王家の秘密のバラの花
齢五十をこえてなお、美しさは衰えを知らず、気品は増すばかり。次期国母となることが約束された、王国でもっとも貴い女性。
「兵士が慌てふためいてマグノリア殿が来たと報告に来たから、何かと思えば。……レナードは、あなた方を留め置くよう命じてはいない筈ですが、これはどういうことですか、セシル・ロッドフォード殿」
セシルはレナードを彷彿とさせる青い目に射止められたまま、つかみかかっていた弟の襟から手を離した。背中をだらだらと汗が伝うのを不快に思う余裕もないほど、動転していた。
スカーレットが素早く礼の姿勢をとり、アレックスも立ち上がって頭を下げる。二人とも、セシルに負けず劣らずの青い顔だった。
「……も、申し訳ありません……」
謝罪する赤毛の若者を、王妃は固い表情を崩さずに一瞥した後、スカーレットへと視線を移した。
「そちらは……ああ、伯爵の弟君が運営する商会のご令嬢ね。バーティミオン氏には、昨年はローズが世話になりましたが、だからといってこんな振る舞いは許されませんよ」
「……返す言葉もございません」
スカーレットの沈んだ声音に、王妃はひとつため息を吐く。
「……マグノリア王女は、あなたたちに何を話しましたか。あの人は、私やレナードのことをよく思っていませんから、感化されているのかもしれませんけれど」
三人はぶんぶんと首を横に振った。この母子は、ただの継母と継子の親子喧嘩では済まされない。相手に肩入れしている、と思われるのは家の不利益につながりかねなかった。
「本当に? 何か、話しませんでしたか。私や……娘のこととか」
「……ろ、ローズ殿下の結婚生活について……殿下が元気そうで安心したと、仰っていました」
重ねて問われて、セシルは強張る喉からなんとか答えを押し出した。この答えは、王妃と第一王女の関係を少し和やかにするのではと思ってもいた。
しかし、セシルの予想に反して、王妃の冷たい表情は変わらなかった。右手に握る扇の先を左手で包み込む、その左手にわずかに力が込められたように、セシルは感じた。
セシルが身を固くしていると「今回は、王女の勝手も大きく関わったこととして不問とします。あなたも軽々しい行動を慎んでください」と沙汰が下りて、ほっと力を抜いた。
「……衛兵、ご令嬢を馬車停めに。帰りの足がないようなら、手配して差し上げて」
王妃の慈悲に、セシルは顔を上げた。
「お気遣い痛み入りますが、彼女は伯爵家の馬車で参上しておりますので」
馬車は不要だと、そう続けようとしたのだが、しかし。
「セシル殿は、ここに残ってください。ちょうど、確かめたいことがあるのです」
「……な、えっ!?」
王妃の冷たい声音に瞠目した。思わず大きな声を出しかけたセシルに、王妃がぐっと近寄り、その鬼気迫る眼差しでセシルの喉を凍り付かせた。
「……我が娘が、靴を失った片足を血と砂にまみれさせて、私の部屋に飛び込んできました。治療ののちに話を聞こうとしたら、また忽然と消えてしまって、今は王宮どこを探させても見つかりません。……あなたがケルピーを呼んだという場所で、ついさきほど娘の靴も見つけました。まだレナードには言っていませんが……まさか、無関係とは言わせませんよ」
ぐっと抑えられた声に、セシルの息が止まった。王妃の固い表情の真の意味を、ようやく理解した。
***
慌てるスカーレットは半ば強制的に部屋から出され、遠ざかる足音だけが聞こえていた。
本来アレックス一人を留め置くための部屋に、今度はセシルと王妃も含めた三人が残っている。「私が呼ぶまで、けして戸を開けるのではありませんよ」と兵士に言い含めた王妃は、供のひとりも連れていなかった。
「……確かに、庭でローズ殿下とお会いしました。いえ、会う約束をしていたというわけでは無く、ユニコーンに遭遇した殿下を助けようとして……靴は、ユニコーンを撃退したのち、離反したケルピーから僕を守るために殿下自ら投げられたのです」
ローズが帰っていなかったどころか行方不明だと聞かされただけでも、セシルの胸の内は穏やかではなかった。それに加えて、ローズの実母に険しい顔で尋問されているのだ。足の怪我については当時気遣ってやれなかったことを申し訳なく思ったが、現状セシルがよからぬことを働いたと思われでもしたらたまったものではなかった。
「それだけですか」と問う王妃の口調は厳しいままである。
「ユニコーンがいたから王女を遠ざけようとしたと。しかし、そのユニコーンは今どこに? それこそ、あなたが手引きしてローズを追い詰めたのでは?」
