油断ならない
人より恵まれた身の上で、謙虚な気持ちが足りていない。
その上ろくに話したこともない人妻に横恋慕なんかして、身の程知らずも甚だしい。
そんな風に思って、神様が試練を与えてきたのかもしれない。
***
「……お前、恩知らずって言葉わかる?」
外を歩けば女に二度見されるアレックスにすっかり熱を上げているのは邸内の侍女や女中だけではなかった。
使用人である彼女らは女主人アンナのいる手前、おおっぴらにはしゃいだ様子は見せなかったが、屋敷全体のそわそわした空気はセシルにだっていやでもわかった。
そして何にもはばからずアレックスに浮き足立っているのが、これまでセシルが妹のようにかわいがってきた妖精キーラだった。今もアレックスを探して屋敷中を動き回り、セシルに大捜索されていたところだった。
舞踏練習室の入り口で発見されると、これ以上勝手に動き回らせてたまるかとセシルに抱え込まれた状態で、ダンスの練習をしていたアレックスをうっとり見つめていた妖精は、「ひどい!」と金の髪を振り乱して振り返った。
「なんて言いぐさなの! キーラはセシルのお姉ちゃんみたいなもんなのに! セシルにはたぐいまれなる妖精の加護がついてるのに!」
「なーにがお姉ちゃんだよ、妖精の加護だよ。お前にいつもかかさずにクッキー食べさせたけど、その結果どう? べつに好きな人と近づく気配はないし、背はあんまり伸びなかったし、……ここに来て、将来も危うくなってきたし」
抑えた声で反論しながら、まさか、とセシルはキーラの顔をのぞき込む。
「黒髪のっぽの色男に、僕宛の加護を全部移しちゃったの?」
「してないもん! アレックスはキーラのお婿さんにするけど、キーラが面倒見てあげるのはセシルだけだよ!」
……面倒見られた覚えもないけど、奴をお婿さんにするのもだめだよ。
全身よじって暴れる妖精を抱えなおしてそう釘を刺したが、いっそあの男を妖精の世界にあげてしまったら事は全部まるく収まってしまうのだ、ということは少し頭をよぎった。妖精への嫁入り、婿入りは異界入りを意味する。実質行方不明、人間社会的には死と同義だ。
(でも妖精を使って身内を陥れるなんて、ロッドフォードの人間のすることじゃない)
セシルは幼いころからそう教えられてきた。人と違う力があるなら、その分人より気をつけろ、と。
意識を目の前に戻す。大層悔しいことに、アレックスは運動神経も良いようだとセシルは口を尖らせた。セシルが師事していた頃より老け込んだ女性のダンス講師が、満足げに笑って彼に何事か言っている。
(貴族系図覚えるのも、宮廷礼儀も、ダンスも、僕結構時間かけて勉強したんだけどな)
先程のようにセシルが卑怯な考えに取りつかれるのは、執務室での一件での心証の悪さはもちろんだが、加えて彼の劣等感が大いに刺激されているからに他ならない。
衝撃の三者面談から数日経つが、伯爵が新入りの次男に課したミッションは順調にこなされて、邸内では家庭教師たちのアレックスを称賛する声がそこかしこで聞こえていた。顔の良さから甘やかされているのではとセシルは勘繰ったが、そんな不埒な講師にアルバートが給与を払うわけはない。
アレックスが今までどこでどんな暮らしをしていたのかセシルは知らないが、訛りがなく、読み書きに不自由しないということは、どこかで教育を受けたことがあるのだろうと見当をつけていた。年の割に背が高く、ダンスを苦にしない筋肉もついているから、王都やその周辺の修道院で育ったのかもしれないとも考えた。そこは自給自足の生活で力仕事も必要とし、読み書きも学べるだろう。
(……神の御許であんな性根の悪いクソガキが育ったってのも皮肉だけど)
「教会は魔法使いのことを神に背いた存在とか言ってるから、魔法使いの子孫を育てるにはむいていないのかもね?」
セシルはキーラのつむじに顎を乗せながら誰にともなくつぶやいた。
キーラは律儀に「知らない! 教会のやつらの理屈って、よくわかんないから!」と返事した後、休憩に入ったアレックスに向かって両手でちゅっちゅと投げキッスをしていた。
セシルの状況も、心持ちも、この妖精の恋の前では些末な出来事なのだ。
「……お疲れさま。上手だね、キーラも大興奮だよ」
暴れるキーラを床におろせば、一目散にアレックスに飛びつきに行く。そのまま昏倒させてしまえとセシルは一瞬思ったのだが、アレックスは妖精の襲来を膝に受けてもびくりともしなかった。それどころかキーラが見えているし声も聞こえているはずなのに、アレックスが視線さえ寄越さないから、アレックスへの劣等感よりキーラを哀れに思うきもちが勝って、セシルは自分から声をかけてしまっていた。
「……見てたのか。どうも」
シャツの袖をまくりながら返してきたアレックスは、もう愛想笑いもしてこない。
(~~~っキーラ、そのまま噛みついていいぞ)
キーラにセシルの心の中は読めないし、そもそもキーラはキーラの欲望のままに動くので、アレックスは足元でウロチョロする妖精に噛みつかれも蹴り飛ばされもしない。
