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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第十三章 オリエット伯爵の跡取り息子たち

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 朝、家をこっそり出る前に少しだけ躊躇した。


(キーラ、どこに行ったんだろう)


 妖精は同性をあまり好かない。


 それ以上に、嘘を吐く人間を嫌う。


 金の髪の小さな妖精は、セシルの前でバーティミオン家の人間に懐くそぶりをしたことが一度もなかった。



 ***



 望まれていなくとも、このまま別れた方が楽だと分かっていても、セシルはスカーレットに会わずにいられなかった。

 当の相手は、先程までの殊勝な様子を微塵も感じさせない態度でセシルを見返していた。


「私があの人に薬を渡したことが、そんなにいけないことだったかしら」


 不自然なほどに落着き払ったその姿は、いつもの快活で華やかな彼女とは一線を画していた。

 それはけして、服の色のせいだけではない。


「大好きな王女様の足に傷一つ残さなかったんだから、感謝してほしいくらいなのに」


 感情を感じさせない気味の悪さが、セシルの気勢を飲み込もうとしていた。


「……それは、君が真実の露呈を防ぐためにやったわけじゃないって言える?」


 目の前の女を、セシルは知らない。

 知らないが、これが現実なのだ。


 覚悟はしていた。

 それまでの彼女からは想像もつかない行動に思い当たったときから、スカーレットにはセシルに見えていない部分、見せられていない部分があると。


 思い違いだったらという希望的観測は、ふ、と口角を上げ、目を細めた顔を前に完全に打ち砕かれた。


 嘲りを隠さないその顔は、スカーレットによく似た別人のようだった。


「どんな意図があれ、結果的には王国の魔法使いとしてあるべき行動だったと思わない? おめおめと大怪我負わせた伯爵家の息子より、ずっと」


 両者は互いにその場から動かず、じっと視線を交錯させていた。

 小首をかしげたスカーレットが、顎に指先を添わせる。


「そもそも、セシル従兄様は私に何を問いたいのかしら。“全部知ってた”? いやぁね。本当に何にも聞かされてなかったのに」

「叔父さんから聞かされていなくても、秘密にされていても、聡い君には筒抜けだったんだろ」


 セシルはいまだかつて、スカーレットにこんな緊張感で持って臨んだことはなかった。


 そもそも、それまでのセシルであれば、“きっと何かの間違いだ”とその可能性を否定していたはずだ。

 セシルは思った。きっと今日のスカーレットもそう思っていたに違いない、と。

 だからあんな小芝居で自分を追い払おうとしたのだと。


 ひとつ瞬きをした後、ブルネットの女はやれやれと言った風に息を吐いた。


「そうね。お父様が私のために文字通り我が身を投げうってくれた計画だもの。エリックにこそこそ話しかけているのも、王女様とのやりとりのことも、私はちゃんとわかっていたわよ」


 一瞬、その瞳に懐かしむような、穏やかな色がにじんだように、セシルには見えた。


「考えなしの若いころの失態を挽回しようとしたんでしょう、結構思い切って頑張ってくれた方よね。……少し、ずさんな計画だったけど」


 続けられた言葉は、おおよそ親子愛などと呼べるものではなかった。


「……スカーレット」

「ね、なんで私がダンリールまでわざわざ追いかけたと思う? あなたたちを助けてあげたと思う?」

「……」


 セシルは目を伏せた。

 スカーレットを信じ続けるなら、これが最大の盾だった。


 けれど、これは。


「そうすれば、伯爵家がバーティミオン家を疑わない。……ダンリールでの計画が上手く進んでいれば、予想外の悲劇に直面したように落胆して見せればいい。上手くいっていない時は、疑いが叔父さんに向かないように誘導すればいい」

