悪い妖精
『轡が外れたら、手を噛まれるくらいじゃ済まないんだから』
ほんの数時間前の従妹の言葉。
その意味するところなど、森でこのケルピーと直接対峙したセシルにはよく分かっていた。何せ文字通り、死ぬような思いで轡を噛ませたのだから。
そして、その苦労が今は跡形もない。文字通り。
(キーラがクロースから逃げたんじゃない、こいつが裏切ったから、キーラが家から出てこられたんだ!)
なぜそんなことになったのかと、考える余裕はなかった。突如湧いた危機感で相手から距離を取ろうとしたところに、相手の浅黒い手が首を目指して伸びてくる。セシルの首に、クラバットごとつかみかかろうとしていた。
ガツッ――
突然ケルピーがのけぞって、その額を両手で押さえた。「が、ぐあ……っ」と苦悶の声を漏らす様に頓着するなとばかりに、セシルの手を引いたのはローズだった。
「ぼさっとしないで!」
貴族の女性の間で愛用されるかかとの高い靴をケルピーの顔面に投げつけた公爵夫人が、青ざめながらも怒ったように急き立てる。さっきとは逆に、ローズがセシルの手を引いて大広間の方へ向かおうとしていた。セシルも引き摺られたのは一瞬で、クロースを気にする気持ちを脇に置いて駆け出した。
「おのれっ……」
逃げる二人の背後から怨嗟根深い一言が吐き捨てられた直後、馬のいななきと蹄が地面を蹴る音が響いた。ケルピーの本領は水中とはいえ、人間が地上で馬の脚力にかなうはずがない。
なにより、逃走者の一人はかかとの高い靴を片足しか履いていなかった。疲労も重なり、足を砂利にとられ膝が崩れる。
「あっ!」
「公爵夫人!!」
全力疾走の勢いのままに、セシルは一瞬ローズを背後に置いて行ってしまった。助け起こさんと振り返ったとき、夜闇の中から黒馬の金色の目がぎらぎらと殺意をたぎらせて迫ってきているのを目の当たりにした。その鼻面でぬらりと反射するものが、ケルピーの額から流れる血だと分かった。
逃げるに間に合わない。絶望がセシルの脳裏をよぎる。
女を庇おうと手を伸ばしたその時、白い何者かがローズとケルピーの間に身を滑り込ませてきた。白い尾が、倒れ込んだままのローズの向こうで揺れる。
「……は?」
ユニコーンだった。首にはいまだ赤黒い血がべったりと付着しているが、痛みを感じないかのように前傾姿勢で角を黒い馬に向けて立っていた。
セシルは状況がまるで飲み込めないながらに、確実にやるべきことだけした。すなわち、倒れたローズを抱え起こし、向かい合う二頭の妖精から離れた。
「あ、足、足は平気ですか?」
「なに、何をしているの、彼らは」
息が上がって途切れがちな声で、セシルとローズは互いの懸念を同時に口にした。二人とも互いに答えなかったが、相手の問いに引き摺られたのはセシルの方だった。ローズにしがみつかれたまま、後ずさるように離れながら、視線はケルピーとユニコーンへと向く。
闖入者に立ちはだかられたケルピーが、前足で蹴り飛ばさんとばかりに威嚇する。しかし、先程とは不意打ちをする方とされる方が逆だった。臆病なはずのユニコーンは、猛然とケルピーへと向かって突進する。体躯で不利でも、鋭利な武器は動揺するケルピーに後れを取らなかった。黒い体ではどこに傷がついたのか、真っ青な顔で傍観するセシルにはわからなかったが、何度目かの突きのあと、ユニコーンの白い角の先端が真新しい血で濡れているのが見えた。
ぶるる、といなないて、ケルピーがこちらに尾を向けて走り去る。
互いに無心で抱き締めあいながら立ち尽くしていた二人の方に、ようやくユニコーンが顔を向けた。よくみれば、自身の首の傷は血の跡を残してふさがっている。なるほどユニコーンの治癒力はマンドレイクの煎じ薬以上だとセシルは思い知った。
「た、助けてくれた……のか?」
しかし、そう恐る恐る呟いたセシルの期待を打ち砕かんとばかりに、今度はその鋭利な角が目の前に向かってくる。まったく助ける気などないと、言葉無く伝えてくる敵意があった。
「えっ、嘘! っ、うわっ夫人!?」
どんと、立ち尽くすセシルの胸を強く押す力があった。胸の中にいたローズがこの身を思い切り突き飛ばしたのだと、距離を取られてから気が付いた。
セシルの目の前で、ユニコーンが女の背に迫る。セシルの呼吸が止まった。ローズがぎゅっと目を閉じる。
「……」
「……」
しかし、その角に新たな血が伝うことはなかった。
ユニコーンはローズを蹴倒す寸でのところで足を止めた。その額の角も、ローズの頭や背中に沈むことはなく。
それどころか、小さくいなないたその鼻面を、おそるおそる目を開けたローズの蒼白の頬に擦り付けた。
「……えっ、あれ?」
我に帰ったセシルの声につられたように、ローズがわななきながら小さく口を開けたが、セシルはその後に続いた言葉を知るには至らなかった。
ぐんと、今度は背中から引っ張られるようにして、セシルはさらにローズから距離を取らされたからだ。
「……セシル!」
ローズが本当に言おうとした言葉がなんだったのか、悲鳴のような呼びかけに上塗りされてはもうわからない。
問いただそうにも、背後から近寄っていた黒馬の顎に後ろ襟を噛まれて引きずられたセシルには無理なことだった。
(……っ、ユニコーンの血を、最初に少し飲んでたから!?)
