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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第二章 めくるめくめまぐるしい夜

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妖精たちとの約束ごと

 セシルはキーラとの取引をあまり成功させたことがない。

 でもここで失敗したり、断ったりしたら、もうこんなチャンスは二度と来ないだろうことはわかっていた。


 セシルはレナードに耳打ちした。恐れ多いことだと思ったが、妖精に聞かれたくなかった。

 レナードはいぶかしげな顔をしながら自ら部屋をでていった。使用人を呼ぶ声がする。


 ほどなくしてレナードが戻り、セシルに布包みと複数枚のハンカチを渡した。セシルは包みの中身を確認して、クリステに触らないよう寝台に腰かける。包みを自分の脇、妖精から遠ざけるように置くと、再度話しかけた。


「ねぇ傘のじいさん、僕の持つものとお妃様を交換してくれないかな?」


 妖精がセシルに目を向けてきた。

 興味を示してきたのだ。


「死んだ後でいいか?」

「…………生きてる状態で、今すぐだよ」


 固い顔で黙っているレナードに妖精の声が聞こえていなくて良かったと、セシルは思った。

 妖精がカカッと笑った。


「言ったろう。りっぱな(きん)を貰ったんだ。貰ったぶんは役目を果たさにゃならん」


 セシルは内ポケットを探った。

 妖精の前に示したのは、今日、ここに来る前にキーラに貰った妖精のコインだった。


「僕もきみに、この金と同じ価値のものをあげられる」


 妖精は笑ったまま、ちらりとセシルの手をみて、首を横にふった。


「あの母親の方が、もっと大きくて立派な金をくれたよ」

「大きくて立派な? なるほど、確かにこのコインは腕輪に比べたら小さいか」


 でも、とセシルは勿体ぶる。

 妖精の気を引かなくてはいけない。


「僕は、こんな欠片じゃなくて、もっとたくさん、きみに『この金と同等のもの』をあげられるよ?」


 妖精が部屋を見渡す。


「この部屋の金は、臭くてごめんだよ」


 妖精除けのことだろうか。彼らに勝手に持っていかれないように細工されているのだろう。

 セシルは元より、この部屋の、王家の金を渡すつもりはなかった。


(味をしめたら何度も吹っ掛けてくる)


 キーラが、『泣けばくれる』と学習しているように。


(取引を成立させて、なおかつこの一回限りで懲りさせる)

「違うよ。この部屋の金は僕のものじゃない。僕は僕の持ち物と交換しないかって言ってるの」


 妖精が傘を回しながら煩わしそうに返す。


「あんたのコインと金ボタンだけじゃ、とうてい足りないね。今すぐこの女がほしいなら、こちらも今すぐ、これ以上の金を出してもらわないと」


 なんなら金ボタンだって渡すつもりはなかったのだが。

 セシルは妖精がベストの内側から出してきた腕輪を見る。細かな細工が施された、確かに大きさもあって立派なものだ。これを迷惑料としてぽんと渡せるレナードも、さすが王家の金銭感覚だな、と箱入りのセシルも思ったほどだった。


「これよりは小さいけど、でも、量はもっとあるよ」

「ふぅん。どこにあるのかね、一体」


セシルは布包みの中身を、見られないようにいくつかハンカチの一枚に包んだ。


「ほら」


 妖精がそっぽを向く。


「なぜ? じいさんは腕輪とこの中身を丸々貰える。その女性を僕たちに引き渡すだけでいいし、彼女はもう赤ん坊の部屋には行かないよ。じいさんは別に何の損もしない」


 妖精との取引に嘘は厳禁だった。

 彼らは人間の嘘を簡単に見抜いて、取引に応じないならまだましな方。性質の悪いのは取引成立と見せかけたところでその嘘を暴き、報復してくる。

 だからクリステには今後絶対に件の子どもに会わないようにしてもらう必要がある。レナードもこんなことがあればかなり奥方の動向と元恋人の距離感に注意するだろうから、そこは心配していない。


「しかし、殺してくれと言われている」

「たったそれだけの金で? じいさん、ずいぶん気前がいいね」

「……」

「その人には毎日生きるための栄養が補給されてる。まだまだ、死ぬには時間がかかるけど、ずっとそばにいてやるんだ? お前の傘で夢を見るはずだった子どもがかわいそうだね」


 セシルはさも残念そうに重ねた。

 妖精がこちらを見ている。


「でも、嫌だというなら仕方ないか」


 セシルがハンカチの包みを引っ込めようとした時、初めて妖精の方から声をかけてきた。


「後ろに、まだたくさん持っているな?」


(……そらきた。吹っ掛けてきたぞ)


