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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第四章 災いの潜む城

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悪魔の目

 セシルにとっての妖精は、アレックスにとっての悪魔だったと。

 もう分かっていた筈だったのに。



 ***



 冷たい銃口は、突然下ろされた。

 降参のポーズのまま、アレックスの言葉の衝撃に打ちのめされていたセシルだったが、床に金属がぶつかる衝撃音で銃が床に落ちたことに気が付いた。


「……? あれっく……」


 す、まで言い終える前に、向かい合ったその上体が横に大きく傾いだ。


「うわ、ちょっっっと!?」


 長い髪が揺れて頭から床にぶつかることは、咄嗟に前に差し出したセシルの両腕によって防がれた。 


「……き、気絶した……?」


 銃を取り落とした右手に力はなく、灰色の瞳も瞼に覆われていた。汗だくの顔に手のひらを近づけて、その弱々しい呼吸を感じ取った。


(ああ、どうしよう、血が流れすぎたんだ)


 セシルは自分の動悸が速まっているのを自覚しながら、つとめて慎重に弟の体をもう一度階段の側面に寄り掛からせた。大怪我への処置に関する知識に自信はなかったが、流血を止めないといけないことだけは分かる。自分のクラバットをほどいて相手の二の腕をきつく縛った。


「……ここを出ないと」


 床に落ちた銀の銃――皮肉だと思った。こういうときだけ父の銃を出してその息子セシルを殺そうとした――を拾うと、セシルはアレックスのそばに寄り、相手の両腕をとって自分の背にもたれさせた。自分より十センチ以上背の高い、意識のない男を背負うのは、立ち上がるだけでもなかなかの重労働だった。

 「うぅ……」とアレックスの苦しげな声にセシルの動きが固くなる。心臓より上に、と思って腕を上げさせたのは間違いだろうかと肝が冷えたが、僅かに迷って、そのままおぶっていくことにした。これが一番早くアレックスを運べる形だと信じて。

 相手がずり落ちないよう気を使いながら、腰にぐっと力を入れる。アレックスの足が揺れて、その長さがいつもと違う意味で憎たらしかった。


「――おにいさん、そっちの用事はもうすんだ?」


 階段から数歩離れたところで大広間に響いた高い声に、セシルは足を止めて顔をあげた。逆光で影となった顔の妖精と目が合って、「あ」と思う。

 正直なところ、混乱に乗じて少し忘れていたことを恥じた。妖精との取り決めごとを疎かにするのはとても危険だというのに。


 大広間は大きな両開きの出入り口の他に、回廊に直接繋がる小さなアーチ型の出入り口がいくつもあった。その一つに先ほど姿を消した小麦色の髪の妖精がいた。

 いないとわかったときは恨む気持ちも沸き上がった相手だが、それは結局、別件の衝撃で押し流されていた。


 妖精は、片腕で蓋のしまらない木箱を抱え、もう片手に巻かれた布をいくつか持ってそこに立っていた。


「おにいさんがなかなか動いてくれないから、俺がバラの花を集めてきてあげたんだぞ。でも、俺じゃ集める以外にどうしようもできないからさ、頼むね」


 その白い手が中のものを落とさないよう気を使いながら床に置いた木箱からは、古い鏡や短剣、くすんだ指輪などが覗いていた。手入れ不足という以外に、デザインそのものもかなり古く、竜の間にあったものもちらほら見受けられる。そして、別の手がいそいそと床に広げたのは、色褪せた幾枚ものタペストリーだった。財布に入りそうな小さいものから、小さな部屋なら壁全面を覆うような大きなものまであった。

 そこに広げられたもの全てにバラの模様や象徴化したバラの花があった。

 無論、さっきまで探していた竜の封印のタペストリーもそこに置かれていた。


「ごめん、あの、今手がはなせないんだけど」


 焦燥感にかられながら妖精に話しかけるセシルの脳裏に、数日前のアルバートの言葉が蘇る。


『……竜の目が閉じていれば、封印は問題ないということだ。――もし、もしだ。開いていれば、そのときは何もせずすぐに城を出てこい。門の施錠を決して忘れるな。鍵を決してどこかに忘れるな。そして早馬ですぐに私に知らせろ。万が一の時に、お前たちだけではどうすることもできないのだから』


 セシルには期待していない、アレックスにもまだやらせない。おそらく、その道の第一人者としての判断は正しい。


 思い出しながら、無性に腹が立ってきたのをセシルは感じていた。


 セシルの焦燥を意に介さず、タペストリーを床へ一列に並べながら見上げてきた妖精の金の瞳の瞳孔は、ほの暗い大広間の中でまん丸である。

 不思議なことに、その妖精はセシルの怒りの根源に何も絡んでいない筈なのに、見ていると怒りが込み上げてきた。その感情の矛先は、母を裏切っていた父に、何も知らなかった自分に向けられている。

