お姫様の思い出
「今夜は皆、わたくしのことなどそっちのけ。おまえのことが気になって仕方なかったようで。……にしては、おまえ随分上手にあの場から抜け出したわね。誰もついてきていないみたい」
さぞかし、昔はやんちゃだったとお見受けするわ。夜の庭に降りながら、王女マグノリアはそう言った。
(……なるべく人の目に留まりたくない生活してただけだけど)
女の言葉には嫌みも混ざっていたが、その口調は楽しげだった。足はまっすぐアレックスの方へと進み、やがて二人の距離はダンスを踊るペアのように詰められた。容赦のない接近に、アレックスの顔の筋肉がこわばった。
大きく広がるドレスの裾を踏まないように、アレックスは慎重に一歩下がろうとしたが、手袋越しの細い手に腕を掴まれ、それはかなわなかった。
「殿下……」
「危ないわよ、井戸に落ちてしまったら、……出てくるのは、結構大変よ」
アレックスは内心の動揺を隠しきった。今まさしくこの井戸に入り、出ようとしていたのだ。宮殿内の隠し部屋に。
しかし、そんなことを言えるはずもない。アレックスがそれを知っているということも伝わるわけにはいかなかった。
「道に迷ってしまったのです。人に訊ねようにも、誰とも会わなくて困っていました」
「あらぁ、それは災難だったこと。おかげでこんな年増の女に迫られて」
「っ、……悪ふざけはおやめください、妃殿下」
腕を強く引き寄せられるのを体の芯でぐっと耐えた。既婚者の戯れに対する非難を言葉選びに託したが、さすがに表情には出せない。上機嫌な女の顔を笑顔でみつめたまま舌打ちをこらえる。
マグノリアはアレックスの顔を下からのぞき込むように見上げた。眦は穏やかさを思わせたが、その曇りない瞳はかえって底知れない気味悪さを感じさせた。
「それにしても、オリエット伯爵は気が休まらないわねぇ。先代は王子失踪の引責隠居、長男は……よく知らないけど、次男は思わぬところから出てきてしまって」
祖父のことを訝しむよりも、アレックスの思考は己への屈辱に耐えるのに占められた。その強固な笑みを探るように、薄青の目は見据えてくる。
「それとも、これが伯爵家の伝統? 思えば、あの伯爵、自分もおまえくらいの年になるまで表舞台に出てこなかったわね。母君がかわいがってひた隠しにしていたというけれど、面白い噂も耳にしたっけ」
「……噂?」
腰に回された女の両腕をそっとほどきながら聞いていたアレックスは、そこで僅かに驚きを見せた。男の笑みが崩れたことに気を良くしたのか、女は一層上機嫌に目を細め、しかしながら声はぐっと潜められた。「知らないの?」とのささやきに、アレックスは吊られるように口許へ顔を寄せた。
「アルバート・ロッドフォードは、正妻の子どもじゃないって噂」
灰色の目が驚愕に見開かれる。
女はアレックスの頬に手を添えて、笑みをますます深くした。
「たかが噂に、怖い顔してはだめよ。存外有能だったみたいで、お父様も重用しているみたいだしねぇ。わたくしとしては、輿入れの準備に面白いものをいろいろ探してこられる弟の方が便利だと思うのだけれど」
弟とは、アランのことだ。『気をつけろ』という、墓地での言葉をアレックスは思い出した。
セシルの推理は当てにしたくなかったが、叔父の忠告もある。マグノリアはアレックスの反応見たさに変なことを言っているだけかもしれないと、自分を落ち着かせた。
しかし、アレックスの警戒を知ってか知らずか、マグノリアが先にアレックスから離れた。沈黙を守る男の横を通り、王女は古い井戸のふちに手を置く。
「……なぜお父様は彼を当然のようにそばに置くのか、今となってはよく分からないわ。ベグノス辺境伯も、フィックマロー子爵も、そういえばみんな、お爺様もお父様も、さりげなく重用していたのよね」
「……それは」
その後も王女が述べた貴族の爵位名に、アレックスは眉を寄せた。これは、相手が自分を試しているのだろうか、と。
