嵐の翌日
眠れない夜に傘をさしてくれた妖精は、もうこの部屋には来ない。
夢を見なくなってから、嘘を吐くのがうまくなってきた。
***
宴の翌朝、リンデンのオリエット伯爵邸では赤毛の子息が机に向かって書き物をしていた。昨夜の舞踏会で体はどっと疲れていたのだが、横たわっているととりとめもないことばかり考えてしまうからだった。
セシルは、昨夜のことをあまり思い出したくなかった。
忘れてはいけないことだから覚えてはいるが。
ペンを握る手が止まったのを見計らったかのように、キーラが声をかけてきた。
「セシル」
「…………まだお腹すいてんの?」
その袖の下に溜め込んだお宝はどうしちゃったんだよ、とセシルがつづける前に、キーラに首を振られた。
「いいことあったでしょ?」
「……」
早速思い出したくない記憶の一片をつついてきた。
セシルはなんと答えたらいいのかわからなくて、椅子に掛けたまま、片手で金の頭を撫でた。
「ありがとうね」
セシルは嘘をつかないために、否定も肯定もしないでお礼だけ言った。「そうだね」とも「ぜんぜん」とも本音と外れている気がしていたからだった。
(でも、キーラが言うなら、あれはいいことだったのかな)
セシルは昨夜、王家に大きな貸しを作った。
好きな人に侮辱されたと思い、言い返した。
帰りの馬車で、アレックスと荒れに荒れた。
~~~~~~
噂のオリエット伯爵一家は、どこに行っても好奇の視線で見られるので、その夜は長居をしなかった。
「言ってくれるじゃないか」
行きと同じ馬車のなかで、つねられた頬の赤みも消えてきたアレックスがまず声をだした。
「ピクシーちゃん、やめて」
次に女嫌いな妖精の攻撃を足下に受け始めたスカーレットが苦笑いした。
「……アレックス、ここでその話をするなよ」
キーラとスカーレットをそれぞれ見たあと、話す相手をアレックスに定めたセシルが言い返した。
「どう手を打つんだ? ん? 書類は出した。もう沙汰を待つのみだけど」
まるで何年も前から俺の馬車ですけど? と言わんばかりの慣れた様子でアレックスは兄より長い足をくむ。
「ピクシーちゃん、やめて、私のドレスを全部ほどくつもり?」
キーラが丁寧に仕立てられたはずのドレスの布地のほつれを探り当てたのか、自分で引っ掻いたのか、赤い糸を引き出し始めた。
「……許可される理由がない。却下される方が自然だ」
キーラのことはスカーレットに任せることにしたセシルが、苛立ちを悟られまいと努めて冷静に言い捨てた。
「しなくても良い手続きをわざわざする、伯爵の意向は伝わったかねぇ」
セシルにとっても痛いところをアレックスがつつく。
「っ、ピクシーちゃん、この、やめなさいって」
小さな手が巻き取る糸がとまらない。スカーレットが頭をつかもうとしたが、糸をつかんだままささっと避けられて余計にほつれた。
「父のやることがなんでもかんでも通るわけないだろうが」
父親の有能さを間近で見て育ったセシルが、動揺を押し隠して、どうにか笑う。
「へえ、そうなのか。大臣直々に受け付けてくれて、わざわざ『本気か』と伯爵に念押しまでしてくれたのになぁ」
わざとらしく驚いて見せた弟の言葉に、兄のほうがとうとう声を荒げた。
「稀にしか見れないたぐいの書類だからだろ!」
しまった、と思っても、先に声を荒げた方が負けである。もう完全にアレックスのペースだった。
「そうだ、稀にしか見れない、不自然な申請。きっと勘繰るんじゃないか、『こんなの出すんだ、オリエット伯爵にはよほどの考えがあるに違いない』さて、却下するのが自然だろうか」
「酔わせてだか脅してだかで書かせたんだろうが!!」
アレックスのあからさまな挑発に、セシルはなんのひねりもない言葉で乗るしかない。
「王宮ではさくさく先導してちゃっちゃと出してくれたぜ。しかしお前の父さん王宮に知り合いが多いんだな。広間から出て戻るまでにかなり色んな人に会って挨拶することになった」
ここでセシルは胸にずんと重い鉛が撃ち込まれた気がした。アルバートが積極的に手続きしたことは簡単に予想できたが、それを明言されたくはなかった。さすがに言い返す言葉がみつからなくて、降参した。両手を上げる代わりに俯いて、ため息をつく。
「……もう黙ってくれ。今日は疲れてるんだよ」
「セシル。俺は今さら『跡取りの予備』になんかならない」