「夜盗の件は私もほんとに驚いちゃった。お父様ったら安直すぎるんだもの」


 セシルの言葉を否定しないまま、スカーレットは呆れたように笑った。

 セシルは、見る者の心を軽くしない笑顔を初めて見た。


「そういえばお父様、どうしちゃったのかしらね。今さら逃げても無駄だから、やっぱりあなたかアレックスあたりに殺されちゃったのかしら」

「……心配してないの」

「心配よ。余計なこと言わないか、しないか。これ以上私を貶めるようなことしでかしたら、いくらお母様を排除してくれたとはいえ、ちょっと嫌いになりそう」


 その言葉に、セシルはまた一つ、喜べない確信を得た。


『なんだ。ここに来たからてっきり、奥さんとおんなじ目に遭うのかと思ってた』


 離れでアランに殺されたと思しき夫人の死の真相は、スカーレットも知っていたのだと。

 それを、父親の功績の一つくらいに思っていたのだと。


「あなたは、きっと一年かそこら経った頃に、私のことを迎えに来ると思ってた。だから最後まで“大事なスカーレット”として立ち去ろうと思ってたのに」


 そう、セシルもそうしたかった。父親の罪を、娘が償うなんてあんまりだと、どうにかして権力者に、父に、泣きついたかもしれない。


 そうしたかった。


「結構ギリギリまで“いい従妹”でいられたと思うのに、なんでここに来て見抜かれちゃったのかしら。あの引きこもりの王女様がしゃべったとは思えないし、やっぱりアレックスの入れ知恵でもあった?」


 揶揄するような言葉尻には乗らず、セシルは緩くかぶりを振った。


 アレックスはアランに眠らされたスカーレットを疑っていなかった。

 今は、それもわざとだったのだろうとセシルには予想が付く。


「叔父さんも言ってたよ。君は、誰よりも賢いって。僕より、アレックスより、叔父さん自身より」


 そんな君が、本当に何も知らなかったわけないだろう、とセシルは苦々しく吐露した。


 スカーレットはそれをきいて「そう」と何の感慨もなさそうに相槌を打った。


「期待されすぎるのも考えものね。結局、平時はセシルのいい支援役をやらされて、いざってときはろくな根拠もないのに“スカーレットなら”で正解を辿られちゃうんだから」


 そう言ったとき、感情の映らなかった琥珀色の目に、じわ、と火種が灯された。


「そう、私なしで今日まであなたが一人で何をできたって言うの」


 一歩、スカーレットがセシルに近づいた。

 セシルはその場から動かなかった。


「私の方がずっと賢くて、社交もできていた。魔法の残滓の使い方だって心得てた。上流階級の人間としても、魔法使いの末裔としても。天性なんてものじゃない、ちゃんと学んできたからよ。私の方が表舞台に立つのにふさわしいって言うのは、お父様の妄言なんかじゃなかった。結婚の見込みなんてない女にうつつを抜かして、ぽっと出の余所者に足を掬われてる、生まれながらの跡取り息子なんかより、ずっと、ずっとよ」


 なのに、と言ったスカーレットの細い眉が寄せられる。


「舞踏会に行くのにも、王家の人間と話すのにも、優先されるのは“父親が伯爵”のセシルの方。そのうえいつどこで生まれたかもわからないようなアレックスにまで追い抜かれるなんて、冗談じゃないわよ、だって絶対私の方が、私が一番うまくやれるのに!」


 だんだんと言葉に力がこもっていくのと呼応するように、金の混じった茶色の瞳が、見たこともない炎で燃えていた。

 憎悪か、嫉妬か、彼女を囲む、ままならないすべてに対する苛立ちか。


「セシル・ロッドフォードなんて、父親がたまたま長男だっただけで、それ以外に跡継ぎになるべき特別な素養が、お父様になかったものがあったわけでもない! なのになんで、あなただけいつも、いっつも、地位も名誉も財産も母親も、何もしてないのに、なんでいっつもあなただけ贔屓されるのずるいじゃない、おかしいじゃない!」


