兄弟喧嘩
「弟がいるって、どんな感じ?」
その頃、ウィリアムは爵位を継ぐ前で、セシルと同い年という彼の弟の結婚話が社交界でまことしやかに囁かれていたときだった。
「……急にどうしたんだ」
会員制クラブでそれぞれ違う友人と連れ立ってやって来て、何度か顔を会わせるうちに二人でもつるむようになった。
昼でも厚いカーテンの引かれた酒場のカウンターで、隣り合って座った二人は秘密でもなんでもない話を手慰みに続けた。
「え、なんとなく。僕ひとりっ子だから、よくわからなくて」
「ふうん……どんなって言われてもなぁ。物心ついたときからいたし、小さいときは喧嘩ばっかしてたけど……」
兄弟喧嘩。それは、セシルにはわからない経験だ。
「喧嘩ばっかりしても、一緒にいて、成長するにつれて仲良くなってくる?」
「……仲良く、というか、逃げ場のないライバルだな、多分」
少しだけ年上の友人は、片手でグラスを揺らしながら、考えるように視線を宙にさ迷わせていた。
「どんだけ盛大に罵りあっても、殴りあっても、朝飯と夕飯の時には同じ卓につくし、自分のテリトリーは相手のそれのすぐそばだし、泣きつく相手は同じ親だし……おい、子どものときの話だぞ」
言われなくてもわかっていたが、わざわざ注釈をいれる辺り、案外今も同じなのかもしれない。その頃まだ酒に慣れていなかったセシルはティーカップで隠した口許で少し笑った。
「……身内贔屓なんて言葉もあるけどさ、まあ、憎たらしいと思うこともあるよ。」
「……そういうの、大人になったら許せるんだ?」
「いや、許しはしない。過去のことでも」
「え」
「セシルお前、兄弟愛に夢見てんな? 実際、毎日が血で血を洗う大戦争だぞ。俺と弟はお互い『その日の勝敗』と優越感と劣等感を積み重ねて、相手を母上の宝石箱で殴り倒そうとする自分自身を鎮めながらなんとか兄弟やってんだ」
大真面目な顔で頷きながら語ることは、いったい何歳の時の話だったのか。
「なんで許せないの? 家族なのに」
「……家族だからかもなぁ」
友人は、グラスのなかで緩く渦を巻くブランデーをじっと眺めて苦笑した。
「他人はしょせん他人だから、無理解にも諦めがつくし、遠慮もするし、されるし。一線引いて距離を調整すれば、嫌なこともそのうち許せるようになるだろ。でも、兄弟は遠慮なしでゼロ距離で、諦められないんだよ。時間をおいても距離を置いても、じゃぁ仕切りなおそうと思っても、『なんで俺の言ってることが分からないんだお前は!!』ってなる。
殺したくなるような衝突が腐るほどあっても、死ぬまで無関係になれなくて……で、たまに同じもの見て、同じ感想抱きながら、結局ずっと同じこと繰り返して生きてくんだよ、兄弟として、さ」
そう語るウィリアムの顔は、言葉とは裏腹に、懐かしそうに遠くを見つめて、温かく緩んでいた。
照れ隠しだろうか。近いうちに、自分よりも早く所帯を持って家を出てしまう弟に、感慨深いものでもあるのだろうか。
なんだかんだ言って、弟はかわいい。
一歳下の弟と、口をきく暇もなく別れたセシルには、よくわからない感情だった。
(でもウィリアム、弟に銃口突きつけられても、そんな顔できた?)
***
「無理だと思う!!!」
「……なんの話だ」
状況は相変わらずセシルにとって絶望的だった。嘆いても、黙っていても、向けられた銃口は動く気配がない。セシルはこの顔の似ていない弟に、とにかくその右手を下ろさせないといけなかった。
「……アレックス、よく考えて? なんで僕が君を撃つんだよ、この場では味方なのに、そんなことするメリットある?」
「この場を、出たら、お互い邪魔者同士だな」
「さ、最悪、僕が君を害する意思を持ってるとして! 自分でも言ってたじゃないか、この旅で僕が殺されたら、アレックスが真っ先に疑われるって! そっくりそのまま僕にも言えることだよ!」
「あんた、短絡的で、……我慢強くないからな」
「はーーーっっっ!?」
この場で短絡的なのはどう考えてもアレックスの方だ。何かにつけてすぐ銃を出すくせに、何をいっているのか。彼からしたら、先に発砲したセシルの方がよほどせっかちということだろうが、セシルからすれば、彼の身を心配して駆けずり回った結果、勘違いで殺されるなど、たまったものではない。
そう、セシルは心配したのだ。彼が正体不明の敵に襲撃されているのでは、と。
どちらがより短気かではなく、お互いが敵ではないことをはっきりさせないといけない。
「ぼ、僕がどんだけ心配したと……」
「だいたい、そっくりそのまま、なんて、あんたにはあてはまらないだろ」
セシルの声高な主張は、アレックスの掠れた呟きに遮られた。
わずかな静寂の瞬間のなかで、さきのセシルの言葉を受けての反論だと気がついた。
混乱に揺れる緑の目と、憎悪で充血した灰色の目が絡み合う。
