緑の目の怪物
月も雲に隠れる夜が来た。
ごく小さな火を焚いたランタンを片手に、男は周囲に村人がいないのを何度も確認してから教会の重い扉の中に身を滑り込ませた。
(ひとつはここ)
がらんどうの屋内を、男は足音を立てないよう慎重に進んだ。同時に、それは何の意味があるのだろうと自嘲した。
今さら、何がばれたら嫌なのだろう、と。
(……ひとつ?)
手に持ったオレンジ色の光を掲げる。建物奥に鎮座する祭壇の前まで来ていた。
祭壇に立てられた石像の足元を注意深く観察する。
すると、黒ずんだ木の床に溶け込むような矢印がそこに付けられていた。男は見つけたそれを何の感慨もなく見つめる。宝探しでもしているかのような状況だが、高揚感には程遠い。
矢印は、祭壇の後ろに設えられた下り階段の先に続いていた。
男が周囲を警戒しながら下りていくと、地下聖堂という名の古い墓地につながっていた。さして広くもないそこで、程なくして目的の物を見つけた。棺のそばに置かれた革袋の中に“ひとつ”と共に入れられていた紙片に目を見開き、そして男は静かに苦笑した。
指示の内容に従おうとする気持ちが消えていった。もとより意欲など微塵もなかった。嘘をついて、必死になって、それで最後に何が残るのか。
「もう、いいか」
ただ、せめて家族だけはと、男は祈る。存外冷たい神のために目を閉じて。
――神様、どうか悪魔から大切な人たちを守ってください。
ありとあらゆる悪魔から。
『見つけた』
男の――エリックの背に冷たいものが走る。
風が入るはずもないのに空気の動きが肌に触れ、衣擦れの音が耳に届く。
『逃がさないよ』
聞こえるはずのないささやきに、恐怖が男の身の内を満たしていく。
逃げよう、ここにも入り込んできている、そう思って先程下りてきた階段を駆け上がった。もう足音は気にしていられなかった。
しかし、地上に戻ってきたところでエリックは足を止めた。動かせなくなったのだ。
雲間から差し込んだ月の光を拾って不気味に輝く緑色が、じっとこちらを見つめてきていた。
「エリック……」
――神様、どうか。
私のことは、私個人のことは心配ないので。どうか。
緑の目が見開かれる。何かと思ったエリックの視界の端で、冷たい金属の反射を捉えた。
銃だ。本当に、兄と違って好戦的なガキだ、そう思ったのに、反撃しようとする腕に、ぐんっと重みがのし掛かった。まるで何かがぶら下がっているかのように。
「っ、キーラ! 駄目だよこっち来な!」
闇の中で銃に気づいていないのか、的外れな叱責がとび、それが表情を変えないよう努めていた男を一層ぞっとさせた。
またそうやって、見えないものばかり見て、と。
***
アレックスがベンチに座らせたエリックの懐から、バラの印が刻まれた黒い鍵と、ログスターが言った通りの内容の紙片が出てくると、もうセシルはなんの庇い立てもできなかった。隣に立つスカーレットの手が気がかりだというように肩に置かれるのも、虚しいだけだった。
ただ、何故という疑問が胸中で渦を巻いていた。
「エリック、どういうことだか説明していただけないかな」
底冷えするような声を発したのは銃をしまったアレックスだった。
手近な燭台のいくつかに火を灯せば、月が再び雲に遮られても教会の中で尋問するのに問題はなかった。座って空を見つめるきりで何も言わないエリックを見下ろすようにアレックスとセシル、スカーレットが立ちはだかり、セシルの腕の中には勝手に地下聖堂へと走り出したキーラが抱えられていた。
幼子ごと己を抱きしめるように力を入れるセシルの腕が苦しいのか、妖精は「一番最初にエリック見つけたの、キーラなのに、なんでキーラのことまで捕まえるの!」と機嫌が悪かった。
「……ちょっと静かにしてて、いたっ」
セシルは小さな拳を受け止めながらそう言ったが、ふと、なにも言わないエリックが上目遣いで自分を見ていることに気がついた。こんなときでも妖精の動向を気にする様が『いつも通り』で、キーラの両手をどうにか片手でまとめたセシルは悲しくなった。
「エリック、聞きたいことはたくさんあるけど、この黒い鍵の回収が、誰からの指示なのかはわかってたのよね?」
