伯爵家の兄弟の秘密
「ちょっとセシルどこ行くの! クッキーは!?」
「おいちび、肩から降りろ! 上に乗ってもいいとは言ったが馬の時だけだっ!」
地下から地上へ続く階段を駆け上がる最中、背後で聞き覚えのある声がけたたましく響いていた。甲高い身勝手な物言いに文句をつける低い声は、間違いなく王宮でセシルを溺死させようとした恐るべき水棲馬のものだ。
(ダンリールに帰ったとばっかり思ってたのに!)
助けられたと言えばそうだが、あのケルピーはセシルを自分で殺したいだけだ。キーラとつるんでいるからと、セシルにとっても友好的とは限らない。
ただ、そのキーラもやけに不機嫌であることもまた不可解だった。が、今のセシルはそれを問いただすのは後回しにするしかなかった。
水棲馬に蹴られたと思しき妖精犬の残骸を避けて、地下から続く階段を駆け上がる。跳ね上げ扉から地上に飛び出した勢いのまま、セシルは自分がたった今出てきた扉を迷いなく閉めた。そばにあった椅子で重石までした。
「……犬に噛まれるか馬に食われるかって、じょ、冗談じゃないよ」
キーラも一緒に閉じ込めてしまったが、頓着していられなかった。彼らの関係はむしろ良好にすら見えたからだ。
「……は、……っはぁ……」
肩で息をしながら、セシルは改めて自分がいる場所を見渡した。
跳ね上げ扉のために捲られていた絨毯は古いが、小さな部屋にはテーブルや長椅子が整えられていて、ともすれば客間のように見えた。しかし所々に積もった埃が、使用人に入室させていない場所であることを感じさせた。
「あれ、出てきた」
突然耳に飛び込んできた子どもの声に、セシルはぎょっとして振り返り、そしてすぐに肩の力を抜いた。キーラとは異なる、初対面のピクシーが意外そうに目を丸くして衣装棚の影からセシルを見つめていたのだ。
「なんだ。ここに来たからてっきり、奥さんとおんなじ目に遭うのかと思ってた」
「……?」
妖精はそれだけ呟くと興味を失ったのか、開いていた部屋の扉からつむじ風のように走り去っていった。
「……奥さん……」
それは、この家の奥方のことか。しかし、彼女はもうずっと前に病死したはずだ。
(……まさか)
眉を潜めたセシルだったが、跳ね上げ扉の下から聞こえた物音に背筋を震わせ、部屋を飛び出した。カーテンの閉め切られた薄暗い廊下には、もう小妖精の姿はどこにもなかった。
それどころか、人の気配も微塵もしない。
「……叔父さんは、どこに」
まだ離れの中にいるかもしれないと、足音に気を付けながら歩を進めると、すぐにこぢんまりとした玄関に突き当たった。
叔父がケルピーの乱入に焦って地下から出たとして、向かう先はまずアレックスの元だろうと予想はついた。つまり、妖精の羊皮紙を保管する場所だ。セシルの父ならまず執務室だろう。
ただ、おそらくその羊皮紙は、スカーレットにも隠されていたはずだと、セシルの思考は立ち止まる。
「……むしろ、ここ?」
セシルは今通ってきた背後の通路を振り返った。厚いカーテンが窓を覆い、コートかけも火のない暖炉も、埃がうっすら白く積もっている。母屋とは違う、小さな建物そのものが息を潜めたようにしんとしている。
しかし、二階へと続く階段の手すりの中腹、ごく一部だけ、その白さが払われていた。誰かが手をついたばかりのように。
セシルは自分の懐を探った。手元に役立つものがなにもないことを確認すると、わずかに逡巡したが、結局、暖炉の灰と埃の中から火かき棒を掴むと、静けさに溶け込むように慎重に階段を上った。
――ぱたぱたぱた……。
セシルが二階に片足を掛けたそのとき、通りすぎたはずの地上階から、小さな足音が耳に響いた。緊張に見開かれた緑の目は驚愕と共に背後へと向けられる。
しかし、階下を省みた視界の端に映ったのは、先ほどの妖精の小さな頭だった。客人の緊迫感など露知らず、玄関へ向かっていく様が見てとれる。
「……なんだ」
息をついて、咄嗟に肩の位置まで掲げていた火かき棒を下げる。こわばっていた肩の力が抜けていく。
その瞬間を待ちかまえていたかのように、胸ぐらを掴む手があった。
「……っ!」
しまったと思ったときには既に遅く、セシルの体は床に引き倒され、その首には太い手が体重と共にかけられていた。
「……っこんな、こんなに破綻するとはっ……!」
セシルは息苦しさと焦りで暴れながら、向かい合う叔父の憔悴した様を直視した。先程までとは明らかに違う青ざめた顔に、髪は乱れ、目は血走り、唇は戦慄いていた。
その尋常ならざる形相が、もがくセシルに伝えるものがあった。
(アレックス、誓約書を見つけたんだっ)
