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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第三章 過去への旅路

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応接室と客

「ダンリール……はロッドフォードの所領じゃないでしょう?」


 怪訝そうなアレックスの言葉に、セシルはつい口をはさみそうになったが、そのまま何も言わずに目をそらした。一カ月で膨大な知識を詰め込んだアレックスの大変さはわからないでもなかったのだが、昨日の今日で助け舟を出す気になれなかった。

 アルバートがじろりと黒髪の息子を見た。


「書庫の位置は教えていたはずだが。 鍵をなくしたか?」


 勉強不足だと皮肉を言われて、アレックスが舌打ちせんばかりの不機嫌な顔になる。セシルは再び開きかけた口をおさえ、己の良心の呵責も無視した。

 そこに助け船を出したのはアルバートに似ない柔和な弟、アランだった。


「まぁまぁ。そう、ダンリールはロッドフォードの所領じゃない。しかも登録上は王家の直轄地となっている。でも、ダンリールの村と森で隔絶された城だけはちょっと別なんだ」


(……ちょっと別っていうか、特殊っていうか……)


 でも、セシルはそれも声に出さなかった。温厚で後継者問題に無関係な叔父がさらに続けてくれるから、気に病む必要もなかった。


「ダンリールには、『竜』がいる、と、言われている」

「……は?」


 アレックスの戸惑いの声には『こいつなに言ってんだ?』という響きが感じられた。その遠慮のない不躾な態度に、セシルは鼻に皺を寄せて睨んだ。

 ただ、そう返したくなる気持ちもわからなくはない。物語でよく出てくるという点ではピクシーと大差ないのだが、妖精が見えるセシルにとっても、竜は実在が疑わしい存在なのだ。この感覚は、教会で洗礼を受けた人間が死後の魂の行く先を信じきれない感覚に似ているのだろうと、以前スカーレットに話したことがある。


「はは、さすがに馴染みのない言葉だよねぇ。君よりだいぶ長く生きている私も、いまだかつて竜は見たことがない。彼らの全盛期はもうずっと昔、建国期だからね。

 ダンリールの城はその頃に建てられたんだ。王家の祖先が、敵対勢力に竜の脅威を利用されないようにと城を作って、竜ごとその住処となった一帯を支配下におくためにね」


 後継者として、セシルが父親から教えこまれた内容も同様だった。

 なんならもっと詳しく教えられてきたはずだが、最後に『城には竜の寝床につながる道があるが、それはお前が起きてから教えることにする』と何年も前に呆れ顔で言われてからと言うもの、それっきりだった。


(……うとうとしていたのはわざとじゃないんだから、普通に起こしてくれれば良かったのに)


「当時は王族の中にも魔法使いがいたから、竜の扱いにも困らなかったようだ。が、しかし、戦乱も収まってしばらくすれば、妖精の姿を視認できて扱いにも長けているのは我々ロッドフォード家に連なるもののみとなった」


 アランの説明にアレックスが「はぁ、なるほど」と視線を紅茶に向けた。


「だから、この家が王家から城の管理を委任されている、ということですか」

「そう。詳しいことはアルバートにきいてくれ。私はここまでしか知らないから」


 セシルも跡継ぎなのに、ここまでしか知らない。祖父の葬式のために実際にダンリールへ行ったことはあるが、閑散とした寂しい城だったということを、うっすら覚えているのみだった。


「それで叔父さん、悪魔ってどういうこと? 竜を見た人がいるってこと?」


 セシルが訝しげに聞くが、アランが答えるより早くアルバートが声を発した。


「そんなわけはない」


 三対の目がアルバートに向けられる。


「ディフレッドからなんの報告も入っていない。ダンリール城で何の異変も起きていないということだ」

「ディフレッド? エリック・ジョナの父親が、ダンリールの管理を?」


 使用人の血縁関係はアレックスの頭に入っていたらしい。従者エリックの名前に反応したのか、風もないのにカーテンがかすかに揺らめいた。

 アランはアレックスの確認に頷いたあと、兄である伯爵に向き直った。


「私も取引相手の屋敷できいただけの噂だから、詳しいことはわからない。一応そんな話をしていた若者には、事実かどうかわからないことを広めないようそれとなくごまかしておいたけど、ただ、彼が妙に怯えていてね」


