看過できない
セシルは馬車の中にいた。今日はキーラも連れていない。勝手に着いてこないよう、屋敷の出入口と窓すべてに妖精避けとして火のついたランプか、もしくは鉄の釘を置いてきた。多くの妖精が、火と鉄を嫌うからだ。
お茶会を経て思い知ったのは、現状でアレックスと打ち解けることはどうにも難しそうということだった。であれば仕方ない、セシルは差し迫る廃嫡の危険に向けて、父に言われた通り王家を自分の味方につける方向に舵を切った。
しかし、いきなり国王や王子たちに取り次いでもらうツテも度胸もないセシルは、まずなじみのある貴族子弟との繋がりを見直すことにしたのだった。
ちなみに、母アンナの生家は男爵家で、財産はあるが王家に直接申し入れができる人材は思い当たらなかった。アルバートの父、つまりセシルの祖父は他界済み。存命の祖母はセシルの一家とは距離を置いていて、ほとんど会っていないのでおそらく助けてはくれないだろうと思っている。アルバートには弟もいるが、彼は実業家で、爵位はない。
(……出仕してる父さんから陛下へ根回ししてくれれば確実なんだけどな)
しかし、署名した手前か、アルバートはセシルに肩入れしてくれそうになかった。
それは、今まで叱られつつも跡継ぎとして育てられてきたセシルにとって少なからず悲しいことだった。
(父さんは、成り行き次第じゃ本当にアレックスを跡継ぎにしてもいいと思っているような気がする)
現実的で頭の切れる父のこと、優秀で覚えがいい次男がいるなら、わざわざボンクラな長男にこだわる必要もないか、とさらに後ろ向きな思考にとらわれる。本当に署名は酒の勢いじゃなかったのかもしれない。
(とにかく、自分で動かなきゃ、事態はどんどん僕にとって悪い方にいきそうな気がする)
***
ぐるぐる考え続けていると、セシルを乗せた馬車は黒い扉の、窓にカーテンが引かれた建物の前に停まった。リンデンに点在する会員制クラブのうちの一つである。貴族の子弟、富豪の商人といった限られた層のみが紹介によって出入りを許される店で、秘密の話や仲間内での情報交換に使われる。
王太子の誕生祝の宴会、つまりセシルを追い詰める書類が提出される日付が近くなれば、セシル同様領地に居たり、仕事で遠出していたりした友人たちも、リンデンに出てきていた。
セシルは今日彼らに会うために、めったに足を運ばないこの店へ赴いた。もちろん、ここならまだアレックスは入ってこられないだろうとの思惑もあって。
エリックと御者を待たせて、看板も札もない扉を自分で開ける。中には複数の丸テーブルとカウンターがあり、仕立ての良い服に身を包んだ三人の若い男たちと、何も聞かず、答えない店主、そして用心棒を兼ねた給仕しかいない。あらかじめ、今日は他の客をすべて断るようセシルが依頼しておいたのだ。
「久しぶりセシル! いやあ、男ってのはみんなしょうがない生き物だから、俺たちも気を付けないといけないよな!」
「……」
酒が運ばれてくるより早くセシルの気をさらに滅入らせたのは、既に到着していた彼らが一様にセシルの新しい弟のことをすでに知っていたという事実だった。
「相変わらずだなぁウィリアム。ああ、セシル、元気そうで何より。商談から帰ってみたら、最近ロッドフォード家には背の高い色男が出入りしていると聞いて、私はてっきり君に成長期がきたのかと」
「…………」
本人の公的なお披露目前でも、ゴシップの足は馬の足より余程速い。
「ハリス、身長なんて本人にはどうしようもないことなんだぞ。それよりセシル、元気出せ。こんな言い方するもんじゃないが、どんなに背が高かろうと顔がよかろうと、相手は不義の子なんだろう? 正式な妻で、イグリース男爵のお嬢様を母にもつお前が引け目を感じる必要なんてどこにもないだろうが」
「………………」
厳格な当代オリエット伯爵のスキャンダルは、暫定跡取りである長男の心情に対する憶測をも生み出しているのか、席に着くなりセシルの肩がぽんぽんと叩かれた。
「…………僕も最初は驚いたけど、弟はやっぱり弟というか、一緒に暮らしてみれば案外可愛いもんだよ!」
悪意のない慰めがかえっていたたまれなくて、笑ってごまかした。『案外可愛い』弟にあんた呼ばわりされているとは、友人達相手とはいえども言い出しにくかった。
「レナード殿下の舞踏会には弟は来るのか?」
親切なのか不躾なのかわからない慰めをくれた男爵次男・現軍人のグラッドの問いに、今度は正直に肯定した。すると先ほどセシルの身長を揶揄って出迎えた大商人の跡継ぎであるハリスが興味深そうに乗ってくる。
「それは場がさぞ華やぐんだろうね。今や王都の高貴なご婦人やご令嬢の間では、彼の噂でもちきりだから」
「……へぇぇ、それは知らなかったなぁぁぁ」
公の場では貴族の跡取りとして、商談の場では客として丁重に扱われても、この店で他人を交えないで話しているときは誰も彼もセシルに遠慮がない。
萎える気持ちを叱咤してセシルは考える。何せ彼らが一握りの恵まれた層だとしても、彼らだけでは国王に直接影響力は与えられそうになかった。野心のないセシルが選んだ友人たちは優しくて気前がよくて、そしてやはり野心がない。似た者同士で寄り集まって、居心地の良さに甘えたツケだった。突き詰めて考えればセシルの家が一番古くて王家に近いくらいだ。
それでもセシルは、彼らの知っていること、持っているツテを確認して自分の切り札を見つけると決めてここに呼んだのだからと、自分に気合いをいれる。給仕が酒を注いだグラスを、大きくあおった。
「ハリス、舞踏会に向けて王族の方から注文が来たりもする?」
「くるとも。御贔屓にしてもらってるのは祖父だけどね。父ですら手伝いしかできないし、私はまだ王宮には入れてもらえないよ」
(……君が一人前になるころ、僕は実家を追い出されているかもしれない!)
