王宮からの逃走
宮殿と西の塔を結ぶ三階の空中通路には、当然ながら貴公子や貴婦人が従者とともにその場にとどまっていた。貴族たちが野次馬ではなく、魔法使いの子孫であることは遠目に見るセシルにも見当がついた。
同胞の反感を買っている身ではうかつに近づけないそこへ、王妃が一人で進み出た。セシルが花瓶を乗せた台の陰に隠れていると、ほどなくして現場には王妃だけが残されていた。手招きに従い、セシルも足音に気を使いながら近寄る。
「セシル殿。あの子の行方、わかりますか」
「……」
王妃の固い声に、セシルは血の跡が生々しい絨毯と壁を苦い顔で見つめた。手がかりの見つけ方など思いつかないのに加え、思いのほか気の滅入る現場を直視したせいであった。
それでも、セシルはあまり息を深く吸わないようにしながらしゃがみ込んで、注意深く周辺を観察した。
「……あれ、足跡だ」
「足跡? あの子のですか?」
ひとりごちたセシルに、王妃は怪訝な顔で足元を見回した。濃い緑色の絨毯は足が沈み込むほどとまではいかないが、上質な毛織物であり、跡の付きにくいつくりだった。
「え? あ、いいえ、あの方のではなくて……なにか、蹄のある……」
「……失礼、どのあたりに?」
セシルは絨毯の一か所を指さして、ようやくこの足跡が自分にしか認識できていないことに気が付いた。王妃は眉間に皺まで寄せて、セシルの指さすあたりを睨み、それでもなお首をかしげていた。
妖精の足跡だ。セシルにはその毛織物に刻まれた重みの跡として認識されるが、王妃には何の違和感も感じられない。見えていないというわけでなく、それを“足跡”として認識できないのだ。触ってもなんとなく繊維がよれている程度にしかわからないはずだった。
しかも、この足の形と、侯爵が負った怪我からして、この場にいた妖精はおのずと特定できた。
「王妃陛下、夫人は……」
セシルは自分でもわかるほど切羽詰まった声を出してしまったのだが、静寂の中に微かに響いた物音に気付き、セシルほか王妃までも鋭く周囲に目を走らせた。
空中廊下の端から端、つまり背後から前方まで、見える範囲には誰もいない。
しかし、前方の丁字路の死角はそうではなかったらしいと思い知る。
沈黙は突然破られ、「何者!」と女の叫ぶ声と同時に衝撃音がして、固い靴音が離れていく。
「だ、誰です!?」
瞬時に駆けだした王妃に、すわさっきの貴族かと一瞬躊躇ったセシルも倣う。丁字路を曲がると若い侍女が困惑の表情でしりもちをついていた。
「お、王妃様、曲者でございます!」
「おちついてください、どのような人間でした?」
セシルは侍女を助け起こそうと駆け寄った。侍女は小さく礼を言ってから、王妃を見ながら興奮口調でまくし立てた。
「帽子をかぶった小柄な男が、そこの角から通路を覗き見るようにしていたのですっ。わたくしが声をかけるとぶつかってきて、塔の下に下りていきましたわ!」
「男? 王子か、貴族のどなたか? フレンディア伯爵の御子息が戻ってきていたのかしら……」
王妃は侍女に重ねて問いただしたが、セシルは侍女のためにしゃがみ込んだ時以来ずっと床を凝視していた。
「まさか先程言っていた共謀者では……セシル殿?」
セシルは、王妃の独り言も、訝し気に声をかけてきたことすらも無視して走り出すと、塔の中央柱に巻き付く螺旋階段を駆け下りた。
はるか下方からかすかに足音がする。
靴と、蹄の。
(曲がり角で僕たちを見ていたのは、きっとローズ様だ)
しかも、また男装をしているらしい。
加えて、今度は妖精を連れている。侍女を突き飛ばしたのは、本当はローズではなく、丁字路にも足跡を残したユニコーンだったのかもしれないと思いながら、セシルは地上階まで駆け下りた。転げ落ちなかったのが奇跡だった。
セシルはぐるりとフロアを見回した。部屋に入ったのかと手近なところの扉を開けるが、見る限りは無人であった。隣の扉も、と開けると、埃でも被ったかという激しさで自らの服を叩く若い男女を見つけてしまった。騎士と侍女らしき彼らはセシルと目が合うと、「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。男の制服のボタンがずれていた。
「……ここに、帽子被った若い男は入ってきた? 僕よりちょっと小さい人」
「し、知りません!」
「……足音とか、きいてない?」
「か、階段をものすごい勢いで下りてきて、それっきり……」
「そ。ありがと」
セシルは肩で息をしながら、「言わないから、そっちも僕のこと、言うなよ」と口止めをした。青ざめたさぼりカップルが頷いているのをろくに確認もしないで、扉を閉める。
「……外に出たんだな」
西の塔は、大広間のある宮殿の中央からは遠い。外に出ても、庭木の手入れこそされているが明かりが少なかった。古びた井戸も物寂しさに拍車をかける。見張りがいないのはどういうことかと思ったが、そもそもいればあんな小部屋でうかつな恋人たちが逢引きするはずもない。大広間周辺に出払っているのかと見当をつけた。
セシルはしゃがんで馬蹄の跡か靴跡を探そうとしたが、暗くてよく見えなかった。
階段を下りる際、ローズはユニコーンの背に乗らなかったことを思い返す。それであれば王妃の言う通り、足の怪我もあってそうそうセシルとの距離を開けられないはずで、であればそう遠くへは行けないだろうと言えた。
しかし、どれだけ見回しても誰も、何の気配も感じられない。
セシルは途方に暮れて井戸のふちに腰掛けた。掃除はされているのか、砂埃は気にならなかった。
(ユニコーンは、もしかしてもともとローズが連れ込んだのか?)
