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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第八章 疑惑咲く
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昼下がりの秘密

 この家の女主人とすれ違った後、アレックスはうなり声の止まない部屋へと足を踏み入れた。

 アランが言った通りの順番で鋲を抜けば、間抜けな体勢で抑え込まれていた妖精はすぐに解放された。不機嫌な竜の顔を見て、計画上ではもう縁を切っていたはずなのだがと、その胸中は複雑だった。


 廊下へ戻った後に、セシルが慌てふためいて走ってきたが、粗忽な兄の動揺した様などここ数週間でアレックスは見慣れてきていた。今さら気にはならない。


 それより、ドレスの裾捌きも荒々しく歩いてきた伯爵夫人が、自分を見てあからさまに身を固くしたことのほうが、ずっと強く引っ掛かっていた。



 ***



 伯爵家の侍女たちは、独身で決まった相手のいない子息たちに必要以上に近づかないようにと、普段から女主人に言い含められている。

 特に、伯爵夫人付きの侍女ともなれば、その指導は徹底されていた。


「……レティ、って呼ばれてたよな?」


 たまたま別棟から本邸へと戻る方向へ、人気の無い渡り廊下をひとり早足で歩いていたその若い侍女も、勿論例外ではなかった。

 だから、向かいで待ち構えていた黒い髪の年若い次男とまともに話すのは、彼女にとってこれが実質はじめてだった。


「……アレックス様、この先の棟は使用人部屋です。ラスター殿でしたら」

「ラスターじゃなくて、あなたに用があるからここで待ってたんだけど」


 苦笑しながら言われても、教育された侍女のすました表情は一見変わっていなかった。

 ただ、相手の言葉を聞いてきらめきを宿した両目と、ごく、と小さく上下した喉を、弓のように流麗な笑みを形作った灰色の瞳はしっかり捉えていた。


「……ご用は」

「そっけないんだな。みんなの前だから、あまり俺と話してくれないのかと思っていたけど、どうやら本格的に嫌われてるみたいだね」

「わ、私だけでは無く、伯爵家では……いえ、無礼な態度と受け止めていらっしゃるならば、その、大変申し訳ございません」


 侍女は、取り乱した自分を恥じるかのように視線を彷徨わせた。頬が赤く染まり、行儀よく腹の前で重ねられていた手が、地味な灰色のドレスのスカートを強くつかんでいた。

 アレックスは廊下に誰もいないのを確認して侍女に近寄った。俯く女のつむじに息がかかるような距離まで。


「あ、あの」

「伯爵夫人には嫌われている。立場を考えれば、無理もないんだが……そのせいであなたのような、話したこともない人にまで嫌われているのが正直堪えるんだよな」

「お、くさまは、アレックス様を嫌ってなどいませんし、それに」


 掠れそうな声でそこまで言って、侍女はぞく、と肌が粟立つのを感じた。うなじに触れた冷たい指を振り払わなかったのは、身分差によるものだけではなかった。

 

「俺と兄が留守にしている間に、王太子が俺の母のことを伯爵に尋ねたんだとしたら、その場で聞いていた夫人はさぞかし不愉快だったろうな。若いあなたは八つ当たりとかされていない?」

「…………お、奥様は、お心の広い方ですから、そんなっ……」


 女が掴むドレスの皺が濃く、大きくなる。うなじを撫でた男の手が、耳に、輪郭に動いてきたからだ。瞬きの回数が増える。顔全体が火照っているのが嫌でもわかった。


 そんな、まさか、このまま、この指で顎を掬い上げられてしまったら。


 そんな女の困惑に塗れた期待は突然裏切られた。

 男の体も指先もあっさり離された。女は驚き、すました表情を取り繕う余裕もなく相手の顔を見上げた。


「……夫人が泰然としていられるのは、伯爵が俺の母のことを悪し様に言ったから、だったりしたのかな」


 言葉とは裏腹に、それまでの雰囲気を一掃するかのような明るい笑顔を向けたと思うと、「仕事中に悪かった」という言葉とともに、男は女に背を向けた。

 その突き放すような態度を受けて、侍女は咄嗟に「おまちください!」と声をかけ、その腕まで掴んでいた。


「だ、旦那様は悪し様になど仰らなかったそうです! ただ……」


 女自身、目の前の男に隠さなければいけないような秘密だとは思っていなかった。それでも、奥方付き仲間との密やかな噂話は、部外者は言わずもがな、邸内の他の人間にすら黙っておくのが暗黙のルールだった。

 それなのに、女は随所に「先輩から聞いただけ」と挟みながら知りうる限りのことを男に話した。男を喜ばせたい、もう少し長く話していたい、それだけが女の頭を占めていた。


 ところが、アレックスは最初こそレティの目を見つめ笑みを浮かべながら話を聞いていたのだが、その灰色の目が途中大きく見開かれたかと思うと、表情は険しいものとなり、視線は下を向いてしまった。


