兄と弟の朝ごはん
しばらく辺りを見渡したあと、母に訴えた。誰か、泣いていると。
眉を寄せた母が言った。誰も泣いていないわ、と。
父の方を見た。前にも聞いたことのある声だと伝えた。
曇り空と同じ色の目が、見下ろしてきた。自分の、暖炉の炎のような赤毛を、さら、と撫でていく手があった。
「――ああ、お前、覚えていたのか」
あんなにちいさいときのことを、と。
泣き女の泣き声が響いていたその日は、祖父の訃報が届く、何日前のことだっただろうか。
***
セシルは腹部の重みで目が覚めた。目覚めはよくなかったが、今日の宿の枕は比較的自分に合っている気がして、もう少し頭を預けていたかった。
が。
「ひま。起きて」
旅の疲れを思いやる気の無さそうな妖精が、寝具に包まれたセシルの腹に覆い被さっていた。
そこでようやく、自分が宿屋ではなくディフレッドの屋敷にいることを思い出した。
キーラに急かされて身を起こしたセシルは、しぶしぶ衣装棚から適当にシャツとズボンをひっぱりだした。いつも起床する時間より早いが、金髪の幼女が二度寝を許さんとばかりに寝巻きを乱暴に脱がしていく。仕方がないので、セシルは洗ってもいない顔のまま、朝から妖精の退屈しのぎに付き合う覚悟を決めた。
しばらくキーラが隠したボタンを探す遊びに付き合っていると、ごく控えめなノックがセシルの耳に届いた。聞き逃してしまいそうなその音に返事をすれば、少しの間のあと、押し開かれた扉の隙間から、見慣れた茶色い頭が見えた。
「おはようございますセシル様。もしや、眠れませんでしたか?」
エリックのいつもの笑顔に、セシルは憮然として唇を尖らせた。
「おはよ。違うよ、チビ妖精に起こされた。そっちこそ、昨日はディフレッドと話せた?」
「いえ、晩酌に付き合ってすぐに私は寝入ってしまって」
疲れてたから仕方ないね、そう言ってセシルはエリックの方へカフスボタンを投げつけようとしていたキーラの小さな手を握りこんだ。
「お食事のワゴンをお持ちしますので、少々失礼いたします」
中腰になって空をつかんだセシルの奇妙な動きを、いつものこととして動じることなく、エリックは一礼して部屋を出ていった。
「……キーラ、おまえ、毎朝焼きたてのクッキーがなにも言わなくてもワゴンに乗ってるのは、誰の気遣いのおかげだと?」
ぷくぷくと膨らむ頬を指先でつついて空気を抜く。
「クッキーどころか、ワゴンも今日はないじゃん」
生意気な口答えにセシルは少し黙って、すぐに彼女の小さな両頬を自分の両手でぱちっと挟んだ。
「今持ってくるっつってたろ」
そこでまた、部屋にノックの音が響いた。
入室の許可を出せば、エリックだった。しかしその手には朝食のワゴンは押されてはおらず、かわりに水のはられた陶器の器が抱えられていた。
「セシル様、大変申し訳ございませんが、どうもワゴンのキャスターが壊れていたようなのです。お手数おかけしますが、洗顔のあと食堂での朝食となります」
「へっあ、そう」
まあ、いいけど、と思った直後に続けられた言葉にセシルの顔がこわばった。
「それと、野良犬でも入り込んだのか、小麦粉の買い置きぶんが荒らされてしまっていて、朝食ぶんはなんとか間に合ったのですが、本日はクッキーのご用意ができかねるそうなのです」
直後に足元でスタートダッシュを切った妖精が、歩く従者の足を引っ掛けるのを止められなかったので、セシルはその日かなり大雑把に顔を洗うはめになった。
放り出された陶器の水を頭から浴びる、という形で。
***
「……別にあんたの勝手だけど、初夏とはいえあんな顔の洗い方するから腹下すんじゃないの」
この世の終わりのように落ち込むエリックを宥めてもう一度着替えたセシルが食堂に入ると、中にはアレックス以外の人間はいなかった。すでに皿を空にして紅茶のカップを傾けており、入ってきたセシルを見るや否や呆れたように声をかけてきた。おかげでセシルは「おはよう」という最低限の挨拶も飲み込むはめになった。
器が絨毯の床に叩きつけられる鈍い音に盛大な水音、そしてエリックの悲壮感漂う謝罪の声で、開け放たれた客間の入り口に呼び寄せられた野次馬は妖精だけではなかった。
早めの起床はセシルだけではなかったらしく、いつもよりくだけた格好のアレックスがひょっこりと覗いてきたのだ。丸一日近く見ていなかったその姿にセシルはぎょっと肩をびくつかせたが、当の異母弟は言葉もなく立ち去った。しかし、去り際の灰色の双眸が「何やってんのお前ら」と音もなく吐き捨てたのは如実に伝わってきた。
「……キーラが、君の部屋にいきたがってるから、たまに引き取ってくれると、こういうトラブルも減って助かるんだけど」
エリックは部屋で水浸しの部屋を片付けている。二人きりの食堂で、セシルがパンにバターを塗りながら気まずさを隠して言葉を返す。
