北の塔の中
「ねぇ、美しい坊や。以前にもここに来たことがあるかい?」
アレックスが振り返ると、ぼろをまとった老婆が、回廊すみの影の中に隠れるようにして立っていた。多少不気味とはいえ、灰色の目にはどうみても人間に見えていたが、こんなところに浮浪者がいるわけもない。乾燥した白髪の間から尖った耳が見えて、ああ妖精か、と合点がいき、同時に僅かに表情が強張ったのが自分でもわかった。
「……いや、ない」
アレックスには今でも、妖精と口を利くことへの罪悪感が付きまとっている。自分は悪魔にたぶらかされているのではないか、この光景を目撃した誰かが自分を罰するのではないか、と。
「おやぁ、おかしいね。あたしゃまだたった三百年しかこの城にいないのに、その髪、その目、こんなに美しい人間を見間違えただなんて」
妖精のおしゃべりに付き合う気もなく、アレックスは「目の数も鼻の数も、三百年間変わらない、よくある人間の顔だろ」と言って、北の塔に入る扉の錠前に、ローズから奪った黒い鍵を差し込んだ。カチリと解錠の音がして、アレックスはゆっくり息を吐いた。
ドワーフの鍵はイチイの妖精を呼びよせ、狩人妖精が守る門を開けた。無人のダンリール城において、おそらくこの鍵が合う部屋は魔法や妖精に関わる部屋だろうという推測が確証に変わり始めた。
アレックスは他の二人を門の前に置いてまっすぐ大広間を通り抜けた後、居住館の奥へ進み北の塔に向かったのだった。目覚めた竜に関わる情報を見つけるために。
(この城の中に怪しい場所があるとしたら、三つの塔のどれかだろう)
中でも、自らが取引したあの妖精――まず間違いなく竜と関わりのあるだろう件の妖精が、セシルの前に姿を現したという部屋に近い北の塔に見当を付けたのだった。
タペストリーのあった東の塔も一瞬考えたが、後回しにすることにした。セシルの話を聞いて、妖精は魔法のタペストリーを持ってくることができたと分かっていたからだ。封印に纏わる重要な手がかりを、封じる対象にとっても出入り自由な場所に集約させるとは思えなかった。
開いた扉のさき、見上げる塔の中は暗闇が広がっていた。アレックスは入り口でマッチをすると、見つけた燭台に火を灯して、オレンジの光に浮かび上がった螺旋階段を上り始めた。塔の中は、城内の他の場所と異なって、どこにも妖精の姿が見えなかった。
一人早足で階段を上る男は、目の下の皺が目立っていた『父親』の顔を思い出していた。
(タペストリーの竜の目が開いていたら、何もせず帰ってこいだと。それで自分の大事な長男が死んだらどうするつもりなんだか)
もっとも、セシルが今ここで命を落とすとしたら、それは彼自身の不注意と、アレックスの悪意の取引のせいだ。伯爵の仕事の落ち度ではない。
だが、最近家に招き入れた次男が長男の死に関わっていると知った時、あの厳格で口の悪い男はどんな顔をするのだろうと、暗い苦笑いがうっすらと浮かぶのを自覚した。
(後悔すんのかな。すんだろうな。俺を『大事な』息子に関わらせたこと)
ここ数年、考えても仕方のないことには囚われないようにしていたが、ここにきて妙にあの家の人間たちからどう思われているかということばかり思い出してしまっていた。皮肉な笑みが す、と消えてなくなるのを感じた。
らしくないのは、年甲斐もなく泣いたせいだと思った。情けなくも不安と恐怖に苛まれて、言うまいと思っていたことを吐き出してしまったせいだと、アレックスは後悔と羞恥と、自己嫌悪で奥歯をかみしめた。
(……あの馬鹿も、後悔するかな。俺を見殺しにしなかったこと)
アレックスは無駄な考えを振り払うように軽く頭を振った。泣いたせいか、流血したせいか、頭がずんと重い気がした。
しばらく上ると、行き止まりにつき当たった。眼前に迫る古い扉にはまた古い錠前がぶら下がっている。もはやアレックスは何の迷いもなく黒い鍵を取り出すと、ここでも心地よい音を立てて鍵は回った。
アレックスは中の気配を伺いながらゆっくりと扉を開け、燭台の光で用心深く照らした。
さして広くない部屋だった。塔の上にどう運び込んだのか、奥には古めかしい石の机があり、厚い書物がその上に並んでいるのがおぼろげに見えた。静寂が満ちる部屋の中央はぽっかりと空いているが、入り口の鍵が入手困難な妖精の鍵でなければ、およそただの小部屋としかおもえなかった。