アレックスは追い打ちをかけるのではなく、静かに断言した。彼はもしかすると挑発ではなく、最初からこれを言いたかったのかもしれない。長くて不快な導入で疲れ切ったセシルに、それに反論する力は残っていなかった。ただ、その言葉が先程の自分の啖呵に対する宣戦布告だと、その冷たい眼差しから感じ取っていた。
暫しの沈黙が落ちた。
キーラが黒い手袋の両手を掻い潜ってシュルシュルと赤いドレスから糸を引き出す音と、それを止めようとする手が空を切る気配だけがした。
静寂は、弟の方から破られた。
「他人の、あんたの機嫌を伺って生きる部屋住みにもならないし、外に出て金を稼いだり上下関係の凝り固まった軍に入ったりもしない。修道院になんか、絶対いかない」
「……そ」
スカーレットがキーラの目の前で鉄の塊を見せた。護身用の短銃だった。
「でも、オリエット伯爵位はそれが欲しいヤツのもとに来るんじゃなくて、それを受け取るべき人間のもとに来るんだよ」
父親の教えのひとつであり、セシルの強がりだった。
「あんま立派なこと言うと、あとで自分の存在意義について泣くことになるぜ」
「やかましい!!!」
「セシル! セシル! この女嫌い!」
こんがらがった赤い糸玉を抱えて妖精が珍しく自主的にセシルの膝に戻ってきた。スカーレットが短銃をクッションの下に戻す。
セシルとアレックスはようやく妖精と従妹の方に意識を向けて、そして、普段なら見えるはずのない、丸見えの足首に すっと青ざめた。
「オリエット次期伯爵とその予備さん、どっちがどっちだか知らないけど、赤いドレスの新調代はだれに請求したらいい?」
~~~~~~
「……キーラ、スカーレットに失礼なことしないで」
「ねえ、いいことあったでしょ?」
回想を終えると、手で金貨大の丸を作った妖精の頭を軽くはたいた。
その時、扉をノックする音と、エリックの声がした。
「セシル様、伯爵がお呼びです」
「……」
扉を開けた従者の言葉に、閉口した。もともと父と話すとろくなことを言われないのだが、例の手紙以来本当に嫌なことばかり降りかかってきていたからだ。
「セシル様、具合が優れないようなら、伯爵にそうお伝えいたしますが」
「いや、大丈夫だけど、どんな用かなぁ」
「……お疲れでしょう。伯爵には、おやすみになっているとお伝えします」
セシルはエリックに父の様子を尋ねたつもりだったが、うまく伝わらなかったのか、焦点のずれた答えが返ってきた。
「え、いいよ、行くよ」
「いえ、ご無理をなさることではないかと」
慌てて腰を浮かせたセシルに対して、エリックが珍しく有無を言わせないかのように言い張った。
いつもセシルの言うことに従順で堅実、キーラに足蹴にされながらも、少しでも妖精の気配を拾えないかと興味深そうに周囲に目を配る男だが、こんなに過保護ではなかったはずなのに、とセシルは少し違和感を覚えた。
そこまで避けるほどではないし、何よりあんな啖呵を切った翌日に父親と相対することから逃げるわけにもいかない。セシルが立ちふさがるエリックのわきをすり抜けようとしたとき、廊下から不機嫌な声が聞こえてきた。
「セシル、何をしている。アランをどれだけ待たせるんだ」
階下の応接間で待ちきれなかったのか、アルバートがいらだった様子でやってきた。
「叔父さんが来てたの? エリック、なんでそれも言ってくれないんだ」
叔父を待たせていたとは知らなかったセシルが今度は怒ったようにエリックに言ったが、言われた本人は気まずそうに口ごもった。
「ともかく、さっさと降りてこい」
セシルはようやくエリックを突破して廊下に出ることができた。部屋を出る際にセシルが背後を見れば、ついてきていたキーラがエリックの足を踏んだせいか、彼の顔は苦痛に歪んでいた。
***
「セシル、昨夜もうちのスカーレットをエスコートしてくれてどうもありがとう。アレックス、昨日は屋敷に来てくれたのに挨拶に出られなくてすまなかった。はじめまして」
丸顔で柔和な顔立ちのアランはビジネスの世界に生きながら、宮廷で生きるアルバートよりも鷹揚な人物だった。母親が違うだけでこうも人相に違いが出るのかと、セシルは父親とは異なる安心感でもって叔父を歓迎した。客人も目尻の皺を深くして笑い、二人の甥にそれぞれ声をかけた。
親しい客人を招くときに使われる応接室には紅茶と焼き菓子が乗せられるテーブルと、それを囲むようにクッション張りの椅子が用意されている。家主のアルバートの向かいに異母弟のアランが腰掛け、彼らの両脇に二人の若者が腰掛けた。
