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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第六章 監督不行届

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 斧は、そのまま振り下ろされれば男を脳天から割りそうな勢いで掲げられておきながら、そのまま持ち主の頭上でぴたりと動きを止めていた。


「……キーラ?」


 衝撃的な場に放り込まれた高い声は、拍子抜けするほど緊張感に欠けていた。

 当の妖精はすでに馬車の中ではなく、怒れるドワーフとエリックとの間にできた小さな隙間に佇んで、もじゃもじゃと繁った髭を見上げていた。セシルが、どういうことだという問いを込めて、半身乗り出して目を見開いてたアレックスに視線を送ったが、見られた方もまるで話が分からないという体であった。


「ほら、これでしょ」


 くりくりとした金色の目をドワーフに向け、さらに何かを差し出すような動きが見えたものだから、まさかと思ってセシルは駆け寄った。


「……うそ」


 斧を恐怖の眼差しで見た後に、自分の腰にも届かない小さな妖精の突き出した手の中を見て、セシルは何よりもまず呆然とした。


「……なるほど。確かに、この男に渡した鍵で、間違いないな」


 しゃがれた声が後に続くと、振り上げられていた斧はゆっくりと降ろされ、ドワーフは刃を石の地面に付けて、その柄を己に立てかけた。そのまま、空いた片手で鍵をゆっくり掴んだ。


「な、なんで、お前が」


 もうエリックにも、その他の人間や妖精にも興味はないと言いたげに、ドワーフは斧を肩に掛けて、くるりと踵を返した。

 それを無邪気に手を振って見送っていたキーラは、混乱に見舞われたセシルからの問いに「えぇ?」と眉を寄せた。


「セシルったら、キーラがずっとクロースと遊び歩いてると思ってたんでしょ」


 セシルが最後に見かけたとき、キーラは馬小屋に向かっていた。

 あの時から、戻ってくるまでの間、何をしていたのか、セシルはちゃんと妖精たちから聞いていなかった。

 むくれた小妖精は、ゆるゆるとした袖の中に片手を差し込み、小さな紙片を取り出して、セシルに見せつけた。


(あ……)

 

 セシルは思い出した。あの森は、もともとクロースの棲み処であり、キーラの同族がそこら中にいたことを。案内人がいなかったことを心配してやる必要は無かったのだと。


 なぜ、と思う必要もなかった。亜麻色の髪の妖精の何気無い言葉もまた、その記憶の箱からころりと転がり出てきていたからだ。


『あのショートカットのよそ者と違って』


 細い首を僅かに覆うだけの長さの金の髪が、夏の空の下でふわりと翻った。

 青い目の、セシルよりずっと背の高い男が、愕然とした顔で頭上から見つめてくるのに、気まぐれで意地きたない、負けず嫌いな幼子には、悪びれる様など微塵も無い。


「キーラ、田舎者とは、お返し選びのセンスが違うんだよね!」


 ショートカットの小さな悪魔は生意気な言葉と裏腹に、はじめてその男に笑顔を()()()


 次の瞬間、小妖精は歓喜で抱きしめようとしたセシルの腕を軽やかに潜り抜けると、元の馬車にかけこんでいった。馬車から聞こえた「褒めて! 抱っこして!」という自由なおねだりに閉口したのは空振ったセシルだけだったが、それというのもエリックはもう呆然とするだけで、馬車の方に向かった金の頭を、その目が追いかけることはできていなかったからだ。


「……エリック、わざと一つ、鍵が取り残されてることを言わなかっただろ」


 セシルは古い石畳の街道にしゃがみこんで、馬車の方を見つめたまま、ただ棒立ちになるしかないエリックに声をかけた。

 小妖精が得意気に見せてきた紙片には折り目がつき、「もうひとつは、暗い森の跳ね橋のたもと」と書かれていた。役場の掲示板にあった紙片と、同じ筆跡だった。

 妖精がそれを手に入れた場所を推測できるとすれば、昨夜の地下聖堂に他ならない。


「ローズ……フレイン公爵夫人には鍵を二つ渡してた。一つでも地下室に返さないままこの村から出れば、凄惨な末路を迎えるって、知ってたんだろ」


 何も答えない男に、セシルは静かに言葉を紡いだ。視界の端で、男が俯いたのがセシルにも分かった。


「それで、そんな幕の引き方して、僕が満足すると思ったの」


 昨夜と同じように責める言葉は、しかし非難の色を帯びていなかった。

 ただ助かった安堵と、その選択へのやるせなさと、遅れてきた恐怖、そして開き直るだけの決意が、セシルの胸を占めていたからだ。


「そんなやり方で、悪魔を手懐けた怪物から、逃げ切れると思ったの」


 視線の先の馬車から、キーラにしがみつかれたアレックスが戸惑いの表情を浮かべて降りてくるのが見えた。そのさらに後方でも、扉が開いて、青いスカートの裾が覗いた。もう出発しないといけないだろうことは、脱力して立てないセシルにもわかっていた。