セシルは友人の家の商売繁盛ぶりに「さすがだね」と言って、もうそれ以上深く突っ込まなかった。
「そういえば、グラッドは今は誰の指揮下にいるんだっけ? 国王陛下じゃないだろ?」
「はは、まさか! 残念ながら国境駐在から帰ったばかりなんでね、どなたの下につくのか決まっていない。空きがあるのはライオネル殿下のところだな」
(……ライオネル殿下は信心深くて権力からも国王陛下からも遠い。そもそも王都に住んでいない!)
軍人の友人に任務からの帰還を労ってから、また考え込む。
最後の友人は今日最初に軽口で出迎えてくれた、若伯爵だ。セシルと違って既に先代が亡くなっていて、爵位を継いでいる。
「なんだよ、急に黙り込んで」
「……ウィリアム、君、国王陛下と話したことある?」
「俺が? 公的な場での挨拶以外でか? あるわけないだろうが」
(……そうだよね。僕もだよ)
全滅した。セシルにはこの後どうやって動いたらいいのかわからない。
あからさまに沈んだ顔を隠せなかったセシルを見て、商人の息子ハリスが訊ねる。
「なぁ、直接陛下と、てのは難しくても、その周辺じゃだめかい? お子様方とか」
「……例えば誰?」
王太子に会えるとなればかなり望みがつながる。そう思ってセシルは身を乗り出してハリスに詰め寄る。
「私、ついこの前リンデンにあるフレイン公爵の家へ夫人のための宝石を何点か持って行ったよ」
セシルは思わずぎくりとした。「ふ、フレイン公爵夫人?」どもりながら確認する。
「公爵自身も先代国王の従弟でいらっしゃるが、そうか、昨年ご結婚した夫人がまさしく陛下のご息女だったか」
グラッドが続ける。セシルの胸が高鳴り、緊張で手のひらにじわりと汗がにじむ。
「で、でもフレイン公爵は足も弱っておられて、夫人もご一緒に領地にこもりきりだってきいたけど」
「それが十日くらい前かな、セシルが来たちょっと後くらいにリンデンにこられてたんだよ、公爵夫人だけで。夫人が独身の頃だってほとんど公的な場には出てこなかったのに、なんで今年の王太子殿下の誕生祝いには来るんだろうね。で、うちにお声がかかったのが急すぎて祖父も父も都合付けられなくて、私が伺ったんだ」
「……えーっと、もしかして、公爵夫人とまた会う予定あるの?」
「ちょうど明日、先日お買い上げいただいた指輪のサイズを直して持っていくところだよ」
セシルはハリスの手を持っていたグラスごと両手でがっしり包んだ。
「ついていかせてくれ! そんで、そのとき僕を夫人に紹介してくれないか!?」
友人に食らいつかんとばかりに勢い込んでしまったあとで、セシルは我に返った。突然の剣幕に驚いたハリスは、「い、いいけど……」と若干引き気味で、昨日のアレックスが重なるようだった。
見渡せばほかの二人も呆然とセシルを見ている。ウィリアムが「やっぱりお前……」とつぶやいた。
(ばれるっ!)
