ある妻、ある王女、ある娘の独白
最初にそれが母親に伝わったのがいつだったのか、女はよく知らない。
いつ周囲と自分との違いに気が付いたのか、女はそれもよく覚えていない。
ただ、母が自分を見るとき、すました表情の下で恐怖と罪悪感に喘いでいるという事実だけが、常にそこにあった。
清潔で、簡素で、快適で、そして冷たい塔の一室で、寝台の上に座る女は薄い瞼を閉じた。両ひざを抱え、腕の中に顔を沈める。
誰にも見られないように。
誰も見なくてすむように。
(アレックス、きっとやってくれるわよね。あなたなら、私たちなら、きっとわかりあえるものね)
女には確信があった。かつて拾った少年の心の深い傷を、女はよく理解していた。成長した彼に、どういう言葉をかければ伝わるか、追い詰められた今、それが手に取るように分かるのだった。
その傷を、少年が口に出さずとも。
だけど。
ふと、女の頭を一抹の不安が掠めた。
彼は、一年前、自分の手を振り払っている、と。
(あの時も、こうやって縋ればよかったのかしら。みっともなく、行くなといえば、アレックスは、足を止めたのかしら)
それは、当時の女にとって難しい選択だった。女を王女たらしめたのは、姉たちと張り合わんばかりの誇り高さだけだった。
それだけだった。
「……ああ」
思わず、声が漏れた。
姉のうち、もっとも気高く、もっとも恐ろしい女の顔が浮かぶ。
あの人に罪などなかった。ただ、聡い人だった。聡明さは残酷だ。こちらが抱える罪を、悪意なく暴いてしまうから。それがどんな恐怖を自分たちに与えたかも知らずに。
罪なき姉を遠ざけた母の決断を、女は責められない。
ほかの誰がなじっても、女だけは、何も言えない。
(ここを去るべきだったのは、本当は私だったのに)
女は、長い時間、自分の行く末について考えていた。
外界へとつながる扉を閉ざしてみても、自分によく似た少年を慈しんでみても、ほんの一時の安堵と満足感しか得られない。自分がその場にいる限り、心は休まらない。
母の心に、安寧は訪れない。
いるべき場所を間違えているからだ。本来ならここに、自分の座席は用意されていなかった。
そこにむりやり座る場所を作ってもらっていたから、歪みがいつまでたってもなおらなかった。
(きっと、天罰が下ったのね)
いるべきではない場所に、長くいすぎた自分に。
(アレックス。あなたも同じよ。私たち、おんなじなのよ)
彼も表舞台に出て、早々に痛い目に遭っている。
いるべきではない場所に、無理くり入り込んで、周囲を傷つけて、思わぬ悲劇を引き起こしている。
彼はそんなことを、きっと望んでいなかったのに。
自分の危惧した通りではないか。女はそう、昏く勝ち誇った。
かつての少年が美しい男となって、何の欲を出したのか。
彼の強欲さが、自分にもあり得た醜悪さのような気がして、許せなかった。
(私たち、おんなじなのよ)
自分の醜い欲の後始末くらい、自分でつけてみせる。
そう思って、引き金を引いたのに。
女はぐ、と己をかき抱く腕に力を込めた。
じきに裁判が始まる。この王国の歴史の裏で密かに伝わってきた、裏切りの魔法使いを裁く法廷が。
(そういえば、誰か、あの人以外に知っている人間がいるのかしら)
女のなかで沸き上がった想像に、鼓動が大きく揺れた。女は抱きしめる体の震えを抑えられなかった。
裁かれるのが魔女だと、知っている人間がいるのだろうか。夜盗殺しなど比べるべくもない、恐ろしい呪いを抱えた魔女だと。
(私が、罪を認めたあと。閉じ込められるか、処刑されたあと、あの人は、私たちを許してくれるかしら。約束を破らなかった私に免じて……あの人の失策を、罪人という形で片付けを引き受ける私に免じて)
女はそこで、自分がさも“無実の咎人”であるかのように思考していることに気が付き、鼻で嗤った。
彼も言っていたではないか。自分が、彼に、彼らに何をしたかわかっているのかと。被害者ぶるには、随分動きすぎていた。