「……そう」


 話し終えたあと、侍女は男が思っていたような反応を示さないことに落胆した。

 蒼白になった美貌を前に、今話したことがどうかしたのか、力になれることが自分にあるかと申し出ようとまでした、そのときだった。


「アレックス様、レティ殿がどうかなさいましたか」


 侍女の細い肩がびくりと震えた。

 アレックスの背後から茶色い髪の男が姿を現すと、レティは自分の口の軽さに青ざめ、視線をうろうろと彷徨わせた。――おかげで、目の前の若君の表情が一層強張ったことを、見逃していた。

 

「……エリック……あんた、なんでこんなところに」

「厩舎……外から帰ったところですので、着替えようかと。それより」 


 アレックスに答えたエリックの眼差しは咎めるように侍女の方へ向けられた。


「……彼女は奥方様付きの者ですが、何か粗相でも?」


 水を向けられたレティは慌てて一礼すると、逃げるようにその場を離れようとした。

 ただ、アレックスの横を通り過ぎようとした刹那、ぐっと手首をつかまれ、「このことは、内密に。……おしゃべりな使用人は奥方に叱られるだろう」と囁いてきたものだから、侍女は目を白黒させながら頷き、一目散に持ち場へと戻った。

 言われずとも、誰にも話せやしなかっただろう。

 年下の、貴族の子息相手にこんなに浮かれた自分の愚かさを、誰にもばれたくなかった。




 二人きりになった場で、アレックスの目は先程までとは打って変わって警戒する狼のように鋭さをあらわにした。


「どこから聞いていた?」

「……失礼ながら、なかなかお話が終わらないようだったので」


 全部だと言外に答えた青い目の従者を僅かに見上げる。エリックはアレックスよりほんの少し背が高かった。

 問題はないはずだった。アレックスは、あの肖像画を無関係な他人には見せていないはずだから、エリックはアレックスの母の顔を知らない。今の話の何が、アレックスから平静を奪ったのか、分からないはずだった。


(……だけど、今、肖像画はセシルが持っている)


 アレックスは、先程ただならぬ様子ですれ違った伯爵夫人の後に走ってきた兄が持つキャンバスを目ざとく見つけていた。

 普段堂々とした態度の夫人が、自分を見るなりあからさまに挙動不審になった様子と、伯爵の執務室に置いてきたはずの母の肖像画を結び付ければ、今の侍女からの情報で浮かび上がる事実があった。


 それを、よりによってセシルすらも裏切っていた男に聞かれていた。


「アレックス様、顔色が悪いようですね。お加減が優れないのですか。ラスターが厨房にいるでしょうから、身を整えたあとで声をかけておきます。お部屋へ、お戻りになられてはいかがでしょう」


 エリックは感情の読めない、貼り付けたような笑顔でそう言うと、アレックスの横を通り抜けて使用人部屋へ向かおうとした。厩舎から帰ったからか、汗と馬、そしてかすかに血の匂いがした。妖精馬に生肉を与えると言っていたセシルの話を、アレックスは思い出した。


(こいつに、余計なことを話させたくない)


 セシルが見逃しても、アレックスはそうはいかない。

 見逃すには、己には後ろ暗いところがありすぎるから。


「……エリック」


 呼び止められれば、従者はそれを無視できなかった。

 ゆっくり振り返ったその顔に、もう笑みは残っていない。


「……アレックス様、懸念されてますことについては、ご安心ください。()()()()()()()()()()伝えるようには、仰せつかっていませんから。……セシル様に関しても、おそらく、もう私は用済みなのでしょう」


 エリックごと抹殺しようとしていた夜盗の一件から、アレックスも“用済み”には同意できた。しかし、だからといって安心など微塵もできない。

 相変わらず、誰からの指示なのかということを伏せる従者の無表情に向かって、アレックスは慎重に告げる。


「……口約束は信用しない。この家の従者なら、どうすることが一番安全な口止めになるか、わかるだろう」


 エリックの目が見開かれ、次いで歪んだ。仕える主人の弟――少なくとも、エリックはまだそう思っているはずの男相手とは思えない睨みをきかせる眼差しに、アレックスはダンリールの教会で感じた敵意を思い出した。

 

「……本当に、頭の回るご様子で、頼もしいかぎりです。……セシル様と違って」 


 このクソガキ、そう物語る青い目に、今度はアレックスが片頬を上げて応じた。


 かろうじて。



 ***



 その日の夕食の場に入るなり、セシルはデザートフォーク片手に床を蹴って走り出そうとした妖精を間一髪抑え込むはめになった。


「やめてキーラ! ……だめだよ、レティは母さん付きなんだから」

「あ、あの侍女が今、アレックスに悩ましい目を向けた!!」

「向けてない!! ……母さんのお付きは母さんそのものみたいに、みんな厳格なんだからっ」

「アンナだって、アンナだって、今、アレックスのこと気にしてたっ!! 既婚者のくせに何のつもり!?」

「いい加減にしろバカチビ!! っ痛、この、フォークを返せ!!」


 灰色の目の男たちはすべて聞こえていたが、我関せず、何も言わなかった。

 ――セシルの声しか聞こえないのに、その一方的な言葉から何を言われているか分かったのか。そ知らぬ顔で給仕と食事に臨む女らの背中が汗で濡れていたのは、夏の夜だからというだけではないのだった。




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