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魔法の小道  作者: 青朔朗
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     六つ目の角 長さと幅の等しい道




     六つ目の角 長さと幅の等しい道



 先頭で旗を掲げる兵と並び馬を歩かせていた近衛隊長──正確には近衛騎士第二部隊長が、正面から歩いてくる少女の姿に気付くと、少しだけ先へ進んでから行軍に止まるよう身振りで指示する。

 国の命令による行軍であれば本来なら無視して進むのが当然。もし向こうが避けないようなら、踏みつぶしてしまって構わない。

 だが、今は少しばかり事情が違う。

 鉄壁のはずの魔塔の門が壊され、しかもそこから飛んできたと思われる太い光は、戦闘では部隊の盾となって進み、術印強化もない石を積み上げただけの防壁など自力で壊せてしまう、宮廷魔術士第二頭イフトス渾身のメタルゴーレム──大鉄像の上半身を壊してしまった。

 先の南西国境戦争で活躍しただけに、内部に大きな傷が出来ていたのかもしれないが、あの威力で光の角度が少し下であれば、兵の百人は無事では済まなかっただろう。

 近衛隊長が鋭く訝るように近づく少女を見る目が、緩やかな形へ変化しつつ細まる。

 服は貴族か金持ちを思わせる光沢を持ち。歩く姿勢、踏み出す足、揺れる髪にさえ、自分が守るべきケルベナ王族を前にした時に似た権威と気品が感じられる。

 表情は自分が知る王族のような作られた笑みと違い、無邪気ともいえる緊張のない微笑みに見えるが、それでいてこの状況がわかっていないとは思えない洗練された知性も感じさせる。

 近衛隊長が思考に息切れしたように半分口を開け、後ろへ振り返る。

 と、人型の上半身が崩れても、八足を持つサソリのような下半身だけで歩み続けていた大鉄像が傾き、前方の兵士数人蹴り飛ばして道の横へ逸れるように崩れ倒れる。

 王都を出る時にはイフトスに断りもなく、大見得切ってその背に乗った宮廷魔術士達のただただ慌てる悲鳴が、金属の断末魔に混じって哀れに響く。

 近衛隊長が自国の威信まで崩れたように目を小さくするが、次の瞬間そうではないことに気付く。

 兵が15人並んでも余裕な道幅を覆っていた大鉄像が消えた後ろから、それに近い幅の獣が姿を現す。正確には足元まで届くような長い毛を持つ巨大な怪牛が二頭が横に並んだ姿で、縦には三頭並んでおり、計六頭で車輪がついた館のような牛車を引っ張っている。

 大鉄像はこれに後ろからトドメを刺されるように押され、バランスを崩したらしい。

 先頭に居た兵士達がおたおたと全員脇へ避けた頃、やっと牛車が止まる。

 前面の扉が両開きに開き、物見台にもなっている御者席の屋根に、数人の近衛騎士と従者を従え、二十歳前くらいの細身で金色の髪の男が出てくる。

 男は聡明と感じさせる眼差しを周囲に向けると、砦から扉を壊して光の柱が飛来した事も、メタルゴーレムが破壊されたことも意に介さない、むしろおもしろがるような、不敵な笑みを浮かべる。身につけている鎧も、色こそ華やかだが、形としては実用性を重視しているようだ。

 怪牛の息を頭上に感じながら、近衛隊長が声を張り上げる。

「しばし、お下がりをください。お前達、早く車の中にお連れして扉を閉めるんだ」

「ケルベナ国第二王位継承者リィンハルト殿ですね」

「ここで構わぬ」

 リィンハルトが、自分を内へ戻そうと前へ出る近衛騎士達に言うより先に、少女の声に割り込まれ、少しだけ不機嫌そうに怪牛の前方を見下ろす。

「少し声量が足りないようだな」

 それでも聞き取るには支障がない見事な発声だったが、怪牛三頭分の距離では相手の表情がよく見えない。二列の怪牛が隣同士をつなぐ鎖を外されるとしずしずと左右に分かれ、リィンハルトまでの隔たりを取り払う。

 少女が淀みなく牛車の前まで歩き、馬上の近衛長の頭より高い場所に立つ相手を、屈託のない微笑みで見上げる。

「お初にお目にかかります。わたくしはレウパ王国のディアナ・レーネ・レウパ・タ=ジェン・クアロッツと申します」

「お前は何もの……」

 悠然と問う言葉より先に名が上がるのを聞き、リィンハルトはまた少しだけ、優顔に歪みをつくった。


 牛車と砦門の中間くらいの場所で、王子に近づく者を止めなくてはと今更慌てて走り出したコルジュが、ピタと立ち止まり顔を真っ青に変える。

 砦に裏切り者が居ないか確かめるためとはいえ、他国の使者を囮として使うことは内心かなりビクビクだった。いっそ塔の鍵を動かし門の外に出てくれ、と願ってばかりいた。それが、ただの使者でなく、これから国交を回復させる相手国の姫とは。

「無事だったんだからいいじゃありませんか」

 クランドが横から軽く言うが、コルジュは固まったまま動く様子はない。

 と、何事かと門を出て追いついたサミヤが、リィンハルトに気づき一瞬にして血相を変える。遅れて後ろに来たベイルのノド首を感情任せにつかみかけ、寸前で自重する。

「何でアイツがここに出てきてるのっ。あの姫様、いきなり修羅場になっちゃうでしょ。あああああっ、あんな目の前までもうウキウキして行っゃってっ」

「知るかよ……ぇ。姫? あの娘がディアナ姫なのかっ」

 今度はベイルが驚きをもらす。

 コルジュが責められたように頭を抱えてしゃがみ込む。

 ベイルはその意味がわからないままコルジュを見、視線をリィンハルトを見上げているディアナに戻すと、ただ諦めたように大きく息を吐く。

「あ~あ……、もうどうでもいいや……」


 リィンハルトはディアナの名に一瞬何か考えたようだが、薄く笑うと、にこやかに口を開く。

「これはこれは我が婚約の相手でしたか。レウパの姫が、儀も整わぬうちに我が国に御用とは、よほど私に会いたかったと見えますな」

「いいえ、リィンハルト殿ではなく、手紙の文面を考えた王子様に一目お会いしたく参りました」

「は?」

 リィンハルトが、三度目に歪みかけた表情をなんとか止め、見定めるように首を捻る。

 ディアナの表情を見るが、迷いもなければ気負いもなく、ただ真摯にリィンハルトを見上げている。むしろ普通なら聞こえぬほど離れた後ろで、二人の会話に聞き耳を立てているサミヤの方が、予想とは違ったディアナの言葉に一番取り乱しているようだ。もしかしたらまだカージスとドルグの手の者が居るのではと、クランドの命令を受けて砦内を捜索していた第十四番隊や各小隊長を含む30人ほどがぞろぞろと報告に隣りにやってくるが、その奇妙そうな視線さえも気にしない。

「送った手紙の字が私の物ではないと気付かれたようですが、私も忙しい身。直筆でない点は御理解戴きたい。ただ、次期国王である私に様を付けず他の者に様をつけて呼ぶなど、少しは我が立場を考えて立てて……」

「多忙ゆえに、内容も他の方に考えてもらったのですか?」

 ディアナの明るく楽しげではあるが、目の前にいる相手には無関心とも思えるほど変わらぬ口調に、リィンハルトがピクと唇を震わせる。

 一庶民ならどうか知らないが、貴族王族ともなれば文の内容を他の者に考えさせ、他の者に書かせることも珍しくない。良い文面を思いつける者、良い文字を書ける者、を集め使うことも、有能にして実力のある権力者の証ではないか。

 文字に関しては、その件を内密にするためにベストの者を選べなかったが、それが一体何だと。まさか、一国の姫ともあろう者が、そんなことを言うために我が国にまで押し掛けて来たというのだろうか。

 リィンハルトがズバリ言ってやろうかと目を鋭くする。

 だが、露骨にイライラを現しながらも、他のことも気付かれているのではと探るよう、なるべく丁寧に会話劇を続ける。

「文字は私が書いた書面でも見れば違いに気付くとして、その内容も別の者が書いたと、何故言い切られる?」

「最初に頂いたお返事は、こちらを怪しまれるもの。そして、こちらがレウパ国のディアナであると信用されてからは、一通ごとにとても友好的に内容へと変わっていきました。ですが、ケルベナ王国のリィンハルト殿と言えば押しの強い政治手腕で有名な方。国交回復と政治への動きこそ見せましたが、何かしらすぐに動けない、不可解な制限を感じていました。噂と手紙では違いが出るモノとも思いましたが、アフリクド殿からリィンハルト殿の話しを聞いた時、押さえきれないへほどの不安を感じたのです。そこで、こうやって参らせていただいたのですが……」

「当てずっぽうで国境を越え、さきほどのような断言をしたのか」

「リィンハルト殿を見て確信しました。あの手紙の文面を考えたのは貴方ではありません」

 リィンハルトの端正な口元が、一度硬く動きを止める。

「あの程度の文章も考え付けぬほど私が愚かに見えるとでも……」

「そういうことではありません。いえ、そうですね、これは当てずっぽうと言ってもいいほど貴方には理解できないでしょう。ではリィンハルト殿がお気に召しそうな理由を付けるなら、例え全てが国政の為の社交辞令だったとしても、あのような文面を考えられる方が、これから婚約を結ぼうという相手に喜びの顔も見せず上から見下ろすはずがありません」

 リィンハルトは表情こそ変えぬが、心の荒ぶりを示すように鼻の辺りで微かな音が響く。

「文の中身を問うて、人を上辺の顔で判断するとは……いやはや」

 だが次の瞬間にはこれ以上ないという笑みになり、吐き捨てるように言い切る。

「政治とはそういう物だ。我が国内が不安になり、そんな時に届いていた隣国の王族の手紙を利用し建て直す。恥を被ってでも、相手を喜ばす美句麗句を並べ立てるのは当然だろう。気に入らぬか? 良かったな。婚姻の前にどういう相手か分かって」

「良くありません。ただ婚約も済んでいない今です。そのことについて話すより、今は手紙の文面を考えた方をお教えいただけませんか?」

「何をご執心なんだか……。王子様の手紙は、王子が考え、王子が書いたに決まっておろう」

 疲れたように溜息を吐くと、従者がその後ろに椅子を置き、リィンハルトがそれにどっかと腰を下ろしそっぽを向く。それからチラとディアナに視線だけ向け、ニタリと目の奥で笑む。

「それより、お前が本当にレウパの姫であるなら、婚約となるはずの私がここに居て、しかもこれだけの数の兵を率いていることは気にならないか? 実は、レウパの国が危機にあるのだ」

「リィンハルト殿は、我が国に攻め込む気なのですね」

「逆だっ。どうしてそうなる。俺はルフガダムの脅威からお前を守ってやろうというのだ」

「ルフガダム王国が、何故レウパに攻め入らねばならないのですか?」

 手紙について話したそうに文箱の蓋に手をかけた姿勢のまま、地平まで道を埋めても終わらない兵の数に、ディアナが今更気付いたように丸い瞳を揺らす。

 ニャリ、とリィンハルトに隠す気もない笑みが浮かぶ。お互い相手の言葉に流されず自分の言葉を続けてきたが、どちらかといえばここまで圧されていた。それが、やっと優位に立てたようだ。

「当然であろう。大陸随一の国力を誇るルフガダムだが、レウパとケルベナという大国が手を組めば、その地位は揺らぐ。最も不利益を被る国だ。ならば我が軍事力がレウパを強化する前に、西に隣接する地を叩くことに何の不思議もない」

「それは考えられるというだけでしょう」

「残念ながら証拠があるのだ。実は既にルフガダムの手の者が侵入し、ある工作を行ったのだ。姫の身の回りにも、まるでケルベナの者が仕組んだような危険は起こらなかったか?」

「それは……」

 ディアナが言い淀むように口を閉じる。カージスとドルグが自分達を襲い、ケルベナの者に命じられたと言ってはいたが、それも口だけでなんの証拠もない。

「襲われたようだな。そして、その者達はケルベナの手の者のような証拠を残したかもしれぬが、そのような者がそんな愚かな証拠を残すか? それこそルフガダムが仕組んだという罠と言うものだろう」

「いいえ、ルフガダムと言うには……」

「利を獲る国は他にない。ルフガダムなのだ。それともそうでないと証明する根拠でもお前にあるのか?」

 言いきる強い声音に、何かを捜すようにディアナの瞳が揺らぎ、ハタと止まる。

 その前に、庇うように二つの影が飛び出し自信に見た顔で見上げる。

「あるよトンチキ!」

「ルフガダムがそんなことするわけない根拠はここだよっ!」

「……。なんだ、お前は?」

「ルフガダム王国付属アギムゼイ剣魔総術学園第十四第首席卒業ヘンルータ・モルハート」 

「ルフガダム王国付属ムゼイアギ魔剣総術学園第十八第首席卒業アネット・エシャコリン」

 うざそうに誰何する声に合わせたわけではなさそだが、スカートを巻き上げるように砦門から一気に駆けつけた二人は、よくわからないポーズを大きく決めると、バッチリなタイミングで高らかに名乗りを響かせた。


「ムゼイアギ魔剣総術学園じゃなくて、アギムゼイ剣魔総術学園だろ」

「アギムゼイ剣魔総術学園じゃなくて、ムゼイアギ魔剣総術学園だろ」

 言い終わるが早いか、ヘンルータとアネットが互いの鼻を突けるよう睨み見合う。

 それを前に、レウパの王都カドリアで分かれて以来の二人の侍女に、ディアナが少しホッとした笑みを浮かべつつも、口調的には困惑したように言う。

「あのう……、どちらも通称で、正しくはルフガダム王国両長認可総合学術園なのでは」

「姫様、通称の方だけ有名だから、そんな正式名称じゃ一般的に通じません」

「王国が認可してもムゼイ魔術長とアギ剣術長が特別名誉顧問を引き受けてくれるまで、生徒なんて全然居なかったっていうし」

 どうやら、生ける伝説とも言われる二人に引かれて入学した生徒が殆どらしく、この二人の名前を入れないと収まりがつかないらしい。

 どちらの名前を先にするかは、完全に個人の趣味のようだ。

「て、いうか、アンタ先輩だったの」

「そういう、アンタこそ後輩だったのかい」 

「何なんだお前らはっ……」

 言い合う二人に、リィンハルトが少し瞳を上げたあと眉を押さえる。

「はあっ、言っただろ。ルフガダムの者だよ」

「レウパとケルベナの国交復活を助けるべくムゼイ様から使わされたのさ」

「あたしはアギ様だ。なのにレウパとケルベナの国交復活を邪魔するは、攻め込むはだって?」

「本当は国交回復と油断させてケルベナがレウパに攻め込むつもりだったんじゃないの?」

「姫様を襲わせたのもどーせケルベナ、いや、アンタの手下なんだろ?」

 リィンハルトが、笑いを堪えるように溜息を付く。

「随分と沢山の援軍を連れて来たようだな。もしかして、レウパこそルフガダムと手を組んで我が国を攻め滅ぼそうとでもいうのか?」

「はっ、あたしらだけに沢山とはおそれいったね」

「平和なご時世、大軍率いて国境越えよう何て、辺境国以外じゃケルベナくらいのもんだよ」

「ほぅ……」

 リィンハルトが少し不可解そうに、壊れた砦の門へと視線を向ける。

 あの破壊力。姫が壁を越えてここまで辿り着いたこともあり、かなり腕の立つ護衛が数人掛かりで放ったと思ったのだが……。

 迂闊に砦に近づくことに内心危惧していた後ろの近衛騎士達の顔にも、安堵と、それと同じくらいの困惑が浮かび、数人はより考え込むように不安だけを急に色濃くする。

「ほら、フィラさも何か言ってやって」

「今こそ三位一体攻撃」

「ええっ?」

 上がった声にリィンハルトや近衛騎士に兵士達が捜すように顔を向け、何かしら怪訝そうに目を細めては視線を外す。

 気付けば、いつの間にかディアナの少し斜め後ろで道端に敷布が引かれ、その横にポットを持ったフィラが立ち、無茶振りされたように表情を動かしている。

「わたしは関係ないです。あ、ごめんなさい。ヘンルータさんとアネットさんも関係ないのに巻き込んでしまってはいけないと、なるべく追いつかないようにしてました。済みません」