「……これは駄目だ。僕のものだ、お前にあげるのはこっち」

「それだけじゃ足りない。赤ん坊の母親がくれた金にはこんなに緻密な模様がある。さっきのコインには全然模様なんてなかっただろう」

「僕は量のことしかいってない。模様なんて」

「だから、美しさで劣るんだから量を増やせと言っている」

「……これでどう?」


 もう一包み、ハンカチでくるむ。


「足りないな」

「お前、まさかこれ全部持っていくつもりか?」


 子どもに優しく大人に厳しい妖精が、しわだらけの顔を歪ませて笑った。


「そうだな、それくらいでちょうどいいな」

「……じゃあ、それでその人はこちらに渡すんだな?」


 セシルの緑の目はひたと妖精を見つめた。


「そうだな……いや待て、中を見せてみろ」

「まさか嘘をついていると? これと同等の価値だ。本当だよ」


 不機嫌な顔をつくって、セシルがもう一度コインを見せる。

 扉の外でのレナードのやり方を思い出す。相手が渋ってきたら、一気に引く。


「……布を」


「こっちは量も増やしたのにその上布もとれだと! この取引はなし! お前はその腕輪一つでそこにずっと立っていろ!」


 すべての包みを自分の手元に引き戻した。

 包みが崩れて中が見えないよう手先に力を込めていた。


「ま、待て! わかった、交換してやる」


 慌てた妖精が傘を畳んだ。クリステに見せられていた永遠の夢が消えた。


「……取引成立だ。じいさん、持っていきなよ」

「本当に、それと同じ金だな?」

「僕が嘘ついてないってこと、わかるだろう? 今庭園にいる金の頭の、ロッドフォード家に住むピクシーお気に入りの金と、同等のものだ」


 セシルはにっこり笑って、布包みと二つのハンカチ包みを差し出した。

 受け取った妖精が中身に気がついてセシルを睨んだ。でもセシルは、内心ヒヤリとしながらも、嘘はひとつもついていない、と笑ったままでいた。窓から出ていく妖精はきっと金の頭のピクシーを探して確かめるのだ。気が済むまでやればいい。妖精同士の取引は、それはもうセシルの考慮する範疇ではない。


(…………やった? 成功した?)


 傘を掲げて夢を見せる妖精は部屋から消えた。でも目的はそれだけではない。


「……クリステ?」


 ずっと黙ってセシルの奇妙な一人会話を見学していたレナードが妻の異変に気がついた。

 王太子妃の睫毛がかすかに震え、そのまぶたがゆっくりともち上がった。


「…………殿下? わたくし、夢を……?」


 取引は成立していた。セシルは長く息を吐いた。安堵のため息だった。

 レナードに気遣われながら微かな声で返事をするクリステは、まさか自分の命が宴会場のプレーンクッキーの山と交換されただなんて、夢にも思わないに違いない。


 肩の荷が下りたセシルは、外の空気を吸いたくなって、夫婦に背を向けて窓辺によった。本来なら王太子妃に挨拶をしないといけないが、今行くのはあまりにも迷惑だろうと思った。彼の無礼を咎めるような人間もいない。窓を少し開ければ、眼下に見事な庭園迷路が広がっていた。

 セシルは胸の内ポケットに金のコインを再びしまった。さっきまでの不安と、当事者たちへの苛立ちが嘘のように、清々しさで我知らず顔がほころんでいた。


(僕、やればできるじゃん)


 そんな充実感が疲れと共に押し寄せて、――そして同時に吹き飛んだ。


「セシル、よくやってくれた! 礼は必ず――」

「殿下、誠に勝手ながら、いったんこれにて失礼いたします!!」


 レナードの言葉を遮る形ばかりの謝罪でもって、セシルは夫妻の寝室を飛び出した。

 置いてけぼりを食らったレナードは暫し呆然とした。いまだ起き上がれないクリステがかすれた声で「今のは、どなた?」と聞いたので我に返ると、ひとまずレナードは侍女を呼び、水と重湯を用意し、医師を呼ぶよう伝えた。


「……クリステ、少し休んだら、きいてほしい話があるんだ」


 レナードは、激情家の妻に体力が戻る前に、元恋人に関する顛末を説明してしまうことにした。


 ***


 いくつ目かのバラの生け垣の角を折れたところで、目的の人物を見つけ、その背中に向かって声を上げた。


「アレックス!」

「っ……あんたか。なんだよ」


 不機嫌そうに振り返ったアレックスにそう言われて、本日二度目の息切れをしているセシルはぜえはあと肩で息をする他、言うべき言葉がみつからない。彼の両手は空いていて、黒い筒ごと提出済みだと見て取れたが、今のセシルはそれについて混乱していたわけではなかった。


(なんで、なんで、いやわかってた、覚悟してたけど、でも)