中に入ったアレックスは後ろ手で扉を閉めたが、ふと、部屋の内側の取っ手にも鍵と同じバラのマークが刻まれた錠前が下がっていることに気が付いた。外から妖精も含めた他者が入ってこないようにできるのだと思えばそうおかしなことでもないかと思い、持っていた鍵で施錠しようと鍵穴を探った。
カチリ、と錠が閉まった感覚が手に伝わってくると同時に、背後の暗闇がぱっと明るくなるのを感じて息が止まった。ランタンなどの限定的な明かりではない、部屋中の明かりを一斉にともしたかのような明るさだ。
待ち伏せされていたのかとすぐさま懐に手を入れて部屋の中を振り返ると、思いもよらない光景に思わず声が出た。
「な、なんだ、これ」
ほんの数秒目を逸らしていただけのはずだった。その間に部屋の壁に等間隔で作りつけられた燭台に火がともされ、明るくなった部屋の中央には、さっきまではなかったガラスの大きな箱が鎮座していた。
「……箱じゃない。棺だ」
そう分かったのは、透けて見えるガラスの中から、こちらに向けられたはだしの足の裏がみえたからだ。
人ひとりおさめられているガラスの棺。よもや中に死体が入っているのかとアレックスは大きくなった自分の鼓動を感じながら、おそるおそる近づいてみた。足、腹、胸の上で組まれた手、そしてその顔を見て、再び驚愕で目を見開いた。
腐敗が見受けられない棺の主は、時代遅れの長いチュニックのような服を纏った成人男性と見て取れたが、その顔はあの金の目の、小麦色の髪の妖精を思わせる風貌だった。目こそ閉じて見えないが、長い小麦色の髪といい、間違いなくあの妖精と関わりのある者だとわかった。注意深く見れば、耳も尖っている。
「……あいつの親か?」
妖精に親子関係があるかどうかは分からなかったが、竜なら卵を温めて孵化させていてもおかしくないな、と考えた。継ぎ目の見当たらないガラス棺を軽く叩いたが、まつげの一本も動く気配はない。完全に動かないとわかると、アレックスはどこか安心した心地がしてゆっくりと息を吐いた。
「こいつも竜なら、ダンリールに封印された竜ってのはこっちが本命かな。……親のために子供が奔走してたとしたら泣けてくるね」
取引での凶悪な笑顔を覚えていたアレックスはちっともそう思っていなかったが、いつもの調子を取り戻そうとそう独り言ちた。そして棺から机の上の本へ視線を移すと、埃を払い、それぞれ印字された表題に視線を走らせた。
『七つの冠のこと』
『守護者との契約条項』
『眠る月』
『箱庭』
「……」
見るからに怪しい棺が出現する部屋で、いかにも核心を覆い隠したような題字に苛立ちが湧いた。考える時間も惜しいと端から手に取ってページをめくる。
「……『七つの冠のこと』て、あれか、国内の魔法使い貴族のことか」
このひと月で頭に叩き込んだ新しい知識のひとつが、爵位に紐づけられた紋章の多くに小冠のモチーフが含まれているということであった。オリエット伯爵に月桂樹と小冠、フレイン公爵にバラと小冠、というように。これにくわえて「ロッドフォード家の紋章」などのように家に結び付けられる紋章もあるので、国内貴族の紋章をすべて覚えろと言われたアレックスはエンブレム型を見ることに辟易していた。
数多の貴族の中で「魔法使いの子孫」として秘密裏に伝わる一族はごく少ない。そのうち最初期から王家に従っていた七つの家のことを言っているようだとふんだ。
ようだ、とは、アレックスは読んだ文章の内容を正確に把握できたわけでは無かったからだった。というのも、その埃っぽい本に書かれている内容は古い言い回しがふんだんに使われており、田舎の修道院で培われた教養では拾い読みで主旨を推測することがやっとだった。挿絵もほとんどなく、ところどころ文章をとばしながらかみ砕いて読み進めた。
「これには竜のことはないな。次」
次に取った『守護者との契約条項』は、ハーンやイチイなど、城に関わる妖精との取引に関する内容のようだった。封印されている竜は、守護者とは程遠い。
本を閉じる前に目に入ったのは巻頭の一文だった。
“妖精との約束をたがえるものは呪われる”
アレックスはリンデンの屋敷で城の見取り図を渡された後、部屋に残されてアルバートに言われた言葉を脳裏に反芻した。
