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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第六章 監督不行届

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伯爵令息の監督不行届

 食の細いひとり息子がやたらにおやつのクッキーを欲しがることを、最初に訝しんだのは母親だった。

 夫である伯爵になんともなしに話したところ、妻の心の安寧に敏感になっていた彼はすぐに原因を突き止めた。


「セシル、ピクシーは犬じゃない。餌付けるのはもうやめろ」


 甘やかされて育った五歳の息子に、初めて険しい顔を向けた。思えば、勉強や作法は講師が叱るが、この手のことを面と向かって叱れるのは父親たる自分だけだったと思い当たった。

 未熟な我が子が誑かされて、取り返しのつかないことになる前に、そう思ってやだやだと泣きじゃくる我が子の小さな手からクッキーをとりあげた。


「でも、約束したもん! クッキーあげるって、そしたら、一緒に遊んでくれるって」


 アルバートは目を眇めて、手遅れだったことを知った。

 しかし、それを杞憂だと窘めるかのように、父の手に必死に腕を伸ばす息子の隣で大きな金色の目をむけてきた妖精は、少し困ったように訂正した。


「そんな約束してないよ。ただ、クッキーちょうだいっていっただけ。遊ぶなんて言ってない」


 息子の泣き声が一層大きくなった。 

 アルバートはため息をついた。子供特有の小さな嘘にも、誑かされるどころか、たかられているだけの哀れな息子にも。


「でも、一緒にいてあげるって言ったよ」


 前言撤回、もっと解釈が広くて危ない取引がすでになされていたようだと焦燥感に捕らわれ、表情を渋くした。妖精と一緒にいるとは、妖精界に攫われても取引は成立していることになる。如何にしてこの妖精にセシルとクッキーを諦めさせようかと思案したときだった。


「セシル、ひとりぼっちで、かわいそうだから」


 妖精が続けた言葉に、アルバートの灰色の目は大きく見開かれ、そして、苦く、ゆるやかに解けていった。


「……セシル、おまえの浅はかさが招いたことだ。犬どころか、十年後のお前より、なおききわけがないだろうこいつを、監督するのはお前の責任だ」


 赤い睫毛も緑の目も濡らして、くしゃくしゃの顔で幼子は父親の顔を見上げた。そして、自分の分だけでは飽き足らず母親の分まで掠め取ったクッキーの袋が目の前にぶら下げられたとき、さっきまでの大泣きが嘘だったかのように大喜びで手を伸ばした。


「……そのお前を監督するのも、私の責任だったな」

 

 その心を守るのも。


 片手に取り戻した宝を持ち、赤い髪の幼子は空いた片手で妖精の手を引く。よく転ぶその子供は程なくして絨毯敷きの床に顔面から倒れ込んだが、焦る使用人の中にあって、妖精はけたたましく笑っていた。


 あの子に弟がいたら、こんな感じだっただろうか。


 ***


 明け方の雄鶏の泣き声が遠くから聞こえた。


 セシルは、差し込んでくる朝日から目を背けるために、枕に顔をうずめた。

 そのとき、その居室の戸をたたく小さな音がした。すわエリックかと散々こすった目を見張った直後に、まさかと思いなおして入室の許可を出す。


「生きてんの?」


 扉に背を向けて横たわるセシルへ向かって生存確認してきた低い声に、気遣いの色はなかった。ただ、苛立ちと共に振り返ってみれば、取っ手を掴んだ手とは逆の手に湯気を立てるカップが二つ並んでいるのが確認できて、セシルの眉間のしわはすぐに消えた。