薬を煎じながら事情を聴いたスカーレットの問いかけに、視線をかすかに泳がせたあと、エリックは声を出さずに一度頷いた。
いつも背筋を伸ばし、丁寧に受け答えする男が項垂れて無礼な態度で応じる様は、どうか嘘であってほしいと願ったセシルの悲嘆と混乱を拒絶するかのようだった。
出会った日から数えても、セシルは今、エリックとの間に最も遠い距離を感じていた。
「はいといいえだけ言ってりゃすむと思ってんのか。全部話せって言ってんだよ、ここにきてからの動きも、なんでこんなことしたのかも」
「……こんなこと、とは」
「ご主人様に隠してたこと全部だよ」
ほかの二人よりずっと厳しく糾弾するアレックスの言葉にも、エリックは視線をあげなかった。瞬き二回ほどの間の後に、灰色の目を細めたアレックスがエリックの胸倉に手を伸ばす。
しかし、その手は相手の襟元を掴む前にぽつりと落とされた寂しげな声で押しとどめられた。
「黙ってるのは、誰か庇ってるから? 例えば、ディフレッドとか」
弾かれたように青い目がセシルを見返す。驚きに満ちた目と共に、はくはく、と口も動いた。
「ち、違います。父は関係ありません」
「でもこの鍵は、ディフレッドの許可がないと手に入らないんだよ」
セシルの目が、己の手の中の黒い鍵に向けられる。スカーレットが眉を潜めた。彼女は、ことの次第は聞いていても、ダンリールに至るまでの秘密までは聞いていなかった。
「……私が、父から書斎の鍵を盗んだのです。セシル様とアレックス様が到着された日に。セシル様の到着が遅くなったことで、父も心配し動転していましたので、そのすきを縫って」
語られ始めた真実に、セシルはゆっくりつばを飲み込んだ。となりに立つアレックスは罪人ではなく兄の様子を黙って伺っている。それが苛立ちなのか気遣いなのかまではセシルには推し量れなかったが、追及の手を交代しようとは思わなかった。
ショックだった。親より近く、ずっと信頼してきた相手だ。
であればこそ、主人である自分がしっかり真相を追及しないといけないことだと、さすがに楽天的なセシルにも分かっていた。
「どうやって黒い鍵の存在を知ったの。それが書斎に隠されてるとわかったの」
「……わ、わかりません」
「……ディフレッドにきいたほうが、いい? エリックに何を教えたのか、て」
「セシル様、本当に、この件に父は関わっていません! 私と、……」
エリックは青い目を僅かに左右に揺らして迷うそぶりを見せたが、やがて俯いて小さく呟いた。
「……この地で、この件に関わったのは、私と、あのご婦人だけです」
雲が動いたのか、月が動いたのか大きな窓から切れ切れに淡い光が差し込んできた。
セシルは、腕の中のキーラがむくれながらも大人しくなったのを感じた。
その言葉に異議なし。妖精もまたそう言ったかのようであった。
「ロ……フレイン公爵夫人とは、もとからの知り合いだったのか」
アレックスが冴え冴えとした声できくと、エリックはゆるくかぶりを振った。
「この地に来るにあたって、あの婦人に力を貸すようにと、あらかじめ指示を受けていました」
「……指示?」
エリックはセシルのつぶやきを今度は無視して、話をつづけた。
大方アレックスの予想通りだった。エリックはセシルが修道院に立ち寄っていた間にローズと落ち合い、その場でダンリールの鍵を持ってくることと、セシルから妖精の協力を取り除く方法を考えることを要求されたと言った。屋敷の裏手にローズを待たせて、セシルの到着の遅延と、不躾なアレックスの態度に動揺していたディフレッドの隙を見て、書斎の鍵を盗んだという。
書斎に入る必要があるということも含めて、ダンリールの鍵の入手方法をどう知ったのかとアレックスが問いただすと、エリックはわずかに顔を上げて、戸惑い気味に答えた。
「それは、あのご婦人が知っていらっしゃいました。私は、『言った通りに動け』と念を押されて、その通りに動いただけです。気がついたら、鍵が」
ここにきてはじめてアレックスの目に戸惑いが浮いた。セシルも予想外の言葉に目を瞬かせた。
(エリックと会った時点で、ローズは鍵の秘密を知っていた?)