 妖精の目に呼び起こされる苛烈な感情が、セシルの胸のうちを覆う。それを不自然に思う余地もなく。


「花の上に傷がつくのなら、方法はなんでもいいよ。ナイフで一突きするのでも、俺のそばじゃなければ燃やすのでも、銃で撃つのでも」


 今何よりもすべきことは、この妖精との取引の履行であり、同時にこの怒りの発露である、そう思い込むセシルを宥めるものは誰もいなかった。

 よいしょ、とアレックスを背負いなおしてできるだけの早足で妖精の広げたガラクタに近づく。額から汗が一筋流れたが、ぬぐう手間も惜しかった。

 

「あ、その人俺が抱えておこうか! 手がふさがってちゃやり難いだろ」

「ありがと、でも平気」


 固い声で答えたセシルは弟を背負ったまま、自分の腰に差した銃を片手で取り出した。アレックスのではなく、自分の持ってきた銃だ。撃つつもりはなかったが、万一に備えて一発だけ装填されている。

 片手では扱いにくかった。それでもセシルは右手で銀の銃口を床の上の標的に向けた。


 バラの盾の騎士。赤い竜を倒した、勝利の絵。父が、祖父が、代々の伯爵が見守ってきたバラの花。


「……はやく」


 妖精の声を合図にして、憎悪が溢れ出た。右手に力が込められる。素早く妖精が標的から離れたときだった。


 ガンッ――――

 ガンッガンッ――――



 床が穿たれるような激しい音が、広間に響いた。

 距離をとった妖精が、怪訝な表情でタペストリーとセシルを交互に見た。


「……まぁ、それでもいいけど。撃たないの?」


 セシルはぼろぼろになったタペストリーから足をどかしながら答えた。指が白くなるほど強く握りしめた銃から煙は出ていない。


「……、八つ当たりでやっちゃいけないことは、今もかろうじてわかってるよ」


 固いブーツの踵を何度も打ち付けられた盾の中の花は黒ずんで、傷がついていた。

 セシルは銃を握りしめたまま、そこに並べられたタペストリーや古い日用品を片っ端から踏みつけて、蹴り飛ばした。


 銃を使って思いっきり吹っ飛ばしたいだけの苛立ちはあった。ただ、ここで火薬と銀の銃弾の痕跡がセシルにつけば、妖精は寄ってこない。アレックスに自分の身の潔白を証明する手段がなくなってしまう。

 とはいえ、突如沸き上がった暴力的な衝動はそのままセシルの足を動かしたのだった。おおよそ貴族の子弟らしくない荒々しさで、しばらくセシルはあたりの物を蹴散らし続けた。

 妖精はどこかつまらなそうに下唇を突き出して、ふーっと息を吹き上げると、セシルが蹴り飛ばした織物からなにから、そこに描かれたバラの花がどうなったか注意深く確認し始めた。


「ち、つまらん奴」


 小さな呟きをセシルの耳は聞き逃した。


 ***



 そうしてセシルは妖精との取引内容を遂行した。時間にして二分もかからなかった。怒りが落ち着くにつれ、時間経過への焦りでセシルの足が突き動かされたからだ。


 肩で息をしながら、バラの花の装飾と一緒に割れた鏡を見下ろしていた。我に帰ったのは、その歪んだ鏡面に見慣れた幼い顔が映りこんだ時だった。鏡の中のセシルは荒い息を吐きながら目を大きく見開き、小さな口元を抑える金色の瞳は、戸惑いの色を浮かべて鏡越しにセシルの目を見つめていた。


「キーラ! おまえどこに!?」

「んぐぅ、……セシル、大丈夫?」


 何かを口に含んだまま、もごもごと心配の言葉をかけてくるキーラを見て、セシルは残りの怒りがさらさらと砂時計の中を落ちるように消えていくのを感じた。


「アレックスは大丈夫、じゃないから早くここを出るよ!」


 セシルの顔の横には血のにじむクラバットを巻き付けた腕が力なく伸ばされている。セシルは口の中の物を飲み込んだキーラを急かした。


「まったく、今さらなんなの! ほんとに今までどこにいたの!?」

「お城の中だよ。だってあいつがいたの」

「あいつって、お前何をそんな勝手に」


 セシルは目を剥いた。

 

 ――あいつ、だと?


