妖精すみつく伯爵邸
この恋のためならなんにもいらない、地位も名誉も財産も。
そう訴える愚かな赤毛の若者に、美しい黄金の髪の乙女が笑う。
「でも私、地位も名誉も財産もほしいのだけど」
「……ローズ様はそんなこと言わない」
小さな手のひらにぺちぺちと頬を叩かれながら緑の目を開けたセシル・ロッドフォードは、その日少々寝覚めが悪かった。
***
西は海、東は山脈に囲まれたブランデン王国。
その建国時から連綿と続いてきたオリエット伯爵領の広大な邸宅では、庭の花を散らす風が去り、窓からの日差しが徐々に強まり始めていた。
春から夏に移るさなか、その日も、いつもと全く変わらない朝から始まった。
香ばしい香りの立ちこめる厨房で、パンが焼き上がると同時に、サラダやオムレツの乗った皿、湯気のたち上るスープボウルが次々と銀のトレーの上に載せられる。隣のトレーには熱い紅茶の入ったポットとカップが用意され、被せられたティーコゼーにはユニコーンと乙女の柄が刺繍されていた。
慌ただしくそれらを持っていこうとした若いメイド2人を、料理人が制する。
「これを忘れるなとエリックが言ってたろう」
その言葉と共に、ほんのりきつね色のクッキーが盛られた皿と温かなミルクのカップも添えられて、ようやくメイドたちはトレーを二階へ運ぶことが許された。階上でワゴンに乗せられたそれらをメイドから引き継いだのは、鳶色のベストを身にまとい、栗色の髪を短く刈り込んだ、若い男である。
「あら、エリック、また散歩をしてきたのね」
男からかすかに漂う朝の冷たい外気に、メイドは笑う。エリックと呼ばれた男も、何も言わずに笑みだけ返して、足早にワゴンを押して立ち去った。
忙しない人間たちの足元で、小さな住人たちが興味深そうに見つめているが、それに気がつくものはそこにいない。
***
広い寝室の扉がノックされた。セシルはしつこく頬に伸びてくる小さな手を払いのけて「どうぞぉ」と入室の許可を与えた。
癖のある赤毛を手で鋤いて、くぁ、と大きくあくびをする。当主夫妻が留守にするこの屋敷で最も身分が高いのは若君であるセシルだったが、すましていても年より幼く見えがちな顔立ちは、朝の寝ぼけ眼で一層18歳に見えなくなっていた。
「おはようございます、セシル様」
顔を見せたのは、ロッドフォード家の一人息子に仕える従者であった。高い位置にある青い目は部屋の床をざっと見渡した後、寝台の主人に向かって礼儀正しく一礼する。そこから一度部屋を出て、メイドから引き継いだワゴンを押しながら再び入室してきた頃に、緑の目をしばたたかせたセシルも観念し、もぞもぞと上体を起こしはじめた。
「……おはようエリック、自分で勝手にやるから置いといて……あっこらっ」
寝巻のまま起き上がってきたセシルに、突然自分の足元に向かって叱咤されたエリックはその場で動きを止めたが、その顔はとくに驚くことも恐縮することもない。その叱責が自分に向けられていないことは、主の顔を見つめる自分と覚醒した主の目がかち合わないことで明らかだったからだ。
「……もしかしてまた、見えないお嬢様のご機嫌を損ねてしまいましたか?」
ワゴンから手を離したエリックは困ったように部屋の床を見渡した。いつもどおり、彼の目には高級な絨毯と上等な古い家具以外何も映らなかった。
対してセシルは、焦点の合わない目でぼんやり従者を見つめていたところから一転して顔を険しくし、その目で床を睨み付けていた。
緑の視線は最初従者の足元に向けられていたが、何かを追いかけるように素早く移動していって、彼自身がさっきまで寝ていた寝台の足元で止まった。
まるで悪戯しようとした猫や犬が寝台下に逃げ込んだのを見つけた飼い主のような様子である。
「……気にしないで。チビ妖精め、使用人にケンカ売るなと何度言っても聞かないんだから」
そういうと、セシルは実感が湧いていないながらに「さようでございますか」とかしこまったエリックを今度こそ部屋から下がらせた。ついで、朝食のワゴンに乗っていたクッキーの皿から一つ手に取る。
「……キーラ」
絨毯に膝をつき、寝台の下の暗い空間をのぞき込みながら寝具を捲り、「小さなお嬢様」に呼び掛ける。