 何も言わずに、セシルはすべてを最後まで聞いた。


 さらけ出された悪意が言葉となって降り注ぐのを、避けることなく、余すことなく受け止めようとするかのように。


「……抱えていたことは、それで全部?」


 浴びた自分を憐れむ気持ちは、なかった。

 これを引きずり出したのは、他でもない自分自身なのだから、当然と言えば当然だった。


「そこまで思ってたのに、君は結局、自分では何もしなかったんじゃないか」


 興奮冷めやらない様子で胸を上下させていたスカーレットが、睨みつけるようにセシルを見据えた。


「……偉そうに、何を」

「君、言ってたよね。本気なら、利用できるものはなんでも利用しなくちゃって」


 王都からもオリエット領からも離れた、知らない町の、知らない宿屋での、たわいもない話だった。


 今、目の前で顔を歪ませている彼女は、あの時一体どんな気持ちでセシルにその言葉を言ったのだろうか。

 同じ部屋で寝ると言ったのは、胸の内にたぎる憎悪に任せて寝首をかくためだったのか。


 訪れなかった一夜に対して、結局彼女が自分たちを何も脅かさなかった旅について、そんな空想が頭をよぎった。


「それは、父親が必死になって君のための爵位を奪ってくれるのを、知らない顔して待つことだったの」


 相手が何も返さないので、セシルはそのまま言葉を続けた。

 相手の考えていることは、もうまるで分らない。

 それでも、自分の言葉は伝えておきたかった。


 自己満足なのは、今さらだった。


「直接僕に対抗しないで、父さんにも言わないで、ただ都合の良い展開がやってくるのを、その手を汚さないようにして待ってたことが、どれだけ偉いのか、僕にはわからないけど」


 アレックスを、針の筵の上にいると言った。

 あれは、自分一人で動かなければいけない彼を心の内で嗤っていたのか。


 ――本当は、それができる彼を、羨んでいたのではないか。


「……まるで一人前みたいな、随分な物言いじゃない。結局お父様の計画が破綻して、私の負けが明らかになって、それで上から物を言うんだからいいご身分よね」

「そうだよ。そのいいご身分も、これからはアレックスと正々堂々取り合うわけだよ。……君の、手の届かないところで」


 スカーレットの目が見開かれる。

 聡い彼女の胸のどこに、自分の少ない言葉がどう刺さったか、分からないながらにも想像しながら、セシルは口を動かすのをやめなかった。


“自分の身の振り方は、ちゃんと自分で考えなきゃダメよ”


 ――あの時、いつもとは違う舞踏会で、いつも通りの笑みを浮かべて、君自身がそう言ったのに。


「もしも、君自身が動いていたら、父さんは何か考えなおしたかもしれないのに。父さんと叔父さんの母親が同じだってことを知っている人たちの何人かは、君の味方になったかもしれないのに」