アレックスは「はあ?」と呆れ声のまま聞き返した。
「扱いきれないならはねつければいいだろ。あんたの親父さんだって、妖精にまとわりつかれちゃいないじゃないか」
「…………もう妹みたいなもんだし」
それに、ロッドフォードの建物にいる間は、妖精のいたずらもみんな大目に見ているし。
心の中でだけセシルはそうつけ足した。声に出さなかったのは、アレックスが人前で妖精を頑として構わない理由をすでに思い知っていたからだった。
「妖精の動きで人間側がトラブル被ってちゃ、血筋的には本末転倒なんじゃないの? なんのために奴等の姿が見えて声が聞けるんだっけ?」
「……うるさいな」
セシルのしんみりした気持ちは、アレックスの煽りですぐに苛立ちに覆われる。
「どうせ、昨日もあのチビ絡みのトラブルでギルベット修道院から戻るのが遅くなったんだろ」
「そーだよ! もーいいだろ! もともとピクシーは人目を盗んで馬を乗り回すことが好きなんだよ! 別にキーラが特別厄介なやつとかじゃなくて、ほっといてもそういうことしちゃうんだよ!」
「馬? なんだ、あのチビ馬盗んだのか。金は置いてったはずなのに、厩舎は丈夫に作り直されてなかったのか」
「建物は結構綺麗だったけど、キーラは見た目通りの年齢じゃないから、馬くらい簡単に外に出しちゃ、う、し……」
スープをすくうセシルの手が止まった。額からどっと汗が吹き出る。
アレックスはもう呆れ顔ではなかった。視線は食べ終えた朝食の皿の上で、セシルの方を見ない。
「い、いつ知って……」
「今日、城に行くだろ」
セシルの言うことはとるに足らないことだと言うかのように、アレックスは話題を変えた。
「森を抜けるための妖精避けはこの屋敷にあるんだったな」
「いつ、僕が、馬車にいないって……」
「昨日ディフレッドにきいた話の感じだと、この件は骨折り損の可能性も高いけどな。まぁ、こんな機会じゃなきゃこんな田舎にこないし」
「ていうか、じゃあ、アレックスは昨日のエリックの嘘も見抜いてて……?」
「とはいえ、一応ディフレッドから聞いたことは共有しておこう。あいつから情報聞き出すのを怪しまれないためとはいえ、俺らの後継者問題のいざこざをカモフラージュにしたせいで、いやにあんたに肩入れしてる気がするしな。あいつが俺に情報隠してる可能性もあるといや、ある」
「……ごめん、出し抜くとか、卑怯だった……」
「しっっつこいやつだな!!!」
突然の怒鳴り声にセシルが黙りこんで、辺りがしん、と静まりかえった。ただでさえ後ろめたかったセシルは驚愕も相まって青ざめた。
アレックスが怒りを爆発させたのはその一言だけだったようで、苛立ちで目の下を震えさせながらも、いつもの低い声でその先を続けた。
「……お互い腹に抱えてるもんが対立してんのはもともとだろ。それで隙あらば相手の足引っ張りたいのも、承知してんだよ、少なくとも俺は」
アルバートによく似た、でも少し青い、冷たい灰色の目だけが、抑え込んだ苛立ちをあらわにしてセシルをにらんだ。
「昨日あんたがどこで何してようが俺は知らんわ。いっちいちつつかねぇわ。でも今日やらなきゃいけないことをさっさと済ませて帰りたいのは俺だけか? この血筋にどんな使命があるんだっけ? 俺が思ってるよりずっと誇りを持ってるってのはなんの話だっけ? 俺たちは今日誰の代理なんだっけ?」
「……ぼ、僕もはやく済ませたいです……」
か細い声でセシルも同意した。思わず丁寧な返しとなった。
アレックスはしばらくセシルを睨み付けていたが、昂った気持ちが落ち着いたのか、静かに息を吐いて視線を正面に戻した。
「………………一応、城での打ち合わせのために後であんたの部屋行くから、その間適当にエリックを外に出しておく用事を考えとけ。出来れば、キーラも外に出しておいてほしい。邪魔されるから」
「……それが今日クッキーないから、もう全然僕のいうこときかない……」
アレックスが椅子の背にもたれかかり、天井を仰いだ。
長く息を吐く音が止むと、ひと言ポツリとセシルの耳に届いた。
「鉄の鎖でどっか繋いどけば……」
「や、やだよ報復されるよ……」
「アレックス! アレックス! 今日チョコ持ってない!? 持ってたら今全部食べちゃってね! その後キーラとお城見学デートだからね!」
久しぶりにまともに兄弟顔をあわせての朝食は、クッキーのない厨房を荒らし終えた小妖精の乱入で、一旦幕を下ろした。
***
(そっか、アレックスは僕が過去を知っても、気にしないのか)
食堂から引き上げ、あらかじめ写してきたダンリール城の見取り図を広げるセシルは、幸せそうな顔の妖精を羽交い締めという名の抱擁で包み込むアレックスを盗み見て、そう考えてしまった。