「拗ねるな、出てこい。僕何度も言っただろ、エリックにいたずらするなって。毎朝お前がクッキーとミルクを貰えるのは、あいつが手配してきてくれるからなんだぞ」
幼子を叱るようにセシルが言えば、暗闇の奥でもぞ、と小さな影がかすかに動く。
「なのになんでエリックの足を蹴ろうとするんだ。キーラに思いっきり蹴っ飛ばされたら、あののっぽだって転んでけがするかもしれないじゃん」
影がずるずるとセシルのそばに寄ってくる。不服に思っていることが動きの遅さで見てとれた。ここで引いてはいけないと、セシルは叱る気持ちを全面に出すために、眉間に寄せたしわを意識しながらも、おびき出すためにその『影』の好物をちらつかせる。
「次にこの家の使用人に僕の許可なくちょっかいかけたら、もうチョコ塗ったクッキーしか用意しないからな!」
語気を強めて言い切ったところで、寝台の下からびゃっと小さな影が飛び出してきた。
「やだ!!」
暗闇を這ってセシルの腹部に飛びついてきたのは、少年のような短い金髪に時代遅れの白いローブを着た3歳ほどに見える幼い少女である。揺れる金糸の間にちらつく、その耳は木の葉のごとく先が尖っていた。抱き止めたセシルの体が勢いに押されて僅かにぐらつく。
「チョコレートきらいなの、知ってるくせに! ひどいよ、変なことしないでよ! 白いまんまのクッキーじゃなきゃ嫌だよ!!」
「……っ、じゃあ悪戯しないって約束できる!?」
「クッキーィィィ!」
わんわんと子供の癇癪のごとく泣き出した少女キーラに、伯爵令息ははぁ、と溜息を吐く。
この家に生まれた者にとって、妖精と話すのは簡単なことだ。そこらにいる人間に声をかけるのと大差がない。
でも、セシルにとって、妖精に言うことをきかせるのは簡単なことではなかった。
妖精の多くは身勝手であり、それを恥じない。人間に対して「おいしいもの持ってる」くらいにしか思っていない彼らに何かを依頼するには、”取引”を持ち掛けるのが常套手段だ。
「~~っキーラ、」
「びゃーーーーーーっ!! いじわるーーーーーーっ!!」
しかし、この幼い少女姿の妖精には、幼い日のセシル自身が子供部屋の隅で発見した時から無条件でクッキーとあたためたミルクを与えていたせいで、『くれと言えばくれる』とすっかり舐められているのだった。
子供のつんざくような泣き声は、青年の罪悪感と諦念に実によく効いた。
結局、セシルは幼気な妖精の脇の下に腕を入れて抱き上げると、そのまま2人がけの小さなテーブルの椅子に腰かけさせる。手を顔で覆って泣いていた妖精に、いまだ片手に持っていたなんの飾りもないクッキーを持たせてやると、それは途端にぱっと顔を明るくさせた。
『使用人に悪戯しない』という言質は取れていないままだった。
「ウソ泣きじゃ……ないんだよなぁ」
妖精は嘘を激しく嫌うが、自身が嘘を吐くこともない。目を輝かせてクッキー1枚をあっという間に食べてしまった目の前の妖精も、なんの悪気もなく泣き喚いて自分の要求を通しに来ただけだ。
使用人の身の安全を確保するのは主人の仕事だが、キーラの悪戯が人の命や財産にかかわることは今までなかった。そう思うと、一人っ子のセシルはついついこの無邪気な笑みで飲み物を要求する妖精の望むまま、欲しいものをあげたいような気がしてしまう。
(せめて屋敷のみんながキーラの姿をみることができれば、悪戯をよけることもできるだろうに)
ワゴンの上からテーブルへ、濃く入れた紅茶と一緒にぬるくなったミルクのカップを移しながら、自分のふがいなさを棚に上げてため息を吐く。
「わーいミルク! あ、……冷めちゃってる……」
「…………エリックー、ちょっといいー?」
セシルは、大喜びでカップを受け取るや否や悲しげに俯いた妖精にもう一度ため息をついて、隣室に控える従者に声をかける。
すがすがしい初夏、妖精が住み着いた邸宅で繰り広げられる、変わり映えしない毎朝の光景であった。
***
使用人による後片付けも一段落し、退屈しのぎにクッションから羽をむしろうとするキーラを押さえつけていたセシルの耳に、再び部屋の扉がノックされる音が届いた。普段その扉の向こうから顔を出すのは茶髪の従者なのだが、セシルの予想に反して、この屋敷で誰よりも忙しく働いている白髪頭の家令の顔が出てきた。