「セシル、お前そんな必死になってまで……」
「いやっ、あの!」
ハリスの提案に飛び付いた下心を指摘されたくなくて、焦りが思考を停止させた。
「実はアレックス、あ、弟のことだけど、彼が僕から爵位を持っていこうとしてるみたいで!! 父さんも僕の完全味方ってわけじゃないみたいで!!! それでどうしても国王陛下に父の申し出を許可してほしくなくて!!!!」
セシルは火がついたように早口でまくし立てた。全て言い終わってから、咄嗟に口から出た言い訳が自分の醜聞そのものだったことに気が付いた。
しんと静まりかえる店内で、セシルは肩で息をしていた。恥ずかしさに冷や汗が止まらない彼を三対の目が見つめていた。
「……ああ、そんなことだろうとは思っていたけども」
発言内容には驚かないとばかりに苦笑いするウィリアムがセシルの肩に手を置く。
中腰のままだったセシルは肩に乗せられた手の重みに従って椅子に座りなおしながら「……え」と戸惑った声を出す。
「君という跡継ぎがいるオリエット伯爵にとっちゃ、今さら市井で育った庶子を養子にする必要性なんてない。なのに養子縁組した理由は、跡継ぎ変更を申し出るつもりだからじゃないかって噂が流れてるんだ。何せ君んち、継承順位変更を認める規定があるもんな」
「ウィリアムやハリスはともかく、俺は信じてなかったぜ。噂の弟がどんな奴か知らないが、セシルが次期伯爵じゃ駄目な理由なんてないだろ」
「駄目じゃない方じゃなくて、良い方をとるのがいかにも冷徹で現実的なオリエット卿だって…ごめんセシル、今のは言葉のあやだ。それとグラッドやウィリアムと話して、この件については君が自分から切り出すまで黙ってようって言ってたんだ。本当にただの噂って可能性もあったからね」
友人たちが口々に説明してくれて、フォローしてくれていた。
そんな様子を見てセシルは自分が無駄な気を回していたと気がつき、肩から力が抜けた。それにしては今日の出迎えの挨拶はみんな随分無神経だったと思わなくもないが、あえて言うようなことじゃないと思い直す。
「いや……うん、ありがと。隠そうとしてごめん。みんなを困らせるだけかと思って」
それより、とセシルはつとめて自然を装って聞いた。
「明日フレイン公爵邸には何時ごろいくの? 夫人に手土産を持っていきたいんだけど、何がいいと思う?」
思わぬ僥倖に逸る気持ちを抑えながら相談したが、ハリスが答える前にウィリアムが思わぬ横やりをいれた。
「いやちょっとまてハリス。そういう理由なら、セシルに公爵夫人を紹介するのは悪手だ」
「っ、な、なんで!? 人妻だから!?」
「は?」
「…………取り乱してごめん、忘れて。で?」
「いやぁ、実は俺、昨日フレイン公爵邸の前を通ったんだ。弟の家から帰るのに自分の馬車の車輪が壊れてさ、弟が手配してくれた貸馬車で。通りすぎるだけのつもりだったんだけど、ちょうど公爵邸の前の道で、馬車が急停車して」
困ったように眉尻を下げて、ウィリアムが続ける。
「俺も降りて様子を見てたんだけど、御者はなんもないのに突然馬が落ち着かなくなったって言ってんだよ。で、実際なんもないのにやたら足踏みばっかりして、何かを蹴ろうとしてるみたいで。公爵邸の使用人とかも様子見に来てくれて」
妖精だ。セシルはぴんときた。時々今でも街中に現れては人や家畜に悪戯している。キーラの同種かなにかだろう。
「その時うちの御者と一緒に馬を落ち着かせてくれた地味な服の使用人、おれは顔は見なかったんだが背が高くて、馬の扱いも慣れてたのか上手く落ち着かせてくれて。ただ、髪が長いのが気になって。公爵家の使用人は珍しい奴がいるなと思ってなんとなく見てて……」
「……おい、まさか」
グラッドの顔がみるみる気色ばんで、ハリスの顔が青ざめる。ウィリアムがそこで言いよどんだ理由に気が付くのに、セシルも時間はかからなかった。
「……うそ」
呆然としたつぶやきに、ウィリアムが観念した。
「俺がそいつに礼を言おうとしたところで、屋敷の中から出てきた女が扇で顔を隠しながら呼び掛けていったんだ、『アレックス』って。
女中とは違う上等な服だったけど、夫妻は領地にこもっているって聞いてたから、留守中を預かる管理人かなんかだろうと思ったんだ、その時は……でも、夫人一人だけ、リンデンにきてたんだな」
噂のオリエット伯爵の次男の名前は今さっき、セシルが取り乱したときにはじめて知ったのだとウィリアムは苦々しく続けた。
夫を領地に残して年下男と不倫か、最低だな、とグラッドの憤った声がセシルの脳天を穿つ。
「アレックスと……公爵夫人が…………ローズ、様が……」
力になれなくてごめんとハリスが謝り、グラッドとウィリアムが対抗できるツテをこの人はどうだあの人はどうだと提案してきた。
そのうちウィリアムがアレックスに熱を上げるリンデンの女性たちへの不満を言い始める。
「それにしてもだなぁ、セシル! いやあ、女ってのはみんなおそろしい生き物だから、俺たちも気を付けないといけないよな!」
***
あの日彼女が、フレイン公爵夫人ことローズ・エスカティードが夢の中でセシルに言った。
「でも私、地位も名誉も財産もほしいのだけど」
続きが、幻聴が聞こえる気がした。
「背が高くて顔もいい男がそばにいるなら、なお言うことないわよね」
***
結局セシルは、国王や王子とのツテを見つけることもできず、エリックに担がれて抜け殻のようになって家に帰った。ただよう酒の匂いにアンナに顔をしかめられたことも、キーラに「セシル酒くさい!!」とカーテン裏に逃げられたことも、好きな人と初めて話す口実とチャンスがなくなったことも、もうどうでもよかった。