『嘘をつかない妖精との取引は、人間が破ることが圧倒的に多い。すると、相手の妖精の多くは取引を破った人間を執拗に追い回し、報復する。
今の世において妖精の魔法は、すでに魔法の“名残り”しか継承していない我らにはとみに魅力的に見えるが、軽々しく取引を持ち掛けないことだ。我々ロッドフォード家は、妖精のおかげで最も多様な魔法を使う一族だと勘違いされているが、その実、妖精のおかげでもっとも死にやすい一族だとおぼえておくがいい』
つまり、このままだと兄が取引どおりに死ぬか、自分が報復を受けるかだ。
固い表情で『眠る月』を手に取った。ざらついた表紙をめくると、冒頭で『災厄をまき散らす、その魔物の目はさながら月であった』という記述を見つけ、自分の探し物はこれではないかと期待した。竜ならば夜行性の蛇同様に瞳孔が細く丸く変わり、それを月の満ち欠けに見立てられていてもおかしくない。
「“私は”、えっと……“私は、多大なる犠牲を払い、この地に棲みついていた美しくも恐ろしい月を”…………読めん……」
古い書体である上に、長い時間ここに置かれていたのか、インクが掠れてところどころ判読できなかった。アレックスは目を左右に走らせ、前後の単語から意味を推測しながら読み進めた。
棺に横たわる青年と二人きりの異様な空間で、アレックスはしばらく舌打ちと低い声でのつぶやきを交互に口にしながら書物を睨んでいたが、じきに目と読み下す頭が慣れていった。
「……『月』も『赤いうろこ』も、『災厄』も、要はダンリールの竜じゃねぇか、これ……紛らわしい書き方しやがって」
それこそ、作者に悪態をつきながらページをめくれるくらいには。
「……“かろうじて抑え込んだ月を、私たちは屠らなかった。思えば、あの時が唯一の、この災厄に打ち勝つ好機であったのだろう。しかし、わが兄弟は、同胞は、来るべき戦に、この恐ろしい赤いうろこの力を利用せんとし、生かすことを私に強いた。否、私もまた、この大いなる力を支配下に置けるのではないかと、浅はかにも思い上がっていたのだ。”」
アレックスは顔を上げて目の間をぎゅっとつまんで、少しの間目を閉じ、そして考えた。
これは手記だ。ほかの書物は説明書のような内容だったが、この文からは過去に生きた人間の息遣いが感じられる。おそらく自分たちの祖先だろう、そう思ってまた文章に目を落とす。
嫌な予感もしていた。手記からは、何か、大きな後悔も感じ取れたからだった。
「どこまで読んだっけ……ああ、“月はまさしく月であった。我々が落とすことは到底かなわぬもの。それを忘れ、私は兄弟たちの望むままに月と取引した。その命を生かす代わりに、従順に従えと。今ならわかる、わらって諾とした、あの時から、我らは災厄に足を取られて”……とられて、いたと……」
黒い髪の落ちる額に、冷たい汗が伝った。
「……“同胞たちが狂わされていくのに、時間はかからなかった。われらは互いに疑い、離れ、争い、とうとう犠牲者を出してしまった。月は、その間も従順に私に従い、同胞たちに笑いかけていた。私は、この美しい赤いうろこが、満ちては欠ける黒い月が、災厄そのものであることを、ようやく思い出した。
私はこれを封じることに決めた。憎むべきことに、ほかの誰でもない私が持ち掛けた取引によって、殺すことはできない。私が銀の剣を抜けば、再び月は我らに、我らの民に牙をむくだろう。そのとき、抗しうる力はもはやこの国には残っていない。我らは月を支配したつもりで、月に弄ばれていた。この地上にやってくる妖精の中で、これほどまでに争いと血を好む生き物を、私は知らない。”」
(……聞いた話と違うな。身内の恥だからと隠されて伝えられたか)
危険な妖精なら殺した方が後顧の憂いもなかったろうに、という疑問も消えた。殺さないことを条件にそばに置いたせいで、その後、逆に殺せなくなったのだ。
それより、狂う、とは穏やかではない表現だった。
アレックスは妖精の目を覚えている。アレックスに語り掛けながら、見ろと言わんばかりにのぞき込んできた、竜の目だ。
あの目に人の悪意や暴力性を増幅させる力があるのなら、アレックスが自分のために他者を犠牲にすることをあんなにあっさり決められたのも、そのせいなのかもしれない。
まさしく、人を悪の道に堕とす悪魔そのものであった。
(……ちがう。『芽』はあったんだ、俺の中に。あのガキは、それを少し引っ張っただけ)