 アルバートが顎に手を当てて渋い顔をした。


「なぁアルバート、ディフレッド・ジョナは親子ともども信用できる昔からの使用人だけど、この話を手紙で知らせてないのも気になる。それに、ほかの土地ならいざ知らず、ダンリールは特殊な土地だろう。その割に、君もろくに足を運んでいないところだし」

 

 アランの言葉の最後にアルバートも痛いところを突かれたのか、一瞬口ごもった。


「……私とて、王都をそう簡単に空けるわけにいかん。領地のオリエットもハロルドがいるとはいえ、放ってはおけない。

 それに、わたしがこの家を継いだ時、先代の葬式も、当主としてあの城での義務、竜を封じ続ける術の点検も完璧に行った。はっきり言って、あそこは万全の状態でディフレッドに任せたのだ」


 セシルには、父が意固地になっているように思えた。自然、叔父の方に肩入れする。


「でもさ、父さん。ディフレッドは魔法使いじゃないし、妖精も見えない。城で何かあっても、気が付かないんじゃないか?」

「その『何か』が起きようがないというのだ、セシル」


 アルバートは息子の言葉を、アランに対するそれより一層鋭く切って捨てた。


「でも、村と城を隔てる森には妖精がいますよね」


 視線を紅茶に戻し、ティースプーンでかきまぜていたアレックスがぽつりとつぶやいた。アランが聞き返す。


「森?」

「悪魔に間違えられるのは竜もほかの妖精もそう変わりません。今まで、ロッドフォードに関係のある人間ですら見たことがなかった存在が、突然出てきたというよりは、森の妖精が姿を現したと考える方が自然では」


 アランが顎を撫でた。


「……確かに。ただ、君だって妖精が魔法使い以外に姿を現す例を、そう知らないだろう? 彼らは恩のある人間に礼をするときと、獲物としての人間を捕まえるときしか、基本的には姿を現さない」


 セシルが、黙ったままの父に変わって口をはさんだ。記憶のすみには、かつて眠気をこらえて父から聞いた話が掘り起こされていた。


「でも、ダンリールの森は村人立ち入り禁止だし、人の命を狙う妖精は、逆に森の外にはほとんど出られないんじゃなかった?」


 ダンリールは妖精が多い土地である。人間はすぐに森の妖精の餌食になってしまう。

 そこで、村人には王命で、もともと森にすむ妖精にはロッドフォード家の妖精除けを森の境に設けることで、森の中と外をそれぞれの領域として互いに侵さないで済むようにしていた。その分、王命を無視して森に入った人間がどうなるかは想像するだに悲惨、ということだった。


「アルバート、どちらにしろ、一度確認してみた方がいいんじゃないか。私ができればいいんだろうけど……」

「……おまえも忙しい身だろう。これは伯爵たる私の管轄だ」


 アルバートは眉間の皺を深くした。噂の内容が、まったく気にならないとは言えない顔をしていた。


「仕方ない。急ぎ様子を見てくる」

「父さん、僕が行こうか?」


 セシルが身を乗り出した。気がかりであることは本心だったが、そこに加えて、『跡継ぎ候補として』、ダンリールの竜に施された術の詳細を教えてもらいたいという思いがあった。


「必要ない。噂が本当なら、ディフレッドと私の術が対処できていない以上、当主でない者にやらせられることなどないのだから」

「……あ、そう」


 若者の意気込みは、冷たい針で刺されてしおしおと萎んだ。

 すると、「ならば」と向かいで新たな意気込みが進み出た。


「伯爵、よければ俺がついていきましょうか。以前にお伝えした通り、俺はリンデンでの暮らしが長いことは確かですが、実は、城はともかくとして、ダンリールの周辺のことについても結構詳しいので」