 畏まったように、頭を下げる。

「ジレルさんは何をしてらっしゃるんですか?」

 と、フィラの名前に振り返ったディアナが、敷布の上に座ってフィラに湯飲みを差し出しているジレルの姿を見て、何故か感心したように呟く。

 ジレルはお茶を一口すすり、ふと、昼飯を食っていたかどうかの差か、と、得心した笑みを湯飲みへ向けると、言葉が遅れてでも聞こえたようなタイミングで顔を上げる。

「あ……、わたしもこの件とは関係ないから。どーぞどーぞ言い合って。戦いになった時は、ちゃんと暴れるからそれは任せて」

 そしてもう一口すする。

 フィラはその間に左手のお盆に湯飲みが四つあるのを数え直し、足りないと言いたげな顔をしつつも次の相手にお茶を出そうと一歩踏み出し、ピタリと止まり、左へ向き直る。

 気付けば、長太い怪牛の舌が、フィラの視界ごと行く手を塞ぐように横から伸びている。

 舌を伸ばした怪牛は変に鼻をフンフンさせており、見回せば他の怪牛も鼻をヒクヒクさせている。視線は、フィラの右手に持つポット。

 フィラがその怪牛の舌にポットを乗せると、舌はスルリと口の中へ戻り、ごくごくとノドを振るわせると、プッと噴き出す。ポットが、空中で大きな孤を描いてフィラの手へと戻る。

 長い毛で顔が覆われてすらわかる程の笑みを怪牛が浮かべ、他の怪牛がフィラを見る目に力がこもる。

 フィラが残像の尾を引くように、慌ててお代わりを取りに砦へ走り出す。

 リィンハルトが、それから目を逸らすようにチラリと物見台の後ろへ振り返る。

 どうやら、崩れたゴーレムの背から落ちた宮廷魔術士達が、居場所を求めてこの物見台へと上って来たらしい。その全員が動揺に息を切らし這いつくばりそうにう両手を床に向けているが、宮廷魔術士としての地位は伊達ではないらしく、傷などを負った者は流石に居ない。

「あれは……、なんだ?」

 リィンハルトが視線を戻すと、ヘンルータとアネットが現れた時に発した疑問を、言い直すように一番最初に上ってきた宮廷魔術士へ向ける。

 魔術士は垂れるように顔を覆っていたフードを身を正すようにバッと取り、リィンハルトの横へ急いで歩むと、恐縮し、戸惑うように畏まる。

 ただリィンハルトの視線は、ジレルでもフィラでも怪牛でもなく、ディアナの隣り。

 上から見ていたリィンハルトには、ヘンルータとアネットの二人が来るより先に、黒帽子に黒外套の子供がディアナの隣りに立つのが見えていた。気のせいでなければ、ディアナの表情に穏やかさと自信が戻ったのは、あの二人ではなく、この子供が既に傍らに居たことに気付いた瞬間だった。

 身なりと帽子のつば先の精霊らしき存在を考えると、術士ではあるのだろう。

 そして何より、現れた時はやたら大きく強く感じる瞳でジッとリィンハルトを見上げていたのに、今はドン引くほどキラキラとした瞳で怪牛を見つめている。

 巡らせた瞬間くらいしか上からは見えないのだが、顔もこれ以上ない満面の笑みだ。

 そのつばの上に居る小精霊がこちらを見上げると、疲れた笑みで共感したように頷く。

「さぁ……、何なのか」

 宮廷魔術士の声に不自然な動揺を感じ、リィンハルトが言えと脅すようにその顔を睨む。

「昨年の今頃、ガロワ城内で見たような気はしますが……」

「我が城でか?」

 術士以上に訝る表情になり、物見台へ上がった残りの宮廷魔術士達を見回す。アフリクドはおらぬか、と口の中で問うべき相手に困ったように呟き、イフトスは……とまた口の中で言いかけ、役に立たないと顔を振ると息と表情を整える。

「連れの道化共に問おう。お前達は何を根拠に、国交が回復するだけで多くの利益を得られるレウパを、私が攻めると言っているのだ。この兵数を見ただけで言っているのであれば、ただ浅はかな無礼者な発言、としか言えんな」

 威厳を持って通る声に、ヘンルータとアネットが、おっ、とすると、慌てて振り向き直る。

「顔だよ」

「アンタの顔」

「またも上辺の飾りか……」

 言った後、二人して「ああいう男はダメだよ」「ありゃ酷いね。本人はイケメンのつもりで確かに整っちゃいるけど、ケルベナ国民もガッカリだ」などとディアナに堂々と耳打ちする。

「……。ならばお前達の言うルフガダムが攻めないと言う証拠は?」

「だからアタシが……」

「こうやって手伝いに派遣されて……」

「フンっ、顔というならいかにも捨て駒ヅラが二人居てなのん証拠になるか。要にお前達は、ルフガダムがレウパに攻め入るための諜報員として派遣されたのではないのか。その学術園の話しはアフリクドから聞いたことがあるが、国を支える官僚を育てるためでも、術士として身を立てるためのものでもなく、ただ民を学ばせるだけの何の変哲もない学校まがいというではないか。本当にレウパの後押しを考えているのなら、そんな者を使ったりしない」

 ヘンルータとアネットが、何を言って居るんだとばかりに威勢良く睨み上げる。だが、言い返す言葉は出てこない。

 結局の所、誰もがただ言葉を並べているだけで、証拠など誰もが持ち合わせていない。

「じゃじゃぁ、ケルベナがレウパを攻めないと言う証拠はあるのかいっ」

「ルフガダムがレウパを攻めると言う証拠はっ」

 リィンハルトの瞳が僅かにほくそ笑む。

 近衛隊長が悲しげに目を逸らし、牛車から離れて立つ兵士達の間にも、やはりあの噂は本当だったのかというようなどこか沈んだ表情が浮かぶ。

「我が兄レオンがルフガタムの者の手によって暗殺されだのだ」

 工作があったと言ったであろうと言いたげな勝ち誇った表情と暗殺という言葉に、ディアナ、そしてヘンルータとアネットも身を固くする。

 リィンハルトの後ろに控える近衛騎士達も視線を落とし、それを聞き取った少し離れて立つ兵士達の間にも、噂程度にしか聞いていなかったのかやはり演習や討伐でなくそういうことかといったヒソヒソとした囁きが広がる。

「だけど……」

「それがルフガダムの仕業だと……」

「殺したのはオリシスという第一王子付き魔術士だ。調べによればルフガダムの者達と関係のある村の出身だと分かった。このような者を何故城に招き入れられたか分らんが、それにルフガダムの兵が各地へ向けて動いているという情報が加われば、軍を動かすには十分だ」

「兵って……」

「村が関係あったからって……」

 ヘンルータとアネットが言い返しかけるが、その情報がどの程度の物か分からず、こちらの情報不足も重なり、言葉に詰まる。根拠としての力はどちらも少ないとはいえ、この差はどう言い合ってもここでは覆せそうにない。

 リィンハルトが、悠然と身を翻すように言い切る。

「まぁ良い。要らぬ時間をとったが、城の学者と論議するより案外と楽しかったぞ。お前達も、別の牛車でカドリアまで運んでやろう」

「その前に……」

「教えてやれよ」

 と、最後に話しを元に戻そうとするディアナから少し離れた横へ傭兵姿の男が進み、それが目の端に止まったようにリィンハルトが振り返る。

「兄貴がここまで来てるってことは本気なんだろ。だったらその前に言ってやれよ」

「本気とはどういう意味だ、ベイル?」


 リィンハルトの冷ややかな声に、後ろの近衛騎士達の間で今になって気付いた驚きが小さく上がる。

「それに教えてやれと言うのは? お前がまた傭兵の真似事をして城を抜け出している間に、事態は急速に変わったのだぞ」

「第三王子ベイル様かっ」

 ベイルからかなり離れた後ろで、コルジュが大きく驚きの声を上げ、しまったというように両手で自分の口を塞ぎ、続いて第三王子を地下牢へ入れてしまったことにその場で縮こまる。正装した姿なら遠目に何度か見ていたが、こんな傭兵のようなむさい姿では一度も見たことがなかった。

 ベイルの横に来て、いつになく硬い表情で牛車の上を見上げているサミアに目で促すようにディアナが見ると、肯定するように一度だけ頷きが返る。

 リィンハルトが返事を待つようにベイルに軽く笑うと、ベイルはそれに応えるでなく、ディアナへと体ごと向き直る。

「あの手紙の文面を考えたりは、第一王子のレオン兄貴だ。オリシスが受け取り、上の兄貴の手に渡ったんだが、王位継承者の手紙としては色々不味くて、リィンハルト兄貴の手紙として返事を出すことになったんだ。それで……ただ、リィンハルト兄貴は同意したくせ面倒がって、字は俺が書いた」

 要は、王子の手紙は王子が考え王子が書いた、ということだろう。

 ただ、次の言葉を言おうと顔を何度も困惑させるベイルを余所に、ディアナの顔から表情が見る見るうちに落ちるように消えていく。いや、よくよく見ていれば、リィンハルトがレオン王子の死を告げた時から少しずつ口元が固くなっていた。

 おそらく内心では見当がついていたのだろう……。

 そうならば、手紙の文面を考えた人物は既に死んでしまっていると……。

 ベイルが、ハッとしてリィンハルトに振り返り、怒りの声を上げる。

「兄貴がレオン兄貴を殺したのかっ!」

「突然たわけたことを。私に兄を殺す理由がどこにある?」

「レウパと国交を回復するより攻め落とした方が確実と言っていたじゃないか。レオン兄貴は、それをいつもいさめて……」

「相変わらずあの馬鹿の肩ばかり持ちおって、それでお前は損をしているのだ。攻め落とした方が早いというのは今も変わらんが、敵はルフガダムだ。レウパの姫の前だが、レオンの死をきっかけにレウパを攻めるなら、そのままレウパが暗殺したでいいだろう」

 ザワリとした周りから細かい動揺を気にする風もなく、リィンハルトが肩をそびやかす。

 ベイルが言葉につまり、それ以上に何かに動揺した面もちでディアナをチラと盗み見てから、しくじりを隠すように顔を伏せる。

 あれだけ無頓着に笑ってここまで来たディアナ姫が、顔に色を無くし、瞬きを忘れた瞳で、今にも崩れそうな姿で立ちつくしている。

 と、その見開かれた視界の端に、忘れてはいけないものをもつけたように少しだけ揺らぎ、傍らに立つ小さな姿へと顔を向けられる。

 取り巻く声音を追うように怪牛からベイル、ベイルからリィンハルト、そしてディアナへと視線を移していたマジュスの口から、いつも通りの場違いなほどの高音がハッキリと響く。

「レオンさん、生きてますよ」


「……良かった」

 誰もが次の言葉を待つように目を向ける中、しおれた花の時が巻き戻ったようにディアナの顔に鮮やかさが戻り、誰も気付かない程度に低くなっていた背が真っ直ぐに高く伸び上がる。

「じゃ、行きましょうか」

「王都ではなく、南の山城です。位置から考えてビンドール山ですね」

 ディアナとマジュスが牛車を避けるように軽く歩き出し、帽子のつばの上で面倒そうに顔をしかめていたミアシャムが、やっと用件が終わったのかとゴロと寝転がる。

「ちょっと待て。止まれ。止まれと。王である俺の言葉を無視するかっ!」

 三歩行かぬうちに間を失った憤慨した声が落ち、足を止めたディアナが顔を上げる。

 が、少し視線を巡らし、空耳でも聞いたように再び歩き出し、リィンハルトの喚き声が響く。

「ふざけるなっ! 俺がレオンは死んだと言ったんだ! 何処へ行くっ!」

 ディアナは足を止めてちょっと見回し、周りの視線が自分に向けられていることで、やっと自分に向けられた言葉だと理解したように、不思議そうな顔でリィンハルトを見上げる。

 周りで見る者達に、何かわからない引きつり的な表情が浮かぶ。

「マジュスちゃんは、レオン王子様は生きてビンドールの山城にいらっしゃると言ってます」

「居らぬし生きてもいない」

「生きていらっしゃいます」

「ケルベナを背負う俺様の言葉より、マントと帽子に着られたガキの戯言を信じるかっ?」

「はい」

 あまりにも純粋な声と表情。迷いなど一つもない。

 ケルベナ側から少しどよめきが響く。

 リィンハルトが、ただただプライドを傷つけられたように肩を怒らせ、チラと視線を向けた近衛騎士達が背に沸き立つ何かを見たように半歩後ずさり、宮廷魔術士達もこの場に上がって来たことを後悔したような表情を露骨に浮かべる。

 だが、リィンハルトはしばらく見下ろした後、ノドに何か詰まったような苦しげな息を立てると、不意に言い切られたことで却って落ち着いたように僅かに笑みが戻る。

「おい、そこの術士のようなナリのガキ」

「魔法使い様です」

「魔……法使いとやら、何をもって俺の兄がビンドールに幽閉されていると言う?」

 既にジィッと見上げていたマジュスが、明確な声が響く。

「顔です」

「……また顔からの勝手な妄想か」

 安堵と落胆を混ぜた呟きをもらし、苦い笑みを浮かべる。

「レウパなど王都に軍が辿り着けば殲滅は容易い。そうなれば、事なかれなレオンは従うしかなく。ベイルでは後の統治を任せられない。俺が本当にレオンを殺すかっ。とも書かれてます」


 陽の動きも止まったように静まり返った中、ポツリポツリと声がもれる。

「なるほどそれで生きてる……」

「殲滅ですと……?」

「書いてある……?」

 サミヤが妙に細い目で頷き、馬上の近衛隊長が首を傾げ、コルジュが呟いて見回す。

 少し遅れてマジュスに顔を向けたベイルが、ポツリと言う。

「何言ってんだコイツ?」

 マジュスが、間違えたかなと問うような顔でベイルを見上げる。

「正確には少し違いますけど、『北国』はケルベナの北でレウパ、『兄』はレオンさんだけで、『お前』はベイルさんを見ていたのでベイルさんですよね」

「ですよね、って……」

「それまで何も書かれていなかったのに、ベイルさんが質問した途端、リィンハルトさんの顔にそう文字が書かれたんですけど……?」

 マジュスが、どことなくザワめく周りの反応が分からないといったようにくるりと見回し、リィンハルトの顔へと大きな瞳を向ける。

 リィンハルトが、今にも何を言っているのだと馬鹿にしたように口を開きかけた表情のまま、鎧の下の胸元をつかむように手を上げると、顔だけがわずかに後ろに下がる。

「金羽晶……でしょうな」

 横の宮廷魔術士が落ち着いた声で言い、リィンハルトが不始末を責めるように振り向く。

「いえ、宮廷魔術士達がサボって結界を張ってなかったわけでも、王子が身につけられた精神魔術を防ぐ護符が働いていなかったわけでもありません」

「………………」

「本来は、体のどこかに生えた金の羽と見える魔水晶を通し遠くを見る特殊能力で。それだけなら結界で防げるのですが、少し変わった使い方が出来る場合がありましてな。一年ほど文献をあさった程度で確かではありませんが、肉眼では見えないほどの小さな表情の変化を見る。例えば、言いたくても言えない気持ちをそこに言葉が書かれたように読みとる、ということも出来てしまうようです。実際に見るまで信じられませんでしたが……魔術と言うより、特技ですな」

「お前………………、オリシスか」

 すぐ横に居る宮廷魔術士の顔を声を掠れさせて見るリィンハルトに、中年という言葉を使うには爽やかすぎる笑みが返る。

「はい。一番最初に物見台に上がってしまい王子に呼ばれ、顔を隠したままでは不味いと思いフードを取りましたが、ここまで気付いていただけなかったのは流石にショックでした」