まさか、と自分の考えに首を振った。であればあんなに怯えまい。ユニコーンが自分を攻撃しないと分かって、王宮内部にまで連れ込んだのだ。
そうなってくると、ヴィレイ侯爵が刺されたのは不幸な事故だったのかもしれないという気もしてきた。ユニコーンは人間の男に容赦しない。
(でも、父さんの力なしじゃ、妖精を建物内へ連れ込めないはず)
内側から手引きできるのは庭までだ。それより先となると、専門的な事前準備をするか、強引に妖精除けを解いているか、どちらかのとっかかりがいる。
セシルはもう一度塔の入り口に戻った。両手開きの扉の周囲の石壁には、美しい紋様に見せかけた魔法陣が彫られている。何代か前のオリエット伯爵が監修、設置したものだ。
「……?」
セシルは違和感に従ってじっくりと眺めた。視線が右下の地面近くから始まり、アーチ型の扉上を通って、左下へ。
そこだけ、紋様が欠けている。劣化したのか、割れて剥がれ落ちているのだ。
セシルはひや、と青ざめながらしゃがんだ。よく見ると石の破片が周囲の芝生に落ちている。
でこぼこの傷痕に触れればざらざらと砂のような破片が落ちる。割れたばかりだった。
(あの人が自分で割ったのか?)
そのとき、のんきな顔をしながら、巻き毛のピクシーが近づいてきた。西の塔を見上げて、「エイミー、今までこの中に入ったことないの。あなたと一緒に行ってもいい?」と訊いてきたのに、セシルは首を横に振った。
妖精はわかっているようだった。今まで入れなかった西の塔が、手引きがあれば今は入れると。
傷は荒々しくも正しく、妖精除けの力を薄めていた。
「……なんかあの人、知りすぎだな」
エネクタリア家の魔法の酒も、ロッドフォードの妖精除けも。
(レナード殿下だって、妖精のことはろくに知らなかったのに?)
そもそも、ロッドフォードに関してなら、ダンリールの城についてもよく知っていた。
セシルは改めて疑問に思う。
何でも知りすぎだ。
誰が教えているのか。
そして。
「……どこに行った?」
セシルは考えた。王宮には隠れていられないはず。公爵家も同様である。
すぐには見つからないところで、これら二ヵ所を除いて、今のローズが行きそうな場所とは。
「おにいさーん、大丈夫?」
突如聞こえた少年の声に、セシルはぞっとした。竜の声だ。
楽しげな顔で背後の茂みから現れた少年に、セシルは最悪の想定をした。
「おまえ……まさか」
アレックスと竜の取引において、アレックスが支払うべき対価はローズだ――と、セシルはまだ思っている。
「そんなに怯えないでよ。アレックスおにいさんが明確に支払いの意思を示すまでは、手を出さないから」
勿論、正しい対価を知っている竜は、あどけない笑みを途端にあくどいそれに変えた。――最も、竜もまたセシルの勘違いを把握しているわけでは無い。
思惑がすれ違っていることなど気づく由もなく、セシルは竜を忌々し気に睨みつけた。
「悪いけど支払いの日なんてこない。絶対に」
「これに関してはアレックスおにいさんと俺の問題だからね、悔しいだろうけど、あなたの出る幕じゃない。そんなことより、俺、今現在困ってそうなセシルおにいさんが気になって仕方ないんだよなぁ」
セシルは竜の甘言に耳を傾けまいと塔に戻ろうとした。しかし、続いた言葉に足が止まった。
「金の髪の、紫の瞳の美しい人、追いかけなくっていいのかな」
「……なんで知って」
「逃げるとこ、見てたよ。手伝うのはやぶさかでもないんだけど」
ただじゃいやだな。
乗ってはいけないと分かっていた。竜の取引は絶対に履行できない対価を求められる。アレックスとの取引も、水の中でセシルに求めたものも、そうだった。
「僕の大切なものと引き換えにって? おまえに渡せるものなんて、何もないよ」
「あるある。人間は大事なものがいっぱいだろ。長生きしている分、俺の方が詳しいぞ」
あるから渡せないって言ってんだよ、とセシルは心の中だけでいう。
「……早くしないと、追っ手につかまっちゃうんじゃないの」
セシルは必死に頭を巡らせた。
大事なものと引き換えに、アレックスは怪我を治させた。ついさっき、セシルも水死から助けられそうになった。これらは切羽詰まっていて、竜のペースに巻き込まれていた。
そして、セシルと竜が唯一行った取引は、物置からの解放と、封印からの解放であった。
嘘はつかない。でも、言う必要のないことは、言わない。
「……そもそも、値段が高すぎない?」
「は?」
セシルは闇の中で目を輝かせる少年妖精に向き直った。