「ほう、そうか。お前がリンデンにいた期間も含めて長期間ダンリールに住んでいたディフレッドも、城は勿論その周辺には尚更詳しいだろうから、やはり必要ないな」


 それもすげなく退けられた。

 しかし、アレックスの方はセシルより粘り強かった。


「ディフレッドがですか? 妖精を視認できないばかりか、土地の異様な事件や噂について雇い主に何も伝えていないのに、信用に足る人物でしょうか」

「お前は、ロッドフォード家と使用人の関係性を理解していない。私が何の考えもなく彼にダンリールを任せたと?」

「で、その結果、不審な噂が王都まで出回りかけたわけですね。噂を止めたのは現地のディフレッドではなく、リンデンにいるアラン叔父上では?」

「……」


 言い返されたのはアルバートだが、眉間の皺を深くしたのはセシルだった。この会話の流れは、セシルの望まない方向に進んでいる。自分よりアレックスの方がダンリールの一件に深く関わったら、それだけでまた遅れをとるような気がするからだ。


「そもそも、そのディフレッドもダンリールで暇をしているわけでないなら、妖精に絡む雑用は俺を使った方が効率がいいのでは?」

「父さん、それなら僕を連れて行った方がよくない? さすがに、この手のことについて、右も左も分からないアレックスよりは」


 セシルが苛立ちを抑えた低い声で割って入った。アレックスが向かいに座る兄に冷たい一瞥を向けたが、すぐさままた父親に向き直った。


「今までの会話から察するに、オリエット領と違って、ダンリールの森や城に向かう機会は早々なさそうだし、書庫での勉強は自分一人でもできますが、フィールドワークは単独では難しい。幼いころから少しずつ教育されてきたセシルと違って、俺には学ぶ時間も惜しい」


 アレックスはセシルとの育ちの差を逆手にとって畳みかけた。はっきり言ってアルバートには邪魔にならなければどっちでも大して役には立たない。ならば少しでも連れていく甲斐のある方を、と言われてしまったのだ。


「アルバート、それもいいかもしれないよ。私やセシルは父上の葬式の時くらいしか行っていないが、一度も行っていない彼にも、ダンリール城を見せてあげた方が」

「ちょっと叔父さん!」

「え? ……あ。ああ、なんならほら、兄弟二人とも連れて行ったらいい。君たち三人で旅行なんてしたことないだろ?」


 アランがアレックスのために思わぬ援護射撃をしたものだから、セシルは思わず食って掛かってしまった。キョトンとしたアランが、思い当たったというようにセシルのことも薦めてきた。

 アルバートが首を振ってため息を吐いた。呆れた声で異母弟の提案を却下した。


「それで、アンナもついでに誘えとでもいうつもりか? アラン、これは仕事の話だ。意味もなく同行者を増やす気はない」


 叔父が言ってこの態度ではもう望みはないように思えて、セシルは肩を落として椅子に掛けなおした。


「アレックスだけ連れて行けば充分だ」という父親の言葉に、椅子を蹴倒して立ち上がったが。


「ななななんでアレックスだけ!?」

「寝ていたのか? 連れて行くメリットは二人が言っていただろう。確かに、ディフレッドを長時間拘束するのも非効率的であり、そのうちこやつにも城に関することは教えなくてはいけないのだ。竜に関することは後継者にしか伝えられないが、それ以外は教えておいた方がいい。お前もすでに知っていることだ、問題ないだろう」


 セシルが反論する前に、扉を控えめにノックする音が四人の話を遮った。


「ウォルターでございます」


 伯爵が入室の許可を出すと、痩せた初老の男が入ってきた。この屋敷の執事である。家令のハロルドの方が位が高いが、彼がオリエット領で当主の代わりに領地管理をしているので、この白髪交じりの執事が王都の屋敷の使用人では一番位が高い。