 リィンハルトがバッと後ろへ振り向き、口を開き、唖然としたように閉じる。

 捕らえよ、と発した言葉が口に吹き付けた仄かな風に押し込められ、自分の耳にすら聞こえない。

「まだ間に合うからお止めなさい。これ以上の魔術は流石に他の術士にバレるので、身振りで助けを呼んでもいいですが、ケルベナが滅びますよ」

「どういう意味だ?」

 発した通りの声が響き、むしろそのことに余裕を無くしたようにリィンハルトが表情を暗くする。ここに居る宮廷魔術達とオリシス一人なら、宮廷魔術士達の圧勝だろう。

 だが、顔に文字など見えずとも、オリシスの顔にそれを戒める絶対的な何かが見えたかのようにリィンハルトの心がそれを躊躇う。

「今なら、まだ貴方自身だけの問題で、国の問題ではないということです」

「随分と俺を軽く見た脅しだな……」

「いえいえ、見込んだからこそです。貴方は私が宮廷魔術士として城に入った幼い頃から才を発揮され、成長するに合わせて才を磨き、兄のレオン王子が政治の場に呼ばれるようになった頃には、それと同等、軍事に関しては明らかに上の意見を言えるようになっていた。それだけに、決して悪い発言ではなかったが、自分より劣ることしかいえない。まぁ、私から見れば、好戦的か宥和的かの違いだと思いますが。これまでのケルベナの方針に、より適した発言をされる貴方の言葉より、レオン様のこれまでのケルベナの方針に適さない発言の方が、第一王位継承者というだけで優先されることに実に悔しそうにされていました。そういえば、レオン様がフルト国王の若かりし頃と似ていると言われることにも、ピリピリされていましたな。髪の色だけだとベイル様なのですが」

「だから、何なのだ」

「つまりですね、私はレオン王子が暗殺されたという話しを聞いたときにリィンハルト王子が動かれてしまったのか、と思うと同時に、貴方にしてはおかしいとも思ったのです。王の位が欲しいだけなら、レウパと関係する今では却って混乱し、緊張が絶えない南西の国々から攻め込まれ、国が荒れてしまう。おそらく貴方の狙いは、自分の言うレウパを攻めた方が早く有益であると実証し、その戦略から逃れられない状況を作ること。そうなれば、病床で気の弱った国王と、確かに事なかれではあるレオン様なら、貴方を罰するよりそれを認める可能性は高い。ならば、レオン様はまだ生きているのではないかと……」

 オリシスがじっとリィンハルトの顔を見つめ、表情からそう外れていないことを読みとる。

「そこでイフトスにレオン様の居場所を探させ、私は貴方のお側で情報を探っていたんですよ」

「イフトス……あの魔術戦闘馬鹿がお前の仲間だったのか」

 リィンハルトがイフトスの顔を思い出しつつ、少し頭を振る。宮廷魔術士全員の顔を覚えておいたつもりだったが、意外とハッキリとは思い出せない。全員をすぐに思い出せるくらいに覚えておけば、ディアナとその隣の子供に気を取られていたとはいえ、この魔術士はおかしいとぐらいには思っただろう。

「馬鹿とは……。まぁ、アフリクドさんと気が合わないらしく、魔術で分からないことがあると、私の所によく尋ねてきていたのですが。まぁ……、本来は手配されている私よりイフトスが貴方のそばで……。まぁ、これはどうでもいいでしょう」

 オリシスが、幾つかの言葉を飲み込みつつ言葉を続ける。

「とにかく、距離と時間、貴方の土地勘的にビンドール山へ向かわせたので、そろそろレオン様を見付けて、身柄の安全は確保していることでしょう。そうなれば、貴方の遠征はちょっとした意気込みによる大演習で片付けられ、ケルベナの滅亡が避けられます。手遅れになるかと思いましたが、幸いマジュス殿が貴方の気を十分に削いでくれたようです」

 オリシスが笑み、リィンハルトが眉を下げる。

「ケルベナが滅亡だの、手遅れだの、お前は一体……。まさかルフガダムに攻め込めるほどの兵力を俺がひきいて、レウパごとにき負けると懸念してるのか?」

「アレが見えませんか?」

 視線に促されるように砦門を見たリィンハルトが、怪訝そうに顔をしかめる。

 なにか、チラホラ動くのは見えるが、それはあの砦門が破壊されてからずっと続いている。

 いや、何か、その中に、見覚えこそあるが、あまり見た覚えのない旗が……。

「どこの……」

 リィンハルトが訝り、言いきる前に宮廷魔術士と近衛騎士から息を固く飲む声が上がる。

「ぅぉっ……。あれは……」

「嘘だろ。もう来やがった……」

 驚き、というより、まるでこれから死する戦いへ向かうかのような悲しげな響きだ。

 リィンハルトが周囲の緊張に少し首を傾げ、もう一度見直す。

 今砦門から出てこようとしているのは数頭の騎馬と、百を越える程度の兵士。

 旗から察して、レウパ王国の騎馬と兵士だ。

 大した数ではないが、ディアナの他に護衛は居ないという言葉は嘘だったようだと薄ら笑い、先頭の騎馬に乗る馬が可哀想になるほど丸々と太った男の姿に、そういうことではないとハッとする。

「レウパのエンダール国王か」

「ぃぇっ……」

「そっ……そんなことよりっ。隣り。横っ」

 却って好都合な獲物が飛び込んできたように頬を丸くするリィンハルトへ向け、近衛騎士や宮廷魔術士が悲鳴じみた声で喘ぐ。

 視線をエンダール王の横へ動かしても理解しかねるリィンハルトに、オリシスが静かに言う。

「ルフガダムのムゼイ魔術士長とアギ剣術士長ですよ」


 ケルベナでも精鋭にして強者といえる近衛騎士と宮廷魔術士が視線を集める先に、騎馬にも乗らず歩く、背は2メートルはありそうな頑強な肉体の男が二人。

 精悍に研ぎ澄まされた顔には、近づけば意外と小皺が多く既に齢は百を越えるという噂にも納得出来るが、少し離れて見る体躯は太く丈夫な筋肉でがっちりと固められせいせい五十代としか見えず、更に離れてシルエットで見ればせいぜい三十代、そして改めて表情を見ると若者でもそうそう居ないような生気が溢れている。

「何故ルフガダムの者が……。まさか、レウパと組んで我が国を滅ぼそうと」

 リィンハルトが呟くが、言いながらおかしいとも気付く。それならば、数千、数万の軍隊で押し寄せて来てもいいではないか。

「王子、ここはお気をつけください」

「兵数が少なすぎます」

 そんな思考を断ち切るように近衛騎士と宮廷魔術士がなさけない声を響かせる。少ないことなど見ればわかると叱咤しかけ、二人の強張った顔を見て唐突に理解する。

「まさか、少ないとは、我が兵の数が少なすぎると言っているのか……」

 元々、ルフガダムに攻め入ると宣言したとき、周囲からは最低五万まで兵が用意できるまで待てと言われていた。ただ、それだけ集めるとなると日数がかかり、その間に何か不味いことが露呈してまう可能性がある。そこで、緊急で動かせる一万で奇襲をかけ、残りの四万はルフガダムの本隊が出てくるまでに二万ずつに分けて集めて追いつかせるという、かなり無理矢理なごり押しによる出陣だった。

 何より、そう言う名目で出兵させただけで、魔門の砦を抜けた所で矛先をレウパ王国へ直進。リィンハルト自身が、ルフガダム王国と戦うつもりなど毛頭なかった

「ここは強く圧しても、迂闊に手出しなさらぬよう」

「王子、せめて後方に引き離された残りの兵が揃うまでせめてもの時間稼ぎを」

 近衛騎士も宮廷魔術士も、人目が無ければ今にも逃げ出しそうだ。

「お前達は老兵二人に……」

「我ら相手なら、一人で十分ですよ」

 声を荒げかけるリィンハルトに、オリシスが残念そうな表情を向ける。

 リィンハルトが再びアギとムゼイに視線を向けるが、その顔には信じられないという不信感しか浮かばない。

「お初にお目にかかるな。私の名はレウパ王国で王をやらせてもらっているエンダールという。ケルベナ王国のリィンハルト第二王子には、我が娘が少し面倒をかけてしまったようじゃな」

 気付けば普通に声が届く距離まで近寄られ、エンダール国王自ら気さくな声がかけられる。

 ただ、口調はそうでも、声の響きは普段を知る人が聞けば偽者ではと勘ぐってしまうほど、どっしりとした強かさが感じられる。

 初顔合わせであるリィンハルトの顔にも、やっと計算違いしたような不安が浮かんだ。



「ぇ~と……、どうしましょう……」

 砦の食堂から新しいお茶を運んできたフィラが、先ほどよりも人が増えた光景を見回すと、盆に残った白いティーカップを見つめ、ふと自分に頷くように言う。

「このお茶は次でいいですね」

 ジレルが声に目を開き、それとは少し違う方向へ思い出したように振り向く。

 その背中ではケルべナの第二王子とレウパの国王の語らいが続いているが、短い時間とはいえ、ジレルが居眠りしている間にその立ち位置も姿勢も表情も変わることがなかったようだ。

 つまり、エンダール王の優勢。

 リィンハルトが少し耳障りな音を立てて白いティーカップを皿に置き、進み出た従者に渡す。

 エンダール王が小さく心地よい音を立てて白いティーカップを皿に置き、渡す従者を連れて来ていないことを思い出すと何となく両手で持ち直す。

 元からレウパとしては、謎の暗殺者に狙われたディアナ姫の捜索に必死になってはいたが、その実、内情では微妙に困っているとは言い難かった。

 ヘンルータとアネットの二人が城を出るのと入れ替わるように、ルフガダム王国の魔術士長ムゼイがガロワ城のエンダール王の元に訪れ、ディアナ姫がある者と一緒に街道を逸れて南へ向かって居ること、そしてルフガダム王国の剣術士長アギがこっそり離れ警護していることを知らされていたのだ。

 エンダール王にとって二人は親しいというには顔を合わせた回数が少ないが、先々王の頃からの知り合いであり、何よりその腕前の方は信頼している。今では囁かれることもなくなった噂だが、リグリーウナの樹海の魔物が数十年前に消えたのは、ケルベナ王国軍の活躍ではなく、術士長になる前の二人がそこで修行したせいだというものもあった。

 二人が紹介したヘンルータとアネットを信頼しディアナ姫を任せたのも、それがあったからだろう。

 完全に安堵したわけではないが、ムゼイの言葉にひとまずの息をつくエンダール王。

 だが、続く報告ですぐに息を飲んだ。

 元々この国に来たのはレウパとは直接関係ない理由であり、今回の件にはそこまで関与するつもりはなかったのだが、状況確認のために王都カドリアに入ったムゼイは、ケルベナの騎士であるドルグがケルベナの宮廷魔術師長であるアフリクドを狙撃する瞬間を目撃していた。

 私怨による仲間割れとも思ったが、アフリクドの術の防ぎ様は、ムゼイに言わせれば見事と言うよりただの不自然。その後の気の抜けきった隙だらけの諸動作を考えると、狙われていること、それだけでなくどんな術で攻撃回数が一回であることまで知っていたとしか思えない。

 おそらくは、自演。

 ケルベナ王国全体がレウパ王国へ対し何かを仕掛けている可能性すらある。

 ならば、ディアナ姫の安否が分かったからと言って迂闊に動くのも危うい。

 そこでケルベナを疑っていることを気付かれぬよう、ディアナ姫の捜索は現状を維持しつつ秘密裏に別部隊を編成し、道すがら数を増やしながらこうやって駆けつけてきたのだ。

 殿を務めるように最後尾に立っていたセハロ警備兵長が、代え馬の到着かと思えば国王自ら率いての出陣による鼓動の高鳴りをやっと押さえ、ディアナ姫の無事な姿にうむと頷く。

 ケルベナの騎士達の従士と馬は樹海前で発見していたが、何も知る様子はなく、もし樹海に魔術で作られた建物を確認に向かわせた兵士達より前に、別の兵士達が発見しその中に半死体として放置されたヒシクを見付けていなければアフリクドの行動、そしてディアナ姫が樹海を縦断しようとしている確認が取れず、樹海のせいで連絡が取れなくなっていたアギ剣術士長とムゼイ魔術士長との再開も遅れ、ここへの到着はもっと遅くなっていたかもしれない。

 ジレルがそういったレウパの王や兵士達の顔に現れた気構えに感じ入ることもなく、魔門の砦の方向へ一瞥くれると、今はエンダール王のそばから離れ後ろに下がった位置に立つアギの近くへ歩き、そのシワと染み以上に肌の張りが目立つ顔を見上げる。

「ったく、アンタか、森の中でチラチラチラチラ付けてたヤツは。お陰でカージスだかドルグだかの気配が読みにくくて」

「気配は完全に消すつもりだったが、予想より早く気付かれおもしろくてな。少し邪魔をしてしまったようだな」

 顔の彫りが深く整い、重い声ではあるが、そのキリリとした表情が崩れるほどやたらと軽い口調でアギが笑い返す。

 樹海でジレルが時折妙にイラついていた本当の原因は、どうやらアギの気配だったらしい。

「詫び代わりになるか知らないが、戦い足りぬようだし、わしと一つ手合わせしてみるかな?」

「やめとく」

 欠伸混ざりのあっさりとした言葉に、ほぅ、とアギが表情を変える。

「そこそこおもしろい勝負になると思うが?」

「最後に息をしていた方が勝ちという殺し合いなら可能性はあるが、武人と認めた相手は武術のみで戦いたい。そうなると、わたしの勝ち目はゼロだ。自分から負けてやる必要はないだろ」

「ほぅ、ほぅ」

 アギがおもしろがるように言う。からかうような響きもあるが、その表情はからかうというより、純粋に感心して楽しんでいるように見える。

「実はロゼランカ王国からワシらに一つ遠回しな問い合わせがあってな。まとめてしまうと、一年ほど前に内乱を納めるのに貢献したある娘が消えたとかで、それらしき剣術修行を口実に無茶なことをしでかす者がルフガダムに現れていないかとな。そこで世間知らずにチト手ほどきしてロゼランカに送ってやろうと思ったのだが、叩きのめす必要がない程度に自分が見えておるようだ」

「そりゃ手間が省けて良かったな。その娘もたまたまタイミング的に目立っただけで、実際は何もやってないのに、お国復興のマスコットにされなくてきっとそうとう喜んでるぞ」

 見透かした表情に、ジレルが憎々しげに返す。

 アギの隣りに立つムゼイが、背丈では負けても胸筋の厚さでは勝つようなガッシリした体を笑うように揺らすと、年相応ではないにしてもやや老人めいたふっくらさのある顔をジレルに向ける。

「コヤツ気のないそぶりして結構楽しみにしておったんじゃぞ。以前にケルベナがロゼランカまで遠征するという噂があったから、今国交回復で幸せ気分に浸っているケルベナで暴れているに違いないと言って、レウパに急いでいたのにケルベナ国境まで一旦行ったりで……。ま、予定より遅れたお陰で色々楽しい物が見れたんじゃが」

「ルフガダムの術士長って暇なんだな……」

 ジレルが、眠気とは関係なく半分目を伏せて言う。

 だが確かに、ロゼランカ王国とは言ったがおそらくはロゼランカの一役人が、有名な武人に尋ね人の問い合わせをしただけの話し。わさわざ探して動くなど普通はありえない。

「いやいや、気にはしていただけで、もともとワシ等はお主ともレウパとも関係ない個人的な用で動いていただけだ。ここに居合わせるのは以前レウパには迷惑をかけたゆえエンダール王と道すがら少し話しをしていただけ。アネットやヘンルータがガロワ城に居たのも、職を探していた二人にたまたま個人的に紹介状を書いただけ。何かあれば報せるように含んであったが、姫が城から抜け出る手伝いを勝手に連絡の者に押し付け、更には姫を追って城を出るとは……。他国なら少しは畏まると思ったのが甘かった」

