかりだ。どうやら、俺たちをどうしても買い物に行かせたいらしい。
「……っ、しょうがないわね……今回だけ特別よ」
周りの期待するような目にとうとう琴音は折れた。結局、周囲に押されて買い物に行くことになったのだった。
「早く行くわよ、信明」「わかってるっつーの」
車のキーを回し、エンジンをかける。そういえば、車に誰かを乗せた事なんてなかったな。ちょっと新鮮だ。
タイヤは穏やかに回り続け、俺たちを目的地まで連れてきてくれた。車から降り、ふと立ち止まる。
「……どうしたのよ?」
「いや、庶民的だよなぁと思って。もっと大きいところへ行くのかと思ってたから」
「何よそれ」
一蹴されてしまった。まだまだ二階堂家について知らなければならないことはたくさんあるみたいだ。
内省する俺を置いて、琴音は颯爽と中に入っていく。意外と歩くの早いなこいつ。元からなのか、それとも鬱陶しいから早く済ませたいからなのか。後者だったら凹むな。
琴音のペースに合わせるようにして、買い物を進めていく。牛乳、卵、野菜、あと肉……指定されたものを取っていくと、あっという間にカゴが満杯になってしまった。
会計が終わり、二つになった袋の一方を琴音が持っている。いくら軽い方とはいえ、小学生の女の子にはやや厳しい重さだろう。
「それ重いだろ。そっちも持ってやるよ」
手を差し伸べて、荷物を渡すように促す。
「……いいわよ、別に。これくらい自分で持てるわ」
だが、彼女はその手を払いのけてまた先へと行こうとする。強情な奴だ。
「いいから。ほら、寄越せって」
「もう! いいって言ってるでしょうが――」
つんとした態度に気圧されそうになるも、袋を持つその手を握った。
「……っ!」
急に手が触れたことで、琴音は身を強張らせる。少しやり過ぎたかと思い慌てて手を引っ込めたが、彼女は意外な反応を見せた。
「……そ、そんなに持ちたいなら特別に持たせてあげるわ!」
「お、おう……」
荷物を手放し身軽になった琴音は、さらに歩調を早めて先へ先へと歩いて行ってしまった。何を考えているのかさっぱり分からない。女心は難しいな。
荷物を車の荷台に載せ、スーパーを後にする。行きの時もそうだったが、会話がないと気まずさから移動時間がやたら長く感じる。なまじ琴音の普段の顔が怖いだけに、もしや怒っているのではなんて考えてしまう。
そんなことを考えていると、不意に琴音が口を開いた。
「ねえ、信明」
「えっ? あ、ああ……どうした?」
運転と考え事に気を取られていたせいで、思わず生返事を返してしまう。
「少し寄りたい所があるんだけど……いいかしら」
バックミラーを見ている余裕などなかったが、声色の変化だけで、先ほどまでの強気な様子の彼女とは違うと確信した。
どうした急に? 何か折り入った話でもあるのか? その思考に気を取られ、一瞬だけハンドルが乱れた。
「っとと……」
「もうっ、しっかりしなさいよ!」
いや、やっぱりいつも通りだこいつ。心配した俺がバカだった。体勢を立て直しつつ、わがままお嬢様のリクエストに応えることにする。
琴音の指示のままに動く車は、住宅街の外れの方を目指して進んでいた。どこへ行くのか聞いてみても、適当に話をはぐらかされるばかりで何も分からない。
そのまま走って行くと、崖沿いに展望台があるのが見えた。
「そこ。そこでいいわ、止まって」
「あいよ」
路端に車を止め、先に行く琴音を追いかける。
階段を上った先で急に視界が開ける。そこは、山の下の景色が一望できる場だった。
「おお……」
頂点まで昇った陽の光を受けて、ビルやマンションの林が輝きを放っている。そんな景色がもやの向こうまで続いていて、我知らず感嘆の声が出ていた。
展望台の柵ギリギリまで寄る俺の隣に立ち、琴音は語り始めた。
「私ね、ここから見える景色が好きなの。何かあったときとか、落ち着かないときは、いつもここに来て景色を眺めるの」
俺のことなど気に掛ける様子もなく、かといって独り言を語る調子でもなく、琴音は淡々と言葉を紡いでいた。普段は意地っ張りで隠しているけれど、この穏やかな表情が琴音の本来の姿なのかもしれないとさえ思った。
ふと、彼女はこちらを向き直って呟いた。
「……昨日の話の続き」「ん?」
言葉に応えた俺の目をじっと見据えて、彼女は問う。
「どうせ帰れって言ったって、帰るつもりなんてないんでしょ?」
「まあ……な。引き受けたわけだし……」
一度来ておいてやっぱり帰ります、じゃ俺の面子も親父の面子も立たないしな。
「それに高いお金ももらってるし、ね」
「うるせーよ。それはほっとけ」
琴音がくすくすといたずらっぽく笑った。そこに敵意のようなものは見えない。対等に話そうとする穏やかなオーラだけを纏っていた。
「まあ……せいぜいよく働きなさい。期待を裏切ったら許さないわよ」
「……おう、任せとけ。これからよろしくな」
差し出された白く小さな手を握り返す。始まりを告げるように、二人の間を一陣の風が通り過ぎていった。
* * *
「ただいま」「ただいま戻りました」
二階堂家に戻り、玄関の扉を開けると、すぐそこで薫子さんに出迎えられた。
「あら、おかえりなさい。……ふふ、ずいぶん仲良くなったみたいですね」
「なっ……別に、仲良くなんか、なってないし!」
からかう薫子さんに真っ赤になって反論する琴音。もうすっかりいつもの調子だ。先ほどまでの面影は全くない。
それでも、俺に見せてくれたあの表情は本物だ。何のためにあそこに連れてきて、何のために話してくれたのかは分からない。でも、俺のことを信頼に足る人物だと認めてくれたからこその行動なのだと思いたい。
「ほら、何ボーッと突っ立ってんの。荷物置きに行くわよ、信明!」
「ああ……おい、走ると危ないぞ!」
琴音の言葉に促され、先を急ぐ。
仕事に対する不安がなくなった、と言えば嘘になる。それでも、なんとかやっていけそうだと思うのは気のせいか、それとも。
仕事への決意を胸にして、歩みを進めるのだった。
お読みくださりありがとうございました。
感想など頂けると非常に喜びますのでよろしくお願いします。