「……残念だったね」


 セシルは精一杯の皮肉で応戦してから、アレックスに椅子をすすめた。


「アレックスったら、素直に心配してるって言えばいいのに」

「うわっ」


 部屋に踏み込んだアレックスの顔が固まる。扉から死角になる位置に腰掛けていた少女のことに、たった今気が付いたのだった。


「…………出直した方がいいか?」

「必要ないわ。何分、何時間前に踏み込まれても、同じように健全な恰好で出迎えられるもの」


 笑ってあっけらかんと答える従妹の様子に「事実の有無じゃなくて体裁の話な」としかめっ面で返したアレックスが、カップの一つをスカーレットに渡した。


「だってセシル、ほっといたらどんどん暗い思考に陥っていきそうで、一人にしたことを明日後悔することになりそうだったんだもの」

「……で、一晩一緒にいてあげたところ、どうだった?」

「ほっとかなくてもめそめそめそめそ、暗い思考に転がり落ちていったわ。ほとんど私の独り言になるんだもの、話題が尽きて困ってたとこ」

「でしょうねぇ、精神は八歳くらいだから」

「うるさいなっ」


 ニ人の飄々としたやり取りに、部屋の主は短く苦情を投げかけて、再び客人に背を向けて静かに横たわるだけの作業に戻っていった。

 

「エリックはどう?」

 

 カップの中身を少し傾けてから、スカーレットがアレックスに問いかけた。


「そこにいるご主人とあんま変わらないね。死んでんのか? てくらい暗澹(あんたん)とした顔で、今はラスターに見張らせてる。さすがに泣いてはいない」

「しつこいなっ!」

「ふぅん。……その、疑うわけじゃないけど」

「ラスターが裏切るかどうかまではわからない。それを言い出すときりがないだろ。……腹の中で何思ってようと、裏切りをそそのかす声が無ければ、現状は大丈夫だと思ってっけど」


 それに、ラスターはいろんな思いが積もりに積もったエリックに比べて、勤め始めて間もない上に、アレックスを不気味だと思うほど長時間一緒にいないから、と話すのが聞こえて、セシルは小さく蠢いた。縮こまるように。

 

「……ディフレッドには言うなよ」


 蚊の鳴くような声に、ニ人は顔を見合わせた。


「いずれわかることだと思うわよ」


 それでもだよ、と、すこしだけ大きくなった声でセシルは返した。


「どんな顔で言うんだよ。あなたの息子はアレックスが死にかけることも予想してたし、僕が傷つくことも分かってたけど、ロッドフォード気持ち悪いの一心で裏切りましただなんて」


 僅かな沈黙の後、スカーレットの静かな声が諭すように投げかけられた。


「お従兄さま、思うに、あなたは少し狭い世界に長くいすぎたんだと思うの」


 セシルの頭がわずかに客人の方に揺れる。


「この世に、何でも理解してくれて、受け入れてくれる人なんて全然いない。あなたのお母様みたいに、口では冷たく言いつつも態度で容認してくれるのは、本当はずっと幸運な出会いで、ほとんどの場合はその逆よ」


 でも、と実業家の跡取り娘はつづける。伯爵の跡取り候補へ向けて。


「そんなの、いちいち嘆いていられないわよ。だからみんな少しだけ我慢するの。我慢してでも一緒にいることの幸福とか、言ってみれば得とかの方が大きければ、悪い関係じゃないわよ。決別しなくちゃいけないのは、我慢の苦しみの方が、一緒にいる楽しさを凌駕してしまう関係でしょ」


 セシルとエリックの関係は、後者だった。察しの悪いセシルにも、明言されなくても伝わってきた。


「今回は痛い目見て寂しいだろうけど、きっと次の従者とはうまく行くわよ。お従兄さまも妖精に関して、エリックに向けられなかった気遣いを、今度の人には向けてあげたらいいわ。でなきゃ、代々のロッドフォードの使用人やお嫁さんがストレス死してない説明がつかないじゃない」

