協力者
金の髪が美しい、小さな妖精がわんぱくだったのは、今に始まったことではない。
部屋に残る遊んだ痕跡に、家庭教師に代わって母が眉尻を吊り上げて凄むことも、父が難しい顔で諭してくることも、一回二回ではなかったのだが、彼は絶対にその妖精を追い出そうとは思わなかった。
「だって、お兄ちゃんなんだよ」
妹の至らないところは、兄が監督してあげないと。
***
「……いったいどういうことだよ」
「そっちこそ、何があった」
様子を見に来た医者が帰ると、二人は声を潜めて互いに問いかけた。枕もとでキーラが何事かしているのはこの際ささいなこととして流された。
時計をみれば、セシルが意識を失っていた時間はそう長くはなかったといえたが、この地では日没までもうまもなくであった。寝台に腰掛けたままで、セシルはそばに椅子を引き寄せたアレックスに問いかける。
「僕は森の中でローズ様に殴られて気を失ったんだよ。そのあとなんでここにいるんだ? 拾ってくれたの?」
「殴られたって……」
ケルピーは森の妖精である。セシルへの強制された忠誠心があっても、森の魔法で出口にはたどり着けない筈だった。
その森から脱出できたということは、案内人に連れられた別の人間がセシルを運んで手綱を引いたとしか考えられない。
「……あんたほんとになんであんな女好きなんだ?」
「うるさい。好き『だった』、だよ」
目の下に皺を作ったアレックスの発言を訂正し、「で、どうなの」と問いただす。
「どうも何もね。あんたを乗せた黒い馬がイチイのふもとにいたからそのまま連れてきただけだから」
その言葉に、セシルの目は戸惑って泳いだ。
「……じゃ、ローズは僕を馬に乗せて、出口まで引っ張ったってこと?」
「そうするとお前が恩を感じて反撃してこなくなることを見越して、ね」
「うるっさい!」
「……死んでんのかと思った」
むきになったセシルの大声にかき消されそうなほどの小声で、アレックスが呟いた。
揶揄いの感じられないその固い声音に、馬鹿にされた怒りもしぼんでいく。
(……心配してくれたのか)
「期待しただけに、元気そうで、残念だ」
同じトーンでつづけられた言葉に、セシルはまた「うるさーい!!」とわめいた。
「そっちこそ、何があったの。なんでこの部屋に竜がいるわけ?」
取り乱した自分を落ち着かせ、セシルは再び声を潜めた。
横目で見つめる先には、医者の来訪と同時に卓に置いていかれたスープを興味深そうに見つめる小麦色の髪の妖精がいた。
「いや……」
「だってお兄さん。このアレックスって男はまだ俺との取引における約束を履行していないんだよ? ……逃がすわけが無いだろうが」
きこえていたらしく、無邪気な少年の顔にちらりと凶悪な本性が垣間見える。忌々しそうに黒い髪の男を睨むが、睨まれた方も負けじと眼光で応戦した。
「……どうやら自力であの門から出ることはできなくても、誰かが鍵を開けさえすれば問題なく出てこられたみたいでな。セシル、とにかくこいつのことはしばらく俺に任せてくれ。不安な気持ちはわかるが、取引したのは俺だから」
「は!? 僕以上の素人が何言ってんの! ……まさか、ローズがこいつに殺されてもいいと思ってんじゃないだろうな」
後半はアレックスの肩を掴んで引き下ろし、耳打ちした。
「……あんたにゃ悪いがこっちは殺されかけたんだ。あんな女死んでもいいとは思ってるけど」
「ちょっと!!」
「聞け。思ってるけど、本当にあの女をそこの竜に明け渡すつもりなんてない」
アレックスは少し俯いてから、低い声でつづけた。
「だから、しばらく放っておいてくれ。あいつは俺を見張っているが、同時に俺もあいつを見張ってるんだから」
強く言い切られてしまった。ローズを明け渡すつもりはない、という言葉が嘘でないなら、それが現実になるのが一番いい。しかし、それは取引の不履行として、恐ろしい報復を受けてしまうのではないか、と思えば、セシルは食い下がった。――そもそも、妖精との取引の報酬がローズであるなど、アレックスは一言も言っていないし、同意もしていないとは、もう考え及ばない域にいた。