「うむ。試験という名目で旅立たせた弟子の第一テストを確かめに来てみれば、不思議なほど色々揃って全くビックリじゃ」

 アギに同調するように、ムゼイがのほほんと大きく頷く。

「弟子ってマジュス殿のことですか?」

 離れて耳をそばだてていたサミヤが、会話につられるように近づき思わず問う。

 チラと、申し訳程度にエンダール王とリィンハルトとの睨み合いも目を向けるが、あちらは会話は続いてもやはり流れに動きはない。

「……あ、はじめましてムゼイ魔術士長様、アギ剣術士長様。わたしはケルベナ王国第一王子レオン付き宮廷魔術士オリシスが娘サミヤともうします」

 そして、顔を戻し慌てて自己紹介。

 今回の件の為に王都から隔離されたように離れた村から突然呼ばれ、それと知られぬようにアフリクドの弟子として入り込んでいたのだが、もう隠す必要もなければ、今更アフリクドの第一魔従士というのも嫌だったのだろう。

 ヒシクが聞けばおいおいと更に自分だけ除け者になっているように悲しくなったかもしれないが、幸いにしてか現在のヒシクはジブコッド城の治療室に運ばれ新しい包帯に包まれ倒れたままだ。ちなみにカージスとドルグがアフリクドと合流した時も、三人はジレルとマジュスについて話すだけで、目の前で倒れたまま聞き耳を立てていたヒシクに関しては、生存しているかも起きているかもそこに存在しているかも確認せず立ち去っていった。

「弟子といっても何か教えたわけではないがな」

「放っておくには危うすぎるゆえ監視していたといった方がいいかもしれん。言ってみれば、第一テストはその必要が無いかの試験じゃ」

 ジレルは半分納得したように頷くが、サミアは首を傾げる。

「その試験が、ハチネロワインを買ってくるようにですか?」

 あまりハッキリしないが、時折マントの内からワインを出し入れするマジュスに聞いてみると、何者かからハチネロワインを買ってくるよう頼まれていたようだった。するとこの二人が依頼主となるのだろう。

「いや、違うな。買いに行かせたことはことはあるが……」

「一年前の話しじゃ」

 アギとムゼイが、ああと何か分かったように頷き、サミヤの顔が微妙に引きつる。

 マジュスは魔力を放出すると記憶を失うようだが、本格的な支障が出ていないことを考えると、それほど多くも長くも過去を忘れている印象は無かった。

 それが一年分の記憶を失っているとなると、どれほど肉体や精神に負担がかかるほどの術を使い、どれほど現状を把握できていないのか。

 レオンハルト王子とエンダール王との話し合い関係するとは思えないのだが、場に知られてはいけない重大な弱点でも知ってしまったみたいに、サミヤが縮こまる首を探すように巡らす。

 だが、先程までディアナ姫の隣りにあった黒帽子黒外套の姿は、今はどこにも見当たらない。

「じゃ、アレが本当の試験か?」

「他は見て大体わかっておるし」

「丁度いいじゃろ」

 そんなサミヤを余所に、ジレルが再び魔塔の壁へ瞳を向けると緊張とは無縁の様子で問い、アギとムゼイが軽く口の中で笑うように返す。

 内心では遠くにピリピリした何かを感じつつも、場を乱してはとその方向へ視線を向けかねていたサミヤが、やっと顔を向ける。そしてほぼ同時に、魔塔の壁、正確には魔塔の壁のその向こうで爆ぜる、それまでハッキリしなかった幾つもの魔力の残煙に、目を大きく開いた。



 百と少しのレウパ王国の者と、一万と少しのケルベナ王国の者が集おうとしているケルベナ領外れを少し北へ──魔門の塔を越え更に少しだけ進んだレウパ領の樹海。

 地面に仕掛けられた方陣から幾つもの魔力弾が飛び出し、アフリクドの示す先で爆発しては苔のように色づいたドロまみれの木々を大きく震わす。

 マジュスの足元近くからは、野太刀を太くしたような刃の爪を持つ細長いカニ腕状の岩の塊がしなるように伸び、空をかき混ぜ爆発するように落ち葉と土塊を派手に巻き上げる。

 もし、この戦いを使い手と呼ばれるほどの術士が見ていれば、『なさけない』の一言で目を背けただろう。

 まともな杖も触媒も無く、傷を抱えたアフリクドの放つ術の一つ一つは威力は小さく、とてもマジュスの異様に強力な結界を破ることは出来ない。だが、それでも一つ一つの術をうまく連携させて放てば翻弄し、ミスを誘えれば倒すことも可能だっただろう。

 マジュスの周りで勝手に暴れ回る地霊玉の作ったカニの爪型刃に至っては、並の術士が作る結界なら術者ごとあっさり引き裂くだけの威力かある。うまくと言うより、まともに振るっているだけで、数歩ごとに息をついている相手など本来なら倒していない方がおかしい。

「……ぐぅっ」

 何度目かのカニ爪型刃を、よろけるように半分避け、術で半分そらしたアフリクドが、顔に茶色く張り付く包帯の下からマジュスを睨み、苦しそうに息を吐く。

 当のアフリクドにしても、言われるまでもなく悲しいほどなさけない心情だった。

 もしこの場に自分を捕らえようとする不届きな者が現れることがあれば、ケルベナ王国宮廷魔術師長の名にかけて敵を屠るべく、周囲の土や植物から急場での触媒をありったけ作り、いつでも魔術封印管のように放てる術を仕込んだ魔方陣を地面に隠すように仕掛け、消えそうになる意識を燃やし待ち受けていた。

 魔塔の壁へと向かい走る百と少しのレウパの兵士に気付いた時も、ほとんどただの棒きれと変わらない呪文字を施しただけの杖を握る手には、震えつつも力が漲っていた。

 だが、あの二人を見た瞬間、それはあっさりと冷え、消え失せてしまった。

 剣の一振りで兵士達の行く道を開くように百近い大木を斬ることなくたわませるアギ。

 たわんだ大木を固定しぬかるんだ土の少し上の空間に橋のような道を作るムゼイ。

 元々リグリーウナの樹海は東西に長く、南北には平らな直線であれば半日で走破することも不可能ではない。アフリクドも、鎧を捨てたカージスやドルグの瞬間速度上昇魔術の持続力を上げて何度か使うことで、負傷しながらも意外と早くここまで辿り着くことも出来た。

 だが……、これは。

 力任せに伐採するでなく、道を作る程度に加減しつつここまでの大木を曲げ続けたアギ。

 そこに不自由なく多くの人間が走れる道を魔術で作り続けたムゼイ。

 アフリクドも幾らかの下準備があれば不可能ではないが、アギもムゼイも何か仕込んでいた様子はなく、しかも疲れというものを全く感じさせない。いやそれだけでなく、あの兵士達の疲れのない動きを考えると、重荷でしかない百人全員に身を軽くする術も掛けていただろう。力もさることながら、根本的な技量、というものが違うのだ。

 おそらくケルベナの宮廷魔術士全員でムゼイ、近衛騎士全員でアギに襲いかかったとしても、全く勝ち目はないだろう。

 何故かレウパ兵の到着に合わせるように魔塔の壁の北門が開いた時には、自分が見つかってしまう前に早く砦の中へ消えてくれと、気付けばただ祈っていた。

 あまりにもなさけない、現実。

 そして、しばしして落ち着きを取り戻し、もう勝機はありえず、ケルベナにも居場所があるとも思えず、どこへともしれず立ち去ろう気怠い体を幽霊のごとく揺らし身を起こした。

 瞬間……、見えてしまったのだ。

 開いたままの北門から、小さな召霊をつれた黒帽子黒外套の子供が出てくる姿を……。

 もし、マジュスがアフリクドを探しているようであれば、アフリクドはそのまま急いで逃げていたであろう。だが、マジュスにはそんな様子はなく、それどころか自分同様にこそこそと逃げようとしている雰囲気すらある。

 そう思った瞬間、その背中へ向け攻撃していた。

 杖にする精霊を得るなどもうどうでもよかったが、せめて場に仕掛けた魔術陣を使い召霊を滅ぼし、今回の計画が蹴躓くきっかけにもなったマジュスに目にもの見せてから立ち去ろうとでも思ったのだろうか。自分でもよく分からないが、消えたと思っていた気概が心の隅でまだ小さく燃え残っていたのだろう。

 それに、どうせ一撃のこと。砦向こうに居るアギやムゼイに気付かれる間も与えずに終わる。地面に唾を吐くのと変わらないほど簡単なこと。

 召霊だけでなく子供一人の命も消えるだろうが、誰が数えるほどの差もない。

 だが、信じられないこと不意をついた攻撃はあっさりと防がれ、地霊による反撃も放たれ、もはや引き下がるわけにもいかず、先程からなさけない魔術の放ち合いが永延のように続いているのだ。

「こら、アンタ達、やめなさいっ」

 そんなアフリクドの心情など知らず、マジュスの帽子のつばの上でミアシャムが、暴れ捲る地霊玉達に叱咤する。

 リィンハルト王子に敗北しかけたディアナ姫の何かよく分からない言い合いは、マジュスの言葉により傾きが変わり、エンダール王の登場で後はもう落とし所を決めるだけになっていた。

 それによりマジュスはもうこの場に居るべき理由がないと判断したのか、急いであの場から逃げ出すことに決めたようだった。

 なにより、未だ東の塔の何者かの存在が気に掛かるらしく、この場に居るのは自分にとって危険。周りにとっても迷惑と、内心を焦るものがあったらしい。

 それを喜ぶミアシャム。今まで他の人間から引き離す苦労をしていたのに、自分から進んで離れてくれるのなら好都合でしかない。

 南にはケルベナ軍が広がり、東西には手頃な遮蔽物もなく、結果的に一度通った魔塔の砦を北へ抜け直すことになったが、追っ手を撒くためにこれまで来た道を逆送するのは順当な逃走経路ともいえる。ミアシャムとしても、これを止める理由は全くなかった。

 だが、砦を抜け樹海に入り少し進んだ途端、背後から殺気が飛ぶと共に辺りに仕掛けられた魔法陣から強烈な衝撃波が空間を捻じ曲げるように叩き付けられた。

 マジュスの防御力をもってすれば大したことはなかったが、もしディアナ姫が近くにいたらかすっただけで元が人間と分からぬほどの血肉片となっていただろう。

 逃げたつもりがマジュスの言う敵に待ち伏せされたかと半端呆然としつつ、陣を仕掛けたと思しき術者へ振り返るミアシャム。

 そして、相手がアフリクドだと認識した瞬間には、地面に消えたと思っていた地霊玉達が、ジレルとの戦いで学習したより実戦的な形に変型しながら一斉に襲いかかっていた。

 元々、地霊玉にはアフリクドに仲間をさらわれ強制的に使役された恨みがある。あの建物の中でも仕返しするチャンスはあったが、アフリクドは命はともかくヒシクに倒されていたうえ、マジュスの目もあり助けてくれた契約相手が不快に感じそうなことは一応は控えていた。

 だが、こうやって解呪してくれたマジュスが攻撃されたことで、完全にブチ切れてしまったらしい。

 小さく鋭くミアシャムでも殆ど聞き取れないが、何とか聞き取ると地霊玉それぞれが可愛い声に似合わない恐ろしげな殺意まるだしの事を叫び、カニ爪型刃に変えた姿を、何度も何度も怒り任せにアフリクドに向けて叩き付ける。

「はぁ……、東塔に居たのがコイツで、しかも先回りの待ち伏せまでして攻撃してくるなんて」

「東塔に居た方は、この人ではありません」

「そうなの?」

「こういう明確な害意のある方ではありません」

「……明確な害意、が無いって………………」

「さぁ、あれで得があるとも思えませんし、ここまで手の内が読めないのは怖すぎます」

「………………」

 どうやら、なまじ相手のことが見えるだけに、見えない相手というものが怖いらしい。

「ところで、どうして貴方は帽子のつばに居て、この方達はあの人に攻撃していて、あの人はこちらに攻撃を仕掛けているのでしょう? 可能なら教えていただきたいのですが」

「……えーっと、ちょっと無理」

 いつも通りのマジュスに、ミアシャムが軽く頭を押さえる。

 説明することは不可能ではないのだろうが、現状ではとてもその気力が出てこない。

 ビシュン……バキッ……サギャッ………………

 言ってる間に樹海の木々から伸びた数本の蔦がアフリクドに絡まるように伸びては返す術に切り裂かれ、カニ爪型刃を避けてはアフリクドが魔方陣を起点に仕掛けた魔力弾をマジュスに向かって無数に放つ。

「……って、あれ?」

 マジュスの結界を包むように魔炎を振りまいて消えた魔力弾の向こうに、何か余計なものが増えているような感覚にミアシャムが首を捻る。

 アフリクドの足元に蔦が伸び、転げるように避けたアフリクドの頬をカニ爪型刃が薄く裂き、切れた包帯の破片が舞う木の葉に混ざる。

 気のせいでなければ、地霊玉とは関係ない力がアフリクドを襲っている。

「ど……いうこと?」

「貴女も攻撃してください」

 問うすぐそばから声が返る。振り返ったミアシャム自身が居るマジュスの帽子のつばの上に、ミアシャムの半分もないほどの背丈の、褐色の肌に胸から太股まで木の皮を巻き付けたような長い緑の髪の少女が佇んでいる。

 ただその少女には、二枚の葉を持つ草を逆さにして歩かせたような粘菌とも見える小さな塊が樹海の奥から蟻の行列のように続いており、少女へと辿り着いてはくっつくように同化し、その度に少女の姿は少しだけ大きくなり、最終的にはミアシャムより少しだけ背が高くなる。

「アンタ……何?」

「わたしはこの樹海の総念。四つの理由により、マジュス様をお助けすることになりました。一つは、わたしである木々達を破壊からお守りしてくだされたこと。一つは、木の王より命ぜられしこと。一つは、貴女もご存じの……」

「あ、いや、そういう理由はいいから。て、アンタはこの子と契約してないわよね。なのに、どうしてこの子の魔力を借力出来てるの?」

「我が身のため意外には、この方には契約など関係ありません。あまりの魔積量に、上位契約しているはずの貴女が魔術的命令を一つも言い聞かせられてないことでお解りでしょう」

 西塔から東塔の様子を探ろうと走るマジュスを無理矢理止めようとして放った言霊が、全て弾かれたことを思いだし、ミアシャムが小さく口を噛む。

「そして、わたし達が力を使えば、この方は力を貸してくれます」

 言われ、ミアシャムが強く口を噛む。

 なんとなく分かっていたことだ。ジレルに樹木が吹き飛ばされた時、マジュスは契約もしていない樹木達のわずかな魔力に自分の力を送り込むことで防御力を上乗せして樹木を守った。そもそも、ジレルが自分で不思議がるほど剣撃の威力が上がったことがあったのも、マジュスの魔力により威力が増幅されたからだ。

 いや、それだけではない。

 今、この場の戦い。

 地霊玉が暴れまくるようにカニ爪型刃を大きく振り回し続けていられるのは、ある意味当然としても、本来なら一撃放っただけで倒れてもおかしくないだけ傷を負っているアフリクドが、こうやって未だに戦い続けられているのもマジュスに借力されているお陰。

 別に意図したわけではなく、金羽晶の影響か認識している相手が必要としていると力を感じると、無意識にそれを自分の魔力で増幅してしまっているらしい。

 つまり、樹海の総念がマジュスに分かるように攻撃行動を行えば、元は大した力が無くとも自動的に攻撃と呼べるほどまでに力が増幅されているのだ。

 ただ、それだけに、攻撃が単調な上に間が空いてしまうため、マジュスに防御力が増幅されてしまっているアフリクドを倒すまで至らない。

「貴女も早く攻撃してください。わたしと地霊玉、それに貴女の力が加わればあんな肉塊など確実に仕留められます」

「無茶いわないでよ……。そんな無理矢理魔力を絞り出させるのと変わらない魔力の使い方をさせたら、この子ただ倒れて気を失うだけじゃすまなくなるわよ」

「普通なら死ぬか気が狂うでしょうね。ですが、この方ならそれくらい大丈夫です。現に今も生きています。それは貴女が一番ご存じでしょう。だから、地霊玉達から頼まれる以前から、この方を探し回ってまで契約したんじゃありませんか」