二人の様子はエリックには伝わらず、再び俯くと、ぽつぽつと話は進んだ。
「……それからもうひとつ、『セシル様から妖精の協力を取り除く方法』ですが……私にはそれがわかりませんでした。セシル様は妖精に対し、クッキーをあげる以外何をしていたのか、いつもそばにいても、チョコでは駄目ということ以外、まるでわからなかったのです」
アレックスとスカーレットの目が、セシルの方に向けられる。セシルはわざと二人の方を見なかった。
『それ以外、何もしてないもんな?』と、呆れ気味の目がそう言ってるのが分かっていたからだ。
「ですが、セシル様が路銀と別に金を持って行ったことから、金が役に立つのだと考えました。と同時に、絶対に肌身離さない妖精からの金貨が、クッキーからできていることを教えられたので、そのことをずっと考えながら地下室から出てきたのです。
金が必要ならそのコイン同様に小麦粉から用意すれば安上がりなのに、そうしないということは、セシル様と妖精の間に交わされる魔法の間では、妖精から貰った金貨はイレギュラーな存在なのでは、と」
だから、役に立つかわからないが、その旨を書いた紙片を用意して鍵と共に渡したという。口頭で教えることはできないからだ。
ローズはセシルたちより早くダンリールに入っていた以上、エリックから鍵を渡されてすぐに森へ向かったのだろうことは容易に想像できた。セシルを閉じ込めるための小細工をする時間が必要だったはずだからだ。
「夜になると、父が書斎に入る前に晩酌に誘い、睡眠薬入りの酒を飲ませてから、書斎の鍵を戻し、明日『いつもどおりのクッキー』を用意できないように、小麦粉を盗みました。セシル様がいつも連れている妖精に叱るようにクッキーをあげていたのが聞こえていましたから」
小妖精は、己を抱える腕の主の顔を見上げた。ほら、自分の言った通りだろうと言わんばかりに。
見られた側は、褒めてやる気にはならなかった。
かわりにセシルは、声が震えそうになるのをこらえながらさらに問いただした。
「ワゴンを壊して僕を食堂に呼び出したのも、水をかけて上着を着替えさせたのも、持ってきた金を盗むため?」
「はい。本当はセシル様が寝ている間に、と思ったのですが、今朝は随分早くからお目覚めだったので、仕方なく。……肩にかけるつもりで、まさかあんな、頭からかけるつもりはなかったのです。本当です」
得意げだったキーラがセシルから目を逸らした。
「苗は、どこから?」
スカーレットがさらに問いかける。
「最初に落ち合ったときに、手紙と共に公爵夫人から預かりました。明朝、ログスターの元に届くように手配しろと。絶対に抜いたり鉢を落としたりしてはいけないらしい、と、そう言われました」
「……」
らしい。
(ローズが用意した、というのは事実だろうけど、ローズ自身、扱い方はあやふやだったみたいだ)
わずかな引っかかりを感じたが、それはうまく形にならずにセシルの中で立ち消えになった。ほとんどこの国では見られないマンドレイクのことを、どこかでローズが知って入手したとしても、その効能や死の危険について半信半疑だったというのは充分あり得るような気もしていた。
(ピンポイントで妖精が取りついた個体を見つけたあたりが恐ろしい……ん?)
セシルが再び感じた違和感は、アレックスの固い声で霧散した。
「城で人死にがでるとは聞いてたのか」
エリックは黙り込んだ。
突如、ガンッ、と荒々しい音が教会内に響いて、スカーレットは小さく「ちょっと」と叱るような声を出したが、セシルは肩を震わせたのみで、隣の男の足癖をとがめなかった。
「聞いてはいませんでした」
「……予想はしてたけど、ってか?」
ベンチを蹴った方のつま先を上げて揺らしながら問う男の意地の悪さは、正当な怒りだった。
「……セシル様はどうなるのだと問いましたら、計画通りなら痛い目に遭うのは一人だけだと、あの女性は答えました。あなたは、針の筵になる主人の慰め方でも考えていろと」
短い沈黙が落ちた。
「……それで、良いと思ったの?」
さっきまでのむりやり感情を押し殺していたのが嘘のように、声は震える兆しがなかった。
スカーレットも聞いたことがない、乾いた声に、三対の人間の目が一斉に発言者に向いた。金色の大きな目も見上げていた。嵐の前の静けさだとわかるのに、そう長い時間はかからなかった。
「僕の命だけ助かるなら、もう一人は別にいいと思ったの? ……それで僕が、僕だけは助かってよかったって、言うと思った!?」
「いいえ」
徐々に激昂していくセシルの激しい非難に驚くこともなく、エリックは淡々と返した。その冷静さが一層セシルの怒りと悲しみに油を注いだ。さっきまでとは別の震えが伝わりはじめたセシルの腕から、眉間に皺を寄せたキーラが抜け出そうともがく。