「だ、誰がいたの!?」

「誰って……あ、ほらあいつ。キーラたちより先に出ていくつもりだ」


 キーラの指先をセシルの目が追って、そこで見つけたものに息を飲んだ。南の門に向かって何かが動いて、それが黒い帽子だとわかったからだ。

 

「銃の臭いがするから、近づけないの。 ……あ、セシル!」


 南の門の向こうは城の外である。ここで逃がすわけにはいかなかった。

 セシルは走りかけた。しかし、身ひとつで走っているだろう侵入者に追い付くには、背中の荷物が重すぎた。


「……っ、ちょっと見てて!」

「待ってよセシルー!」

「見ててったら!!」


 大広間を出て庭に続く階段で、セシルはアレックスを背負ったまま走るのを諦めた。丁重に、そばの柱に彼をもたれさせると、相変わらずセシルのいうことを聞かないキーラに怒鳴りながら一目散に駆け出した。


「待て!!」


 一刻も早くアレックスをここから連れ出して村外れの屋敷に戻る必要があった。しかし、ここで謎にあふれた侵入者を見逃すのは自分にとっても家にとっても危険すぎた。

 何よりセシルは、できれば自分の手で、狙撃手に痛い目を見せないと気がすまない気持ちであったのだ。


 ***


 妖精がタペストリーを片手にひとり、大広間から歩いて出てきた。小麦色の髪を揺らして、わきの太い柱のそば近くにしゃがみこむ。丸めて持っていたタペストリーはそこで手放された。

 金の瞳の見つめる先に、力なく目を閉じたアレックスが四肢を投げ出すように座らされていた。


「おにいさん、生きてるなら目、あけて?」


 黒いまつげがかすかに震えた。ほんの数秒前まですぐそばで大騒ぎしていたセシルの声にも反応しなかった瞼が、妖精の声で僅かに持ち上がった。

 灰色の目に光はなかった。ろくに大きな怪我を負ったことも、大怪我の現場にいたこともなかったセシルには、アレックスが今どれほど危険な状態か、正確にはわかっていなかった。


「……誰……」

「妖精。おにいさん、なんか見たことある顔だなと思ったら、あの女の息子だな?」


 妖精の高い声を聞きながら、アレックスは回らなくなった頭で思った。このまま死ぬのだろうかと。

 だとしたら、あの女の言った通りだったな、と。


(余計なこと、するなって。下手に求めないで、取りに行かないで、大人しくあの女の保護下にいたほうが、ましな人生送れたのかな)


 それが嫌だったから、誰も自分のためには動いてくれないから、自分で自分のために動いたのだけど。

 やはり、欲深いのは罪だ。神は人をほとんど助けてくれないわりに、その教えは的を得ている。いるだけで母を苦しめたような自分は、それでも生きていられるだけの現状に、満足すべきだったのだ。

 そう思ったが、それでもやはり納得行かない。

 だって、あいつは。


「……ルは……」

「……赤毛のおにいさんなら、君をおいて門へ行った。小さい妖精と一緒に」


 おにいさん、置いていかれちゃったね。


 風の音も、鳥の鳴き声も、周囲の音はほとんど聞こえなくなっていたのに、目の前の妖精の声だけが鮮明にアレックスの脳裏に響いた。


(……また)


 遠い記憶が甦る。土ぼこりの舞う修道院と、離れていく女の長い黒い髪。


「おにいさん、俺、君を助けられるよ」


 アレックスが意識しないうちに、妖精の顔は目の前に迫っていた。

 金の瞳が煌めいた。


「でも、ただじゃ嫌だな」


 瞳の中央は真っ黒で、細長い。

 アレックスはそれを見て、ヘビのようだと思った。あるいは、トカゲのようだと。

 

「ついさっき、俺の力が戻ってきた。君……、お前を助けてやるのなんて、訳ないくらいに。でも、俺がお前の命を助けてやって、それと引き換えに、お前はこの俺に一体何をくれる?」


(俺の、命と、引き換えに)


(きん)は大好物だ。お前の家がすっからかんになるくらい貰えるなら、対価として充分だ。そのあとのお前たちの生活のことは知らないが」


「でももっと分かりやすく、お前の命と同じくらいの“何か”をくれるなら、それでもいいぞ」


 アレックスは目を開けているだけでもしんどく感じていたのに、金の瞳から視線がそらせなかった。その下で蠢く唇が紡ぐ言葉に誘われるように浮かんだ考えは、凶悪で、卑劣で、単純だった。

 

 自分の命と分かりやすく同等のもの。


「…………あに」


 覗きこむ妖精の目が、唇が、ずるりと弧を描いた。


「いいね。取引成立だ」


 アレックスも笑った。生まれも育ちも天と地ほども違うのに、なるほど命に貴賤はないようだと。


 再び目を閉じる寸前に見た妖精の髪が、アレックスには赤く見えた。そして、その足元に見覚えのあるタペストリーが、見るも無惨な形で打ち捨てられていたのも、閉じゆく視界にぼんやり映った。

 瞼の裏の暗闇のなかでアレックスはぼんやりと思う。口を大きく開けた竜のタペストリー、目が金色だ。妖精の目はみんな金色なんだな、と。


(そういえば、ギルベットで教わったな。竜は代表格だって)

 

 人間を誘惑し、悪の道に引きずり込む、悪魔の。

 そう思ったきり、アレックスの意識は深い闇に沈んでいった。




 大広間の入り口では、赤い鱗の尻尾が揺れていた。








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