「……あと、そう、あの侯爵」
「……ヴィレイ侯爵?」
「ああ、そう。よくわかったわねぇ。あのご老体、母ともあまり仲が良くなかったのに。久しぶりに帰ってきても、相変わらずだそうだし」
ここにきて不機嫌そうに息を吐くマグノリアに、アレックスはどう言葉を述べるべきか迷った。
「……殿下は、魔法使いがお嫌いですか」
オリエット伯爵を含め、今マグノリアが名前をあげた爵位を継ぐのは、ブランデンの古い魔法使いの一族ばかりだった。ヴィレイ侯爵を継ぐのは、薬術や医術に長けたエネクタリア家だ。
マグノリアがアレックスの方に嫌悪の滲む顔を向ける。
「嫌いか、ですって? なんとまぁ、馬鹿馬鹿しいことを問うものね」
「……ご無礼を」
国の中枢に裏から関わる魔法使いの子孫に、好きも嫌いもないということかと、アレックスは愚問を悔いた。現実的に、関わらないわけにはいかないことくらい、かつての女王太子だったならわかるはずだと。
「いくら古めかしい家だからって魔法だなんて。わたくし、そういうわざとらしい冗談こそ嫌いよ」
だから、続けられた言葉を額面通りには受け取らなかった。上流階級は皮肉とわがままも作法のうち、ぐらいの気持ちでいた。
「……はは、これは、手厳しい」
「暖炉に住む火の精霊だの水鏡の精霊だの、魔女の読心術だの。妹や弟がいるおかげで似たような作り話を繰り返し聞いたから、人より食傷ぎみなの。子どもは飽きっぽいから、いつまでも聖書ばかり読み聞かせるわけにもいかないのはよく分かるけど、大人になってまでそういうのはねぇ」
苦笑いを浮かべたアレックスは、ふと、自分の足元にいる――一度は王女のドレスに巻き込まれて憤慨していた小妖精たちが、自分たち人間の言葉に何の興味も示していないのに気が付いた。代わりに、アレックスの靴ひもには興味津々だったので、そっと足首を動かして悪戯な手を振り払う。
「……第四王女殿下にも、あなたが読み聞かせを?」
アレックスの問いに、マグノリアが不機嫌な顔を不可解そうに歪め、「ローズに? まさか」と一蹴した。
「あの子は目障りな王妃の子どもたちの中でも一等生意気で、始末に負えなかったわ。それでちょっと揶揄ってやったら王妃が激昂してローズを隠して、わたくしを異国に追いやるよう父に進言したのよ。母子ともども、憎みこそすれ、可愛がってなどやるものか」
ローズとの仲が良くなかったのは、本当のようだった。井戸のふちに立ってアレックスの髪の先をいじる妖精は、女の方に見向きもしない。
「まぁ、そのときの揶揄いが原因で今あんな老いた男の妻にされているなら、あいこぐらいに思ってやってもいいわ。人の上に立つものは寛容でないといけないからね、結婚祝いを贈るのは癪だったけど、手伝いぐらいならしてあげたわ」
「……揶揄い? どんな」
「どんなって……子どもの喧嘩の話なんて聞いて楽しい? わたくしのいない間に、ブランデンではずいぶん退屈なことが流行っていたのね」
せっかく男女二人きりだというのに、と、また女がゆっくり近づいてきた。今度はアレックスも逃げ腰にはならない。
井戸に添えられていたマグノリアの手を、小妖精が「ぬけがけ女狐っ」と言ってぺちっと叩いた。悪気のない身勝手さを、内心、アレックスは褒めた。
「いやだっ、虫っ?」
「もう戻りましょう、マグノリア様。いつまでもここにいては会場の貴族たちも不審に思う。それこそ、ベグノス辺境伯も、フィックマロー子爵も」
アレックスが冗談めかして王女に手を差し出す。マグノリアはつまらなそうに唇を尖らせたが、顎を上げてそれに従った。
「そうね、相手は建国の英雄たち、の子孫だものね。父もおいそれと邪険にはできないってわけ」
「そうです、残念ながらね」
「わたくしがこの国の王として呼び戻されたら、きっとあなたをオリエット伯爵に据えてあげるのに」
「おや、それは光栄」