 従者すら部屋に入れない身内だけの会談を中断させるだけの事態が起こったということだ。


「旦那様、少々お耳を」


 そういわれたアルバートはウォルターの短い報告を聞くと、わずかに目を見開いて、すぐさま立ち上がった。


「客だ、出てくる。話は終わりだ。アラン、見送れなくてすまない」

「おっと、随分急だな。約束もなかったんだろう?」


 従者もいない部屋で、甥に倒された椅子を直しながら意外そうに言ったのはアランだった。あわてふためいたのはセシルである。


「お、終わりって、おい父さん!!」

「セシル、おまえ父親に向かっておいとはなんだ」

「~っアポイントのないお客さんなら少し待ってもらってもいいんじゃない!?」


 焦ってアルバートを引き留めようとしたセシルに、アルバートは取り合わなかった。


「寝ぼけた息子には二度言わんとわからんか。話は終わった。そして、待たせていい客ではない。アレックス、ラスターと言ったか、お前につけた従者にダンリールまでの旅支度をするよう伝えろ」

「……はい、伯爵」


 セシルの方を見てにや、と口角を上げたアレックスが優等生の返事をする。彼の粘り勝ちだったと、セシルも認めざるを得なかった。


(……いや、いや、ここで諦めるからいけないんだ)


 セシルは自分を奮い立たせた。昨日のことを思い出した。

 何もしないわけにはいかないのだ。自分も粘らねば。


「と、父さん! 僕もお客さんに挨拶に行った方がいい!?」


 しかし、息子の呼びかけにアルバートは振り返らなかった。

 アランがすまなそうな顔でセシルの両肩に優しく手をのせ、戻した椅子にゆっくり座らせた。


「……あの人は相変わらずだね。昔っから頑固で物言いが厳しい。でも、それも当主として立派に務めようとしているからこそだ。セシルに厳しいのもひとえに立派な跡継ぎに…………」


 アレックスがまだいる部屋で、アランは慰めの言葉を飲み込んで、言い直した。


「……立派な大人になってほしいからだよ。兄さんはもともと、家族思いで優しい人だ。ほら、私やアンナへの態度を見ればわかるだろ?」

「八歳くらいの子どもに声掛けしてるみたいになってますがね、アランさん。実はその子はもう十八歳なんですよ」


 セシルを憐れむ皮を被った嫌味だった。

 喧嘩を買っている暇があるなら自分のことを考えないといけないと自分に言い聞かせて、セシルは席を立った。


「アレックス、君も多分、自分の父親のことを誤解しているし、セシルのこともよく知らないだろう。家族になったんだから、もっと心を開いたらいい」

「…………ところでアランさん。ちょっと話が変わるんですが、スカーレットのドレスの件ですがね」


 背後でアレックスのどこか固い声が続いていたが、扉に向かうセシルは聞かないようにした。


(どうせキーラのやったことは僕の監督不行届とでもいうんだろ。勝手に言ってろ!)


 そういえばキーラはどこに行ったのか。一度自分たちの目を掻い潜れば、次に現れるところは消える前と同じところとは限らない。母とエリックに近づいていないと良いと思いながら、扉に手をかけた。

 しかし、セシルがその扉を引く前に、ノックの音が響いた。


「セシル様、いらっしゃいますか」


 ウォルターの声だった。背後の二人の声も止まった。

 セシルは急いで扉を開けた。


「お客様にご挨拶を、とのことです」

「へ? あ、父さんが、そう言ったの?」


 さっきと言うことが真逆だった。セシルはよく分からないながらに廊下に立っていた執事に確認した。静かに頷いたので、急いで部屋を出る。廊下に控えていたエリックもその後ろをついてきた。

 痩せた男についていくうちに、先程よりも豪華な応接室に向かっていることに気づいた。


(……父さんが、アラン叔父さんを追い立ててまでアポなしの客に向かうの、珍しいな)