「でも、分霊とはいえ竜なんて、僕らの手に負えないよ。父さんにこっちに来てもらった方がいいし、それまではダンリールの城で囲っておけるんだから」
「いいから。だいたい伯爵だって、んな暇じゃないだろ」
頑として譲らないアレックスに、セシルがさらに言い募ろうとしたとき、ほかならぬ当事者から声が上がった。
「セシルお兄さんは、なんでそんなに俺を連れ歩くのが嫌なの? 俺、閉じ込められてたお兄さんを助けてあげたつもりなのに」
けが人のスープに勝手に手を出そうとしていたのか、スプーンを構えたまま少年が困ったように笑って言った。
「なんでって……」
「お兄さんは、俺が竜の一部だから嫌なの? あの物置部屋で、ほかの妖精に無視されてたのに、あいつらよりも俺の方が迷惑なんだ」
しゅん、と大きな金色の目が悲し気に伏せられる。長いまつげが影を作った。
「……ほかの奴らは自由に森と行き来ができるのに、俺だけずっと閉じ込められてさ。ほとんどの人間は俺の声が聞こえないし、たまに聞こえてるやつも、わざと無視するし。だんだん、その人間たちも、減ってっちゃうし」
声は少しずつ小さくなるが、その分セシルの同情心へ働きかける力は強くなる。
「俺、すこしだけ、外の世界が見てみたいだけなんだけどな」
妖精は人を魅了して捕らえる生き物だ。竜の言葉は人の心にじわりと沁み込む。
「……アレックス。王都で、絶対父さんに相談して。一人でどうにかできると思わないで」
キーラの涙に弱いセシルには、孤独な少年の姿も実によく効いた。
「…………おう」
終始白けた目で見ていたアレックスは、目の前の赤毛男の扱いやすさに苛立てばいいのか感謝すればいいのか少し迷った。
小うるさい人間が黙ったことで、竜の興味はもうスープに戻されたのか、小さな「あちッ」という呟きの後にすする音がした。
「で、そっちはなんでローズに殴られてんだ」
「……門に、ケルピーが来てて……」
兄から気まずげに事の顛末を語られたアレックスは、最初は苛立ちを抑えたような不機嫌顔で聞いていたが、「女主人と従者」の話でドン引きの顔になり、最後に哀れみの顔に変わっていった。
「ねぇ、どう思う?」
「あんたほんとになんでそんな女が好きだったんだ? 変態か? ここまでくると、ローズが悪いを通り越して、まんまと逃げられたあんたに非があるような気がしてきた」
「協力者についてだよ!!」
自分の女を見る目については、もう何も言ってほしくない。
殴られてなお、無意識に彼女の怪我を案じた自分が愚かで哀れで腹立たしかった。
***
「恐ろしいことに、ほんとにあの女は俺を殺すことを目的にわざわざダンリールに忍び込んだってことになるんだな。……ほかの目的があるならいざ知らず、まさかそこまで傲慢な女だったとは」
セシルは黙っていた。長話で疲れたことだけが原因ではない。
恩人であるはずの公爵夫人の所業に、目の前の相手がどんな気持ちでいるか、とても推し量れるものではなかった。
「協力者の候補は多くない。ローズが知るはずのないことを、全部知っている奴なんだから」
「……僕と父さんとアレックス」
「そのうち、あいつに協力する動機がある奴は」
「……」
「あんただけだな、よし、死ね」
「待って待っておかしいだろそれ! 最初から考え直そう」
アレックスの舌打ちがきこえた。
「とはいえ、どう考えてもロッドフォードの人間が与してるとしか思えないだろうが。伯爵にそんなことをするメリットがない以上は、残りは一人しかいないんだが」
「……え、自白してる? きみは、じゃあローズに騙されたってこと? 仲間割れ?」
アレックスは容赦なくセシルの右肩を掴んだ。悲鳴が上がり、枕カバーのフリンジをほつれさせていたキーラの肩が強張った。
「だって!! 僕から見たらそうなんだよ!! 痛い痛いいったい触んなバカ!!」
「……埒が明かないなこれ。動機はひとまず置いて、『ロッドフォードしか知りえないことを知ることができる人間』を挙げていくぞ」
手を離したアレックスが背もたれに寄り掛かった。肩を抑えて呻くセシルの顔を、枕から手を離さないキーラがのぞき込む。
「……ほかの魔法使いの子孫は、考えてみたけどやっぱり可能性低そうなんだよね」
セシルが痛みに顔をしかめながらそう零すと、アレックスも「そうだな」とつぶやく。
