終わらせた恋の話
ローズに出会った――より正確にいうなら、遠くからローズを見つけた日に、セシルは自分の持つものに感謝した。
アレックスに出会った――かつ、喧嘩を売られた日にはじめて、それを失う可能性を認めておののいた。
あの日、ローズを永遠に得られない人生だとわかった日、セシルは決してそれを手放さないと決意した。
***
『ダンリールの森を抜けて城へ至る正しい道は、人間には自力では見つけられない。たとえ魔法使いの子孫であってもだ。だから、森では案内人となる妖精に先を歩かせないといけない。そして同時に、案内人以外は決して信用してはいけない』
セシルとアレックスは、リンデンの屋敷で聞かされた父親の言葉を確認していた。
『森を抜けることができれば、城の周囲は我が家に忠実な狩人妖精が徘徊している。我らに招かれざる妖精、要は人間から見て邪悪な妖精はそこで奴の弓の餌食となるが、城に入る正当な権利のある人間はハーンの矢に射られることはない。……まぁ、最初に城に魔法をかけた魔法使いも、ピクシーを“招かれざる妖精”に分類するとは思えない。おそらく大丈夫だろうが、一応用心しておけ』
セシルはアレックスの膝の上で大人しくなった金色の妖精を見やった。
「キーラ、一緒に森に来るなら、僕かアレックスから離れないでね」
大人しくするのと引き換えに小さな頭を延々撫でさせられているアレックスの顔が引き攣った。
「邪悪な妖精にギリギリ入るだろ、こいつ。クッキーひとつと引き換えに人間を異界に攫うやつだぞ」
「そ、それは人間から見たら怖いけど、妖精側に悪意は全くないし、むしろ好意のあらわれそのものだから」
「へぇぇぇ。じゃ、あんたは妖精から求婚されたら、ありがたく受け入れられんの」
「受けない。それに、ぐちゃぐちゃ言ったって妖精はついてくるときは勝手にくるんだからな。それより、まわり中妖精だらけの森に入る備えを確認しておけよ」
不満げなアレックスの揚げ足取りにかまわず、セシルが話を逸らした。ふんと鼻を鳴らしたアレックスが懐に入れていた二丁の銃を卓に出した。もともと愛用していたと思われる、金のささやかな装飾が付いた黒い短銃と、最近持ち始めたことの伺える真新しい銀色の短銃だった。
セシルは黒色の銃に施された金の花の模様に微かに既視感を覚えたが、すぐに白銀の銃に意識を移した。純銀の銃こそが、父アルバートがまじないをかけた対妖精銃だと知っていたからだ。銀の弾に彫られた馬蹄を模した紋様――一般的には幸運のシンボル、オリエット伯爵家では対妖精魔法に使われる紋もセシルの目に映った。
卓に広げられたものを目にするなり、上機嫌だったキーラは一転して嫌悪の表情で想い人の膝を降りた。
「あの人がくれた銀の弾の数が十発。妖精に銃がきくのかね」
「火薬がそもそも嫌いだからね。人間同士で使う普通の銃でも、脅かすくらいはできるよ。ただ致命傷はよっぽどのことがないと与えられないってさ。父さんのまじないのかかった銀の銃と弾なら、妖精狩りにも使えるよ。……でも、キーラに撃ったら許さないからな」
妖精が寝台の下に入っていくのを横目で見ながら、セシルは銃を片手で弄ぶ異母弟に釘を刺した。
「おう、気をつけてくれよ保護者さん。ただでさえ少ない弾を、俺が撃たなくてすむように」
「アレックス!! 冗談でもそういうこと言うなよ!」
「勿論、こっちも冗談じゃないんで」
互いの険しい視線が交錯した。
「……あんたは何発持たされてる」
「……五発。もしも竜と対峙したときの保険だって」
アレックスが怪訝な顔をした。
「少ないと思う? 普段なんて持ち歩きもしないもん、これで十分なんだよ。竜みたいな古代の魔物ならともかく、やり方を間違えなければ、妖精を殺す必要なんてほとんどない。むやみに危害を加えたら、その場を切り抜けられても後日報復されることもあるし」
「敵対相手は妖精だけとは限らないのに?」
「アレックス、城も森も無人だよ」
「……城と森以外は無人じゃないけどな」
すでに黒い銃を卓から退けていたアレックスが、銀の銃と弾も片付け始めた。先程の灰色の視線に宿っていた険しさはなりを潜めたが、セシルの方は疑わしい顔のままだった。
「ちょっと、多めの弾は『妖精初心者の息子が死ぬよりはまし』ていう父さんの気持ちであって、安易に殺していいわけじゃないからな? 妖精と対峙したら、交渉に慣れるまでは、まず火気と鉄で追い払うっていうのが基本だから。
いいか、普通の銃も妖精用の銃も、どうにもならない時以外で撃たないでよ。体に漂う火薬の気配で、友好的な妖精からの協力だって得にくくなる」
そういうセシルも交渉事は苦手なのだが、そんなことは口に出す必要がないので、黙っておく。
はいはい、とアレックスは今度は突っかかってこなかった。
セシルも小さな革の鞄を開けて、自分の銀の銃と五発の弾を確認し、腰に差した。城の見取り図を丁寧にたたみ、鞄の中身も点検する。