 アルバートは家族思いという以上に、弟を大事にしているというのがセシルの印象だった。アンナに対してもそうなのだが、父親が叔父に冷たい言葉遣いを向けるのはとても稀だった。

 そのアルバートが、アランを押しのけて対応する来客となると、そう多くない。

 若干の不安を抱えたまま、邸宅の中で一番広くつくられた応接室に入る。入り口付近には見慣れない男が数人立っていて、地味な服装だが、近くで見れば質の良さ、造りの丁寧さがわかる格好だった。

 客人の連れだろうと想像すれば、その人数に、並大抵の身分ではないことにおののかざるを得なかった。前を向くセシルの喉が上下する。

 応接室の奥、父親の向かいに腰掛けた、物々しいお付きを引き連れてやってきた来客が誰だかわかるや否や、セシルは足を止めた。一瞬、鼓動も止まった。


「……セシル、早くこちらへ」


 アルバートが苛立ったようにセシルを促す。客人は卓に紅茶を置いて、固まった赤毛の青年に向かって笑みを見せた。


「やぁ、昨夜ぶりだね。実は私もむりくり時間を作ってきたので、あまり長くはいられないんだが、せっかくだからと挨拶をしておこうかと」


「…………お、恐れ入ります……レナード殿下」


 冷や汗をどっとかきながら、なんとか頭を下げた息子に、アルバートが無表情で補足した。仏頂面でないだけましだった。


「申し訳ございません、殿下。不肖の息子なもので、貴い方の突然の来訪にろくに挨拶もできないようなありさまで」

「いやいや、構わない。それこそ前触れなく来て悪かった。じゃあ、さきの申し立てに対する貴殿への聞き取りはこの日程で頼むよ」


 そう言うと、相変わらずの金髪を一筋の乱れもなく撫でつけて陽気に笑う王太子レナードは、アルバートに数枚の書類を渡した。

 セシルが動揺していたのは、昨夜散々みた顔とはいえ、まさか昨日の今日で、自宅で再びこの顔を見ることになるとは、さすがに思っていなかったからだ。今まで書類を渡すためにわざわざ王太子が伯爵家へ来ることなど、すくなくともセシルが屋敷にいるときにはなかったことだった。


「……はい、こちらからも宜しくお願いいたします。ところで殿下、私の息子と昨夜なにか?」


 セシルはアルバートに昨夜のことを話していない。緊張がしゅんっと全身を駆け巡ったが、レナードの方こそ言いたくない筈で、適当に誤魔化すだろうと予想し固唾を飲んで見守った。


「いや何、ちょっと庭で偶然会ったものだから、立ち話に付き合ってもらっただけさ。ではオリエット卿、多忙なところ突然訪ねて悪かったね、これで失礼するよ」


 さも何でもないことのように受け流して、レナードは立ち上がった。応接室の入り口に控えていた王太子付きの従者たちも動き始めた。


「……殿下、何かありましたでしょうか」


 本当に顔を見ただけで帰ってしまうレナードの見送りに出ながら、アルバートに聞かれないよう近づいてこっそり聞いた。


「妃殿下の様子に、なにか異常が?」


 レナードは意外そうに片眉を上げ、小声で否定した。「いいや、彼女はゆっくり回復しているよ? 本当に眠っていただけだし」


 それより、とレナードが低い声で続ける。


「セシル、あまりこの貴族の世のしがらみに興味がなさそうな君にはピンとこないんだろうが、私が直々に挨拶をしにきたというのはなかなかのステータスだよ。勿論、これくらいで昨夜の依頼のかわりになるとは思っていないから、あらためて礼をさせてもらうけど」


 レナードはちらりとアルバートの方を見て、一層声を低くした。


「私の顔位は利用したまえ。私の部下も、宮殿に来た時には君を案内できるだろうから」


 そう最後にささやくと、近くに立つ従者たちを肩で示した。軒並み背が高く、体格がいい。快活な主人とは違って冷たい無表情がセシルの顔を見下ろしていた。


(……これ、顔を覚えたぞっていう、昨夜の口止めじゃないよね?)