「ほかの魔法使い一族のうち、ロッドフォードと同じくらい古いのが確か、グレノア、キークロック、ノートン、リリーライン、あとエネクタリア……あと……」
「それだけだよ」
セシルが打ち止めてやると、アレックスが長い指を折って確認する。
「……六家? 七じゃないのか?」
「うちと同じくらい古くて、ここの城ができた頃にブランデン王家に従ってた家はそんくらいだよ。後から降った家もあるけど、ダンリールの竜に関する詳細は知らないでしょ。なんで七だと思ったの」
「……北の塔で、七つの冠がどうこうって本があったから」
「なら、七つ目は王家でしょ。昔は王家にも魔法使いがいたって叔父さん言ってたし、『眠る月』は王家の人が残した本だったじゃん」
アレックスは長い腕と足を組んで、「そうか」と小さく相槌を打った。明後日の方をみて、どこか釈然としていないようだが、話はすぐに戻された。
「ダンリールの入りかたを知っていそうな魔法使いはいるか」
「えー……いないと思うよ、多分。今じゃ、四家は精霊魔法っていう火とか水とか使った魔法に特化してて、妖精は見えないし、エネクタリアは薬術とか医術専門だし」
多分ね、とぼやく異母弟にセシルは少し居心地が悪くなった。自分だって、見当がつけられないくせに、と。
「……じゃあ、やっぱり城に入れるのはロッドフォード家だけ、て考えるのが自然か」
そこに、スープを飲み干した少年妖精がにこやかな顔で割って入る。
「へぇ、あの城、今はロッドフォードの人たちしか入れないの。昔は色んな人が来てたと思うけど」
「白々しいガキだな。お前の自宅の話だぞトカゲ野郎」
「自宅でたまるか殺すぞ小僧。……俺は閉じ込められた側なんだから、閉じ込めたやつらの勝手なルールなんか知りようもないさ。だいたい、ここ最近はずっと妖精が見えないおじさんが来て掃除したり竜の間をうろうろしたりしてたじゃない」
「ああ、それは管理人だから……」
セシルの言葉のあとに、短い沈黙が流れる。見合わせた兄弟の目には疑いと戸惑いが浮かんでいた。
「……アレックス、ディフレッドは違う。トラブルはないって言ったし、入り方も教えてないって言った。嘘はついてない」
「…………そうだな」
でも、とアレックスは腕を組んで考えるように視線を彷徨わせた。
「なにも知らずに利用されてる身なら、俺らには嘘を吐く必要なんてないよな」
緑の目が瞬く。
「……ローズ様に、利用されてるって? 一度、変装した姿で会っただけなのに」
ありえないという意図を含んだ確認に、灰色の目も遠くを見るようにすがめられた。
「わかるさ、無理があるって。ディフレッドが『話してない』なら『見張られてた』可能性はあるが、そもそもあの女がここに来たのが俺らより1日早いだけなら、自分で見張る暇はない。となると怪しいのは」
赤毛の頭が俯く。見張る時間があった者には心当たりがあった。
兄弟の声は示し合わせずとも同時だった。
「役場のログスターだね」
「エリックだな」
重なった不協和音に、セシルは弾かれたように顔を上げる。信じられないものを見るような目で弟の顔を見つめた。
「何言ってんだ君は」
「……あんたこそ」
セシルは笑った。呆れて笑いが込み上げるという感覚を初めて味わった。
「エリックは確かにうちに勤めて長いけど、妖精のことなんて何も知らない」
「城に入るだけなら、妖精の知識が皆無でも、方法さえ知っていれば大丈夫だとディフレッドが証明してる。竜が起きたのは不測のミスだったんだから。……ローズが自分で秘密を暴く時間はなかった。でもエリックは簡単に近づけただろ。相手は自分の父親だ。秘密が漏れたとするなら、ここが一番あり得ると思うね」
「ありえない。もしそうだとしても、エリックはローズ様に教えることができない」
セシルは、エリックと自分との間の誓約について教えた。妖精の立ち合いによって、エリックが部外者に家の秘密を洩らせば、すぐにセシルにわかるようになっている、と。ほかの使用人は伯爵を主とするが、子息付きの従者の主は子息本人だ。当然、アレックスにもラスターがつけられているのだから、知っているはずだろうと言い募る。