そしておそらくは、もうこの場にいないのだ。既にここを離れたからこそ、叔父はこんなにも追い詰められているのだ。
自分で手を下さないだなんて、もう言っていられなくなったほどに。
「……何がおかしい」
もがきながら思わず笑みを形作ったセシルの喉に、より強い負荷がかかる。セシルは渾身の力で抵抗していながらも、体勢と体格の利は相手にあった。頭の中が窮屈になる切迫感に、苦しみと焦燥感が込み上げる。
「……わたしはもう、間違えない……」
暴れるセシルを押さえつけるアランの口から、低く、暗く、呪詛のように言葉が漏れた。
「選択を誤らない、後悔などしない、今度こそ、私は私のために、いいや、あの子のために、今度こそ」
地の底から這い出るような言葉に呼応するように、首を絞める手にますます力が込められる。
セシルは沈み行く意識を保たんと必死に目を開けた。
「後継の正統性なんて、君も、あの子も、同じだけあるのだから……私たちはどちらも同じ母から生まれたんだ、それを、先に生まれた方だけ、本妻の子のように振る舞っているだけだろうが」
何を言っているのかと聞き返すには、セシルの喉には余裕がない。声はおろか息すら通らないのだから。
「なあそうだろうアルバート、あのとき、わたしには同等のチャンスがあった! スカーレットを、わたしの子を伯爵にする権利が、それを望む機会があった! あんなぼんくらではなく、スカーレットを!!」
見開かれた叔父の目はセシルに向きながら、セシルに向かってはいない。
叔父の狂気より、その内容に、遠ざかるセシルの意識は戸惑いで撹拌された。
(……まさか)
セシルの虚ろな脳裏に、母の言葉が蘇る。
――生まれながらの特権という理不尽なものだからこそ、その継承には厳格なルールがあるのです。それこそ、伯爵とアラン殿だって……
あのとき続くはずだった言葉は、父だけを同じくする異母兄弟の、生まれながらの格差ではなく、ひとたび片方だけが本家に迎えられれば、“厳格なルール”のもと、たとえ同じ父母から生まれた兄弟であってもそうは扱われなくなるということだったとしたら。
それを思い当たっても、もうセシルに確かめるすべはない。
「私はもう諦めない……スカーレットの幸せは、栄光は私にかかっているんだ、もう何にも手を引かない、あの子のために、誤った選択はもう許されないっ!」
声を荒げる叔父の下で、徐々にセシルの動きが小さくなる。
僕だって、諦めてなるものかと、セシルもまたそう思うのに。
意識が遠退けばそれで終いだと、思ってももはや抵抗する力は残されていなかった。
セシルが目を見開いたまま気を遠ざけかけた、そのときだった。
「――どいてくれ」
凄惨な甥殺しの現場に割って入った低い声があった。セシルの意識は驚嘆で舞い戻ってきた。
ここ最近で聞きなれてきたその声に、なぜ逃げていないのか、セシルは愕然として心の中だけで詰った。実際には、苦悶に口を開いたようにしか見えないとしても。
「兄殺しは、俺が竜に約束したことだ」
何を言い出すのか。セシルは迫る死の淵に立たされてなお、わけのわからない話が出てきたことに苛立ちを覚えた。
話す暇があるなら走って逃げて、早くローズとエリックを助けて。
早く、あの女性を。
そればかりが、セシルの頭を占めていた。
対して、アランは青ざめた顔でアレックスを見つめていたが、突如真意を得たとばかりに唇の両端を上げた。
「そうか」
セシルの首に絡んでいた手が緩む。それでも、のし掛かる体勢は変えないまま。
「それではお譲りしよう。そうだ、君にとっても取引の破綻は、とても危険なことだものなぁ」
突然解放された喉からなだれ込んだ空気に、セシルは背を丸めて激しく咳き込んだ。何事だとゆらめく視界を固定しようとつとめる中で、アレックスの横に佇む金色の目の少年が興味深げに三人の男を見つめていた。
アレックスの青みがかった灰色の目が静かにセシルを見つめている。どこか息苦しそうな、切羽詰まったような顔で。
その手にはセシルが予想した通り、丸められた羊皮紙が二枚見えた。歓喜に、セシルの口の端はかすかに上がった。
早くいけ。
セシルはそう、立ち竦むアレックスに言ってやりたかったのだが、肋骨も折れんばかりの咳き込みに文字通り息も絶え絶えという中で、口は「はやく、」までしか動かなかった。
その言葉が迷いを払い、決断の引き金になったように、灰色の目の男の薄い唇が小さく開いた。
しかし、突如階下から響いた衝撃音と怒声に、セシルもアランも、竜の分霊も、アレックスが何を言おうとしたのかを知ることはできなかった。
