悪夢再び
王女マーガレットが侍女を伴って立ち去った後には、呆然としたセシルだけが残された。
「な、なんっ……、はぁぁっ!?」
セシルは脱力してまた腰掛けに座り込んだ。今の今までマグノリアだと、一連の出来事の黒幕かもしれないと思って向かい合っていたのは、酔って姉のふりをしていたリリーだとわかれば、徒労にがくりと項垂れるしかなかった。
(……どうりでヘンリック殿のことを知らない、なんていうわけだよ)
ヘンリックについていけばよかったとセシルが奥歯をかみしめたとき、東屋の外にかすかな気配を感じた。
妖精の多い庭である。さっき怒って立ち去った小妖精かと見やり、――絶句した。
「……うそ」
気配の方に視線を移して、その姿を視認できたのはほんのわずかな時間だった。緑の目に映った影は、生垣の向こうをすばやく横切って庭の奥に向かったからだ。
しかし、セシルは見間違えようもない。
「なんでキーラがここにいんのっ!?」
思わず叫ぶと、セシルは常にない俊敏さで柵を飛び越え、小さな白いローブを一目散に追いかけた。
生け垣の間を抜け、噴水を迂回し、たどり着いた先で見慣れた妖精が木々の隙間から飛び出していくのを見つけ、セシルは急いで妖精が駆けて行った方向を確認した。「待て」というには、息があがって苦しかった。
が、大きく吸い込んだ息は、枝葉の向こうに広がる光景の衝撃のせいで上手く吐き出せなかった。
そこには、あいかわらずの金髪を長く背に垂らしたローズが立っている。
その足元には何故か恨めしげな顔でドレスの裾から這い出る小妖精がおり、そして――
一角獣と向かい合っていた。
セシルに、考える暇はなかった。
「――っ逃げろ、殺されるっ!!」
言うより早く飛び出して、またすぐに元の道を全力で駆け戻った。
「ま、待って……」
左手に白い手袋越しの手を握りしめて。
「待ちなさいよセシルっ!」
背後で砂利を蹴る音がけたたましい。
四つの蹄が立てる固い音に気が付いたら、とても「待てない」とは返せなかった。
(白い尾の妖精って、よりによってこいつだったのかっ!!)
***
「な、なに、なんなのあの馬……」
「……ユニコーン、です」
二人は息を切らして、宮殿を取り囲む塀に背を預け、寄り掛かっていた。ローズは訝し気に眉を寄せてセシルを見た。
「いい妖精じゃないの? あれを家紋に描く貴族は多いわ」
「……高潔だとか、純粋って意味で使ってるんでしょうけど、それは未婚の女性にのみ懐く習性を美化してクローズアップしてるからです。……それ以外の人間相手には、獰猛で、凶暴ですから」
セシルはあたりを見回し警戒しながら小さな声で説明した。
「……臆病で人間が嫌いなので、ここがどんなに妖精に居心地がいい庭でも、自分から入ってくるわけないんですけど」
「……そもそも、この庭だって宮殿内ほどじゃなくても、害のある妖精は入れないはずじゃなくて?」
ローズの固い声を非難と捉え、セシルも俯いた。
「……そのはずですが、なぜ入れたかはわかりません。ただ、入ってきてるからといって安全な妖精、とはとても言えません。森が今より広かった時代は、何人もの騎士や貴族がユニコーンの角で殺されている記録がありますから。……女性も含めて」
だから、あの妖精に見つからないように大広間に戻り、一刻も早く父伯爵に伝えなくてはいけなかった。
キーラを置いてきてしまったことに気がついたが、それは問題ないだろうとセシルは思い直した。ユニコーンは、臆病さゆえに自分を脅かす存在を先んじて殺そうとするが、ピクシーはユニコーンを脅かさない。
そこまで考えて、セシルはローズが何か物言いたげにこちらをみていることがむず痒くなってきた。さりげなく、視線を明後日の方向に向け、思案顔を取り繕う。
二人で話すのは、セシルが王宮へレナードに会いに行ったとき以来だった。
「……なぜ、また、助けたの」
昼なお暗い、ダンリールの森の中での出来事を想起させる言葉だった。
数日前の明確な敵意の後がこれでは、セシルもばつが悪かったが、こればかりは仕方がない、とローズを見返した。相手の嫌に真剣な、切羽詰まったように見える表情に面食らいながらも、セシルは息を整え淡々と答えた。
「言ったでしょう。貴婦人を助けるのは貴族の義務、と。そもそも、王宮であなたが妖精に殺されたら、我が家はただじゃすみませんから」
本当は、反射だった。
しかし、強がりではなかった。
言葉通り家の面子に関わることである。誰が同じ場にいても、セシルは同じことをしたと自信を持って言えるつもりだった。まして王女となれば、これは男の勇気ある行動ではなく臣下の当然の責務であり、放棄すれば罰を受ける。
遺体も発見されない可能性があるダンリールの森とはわけが違う。
加えて、ローズの暴挙を白日のもとに晒す前に死に逃げされたら、後味が悪いだろうなとも、今になってセシルは思った。さきほどの一瞬では、それはさすがに考えが及ばなかったとはいえ。
目が合っていた時間はほんの数秒だった。先にそらしたローズは小さく、「そう」と呟いた。森の中でセシルが答えた言葉とほとんど同じだったせいか、返す言葉もおなじだった。
しかし、その後に礼の言葉は続かなかった。