「命を助ける代わりに他人の命とか、人生そのものなら分からなくもないけど、僕の望みは僕の命と何の関係もないし、公爵夫人だって捕まってすぐ殺されるわけじゃない。こっちが求めてるのは明らかに命より緊急性が劣るのに、そっちは命と同じくらいの価値のものを欲しがる気? がめつくない?」
まずは、命のやり取りに限らないと明言させておく。値切りだ。
プライドの高い妖精の顔からにやにや笑いが消えた。
「勇み足で早まっているのはお前だろう。俺は一度も、人間の命を差し出せなどと言っていないというのに」
声が低くなり、口調まで重苦しくなった。素はこっちだろうとセシルは慎重に観察する。
無茶な取引を強いられるのは、竜にとって欲しいものがこちらにないから。
竜にとって本当に欲しいものなら、向こうだって寄ってくる。
セシルは眉間のしわを深くして「性格悪いな」と呟いた。諦めたように長くため息を吐く。
「もう、早く元の城に戻ってほしい」
金色の目が下から睨み上げてくる。
「あの黒い髪の小僧に踏み倒させる気か」
「したくてもできないってことくらい分かってる。まぁ」
セシルは腕を組み、顎を上げた。
「それが無事終わったら、おまえの楽しい外遊びも、魔法遊びもおしまいだよ。それまで、せいぜい楽しめばいい。……じゃあ、僕もう行かなきゃ。おまえに渡せるものなんてない以上、自分であの人を探さなきゃ」
ひとつ嘆息して、踵を返した。
「……魔法は解けた。おまえが解いた。もう戻らない」
セシルは足を止めた。ちらりと振り返る。
「……バラの刻印の魔法使い。子孫も元気そうだよ」
もしも、地上最強の妖精が、視線に毒を込める力を得ていたら、セシルはここで死んでいたに違いなかった。
だが、現実に死んでいないので、セシルはそうと知られぬようにつばを飲み込んでゆっくり言葉を紡いだ。
「もし、僕をフレイン公爵夫人のいるところへ連れて行ってくれるなら、竜の間から持ち帰ってきたあの絵を、おまえにあげる」
竜が顔をしかめたので、セシルは内心どきりとした。動揺を顔の筋肉に表さないことに全神経を集中した。自分の口角の角度まで正確に言い当てられそうなほどに。
「……もらっても仕方ない」
「でも、きみの手元にあれば、こっちはそれをどうすることもできなくなる。欠けた箇所を、直すことも」
セシルが相手の思惑を探るように被せる。
竜の欠片はぎらぎらとした金色の目で、セシルの緑の目を射抜いたまま、低く重く呟いた。
「ならば、取引履行の期限を決めろ」
「……具体的な日付も時間も無理だよ。非常事態で家にも帰れないんだから、いつになるか明言できない」
「その手に乗るか。おまえといいあの小僧といい、揃って屁理屈こねるだろうが」
セシルは眉を寄せて口を尖らせた。
「僕はこの取引しなくたっていいんだからね。国中這いずり回って探してれば、そのうち追っ手か僕か、どちらかが夫人を見つけられるんだから」
「……」
「……そ、そんな目で睨むなよ、仕方ないな」
譲歩したふりをする。セシルが折れたように――セシルが最初から抱いていた思惑にはまり込んでいっていることを、悟られないように。
「一度、僕がリンデンの屋敷に戻ればモノを取れる。そのあと最初におまえに会ったときに引き渡す。これでどう?」
取引成立。
セシルが無意識に瞬きをした一瞬の後に、少年がいた場所には大きな馬ほどの大きさの赤い竜が鎮座していた。セシルは初めて間近で全身うろこ姿のダンリールの竜――おそらく、本来の大きさよりかなり小柄になっている――を目の当たりにした。
「乗れ。女は白い一角獣に乗っている。馬でちんたら追っているうちに、国境まで走れる速さだ。……俺の知ってる線より、さらに国境が遠ざかってるなら別だがな」
セシルは驚きと生理的な恐怖を飲み込んで、蝙蝠のような翼の付け根をとっかかりにして背に跨った。
「それで、追い付くにも、向かった先に見当はついているのか若造」
そこへセシルが返した答えに、ただでさえ苦々しかった竜の声は一層不機嫌になった。セシルは耳のありそうな角の近くに口を寄せる。
「取引は成立した。約束は、守ってもらうからな!」
***
東の空が白々と明け始めていた。
(……なんか、既視感)
体を固定せず、鞍も手綱も無しに空を飛翔されるのはとてもいい気分ではなかった。セシルは眼下に広がる街並を見たくなくて、別のことを考えていた。
セシルは、自分のやり口がつい先程のレナードのそれと似通っていることは気が付かなかった。
なぜなら、彼もまた、知らず知らずのうちに相手の譲歩――用意されていた『特別扱い』に誘導されていたのだから。




