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魔法の小道  作者: 青朔朗
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     五つ目の角 樹海の化け物


     五つ目の角 樹海の化け物



 ゴゴガーンッ……!

 リグリーウナの樹海の草と木の隙間に隠れ杖をつくように佇んでいたアフリクドが、何かを砕く地響きにビクリと身を震わせ、石を投げれば届きそうなほど近い魔塔の壁を見上げる。

 手近な棒を拾って削り呪印を彫っただけの簡易的な杖を、手の平の感覚だけで握り直す。

「眠っておったか……」

 動くと響く痛みに少し喘ぐように言い、描きかけで止まっていた魔法陣の続きの線を地面に刻む。

 寝ていたのは一瞬。カージスとドルグ、そして自分程ではないにしろ傷を負いつつも二人の供をさせろと言う12人の愚図を送り込んでから、それほど時間は立っていないはずだ。

 まさか前線での気弱発言で左遷されたクセ、宮廷魔術士長である自分より引き立て用の添え物であるサミヤにいい顔をしたコルジュを戒めようと砦内に仕掛けた魔法陣が、こんな形で役に立つったのは思わぬ幸いだった。

 カージスとドルグは既に手配されていたのか……。

 姫の暗殺は成功したのか……。

 左右の高い塔をそれぞれ見上げるが、何の動きも、少なくとも失敗とわかるサインはない。

 万全であれば正面から砦の全兵の前に立ち、問いただし、いかな返答にも対応できる自信はある。だが、ここに辿り着くだけで傷により体力を使い尽くした自分には、悔しいことに砦門内に入ってこの目で確かめる余裕も、それどころかカージスやドルグの足手まといにならない力すら残っていない。

 だとしても、我はケルベナ王国宮廷魔術師長。

 退くにしても戦うにしても、出来うる限りの力を見せつけてやらねばならない。

 砦門内に残した転送用とは全く別種の魔法陣を新たに一つ地面に完成させ、触媒を仕掛け、それを他者には分からないように力の関与もさせないよう隠す。

「それにしてもまさか、あのような小汚い地霊があれほど美しい姿とは……」

 一息付くように少し体を曲げるとともに出た言葉に自嘲するように震え、憎々しげに歪み、そのままスウッと重くまぶたが落ちる。

 あれは──ケルベナでも数少ない魔術学校の、卒業の日のことだった。

 自分は14歳とその年の最年少卒業生にして首席。これは珍しいことだったが、それ以上に珍しいことに、その年の卒業生8人は全て十代の少年だった。

 近年では術士としての生業を立てるためではない半端な学校も増え、比率は魔術学校ごとに違うのが当たり前だが、その頃までは六割は十代の少年でも、残りの四割は二十歳を超えた男、そして女性や少女が混ざって居るのが普通だった。

 そして、その性別を同じにして年齢も近いという対当感覚が気兼ねない大口の叩き合いになり、「俺は姫神を使役するような大魔術士になる」、と誰かが言いだしたのだ。

 俗称とはいえ神という雅言葉のつくほどの精霊怪魔を従え、自身も大魔術士と呼ばれる。

 得たばかりの拙い力に溺れる若者特有の流行病。

 愚かしい……。

 例え大魔術士と呼ばれても、見合った地位がなければ自己満足にもならない。

 そもそも、借力呪法は自分の足りない部分を補うための呪法と言っていい。純粋な魔術士としての卒業を許された自分達には邪魔でしかない。

 実に馬鹿らしいしみったれた欲望。

 せめて竜などの威圧的姿なら見る者を畏怖させられるだろうが、それも人の女性の姿をした姫神。

 気付けば自分を除く7人はどんな姫神がいいかと盛り上がり、顔やスタイルばかりを語る。

 補助増幅器としての能力さえ足りれば構わない存在の姿の差に、何故そこまで熱くなれる。人型でいいなら美人の従者を従えればいいだけだ。これでは、何の学もない十代男の夢想だ。

 数年後、姫神を使役できたかどうかは知らないが、その7人全員が死んでいたと知った時は笑いが止まらず、数日間本気で困ってしまった。何人かは、危険なだけで実入りのない仕事を回してやった気もするが、それで命を失ったのであれば本人の実力の無さが全て悪い。