「ま、まさか! ……ユニコーンがどこに行ったのかも、存じませんが、ローズ様に危害を加えようなどとは……」
そこで、セシルは言葉につまって眉を下げた。ユニコーンがローズを襲わなかったことを言うべきか迷いが生じていた。
(だって、それってつまり……)
渋い顔をして黙り込んだセシルの背後からフォローが入る。
「お言葉ですが王妃陛下、ローズ殿下はもう帰られたのでは? 騒動に巻き込まれて、渦中の伯爵家の人間と逢引きしていたと噂されるのを恐れて」
レナードからローズの愛人だと思われているアレックスがそう言うのはとんだ皮肉だと思ったが、セシルはそのフォローをありがたく受けることにした。
発言したアレックスの方へ、王妃の視線が動かされる。セシルの後方を苦い顔で見つめて、どこか口惜しそうにつぶやいた言葉はかろうじてセシルの耳に届いた。
「……アレックス殿。よもやこんな形であなたと話すとはね……いえ」
気を取り直すように、王妃は一度瞬きをして、泰然とした表情に戻った。
「公爵家の馬車は動かされておりません。二台ともね」
「二台? ……ああ、ではヘンリック殿を頼っているのでは。彼は今どこに」
アレックスは怪訝な声を出してから、すぐに合点がいったようだった。セシルが記憶をたどる。
「ヘンリック殿なら、僕がマグノリア様とお会いした時に別れました。お仕事があるようで……」
(……あれ)
セシルは、そこで黙った。アレックスが眉を顰める。
「ヘンリック殿は、どこに向かったんだ」
結構、と王妃が兄弟を遮った。
「……ローズが公爵のご令息のもとに来ていれば、私にも分かるようになっております。セシル殿、最後にローズと会った時のことを詳しくお話しくださいませんか。……どのようなことを言っていたか、何をしていたのか」
セシルは思い出そうとしたが、当時はセシル自身余裕がなかった。そして、今のセシルもまた、脳裏に沸いた別の疑問で埋め尽くされ、一層頭の中は忙しく回ってばかりだった。
「……どのようなことと仰られましても、ユニコーンがどんな妖精か、どういう人間を襲うのだとか気にされていて……殿下は、もともと庭の奥の古い井戸のそばにいらっしゃったんです。僕はたまたま見つけて」
「……古い井戸?」
反応したのはアレックスだった。「なんです」と王妃が耳ざとく拾う。
逡巡したような間があったが、アレックスも隠すのを諦めたように吐露した。
「……そこには道に迷った俺と、俺を尾行してらしたマグノリア殿下が立ち話をしていました。短い時間ですが、マグノリア様からブランデン王家の思い出話をお聞きしました。ローズ殿下は、一緒にはいませんでしたので……」
(じゃあ、あのときローズはアレックスとマグノリア殿下の話を立ち聞きしてた?)
アレックスが、マグノリアは何も知らない、と確信したときの会話を。
アレックスの話に、王妃が食いついた。今度は黒い髪の若者に詰め寄る。
「あなたは何を話していたのです。マグノリア王女と」
「……マグノリア殿下は妹弟が多くいらっしゃるから、おとぎ話は聞き飽きていると。お話の流れで、ローズ殿下のこともお聞きしました。殿下の仰り様そのままにお伝えしますと、……可愛げがない、と」
「……そう。まぁ、あの方から見ればそうでしょうね、ええ。しかし、あなたは本当に道に迷ったのですか。その井戸から、どこかに侵入しようとしたのでは? 何か、マグノリアからそそのかされたのですか」
セシルは突然王妃がアレックスへ不可解な疑いをかけていることに面食らった。井戸がどこへつながっているのだろう、なぜそんなことをアレックス相手に疑うのだろうと。
嫌に焦っている。娘の所在が分からないからか。
それにしては、「どこに向かった」ということより、「何を話したか」をとても気にしているような気がした。さっきから、ローズとマグノリア、二人の話したことを聞き出したがっている。
セシルはつばを飲み込んだ。さっきレナードに随分不遜な態度を取ったのだ、今さらだと自分に言い聞かせる。
「王妃陛下、マグノリア様がローズ様に関して忘れてしまったことで、気がかりなことでもございますか」
セシルは、自分が恐る恐る触ったものが、銃の引き金だったと知った。弾かれたように王妃の視線がセシルに向けられる。その表情はさっきまでの冷静さが剥がれ落ち、むき出しの焦りと驚きと、そして恐怖が覗いていた。