「……教える必要がない方法をとる。エリック自身が鍵を盗み出して、ローズに黙って手渡せばいい。あんた、しばらくエリックのそばにいない時間があっただろ」
この村に到着したとき、セシルはエリックと一緒にいなかった。
口の中が乾いていく感覚の中で、かろうじて発した声は情けなくも震えていた。
「よ、妖精が、見えなくても、知識が無くても大丈夫なら、ログスターだってそうだ。ディフレッドから情報を直接得られなくても、ずっと見張ればいい。ローズ様との協力関係が昨日今日からじゃないのかもしれないし、そうでなくてもずっとディフレッドに不信感を抱いてたんだから、赴任したときからまとわりついてても不思議じゃない」
アレックスが不機嫌な皺を目に作った。
「いや、おかしいだろ。だったらローズをわざわざディフレッドに会わせる意味なんてない。
長い間いけ好かないやつを見張ってて、森を抜ける方法を知ったとする。動機は知らんが、ローズに鍵を渡すことになったとする。で、なんで二人連れだってまた森への入り方を正面切って問いただす? 黙って忍び込んで事を成せばいい。でなきゃ、書斎の鍵を盗むのが難しくなるだけだろうが」
「……でも、エリックが協力者だったとしても、ログスターのその行動は説明がつかない」
「だから、ログスターは何も知らない、ただの嫌な役人なんだろ。ローズが王都の役人だって適当に身分を偽ったなら、同じように派遣されたログスターはとくに深いこと考えずに仲間意識をもってこの屋敷まで案内したんじゃないのか。それならエリックとローズの思惑の範囲外のことで、計画には不要だが、べつに邪魔もしない。実際、ログスターについてきた男装のローズは、この家でディフレッドに何も問いたださなかったってんだから。
書斎の鍵はディフレッドが持ってる。ヤツ本人がローズの協力者じゃないなら、ディフレッドを油断させられる息子が、一番書斎に入りやすい」
違うか、と追い打ちをかけられ、セシルの思考が混乱していく。
そんなわけがない、だって。
「動機が、ない」
「……それは置いとくことにしたんだけど。あえて言うなら、俺が死んだあと、伯爵の跡取りはお前だけだ」
「……罪を着せられた僕は、生きてても跡を継げない」
「ああ、そうか。閉じ込められてたんだったなあんた。氷と、チョコレートで」
緑の目が見開かれる。体温が下がっていく。
『なんでこんなとこにチョコがあるんだろー? やだぁ』
頭の中に、幼い妖精の言葉が蘇った。
あのとき、セシルの頭によぎったことが、もう一度、今度は色濃くにじみ出てきた。
まるで、キーラに触らせないため、と。
「クッキーにも、キーラが名指しされたメッセージが、添えられてたんだったな」
アレックスが足を組みかえる。灰色の目は、傷に置かれた手よりなお容赦なく、セシルの瞳と、疑念を貫いた。
「あんたに妖精がくっついてることも、そいつの好き嫌いも、全部知ってるのは、ロッドフォードの人間とエリックだけだな」
なにも答えなくなったセシルに、アレックスが再び問う。
「城に入る方法を知れそうなやつは二人いた」
わかり切った答えを誘導する教師のように。
「あんたから妖精を引き離す方法がわかるのは、何人いた?」
「……動機がないよ。アレックスと僕、両方を陥れる、動機が」
置いておくことにしたはずの要因を持ち出したのは、セシルが観念したことを表していた。
(……僕、エリックに話してる。妖精のコインが、クッキーの材料からできてるって……)
妖精を遠巻きにさせた、あの告発状は、セシルかエリックしか、書けないのだ。
『ご兄弟なのですから、お二人はもっと話し、互いをお知りになって力を合わせるのが最良ですとも。……私相手に話すよりも、それがずっと大切なことでしょうから』
自分は、エリックに話しすぎたのか。
愕然としたセシルの顔と、厳しく固いアレックスの顔を交互に見て、フリンジほどきに飽きたキーラが追い打ちをかける。
「キーラ、男の人好きだけどエリックはきらい。あいつセシルに嘘ばっかり言うもん。今朝も、『昨夜はすぐ寝てしまって』とか嘘ばっかり!」
その一撃は、残酷にセシルの心をえぐった。
肩の傷より、よほど深く。