「アラン・バーティミオン! エデの街での盗賊失踪事件重要参考人として、ご同行願おう!」
はなれの扉が開け放たれると同時に響き渡ったアルター子爵の太い声と、どっと流れ込んだ複数の足音に、アランとアレックスが目を見開き、セシルが舞い上がった埃で一層咳き込んだ。
足音はすぐに階段を上がり、三人の魔法使いの子孫を取り囲んだ。
「……アラン、今すぐにわたしの息子たちから離れ、手をあげて壁に寄れ。ここで銃殺されたくないのなら」
父の声が今ほど冷たく叔父の名を呼んだのを、セシルは過去に聞いたことがなく。
終わりは呆気なく訪れた。
自由を取り戻したセシルは床に座り込んだまま、目の前で起きることを時折咳き込みながら見ているしかなかった。アレックスもまた、そのすぐ横で羊皮紙を後ろ手に唖然としていた。
魔法使いの子孫たる貴族たちに囲まれ、その従者たちに後ろ手に拘束された叔父を、父伯爵が無表情に冷たく見つめていた。
その光景を前に、セシルは先の叔父の言葉を反芻した。
だから、祖母と父は不仲なのか。実の親子ではないから。
だから、父は叔父を厚遇しようとしていたのか。本家に迎えられるのが弟の方である可能性もあったから。
だから、セシルとスカーレットには同等のチャンスがあったのか。
在りし日、この国のどこかで、正妻の子に恵まれなかった貴族が、世間には秘密裏に愛人の子どもの一人を正妻の子として届け出た。
残された弟は納得ずくだった。自分よりも兄がその立場に相応しいと。
それが、何十年もたってから、身を破滅させるほどの後悔に変わるとも知らずに。
「……惜しかったなぁ」
どこかでぽつりともたらされた、少年のつまらなそうな言葉の意味を、セシルは聞き流した。視界の端で、黒い髪が揺れたのも無視した。
選択を誤ったと言った男の、その兄弟関係の末路を、どこか重く虚しく見つめることしかできなかった。
***
アラン・バーティミオンが連れていかれてなお靴音の止まない離れの中で、またひとつ靴音が増えたのはそのときだった。
「アレックス・ロッドフォード殿はこちらに?」
男の靴音よりも細く高い音が響く。ざわめく二階に姿を表したのは、セシルの母と同じか少し若そうな、おっとりとした貴婦人だった。
「……フレンディア伯爵?」
アレックスの怪訝そうな声に、フレンディア伯爵たるルクレシア・ノートンの顔は疲弊しきったセシルとその弟の方向へ向いた。その手には青い薄布の包みを携えている。
「フレンディア卿、こちらはもうおおかた終わったところ。執務室からは、何か見つかりましたかな」
進み出て淡々と問いかけたのはオリエット伯爵その人だった。
「ええ、風精にあらためさせていますが、あとで貴殿の判断を仰ぎたいものがいくつか。ご令嬢の容態も、そう深刻なものではないとのこと。それより、こちらご子息殿の上着でしょう?」
そう言って片手で薄布を退けるなり、アレックスの顔色が変わったのが隣にいたセシルにも伝わってきた。
女伯爵の言葉通り、そこに示されたのはアレックスの上着と、銀色の銃、そして透明の液体が揺れるガラス小瓶があった。
アレックスの驚嘆の意味がわかって、セシルの背も強ばる。――ただし、アレックスとは別の意味で。
「それ、は」
自分でも驚くほどかすれた声が口をついて出たセシルを遮るように、壁に凭れていたアレックスが素早く女のもとへ寄った。
「叔父に取り上げられていたものです。ありがとうございます」
そう口早に言って手を伸ばす。フレンディア伯爵も「いぃえぇ」と目を細めて笑い、すっとアレックスに上着の乗った左手を差し出した。
右手で小瓶を持ったまま。
「そうそう、この中身はいったいなんなのか、アルター卿に判断を仰ごうと思っていたところですの。銀銃同様、風精が反応したということは、何らかの魔法の名残が見受けられるのだけれど」
壁に手をついて立ち上がるセシルの見つめるアレックスの背は揺らがなかった。自分の名前に反応したリリーライン家のアルター子爵が従者との話し込みから顔をあげる。男は水の精霊の使い手だ。
「……まさか、リリーライン家の方にご厄介になるようなものではありませんよ」
アレックスの平坦な声が、かえって作りものめいて響いた。オリエット伯爵の顔が険しくなる。
「そう、じゃあ誰の管轄かしら。これが魔法の水薬なら、むしろエネクタリア家の出番かしら?」
押し黙ったアレックスの顔を見上げたまま、女の口角がにゅうっと上がる。近寄ってきたアルター子爵へ、その小瓶は迷いなく渡された。
「あ、あの……」
