一杯目
それは、セシルがまだ公爵邸の人々に向かい合っていたときのこと。
***
「……?」
視線を感じた、と思った男は椅子から腰をあげて屋敷の奥に目を凝らしたが、閑散とした廊下に人影は見当たらなかった。
気のせいかと白い木製の椅子に座り直したところで、「お待たせしてごめんなさいね」と軽やかな声が別の方向からかけられる。
「なあにきょろきょろして。うちの調度品が気になる?」
ベルベットの髪を花柄のリボンで飾った住人が侍女を伴ってテラスへ現れてくる。ひかれた椅子に腰を下ろし、向かいにかける相手に目を合わせて微笑んだ。
「珍しいでしょ、南方風なの。結婚記念で旅行したときにお母様が街並みを気に入ったそうね。でもうちはお父様の仕事の関係でリンデンからは離れられないから、それでお婆様がお爺様からもらったおうちを作りかえたのよ。初めて来たときは、ゆっくり見られなかったでしょ」
さわやかな香りと共に冷たいミントティーが供されたところで使用人たちが下がると、「ではあらためて」と娘は居住まいをただした。
「わがバーティミオン家へようこそアレックス。歓迎するわ」
スカーレットはそう言って宴のようにグラスを掲げた。
「……急に、悪いな」
客人――アレックスも、外を眺めていた視線を従妹に合わせて、同じようにグラスを揺らした。
ただ、同じように中身に口をつけることはしなかった。
「いいのよ。来てくれて嬉しいわ。……あのあと、どうなったのかわからなくてやきもきしてたの。あなたはもちろん、従兄様も帰ってこなかったって、伯母様からきいてたから」
華奢なグラスの中の水位を、もとの高さから四分の一ほど減らしてスカーレットはそう答えた。アレックスが玄関先に現れたときからの朗らかな笑顔はそこで翳り、細い眉は気遣わしげに顰められた。
自分たちを心配していたことが伺えるその顔を見返しながら、しかしアレックスは相手がそれとなく求める説明をはぐらかした。
「ちょっと、色々あってな。……今日、アランさんはどこに?」
スカーレットもむやみに食い下がることはしなかった。
「お父様なら、朝から顧客のどなたかと会っているみたい。なんだ、お父様に会いたかったなら先触れだけでも寄越してくれれば、時間調整したのに」
「無作法で申し訳ない。できれば、あの人が仕事から戻るまで待たせてほしいんだ」
「じゃあそれまで私とお茶しましょうね」と、笑顔で了承したスカーレットを尻目に、アレックスは再び庭と邸内に視線を巡らせた。
「さっきからどうしたの? なにか気になる?」
「いや。……やけに、静かだなと思って」
テラスにいるのは、アレックスとスカーレットのみである。アレックスはひとり記憶を頼りにここへやってきたのであり、またバーティミオン家で働く使用人たちは皆下がっていた。
それだけならアレックスもさして気にしない。人払いが必要な話はさんざんしてきた。
しかし、妖精すらも視界に映らないのは、誰かの意図的なものとしか思えなかった。
「お父様がここを商談で使ったりもするから、不慮の事故を防ぐためにあまり妖精が出歩かないように工夫しているの。色や木材の配置とか、要所要所の鉄とか銀細工とかね。寝る前に窓辺のクッキーとミルクはおいてあげるけど、みんな幸運ばっかり運んでくれるわけじゃないし、それに昔は私やお父様があんまり彼らに気を取られちゃうと、お母様が戸惑っちゃってたから」
「夫人に気を使ってたんだな。……庭の花も珍しいのが多い。夫人のために選ばれたのか」
「……そうね。あのあたりのオレンジ色のラッパみたいな花、きれいでしょう。良ければ種を贈るわよ」
在りし日を思い出したのか、一瞬だけ苦く笑ってから、スカーレットはことさら明るく話し続けた。
「それより、お父様に用だなんてどうしたの? 公爵夫人のことで何かあったなら、私も力になりたいわ」
「……いや、あんたに協力してもらうべきことは、もうないかな」
身を乗り出してくる相手の視線を避けるように、アレックスはまた視線を庭先に映した。手の中で、一向に減らないミントティーのグラスがきらきらと光を反射している。
作り物のような美貌に薄く浮かぶ笑みこそ、わざとらしい作り笑いだと気が付いたスカーレットの顔に戸惑いが広がった。
「……アレックス?」
「……アランさんは、娘が無事リンデンに帰ってきたとき、さぞ安心したろうけど、同時に忠告したんじゃないか。これ以上、俺たちと関わるなとか、迷惑をかけるなとか。言い方は分からないけれど、自分に無断で跡を追った甥たちとの関わりについて、少し距離をとるよう言わなかったか」
淡々と問いかけるアレックスの様子に、スカーレットは手に取った焼き菓子を自分の前の皿に置いて困り顔を向けた。
「まさか。ダンリールには私が勝手に行ったの。あなた達に非がないことぐらい、お父様も分かってたわよ」
「甥に悪気が無くても、年頃の娘を心配する親なら、あんたの軽薄さに苦言を呈するんじゃないかな。そして、セシルはあの性格だから従妹の行動を止める役目を果たせそうにないし、俺のことはまだ信頼できるほどよく知らないだろう。……なのに、よくまた舞踏会での同伴を『よろしく』なんて言えたよな」