 言われたミアシャムの顔が、ビクと恐れるように歪む。

「アンタ……。随分と詳しいじゃない。でも、別にこの子の魔力の強さとは関係ないわ」

「先程の三つ目の理由は……、貴女が気にすることではないと思いますよ」



「ヘボい撃ち合いしてんなぁ」

 魔塔の壁の向こうから伝わってくる目に見えぬ魔力の攻防の気配に、ジレルが退屈そうに、それでいて今にもその場に向かって駆け出しそうな表情で言う。

 それを横目に、サミヤがちらりとリィンハルト王子とエンダール王の会話に目を向ける。

「一国の王ともあろう方が、断りもなく兵を率い国境を越えるとは我が国に対して敵意有りと思ってよろしいのですな」

「いやいや、実は国交回復の前に我が手で樹海の化け物を討伐しようと思い、その勇姿を娘に見せようとここまで来ただけじゃ。だが思ったより手強く追うつもりが追われ、気付けば丁度開いていた門に押し込まれてしまいましてな。ほれ、ケルベナの軍隊も勝手に我が領内である樹海の中に入って色々と動き回り砦も壊され、その手強さは御存じてあろう」

 気のせいでなく、五回目の同じ会話だ。

 従者からリィンハルトが飲み干したティーカップをフィラが受け取り、お代わりや他の方も必要か聞き、仕事中ですのでと断られると、エンダール王の元に向かってからティーカップを受け取り、回りに同じような質問をしてから下がる。

 要は会話というより、引くにしろ戦うにしろどちらが先に動くかの、面目の取り合いでしか無い。

 サミヤも何か面倒になったように、砦門の方へ体を向ける。

「ムゼイ様かアギ様が居ればこの場は抑止力になりますから、どちらかはあの場に行って直に弟子の様子を見てはいかかですか?」

「まぁ、少々立ち疲れたか」

「その前にちと喉が乾いたな」

 アギとムゼイが疲れた様子など微塵もなくヘラヘラと言う。

 離れて耳にしたヘンルータとアネットが、そういえば自分達はお茶を配ってないとハッとし、慌てて門砦へ走り出す。が、いつの間にか二人の正面に立っていたアギとムゼイが、道を塞ぐようにそれを止める。

「いやいや、二人とも頑張りすぎじゃ。もう少し休憩しておれ」

「それに、ディアナ姫に付いていてあげねば、何かあれば危ない」

「う~ムゼイ様、そうですか~」

「アギ様がっ、そう言うなら~」

 微妙に諫められた雰囲気もあったが、二人とも気付くことなく一瞬畏まって言葉も固くした後、テレレレッと笑う。

「フィラさんもちょっと休もうよ」

「お茶はここが終わってから改めて出せばいいよ」

 そしてムゼイとアギの大きな姿を背に、空になったティーポットとカップを盆に乗せて歩いていくフィラへ向け微妙に潜めた大声で呼びかける。既にかなり距離が離れていたが、フィラはちょっと考えるように立ち止まると、常人の早歩き程度のゆっくりした速度でヘンルータとアネットの横へと歩み戻る。

「あ……いや、フィラ殿お茶なら」

「……ぁぁ、ワシも一杯と思っ……、うむ」

 アギとムゼイが少し唖然としたように振り返ってフィラに顔を向けた後、少し考えを変えたように言い、そのまま何かに頷くように軽く笑う。

「あれ、ムゼイ様、フィラさんのこと知ってるんですか?」

「お久しぶりです。変わらず元気そうで良かったです」

「うむ、フィラ殿も変わら……、いや、髪が0.1ミリほど伸びましたかな」

「爪も0.001ミリほど変わられたような」

「そう……ですか? 少し湿度が高くなってきてるせいでしょうか」

 ムゼイとアギがぎこちなく言い、フィラが自分の髪を梳くように見つめつつ、何故そういうことを言うのかを不思議がる瞳になる。

 と、同じくらい不思議そうにフィラを見たアネットが、突然パンと手を打ち声を破裂させる。

「そうだ。アギ様、フィラさんをルフガダム王国付属アギムゼイ剣魔総術学園に入れてあげてはいかがでしょう。見所ある良い子だよ」

「ルフガダム王国付属ムゼイアギ魔剣総術学園。それいいね。それで首席で卒業すれば、首席トリオとしてこれからも完璧」

「ルフガダム王国両長認可総合学術園は戦闘訓練授業もありましたよね。戦うのは苦手なので卒業できるかも怪しいです」

 そうなの? と問うような目になるヘンルータとアネットの横で、ムゼイとアギがさも残念そうに小さく頷く。

「人には向き不向きがなぁ」

「戦闘というかなぁ~」

 スイッ

 と、その会話が止まった一瞬に挟み込むように手が差し出され、手の持ち主であるサミヤがちょっとパントマイムっぽくムゼイとアギの前に進み出て見上げ、先程の続きを声を鋭く術で耳元まで飛ばすように小さく言う。

「懐かしがって話している場合ではないでしょう。あの門砦の向こうでは訓練や授業じゃなく本物の命のかかった戦闘をやってるんですよ。あの子はお二方の弟子なんですよね、何かあって……」

「弟子っ?」

「あーっ、そういえばアギ様。弟子は取らないといっておいて、あたしが卒業して都を離れたすぐ後、弟子を取ったって聞きましたけど」

 が、何気にムゼイとアギの横へ移動して耳を澄まし『お二方の弟子』という部分だけを聞き取ったヘンルータとアネットが、サミヤの声を十倍にしたような大きさで張り上げる。

「あれぇ~あたしも去年ルフガダムの王都に行ったとき聞いたけど、噂だけは何度もあったから……、あれ本当だったの? あたしの時も弟子はとらないことにしてるからって。ムゼイ様、酷いですよ」

「いや、だから弟子というより……魔積量的に変な道に走られると」

「放置して置くわけ危な……別に術や技は学院でも教えてるの同程度で……特別に何か教えたという……」

「誰から学んだかが大切なんですよ」

「つまり、放っておけないくらい才能がある者なら特別なんですね」

「くぅーっ、才能才能才能っ。無いって自覚してたけどそれなら取らないじゃなくて、才能が無いから弟子にしないってハッキリ言ってくれればモヤモヤしないで済むのに」

「しかもお二方って、師匠二人ならあたしだって二倍四倍気合い入れて努力したって」

 生きる伝説であるムゼイやアギに憧れ学びつつも、ぶっちゃけ魔術でも剣術でも身を立てる気など全くなかったのだが、これまでありえないと思っていた特別待遇の存在に二人が憤慨し喚き立てる。ムゼイとアギが何とか諫めようと口を開き身振りするが、全然効果がないらしく苦い笑いと乾いた笑いが段々と深くなる。

「ルフガダムの禁庫に収められていた無帽と空套を身につけていた方が居たので、もしやとは思っていましたが。それで色々詳しかったんですね」

 フィラが一人落ち着いた表情で今更なことを言うが、耳元に声を届けてもその耳にしか声が聞こえないわけではないという基本的なミスでまたも会話を中断させ挫けるサミヤも、それを数歩はなれておもしろそうに眺めるジレルからも、これといって返る反応は無かった。



 アフリクドがバッと横飛びにカニ爪型刃を避け、取り落としそうになった杖を持ち直しつつ、マジュスを睨む。顔は苦痛で歪んでいるが、目の奥に狂気めいた笑みが微かに光る。

「ぜぇ……、ぜぇ……。……。……。……どういうことだ?」

 苦戦しているのだが、その理由が分からない。

 単に力が拮抗しているということだろうが、その拮抗している理由が分からない。

 まず、暴走しているかのようにマジュスから放たれる地霊玉の刃。一般的に術者の足元近くから放たれる地の力なら、その放たれた場所から離れるほど威力は落ち、目標まで空気抵抗もあり当然速度も鈍る。

 だが、地霊玉の刃はマジュスから離れアフリクドに近づくほど、まるで風に押されるようにその速度が上がっている。気がつけば植物の蔦のように変化した魔力塊も攻撃に使われていることを考えると、複数の種類の力を同時に使えるのだろう。だが、複数の種類を同時に扱うだけならともかく、同時発動、更には瞬間的に複合までして使えるとなると上級魔術士でもそう多くはない。しかも、それを意図的に行っているようにも見えないのだ。無意識にそれだけのことが出来ているとなると、あの馬鹿強い結界の防御も含め、魔力の動き自体が異常だ。

 そして、もう一つ。

 そんな攻撃を、どうして自分はしのぎきっているのか。

 これほどの傷でこれだけ長引いてしまえば、苦戦も拮抗もなく、倒れていてもおかしくない。

 自分の能力が思っていた以上に高かったとしても、傷も見た目ほど深くなかったのだろうか。

 アフリクドの口元が、荒れた呼吸を無視するように自信と共に吊り上がる。

 だが、このまま戦い続けていられるとしても、こう戦いが長引いては相手は目の前だけでは済まない。砦向こうのムゼイとアギ。流石にもう気付かれているだろう。ならば、あの二人がいつ現れてもおかしくない。

 それに、場に仕掛けた魔法陣もかなり使い潰してしまった。

 まともな組み合わせで攻撃できるのも、後三回と言ったところだ。

 ふと、攻撃が結界に阻まれ効かないのであれば、マジュスと精霊の上位契約を強制解除してみてはという考えが浮かぶが、今残った魔積量と体力では術の行使は不可能に近く、この場に描いた魔方陣も魔術妨害はともかく解呪として使うには不向きなものばかりだ。

 アフリクドが逃げるなら今が最後の時では、と思いつつ、その心の悲鳴に逆らうように口を噛み、何か閃いたように残りの術の使い方を決めると、杖を両手に持ち直し、奇声じみた息を吐いてマジュスに体当たりするように突っ込む。

「我は大陸最強のケルベナ王国、宮廷魔術師長なりぃぃぃぃ……きぃぃぃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーっっ……!」

 魔術は近年戦闘用に特化してきた為、戦闘術としてイメージが強いが、元は利便性の追求。汎用的な目的から発展した術だ。対し剣術などの武術は、戦闘用として最初から特化している。

 そのため魔術を限界まで極めても、一対一の接近戦という条件においては、武術、もしくはそれに類する体技を身につけていなければ、武術を一通り身につけた程度の相手にも勝てない。と、いうのが通説となっている。

 実際、上級という実能力の称号を得ている魔術士は、武術においても並レベルの修得はしている者がほとんで、アフリクドに至っても筋肉など枯れたような身でありながら、新兵の一人くらい軽くあしらえる剣術を身につけている。

 だが、残弾少ない魔術を捨て、殴り合いに持ち込もうというわけではない。

「かぁぁっ」

 マジュスにブツかるかと思う眼前でバッと杖を左手で振り上げ、それに合わせてマジュスを囲むようにこれまでに無く大きく鮮やかな力をほとばしらせた魔法陣が輪を締め付けるように浮かび、更にその外の魔法陣から幾つものの魔力弾が絡まるように飛び出す。隙間なく球状に包み込み、輪が光となり、数十の爆発が膨れる塊となって押し潰す轟音を上げる。

 偶然かアフリクドの執念か、アフリクドが仕掛けた中でも最大にして重なり合うように描かれた五つの魔法陣の中央に、マジュスが誘われるように踏み込んでしまっていたのだ。

 もちろん、今のアフリクドが仕掛けられる魔力弾では百近い数を持ってしても、マジュスの異常に強力な結界を吹き飛ばせないことはわかっている。

 狙いはその次の瞬間。

 マジュス自身が灼熱の塊となって噴き出したような爆炎に吹き飛ばされそうになりながら、アフリクドが懐に隠していた魔力を秘めた短剣を右手で突き込む。

 魔術が剣術に接近戦で負ける最大の理由は、攻撃の間。

 一見すると魔術の方が事前の動きが見えないため、剣術よりずっと早く見えるが、剣術には攻撃する前には溜と呼ぶべき動作から動作への間があり、魔術は外見にそれが表れにくいだけで剣術よりもどれだけ修練しようとその間がずっと長い。

 もちろん、結界を張り続けている相手にはそんな間など関係ないが、もしなんらかの行動に魔術で対応しようとすればどうやっても遅れる。

 だが、アフリクドが短剣からのずっしりとした手応えを感じつつ、その手応えよりも先に、顔を呆然としたように固まらせる。

 短剣はマジュスから見て、顔よりも右の少し上。帽子のつばに座り込んでいたミアシャムの目の前で、革の手袋をしたマジュスの小さな手に握られるように止まっている。

「ばっ……、がぁっ……」

 短剣を力任せに引き戻そうとして手から柄がスッポ抜け、マジュスの顔を掠めるように空になった右手を振りつつアフリクドが困惑する感覚から逃げるように距離を取る。

 単に攻撃が失敗しただけならそれまでだが、幾つもの予想外が今の一瞬の間に起こっていた。

 結界を破るのは不可能。そう判断したアフリクドは、マジュス単体にこれ見よがしに無数の攻撃を集中させることで結界もその身に集中させ、守りが薄くなるであろう帽子のつばの上の召霊──一度は欲したミアシャムを消滅させ憂さを晴らし、残りの陣を使ってこの場を離れるつもりだった。

 だが、マジュスを囲んだ魔力伝達を乱すはずの輪には何の手応えもなく、入れ替わりそれを包んだ数十の魔力弾はまるで結界が礫と変化して飛び出したような魔力塊によって全て撃墜。これまでよりマジュスから離れた場所で魔力弾が爆発したことでアフリクドの踏み込みが甘くなり、短剣はマジュスの革手袋をした右手に刃を捕まれ、薄くなっていたであろう帽子の上の精霊を包む結界をも突き破れぬまま止まってしまったのだ。

 いや、本当に薄くなっていたのか、掴まれなければミアシャムを屠っていたのか……。

 一番驚いたのは、短剣の戒めを振りほどき損ねて柄から離してしまったアフリクドの手が、マジュスの頬を掠めた瞬間。

 結界の手応えが、全く無かったのだ。

 攻撃を読まれていただけかもしれないが、結界は召霊達だけを守り、自身を全く守っていなかった。

 だが距離を取り、焦げた包帯の下で冷静に成り行くアフリクドが、それらとは全く関係ないようで関係ある不可解な感覚を思い出し、包帯ごと顔を歪に変える。

 魔力を持つ短剣を受け止めた手、そして掠めた頬。

 二つから──、マジュスその物から感じた魔力の流れ。

「……お前は半分、いや、正確には七分の四ほどか……体が吹き飛んでいるのか」

 こんな時ながら、アフリクドの顔に魔術的探求心から来る笑みが歪んだように浮かぶ。

 脈絡無い唐突な言葉に、地霊玉と草粘の振り回されるカニ爪型刃と蔦の攻撃には変化は無い。だが、ミアシャムの顔に樹海の建物で話した時以上の怯えた何かが浮かぶ。

「相当の魔力の衝撃だったようだな。死んでおかしくないが、その異常に多い魔積量で変換、擬似的に肉体を作ってしのいだのか……。三年か四年……それくらい立っているのか」

 アフリクドが疲れで喋るのが面倒になり、心の中で言葉を続ける。

 おそらく非実体の精霊や半実体の怪魔にとっては、単に魔力が強いだけの人間に比べかなり取り付き易い魔力体質が形成されているはず。

 記憶を失うのも制御力が低いこともあるが、魔力を自分の身から離すように放出してしまうと完全には安定していない肉体が僅かに崩壊してその分だけ時が戻ったように縮み、それを形成し直す補強剤兼接着剤として記憶を含む魔力が使われ、体が安定するまでの間は記憶として取り出せなくなっているのだろう。