少し刺されたくらいで怯みはしない。そうあざ笑うかのような健脚だった。
セシルの視界で小さくなってゆく、青ざめた顔のローズはセシルの方を指さしながら何事かをユニコーンにまくし立てている。なんで、追いかけなさいよ、と微かに耳が拾う。
しかし、ユニコーンは一歩も動こうとしなかった。
やがて生垣と夜の闇に遮られ、誰も何も見えなくなる。
疾走する馬に引きずられ、足の感覚が分からなくなる中、首が締まって息ができなくなったところで、どぼんと水中に沈んだことを自覚した。揺れる視界の向こうで、浅黒い肌の男の顔がじわりと浮かぶ。
噴水の池に、仰向けに突っ込まれたのだ。大人が溺れる深さではないが、肩を両手で抑え込まれては話が別だ。咳き込む代わりに空気の塊がゴボ、と口からあふれ出る。
顔が水から上げられない上に、骨が軋んでいる。
もがきながら、さすがに死を覚悟した。
「助けてやろうか」
痛みも麻痺しようかという状況で耳に滑り込んできた声に、水中でうつろに目を開け、視線を横へ逸らした。
水泡の向こうから、金色の目が見ている。ケルピーよりももっと大きな、もっと強い光を放つ瞳が。
ゆらめく水中に、赤いうろこの大きなトカゲのような影がいた。
(……助かる?)
水中にいるそれが何者か、どんな意図でそんな申し出をしてくるのか、考える力はもう残されていなかった。
それなのに、相手の言葉だけがセシルの真っ暗な脳裏に残された。
「溺死は苦しいらしいな。すぐ死ねないからな。でも幸い、その間に助けてやれるぞ」
(苦しい、痛い、死ぬ)
「だから、お前は助かるんだよ。俺に、一番大事なものをくれるなら」
(……大事なもの)
「そう、おまえのいちばん大事なものをくれるなら、助けてやる」
(……助かる)
「同意の証に頷け。できるだろう」
確かに首は動かせた。水上に出そうで出ない、そんな悪意のある深さと抑え方だった。
「はやくしないと、死ぬぞ」
急かす声が嬉しそうだった。
セシルは、何も考えられなかった。
池の中の水泡が減る。水が静かになる。
セシルの足は、もう動いていなかった。
「……おい、まさか」
水中で、竜がセシルに一歩近寄ろうとした。
その時、固い衝撃音を合図にセシルの肩を押さえつけていた両手が離れた。次の瞬間、人型を保ったまま、ケルピーの体が近くの木に叩きつけられた。
***
「セ、セシル様っ!」
ケルピーの手が離れた瞬間、水中から赤い髪の頭が引き上げられた。しかしその顔は白く、腕は力なく垂れたままである。人型になったケルピーを突き飛ばし、セシルを抱え起こした男は、――エリックの顔は恐怖に染まった。
「は、伯爵に……っ!」
エリックが主人を地面に寝かせたところで、怒れるケルピーが馬の口でエリックの肩に噛みついた。
骨が砕ける音とともに、エリックの顔が痛みに歪む。
セシルは、力ない顔のまま、目を開けない。エリックの肩から落ちた血がぼたぼたとセシルの服を汚す。
「やめ、くそ……」
突如、銃声が轟いた。
ケルピーがエリックから離れる。肩を押さえ、荒い息でエリックが振り返ると、黒い馬の腹から赤黒い血が一筋流れていた。かすり傷だった。
「おい、なんだこれ! どういうことだエリック!」
銃を片手に走り寄ってきたのはアレックスだった。エリックは額に浮かんだ脂汗も拭えないまま「セシル様……みず、が……」と途切れ途切れに訴えると、気を失った。肩からは夥しい血が流れている。
胸から上を水浸しにし、脱力しているセシルを見て、アレックスは状況が見えないながらも銃をベルトに差し、セシルの首元を緩めながら体を横に向けた。知識がないながらにも、水を吐かせようと地面に近い方の口角を引っ張り、腹部をぐっと押した。
「おい、どうした、おいっ起きろっ! くそ、キーラ、見てないで……あ、あいつ! 逃げやがったなっ」