 胸の内ではぐるぐると嫉妬が渦を巻く。しかし結局それは声にならず、セシルはアレックスを無言で睨みつけた後、おそるおそる、その奥にいた人物に目を向けた。


 月の光でうっすら輝く金の髪、闖入者を見つめる紫の瞳、表情は、扇で隠したまま。


「……フ、フレイン公爵夫人」


 セシルは震えそうになる声でローズ・エスカティードに声をかけた。

 呼ばれた女の方はゆっくり扇を閉じると、その先をアレックスの方にすいっと向けた。


「……アレックス、教えたでしょう。礼儀作法にのっとって、ちゃんと紹介しなさい」


 セシルとは対照的に落ち着いた声だった。言われたアレックスがしぶしぶ体の向きを変えて、二人が向かい合うようにする。


「……こちら、フレイン公爵夫人、ローズ・エスカティード……様。こちらが、セシル・ロッドフォード」

「はじめまして。そう、あなた、アレックスの兄だったのね」

「えっ?」

「いえ、なんでもないわ」


 ローズは淑女の礼をしたが、セシルにその白い手袋で覆われた右手を差し出そうとはしなかった。指先をとって口づける挨拶は(主に妖精たちがはやし立てるから)苦手なセシルだったが、ローズがそれをセシルに許さないことに思いのほか傷ついていた。


(それに、あ、アレックスって、そんな親しげに……)


 ローズとアレックスがこの人気のない庭園で会う仲だという現実に重ねて打ちのめされたセシルは、自分が乱入した後のことを全く考えていなかった。彼は完全にリラックスした状態で窓から二人を見つけて、反射的に走り出してきてしまったのだ。


「……あの、ここは王太子殿下の寝室から見えますので、人目を避けるならもう少し生け垣に寄らないと……」



 緊張と嫉妬と、思い人と話しているという喜びでパニックを起こしていたセシルは、自分でも何言ってんだと思うようなアドバイスをした。


(いや不倫を手伝ってどうする!!)


 セシルの視界のすみでアレックスがにやにや笑うのがわかった。整えられたその前髪を引っ張ってやって「笑うな!」と言いたかったが、ローズが「あらそう。ありがとう、次は気を付けるわね」と淡々と返すので、セシルは誤魔化して場を流したいときにするように、目を細めて無理やり笑った。彼らに次があるということが辛かった。


「じゃあアレックス、私のほうはもう今日は用はないから」

「っ!! あ、あの、フレイン公爵夫人!」


 アレックスの前を通り、セシルの横をすり抜けて帰ろうとしたローズを咄嗟に呼び止めた。至近距離で大きな声を出してしまったとセシルが慌てたが、ローズはそれには特に嫌そうな顔をせず、「なに?」と問うてきた。


「……アレックスとは、いつ知り合いに?」


 何か言わなくては、と焦った結果、出てきたのは二人の関係を詮索するような質問になった。

 しかし、実際にアレックスがオリエット伯爵のもとに来てからまだ二月もたっていなかった。伯爵の次男の存在とその外見は噂としてかなり速く広まっただろうとはいえ、二人が慣れた仲でいることは、いささか不自然に思えた。

 多少、その疑問には嫉妬を含んだ恨みがましさも含まれていた。


「……どうせ世間に公表なんてしないのに、教えなきゃダメなのかしら」


 答えたローズの声は、驚くほど冷たかった。セシルはその冷たさが薄く鋭い氷の刃となって、自分の胸にひやりと静かに刺しこまれたのを感じた。


「弟が表に紹介できない女とこんなところでコソコソ会ってて、さぞ不愉快なんでしょうけど、ずっと彼をほったらかしにしておいて、今さら身内ぶって当事者たちにお説教?」


 セシルが固まって何も言えない中で、にこりともしないでローズが閉じた扇の先を向けた。緻密な模様が美しい扇の先端は、セシルのあごの下に差し込まれる。


「はじめて会ったのはずっと前。あなたが自分に弟がいると知るより、ずっと、ね。これで満足した? ――私たちのことをとやかく言う前に、自分の父親に言うべきことがあるんじゃないの」


 扇が手首のスナップで跳ねて、セシルのあごが弾かれる。大きな力はかかっていなかった筈なのに、セシルはそれで自分の舌を噛みそうになった。

 紫の瞳はセシルの緑の瞳を一瞬ぎらりと睨んだが、瞬きと同時にすぐに逸らされた。もうこれ以上なにも言う気はない、そんな拒絶が現れていた。


 セシルは怒るべきだった。夫のいない場所で、人目を避けて若い男に会っているのは、批判されても文句は言えないことだった。だがローズはまるでそれを問いただす方が悪いと言わんばかりの態度をとって、意図的にアレックスを捨ておいたわけではないセシルやアルバートを侮辱してきたのだ。