「今日は単独行動なしだから、そのつもりで。森を抜けて、城に入って、封印が正常だとわかれば、それ以上の用はない。すぐ退散しよう」
「……おう」
昨日の自分の『単独行動』に何か言うかと思ったが、食堂で宣言したとおり、アレックスはそのことを蒸し返す気が無いようだった。セシルもそれを見て肩の力を抜いて頷くと、椅子に掛けたまま寝台に向かって声をかけた。
「よし。キーラおいでー」
「なぁあんた、ローズのどこがいいんだ」
「キーラやっぱりまだそこにいて!」
セシルは思いもよらなかった話題をふられて、動揺の隠しようがなかった。
「……な、なに、急に」
「あの女、独身の時は宮殿に引きこもり状態、一年前に結婚したら今度は領地に引きこもり状態で、知名度も低いし多分友達もいないし、国民受けは全然よくないみたいだし」
てっきり『俺の女に手を出すな』という話が始まるのかと身構えたセシルだったが、アレックスは眉間に皺をよせ、どこか苛立ったようにローズ・エスカティードの悪口を言い始めた。
「生活に困ったことがないせいか我が儘で上から目線だし、勘は妙に良いが、言うことが攻撃的だし」
途中から自己紹介かと思ったが、アレックスは真剣だった。本気で『あの女のどこがいいんだ』という顔だった。
おそらく、自分もキーラに時々同じ顔をしていると思った。あんな男のどこがいいの? と、何度か問いかけたことがある。
「セシル。あんたやあんたの父親含め、交流のある貴族もゼロに等しいだろ。この前の舞踏会を除いたら、もしかして結婚式のときしか会ってないんじゃないのか」
「……そのとおりだけど、そんなの聞いてどうすんの? もう僕には関係ない人なんだけど」
「もう関係ないどころか最初から無関係無接触だったのに、夫のフレイン公爵の死を望むくらい好きだったみたいじゃないか」
人聞きが悪いが、確かにセシルは『もしも』で考えたし、口にも出していた。
あの夜の庭での光景が脳裏によみがえる。
夜闇の中かすかな灯で浮かび上がった二人の影。顎を弾いた扇の感触。紫の目。冷たい言葉。
倒れこんで一瞬覆い被さってしまった華奢な体。
唯一、ローズがセシルを認識した日。
あの日から、セシルはローズのことを考えないようにしていた。
あの日以前もそのあとも、きっとローズの方はセシルのことなど脳の一片にもよぎらなかったにちがいないのだが。
「それは、意趣返しのつもり?」
セシルの乾いた声がのどの奥から剥がれ落ちた。様々な心境の変化はあったが、あれからまだろくに時間は経っていない。記憶はセシルの指先を恥と後悔で冷やかに硬直させた。
「……なんとでも。ただ、惚れる理由がわからないから」
身分差があっても、あんたの従妹の方がまだわかる。そう続けられて、セシルは苦笑いを浮かべた。
(なんで、そんなの知りたいんだか)
そこまで考えて、セシルは寝台の下の妖精のことを思い出した。
そして、夫人を最初に見かけた祝いの日を思い起こした。
「……姿が、好きだったのかな」
「………………つまり顔と体?」
「言い方!! ……も、間違ってないかもしれないけど、結婚式の夜の姿が目を引いて、忘れられなかったんだ」
妖精は、見目のいい人間が好きだ。
もちろん外見にかかわらず、性格を好ましく思った相手に目をかけることもないわけではない。しかし、求婚されて妖精界に攫われるのも、精気を吸い取られて早死にするのも、若く美しい人間が圧倒的に多い。
(僕も知らないうちに、見た目重視の妖精たちに影響されてたのかなぁ)
だけど、落ちたのだから仕方がない。
誰にも褒められない、自分でも趣味が悪かったと思う恋でも、紛れもなく恋だった。落ちたあとには、意図してそこから這い上がることなど到底できない。
セシルにしても、花嫁衣装に身を包んだ美しい彼女の、その目が誰も見ようとしていないことに気が付かざるを得なかった。決して笑わず、自分や誰かに優しい言葉をかける姿があったわけでもなかった。
それは、他人から見れば、病弱とはいえお高くとまった傲慢な王女の姿だったのだろうと、自分でもわかっていた。実際ローズの噂は、友好的なものより悪意と興味に裏打ちされた不躾な話の方が多く流れた。
だがセシルは、その立ち姿にどうしようもなく惹かれた。彼女のまとう空気から髪の一筋に至るまで、独占したいような、奉りたいような気持ちで、なるほど恋はするのではなく落ちるものだと後から理解した。
アレックスが言い募った悪口は、はっきり言ってセシルには新鮮な情報以外の何物でもない。正直に言えば、どんなエピソードが彼にそう言わしめたのか根掘り葉掘り聞きたいぐらいだった。
しかし、セシルはもはやそれを聞かない。プライドのためではない。
「まぁ、もう終わったから」