セシルが口を開くが、それを制したのは父伯爵だった。紙のような顔色で、アルター子爵の手元を見つめたままである。
魔法使いの子孫が寄り集まって見守るなかで、大人の片手に収まる小瓶の、小さなコルク栓が抜かれる。逆さに振られて水は瓶から流れ出て床に落ちるかと思いきや、そのままひとつの水の塊となって子爵の手の上、空中を浮遊した。
沈黙はそう長くはなかった。
「……確かに、ただの水ではないですな。これは……」
アルター子爵の太い眉が寄せられる。フレンディア伯爵は的を射たりと言わんばかりの目の輝きで先を急かした。
そのとき、魚のように口を開けたり閉じたりして気を揉むセシルの耳に「セシル!」と、予想だにしなかった声と蹄の音が飛び込んできた。
「っ、き、キーラ!」
跳ね上げ扉を突破してきた妖精たちが、階段の下から声をあげる。
「あ、なんか変な匂いがするっ」
ピクシーの不快げな声は、セシルとその家族にしか聞こえない。蹄の床を踏み鳴らす音に、「失礼、クー・シー同様厄介なものがまだいたようだ」と、オリエット伯爵アルバートは懐に手を入れながら階下へ向かった。
「……なんだ、妖精か?」
様子の変わったセシルの顔とアルバートの背中を交互に見つめるアルター子爵を、フレンディア伯爵がせっつく。
「それより、これは見過ごすことの出来ない案件では? ……ヴィレイ卿が何者かに襲われて奪われたという魔法酒だとしたら」
だとしたら、ここにいるのはただの被害者でも、犯罪者の甥でも無くなる。
セシルにもわかっている。今、弟は断頭台に上がったような気持ちでこの場にいるにちがいないことは。
だけど。
「……それは確かに、由々しき案件だ」
だが、と子爵は言葉を続ける。
「これは、魔法酒などではない」
「……え?」
「……は?」
間の抜けた声は、女伯爵のものに当の妖精伯爵の次男のものが重なって響いた。
「……あの、それ、元々は僕のものでして……」
セシルはそこでようやくおどおどと言葉を紡ぐことができた。
「……セシル殿の?」
三人に見つめられて、セシルの視線はよろ、と左右をさ迷う。
別に、後ろめたいことなどない。
ただ、気まずいだけで。
「アレックスは、まだ自分で調合出来ないから、……も、持っていかせたものです」
セシルにだってわかっている。洗濯に出した上着の懐から抜き損ねたそれを、今目を丸くしているアレックスがどのタイミングで、何と勘違いして持っていったのか。
別にこんな展開を予想していたわけではない。ただ、見慣れた小瓶の紛失に気がついたとき、セシルはアレックスの行動の意図を読めておらず、それより気がかりなことは他にあった。
――美しい女が無断で託した見慣れない小瓶は、他の何よりも優先して大切に机の引き出しにしまっていた。
「…………聖水、です」
階下で、小妖精と水棲馬のわめく声がする。嫌な水の臭いがすると。
「…………せいすい、とは」
呆然としたフレンディア伯爵の声に先程の喜色は微塵も残っていない。
階段から床の軋む音がして、それがゆっくり近づいてくる。父伯爵が戻ってきたのだとセシルに知らせていた。
「……妖精避けの、僕が普段持ち歩いてる物で……」
それは、セシルがダンリールへの旅にも小さな鞄に入れて持っていき、そして結局使わなかったもの。厳選した材料を必要とするほかには簡単に作ることができて、しかし使い道としては対妖精魔方陣の生成が主で、普段からほとんど出番のなかった魔法の道具。
ようは、塩水である。
***
二階に戻ってきたオリエット伯爵は無言で瞠目した。
三人の魔法使いの子孫が乾ききった眼差しで床を見つめていて、その側では赤毛の息子が汗をだらだら流しながら、居心地悪そうに立ち尽くしている。
状況を把握しようと目を走らせれば、三対の眼が見つめる先の床には、先程まではなかった小さな水濡れの染みが出来ていた。
そしてその染みの真上では、先程まで目を輝かせていたフレンディア伯爵が、濡れた右手を体の前にぶら下げている。
まるで、件のガラス瓶から引き摺り出され浮遊していた水の塊に、強い平手打ちでも食らわせた後であるかのように。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
誰も、一言も発しない中で、水の染みの真上、ぽたぽたと、女伯爵の右手から床へと水滴が落ちる音が、滑稽に響いていた。
アルバートは、懐にケルピーを拘束するのに使った手製の聖水の小瓶をしまい直しながら、異様な空気に静かに困惑した。
ただ、ほんの数分の間に、緑の目の我が子が場を白けさせたことだけはよく伝わってきた。