「……セシル様、裏切り者を甘やかすのは、暗君の特徴ですよ」


 抑揚のない声だが、それは溢れるものを上から抑え込もうとするときの揺ぎを伴って聞こえた。


「……お前を甘やかすわけじゃない。ただ、これから朝ごはんの度に二度手間くうのかと思うと、ちょっと辟易するし」


 セシルはそこでようやく、目の前に立ったまま、戻りも進めもしない男の顔を見上げた。


「何より、ここに持ってきたもののほとんどが、なぜか行きのトランクだけじゃ持って帰れないからすごい困ってるんだよ」


 帰りの荷造りするころに戻ってきてくれって言ったじゃんと、南に近づく太陽のせいで、暗くてよく見えない顔に向けて困ったように笑った。


 男は黙ったままだった。

 震えた膝がくずおれて、主人と同じ目線になるまで。


「お戻りくださいセシル様ー!! お、お部屋に、見送りに出ていた数分の間に、セシル様にお使いいただいた部屋に、強盗が荒らした跡が!!」


 ドワーフと入れ違いに、馬を駆ってやってきた使用人の鬼気迫る報告のせいで、項垂れて小刻みに震える従者が笑っていたのか泣いてたのか、無神経なセシルにはやはりわからないままだった。



 ***



(なんだ、これ)


 一行はセシルとその従者が「笑ってる? おい笑ってるだろ! 無礼にもほどがあるぞ!」「……だってこのトランク、行きの時の半分くらいしか重さが無、くっ」と騒ぎながら、馬を駆って荷造りをし直しに行くのを、街道の脇で待っていた。


 戻ってお茶を、と声をかけてきた屋敷からの使用人の誘いを断って、アレックスは馬車の中にとどまった。往復するのがばかばかしいというのは紛れもなく本音だったが、別の思いもあった。


(なんなんだ、これは)


 しつこく付きまとうキーラに、村で買っておいたチョコレートの包みを見せれば、ぴゅっとつむじ風のように馬車から出ていった。

 昼に差し掛かる日差しを遮る馬車の中で、アレックスはひとり、茶色い髪の従者とは違う意味で呆然としていた。

 この時のアレックスは突然の惨殺未遂と怒涛の収束に混乱していたが、それでも明確に、あの二人の近くにいたくないという嫌悪と戸惑いは自覚していた。


(なんで、どうして)


 風を通した方がいいとラスターが心配したので、馬車の扉は開け放ってあった。

 セシルとこそこそしていたくせに白々しい、そう苛立つ気持ちが沸騰した瞬間もあったが、その後ろめたそうな顔に、却って頭が冷えて、アレックスは言う通りにした。

 別世界のように明るいそこから、緩やかに巻かれたブルネットの少女が、日傘の影をまとって顔をのぞかせてきた。


「……スカーレット、なんだ、屋敷に戻らなかったのか」

「セシル従兄様たちも急いで戻ってくるだろうけど、プレッシャーかける意味も込めて、ここで待つことにしたのよね」


 アレックスの低い声に、少女が動じることはなかった。それに引き換え、アレックスは落ち着こうと自分に言い聞かせてなお、冗談ぽく投げ掛けられた言葉に乗ってやる気分になれなかった。


「なんだか、大変だったけど、良かったのかもね」

「良かった?」


 白いレースの手袋に覆われた細い手も、その中でくるりと回る日傘の華奢な柄も、目の前の女の育ちのよさを表しているようだった。

 ――ローズはほとんど外出をしなかったので、明るい日差しの中に立つ令嬢という光景を、アレックスはあまり見たことがなかった。


「良かったじゃない。なんで突然ドワーフに狙われたんだか知らないけど、エリックは明らかに危なかった中、助けたのは従兄様のピクシー。エリックが従兄様の方に歩み寄るきっかけになったでしょうし、エリックを頼り続けたい従兄様にも、恩を着せたって名目で解雇の必要もないって大義名分が出来たんだから」