 先程の瞬間的に魔力が複合されていたのも、その魔力体質の影響と見た方がいいだろう。

 アフリクドが欲し探していた杖代わりの制御装置として考えると全くどうしようもないが、魔力増幅装置として考えるなら月神級の精霊を従えるよりずっと効率的な存在かもしれない。

「やれやれ、あの時に気付いていれば……」

 そのミアシャムという召霊とマジュスという魔力塊体質の子供を杖代わりに従えれば、大陸最強の魔術士……。

 だが、その言葉は喋らないのではなく、口にする前に失笑で打ち消す。

 能力的にはありえるかもしれないが、精霊でなく人の子を操るなど、宮廷魔術師長としては見た目が悪すぎる。

 捕らえるよりむしろ、後の成長で目障りにならないようここで確実に始末してしまった方がいい。

「どうしてこんな危ないことをするんですか?」

 と、まるでアフリクドの言葉に返すように、それでいて全く返していない質問をマジュスが突然声が高く響かせる。

 アフリクドが何を今更と見下すように顔を向けると、マジュスは大きすぎるほど力強い黒い瞳を開き正面から見上げ返す。

「この方に何か恨みがあるのでしょうか?」

 アフリクドの返事がないと見ると、ミアシャムの居る帽子のつばの先へ視線を向ける。

「どなたか分かりませんが、状況かわからないので教えていただきたいのですが?」

 ミアシャムが、怯えも吹っ飛んだようなハッとした表情になりながら、焦点をアフリクドに向ける。

 視線を受けたアフリクドのポカンとしかけた口元に、ゆっくりとニンマリした笑みが浮かぶ。

 何のことは無い、この子供を倒すことなど簡単だったのだ。

 先程から妙に本人の動き無く、連携も全く考えてない暴走のような地霊玉の動かし方をしていたのもそのせいだったのだろう。

 魔力を精霊を介さずに放出をさせてしまえば、この子供は記憶を失い状況認識がリセットされてしまう。

 相手の顔色から状況を読みとる妙な術を使える節はあったが、幸いにして自分の顔は包帯が巻かれて顔色などわからない。

 先程も短剣を掴んだ後に全く無防備だったのもこれだろう。

 普通なら二度とないチャンスを逃したことになるだろうが、先程と同じように魔力を身から放出させれば何度でも忘れ、何度でもやり直せる。

 攻撃できるのは残り二回だが、分かっていれば二度と失敗もない。

「済まないが、その短剣を下に置いてくれないかね。危ないから、置いたら話そう」

 アフリクドの言葉に素直にマジュスが短剣を地面に置き、察したミアシャムが何か口走ろうと慌てるが、それを確認したアフリクドは既に走り出している。後は言われようがバレようが、すぐに忘れてしまうだけに結果は変わりようがない。

 アフリクドは地霊玉のカニ爪型刃をかわし、草粘の蔦を杖の魔力でなんとか断ち切り、先程より少し遠く数も少ないが魔術陣からり魔力弾を包むようにマジュスの帽子の上の召霊達へと放つ。先程の映像でも繰り返したかのように自らも爆風を受けつつ、隠していた最後の武器である魔力のこもった手斧をミアシャムに当たってくれればもうけばかりに力一杯振り下ろす。

 先程の短剣はカージス、この手斧はドルグから、何か少しでも転送する力の補助となる魔力アイテムはないかといい、実は転送に全く関係なく身を守るために無理矢理巻き上げておいたものだ。

 ガシッ

 流石にこれも当たってくれとはいかず、先程と同じようにマジュスに掴まれるがそれでいい。マジュスの腕力だけでは受け止めきれず、ミアシャムを守るために魔力が身から切り放される放出されたことを感じる。

 後は、マジュスが状況を認識できずにいる間に、腕をクロスさせ左手で持つ杖でマジュスの顔面を鋭く突くように狙う。棒っ切れでも、まともに当たれば結界の守りなど無い子供の頭蓋骨に穴を開けることは造作もない。

 ドグシャ……

 そう勝利を確信したアフリクドの笑みに、マジュスの右の拳がメリ込み、ほんの気持ち程度遅れ、辺りを湿らず泥に比べるとやたらと新鮮な水飛沫が顔全体にかかった。



「と言うことなんだよ。わかってくれましたか」

「今後そうコロコロ発言を変えるのは止め、お止めください」

「あい分かった」

「ワシもまだまだじゃ。気をつけるぞ」

 言いたいだけ言ってスッキリしたヘンルータとアネットの前で、全然聞いてなかったし、そもそも内容的にも今更聞くようなものでもなかったが、アギとムゼイが態度と表情はともかく言葉だけはへりくだって謝る。

 ヘンルータとアネットの勢いに押されて何を言うつもりだったか忘れてしまっていたサミヤが、愚痴が一段落するとハッと思いだし、もうムゼイとアギに言うのは諦め自分一人だけでも門砦の向こうへ行こうと場から後ずさりするように一度下がり、くるりと向きを変え走り出す。

「………………」

 だが、二歩も進まない内にムゼイとアギの大きな体に行く手を壁のように遮られ、ピタリと立ち止まる。

 二人ともサミヤが踏み出した瞬間は、挫けヘタリ込みかけていたはずなのに、一体いつ目の前へと動いたのか。

 サミヤがそのまま擦り抜けようと隙を探すが、一点の穴もない大きく厚い壁がそこにあるかのように全く見付けられず、気づけばただ力無く立ちすくむ。

 分かりきったことだが、技量の差があまりにも違いすぎる。

 サミヤが固まりかけたアゴをほぐすように、口を開く。

「あの子、魔術を使う度に記憶を失っているんですよ」

 また聞き耳をたてられてないかとハッとするが、幸いサミヤが移動したことでヘンルータとアネットとの距離は離れたうえ、二人ともお喋りに満足したのか今度はこちらに近寄ってくる様子はない。

 二人とも無関係ではないが、気軽にこういったことを話していいほどこの件に深く関わっているわけでもないことは、先程のムゼイとアギとの口論で分かっている。

「そもそも、相手はあのアフリクド。あんなのでも、宮廷魔術師長。試験とかそういうことに使っていい相手じゃない」

 逆に力になってくれそうな相手はとディアナを探すが、ベイルが何を言っているのか遠くで話し込んでいて、こちらに気付く様子はない。それにディアナに迂闊なこと言って妙な行動をされても、それはそれで面倒だ。

 サミヤが再び見上げるが、ムゼイもアギもどこ吹く風な表情で、まるで今の言葉が聞こえていなかったかのようだ。

 サミヤがブツかってもいいから押し通ろうとするが、何が起こったのか二人の体に当たると思った瞬間には歩き出した場所に戻っていて、何度やってもやはり進めない。

「ムゼイ様っ、アギ様っ」

 サミヤが声鋭くして叫び、少し離れた兵士達の何人かがどうしたのだろうというように振り向く。

 よくよく考えてみればだから邪魔していたのだろうが、ムゼイもアギもあまりこの事は回りに知られたくないらしく、ちょっとだけ仕方なさそうな表情で少しだけ身を屈める。

「大丈夫じゃて。忘れても、早ければ一週間、遅くても一ヶ月、魔力を使わなければ思い出す」

「制御用の杖は渡してあったはずだが、まぁ却って都合がいい。この条件でどうにも出来ないようでは、次ぎに何かあれば死ぬだけだからな」

「一週間って、後で思い出しても……今戦ってるんですよ。戦闘中に一々忘れてたら。それに杖がないのが都合がいいって、今負けたら次ぎもありません。そこまで疑いたくはないけど、アフリクドは戦場で敵兵を多く殺しているだけでなく、気に入らない味方の兵も戦闘に紛れて殺して来たと噂もあるヤツです。勝ち負けとかじゃなく、一度敵と決めたらどうなろうと殺すまで気がおさまらないんです。そんなゲスに、魔術を使う度にディアナ姫やミアシャムさんのことも忘れてしまうような状態で……」

「ほう、それは良かった」

「うむ、良い旅をしているようだ」

 ムゼイとアギが突然笑み、サミヤが何か表情を無くすと、もう場に居るリィンハルト王子やエンダール王に聞こえるくらい大声で言ってやろうかとばかりに、深く息を吸い込む。

 ムゼイとアギが半笑い半引きつりで、止めるように慌てて手を振る。

「それが師の態度ですか……」

「仕方がないのぉ。あまり今は長々喋りたくないんじゃが、一つ講義すると、曲がり者の異形化とも呼ばれる現象、姿肉体が変化したり、精神にも影響が出るあれじゃが、要は防衛本能のなせる技じゃ」

「肉体が変化するときは命に関わらない場所から。精神、記憶を失う場合は、安全なことから。楽しい思い、嬉しい記憶、そして気に入った相手、つまりすぐ忘れられほど幸せに生きて居るということだ」

 それは却って悲しく辛いことではとサミヤが言いかけるが、その考えとほぼ同時に別のある考えもじわりと浮かぶ。

「つまり……、当人が危険と感じたこと、危険と感じた相手は、忘れ無い」


 ゴッ・ドッ・ゴガッ・ゴスッ・ダゴッ・ビシッ・ガゴッ・ドシュメキキキキキッ……

 マジュスの記憶に残る中で最も強烈な攻撃、どこかの樹海の中で革手袋をした拳から受けた八連打を朧な記憶を頼りに真似、朧な記憶を鮮明にしようとすることで強化され、欠けた朧な記憶を補おうと増幅され、アフリクドの頬にマジュスの拳が何度も打ち込まれ、記憶の最後の一振りは再現不能と、頬にメリ込んだ拳をそのまま強く押し出す。魔術と武術の違い、今回は決定的な腕力不足により威力部分は劣化してしまったが、以前樹海の建物の中でアフリクドの解呪を幾分改良して再現してみせた時にも似ている。

 それに耐え、倒れないよう押し返すように身を固くし、アフリクドがギョロリと見回す。

 一体、何がとうしてこうなったのか……。

 考えると血の巡りが変わり意識が薄れそうだが、意識を保つためにより必死に状況を考える。

 目の前の自分を殴るマジュスの目は、怒りに滲むように光ってすら見える。

「一体、何なんですか? 二度もこの方を傷つけようとして、酷いですっ!」

 マジュスが全身の力を乗せるように拳を更に突き出す。背丈にまともに届かないはずだが、気付けばマジュスは空気と空気の境目の僅かに力場が働いた部分に足を乗せ、力場が崩れてはまた別の力場に足を乗せ、まるで空中を歩くようにアフリクドの頬を押している。もしマジュスの足がしっかりと地面に届いていたら、確実に最後のパンチを受けることなく自分は倒れていただろう。

 そして、その言葉でもある事がわかる。

 マジュスは確かに状況を理解していないが、アフリクドがミアシャムを刺そうとしたことはしっかりと覚えている。

「この方は貴方を傷つけようとはしていないのに、理由を説明してください」

 言われてアフリクドが目を向けて見れば、マジュスを刺そうとした杖は空中に現れた小さな水の渦に捕らわれ、マジュスの顔の少し横で細かく力強く震えている。おそらくミアシャムが出現させ、マジュスに当たる杖を逸らしたのだろう。先程からの水飛沫はこれだったようだ。

 それを静かに見つめつつ、ミアシャムが微かに睫毛の微妙な動きで自分に頷く。

 アフリクドの意図も確かに読んではいたが、察したのはそれだけではなかった。マジュスのアフリクドへの質問を考えると、忘れているにしては刺そうとしたことを明確に覚えているし、そもそもディアナ姫達の元から離れようとしたのも、地霊玉達を守るために意識を失うほどの魔術を使ったにも関わらず西の塔での出来ごとを覚えていたからだ。

 それに、言葉使いも口調もいつもと代わらなかったが、マジュスから流れ込んでくる微妙な魔力の変化には、何かが一点に集中されていくようなこれまでにない力強さがあった。

 おそらく、あの時点でアフリクドの返答次第では殴りつけようと心に決めていたのだろう。これまでも何かあればその場へ一直線に向かっていったが、いざという時はかなり押しが強い性格ようだ。

 その押し出されるマジュスの拳を、アフリクドが受け止めている頬で押し返しゾッとする。

 完全に八方塞がりだ。

 倒れないようにするには押し返し続けるしかなく、今の力では押し勝てそうもない。左手に握った杖は水の渦に捕らわれ抜けず、放そうにも杖の強い震えと自分の焦りから手が思うように動いてくれず、左手は杖とつながったように動かない。右手に握っていた手斧はマジュスがアフリクドを殴るためにその柄を引っ張りつつ跳び上がった瞬間に抜け落ちて転がり、自由な筈の右手もバランスをとるために固まってしまいやはり動かない。こんな状態では、地霊玉のカニ爪型刃が来ても草粘の蔦が来ても反応など出来ず、杖を捕らえている水の渦が腕へと上ってきてもその回転で体ごと弾き飛ばされてしまうだろう。もちろん、何か魔術を使う余裕など全くない。

 だが、恐怖して待てどそれらは来る様子が無く、僅かにアフリクドの顔が前へと動く。

 マジュスが押す力に変化はないが、どうやら足場にしていた空気の淀みが、場が安定するに従い減り、足が前へと進む力が減って来たらしい。

「ちゃんと答えてくださいませんかっ?」

 足の空回りを感じ、マジュスの声に少しだけ焦りが混ざる。

 別に、押し勝ったところで、押し負けたとしても、それで根本的に自体が好転することなどありえない。

 だが、こうなっては、ここまで来ては、負けてはいけない。魔術師長としてのプライドか、大人としてもプライドか、男としてのプライドか、もう自分でもわけがわからないが、ただ、ここで負けるわけにはいかない。

 馬鹿に見たいな意地で、残る力を振り絞って顔面で拳を押し返す。

 ガッ……シッ………………

 だが、妙な音がマジュスの後元で響き、マジュスの足の動きが止まる。

 見れば、マジュスの足の位置に合わせるように岩のような土塊が地面から盛り上がっている。

 それでも、体重差から微妙に滑りそうになるが。

 シュリッ……

 蔦と言うより木の根がその土塊に広がり、マジュスの足にも絡まるとその場に固定する。

 地霊玉も草粘も状況に戸惑いしばし見守ってしまったが、どうやら決着はマジュスに任せることにしたらしい。

 足場を得たマジュスとアリトクドの力が拮抗し、歯を食いしばる唸りが樹海を熱く満たす。

 マジュスの目に、僅かに涙が光り、流れ、空中で消える。

 本物の涙ではなく、小さな体から溢れる感情に導かれた魔力がそう見せたらしい。

 アフリクドの目にも僅かに涙が光り、流れ、包帯が滲む色に変わる。

 傷による体の痛み、疲れによる心の悲しさ、この戦いの先を思う侘びしさ。それらが見せた、アフリクドの本物の感情だったようだ。

 グボギッ

 その瞬間、軋むように震えた頬から鈍く音が響き、振り抜く拳の合わせてアフリクドの体がつんのめるように後ろに倒れる。背中に大地を感じると共に、視界が緑の葉と青い空で埋まる。

 顔の骨より先に何かが折れていたような表情でアフリクドが身を起こし、焦るように見回す。召霊達のトドメの一撃が来るはず。

 だが、マジュスの広い帽子のつばに集まるように並んだどの姿の召霊も見下ろすだけで動く様子はなく、マシュス自身もこれといって何かする様子もなく、ただ息を整える。

「済みません、協力させてしまって……」

 周りの精霊達に言い、それからアフリクドを見据える。

「説明、お願いできますか?」

「………………」

 分かっていないと解っていたから戦ったのだが、分かってもいない相手に負けたと言うことが、ただ悔しい。

 最後の魔術陣を発動させる力も、この場を離れる力も残っては居ない。アフリクドが、力と感情の全てを使い切るようにただドンと拳で地面を殴る。

 もしゃ……

 と、拳と頬で押し合う二人のそばにいつの間にか現れ草をはんでいたうさぎが、次ぎに食べようとしていた草をアフリクドの拳に潰されたらしく、スッとその顔を見上げる。

 うさぎの肉球のある前足が、拳のように握られる。

「あ、かっこいい」

 そして、ミアシャムのハッとした表情を無視するようなマジュスの素直な期待の言葉に合わせるように放たれた拳の衝撃に、リグリーウナの樹海も魔塔の壁もこれまでにないほど大きく弾けるように震えた。