キーラが一生懸命に「キーラもアレックスと踊りたい」「抱っこして」と小さな手を伸ばしている。
そこでセシルは、アレックスが意図的にキーラを無視していることが気になった。
「キーラ、アレックスに迷惑みたいだからこっち来な」
セシルは妹分を取られた嫉妬心だと思われたら嫌だなと思いつつも、アレックスを気遣うような言葉でキーラを引き戻そうと試みた。
当然すぐ動くわけがなかった。さっきの言葉を気にしてか、キーラなりの義理を見せたのか、一応というようにちらり、とセシルの方を見上げたが、甘えるようにアレックスの長い脚のひざ周りにすり寄ったままである。
アレックスの視線がダンス講師の方に動いたのを、セシルは見逃さなかった。
「人の目なら、そんなに神経質にならなくても平気だよ。この家に出入りする使用人や講師の先生方はみんな先代とか先々代とか古くからうちと交流があって、口が堅いから。僕や父さんが妖精と話し込んでたって気にしやしないし、外では絶対言いふらさないし」
アレックスの顔が少し強張ったように見えた。
(そっか、外の人間には風変りに見えるもんな)
気を使ったのか、ダンス講師が早めに切り上げると言って部屋を出ていったのを見て、アレックスがようやくキーラに目を向けた。
「アレックス! 一緒におやつ食べよ!」
今までわざと無視されていたとわかっている筈のキーラのこの執念深さともいえる健気さに、セシルの胸には悔しさよりも同情の念が沸いていた。
「おやつの準備しようね。アレックスもよければ来てよ、キーラのために」
自身のプライドよりも妹分を喜ばせたい一心で天敵を招くセシルの兄心が伝わったのか、右足を完全にホールドされている状態で逃げるのを諦めたのか、アレックスは「着替えてから行く」と言った。言質を取った妖精が満足げに足を解放した。
***
「最初に階段で見かけたときは、この機会に隠し子全員呼びよせたのかとほんとに思ったんだよ」
何を話したらいいのかわからないセシルは、人前でキーラを無視していた割に、初対面の時はアンナの前でもかがんで目を合わせていたことを指摘した。結果、とんでもない発言をまた引き出してしまった。
「はぁぁ?」
(この男、まじめに僕と話す気ないな?)
セシルの自室で、外からのノックが響く。二人分の紅茶とキーラのためのミルク、クッキーを含めたいくつかの菓子がワゴンに載せられ、エリックによって運ばれてきた。
「……お茶の淹れ方は、女の子の教養だって言われてるけど、一応学んだ?」
「それはもともと知ってる。昔知り合いが教えてくれた」
「へぇ? 友達?」
無視。
(かわいくない~~~~~見るからにかわいくないけどほんとにむかつく~~~~~~)
セシルの質問に答える様子のないアレックスは、お湯の入ったポットを持ってテーブル脇に控えていたエリックに向かっていった。
「……出ていってくれないか」
セシルに仕えるエリックが、自分の主の意向を伺う。嫌がらせにとどまってもらおうかとも思ったが、キーラがシュガーポットに入っていた角砂糖をエリックに向かって振りかぶったのを見て、退出させざるを得なかった。
一礼してエリックが出ていくと、テーブルに掛けたアレックスは自身の左手側にあった紅茶の取っ手を反時計回りで半回転させ、右手でカップをもって口をつけた。
「見た目が人間に似てる奴は今までにも沢山いたけど、他の妖精と違ってあんたが構うから人間かと。でも伯爵夫人は無視してると思ったから、夫人の子どもじゃないのかなと」
だから、あのときはキーラのことを人間の、妾腹の「妹」だと思った、という流れの話だった。
「母さんはロッドフォードの外から嫁いできたから、妖精が見えないんだよ。ああみえて豪胆なひとだから、突然キーラに服の裾を引っ張られても全然びびんないけど」
(……妖精の話をするときは徹底的に「妖精の見えない人間」は排除したいのか)
態度の割に繊細だな。セシルには少し意外に思えた。
「その代わり、僕の監督不行き届きだってことになって僕がすっごい怒られる」
慣れた部屋で紅茶を飲んでリラックスしてきたセシルは、とりあえずそんな軽口でアレックスの笑いを誘ってみた。一応家族なのだ、数日前いろいろ言われた上、問題は何も解決していないとしても。
(それに、兄弟として打ち解けたら父さんに書かせた書類のこと、取り下げてくれるかもしれないし)
伯爵の署名が入った例の紙はアレックスが持っている。あのあとアルバートにその紙を捨てられないかとこっそりきいたらセシルの方を見もしないでそう言われた。セシルは意外と自分の手際の悪さは父譲りだったのかもしれないと思った。
アレックスが微かに笑った。否、口の端を上げただけだ。
「あんたは本当に自分の不手際話には事欠かなさそうで羨ましい。社交の場でのおしゃべりのお手本にさせてもらう」
これは笑顔ではない。階段で見た『悪意のある顔』だ。セシルはアレックスを部屋に呼んだことを本当に後悔した。
(エリックじゃなくお前を退出させればよかった……なんで僕はわざわざ不愉快な時間過ごしてんだろう?)