レナードの支援を受けるセシルに対抗しようにも、男女の冗談を真に受けることはさすがに出来なかった。後ろをついてくる小妖精たちも、「うそだー」と声をそろえる。
「そうしたら、あなたの嫌いな妖精の伯爵も、少しは見直してくれますか」
アレックスは妖精の声を無視して、王女の機嫌を何気なく取った。
「そうね、その子どものおとぎ話を、やめてくれるならねぇ」
本気のわずらわしさを含んだ、その言葉に、灰色の目が眇められた。
これで二度目だ。
妖精たちは、王女のドレスを引っ張ってはいるが、非難する様子はない。
「……殿下」
アレックスが、ごくりとつばを飲み込む。そっと王女を引き寄せ、その耳に唇を寄せる。
「この私と、私の兄が、建国の英雄の子孫たちが持つ秘密を、ご存じですか。……天に座す神に対する、大きな秘密を」
「……あら、何かしら。あなたの秘密なら、いかにもこれから生まれそうだけど」
アレックスは、愉悦にぬれた微笑みの一瞬前の表情をしっかりと見て捉えていた。
大きな秘密、その言葉に対する、王女の困惑を。
薄青の、澄んだ瞳。
底も知れなければ何も隠していない湖のようだった。
「……考えてください、コルメルサに帰っても、この先私と会うことが無くても、ずっと」
その場しのぎの甘い文句ではぐらかして、王女の腰を放した。その意図は正しく伝わったのか、マグノリアが片眉を上げ、アレックスの腕を乱暴に振り払う。
来たときとは逆に、アレックスの前を一人で歩くすみれ色のドレスを、灰色の目が見送る。
(……どういうことだ)
セシルの疑いには賛同しかねた。それは今も同じ気持ちだ。
だが、これは予想外だった。
第一王女は、ブランデンの魔法使いのことを、何も知らない、だなんて。
***
二人の男女のひそやかな会話が遠くなるのを確認すると、ローズは木陰から出た。焦りと恐れで高鳴る胸を押さえて深く呼吸する。
大広間から書庫へ向かう渡り通路の途中で、中庭を挟んだ向こうの回廊にアレックスの姿が見えた。明らかに不自然だと様子を伺えば、あとから姉のマグノリアが現れて腰を抜かしそうになったが、放置もできず、彼らのすぐ近くで息をひそめた。
なぜあの二人が一緒にいたのか、ローズにはわからない。ただ、自分の話が出てきたときには息が止まった。姉が漏らすことは絶対にないと分かっていても、自分のことを探られるのは、彼女にとってこの世で最大の恐怖だった。
(はやく、方法を見つけないと)
それも、誰にも知られずに。
「……いたっ」
脛にかすかな刺激を感じて、思わず声を上げた。ドレスの中に猫でも入り込んだかと裾を叩くが、小さな風がするりと通り過ぎていっただけだった。
脛に負った怪我は、今はもう跡形もない。不気味と言えば不気味だが、これが魔法使いの力かと自分を納得させた。
(……ちゃんと専用の教育を受ければ、こうやって役に立つ物ね)
そのとき、ローズの耳にどこからか馬のいななきが響いてきた。警備の騎士が庭まで出歩いているのかと、ローズは急いで振り返った。
幸い、背後の暗がりに派手な制服の騎士はいなかった。
「……えっ」
代わりに、白い馬が一頭そこにいた。体躯はおろか、たてがみから蹄まで。
その額からまっすぐのびる円錐形の鋭い角までも、真っ白だった。
呆気に取られて、その馬の金色の目を凝視していられたのは、ほんの数秒だった。瞬きする間もなく、ぐんと右手を引かれて、ローズは扇を取り落した。
「逃げろ、殺されるっ!!」
井戸より庭の奥に立っていたローズの、さらに奥に立っていた相手は、ローズを回廊とは逆の方向に引っ張った。
「ま、待って……」
ローズは転ばないよう、必死に左手でドレスをたくし上げた。もつれそうになる足を必死に上げる。
「待ちなさいよセシルっ!」
命令しても、右手の先の赤毛の青年は止まらなかった。
背後から、砂利を蹴り上げる音が迫ってきている。振り返った肩越しに、白い角が剣のように浮かび上がって見えた。