「直接お話して分かりました。マグノリア様は我々魔法使いに関することを何も知らない。まさか、教えられていらっしゃらないわけでは無いですよね? リリー殿下は、僕にトロイ殿下の“取り換え子事件”についてお話してくださいました。リリー殿下が知っていらして、マグノリア殿下が知らないわけはなく……ヘンリック殿も、マグノリア殿下は“覚えていない”と仰いました。でも、陛下はマグノリア殿下の口から何かが出ることを恐れてらっしゃるし、ローズ様の言うことも気にかけてらっしゃる」
最初の一声さえ出れば、あとは転がるように言葉が出てきた。王妃の顔からは化粧をしていても如実にわかるほどに、みるみる血の気が引いていく。
アレックスが咎めるように「セシル、」と声をかけるのも無視して、セシルは続けた。
「陛下、魔法使いの秘密の会議は礼拝堂か、その付近で行われていますよね。ヘンリック殿は、僕と別れてそこへ向かいました。……ローズ殿下がヘンリック殿のもとに行けばわかる、というのは、その場にレナード殿下や王太子妃殿下もいらっしゃるはずで、連絡が来るから、でしょうか。……あの方は、どういう存在なのですか。この国の秘密を知り、マグノリア様に近い。そんな方のもとに、ローズ様が継母として迎えられたのは、なぜですか」
問いかければ、王妃は色を失った顔で暫し呆然とセシルの目を見つめた。
しかしそれも束の間で、扇を握る手にぐっと力が込められたと思うと、王妃は顎を上げて堂々と言葉を返し始めた。
「……偶然ですよ。ヘンリック殿はレナードの側近として、必要なことを知っているだけ。マグノリア王女に近いのも、彼女がヘンリック殿を個人的に気に入っているだけ。そしてローズの輿入れは、……ローズ自身が、身分高く落ち着きのある公爵家への輿入れを望んだから。王宮は、あの子にとって騒がしすぎたのです」
(……これ以上聞いても、答えてもらえない)
漠然と分かった。王妃が嘘をついている証拠もなく、ヘンリック自身による告白もなければ、もうこれ以上セシルが王妃から真相を聞き出すことはできない。もともと“話す気はない”と言われれば、それまでなのだ。
しかし、ここでアレックスが進み出た。
「……王妃陛下は、ご存じなのですね。俺がローズ殿下に匿われていたことを」
「……何の話ですか」
セシルもアレックスの方を振り返った。
そうだろうか。だとしたら、そのことがレナードに伝わっていそうなものだが、と疑問をあらわにした表情で。
「でなければ、今回を含めて二回王宮に出入りしただけの一貴族の子息が、非常時の井戸の抜け道を知っているなんて考えにならないでしょう。実際、ローズ様のもとに隠れていた時は何度か使いましたから。――思えば、ギルベット修道院で俺が拾われた時から、王女は俺をごく少数の使用人とだけ共謀して匿い、必要な時には身分を偽らせていましたが、どう考えても無理がある。そもそも、十五の王女が十一歳の子どもをひとり連れ帰るのも、口止めに大金を置いて行くのも、同行した保護者が見て見ぬふりをしない限り無理です」
セシルは確かに、と思った。ローズは王妃の見舞いだけは受けていたというから、その点でも隠しきるのは難しい筈だった。
隠し通せていると思っていたのは年若い本人達だけだったのかもしれない。
「それが、なんだというのです。ローズが、めぐまれない子どもを、しかも父親の心当たりがある子どもを憐れんで引き取るのを、協力はしないまでも邪魔をしなかっただけです」
静かな反論に、さっきまで青ざめていたアレックスから表情が消えた。
怒っていた。セシルの目からすれば、明らかに。
「そんな、犬猫のようにこっそり育てられるのも困りものなのですが。……それより、あなたはそれを俺たちの身辺調査をしているレナード殿下にも隠してらっしゃる。そのことが解せないのです。言っても差し支えないでしょう、“オリエット伯爵の次男は、昔ローズが拾って匿っていた”と」
王妃は、口を固く閉ざしたままだった。
不自然に感情を感じさせない声で、アレックスが続ける。それが余計に相手の神経を逆なですると、分からないわけないはずなのに。
もしやわざとか。はずみでも王妃と喧嘩なんて冗談じゃないと、今度はセシルがやきもきした。
「マグノリア様の失われた記憶にあるローズ殿下のことで、レナード殿下にすら知られたくないことがある。……そこには、ギルベット修道院もヘンリック殿も関わっている。だからギルベットで拾った俺のことを誰にも言えないし、ヘンリック殿が側近だから重要機密を知っているのではなく、重要機密に関わっているから王太子のそばに置いているのではありませんか、陛下。……案外、第一王女が国外へ嫁がれたのは、それに伴って記憶調整の処置が施されるのを見越して、だったりするのでは? どさくさに紛れて、何を忘れてもらったのです」
ぱん、と乾いた音が部屋に響いた。