セシルがついさっきの自分を恨んでいると、キーラがセシルの袖を引いた。
「クッキー!」
いつもの物をはやく、と催促してきたのだ。
「あ、ごめん」
セシルがキーラの前に置かれていた小皿に何枚かクッキーを取ってやる。チョコレートの混ざっているものはもともと用意させていない。
天真爛漫で図々しいキーラだが、妖精は人間のものを盗む場合は人間の目から隠れようとする。セシルのような人間に直接譲ってもらったものだけ、堂々とその場で食べるのだ。キーラが普段からクッキークッキーと口に出してわめくのは、セシルと一緒に食事を楽しむためにはセシル自身から菓子をもらう必要があるからだった。孤食(もしかしたらセシルの知らない彼女の仲間がカーテン裏にでもいるかもしれないが)をおそれないなら、セシルの注意がそれているときにクッキー皿ごと持ってどこかに消えてしまうだろう。
(こういう性質を知っているから本気で叱れない……)
セシルと一緒に茶がしたいと主張されるのは嬉しくないわけがない。
ミルクカップと共にクッキーの乗った小皿をキーラに手渡す。「どうぞ」といってやれば、金色の目を輝かせて受け取ってくれる。
ふと、セシルはアレックスが自分たちの様子を何も言わずにじっと見ていることに気づいた。
(もしかして、妖精を餌付けてみたいとか考えてる!?)
ただでさえ外見だけでキーラからこの上なく好かれているのに、自分から完全にキーラという妖精を奪うつもりか、と身構えた。
セシルがアレックスになんで見てると問おうとしたその時、セシルのそばからすっとアレックスへ向けてクッキーが一枚差し出された。
「アレックス、好きだよ、どうぞ」
セシルが目を剥いた。
アレックスはそれを無言で見たが、すぐに「どーも」と言って微かに笑いながらキーラからクッキーを受け取った。
「食べるなっ!!!!!」
部屋の中に怒号と言って差し支えない大声が響いた。
目の前の小柄な男から突然出た予想外の大声に、アレックスが顔を強張らせた。口元に持っていかれていたクッキーが止まると、セシルはテーブルの向かいから身を乗り出してそれをひったくった。
「あーーーーっ!」
今度は少女妖精の悲鳴が上がる。
さっきまでふてぶてしい態度を崩さずにいたアレックスは訳が分からないという顔で固まって、セシルの顔を見上げていた。
「妖精から、求愛目的で貰った食べ物は、絶対、ぜっっったい食べるなっ!!!」
灰色の目が見たことのない大きさまで見開かれているのを見て、セシルも自分がここ数年まれにみる動揺を見せたことを自覚した。セシルはついさっきキーラにあげたクッキーを握ったまま、深呼吸してから補足した。
「……それは、妖精の求婚を受け入れることで、つまりは妖精の世界に連れていかれるのを了承することと同義だから。昔の魔法使いならともかく、多分元の世界に帰ってこられないって言われてる」
父さんからの教えの一つだよ。
そこまで言うと、アレックスは小さな声で「わ、わかった……」とうなずいた。彼の声がどもっていたのが、セシルを冷静にさせたが、大声を出した気恥ずかしさで優越感とは程遠かった。
その後はセシルの指示通り、アレックスは丁重に妖精の求愛者へクッキーを返した。もちろん妖精は目の前で求婚が邪魔されて失敗したので大泣きに泣いた。
キーラがぎゃんぎゃん泣きながらも失恋のクッキー返却を受け入れているのを見て、セシルは先程ダンス練習を見ていた時の自分の考えを、たった今自分で潰してしまったことに気が付いた。
(いや、でも、ロッドフォードの人間として、これは正しい選択だよな!)
キーラにシュガーポットの角砂糖を投げつけられながら、セシルは自分に言い聞かせた。