 リグリーウナの樹海が爆発し、魔塔の壁の数倍の高さまで溢れた水が飛沫と共に新たな壁のよう乗り越え、百と少しのレウパ兵と一万近いケルベナ兵を飲み込み、大海の底に沈めるかのように広がり、ものの数十秒で全て流れたように消える。

 辺りには水溜まりが広がり、兵達も全員ビショ濡れではあるが、それほどの水が溢れていたような跡はなく、これだけの水があっても誰一人として半歩さえ流された様子はない。

「な……んだ?」

 リィンハルト王子が大波が来る前と全く同じ姿勢で椅子に座ったまま、金色の髪から水滴を滴らせてオシリスに問い、姿が隣から消えていることに気づくと、ハッとレウパ兵達の奥へと顔を向ける。

 視線の先には、何事もなかったように立つオシリス。隣には、アフリクドの魔従士であったはずの団子頭の娘。

 オシリスが防いだらしく、どちらも髪も服も乾いており、まるで今の大水などなかったかのような笑顔だ。

 そして、濡れていないのは二人だけではない。

 アギと、アギに守られたらしいエンダール王と王を庇おうと駆け寄った一人の兵士。

 ムゼイと、ムゼイに守られたらしい侍女姿のやかましい二人。

 剣士風の女と、その女に守られたらしいディアナ姫。

 お茶の盆を持っていた侍女はビショ濡れになっているようだが、その盆の上のお茶は無事で、しかも見直したときには先程は見間違いかと思うように髪も服もふわりと風に揺れている。

 残りのレウパの兵はズブ濡れだが、一瞬乱れた様子はあったものの王も姫も無事と分かるや、何も無かったのように整然と隊を整え直している。

 対して……。リィンハルトは真っ直ぐに立ち上がると、誰の目もはばかることになく悠然と自軍を見回す。

 兵達は鍛え抜かれただけに、表情こそ統一されていないが整然と全兵士が隊列を整えている。

 宮廷魔術士も近衛騎士達も、リィンハルトの声を待つように真摯な姿勢で構えている。

 だが、水に濡れていない者は一人としていない。

 個々の能力が違う……。

 兵の錬度は同じだが、それはレウパ王国が軍事王国ケルベナと比べても、安穏を貪り怠惰に生きているような国ではないという証明でしかない。

「大丈夫か?」

 リィンハルトが自分でも意外と思う言葉を口にし、一番正面にいた宮廷魔術士が畏まる。

「はっ。何者か霞のごとく僅かながらも結界を張ってくれたらしく、誰一人流されることなく」

 リィンハルトがそれは誰だと問うように視線を巡らせるが、ここには自分と名乗り出る者はいない。それさえはも、レウパのお陰と言うことだろうか……。

「レウパの者の攻撃ではないのだな」

 周りと言うより、自分の思考に問うように口にする。

 無意味なタイミングで味方を巻き込んでの攻撃はおかしく、敵を守るような配慮まである。それだけでなく、これほどの大規模な破壊をもたらせるモノが、アギやムゼイの他にも居る。

「樹海の化け物か……」

 見れば先程まで魔門の壁の砦から伸びていた二つの小高い塔が消えている。ここより大波の発生源に近いだけに強く衝撃を受け、折られてしまったのだろう。ここからは見えないだけで、他の建物への被害も相当かも知れない。

「おそらくはそうかと」

「守備隊から、門の破壊もレウパとは関係なく樹海の化け物との戦闘によるものと報告が届いております」

 完全に自答の呟きだったが、言う言葉を見付けた宮廷魔術士と近衛騎士から同意の声が飛ぶ。

 樹海の化け物の出現の報告を聞き、討伐の準備を装って遠征に必要な資材食料を送っておくよい口実が出来たと思っていたが、これもまた軽んじていい相手ではなかった。

「リィンハルト殿、どうも話し合いに水が入ったようだ。挨拶も十分済んだことだし、ここは水に流してお互いまた後日としてもらって良いかな」

 エンダール王が先程までと全く変わらぬ表情と口調で落ち着きを払い、その視線の上に居るリィンハルトが見据えられたように口元を堅くする。

 アギとムゼイがエンダール王の言葉に、何かすごくうまい駄洒落でも聞いて吹き出しそうになるのを必死に押さえたような身もだえをするが、他には誰と動くことなく微妙な間が過ぎる。

 それは、解っていたことだった。

 オリシスとイフトスに事情を知られ、手元にはそれに対応できるアフリクドは居ない。

 兵数では勝っているが、この違いを見れば勝てる気などしない。

 この後に及んでこの場でエンダール王との実のない会話を続けていたのは、失敗したことが感情的に信じられなかっただけだ。

「3万……、それに更に5万、が必要だったな」

 合わせれば八万。五万の兵があれば、流石にアギやムゼイ、他の者達が化け物じみた戦いが出来ようと流石に勝ちを収められただろう。三万あれば、先程の全軍を押し流しかねなかった大波を起こした樹海の化け物も探し討伐出来るだろう。だが、自分は5万の兵を揃えることも出来ず、3万の兵が揃うまで待つことも出来なかった。

 もくろみが甘い……。いや、そもそもが、甘えた考えだった。

 攻め入りさえすれば、ルフガダムに手出しされる前にレウパの王都など陥落。

 父も兄も自分の意図に従うしかない。

 そう思い、父と兄を殺さなかった。

 だが、他国に攻め込むならばまず父と兄を殺し、ケルベナでの自分の地位を確固とするべきだったのだ。

 出来なかった時点で、最初から勝ちはなかった。

 リィンハルトが、チラとディアナ姫に視線をくれる。

「うちの兄には似合わぬほどしっかりした姫君だ」

 ディアナが、返す言葉に困った表情になる。返す言葉が思いつかなかったわけではないが、リィンハルトの口調が先程までと違い、どことなく、何を言っても可哀想な気がしてしまう。

 レウパの姫を殺し、それをルフガダムの仕業とし、同じく王の親族を殺された国としてルフガダムを討つと協力を求め軍を王都カドリアに近づき、目前で実はレウパの仕業だったと兵の怒りを高めそのまま攻め込む。

 結婚を破断させ、出来れば兄を退けこの国の王として迎えられる方法は何かないかと問うたとき、アフリクドの言って見せた筋書きはこうだったろうか。

 それなら最初からレウパに殺されたとして攻め込めばいいではないとかアフリクドに問うと、レウパのような弱小国では大臣や将軍がナメきって説得力もなく、兵を集めるのに却って時間がかかり余計なことがバレる可能性が高い。そう笑ったあの顔は、爽快すぎて正直不安になったのを今になって思い出す。

 そしてアフリクドを大使として推薦、カージスとドルグもつけて送り出したものの、やはり兄は殺せず。いや、汚れ仕事を任せられる数少ない手駒であるカージスとドルグを送り出した時点で内心では決めていたのだろうが、兄を閉じこめ暗殺されたとの嘘の情報を流したものの、姫暗殺をきっかけにする点だけは迷うことなく心の底から同意していた。

 国交を回復する糸口にならないかと思案し、自分に文通の真似事などをさせようとする兄、それに恋心でもあるかのように嬉しそうな文を返すレウパの姫。

 例えこの計画が失敗しても、姫だけでも死んでくれれば実に心がスッキリしそうだと思った。

 だが、見た目こそ想像に近いが、話してみれば手紙の印象とは全く違い、いや、手紙の言葉一つ一つがこれまでと違い恋の甘さの下に冴え渡った考えがあるように思えてくる。

「華やかなだけの腑抜け国に閉じこめられると思ったが、レウパを育て、いずれはケルベナを属国してしまうのもおもしろかったかもしれんな」

 流石に誰かに聞こえるほどの大きさではないが、自分の思いを全て吐くように口にする。

「牛車を回せ、兵も全て王都に戻る。兄の死は誤報だ」

「は?」

 リィンハルトの表情に、とんでもない言葉が発せられるのではと身構えていた近衛騎士が、別方向にとんでもない言葉に呆ける。

 誤報?

 確かにレオン王子の死は自分の目で確認したわけでもなく、急いで色々決まったが、それでも国の先行きに関与できるを地位の者達が集まり会議を開き決まったことだ。それが誤報? だいたい、その知らせはいとどこから?

 だが、この軍を指揮し、現在のこの国の実質指導者ともいえるリィンハルト王子にそう言い切られては、従わないわけにもいかない。

 それに、今回のような感情と勢いのような派兵は、事情を聞かされていない兵士達は元より、レオン王子暗殺の報復と聞いた近衛騎士の間ですら不満の声は多かった。

 ルフガダムと戦うならば、もっと他のやり方があると。

 そして、あれほどの化け物がいる樹海。魔塔の壁を壊すほどと聞いてはいたが、討伐が完了するまでは迂闊に入るわけにも行かない。そもそも樹海はレウパ王国領なのだ、威光を知らしめるためだけにケルベナの兵達を無駄に死なせる必要はない。そう、レウパの者達に討伐してもらはなければ割に合わない。

 言葉を聞いた近衛隊長が、近くの近衛騎士に言うとその近衛騎士が馬で走り出し、しばらくするとあちらこちらで声が上がり、軍が身震いして来た道を戻るように動き出した。



 壊れた魔塔の砦の南門を抜け、中央部の仕切のように鎮座していた倉庫跡の剥き出しの土の上を歩き、門と言うより壁がなくなった魔塔の砦の北門を整然と越え、レウパからの百ほどの客人が自国領内へと戻る。

 ここから砦を壊すほどの力が放たれれたと思えぬほど変わらず緑を湛える樹海に入る前に、不備がないか確認するように一度止まり、隊列を整える。

「本当に帰ってくれたようだな……」

 ケルベナ領へ振り返ったアギが、ほうっと大きく息を吐く。

 壊れた砦の中を抜け直した視線の先、普通の者には砦修復と警備のために残る三千程の兵も健在な南側の壁のせいでまず見えないが、大陸有数の武人にはリインハルトの牛車と騎士隊を含む七千近い兵が遠く消えていく姿が確実な気配として見えている。

 何故か牛車を引く怪牛が、急に全ての体調不良が直ったようにスキップしていて乗り心地が悪そうだったが、とにかくその様子だと、今から転進してこちらに攻め入るということもないだろう。

 コルジュがディアナ姫に用意した馬車への同席をすぐ動けるようにと断り、レウパ兵に続くようにたまたまアギの斜め後ろに居たジレルが、気弱そうな言葉に意外と感じた視線を向ける。

「あ~……実はな、レウパの王都がケルベナから攻めやすそうな南にあるのは、国がちゃんと出来る前に国境が変わったこともあるが、その後も移転しなかったのはリグリーウナの樹海に魔物が居て、それが天然の国境を越える壁ともなっていたからなんだ。だが60と……数年前、修行がてらにこの樹海に来たら魔物がぜーんぶ逃げてしまって。いや、酷魔のような危険な類でもなかったし、無闇に退治するつもりなどなかったんだが………………」

「コイツそれでな、当時のレウパ国王のところへ一緒に謝りについて来てくれと泣きおって」

「泣いてなどおらん」

「まぁ、人目もあるから今はそうしておこう」

 やたら慌てるアギに、ムゼイがちとつまらんとばかりに視線を外す。

「とにかくそういうことでな。このまま戦になっては少々寝覚めが悪かったんだよ」

 ジレルがかなりどうでもよそさうだが、とりあえずそうなんだと頷くような表情になった後、自分も魔塔の壁に視線を向ける。

 おそらく死人どころか怪我も出ていないだろうが、あの大波の衝撃で……いや、大量の水の壁が衝撃を受け止めてくれたにも関わらず、砦の三分の一ほどは崩れてしまっている。

 砦として機能するほど修復させるには何ヶ月かかることか。

「樹海の化け物に出くわしたら、討伐するのか?」

 そうと決まらなくても真っ先に駆け出しそうでいて、どことなく気乗りしなさそうでもあるジレルの言葉に、アギとムゼイも思わず微妙な笑みで視線を交わす。

 実のところリィンハルト王子からも、牛車の向きを返してすぐ『樹海の化け物退治の健闘と成果を祈る』と押し付けた一文が届けられている。

「リィンハルト王子も、敵国以外の脅威を目の前にして引き際を見付けたところもあるようだからな」

「たまたま流れてきただけで、すぐにどこかへ流れていくじゃろうが、しばらくそのまま居て天然の中立の壁となってもらった方がいいじゃろう」

 二人とも正体は確認済みなのか単に腕に自身があるのか、自分達が樹海の化け物に襲われる危険については、全く気にかけていないようだ。

「これも魔法使い様のいうことが正しかったんですね」

 よく聞き取れなかったが、三人の会話でなんとなく自分が樹海の化け物と思っていたものが樹海の化け物ではなかったと今更気づき、馬車の窓に顔を近づけていたディアナがなんとなく頷く。

「うっ」

「……わっ」

 と、見張り番のように御者席にドンと座っていたヘンルータがふと地面を見て驚き、反対側から立ち上がって振り向いたアネットがその悲鳴を続ける。

 弾けたようにセハロ警備兵長が駆けつけ、やや間があった後、訝り小首を捻る。

 二人の視線の先には、石か流木を包んだような泥の塊。つつこうかと槍の先を伸ばしかけた所で、泥で固められた人間の男と気づき、口と鼻とおぼしき辺りの泥を用心しながらも急いで落とす。幸い息はあるが意識はなく、服はズダボロ、怪我も何ヶ所もあり、頬には子供の拳がメリ込んで出来た穴のような奇妙なヘコミがある。

「アフリクド殿、ここにおりましたか……」

 すぐ隣から聞こえた声にビクリと顔を上げると、いつそばに来たのか細身長身の男か静かにケルベナ王国の元宮廷魔術師長を見下ろしている。

「失礼。私はケルベナ王国第一王子付き宮廷魔術士のオリシス。今回の件にて主要として行動されたアフリクド殿を王都オリビエに連れ帰るべく探しておりました。是非、我が方に身柄をお譲りくだりたい」

 セハロは警戒した様子で見返すが、先程のエンダール王とリィンハルト王子との言い合いとその後の娘を庇うような行動を見れば、敵意あるとは思えない。

「やはりお主がオリシス殿か、お初にお目にかかる。先程は話す間がなく残念じゃ」

「お初にお目にかかりますムゼイ殿、そしてアギ殿。お噂以上のお力、ただ感心させてもらいました」

 迷う内にムゼイが近寄り陽気に声をかけ、オリシスが樹海の中に即席の道を長時間にわたり維持し続けたことに素直な敬意を払う。

 セハロがエンダール王に指示を扇ぐように振り返る。

「済まぬがこちらの領内で捕らえた者ゆえすぐにはお渡しできぬ。ただし、こちらでの尋問が終わり次第早急にそちらへお渡ししよう」

 エンダール王が馬上から静かに応える。ただし、顔にはリィンハルト王子と言葉を交わした時とは全く別の友好的な笑みが浮かんでいる。

 先程は、リィンハルト王子が引くのにいつまでも他国領内に居るわけにもいかず急ぎ撤退となり話す間はなかったが、その場その場の状況しか実は解っていない身としては、落ち着いて詳細のわかる者と話してみたかった。