「……ハロルド、今取り込み中……いった、いたいバカチビ! っどうしたの!?」
ハロルドには未来の主が羽毛の飛び出たクッションと格闘しているように見えていたが、彼もまた、ロッドフォード家の人間以外には見えない住人がこの邸宅には居るのだと理解していた。よってこの奇行を特に不審に思うことも、王都のオリエット伯爵に報告するつもりもないのだった。
王都の当主に代わって田舎の領地経営を担う多忙な家令は、淡々と用件を告げた。
「失礼致しますセシル様。リンデンのだんな様から、お手紙が届いていらっしゃいます」
「父さんから?」
そう言って家令から差し出された白い封筒を、取り上げたクッションを遠くに放り投げたセシルも見やる。ハロルドには、セシルが何もない空間を腕で囲っているようにしか見えないが、何かを避けるように顔を動かす様子から、見えない住人が相当暴れていることは察することができた。実際、おもちゃを没収された妖精が大層荒々しく手足を振り回していた。
「……急になんだ。心当たりがない」
両手の塞がっているセシルが封蝋と差出人を確認できるよう、ハロルドは封筒を裏表ひっくり返す。間違いなくセシルの父のみが使える月桂樹の伯爵紋が蝋に押されていることを確認すると、控えめな家令に向けて、中を開けて小さな声で読み上げるようセシルは命じた。
勿論推奨されることではないが、セシルは幼いころから自分と父を支えている60代の使用人を疑うことは殆どなかったし、腕の中の荒ぶる妖精を家令の方に預けられない以上仕方ないと思っていた。
それでもさすがに、伯爵から跡取り息子へ宛てられた手紙を他人に読ませなければよかったと、差しさわりない時候の挨拶といつもの小言の後に続いた内容をきいてから、彼は後悔することになった。
「『さて、今回お前に手紙を送ったのは他でもない、すぐにリンデンの屋敷へ来るよう伝えるためである』」
「……ハロルド、僕は行かないよ」
「続けさせていただきます。『さもなくば』……」
小さく動いていた口髭が止まった。
セシルは言葉を切った家令をいぶかしげに見つめる。
「さもなくば?」
キーラを抱え込んだまま羽まみれのソファにかけたセシルが急かす。
「『お前の爵位と財産の相続権が、お前の弟のものになると心得よ』」
「……」
セシルは座ったままハロルドの顔を見上げる。
冷静沈着なハロルドの表情は眉一つ動かない。
「『詳しいことはリンデンで話す。セシル、お前がこの手紙を使用人含めた他人に音読させていないことを願う父より』……以上でございます」
手紙を封筒に戻し、朝食の下げられていたテーブルの上にそっと置いて、家令は退出の命令を待った。
「……エリックに、王都の屋敷への旅行支度をさせるように」
「はい」
「……部屋の掃除とクッションの縫い直しをしておくように。クッションは買い換えても、このチビが飽きるまでは同じ事されるだろうから、しばらくは使い続ける」
「はい。お客様がお部屋へいらしたときのために予備をご用意いたします」
「うん」
セシルはハロルドの顔を見つめ、ハロルドもセシルの足首まわりを見つめたまま、淡々とやり取りを続ける。
「それとハロルド」
「はい」
「今の手紙の内容は即刻忘れるように」
「はい」
そこでようやく、無表情の家令に退出の許可が出たので、ハロルドはエリックを探して旅支度をさせる算段を考えながら扉を閉めようとした。
そのとき、閉まりかけた扉の隙間に、部屋の内側からガッと白い指がひっかけられた。
「ハロルド!」
若君の指を扉に挟みかけたハロルドが内心で冷や汗をかいていると、セシルがさっきとは打って変わって鬼気迫る顔を近づけてきた。
「お……弟ってどういうことだと思う?」
「恐れながら……この老いぼれ、手紙の内容はもう忘れてしまいましたので」
背の低い青年の背後でクッションから羽がひとりでに飛び出していくのを視界の端にとらえながら、忠実な使用人はそう言った。
この先の物語、楽しんでいただけたら幸いです。
ひとこと感想や評価等々、お気軽にしていただけたら励みになります。