「隠されてるだけでそういう事例があった可能性はあるけどな」

「しっ!」


 じゃあ私も少し仮眠をとるわね。そう言ったスカーレットが立ちあがった気配を感じつつ、見送ることもしなかった。


「あんまり泣くと、エリックが訂正するわよ。赤い目の怪物でしたって」


 冗談のようなお休みの言葉に、ぐっと嗚咽をのみこむのに苦労した。


 部屋に残されたのは冬の虫のように動かなくなったセシルと、座ってそれを観察するアレックスだけだった。

 暫く、時計の音だけがひびく時間が過ぎていった。


「……なんか言ってよ」


 先にしびれを切らしたのはセシルだった。


「スカーレットには答えなかったくせに、俺とはおしゃべりしたいのかよ」

「スカーレットはいても気を張らないけど、お前がいると気が休まらないんだよ」


 ふーっ、と、息を長く吹き出す音がセシルの耳に聞こえてきた。息の音すら嫌みだった。


「言葉が、出てこないんだよな」


 落とされた平坦な言葉に、セシルは寝そべったまま、どういう意味だと顔を弟の方に向けた。アレックスは椅子の背にもたれて天井を見つめていた。正真正銘、妖精すらそこにいないのだが、エリックにはこれも「何か」にむかって話している様に見えていたのだろうか、という考えがセシルの頭をかすめた。


「慰めが思い浮かばない。スカーレットとの育ちの差が出たな、と思って、ちょっと自己嫌悪してるとこ」

「……」

「有り体に言って、ざまぁみろって、思う気持ちもある」

「出ていけ!」


 身を起こして投げた枕はろくに見てもいなかったのに避けられ、扉にぼす、とぶつかる音がむなしく鳴った。


「ざまぁみろとは思うよ。やっぱりなとも思ってる。普通の、見えない人間は、そういう反応するもんだって」


 ほかに投げられるものはと探すセシルにかまわず、アレックスは天井を見つめながら淡々と続けた。

 セシルが苦々しく睨みつけたとき、その灰色の目に、表情に、相手をあざ笑う気配はなかった。


「俺もそうだったんだから」


 セシルは、教会でのアレックスの様子を思い出すと同時に、思い当たった。

 エリックの放った本音の弾は、セシルを射抜く前に、アレックスの心の傷も抉っていったのだと。


「セシル、俺たちは、人間たちから、あんたが思うよりずっと奇怪に思われてるよ」


 まるで、自分たちを人間でないように話すアレックスがもの悲しかった。かつて、自分は人間じゃなかったと言われているようで。セシルも、人間じゃないと言い切られたようで。 


 カップをあおって、アレックスがその中を見下ろした。もうずいぶん中身は少なくなっていそうだった。


「だからどうだっての。一族以外を信じるなって言いたいの」


 力の入らない声のセシルに、アレックスは少し笑った。


「家族ですら難しいことを期待するなって話だよ。……俺は、エリックはだいぶ頑張った方だと思ってる。事情を知ってるからとはいえ、俺の母親よりずいぶん長く我慢したんだから」


 目を見開いたセシルにかまわず膝に手を置いて立ち上がりかけたアレックスは、そういえばとあっけらかんとした目を向けた。


「キーラはどこ行ったんだ」

「……多分庭」

「……多分て」


 一転して、話の発端を理解していないのかと睥睨してきた弟にセシルは若干の煙たさを感じながら返した。


「わかってる。でも妖精は、犬と違ってしつけられないんだよ」


 妖精は取引以外に進んで人間に従わない。犬のような懐き方で人間を主人としない。

 身勝手さをふまえて、一緒にいた。

 しかし、考えてみれば、それに納得していたのはセシルだけだ。


「……」


 キーラの悪戯は、セシルの監督不行届だと、何度も叱られた。

 それを聞き流したのは、セシルの自己満足だった。結局妖精を甘やかし、人間との垣根を守らせなかった。エリックにどうすることもできずキーラにはわからない、越えてはいけない境界が、セシルにはわかっていたのに、だ。


「それなら、遠ざけるしかないんじゃないの」


 少し前にもきいた言葉のような気がしていた。


「それか開き直って、人間から離れるか、どちらかひとつしか、ないんじゃないの」


 東から太陽が強く顔をのぞかせ始めた。

 夜中に馬を乗り回し、輪になって歌うピクシーたちは、朝になると遊び疲れたところを発見されるというおとぎ話をふと思い出した。

 乗馬もするし、遊びもするが、疲れたところで人間の目につくところでは、彼らは眠らないのに。

 セシルはカーテンを閉めようと窓に寄った。見下ろした階下の庭に、幾人かのピクシー達が見えた。馬小屋近くにキーラもいる。


「じゃ、泣き飽きたところで、そろそろ荷物まとめろよ。ローズももういないし、用も済んだし、伯爵に相談したいこともあるんだから」


 アレックスはそう言って部屋を出ていこうとした。窓際に立ったまま、その姿をセシルはぼんやりと見つめたが、その手に揺れるカップを見るや否や、あれ、と思って呼び止めた。