「何が言いたいの」
「アランさんは、エリックが動かし難くなって、娘を通して俺たちの動きを監視しようとしてたんじゃないかと思って」
アレックスはそこまで話して、ようやく相手の顔を見つめ返した。さっきまで愛想よく緩んでいた琥珀色の瞳がみるみる見開かれていくところだった。
「……お父様と、私を疑っているの」
「疑っているわけじゃない。確信してる」
娘が息を呑んだ気配があった。
「アレックス、あなた勘違いしてるわ」
「スカーレット、あんたが王宮から帰って、それからアランさんが封書を送り付けるにはそう難しくないだけの時間の余裕があったと思う。帰宅したあんたから、王宮で起きたことを聞いてからでも、充分」
「そんな……そんなこと……」
スカーレットが言葉に詰まったように口をつぐんだ。
アレックスが様子を伺っていると、こくん、と娘の頭が下を向いた。ミントティーより暗い色の髪が揺れる。
「スカーレット?」
今度は、大きく目を見開いたのはアレックスの方だった。
不快な音を立てて床にグラスが落ち、まだ冷たさが残っていた中身がテラスに広がる。
咄嗟に身を乗り出したアレックスの手が届くより早く、スカーレットの上体はテーブルに倒れ込んだ。身内とのお茶だからと、手袋をつけていなかったむき出しの右腕がだらりと空中に垂れ下がる。
「スカーレット!?」
立ち上がったそのとき、アレックスの耳は屋敷の奥からの硬い音を拾った。
足音に目を向けると、丸顔の男が後ろ手を組んでそこに立っていた。その目元はにっこりと細められている。
「いらっしゃいアレックス」
家主アラン・バーティミオンは、墓地で会ったときとなにも変わらない穏やかさとにこやかさで歩み寄ってきた。
「応接間で客と会っていたものだから、出迎えもできず済まなかった。――ミントティーは、嫌いかね。私は好きなんだがなぁ」
対照的に、アレックスは強張った表情で叔父を見つめ、次いで昏倒した従妹と落ちて割れたグラスに視線を送った。
てっきり、客と会うというのは外に出ているという意味だと受け取っていたのだ。家の中で会っていたとは思っていなかったアレックスは、不意打ちのように現れた相手が近づいてくるのを、ただじっと見つめていることしかできなかった。
「つんとさわやかな香りがとてもいい。夏にはぴったりだし、妖精避けにもなるし、何よりうちで使ってる睡眠薬の独特の香りを消してくれる」
混ぜ物がされていたことに、さして衝撃は受けなかった。ただ、しいて言うなら、飲んだ場合に倒れるのは自分だけだと思っていた。乾杯しても飲み物に口をつけなかったのは、従妹が父親に協力している可能性を考えてのことだった。
目の前の光景に、アレックスの喉が小さく上下した。
「……スカーレット、は」
「ああ、この子は何も知らないよ。……知らなきゃ、嘘をつく必要もない。そうだろう」
体調を案じるアレックスの意図とは食い違受け答えとともに、アランはゆっくりとした足取りでテラスに出てきた。その手で慈しむように娘の髪を撫でる。
「最初から最後まで、全部私がやるんだから。誰に何を聞かれても、この子は何も悪くないままでいられる」
娘を起こし、その寝顔を見つめてから、男は客人に視線を向けた。その顔から、柔和な笑みは消えない。それが却って気味の悪さを感じさせた。
(飲ませないほうが良かったか)
相手への制止役とも、これから起きることの目撃者ともなりうる第三者を実質的に遠ざけてしまったことに、アレックスは気が付いた。
後悔もむなしく、ピクシーの姿も見えない屋敷のどこかから、犬の唸り声に似たものを、ぞっと粟立つ肌の感覚とともに察知した。
「ようこそ我が家へアレックス。せっかく来てくれたんだ、とっておきの場所へ案内したい。できれば、その上着は中身ごとここに置いて、ね」
アレックスは、銃を取るのを諦めざるを得なかった。
***
金色の髪と瞳の小さな妖精は、誰に咎められることもなく郵便馬車の馬の背に跨っていた。
「あたし知ってんだぁ。いまどきの人間が怖がるものが何なのか、ちゃんと知ってるんだからぁ」
馬の背の振動など、彼女には苦にならない。小さな手でたてがみを引っ張るから、時折首をふる馬の様子に御者は首をかしげていた。
「……あ」
途中、ベルベットの女が住む白い屋敷を目にし、不快気に睨み付ける。
妖精は、女は嫌いだがその父親も気に入らない。白い額を隠すように手で覆った。
しかしすぐに興味を別の物に逸らした妖精は、御者の隣に器用に移動し、その鞭の動きを注視し始めた。ガラガラと、馬車のけたたましい音が、白い屋敷の前を通って、離れていく。
誰にも咎められはしない。この国のほとんどの人間に、とがり耳の幼子の姿は見えないのだから。
――あくまで、人間に、は。
「――ねぇ、あんた、ロッドフォードのピクシーだろ」
荷台の上から聞こえた声に、幼子はきょと、と振り返り、金色の瞳を少し上に向けた。
――同族は、また別の話である。