セシルの横をものすごい速さで通り過ぎた王妃が、手袋に覆われたその手でアレックスの頬を打つのを、セシルは止められなかった。
「……ローズに甘やかされて、自分の立場を勘違いするのではありませんよ。興味本位でかぎまわって、言っていいことと悪いことがあるということも、わからないのですか」
「……甘やかされた?」
叩かれた勢いで顔を背ける形になっていたアレックスが、眼光鋭く王妃を睨んだ。その口が再び何かを言おうとするのと、セシルがアレックスと王妃の間に体をねじ込み声を荒げたのは同時だった。荒げた分、声量でセシルの方が勝った。
「僕たちがマグノリア殿下とローズ殿下のことを気にするのは、ローズ殿下に殺されかけたからです!」
王妃は目を見張った。マグノリアも同じことを聞いて同じ表情をしていたが、セシルはそれを思い出すどころではなく、その口は止まらなかった。
「ローズ様は、ダンリールでアレックスを殺しかけ、僕にその罪を擦り付けようとし、その上夜盗まで雇って僕たちと使用人を殺そうとしたのです! 確認なさればいい、公爵家に! きっと奥方がいなかった期間があるはずです! どんなに使用人やご家族が庇っても……それともダンリールで、王女の肖像画と共にお聞きになってくださいますかっ? 男装していても、きっと我が家の管理人も現地の役人も覚えていますよ、王都から人目を忍んできた偽の旅人の顔を!」
王妃の開いたままの口からは、何の言葉も返されなかった。
興奮したセシルの息の音と、扇が絨毯張りの床に落ちる小さな音以外にはなにも聞こえない時間が部屋に流れる。
驚愕に震える王妃の顔も白かったが、セシルも同じくらい顔色を失っていた。
アレックスのことなんて、何も言えない。王妃相手にこんな啖呵を切るつもりはなかった。
しかし、黙っていられなかったのだ。ローズのしたことも知らないでアレックスを詰ったから、と自分に言い訳をする。
――だが、頭に浮かんだのは、もうどうでもいい筈の、公爵夫人の暗い瞳だった。
流れる汗をぬぐうのもはばかられる沈黙の後、ようやく声を発した王妃の言葉はうつろで、苦しさを伴っていた。
「……ローズに関わらないで、あの子を追い詰めないで……ようやく、安心できるところに、最良の居場所を見つけられたのに、なんで、マグノリア殿は、もういないのに……」
独り言のようだった。王妃は顔を覆い、小さく震えはじめた。却って冷静になったアレックスが戸惑いがちに扇を拾うのを、セシルは記憶から呼び覚まされた声を頭の中で聞きながら見ていた。
――誰も不幸にしない最良の居場所を出て、誰に望まれているわけでもないところに、自分の欲望のまま、場違いな椅子をねじ込むのを応援してあげる道理なんてあるの。
あの言葉は、ローズの庇護を出て父伯爵の認知を得たアレックスへの中傷だった。謂われない、傲慢で身勝手な、言い分というのもおこがましい我が儘。
なのに、今、その言葉がローズのために出てきた。ローズの母親から。
扇を受け取っても、尋常ならざる焦燥ぶりで俯いたままの王妃から離れたアレックスが、呆然とした顔のセシルの腕を引く。
壁際で、アレックスはセシルに耳打ちした。
「……フレイン公爵家はおかしい、普通の家じゃない」
セシルは目を瞬かせた。ヘンリックではなく、公爵家がか、と聞き返そうとしたが、先にアレックスが続けた。
「マグノリアは、国王が重用する貴族の中に魔法使いの子孫がいるということを覚えていなかった。オリエット伯爵も含めて、彼らがなんで王家に近いのかが分からないってぼやいていたし、それにエネクタリア家、ヴィレイ侯爵なんて名前すらあやふやだった。……そのとき、フレイン公爵のことも、一緒に名前が出たんだ」
「……え?」
アレックスは険しい顔で声を潜めた。
「妙だ。国内有数の大貴族で、王女を降嫁させるほど王家の覚えめでたい、そのうえ軍人上がりの忠誠心、重用されることにおかしいところなんてない。跡取りは王太子にもマグノリア本人にも気に入られている。……なのにマグノリアは公爵に違和感を覚えていたんだ、ほかの六家同様に。……忘れさせられたからだ、“魔法使いの一族”の一つとして。ヘンリックの言動で確証できた。――『七つの冠』の七つ目は王家じゃない、フレイン公爵継承のエスカティード家だったんだ」
ダンリールの黒い鍵。門。竜のタペストリー。
バラの意匠は、古い魔法陣だった。
それより早く、セシルはそれを見知っていた。
アレックスが肌身離さず持っていた銃の、装飾として。
かつて好きになった女が嫁いだ家の、門を飾る花として。