 そしてその年、ようやくケルベナの宮廷魔術士の一人として取り立てられた。

 これもなかなか、うれしかった。

 能力的には当になっていないとおかしかったのだが、実は不運にも能力を発揮できる仕事に巡り会えず、国から認可の下りた防安ギルドによる信頼できる仕事達成度という実力証明──、上級の称号を得るたけで6年もかかってしまっていたのだ。

 10年かかっても得られぬ者も多いが、後に名を残す者は3年、早ければ1年足らずで得ているというのに恥ずかしい話しだ。しかも、当時いくら卒業したての駆け出しだったとはいえ、本格的な仕事を任せられる目安と言われるLv40の戦闘技術検定の魔術部門にすら、二度も落ちてしまっていることは恥ずかしすぎて一生口に出来ない。

 もちろん、人に伝授するだけの技と知があると国が認める司の位は上級称号の資格を持って受け、同年に得たが、あんな試験など私にとっては魔術学校卒業時でも余裕。むしろ、空しさすら感じた。

 それがやっと、首席卒業であり、同期唯一の生き残りでもある自分に相応しい、大魔術士という名前だけの自己満足ではない、名も実もある宮廷魔術師長への道が開かれたのだから。

 だが、そこからが、信じられないことに本当の苦労だった。

 それまで全く思いもしなかった障害が立ちふさがったのだ。

 ──制御不能による魔力の霧散化。

 総魔力が他の魔術士よりは強い、程度の頃は何のこともなかったのだが、修練により魔術師長の座が狙えるほど魔力が強くなった結果、杖や触媒がなくては魔術がまとまらず、行使できなくなってしまったのだ。

 あせり、杖や触媒もなく魔術を使えるよう修行もしたが、ダメだった。

 格下に頼る恥を忍んで医療士に診てもらった結果、先天的な曲がり者との烙印まで押されてしまった。

 他国にも過去のケルベナにも曲がり者の魔術師長は居たが、慢性的な小競り合いがあるだけで、誰もがこれといった手柄を立てられない今、それがどれだけ評価に響くかわからない。

 借力呪法を使うこともその時に考えたが、あの7人の馬鹿な会話が思い出されて踏み切れず、悪戯に年だけ重ねた。特に姫神。人型の姿をした精霊怪魔に関しては、拒絶と言っていいほど情報を断ってしまった。ある意味、私もヤツらと別の意味で若き流行病だったのかもしれない。

 そして、半分隠居状態だった先代魔術師長の他界。

 待ち、願った日が来たというのに、気は上向きにならず、それどころか新たな宮廷魔術士の一人としてあのオリシスが招かれたことで悲壮感にさえ包まれた。

 オリシスは術者として私と並ぶには雑魚だったが、その知識と聡明さで次々と南西国境での小競り合いを収め、新宮廷魔術師長へと押す声まで聞こえはじめた。

 軍備を整えつつも長年の大規模な争いから離れた環境に、大臣も官僚も腑抜けになっていたといえよう。

 だが、今から4年ほど前。転機が訪れた。

 大陸の各地で、異常現象が起こったのだ。奇異な物体が各地に突然現れ、そして突然消えてしまう。それに合わせ大陸の魔力帯にも異常が起こり、地の奥へ消えたと言われていた大型の魔物、古代人造精霊兵器の末裔とも囁かれる酷魔や呪霊のような殺戮衝動だけで動く破壊魔の禁忌地区以外での出没。

 記録にある、63年前に大戦になりかかった前兆にも似た現象だ。

 そして『国を安定させる者より、国を強くして戦える者』。

 状況に対応すべく、齢15にして国政発言で注目されるようになって来ていたリィンハルト第二王子の発せられたそのお言葉により、ついに我が新たな宮廷魔術師長の座についた。

 リィンハルト様に慧眼があったことには、感謝しかない。

 この大陸を揺らがせる奇異な現象に乗じて他国へ進軍。

 軍事大国と呼ばれる真価を見せ、演習と変わらぬじゃれ合い甘える隣国を掌握する機会だ。

 だが、レウパでの非常事大陸会議への招待をも無視し、遠征の準備が整うという前日。突然これまで大陸中で起こっていた奇異な現象が全て消えてしまったのだ。

 それに少し遅れるように大型の魔物の目撃報告も減り、酷魔や呪霊の禁忌地区以外での出現も止まり、それでも幾つかの騒ぎは続いたがどれも小規模で、混乱というほどの混乱は起こらなかった。

