視覚と赤ん坊
二〇二七年四月
「えらい体験をしてしまったわね」
シズが仙台から埼玉の自宅にもどった翌々日、富田からシズに電話が入った。
大地震のことである。
「はい。てんやわんやでした」
「わたしの実家もそちらなのよ」
「あら、そうなんですか」
「石巻。やっぱり、てんやわんやだったようで」
「そうでしょうね」
「マチ号のことお礼を申します。あの日はこちらも大忙しだったものですから、助かったわ」
「いいえ。トオルのいったとおりにしただけですから」
くくく、と画面の中の富田が笑った。
「トオル号は見事に処理しました。わたしとあなたが似ていることを利用するとはね」
「あれは、智恵? それとも富田さんたちのプログラムの成果?」
「う・・・」
富田は首をひねった。
珍しい。
「カテゴリーの一部として、触覚、味覚、聴覚、視覚などを検定するカリキュラムがあるのよ。シズさんに視覚だけを少し話しましょうね」
「わくわくです」
「まず”同じもの”から始めます。マスターが、このボールペンと”同じもの”を買ってきてとロボに頼んだ場合。ロボは商品の数字、文字、記号、色を見て、社名、形式、ノック式とかね、1.0とか0.7、BLACKとか、標語として、”さらりと描ける”などを記憶する。これを商品棚から数字文字とかが同じものを探すのが確定カリキュラム。これと同じものがないときはマスターに電話報告と希望を聞く。一方、形が同じ物と考えると、ロボには原則的には無理。ロボの視覚からすると同じものは見出すのは千分率ね。ちょっとした傷、曲がりでも判別してしまう」
「すると数字と文字ですか」
「そう。似ているものを探すのは、例えば人の顔からいきましょうか。Aの顔とBの顔を比べて、指紋検査や筆跡検査などでよく使う解析法を、ロボはつかう」
「ああ、90%とか95%とかですね」
「その%が問題。トオルはわたしとシズさんのを合致し何%だったら成功確率がいいかを瞬時に判断した」
「しかし確率というのは過去のデータがあってこそ決まるのですね」
「そう。センターにもデータがない。ロボとしてトオルは初めてのケースです。もっとも、成功しない確率でもやってみても損はない、と人間の言葉でいえばそういうことのようね」
「大胆ですよね」
「そう」
「あれはロボどうしからできたのですか? ロボと人間もできるのですか」
「それが悩ましい。あの子がひとつ驚きを提供してくれるたびにこちらでは大忙しよ」
「厄介者のことですね」
「そう。ただし歓迎すべき厄介者よ。宮城県には今、うちのスタッフが保険会社と一緒にいって個体ごとの情報を収拾してるんだけど、トオル号は完璧だったわ」
「そうなんですか」
「マチ号のようにフリーズしたロボが28体もあったのだからトオルは飛び抜けた働きだったわ」
「異常事態がくるとフリーズなんですか」
「人間が、とくにマスターが慌てふためくとロボがフリーズになりやすい」
「・・・小野さんも行ってるんですか」
「小野は行ってないわ。指輪は何度かプッシュした?」
「もう、何度も。近々、そちらに伺ってお渡しします」
「ありがとう。小野にちゃんと接待するように行っておくわ」
「富田さん。もうひとつ。いつも買い物をしてるトオルにプレゼンターをやらせてみるというのは、どうですか」
「うううん。それもあるか・・・少し考えてみるわ。あなたもいつのまにか厄介者になったわね」
「おかげさまで」
それからまもない日曜日、空也の姉内山テイが長男夫婦と共に錦にくるまれた赤ん坊を抱いて空也のアパートにやってきた。シズもいた。
初孫の宮参りで川越大師にお詣りをしたそのついでに立ち寄ったのである。嫁のツキが赤ん坊を大事そうに抱えている。
相変わらず派手な化粧をする女だな。
空也はツキをみてそう思った。
「伯母様。どうして大宮の氷川神社にしなかったのですか。あっちの方が近いでしょう」
シズが疑問に思っていたことを聞いた。
「あそこはね」
テイはそういい、空也の顔をみた。
「俺たちの末の弟がね。あそこはちょっと縁起が悪いんだよ。内山の家では」
「あら、そうだったの」
透という名前の叔父がいたことはシズも聞いていた。短かったその不幸と関係があったのだろう。
「京ちゃん、3ヶ月かな」
「100日だよ。可愛いだろう」
「ああ。姉さんも幸せそうで結構だ」
「70に近くなってやっとだよ」
テイは空也の8才年上で姉というよりは母親のような存在だった。空也はこの姉を心から敬愛している。
内山家は3代前から浦和の酒屋である。とはいっても造り酒屋ではなく小売店であるから酒だけではなく酒肴品や他の飲料も商っている。
こちらも仙台の菊田家同様に地所が広く、10数年前の改築時に店を下げて前に5台分ほどの駐車スペースを取った。その効果があって大型店舗やコンビニに互してやっている。道一本北に行けば飲食店街があり、そこに長いお馴染みさんがいるのが強みである。配達や空き瓶回収サービスをするところがいいのだ。
空也は3人姉弟である。姉がテイで下に空也とタケルという年の離れた弟がいる。その下にもうひとり男の子がいたのだが就学前に亡くなった。
テイは苦労をした。母親が早くに亡くなったため弟たちを母親のように面倒をみた。
それだけではなかった。自分が短大に通っていたころ働き盛りの父親が卒中で倒れた。テイは家を継ぐためもあって卒業と同時に婿養子をとり、しゃかりきになって働いた。
亭主は信用金庫の行員だったが働き者で、早く帰ってきたときなどは日中の疲労にも関わらず配達などを手伝ってくれ、空也もタケルもいい夫を持ったと姉のために喜んでいた。
しかし、不運というのは尽きないものでまだ四十代の若さでその夫は急死してしまった。
気丈なテイもさすがに気落ちしたが、それでも息子リョウと娘アキ、そして空也とタケルが全力稼働させて店を守った。空也もここだけは踏ん張った。そして3年前、家を継いだ長男のリョウが結婚したのを機に店の一切を譲ったのである。
(大丈夫かい。リョウで)
その相談を受けた時、どこか頼りない甥を案じて空也もタケルもそういったのだが、それに代わるいい案がなく老いの気配が現れ始めた姉に、いつまでも店を負わせるわけにもいかないから了承した。
リョウは結婚と同時に家を出て、車で二十分ほどのマンションから夫婦で店に通ってきていたのだが、妻のツキは妊娠すると体調を理由に店には余り来なくなった。商いが嫌いなのか姑のテイと反りが合わないのか、そのあたりのことはテイは語ろうとしない。
ともかくもテイはそれで良しとしたようで、現在はそれまでアパート暮らしをさせていた娘のアキを家にもどしている。