「……さっき言ってた、未婚の女性、って、どういう意味?」
「え?」
思わぬ質問に、セシルは正面に戻した顔をまたローズの方へ向けた。
紫色の目はもうセシルを見ず、両手は手繰るようにドレスのスカートを握りしめている。
「……いや、え、言葉通りの意味ですが」
「教会で誓いの言葉を述べたことのない女なら大丈夫ってこと? 未婚の娼婦は?」
セシルは返す言葉に窮した。なぜこんな話を深く聞いてくるのか、分からなかったし、そしてさっきまでとは別の意味で気まずく思ったからだ。
「……処女ってことよね?」
「……そうですね」
だから人妻のあなたは逃げなくてはいけないだろうとはいい難くて、言葉少なに視線を逸らした。塀と、その上で花の形を描く柵を見上げて現状に思考を切り替える。
とっさにユニコーンから距離を取ろうと走って、撒くことはできたが、強い魔法で守られた大広間からは離れてしまった。
(……このあたりの妖精と取引できるかな……父さんに来てくれるよう……だめだ、この辺にいるピクシーは、庭にいられても、きっと宮殿には入れない)
悪戯をするからだ。キーラも入れない。
(じゃあ、せめてあのユニコーンを足止めできるような、大型の妖精は……)
「……ご主人、そこに?」
黙り込んだセシルとローズの耳に、静かな問いかけがもたらされた。
二人は顔を見合わせ、塀の向こうを望むように柵の先端を見上げた。
「クロース?」
セシルが戸惑いながら小さく声をかける。塀越しに嬉しそうな男の声が返ってきた。
「良かった、中にピクシーが入ってしまったので、どうしようかと」
キーラが逃げてきたのかと渋い顔をしたのもつかの間、セシルはハッとして目を輝かせた。
「クロース、この塀、飛び越えられる?」
「これですか……はい、足場があるので、多分。ただ、嫌な魔法がかかっているので、勝手に入れないみたいです。招待もされていないし」
「……招待?」
そこまで話したとき、セシルの肩を揺らす手があった。
「……セシル、この声、あのときの黒い馬でしょう? こっちこそ明確に悪い妖精ではないの」
「大丈夫ですよ、あのときだって背にあなたを乗せたでしょう! ケルピーは馬具をつけた相手に従うんで、す、から」
セシルはそう言ってローズの方を見た、そのとき、確かに蹄の音を聞いた。
塀の内側、自分たちの背後に。
視界の端に、白く浮かび上がった鋭い先端が映った。横に立つローズから、ひゅ、と息を吸うような音がした。
セシルは、迷いなく叫ぶしかなかった。
「くくくクロース、今すぐこっちに入っておいで!!」
「はいっ、ご主人!」
夜空を黒い馬脚が駆ける。優に三メートルはある塀と柵を飛び越える脚力はさすがと言えた。
招待、とはその意味するとおり、中から招けということだった。
王太子が王太子妃を疑ったように、悪い妖精は、手引きが無ければ王宮敷地内に入れない。
迫りくる白い角と二人の間に、黒い影が躍り出る。
怯んで後退りする白い馬に、体躯で勝る黒い馬は容赦がなかった。
ガッと骨を挟むような固い音と共にケルピーの顎がユニコーンの首を挟み、鮮血がほとばしる。
「っ!」
「ひっ!」
セシルが息をつめ、ローズが口元を押さえた指の隙間から小さな悲鳴を漏らす。
ユニコーンは長く伸びた首から血を流しつつも、両の前足でケルピーの腹を強く蹴った。衝撃か、ケルピーの顎が開き、そのすきに自由を取り戻したユニコーンは闇の中に走り去っていった。
どくどくという大きな鼓動を意識しながらも、完全に見えなくなった白い尾にセシルは安堵のため息をこぼした。
「……た、助かった。ありがとうクロース」
黒い馬の足元から水泡が上がる。一瞬のうちに、馬は簡素な衣服の青年の姿になった。口元の血を拭いながら振り返り、黒い睫毛に縁どられた金色の目をにっと細める。
「あのユニコーン、死ぬのかな」
「……セ」
「さぁ。鉄の武器にはすこぶる弱いと言いますが、角から血まで強い回復力を秘めていますから。ただ、私がうろついているところには戻りたがらないでしょう」
ユニコーンは獰猛だが、臆病なので姿を見せず、謎が多いと伯爵家でも伝えられてきた。
いったい、なぜこんなところに迷い込んでしまったのか。捕食や悪意で襲うことがないだけに、あの大けがは哀れなものだと、自分たちが無傷なこともあって少し同情した。
セシルは、労ってやるためにケルピーの方に歩きながらユニコーンの消えた方向を見ていた。
「セシル……」
「血に回復力があるなら、エネクタリアの人が欲しがるかもな。魔法薬の開発に」
セシルは目の前のクロースの血を拭うために、自分のチーフを取り出した。ユニコーンの血を拭ったら、このチーフをエネクタリア家の誰かに渡してあげようと思いながら、相手の顔を見上げた。
セシルの手が止まる。
ない。
「セシル……その馬……さっき何も……」
馬具付きである証の革紐が、首にも肩にも、どこにもかかっていない。
「馬具なんて、何もつけてなかったわよ……」
泣き出しそうなローズの声が合図だったかのように、金色の瞳が一層笑みを深くする。
唖然とする緑の目に映るのは、舌なめずりする捕食者の顔だった。
「ご招待いただきましたこと、心より感謝いたします」