ふたり、である。さいきんようやく見慣れた、父より青みの強い灰色の目はじとりとセシルを睨むと、初対面の叔父にはうってかわって美しい笑みを向けた。
(……こいつもいたのかぁ……)
エリックはこれを気遣って仮病を提言してくれたのかもしれない、とセシルは思った。どちらにしろ、叔父の訪問も父の呼び出しも、アレックスが同席しているからと言って無視するわけにはいかないのだが。
「それにしても知らなかった、兄さんにこんな男前な息子がいたなんて。スカーレットも従兄が増えたと喜んでいたよ」
セシルの目が据わったのを見たのか、アランがさらに付け足した。「いつも『優しい従兄のおにいちゃん』といえばセシルだったから、負担が大きかったろう。これからはうちの娘のおしゃべりに交代で付き合ってくれるとありがたいよ」と。気遣いのできる優しい叔父に、セシルの心もひとまず平穏を取り戻す。
「アラン、うちの愚息どもがスカーレットのドレスをほつれさせた件なら、私からも謝罪する。近々いい仕立屋をそちらに向かわせよう」
アルバートの言う『愚息』はいつも謙遜ではなく本音のようにセシルに響く。ただ、この件についてセシルだけではなくアレックスも同罪扱いなのは小気味良かった。アレックスがわずかにひきつった笑顔のまま「……ははっ本当にすみません」とアランに謝罪したが、納得いっていなかったのかテーブルの下でセシルの足を踏んだ。
咄嗟にやり返そうとしたセシルの足は、アレックスの足元でちょろちょろ歩いていたキーラにあたったのか、テーブルの下から予想外の哀れな悲鳴が上がった。
「うそっ! ご、ごめんキーラ!!」
慌てたセシルとは裏腹に、アランが久方ぶりに会った姪に話しかけるかのように嬉しそうな声を出した。
「おお、この小妖精も相変わらずだね。ずっとセシルに懐いて、昨夜はとうとう舞踏会にまで連れて行ってもらったそうじゃないか」
机の下から這い出てきた泣き顔のキーラに、アランは客人用の焼き菓子を渡そうとした。しかし客をもてなす意識の欠けた妖精はぐずったまま受け取らず、そのままテーブルから離れていった。
顔を押さえてとぼとぼとカーテンのそばに歩いて行くと、そのままカーテンの裏へ回り、煙のように消える。閉まったままの窓、わずかに揺らめいたカーテンのひだには何もいない。妖精は、人間の目に映っていなければ、自由に妖精界とこちらを行き来できるのだ。
「しかし、娘のドレスがどうしたって? あの子も昔はじゃじゃ馬で仕方なかったが、セシルに王宮や高貴な方の邸宅に同伴していってもらうようになって、随分礼儀を覚えたと思っていたのに」
一同、妖精の動向を見守っていたのも束の間、アランが不思議そうに蒸し返す。
「っ、いえ、あの、スカーレットはいつも完璧な淑女だよ叔父さん。本当に頭もよくて、昨日も僕なんかよりよっぽどスマートに出席者のみんなと話してたし」
新品のドレスを『ずっとセシルに懐いて』いるキーラにぼろぼろにされた件をほじくり返されたくなくて、セシルはさっさと話を変えようとした。
「……ええ、本当に賢いお嬢さんです。宮廷作法も、貴族同士のつながりもよくわかってらっしゃった。本当に、このセシルより、よっぽど」
アレックスがにこやかに嫌な乗り方をしてきた。
「…………アラン、今日はどうしたんだ。アレックスのことか? 手紙で話したろう、落ち着き次第挨拶に行こうと思っていたのだが」
アルバートが後ろめたい息子二人を一にらみで黙らせて、アランに話を促した。
「ああ、そうそう兄さん、客先で変な話をきいたんだ」
(……あの件かな)
セシルは紅茶をひと口飲んだ。こんな話の確認のために、当事者たちをわざわざ呼び出したのかと気が滅入る。アルバートはともかく、セシルまで呼ぶ必要はないだろうに、叔父はこんなに無神経な人ではなかった筈だが、とセシルの気分も下がってきていた。
「ダンリールで悪魔が出た、という噂だ」
「……なんだと?」
「……は?」
「……ダンリール?」
聞き飽きた話が来ると思っていたアルバートとセシル、アレックスはそれぞれ戸惑いの声を上げた。
そのとき、風もないのにカーテンが揺らめいた。
「ダンリール? セシルのおじいちゃんがいたお城だよ!」
アレックスに教えてあげたのか、セシルが忘れてしまったと思っているのか、妖精はそう囁いた後、またカーテンの裏に消えた。