 硬い琥珀色にも、柔らかな蜂蜜の色にも見える瞳が、緩やかに細められて、馬車の中から出てこない男に向けられる。


「……たまに、いるのよ。ひとりだけ、神様に特別贔屓にされてるみたいな人」


 魔法使いの癖にね、と、スカーレットのその言葉は、慰めのような言葉でありながら、どこか寂しげな響きを伴っていた。


「うちね、母がもう死んでるの。私が十才のときだったかしら。父は手を尽くしたけど、結局ダメだった。最期がくるのは、突然だった」


 一瞬、馬車の中に視線を向けたまま、スカーレットがここではないどこか遠くを見たように、アレックスには感じられた。

 なぜ彼女が自分にそんな話をするのか、アレックスの醜い動揺が、彼女になぜ伝わったのか。

 深く考えなくても、その不可解さで答えは自然と導かれた。


「……ロッドフォードの家系に嫁いで、ストレスで死んだのは、あんたの母親だったのか」


 日差しが届かない影のなかで、スカーレットは否定も肯定もしなかった。


 ただ、一転して見事な笑顔で「秘密よ」と言い残し、靴音も軽く後方の馬車に戻っていった。


(手を尽くしたけど、結局ダメだった、か)


 長い髪が顔に落ちかかるのを構わずに俯いた。アレックスは思う。

 きっとあの丸顔の叔父は、自分と娘が受け継いだ奇怪な資質に、伴侶の女が押し潰されないよう、結婚してから長く、手を尽くしたのだ。

 でも、だめだった。セシルの母のことを幸運な出会いだと言ったのも、この事がベースにあったからだろうと想像に難くなかった。


 彼女とその父親にとって、この血の周りにいる人間は、いつ離れていってもおかしくないものなのかもしれない。アレックスにとっても、まさしくそうだった。

 だけど、今、目の前で起きた奇跡はどうだろう。


 アレックスの中に、雨漏りする滴のように、ぽつ、ぽつ、と感情の欠片が溜まっていく。

 ふさいでもふさいでも、いつのまにか垂れてくる汚水は、あきらめて桶で溜め込むしかない。


 自分は、自分達は、神様に特別贔屓される彼のことを、どう捉えればいいのだろう。

 助けてもらえないことが当たり前の自分は、どうすれば。


「ここは暗いね、おにいさん。外はあんなに明るいのに」


 いつのまにか、狭い馬車の向かいの席に、小麦色の髪の少年が静かに座っていた。


「……いつの間に」

「ずっとおにいさんと一緒にいたよ。影の中にいると、逃げられなくてすむからね」


 ああ、なるほどと短く吐き捨てた。

 薄暗い馬車のなかで、真上からの日光はほとんどアレックス達には届かない。

 自ら外に出ていったセシルが、全身に光を浴びて、ほしいものを全部取りに行くのとは対称的だった。


(あの男が荷担したことは、俺が死にかけたことなのに)


 金色の目が緩やかに弧を描く。


「その髪、とても綺麗だね」


 黒い髪。

 脳裏によみがえったのは、東の塔で兄の上着を回収したときに見つけた、若かりし頃の母親の肖像画だった。

 アレックスが母親から残してもらえたのは、それと、髪と顔だけだ。


(なんで)


 それだけだった。


(どうして、母さんは、俺は…………なんで)


「――赤毛の魔法使いの寝室にいたときは随分お優しい顔になっていたが、取引は、忘れていないだろうな?」


 薄暗がりのなかで、金色の目が再びずる、と月を描く。

 見るものの心を狂わす、魔性の災厄らしい、美しい笑顔だった。 


「……勿論」


 返された呟きに満足したのか、次にアレックスが顔をあげたとき、少年は消えていた。かろうじてその目がとらえたのは赤い鱗の尻尾が、しゅるりと闇に潜り込んでいった姿だけだ。



「…………そこに常駐するつもりかよ」


 嗤うように車内の影が蠢く。端正な標的の顔が歪むのが、心底楽しいと言わんばかりであった。


 アレックスは渋い顔で嘆息した。無駄だろうと知りつつ、しんと静かになった絨毯を蹴る。

 溜め込みすぎた汚水は、捨てようにも桶が重すぎて、その床にこぼして広げるだけだろうなと自嘲しながら。



 ***



「……アレックス様、やはりお屋敷に戻りましょう。その、……申し上げにくいのですが、スカーレット様がたのお乗りになる馬車の、車輪が、ですね……」


 暑さなのか怯えなのかわからない汗をぬぐい、それでも毅然とした顔を崩さないよう気を張っているラスターに、アレックスは少し同情した。


 アレックスは、彼がこれから言うことを、「馬車に近づく不審者も、縄をかけられてたから大丈夫だろうと見逃したのか?」なんて責める気は無かった。


 先程外から帰ってきた小妖精が、満足げな顔で車輪の軸受を握りしめていたから、修理のためにまた出発が遅くなることは覚悟していたのだ。




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