 こうして、大規模遠征が見送られ、年が巡り、一年前……。

 絶えたかと思った好機が再び訪れた。

 南東のロゼランカ王国での内乱。今度こそ東に進出し、ファシィ公国、シャクカル連諸国、ロゼランカ王国と、三国を一気に制圧しようと燻りの溜まっていた兵士達の気運も高まった。

 だが、幸運だけが再びではなく、不運も再び。

 戦争に私以上に意欲的だった国王が病気になってしまったのだ。

 床につき気弱になったフルト王は、遠征計画を完全に白紙に戻してしまった。

 そのうえ、おそらく第一王子付きとなったオリシスの入れ知恵だろうが、北の防壁を解き、レウパと国交復活等という世迷いごとまで言い出す始末。

 他国に自国の強さを見せつける大遠征の中止。

 国力の象徴として民の心に染みついている魔塔の壁の消失。

 二つとも一見すれば争いが遠のいたと見えるだろう。だが、自国へ対する信頼と誇り、心の頼りが消えようとしているのだ、国民は、兵士は、どれだけ不安を感じていることか。

 そしてそれを裏付けるように増え続ける、私への影口。

 戦いの無い世に、好戦的な魔術師長が必要か?

 功績もなく、杖や触媒、方陣が無ければ術も使えぬ半端者に長の座は相応しいのか?

 リィンハルト王子も馬鹿な男を長に押した。国交復帰をダシにレウパに飛ばされるのはその失態が原因だろう。

 無脳共は脳と一緒に口も失うがいい!

「ぐっ……」

 歯を食いしばり杖を握る苦痛に、アフリクドがハッと目を覚ます。

 また、立ったまま眠ってしまっていたらしい。顔の包帯に手をあてると血が滲んできている。

 地面を見ると、二十幾つ目かの魔法陣は、まだほとんど描けていない。

 自分は、今、何を考えていたのか……。

 あの後、焦り追いつめられるように使役する精霊怪魔を探し小さな地霊を捕らえ……。

 それが……、樹海の化け物としての強さを持ち、見る者に希有な驚きを与える精霊で……。

 痛みを無視できるほど怒りが一度強く込み上げ、すっ、と力が抜ける。

 いや、全て今はどうでもいいことだ。

「頼るはヤツらだけではない。まだ、私の勝機はある」

 砦門の向こう、ケルベナの王都を思い、ただ魔法陣を描く。

 足元に、ぴょんと一羽の兎が飛び出し草をはむが、それにも視線一つくれない。

 うさぎはもしゃもしゃとやったあと、何事もなく跳ね去って行った。



「はい、開きましたよ。ベイル様」

 カシャン……

 幸いと言うべきか本気で疑っていなかった証明というべきか、所持品の検査もされることもなく、靴に隠していた二本の針で地下牢奥の牢の鍵を開けたサミアが、バツの悪そうに鉄柵の中で苦笑う傭兵男に呆れたようにいう。

「ちゃんと城で見張っててくださいよ」

「いやー、ディアナ姫のことがちょっと心配になって。でもオリシスに見つかって戻ったら、王都に着く前にオリシスがレオン王子殺したとか話しが流れて、慌ててこの砦に引き返したら、コルジュに捕まってしまって……」

「だからっ。……とにかく、オリシス様は無事なんですね」

「暗殺の話しを聞く前に別れたからなんとも」

「はぁ……」

 コルジュが地下牢の奥から来たことから考え、他に誰か捕まっていると思って来てみたが、放っておけばよかったといいたげな露骨な溜息を吐く。

 ベイルが口惜しそうに唇を結んで、牢を出て天井を見上げる。

「ところでディアナ姫がこの砦に来ていると言ってたが、さっき上でした地響きはもしやこの砦の兵達と何か……」

「それならいいのですが、もしかするとアフリクドが……いえ、あの傷だと二人と手を組み。方陣を使ってカージスとドルグをこの砦内に転送させたのかもしれません」

「方陣?」

 早速外へ歩き出そうとしていたベイルが困惑した表情で動きを止め、その横をサミヤが音もなく早足で通り過ぎる。

「先ほど、地下牢の天井に一つ隠してあるのを見付けました。以前ここを通った時、コルジュ殿にあまりいい感情を抱いていなかったようなので、ケルベナへの帰途の時にでもコッソリ侵入し、砦の警備がなっていないといちゃもんつける気だったのでしょう」

「いちゃ……って、おいおい。俺ですら強力な対封魔呪が今も壁に働いているってわかるぜ。そこに隠せるような方陣を幾つか描いて出入りできたら、砦なんて戦争じゃ役に立たないぞ」