「じゃあなんだったんだよ、僕が、僕が怒るって分かっててあの女に協力したの!? アレックスがどうにかなっちゃえば、父さんの子どもが僕だけになればいいと思った!? それで自分の将来は安泰だと思った!? 冗談じゃないよ!」
「……将来、安泰?」
エリックは、荒ぶるセシルをなだめるわけでも、許しを請うわけでもなかった。
静かに、平坦に返された、その言葉に含むところが読み取れなくて、セシルは怒りに滲んだままの瞳で強く睨みつけた。
しかし、見返す目のぞっとするような冷たさに、セシルは怒りが冷や水を浴びせられたようにすっと小さくなったのを感じた。
「――仰る通り。ほんと、冗談じゃありませんよ、ええ」
空洞のような青い目はセシルの方を見つめていたが、セシルを見ていたわけでは無かった。
アレックスとスカーレットがその視線をたどる。
セシルの視線も下がる。
自分の腕の中に。
「冗談じゃない、こちらの――、こっちのセリフだよ、んとに」
「………………エリック?」
聞いたことのない言葉遣いに呆然としたセシルに、何かに気がついたようにアレックスが声をかけようとしたが、それよりはやくエリックの言葉が放たれた。
静かな空間で、零れた金貨が小さくたてた音のようだった。
「セシル様、きつく結んだ私の靴ひもがね、いつの間にかほどけてるんですよ、ほんの一瞬、目を離したすきにね」
それは妖精がいたずらしてただけで、そう言おうとしたが、エリックの言葉はまだ終わっておらず、セシルの喉はつかえた。
ぽと、ぽと、と落とされはじめた言葉は、徐々に革袋の穴が広がっていくように、次第に量と速さを増し、ぼとぼとと止めどなくこぼれ落ちていった。
「しめたはずの窓が開いてるんです。カーテンまで、ご丁寧に。何かが寝ている私の体の上に載っている気がするのに、目を開けても何もいないんです。風の音に、火のはぜる音に小さな子供の笑い声が混ざっているような気がするんです。締め切った部屋で、風だけふわっと通り過ぎていくんです。ろうそくの火が勝手に消えるんです、椅子が水にぬれているんです、祈りの十字架が暖炉の中で燃えているんです、私しかいない筈の部屋の中で」
それは、妖精が。声にはならず、口だけが動く。
「…………セシル様が何かに向かって笑いかけてるけど、どんなに目を凝らしても、そこに何もいないんです」
それは。言葉は頭のなかでだけ、揺蕩っていた。
「セシル様。以前私に仰いましたね、教会は妖精を悪魔とひとくくりにすると」
とうとう喉も頭も真っ白になった。
「エリック、もういい、黙れ」
アレックスの低くにじみ出るような呟きに、感情の色は見えなかった。セシルに己の失敗を、言ってはいけないことを言ったと自覚させる声である。
しかし、隠し続けることを観念した男に対しては、その口を閉じさせるには至らなかった。
「なぜ、そこにいるものが悪魔ではないと、言い切れるんですか」
何も見えないセシルの腕のなかを見つめて、笑った顔で吐き捨てられた言葉に、いつものように笑って返すことは出来なかった。
エリックはまた俯いた。
アレックスも同様で表情は隠されていた。スカーレットは悲しげな瞳で、茶色のつむじを黙って見下ろしている。
セシルは、大きな目が乾く感覚も忘れたように、呆けていた。
「セシル様、何も気が付きませんでしたね。仕方ありませんよね、あなたはいつも『そこにいる何か』にかかりきりで、人間のことは二の次でしたからね。……私に、気にしないで、と言って、それっきり」
セシルは、自分たちが、妖精の見えない人間に囲まれて暮らす辛さは、ギルベット修道院で垣間見ていた。
妖精との交流を隠す理由も身をもって知った。あれは魔法の名残の秘匿のためではない。そんなものは建前だった。
差し迫った真実は、人間の中で人間として生きるのに、『異常』だと見なされてしまうことを恐れるがゆえだった。
無理解は恐怖だった。悪意よりも残酷だった。数と立場で劣る環境では、自分こそが異常だと認めるしかないのだから。
セシルは、そう知っている。
「将来安泰? 冗談じゃない。このさき一生、朝から晩まで『何かの気配』を気にしながら、誰にも相談できずに過ごすしかないなんて」
俯いた顔から発された声は、嗤おうとしたのが失敗したように揺れていた。
隔絶された伯爵邸で、抑圧された恐怖をかかえ、無邪気で無理解な主人に尽くしてきた男に、『異常』に取り囲まれて過ごしてきた男に、もう取り繕う体力は残っていないとでも言いたげだった。
月が雲に隠された。
神の目も届かない暗闇で、燭台と、その光を拾った瞳の輝きだけが、不気味に揺らめいている。
「……私にも見える唯一の怪物はね、緑の目をしているんです」
人の心は分からなくても何かの機嫌は上手にとれる、人に似た怪物。
腕の震えはとまっていた。
キーラも、もうぴくりとも動かなかった。