最初はぴたりと眉間につけられて微塵も動かなかった銃口が、かすかに震えていた。体力の限界なのか、気が昂っているのか。
「……なんでそう思うんだよ……同じだろ、父さんが、人殺しを許すわけ……」
「それでも」
セシルは緊張で震えていた。
アレックスも、息は荒く、絞り出すような声に苦痛がにじんでいた。
その整った顔がさらに歪み、唇を噛んだ。何かを、言うまいと飲み込もうとしたかのように。
しきし、それはうまくいかなかった。はあ、と苦しげな息を吐いて、同時に言葉も吐き出された。
「……父親にとって、18年間育ててきた『息子』が殺されるのと、ほんの一ヶ月かそこら同居しただけの『昔の女の子ども』が殺されるのが、同じなわけ、ないだろ」
アレックスは、言うまいと、飲み込もうと、したのだと思う。話したあとも、唇が震えていた。
そうでなければ、こんな卑下した言葉が、まさかアレックスから、よりにもよってセシルに向かって投げ掛けられるわけがなかった。
「……アレックス、そんな、なんで、そんな言い方」
セシルはようやく気がついた。相手も至極混乱しているのだと。
侵入者の痕跡を見つけた直後にセシルとはぐれて、突然銃撃されて、腕に当たった弾は見覚えのある物だった。
(騙されたと、嵌められたと思ってるんだ)
彼の心のうちのどこかにあった、『簒奪者』の負い目が、馴れない周囲への不信感と共に火薬となって、襲撃という火花に誘発されて爆発したのかもしれない。
答え合わせのしようのない想像は、それでもいやにしっくりきた。
セシルは動揺する自分を叱咤して、一度息を飲み込んでから声を出した。
「違うよ、父さんはそんな卑怯なことはしない。い、言ってたじゃないか、受け入れたからには面倒見るって……。だいたい、普段の僕と父さんのやり取り見て、なんで父さんが僕をえこ贔屓すると思うんだよ?
……そうだよ、甘えているとか浅慮だとか能天気だとか、あ、あまつさえ爵位も財産も弟のものになると心得よ、とまで言われたんだぞ!! まかり間違っても、優しい父親なんてガラじゃないし、母さんだって似たような感じだよ!!」
何が悲しくてこの場で自分がどら息子扱いされていることを宣言しなければならないのか、きいている人間がアレックスしかいないのは、不幸中の幸いだった。
セシルの悲痛な能無し自慢に、アレックスの表情が僅かに動いた。
いつものように、冷たく笑われることを覚悟した。
「でも、仕方ないと、認められてきたんだろ」
「み、とめられてる、とは」
「認められてるよ」
反論は許さないらしかった。
しかし、最初に比べてずっと覇気のない言い様だった。
「……自分に見えているもの、聞こえている声を、口に出しても、誰にも咎められないどころか、それで正当な跡取りの証だと、肯定されてきたんだ」
「……あ、……」
緑の双眸は、灰色の眼差しからそらせないままだった。
「……甘かろうと、浅かろうと、呑気だろうと、それでも最終的には、やれやれ、て、迎え入れられて、抱きしめられてきたんだろう。大事な、ひとり息子、なんだから」
冷笑しそこねた顔。まつげを震わせた灰色の瞳にはしる赤。
彼の充血した目の理由は、驚愕の到来とともに判明した。
「……だから、あの、ギルベットで、誰の目にも見えない悪魔たちと目があっても、そいつらが喋りかけてきても、あんたは怯える必要なんてなかった」
ひゅう、と息を吸う音すらも苦し気に聞こえる呼吸の合間を縫うように、一筋頬を伝っていった。
「異常だなんて、悪魔憑きだなんて、母親に捨てられも、暗い部屋に閉じ込められもしない。助けてくれない神様への、祈りの言葉も強要されない」
ひとたび流れ始めたら、止めようもないのか、次から次へとこぼれ落ちていた。
「でも、そんなの変だろうが。ずるいだろうが。――――父親は、一緒なのに」
「見えていたものは、俺もあんたも、一緒だったのに」
――修道院に立ち寄った赤毛の子どもは、母親に手を引かれ、従者にほほえましく見守られていた。
それを見ていた黒い髪の子どもは、かつて母親に置き去りにされ、同じ境遇の子どもたちにすら遠巻きに恐れられていたのに。
「……どうせ思い出しもしないんだろう。あんたにとっては、あのよく似た母親と行った、旅先の、ひとつでしかないから。……そこで、悪魔から目をそらそうとする子どもの前で、妖精と話していたことだって」
セシルは今猛烈に後悔していた。
兄弟喧嘩は、ろくにしたことがないのだから、一ヶ月前、ウィリアムにもっと対応策を聞いておけば良かった。
弟が喧嘩の途中で泣きだしたとき、セシルは何をどうしたらいいのか、全く、ちっとも、わからなかった。
「………………とりあえず、銃、下ろして………………」
これじゃあ殴りあいもできやしない。