だが、少しの言い訳を許してもらえるなら、自分だって、好き好んでやったわけでは無い。女は誰にともなくそう弁明した。
この末路は、女が考えていた人生の予定からは程遠い。本当なら、結婚という儀式の後、二度と領地から出ないで、静かに老いていくつもりだったのに。
その穏やかな人生にしがみつきたくて、言われるがままに動いた結果が今だった。
抱えた罪から逃げようと罪を重ね、結局自分で報いを受けている。
意外と、世の中はうまくできている。悪いことはできないものだ。
(結局、一年ちょっとしか一緒にいられなかった)
公爵の、深い皺の刻まれた顔を思い出す。彼はこの結末をどう思うのだろうか。
少しは、心を痛めればいい。意地悪くもそう思うから、彼に忘却の魔法酒は渡してほしくなかった。
“夫”の考えていることは、その跡取り息子同様、女には全くわからなかった。
それでも、自分は丁重に扱われた“妻”だった。きっと、一切の社交をせず、女主人としての義務を果たさずとも、クライス・エスカティードは女を責めなかっただろうと推測できる。
そうやって、ゆるやかに閉ざされた屋敷の中、愛も恋も知らないまま、自分の鏡写しのような男の成長を眺めて、心穏やかに暮らす。
それが最良の道筋だったはずだ。誰にとっても。
(……)
女の金色のまつげが微かに揺れる。
その動きに呼応して、暗闇だった視界に細い光が差し込む。
女にとって、結婚祝いの場は、最初で最後の表舞台になるはずだった。
予想通り、会場の出席者はみな女へむけて、物珍しさへの好奇と、あさましい縁組への嘲りと、緊張で固まった表情への悪意、それから、若い身空で老貴族に嫁ぐことへの下品な憶測を向けてきた。
誰も口にしなかったが、必死に目を伏せていても、充分すぎるほど伝わってきた、泥のような声。
その中で、気が付いたのは偶然だった。
『昔おとぎ話できいた』
重い淀みのような喧騒に混じっていたのは、若い青年の、ともすれば少年ともいえるような、明け透けで飾りのない独白だった。
『妖精の女王様がいるのなら』
白昼夢でも見ているのかと疑うような、夢見心地の声だった。
『きっと――』
(……あーあ、こんなことなら)
ばかばかしいことだ。形だけとはいえ、結婚の場で、他の貴公子の声に耳を傾けて。
(あの言葉が、誰のだったのかなんて、考えなければよかった)
しかも、こちらのことをよく知りもしないで、勝手に熱を上げるような浅はかな男に。
(……罪を犯す前の最後の夜に、お兄様の誕生日にかこつけて探してみようなんて、考えなければよかった)
あまつさえ、彼に会ってみたいだなんて。
(あなたがどういう人間なのか、どれだけ愚かな勘違いをしていた男だったのか)
穏やかに、人の目から隠れて、恋も、真の意味の結婚も、自分で産む子どもなんてものも知らないまま朽ちていけたら、どんなに楽かと思っていたのに。
(その気持ちが、私自身の手で終わったことまで、思い知らされるくらいなら)
浅はかな熱に浮かされたまま、愚か者なりに突っ切って、自分を攫って逃げて欲しかっただなんて。
女は、自分の詮無い、とりとめもない空想に、ゆるく笑った。
なるほど。都合の良い想像の湖に思考を浸すのは、ぬるくて、柔らかくて、幸せだった。
彼が、公の場でもよくそうしていた理由がわかった。
突如、密やかな沈黙の広がる部屋にノック音が響く。女の空想の湖は脆く消えた。
ついで、扉の外から声が掛けられる。無機質な兵士の声に、女は手の甲で下瞼を緩くおさえて顔を上げた。
鍵の回る音のあと、ゆっくりと扉が押し開かれる。女は床に足を下ろした。
『じきにくる』と思っていた瞬間は、もうとっくにすぐそばに来ていたのだと思い知りながら。
――彼が話してくれた、傘を抱えた妖精が、もしも自分のそばにいてくれるなら。
牢の中で孤独と共に眠りにつくときにも、処刑台で最後の眠りにつくときにも、夢の傘を広げて欲しい。
私にまっすぐ恋してくれる、馬鹿な緑の瞳の夢を見させて欲しい。




