侵入者
十年前に最後の住人たちが引き揚げてから、ダンリールの城はそのほとんどが手入れされていない。そんな荒れた庭であっても、主塔と南の門を結ぶアプローチは石組みの隙間から草が生えていることもなく、歩きやすい道だった。
だから、被った黒い帽子を押さえて逃走する侵入者の行く手を阻むものは何もない。
***
息が上がる。汗が伝う。寒冷な山の裾野であっても、夏を迎える間際の日差しは肌を覆う暗い色の上着に容赦なく降り注ぐ。
(彼の、教えたとおりに)
この城の脱出方法はわかっていた。今は一刻もはやくここから逃げ出して、早く自分の日常に戻りたい。人ごみの中は恐ろしいが、この城で一人きりで過ごすのは不便であり、何より、寂しかった。そんな思いで走り抜けた。
入城した時と同じ門が見えてくる。一日ぶりだった。門の内側には外側同様の鍵穴があった。聞いた通りだ。
(……一発、当たった)
それでも即死の致命傷には至らなかったようで、汗で滑る銃を握りしめ、とどめの一撃を装填するのに時間がかかっているうちに、閉じ込めたはずのもう一人が出てきてしまった。想定外の展開だったが、二人が揉め始めたのが聞こえてきたので、どうにか帳尻は合いそうだ。
スマートなやり方には程遠いだろう。しかし、こんなことをするのは生まれて初めてなのだから、仕方ない。跳ね橋を駆け抜けながら、そう自分に言い聞かせた。
(彼は……アレックスは、死んだのかしら。――――私が、殺してしまったのかしら)
一瞬、ぎゅっと強く目を閉じ、すぐに開けた。
どこから入るにしても、イチイの木が森の入り口。たどり着いた赤銅色の木の肌に、握りしめていた鍵を突き立て、そのまま一直線に縦線を引き下ろす。目印について、あらかじめ見当をつけておいてよかったと思った。
(……ああ、こんな結末になるなら、あの時修道院から連れ出したりしなければよかった)
固い幹に裂け目が走る。赤く広がる。不気味な口だ。見るのは二度目だが、今度もそう思った。
(こんなことになるって、分かってたら…………あの言葉が、誰のだったのかなんて)
赤い洞から、小鹿が首を伸ばしてきた。木が裂けるのも、そこから動物が出てくるのも、現実とは思えない光景だが、これが件の妖精というものなのだ。あの男が言うには、『オリエット伯爵の子ども』以外にも視認できる数少ない妖精。
あとはこの妖精の導くままに進んでいけばいい。自分の役目は果たしたはずだった。それでも、事が事なだけに、早鐘を打つ胸に安堵はひとかけらも無い。
小鹿が鼻先を左右に振って、その黒々とした目を上げた。肩で息をする自分と視線が合った。
思わず笑いかけたその時、思わぬことが起きて心臓が大きく脈打った。
いまだ体の半分以上を洞の中に残していた小鹿は、黒い目を伏せて後退ったのだ。まるで、自分を呼び出した人間から逃げようとするかのように。
「なっなんで……!?」
狼狽して思わず声が出た。それまで声を出さないよう気を使っていたため、数日ぶりの発声は掠れている。
赤い洞に戻っていく小鹿に思わず手を伸ばした。
「……お前から漂う銃の気配が、妖精を遠ざけるんだよ」
洞に向けられる白い右手は、横から伸びてきた別の手に掴まれて、動かすこともかなわなくなった。
正体を隠すための黒い帽子も奪われる。まとめていたはずの髪は、走りながら結び紐が切れていたのか、長い金糸がばさりと背に落ちた。
(……こんなことになるって分かってたら、あの言葉が、誰からだったかなんて、知らない方がよかった)
捕まった『侵入者』は、捕獲者へゆっくりと顔を向けた。
***
主塔から南の棟までは、ディフレッドによって道が最低限整備されていて走りやすい。そのことは、侵入者の背後を追ったセシルにも同様だった。走っている間、彼はその目にさっきよりもずっと明確で焦点の定まった怒りを宿していた。
しかしその怒りも、イチイの木の根元で相手の正体を知ったときには衝撃に打って変わり、愕然としてその名を呼んだ。
「ローズ、さま」
掴んだ侵入者の右手は白く、細かった。古い城に溶け込もうとするかのように暗いチャコールの上着は下に着込んだ衣服ともども男物だが、近づいてみればセシルよりずっと細く、小柄な女の体だった。
見返してきた紫の目に、見られた方こそが捕まったかのように固まった。
「……フレイン公爵夫人、なぜあなたがここに」
問いかけられても、目の覚めるような美貌は臆することなく、フン、と鼻で笑った。立ち上がり、その拍子にセシルの手を振りほどこうとしたが、さすがにそれをやすやす許すほどには彼は呆けていなかった。
「……さっきも言いましたが、銃を撃ったあなたは暫く『案内人』に近づくことができません。ハーン……見回りがあなたを見逃しても、一人でこの森は抜けられない」
セシルは震えそうになるのを耐え、つとめて冷静になろうと心掛けた。
ローズ・エスカティード。その存在は夢の中にあってすら、いついかなる時も彼を緊張させ、高揚させ、幸福にした。
だが今ばかりはそうもいかない。なぜなら、今ここで逃げようとする者は、ーーすなわちセシルよりも小さい男物の靴を履き、銃の使用によって妖精から避けられてしまうのは、紛れもなくセシルを物置に閉じ込め、アレックスを銃撃した張本人であるはずだからだ。
「あなたが、僕たち……私たちを狙ったのですか? 信じられない、だってあなたは」
(王都の公爵邸に、囲っていたのに。舞踏会の夜に、二人で会っていたのに。……ギルベットから彼を、引き取ったのに)
「あ、アレックスは、あなたがそばに置いた、恋人じゃなかったんですか」
手首をつかまれたままのローズの目が僅かに揺れた。短い言葉に込められた非難を敏感に感じ取ったのか。
(後悔、している?)