 セシルは王太子の従者たちの顔を見た。レナードがにっこり笑って伯爵に別れを言うと、無表情だった従者たちも示し合わせたかのように笑顔になった。出来ればもう来ないでほしいと思いながら、セシルも曖昧に笑い返した。

 

 ***


 嵐のように王太子一行が去っていくのを、玄関で父子並んで見送った。背後でアランの声がして、彼らも玄関ホールまで様子を見に来ていたのだと、セシルはそのとき気がついた。


「父さん、殿下が来たのは昨日の申し立てのことで?」


 父に昨夜のことをきかれたくなくて、先にセシルが口を開いた。


「そうだ。未来の臣下にかかわることだからと、慎重に聞き取りや審査を行ってから結論を出すとのことだ」

「へぇ」


 するり、とセシルの足元に小さな気配が寄ってくる。見下ろせば小さな金色の頭の下で、髪と同じ色の目が恨めしそうにセシルを見上げていた。蹴ってごめんな、とその額を撫でた。


「私は明日から忙しくなる。聞き取りは来週から始まるから、それまでにおまえとアレックスに関する資料をまとめておかなければならない」

「僕はなにをすればいい? 昔の日記でも出しておく?」


 手のひらに頭を押し付けてくるキーラの頭をこねくり回しながら叩いた息子の軽口を、父は気に留めなかった。


「この件に関しては私とアンナで対応する。おまえやアレックスへの聞き取りは、早くても来月以降だろうとのことだ」

「ふぅん」


 先が長いねとキーラに囁く。「そう? クッキー食べて散歩してたらあっという間だよ」とキーラがきょとんと返した。


「だからダンリールへはおまえが行け」

「うん、わかった」


 セシルは小さなクッキーを出そうとポケットを探った。しかしポケットには目当てのものはなく、小さな固いものが指の先に当たっただけだった。


「ん?」

「はっきり言って噂が何かの勘違いという可能性も高いと私は思っているが、放置するわけにもいかない。今夜のうちにダンリールで確認すべき最低限のことをおまえたちに伝える。いいな」


 セシルはばっとアルバートの方を振り返った。見られた方は、もう用は済んだとばかりに玄関ホールの二人に向かっていた。

 叔父は帰り支度をしていなかった。応接室から玄関にかけてのセシルたちのやり取りを、隣に立つアレックスと共に見ていたのだろうと想像できた。


「そういうわけだアラン、おまえを信用していないわけではないが、急用が入ったのでな」

「いや、手を打ってもらえるなら、こちらも安心できる」

「……伯爵、その、確認ですが、セシルと俺でダンリールに、ということですか」


 憮然とした顔でアレックスがアルバートに訊ねる。アルバートが「そこに立っていたなら聞こえていただろう。二度聞かないとわからないのは兄弟一緒か」と肩をすくめた。


「えっ、父さん僕たちだけで行くの!?」


 行く先に竜がいるかもしれないのに!? そんな気持ちでセシルも振り返ったが、アルバートはため息をついてこう言っただけだった。「おまえ、まさか本当に寝ていたのではあるまいな?」と。そんな伯爵を、アランが宥める。


「アルバート、セシルは起きてたよ、大丈夫!」


 キーラがセシルの肩を持ってくれたが、予想外の展開にセシルは何も言えなかった。アレックスは天井を見上げて、げんなりしたようにため息を吐いた。

 そのとき、金の頭の妖精がセシルのコートのポケットをぽんぽんと叩いた。


「ね。いいことあったでしょ?」


 黄金のコインは、まだセシルのポケットの中だった。

 ずっと控えていたエリックが、アレックスの従者ラスターと共に旅行支度のために二階へ上がっていった。



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