思い返せば恥ずかしいくらい幼稚な恋の顛末だったと、セシルは今やそう考えるようになっていた。
「自分でもどうすることもできないまま、ほんとうっかり好きになっちゃったけど。そもそも、僕は、跡取りはいずれ結婚しなきゃいけないんだから」
背筋を伸ばし、つんと顎を上げると、さも当然のことと言って聞かせた。意地悪な質問をする相手と、愚かな自分に。
「結婚に結びつかない恋は、やめる理由として十分だろ」
そもそも出会った時から遅すぎたのだが、実際にローズと話すまでは、セシルは夢見心地で現実から目を逸らしていたのだと、ようやく理解できたと感じていた。
「今さらじゃないか? 初めて会ったときがローズの結婚式だろ?」
アレックスの言うことはもっともだった。セシルは一瞬口にするのをためらったが、言い淀むのはそれこそ今さらだと思いなおした。
「夢を見ているときは自由だろ。今日公爵夫人でも、夫の公爵が明日死んだら、明後日、次期伯爵である僕の求婚は受け入れてもらえるかもしれないって思えたから……」
「こわ」
「く、空想だよ、極端な話だよ! あそこ親子並みっていうかちょっと年近い爺孫でもおかしくない年の差夫婦なんだから!」
セシルは慌てて弁解した後、「……でも」と続けた。
「実際に話して、ずっと見てた夢が覚めたみたいだった」
そもそもセシルは自分に甘い。幻滅したら、それを乗り越えるには体力がいる。
「もし明日公爵が死んでも、何年たっても僕の求婚は受け入れてもらえないなって、思い知ったんだよ」
彼女に幻滅したのではない。出会ったばかりの彼女に軽蔑されていた現実に幻滅したのだ。
しかも軽蔑の理由は、自分の地位と財を脅かす異母弟を捨て置いていたことに由来していた。
野心のないセシルを地位と財へ固執させたのは、紛れもなく彼女への恋心だったのに。
「僕は与えられるものを受けとるだけの生き方してきたけど、地位も名誉も財産も、ローズ様を迎え入れるのに必要だと思ったら、自分が物凄く幸運な星のもとに生まれてるってはじめて思えたんだよね。
だから爵位をほかの人に、きみに渡せなかったってところもある。……あの人に差し出せるものを、それ以外に何も持ってない、とは、あまり自分で言いたくないけど」
文字どおり、それらを失って生きていける自信もなかったのだが、大きな原動力は紛れもなく彼女の存在だった。
王女として生まれ、後妻とはいえ国内有数の高位貴族の夫人を経たローズに、地位も名誉も財産もない男ではきっと釣り合わない。セシルは夢を見ながらそこだけは現実的に考えていた。
そして、夢から目を覚ましたセシルをからめとったのは、愚かな意地と嫉妬だった。
(僕は、あの人とアレックスが、自分の身近な奴が彼女と一緒にいるのは嫌だ)
まして、セシルから地位と名誉、財産まで奪ったうえで、だ。
つまりそれは、後から来たアレックスに、セシルの思い描いた夢を全部持っていかれることになる。
現に、既にローズはアレックスのものだ。立場上、アレックスがローズのもの、と言った方が正しいのかもしれないが、セシルにはどちらでもいい。心底、それが自分だったらどちらでも望むところなのだ。
(不倫とはいえあんなきれいな人を恋人にして、恵まれた顔と身長に加えて、伯爵の地位と財産? ……そこまで持ってかれたら僕みじめすぎるじゃん)
不思議なもので、地位も名誉も財産も、彼女のために必要だったはずである。
なのにあの夜、バラの庭園で棘に刺され、扇で弾かれて散った恋が、逆に強固な対抗心を生み出したのだ。
(……少なくとも、あの夜は、だけど)
つい昨日知った事実のせいで、ほんの少し、ローズへの恋の成れの果てとは種類の異なる痛みが胸に走る。
罪悪感という棘が。
「……あんたは結局、何もしないで勝手に盛り上がって、勝手に見切りをつけたのか」
アレックスがなかなかローズとの関係をのろけないので、セシルも思いのほか穏やかに、その言葉を受け入れた。
セシルは何もしなかった。セシルが知っているのは浮世離れした花嫁姿と自分を見下す舞踏会の姿だけで、笑顔の彼女は夢の中の産物だった。
結局、ダンスも一度も誘えなかった。
「そうだよ。そもそも、一目ぼれ以上の身勝手もそうそう無いって、君は身をもって知ってるじゃん」
視線を逸らした灰色の目が疲れたようにすがめられた。寝台の下から妖精がもぞりと出てきたからだった。
セシルは戻ってきたキーラから逃げるように足早に去ったアレックスに続いて部屋を出た。この屋敷に保管される、城への鍵を受け取るためだった。
(次はもっと“良い子”と結婚前提の恋をしよう)
なすすべなく、落ちるのではなく。
「アレックス!! キーラを蹴らないでよっ、かわいそうだろ!! そこ階段だよ落ちたらどうすんの!!」
「大声出すな! ったく、足元にまとわりつくなっての、俺が落ちるだろうが!」
「落とされてしまえ薄情男!」
恋という奈落に。