 かもしれない、だなんて、卑怯な物言いだと自分でもわかっていた。

 もしかしたら、アレックス以上に茨の道を歩む可能性すらあったことを、万事揃った場所で生まれ育ったセシルが言うのは、あまりにも残酷ではないかと。


 それでも、セシルは引き下がれない。


「君自身が僕たちを本気で殺しにきたら、今ここに僕はいなかったのかもしれないのに」


 セシルの中にいたスカーレットは、作り物だったとしても、いつも凛として、堂々としていた。

 それに引き換え、この現実はどうだ。

 裏切られたと、勝手に悲しむ自分がいた。


「でも、君はそのどれも選ばなかった。よりによって一番消極的な、誰かが勝たせてくれる方法に自分の運命をゆだねて、その結果がこれだろ」


 こんな終わり方を良しとする人ではないと思っていたのに。


 物心ついたときから当たり前のようにそばにいた従妹に、セシルは夢を見ていたのかもしれない。

 アレックスが現れて、未来に不安を感じたときも。

 エリックの内心の暴露に、どうしようもない孤独を感じたときも。

 ローズへの思いが血と謀略に塗りつぶされ、自分の地位に価値を見出せなくなったときも。


 ある意味で、彼女の父親以上に、彼女に支えられていた。


「自分で勝ちにいかなかったんなら、負け方だって選べないでしょ」


 彼女は、このまま王都から遠く離れた修道院へ行く。

 アラン・バーティミオンからの接触を警戒して、その身辺には監視が付くことは予想できた。


 スカーレットが表舞台に戻ってくる可能性は、もうほとんどなかった。


 突如、ぱん、と頬を打つ、乾いた音が響いた。


 振り上げられた女の手に打たれるがままだったセシルに、「そうよ」と、それまでとはうってかわって静かな言葉が返された。


「何にもしなかった、そう、あなたの言う通りよ」


 誰かに言い聞かせるような響きだった。


「エリックに見せた温情を私に示さないのは、あなたにしては賢い選択よ。ライバルは、二人いるよりは一人の方がいいものね」


 そう言うと、スカーレットは体の向きを馬車の方に向けた。


「どちらにしろ、あなただってこれ以上のことは私にできないんでしょ。通りすがりの怪我人に、家でとれた薬草で作った薬をあげたことを罪に問うなんて」


 鼻でわらうようなその物言いに、赤く染まった左頬もそのままで、セシルは目を眇めた。


「……誤解しないで」


 そのときはじめて、セシルの声に静かな怒りが芽生えた。


「君を訴えないのは、結果的に君が罪のない役人を救って、僕たちのことも、ローズ様のことも助けてくれたからだよ」


 その目的がどうあれ、それらはセシルにできなかったことであり、本当に彼女に感謝するべきことだった。


「だから、君が王宮にユニコーンを放ったことは、誰にも言ってない」


 歩き出していたスカーレットの、足が止まった。


「未婚の女性にしか手懐けられないあの妖精で、僕たちか、ローズ様か、その全員を殺す気でいたんだとしても」


 誰もが、アレックスですら、それはアランのしたことのひとつだと思っていた。


 けれど、誰を狙うかわからないユニコーンより、王宮から出てきたセシルを確実に襲うケルピーを放っておけば、目的は大いに達成されたはずなのだ。その行動の矛盾は、どちらかが叔父の想定外の出来事だったことを表していた。


 セシルは、自分がスカーレットを責めることに後ろめたさを感じないわけではなかった。

 それでも、たった一つ、彼女の取ったこの行動だけは、許せなかった。


「黙ってるから、もう二度と僕の前に現れないで」


 誰を襲うか分からなくても、絶対に自分だけは無傷でいられる方法を選んだ卑怯さが、許せなかった。


 振り向かないままのスカーレットが、小さく笑った気配があった。

 それが嘲りだったのか、苦笑だったのかは、セシルの方からはわからなかった。


「誰もかれも、貴族の義務なんてろくに果たしてないんだから、困っちゃうわよね」


 小さなつぶやきは、ユニコーンがローズにも怪我を負わせなかったことを指していた。


「……もう、行くわ。これ以上言いたいことも、聞きたいことも特にないし」


 馬車に向かって再び遠ざかり始めたブルネットの髪を、セシルも今度は呼び止めなかった。


 だから、振り返ったのは彼女の自発的な行動だった。


「遠いところから祈ってるわ。あなたと、あなたの大事な人たちに、なるべく良くないことがいっぱい、いっぱい起きますようにって」


 御者が待つ馬車に乗り込むその細い背中に、セシルは何も返さなかった。

 達者でいろとは言いたくなかった。


 相手から投げられたのと同じ言葉は、嘘になるから言えなかった。



 ***



 遠ざかる轍の音が完全に聞こえなくなるまで、セシルはそこに立ち尽くしていた。


 街を囲む外壁の影は徐々に短くなっていくところで、もうしばらくすれば、今セシルが立つ場所にも目映いばかりの午前の光が降り注ぐはずだった。


 セシルは黙って、打たれた頬をそっと押さえた。

 


 ――冷たい言葉を聞けて良かった。


 きっとそれが本音だろうと思えるから、関係を修復する余地を未来に残さずにすんだ。


 セシルも家人に気がつかれる前に帰るために、一歩踏み出した。

 陰から半身がはみ出せば、朝だというのに、光は身を焦がすような痛みを伴っている気がした。


 ただ、降り注いだその痛みは、一瞬だった。


「……あ」


 視界が後ろから現れた淡い影の中に落ち着いたのを感じた。と同時に、外壁の陰から離れたばかりの自分が再び何かの陰に入ったことを知った。

 小さく、わずかに光を通すそれが、レースの日傘の内側だとわかるのに時間はかからなかった。


「……いい朝ね」


 いつからそばにいたのか。謹慎中に公爵邸を抜け出して大丈夫なのか。


 脳裏によぎった言葉は、喉につかえて出てこなかった。

 セシルの頭上に日傘を掲げた女も、その沈黙に対し何も言わなかった。



 いい朝。

 確かにそうだった。

 濃い影に、それまで見えていなかった裏側に浸かっていたセシルには、眩しすぎるくらいに。




 何も言わないまま、セシルは傘を持つのを代わった。


 女に寄せた緻密なレースの傘の内側から、白々しいほどに明るい空を仰いだ。

 隣の女はセシルを急かすことも、言葉を重ねることもしないでいてくれたので、セシルはしばらくその厚意に甘えた。




 明るさが目に沁みた。

 仰いだだけでは耐えきれなくて、一度、きつく瞼を閉じた。





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