「馬鹿言わないで、していないわ」
バラ色の唇の沈黙は唐突に破られた。セシルは眉を寄せた。こちらが口にした質問に答えていない、と。
「……後悔しているとでも思ったのでしょう。してるわけないでしょうに。そもそも、そんなふうに思うくらいなら、こんなことしていない」
動揺を無理やり圧し殺すセシルに相対するローズは冷静沈着で、どちらが背後の城の主かわからぬ様相だった。
「あの子は死ぬべくして死ぬ。父親だろうとなんだろうと、他人に、ロッドフォードなんかに近付いた報いよ。――進めば茨の道と、彼は知っていた。とどまることもできたのに、強欲にも前に出た。……大人しく私の元で一生を過ごせばよかったのに」
苦々しく吐き捨てたその様子に、アレックスへの憐憫は全く感じられなかった。あの舞踏会の夜に、秘密の関係を問いただす者を、冷たく切り捨てたときと寸分たがわない冷たさを、見る者に与えた。それは、およそ恋人を殺しかけた女の様子とも思えない。
「っ、オリエット伯のご子息、」
「あ、えっと、セシルです」
「……失礼、セシル。これから二度と会わないとしても、これだけ覚えておいて。如何に背が高かろうと、頭が回ろうと、私は四つも年下の男の子を相手にどうこうする気はないの。だいたい出会った時のあの子はほんの十歳よ? それを恋人だなんて……ほんとに」
ローズはそこでいったん言葉を切り、顔を横に逸らした。
「ほんとに、ロッドフォードは、この国の貴族たちはふしだらな奴らだこと」
セシルの頬にカッと朱が走った。全力疾走したが故に頬が上気した訳では勿論なかった。
「人んち侵入しておきながら随分なことを言うじゃないか!! いったいどうやってこの城に入ったんだ!!」
「人のうち? それこそ随分なことを言うじゃありませんこと? この城は今も王家の城。オリエット伯にここでの仕事を与えているだけで。……そもそも、そうなる前から私は、この城にだけは、入る権利があったのだから」
「え?」
ローズの反論は、途中からセシルを戸惑わせた。その意味を問いただそうとしたとき、公爵夫人はまた馬鹿にしたように片頬だけあげて「いいのよ、あなたにはわからなくて」とそれ以上の追及を封じ込めた。
「それより、アレックスは死んだのかしら。最後はあなたを恨んでいたみたいね。滑稽だわ」
今や敬愛すべき『妖精の女王様』は本当の意味で消えたのだと思い知らされる。小首をかしげて笑みすら浮かべる女は憎むべき破滅の魔女そのものだった。
相手を挑発しようとするその言いざまに、セシルの頭には完全に血が上った。
死んでいない、彼はこれから自分が連れ帰って助けるのだと、怒鳴り返そうとした。
しかし、セシルの頭からなけなしの理性が消えたその一瞬を、ローズは見逃さなかった。
女の右手を掴んでいたセシルの手が勢いよく振り払われた。あッと思ったその瞬間、その白い右手はセシルに銀色の銃口を向けたのだ。
「これを撃った私だけではここを出られない。それなら、あなたに妖精を呼んでもらおうかしら。
残念ね、今さっさと私を殺さなかったせいで、あなたの運命は一緒にここを出て弟殺しの罪を背負うか、ここで死ぬかしかない。どうせ、今また撃っても暫くしたら妖精は私を外に案内するんでしょ? でなきゃ城の住人が、一生閉じ込められてしまうものね」
セシルはまたも自分が絶対絶命の危機に瀕していると知った。アレックスを置いて去ることはできないが、引き返して負ぶってくることを、彼女が許すわけがないことくらい言われなくとも分かった。
「……こ、公爵夫人、あなた自分は罪に問われないとでもお考えか?」
「あら、問われようがないわ。あなたたち兄弟がこの城に向かったことはすぐにわかっても、病弱なフレイン公爵夫人がここにいることを知っている者は、私の協力者以外にはいないもの。
さて、ここでひとり死んでいく弟を可哀そうに思うなら、せめて彼の勘違いした通りに罪を償ってあげて」
「――――ありがとう、でも哀れみには及ばないさ」
銃口と紫の目を交互に見ることしかできないセシルが悔しさに奥歯をかみしめたとき、思わぬ闖入者の声が二人の耳に届いた。
「たった今、いただいた銃弾を返すべき相手が分かったところなんでね」