「承りました。お引き渡しを約束願えるのなら、謹んで待つといたします」

 オリシスが打ち合わせた言葉でも返すように一礼する。

 ムゼイとアギがそれにちょっと笑い、不意に残念そうな顔になると半身が泥に埋まるアフリクドに視線を落とす。

「ワシを大陸最強の魔術士と呼ぶ者は多いが、最高と呼ぶ者は魔術がよくわかっていない一部の者だけ。この先もそれは変わらないじゃろう。だが、こやつなら感知系魔術や戦闘系魔術、他の欠点も補い、いずれは大陸最高の魔術士として歴史に名を残す偉人になれたであろうに」

「自ら戦おうとしなければここまで哀れなことには、いや、直接戦闘が苦手だからこその無い物ねだり……魔術師長としての意地か、わからなくもない。子供の頃に抱いた最強になる夢はこの歳でもわしも忘れられんからな」

「うむ、子供な……」

「子供に負けてやがんのな……」

 齢を重ねたシワもキビシク賢者のごとくマジメな顔で語りはじめた二人が、何かに耐えかねたように途中からゲタゲタと子供のように笑い出し、一息付くと、二人同時にほぉ~っと安堵したように息を吐く。

 二人の笑いにドン引きしたように半歩下がったオリシスが、ああと解ったように小さく笑い、その後ろに隠れるようについて来ていたサミヤが、一度眉間の皮膚を盛り上げてから弛める。

 先程は気付かなかったが、どうやら二人ともこの場で行われた戦の成り行きを探るために、喋るにも苦労するほど余裕がなかったようだ。サミヤの常識では、あれだけ離れていては何も出来ないが、この二人であればマジュスが本当に危なくなればすぐさま手出しが出来たのかもしれない。

「それであのマジュスって子はどうなったの? もう用が終わったんだからここに居るんじゃなかったの?」

 そう見回すサミヤの後ろの馬車の中で、フィラが椅子に膝立ちして小さく何かをディアナに伝えると、ディアナは少しだけ寂しく、安堵したように微笑み、かすかに吹き込んだ風に髪が揺れたかのようにどこかへ向けて頭を下げた。



 ──ケルベナ王国、王都オリビエ、ガロワ城。

 無骨で頑強そうな外観と違い、あまり他国の城と差が見付けられた無い壮麗な一室の前で、この国の第三王子であるベイルが考えあぐねるように顔を振る。

 誰に見られて困るわけでもないが廊下を見回し、両の手で持つ小さめの布の包みを困ったように何度か振り、鎧姿の時とは別人のようにきっちり着ていた服の首もとを少し弛め、やっと扉に拳を軽く三回打ち付ける。

 すぐに返事が返り、半分後悔したように項垂れる勢いで扉を開け、中へと入る。

「父上に挨拶はしたか?」

「お、おおう、ちゃんとして来たぜ。顔色もよくなってて元気だった」

 あれから六日。リインハルトの起こした行動は水面下ではいくつも揺らぎを作ったものの、表面には大きな波となって現れることもなく、ベイルが騒ぎから騒ぎへと奔走している間に、どれもが何事もなかったように終わってしまっていた。

 更には、一時期は命が危ぶまれたフルト王も様態を回復させ、まだ自力では立てぬようだが短い時間なら普通に会話が出来るようにもなっていた。

「それで、何の用だ。大臣が集まったらまた会議であまり時間がないんだ」

 座る時間もない程ではないようだが、気の落ち着く間もなさからか立ったまま三つの書類を見くらべていた男が、息継ぎでもするように顔を向ける。

 リィンハルト王子に優しさと落ち着きを加えたような端正な顔立ち。レウパ王国のディアナ姫と並ぶと似合いそうなよく似た黒っぽい髪。長身といえる体はやや頼りなげな印象を受けるが、武術の腕はなかなかのもので、頭を使う役職では王族に相応しい場所が残されていないと気付いたベイルが傭兵のごとく各地を回って修行するようになってからも、まだ数回しか勝てておらず、それさえも実のところ本気で戦ってくれたかどうか今一つ怪しい。

「オリシスが荒立てず納めてくれたからな、リィンハルトの奴はそれほど重い罪にしなくても済みそうだ。もっとも、中途半端過ぎてリィンハルトの奴は却って自分を貶める暴動を起こしそうで、それはそれで気がかりだが……」

 キビシイ顔で言い、ベイルの表情からその事ではないと気づき、同時に自分の表情の余裕の無さにも気づき、少しだけ柔和に崩すように笑う。

「どうかしたのかい? 問題は全て解決出来そうなんだが……?」

「ディアナ姫のことなんだけど……」

「あー、そっちの問題はな。後回しにしたいんだが、後に回すわけにもいかないし……」

 レオン第一王子が、腰痛と肩こりが気になったよう体を曲げる。

「この機会に是非にも国交は回復したいし。でも、婚姻はリィンハルトがこうなると、ベイルお前は誰か好きなヤツとか居るか?」

 問われたベイルが顔をしかめると、念のため部屋を見回し、他に誰も居ないことを確認してズカズカと兄である第一王子に近寄る。

 手にした包みの布を取り、出てきた物を顔面に押し付けるように差し出す。

「これ、ディアナ姫から兄に渡すように頼まれたんだ」

「文箱?」


 ──「文箱、ですか?」

 睨み合う言葉の応酬を繰り返すリィンハルト第二王子とエンダール国王。

 見る者によってはグダグダでも、見る者によっては身を裂かれるような空気だ。それに耐えられなくなったベイルがディアナに話しかけると、四角いそれがそっと差し出される。

 その少し向こうでは、ケルベナの者であるサミヤが、いつ本当に敵となり戦ってもおかしくないルフガダムのアギとムゼイと、何か腹が立つくらいやたら親しげに会話を続けているのが見えている。

「はい。魔法使い様がどこかへ行かれてしまったということは、ここまです。でも、マジュスちゃんが王子様に逢わせると言ってくれた以上大丈夫です」

「……は?」

「だから、わたしが行く代わりに、この手紙を貴方の兄上であらせられるレオン王子に渡して欲しいのです」

「……えーと?」

「中身はご覧になってよろしいですよ」

 何が何だか解らないベイルが文箱に目を下ろした瞬間にディアナが言い、あまりにも自然な笑顔につられて文箱の蓋を開いて中身を覗く。

 文箱の中には当然ながら手紙が十数通入っており、何通かは木の葉の汁らしき染みが付き、特に一通は泥の上にでも落ちたように大きく変色してしまっている。

 ふと、あの時に森で拾って黒帽黒外套の子供に渡した手紙だと気づき、今までかわした手紙が汚れてしまったこと、あの時にディアナ姫へ自分が代筆して送った手紙だと気付かなかったこと、そして……やりとりする手紙を代筆するうちにまるで恋心のように心の奥底に溜まってきた繊細な乙女のイメージと違う大ざっぱでいい加減な印象に、何となく項垂れる。

 ディアナ姫本人のミスでなく、ベイル本人のミスによる手紙の汚れなのだが、それでも泥を拭った程度のそのままに近い状態で他の手紙と一緒に文箱に仕舞うことはないだろう。

 思えば、何の計画もレオン第一王子やオシリスとの話しもなく、カージスとドルグの不穏な様子にディアナ姫のことが気に掛かってレウパ国へと出向いてしまっていたのだが、それらも今となっては何となく空しい。

 何か言いだけに顔を上げたベイルに、ディアナは今までより不思議なほど落ち着いた笑みを返した──。


「やりとりの手紙、ディアナ姫が兄に渡してくれって」

「今までのことは無かった事に……か。まぁ、命を狙われればな」

 落胆というより理解した顔でベイルから箱を取ると、中を覗き込む。

 と、汚れた手紙に気付くと顔をしかめ、文箱から取り出す。

「随分と汚れているな……。だが」

 手紙の折り目を見れば開き、読み、折り、仕舞い直した回数は十や二十では効くまい。

 なのに泥で汚れてすら丁寧に扱われたことが解るほど、手紙の状態はしっかりしている。

 他の手紙も、何十と読み返さねば出来ないほど折り目が深くなっているが、それだから解るほど手紙は常に優しく扱われている。

 それに、改めてよく見れば、汚れているのは一番最初に返した手紙。

 怪しみ、その後も交わすことになると思わなかっただけに、最初の手紙を黒衣の魔術士から直接受け取ったオリシス以外にはまだ話さず、筆跡こそ変えたが唯一自分で直に書いた手紙だ。

 当然、意図的につけたような汚れではない。

「あの姫様、意外と……」

「考えているのか……」

「は?」

 自分が続けようとした言葉と真逆の言葉を言われ、ベイルが呆け顔で目だけ鋭くする。

 線が細く柔和なレオンの顔が、線が太くなるように固くなる。

「物の価値を変えるに当たらない汚点など気にせず……、いや、その物を変えてしまうくらいなら汚点さえも消さず残して置きたいということか」

「どいういことだ?」

 レオンが思考に全て取られて固まったままの顔を上げると、静かに、まるで自分が否定していた考えが全て当たっていたかのように、安堵して呟く。

「父君が回復してくれて良かった」

「……は、いや、父が回復したのは良かったけど?」

「気が変わった。国交回復の件は後回しとしても、まず今回の件を正式に謝罪しなければならない。現国王が安泰なら、謝罪に第一王子が出向くといっても大臣達は納得してくれるだろう」

 レオンは言うと、先程の三つの書類の一つにサインし、足早に部屋を出てどこかへと消える。

 ベイルには何がどうなったらそういう事になるのかは解らなかったが、あんな場所で周りのことなど何も見えていないかのようにディアナが浮かべていた笑みは、こうなる信じて疑っていなかったからこその安堵による落ち着きだった、ということだけはなんとなく解った。






  ・・・




 晴れているようだが薄くかかった雲のせいでどこに太陽があるかすぐには解らない空の下、どこともしれない広く続く草原を黒帽子黒外套の小さな姿が進み行く。

 遠く後ろには、前足を振り去っていくクマ。

 帽子の広いつばの上には、繊細に織り込まれた二点の布をドレスのように纏ったとも見える小さな精霊が一人。

「で~……、どこに向かってるわけ?」

「さぁ、どこかへ向かっていたような、誰からか逃げていたような気もしますが、どこへだか」

 帽子のつばの下から元気そうな高音が返り、質問をした精霊がイラッと顔を伏せる。

 数日前のあの時……。

 樹海の化け物──うさぎが拳圧を放った瞬間、ミアシャムはマジュスの魔力を許可無く使いあらん限りの水を集め空間自体を湖の底のように埋め尽くした。一つは、その前にアフリクドの杖による突きを逸らすために少量ながら無許可で魔力を使い、草粘の言うとおりマジュスにはそれほど負荷がかかっていないと実感したこと。もう一つは、マジュスが今まで樹海の木々を守るように結界を広範囲複数対象に、それも樹海の木々だけでなくアフリクドや魔塔の壁に居る兵士達、更にはその向こうにいるレウパやケルベナの者達にまで、認識存在全てを反射的に守ろうとした場合、許可無く魔力行使する以上の負荷がマジュス自身にかかってしまうと直感的に恐怖してしまったからだ。

 だが、それにも関わらず、というより相互の打ち合わせなど無いから当然なことに、魔力を勝手に放出された状態でマジュスはうさぎの拳圧が及ぶ範囲に結界を張り、しかもマジュスとミアシャムの力が合わさってもそれを完全には防ぎきれず、どうやらマジュスの認識のなかでもっとも存在を忘れられていた自身の体は遠く吹き飛ばされるように流されてしまった。

 幸いそれでも、いや、ミアシャムの呼び出した水による衝撃拡散のお陰かマジュス自身には視覚的にわかるダメージは全く無いようだが、どうやら記憶が今まで以上に消え、もう自分がワインを買おうとしていたこともレウパに向かっていたことも思い出せないらしい。

 唯一、気が付いたときに遠くに兵士らしき集まりが見えていたのに、そちらに近寄るより、離れる方を即座に選んだのが、今のミアシャムの気分だと少しだけありがたい。

「ところで今更ながら質問があるのですが、よろしいでしょうか?」

「なに」

 またか……。

 もしくは、

 来たか……。

 そういう表情でミアシャムが顔を上げる。

 誰か探すように視線が動くが、あれから地霊玉も草粘も姿を見ていない。少なくとも地霊玉に関してはマジュスに呼ばせればすぐに姿を現すのだろうが、何となくそういう気分ではない。

草粘に関しては呼び出してあんな入れ知恵をしなければと文句も言いたいが、正式に契約しているわけでもなく、もしかしたら本当に許可無く魔力を使ったのが正解だった可能性もあるので、やっぱり色々面倒。

「貴方は誰で、どういう理由でそこに居るのでしょう?」

「はいはい」

 ミアシャムが、はぁ~、と溜息を吐く表情でいて、よいしょと掛け声をかけたくなるような動きで体勢を返る。

 帽子のつば先をつかんで身を乗り出し、逆さになった顔でマジュスを正面から睨み付ける。

「全部詳しく言ってあげるから忘れるんじゃないわよ。この大陸、正確には精霊界との狭間の外れにあたし達が酷魔の心臓と呼んでる魔王みたいなのが出てて、しかも精霊系の魔力が効かなかったり吸収されたりするから、アンタみたいな人間を連れてその排除に向かってるのよ」

「その酷魔の心臓は四年近く前に排除済みと顔に書かれていますけど」

 ミアシャムが、『へ?』、というような表情で自分をマジマジと見るマジュスの瞳を見返す。

「そして、その時に予定外に巻き込んでしまった子供が、肉体がバラバラになって吹き飛んで消えてしまって。幸い、生きていたけど、見付けた時には以前より随分小さくなっていた上に記憶を失っていて……」

 顔色の変化を文字が書かれているように読み上げるマジュスの視線の先から、ミアシャムがハッと顔を持ち上げ帽子のつばの向こうに表情を隠す。

 今まで一度も顔色を読まれたことがないせいで、マジュスの金羽晶の能力は精霊に効かないような気になっていたが、よくよく考えれば何となく顔を合わせ辛く大抵は帽子のつば越しに話していたせいで、まともに顔を合わせたことがないことに気付かなかった。

 それでいて今更だが、マジュスがディアナ姫や他の者の頼み事を忘れないような節があったのは、忘れなかったわけではなく顔色を読んで推測して行動していただけと気づき、何となく笑む。

「そ……それは、四年も近くの話しでしょ。あの時は大陸中で異変が起こって……、とにかくその時の活躍であたしはちょっと目立って、地霊玉から頼まれごとしたりとか……、とにかく。そういうことでアンタはあたしが行くところについてこないと行けないの」

「それで、どこへ行くんですか?」

「………………」

 ミアシャムが、ハタと絶句する。

「訂正、酷魔の心臓の正確な居場所わからないから、あんたの気分で勝手に歩いて」

「急ではないんですか?」

「まぁ……そうね。アンタが以前と同じ歳まで成長するくらいまでに、辿り着けばいいわよ」

「以前?」

「その頃にはもう必要なくなって決着がつくの」

「………………」

 まどろっこしそうに癇癪な声を上げるミアシャムに、今度はマジュスが黙る。

 一週間か一ヶ月くらい放っておけば記憶が何故か戻るような気もするが、どうせこの会話もすぐに忘れるとばかりに、ミアシャムがパタリと帽子のつばの上でノビをするように倒れ込む。

 瞬きをする必要がないらしいまぶたが少しだけ空を見上げ細く下がり、ふと、いつもの広さまで大きさが戻る。

「ところで、アンタはあたしには聞くけど、自分の名前やここがどこかとかは気に掛からないの?」

 問われたマジュスが少し不思議がるように笑顔で、帽子のつば向こうのミアシャムを見るように顔を上げる。

「ここはここ、わたしはわたし、それはちゃんと知ってますから問題ありません」

 草原の仄かな波に微かに残っては消える足取りの軌跡は、まるで自分が必要するものがある先へと続く魔法の小道があるように曲がりながらも不思議と真っ直ぐだった。


 この後は、ただの後書きです。

 斜め読みでも目を通してくださった方、お疲れ様でした、ありがとうござてました。

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