 しかし、セシルの口からは何の反論も出てこなかった。


「……言いすぎだ」


 それまで黙ってきいていたアレックスが、ばつが悪そうにつぶやいたが、それでもセシルは黙ったままで、みじろぎ一つしなかった。不審に思って灰色の目がセシルの顔を見下ろした。


 セシルは真っ白だった。

 屈辱に震えるわけでも、焦って取り繕うわけでもなく、ただ茫然自失として目の前の女性の顔を見つめていた。アレックスはすぐに視線を元の高さに戻した。目を泳がせる彼の口からは揶揄いも嘲りも出てこなかった。

 険しい顔で明後日の方を見るローズも、呆けて彼女の横顔を見つめ続けるセシルも、どんな顔をしたらいいのかわからないといった体のアレックスも、誰も何も発しない時間がしばし過ぎていった。


「…………じゃあ、これで本当にもう用はないわ。また、そのうち、どこかで」


 沈黙を固い声で破ったのはローズだった。セシルの横を通り過ぎて、迷路の出入り口に向かおうとした。


「公爵夫人」


 独り言かと思うような微かなセシルの声に、ローズの足が止まった。


「夫のいる身で、我が家の一員をたぶらかしたことを、僕は責める気はありません」


 気まずそうに口もとを押さえていたアレックスが、おや、と眉をあげてセシルの方を見やった。

 ローズは声の方に振り向かず「……べつに、何と言われても構いやしないけど」と、先程よりずいぶん小さな声で返した。


「構うのです。ほかの誰でもなく、兄である僕が構うのです。彼は我が家の大事な“アルバートの息子”であり、僕も父も、こんな話はなるべく広めたくないのです」


「……セシル、あんた一体何を言って」


「ローズ様」


 突然、ファーストネームという予想外の呼びかけを受けて、女の肩がびくりと揺れた。遮られたアレックスも目をまん丸くさせた。



「僕はあなたが好きでした」



 唐突な告白に、アレックスが「はぁ?」と呆けた声をだした。

 ローズは扇を開いて口元を隠し、わずかに振り返ろうとした。


「あなたの夫が死んだとき、僕があなたを迎えに行けたらと、そんな夢想で幸せになれるくらいに」


 とんでもないことを暴露していたが、その場の誰かがそれに頓着する間もなく、セシルの口調にはだんだん力がこもっていった。


「アレックスが現れたとき、僕が困ったのは、僕が爵位と領地を失ったら、あなたに話しかけることもできないと思ったからです」


 けど、と。握りしめた拳を震わせて、セシルはつづけた。


「……今は、あなたをアレックスにでも、既婚の次期フレイン公爵にでもくれてやっていいような気がしています」


 それまで固まったままで、ローズの方も見れていなかったセシルが、緑の目をぎっと険しく吊り上げてローズを睨みつけていた。


「だけど絶対、ぜったいに!! アレックスが父の跡を継ぐことはないんで、させないんで!!! それだけは、忘れず覚えておいてくださいね!!!!」




 沈黙が落ちた。


 しばらく三者三様の顔で黙りこんでいたが、セシルを見返すローズが扇の下で何か言おうとしたのか、頬の筋肉が微かに動く。



 しかし、一瞬後に後ろから思い切り蹴飛ばされてつんのめったセシルが、盛大にローズを押し倒してしまったため、その言葉を聞くことは誰にもできなかった。


「フレイン公爵夫人、見つけたーーーっっっ!!!!!」


 セシルの声をききつけて、迷路を突っ切って飛び出してきたキーラは、セシルに言われた通り、セシルだけに近づいて恋敵を昏倒させることに成功したのだった。


 ***


 アレックスは、「あんたら二人から目が離せなくて、チビが走ってきたのに気が付かなかった」と珍しく気まずそうに弁明していたが、セシルは一瞬だけその頬を思いっきりつねることに成功した。

 それでもローズに手のひらで叩かれた自分に比べたら、彼の痛みなんて屁でもないだろうと思いながら。


(………間近で見ても、やっぱりきれいな人だった)


 冷たい蔑みで恋は無惨に切り捨てられた。自分の心を守るための嘘と虚勢はいつか真実と本音になると信じ、セシルは早足でその場をはなれた。王太子ともう一度会うために、誰に声を掛けたらいいかと考えながら。


 ***


 結局のところ、男が本気出すのは自分の立場が危うくなった時でも、身内が貶められた時でもなく、好きな人が声をかけてきてくれた時であった。



 たとえ、同時に深い傷を負ったのだとしても。

読んでくださってありがとうございます。

字数の多い話ですが、ゆっくりどうぞです。


感想など、頂けるととっても励みになります。

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