気を取り直して先を読み進めようとした。起きたことは戻せないと言い聞かせて。
このまま取引を履行することが苦しいと思うのなら、自分で事態を打開するしかない。そうするにもとにかく時間がないのだからと、ページをめくった。
「……“悲しいかな、封じることすら完全にはできなかった。いかに重厚なまじないで眠らせても、眠る月が生きている限り、その『欠片』が城内を闊歩しているのだ。幼く、弱く、恐ろしい月の欠片が。”」
月の欠片。
アレックスは傍らの棺で眠る青年を見た。次いで、記憶の中の少年を思い出した。
「親子じゃなくて、欠片……分霊だったのか」
『眠る月』に視線を戻す。書き手の疲れが出たのか、ただでさえ読みにくい字が歪んでさらに難関さを増してくる。
「“私は、我らの花に封じの力を集約させた。玻璃の棺に、塔に、門に、赤いうろこの怪物が触れぬ、その花を刻んだ。だが、私には先が視える。きっと兄弟は、同胞は、その子孫は、この月が生きている限り、この力を欲してしまうだろうと。だったらいっそ、勇敢な騎士の花に、災厄の力のほんの一部だけ、取り分けておこう。それで月そのものはいらないだろう。どうかどうか、月の欠片と、力の欠片で、その強欲を収めてくれるよう祈る”」
アレックスの鼓動が大きく鳴った。指先が緊張で固まるのがわかった。
腰には、件のタペストリーが丸められて差し込まれていた。
(タペストリーが封じていたものは、竜そのものじゃなく、竜の力の一部だったってことか)
セシルの話から、タペストリーの封印が解ける前から少年は火の魔法を使っていたようだが、確かにアレックスは「ついさっき、おれの力が戻ってきた」と言っていたのを聞いた。大けがを一瞬で治すほどの力が、セシルの解術で分霊に宿ったということだ。
一部なら、分霊なら、どうにかするのもそう難しくはないのではないか。ピクシーとの取引でも反故にすることができないとはいえ、竜本体が寝ている以上、そこまで事は絶望する必要がないのではないか。そんな思いは、次の一文で木っ端微塵に砕け散った。
「……“そして思い知るがいい、欠片であってすら、災厄は災厄であると。月の欠片は取引を持ち掛けるだろう、決して履行できない取引を。そして笑うのだ、哀れな取引相手に、『約束は、守ってもらう』と。それができない相手は竜の玩具になるしかないのだと。きっと悲劇は起こる。たとえ月桂樹の冠の子らがいかに誠実で誇り高くとも。だが我ら王家はこの恐ろしい城を彼らに託すほかない。もうじき我が一族には雄々しき門番の姿も見えなくなるのだから。
銀の剣はこの災厄には用をなさない。茨の檻を、けして開けてはならない。ゆめゆめ忘れないでほしい”」
(……月桂樹はオリエット伯爵家。これ書いたのは、うちじゃなくて、王家の人間だったか)
巻末近くは白いページが続いていたが、最後にかすれた字で荒い一文が書かれていた。“本当は、私も憎い、恨めしい、兄弟が、同胞が、あの美しい月を私から引き離したものたちが”と。
「最後に狂ったか」
竜を憎む正気と、竜を求める狂気の間で、最後にこの筆者はどうなったのかはわからなかった。
本を閉じると、アレックスは天井を仰いで、ふーっと溜息をついた。ふと、自分の懐の冷たく固い感触を確認する。銀のかたまりがないことに気が付いたが、『用をなさない』ならなくてもいいかと思いなおした。――当時の銀の剣は、今は銀の弾丸に姿を変えている。
「……どなたか知らんが、ほんと、よく視えてらっしゃる……」
セシルが銃声に焦って部屋からの脱出を急ぐのも、アレックスが死にたくなくて伸ばされた手に縋るのも、強欲なのか、と。
自嘲に満ちたつぶやきに応えはなかった。
(……茨の檻)
城の入り口となる南の門。力の一部を封じたタペストリー。本体と思しき棺と古書が隠された部屋。
そのどれもに竜は抗えていなかったということに、ひとつ、アレックスは可能性を見出した。
「……バラ」
最悪の事態を迎えたとき。
アレックスは、自分がどうすれば責任が取れるのか、ぼんやりとでも、それが予想できただけ良かったと思った。本当は全然良くないけど、そう受け止めるしかなくて、アレックスはもう一度深く息を吐いて、机の上に腰掛けた。
突如、ガタガタガタッと揺らされた扉に、掛けた机からずり落ちるほど驚いたのだが。