「僕のお茶は?」

「いや女連れ込んでるとは思わなかったから」


 慰めに来たくせに、自分の分を譲ってくれない、この位のふてぶてしさが必要かもしれない。

 そう思いながら投げたクッションが一瞬早く閉められた扉に当たってむなしく落ちた。


 ***


 朝食を運んできたのはディフレッドだった。


「申し訳ありません、まさか健康管理もできない愚か者だったとは」


 何も知らない彼には、エリックは少し体調を崩していると伝えている。

 

「……こっちこそ、エリックが疲れてるのに急に帰ることになって申し訳ないよ」


 手伝おうとするディフレッドを制して着替えをつづけた。普段は配膳も着替えの手伝いも、エリックの仕事だった。

 さすがに、昨夜の今朝でそれは任せる気になれなかった。

 セシルのかすかな嘘に、見慣れない妖精たちがざわめいた。キーラはまだ部屋に戻ってきていない。


「なんの、移る病でないということですから、心配はしていません。この父に似て、健康だけが取り柄の倅ですので」


 説得力がありませんかね、と笑った屋敷の主人に、セシルの胸は罪悪感ではちきれそうだった。

 

「しかし、エリックをお屋敷にあげることを望まれたときには、倅がうまくやれるか不安でした。下働きとはいえまだ子供で、粗相も多かったでしょうから。私はたまたま旦那様付きになりましたが、……だからと言って、母親のそばで、妖精のこともおとぎ話としか教えずに育ったエリックまでゆくゆくはご長男にお仕えさせるなんて、いくらなんでも荷が勝ちすぎでは、と」


 そこまで聞いて、セシルの精神に限界が来た。遠くのものを見るように目を細めたディフレッドを「ありがとう、あとは自分でやる」と、どうにか部屋から追い出した。

 ディフレッドは、気が付いているのかもしれない。

 細めた目が悲しげに見えた。

 それが、自分の気のせいだと思いたかった。

 誰かの諦めのように静かになった扉を見つめて、温かな湯気を立てる朝食に目を向ける。


「……クッキーがない」


 そういえば、ディフレッドに頼んでいなかったと思い至る。

 出発までに、少し多めに作ってもらわないと、ということまで考えてから、また自分の都合のいいところが出てきていることを自覚した。


 人間と妖精、両方ともは、選べない。

 中途半端にしたせいで、エリックの考えはセシルからずっと遠いところにいたし、キーラだってセシルにはまったく手綱が取れていないまま、ここまで来てしまった。


(……でも、クッキー、突然あげなくなると、もっとひどい悪さをするようになるんだよな)


 あげても充分ひどかったみたいだけど。


 むなしい気持ちで椅子をひいた。

 叱られるとでも思っているのか、こんな孤独感にさいなまれているときに限って、あの小妖精はどこに行ってしまったのだろうともの悲しく感じた。この薄情さこそが、どちらを選ぶべきなのかを示しているのかもしれないと思いながらパンをちぎる。

 少なくとも、エリックはセシルに『どこにいるんだかわからない』なんて思わせたことはなかった。

 

 小さなノックの音に、セシルはきっとディフレッドだろうと思った。正直顔を見せたくなかったが、どうすることもできない。

 匙を置き、目頭をぎゅっと抑えて目尻を触って確認してから短い言葉で許可した。


「……申し訳ございません、少々、よろしいでしょうか」


 予想外なことに、入ってきたのはラスターであった。その青ざめた顔に、セシルも根拠のない嫌な予感に胸がざわついた。


「……この部屋に、エリックは、来ていますでしょうか」


 どうか、アレックス様には黙っててくださいといわんばかりの泣きそうな顔で告げられた相談内容に、セシルも勢いよく立ち上がった。



 前言撤回、中途半端にしたせいで、もう妖精(キーラ)の居場所も人間(エリック)の心も居場所もわからなくなった。



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