銃声のせいかと舌打ちする。アレックスは混乱と焦りの中で悪態をつきながらも、セシルに向かって呼び掛け続けた。頬を叩き、繰り返し腹と胸を強く押す。
「何があったんだセシル、おい!」
顔色は戻らず、目は閉じたまま、――それでもかすかに、薄いまぶたが動いた。
その様子に安堵しかけたところで、アレックスの背に悪寒が走った。
咄嗟にセシルを抱えたままその場から飛び退った、その空間に黒い蹄が襲い掛かる。
「クロースっ!? なんで……手綱が無いのか!」
数日前に書庫で調べたばかりの、ケルピーの習性を思い出す。セシルが水浸しの理由も、エリックに噛みついていた理由もおおよそそれが理由だろうと思ったが、わかったところでどうにもならない。
もう一度轡を噛ませなければと考えながら、アレックスはしゃがんでセシルを背におぶろうとした。しかし、クロースの鼻先が自分たちではなく噴水に近いエリックの方に向いたのを見て、その意味するところにさっと顔色が変わった。
「やめろっ!!」
アレックスが叫ぶ。と同時に。
パンッ――
間近で響いた破裂音に、アレックスの体が固まった。
黒い馬の体が、ゆらりとよろめく。重い、激しい音を立てて池の中に倒れ伏すその体躯からは、一発目の銃弾のかすり傷とは比べ物にならないような量の血が噴き出すのを、アレックスは呆然と見つめることしかできなかった。
「……わかってんのか。クロースだぞ、あれ」
声に動揺が現れているのを、アレックスは自覚した。
自分の背から伸びた手が、黒い銃を握りしめているのが、その指が引き金を引いたということが信じられなくて、思わず確認してしまった。
自分が何を撃ったか、わかっているのかと。
「……わかってるよ」
その手から、ごとりと銃が地面に落とされる。アレックスがベルトに挟んだそれは、背負われたセシルにとっても抜き取りやすい位置にあった。
「……人食い馬、悪い妖精、だよ」
黒い銃に施された、公爵家の金色のバラが、星明りにむなしく浮かび上がっていた。
静かになった現場を、妖精たちが遠巻きに見つめている。どこから取ってきたのか、轡と手綱を握りしめたキーラもその中にいた。
一つ、ゆっくりと息を吐いた後、セシルはアレックスの背に寄り掛かったまま再び目を閉じ、意識を手放した。
そんな中で十秒も呆然と座り込んでいると、アレックスはだんだんと思考も落ち着いてきて、自分たちがとんでもない現場にいることをふつふつと自覚し始めた。
(まずいぞ、妖精の騒ぎは無関係な人間にとっては気のせいになっても、銃声は――)
「な、何事だ……」
背後からの声に、アレックスは肩を震わせたが、すぐにため息を深く吐いた。
安堵のためではない。隠せないと、観念するしかないからだ。
集まり始めた貴族や衛兵のざわめきと、オリエット伯爵の愕然とした声に、なんと言い繕えばいいのか。
池に倒れたケルピーが、一瞬目を逸らした間に煙のように消えたから、なおさら何から説明すればいいのか、アレックスにはとんと分からなかった。
「……見てのとおりなので……医者を、お願いします」
とりあえず、と、寝こけるセシルを背中からずり落とす。振り返れば、先程までの自分とよく似た表情の父や貴族たちが立ち尽くしていた。眼鏡をかけた側近らしき男――どこかでみたことがある気がしたが、アレックスはすぐそれどころではないと思い直した――の背に庇われた王太子レナードまでいた。
人前では常に保っていた輝く笑みは消え、転がる二人とアレックスに向けられる眼差しも険しかった。
「……王宮での、許可のない銃の携帯は見過ごせるものではなく、ましてや発砲は重罪である。この銃は、貴殿のものであるか」
衛兵を押し退けて出てきた貴族に問いただされて渋々頷きながら、アレックスは後悔した。
第一王女と、もう少し親しくなっておけば良かった、と。
溺れた人への処置は、気道確保が先だそうです。