「それが出来るから、あんなので宮廷魔術師長なんて扱いされてるんです」

「マジかよスゲェ……」

 小走りで追いついたベイルの足が、驚きにまた遅くなる。

 地下牢出口の扉についたサミヤが、何か呪文を唱えると隙間の細い光の筋だけで外の様子を見回し、ちょっと驚いたように後ろに下がる。

 追いついたベイルが声を潜めながらも、拳を握り強気の笑顔をサミヤに向ける。

「どうしたんだ? もう同国の仲間とは言え兵の数人ブッ飛ばしてもいいだろ」

 見張りはせいぜい二人か三人。地響きに気を取られて立ち去り、もしかしたら一人も居ないのではと期待していた。だが、扉の向こうには十を超える武装した兵士達の姿。

 地下牢の警備としては明らかにおかしく、上での騒ぎへの対応としても不審な点が多い。

 ベイルを見返すサミヤの表情が、露骨に一段暗くなる。

「あたしの最悪の予想、全部は外れてなかったかも……」



 ガラガラと裂け崩れる建物を帽子のつばの上で見上げつつ、ミアシャムがポツリと吐く。

「あー……」

 頭上の空間には、太陽を遮るほどの太さで伸びるキチン質っぽい外骨格を持つ腕。その先のハサミ状の爪だけでも、破壊した建物の部屋より遙かに大きい。

「か……カニか」

「エビとか」

「ヤドカリっぽいですね」

 驚きに立ち止まった兵士達が呆然と言い、マジュスもぽかんとしたように言う。

 数十対の目が一斉に正体を確かめようと爪を持つ太い腕の根本に向けられるが、腕の根本は何もない空間から突然飛び出しており、その全体像は見えない。

”お久しいねー。全然お呼びがないから何かあったかと思ったけど、元気そうで良かったよ。こんなもんでいいかい”

「ちょうど良かったらしいです。ありがとうございます」

”そうかい。じゃ、また声かけとくれ”

 どこか近くの空間から、のんびりとしたおばさんぽい声が響き、マジュスが声の場所を探すように黒い瞳をクルクルさせながら返事をすると、またのんびりと笑う声が響きそれに合わせ巨大な爪を持つ腕がスウッと消える。

「今の声は何でしょう?」

「こいつが樹海の化け物か……」

「本当に居たのかよ」

「こりゃ、あの壁が一撃で壊れるぜ」

「しかも姿を消せるだと……」

「どうりで見つからないわけだ」

 マジュスと違い今の声は全く聞こえなかったらしく、周りの兵士達は武器を身構えたまま、ただ騒然と周囲を警戒する。

 ミアシャムがスウッと帽子のつばを擦り抜けたように黒マントの襟に移動し、投げ槍っぽい表情で耳元に囁く。

「あんた……あたしと契約する前にあんな年寄りの怪魔と契約してたんだ」

「そういうことなんですね」

 自力呪文ではなかっただけに、流石に今回は記憶を失っていないらしい。

「やっと見付けた最良物件なのに、先約ありって……」

「ありゃっ、アイツらなんだ?」

 と、ミアシャムがお出かけの予定が狂ったように愚痴愚痴と喋りだした刹那、兵士の一人が言って、まるでマジュスの視線を追うように崩れた建物を指さす。

 見ると、建物の南側の崩れ目の三階には貴族風と剣士風の二人の娘が立ち、反対側の北側の崩れ目では何人もの兵士達が飛び渡る足場はないかと探す表情で立っている。

「あの宿舎は空で何も使われてないはずだろ……、どうしたんだ」

「一番隊と七番隊だな。ん……、他に居るのは誰だ」

 言っている間に娘二人の姿が通路の奥へ消え、反対側の兵士達が崩れ目を伝って下に降り、こちらに怒鳴りながら娘を追うように崩れた南側の建物の中へ消える。

「何て怒鳴ってんだ?」

「さぁーな、全然聞き取れねーよ」

「そういや一番と七番、それに八番隊は食事まだじゃね。飯喰ってないから腹に力入らねーんだな」

「『そのクマとガキは樹海の化け物とレオン王子暗殺を行ったレウパ王国の工作員だ。殺せ』、と言ってました」

 自分達の言葉に頷き合う兵士達に、マジュスが叫び去った兵士達の言葉を伝える。

 兵士達の動きが止まり、マジュスと、ビクリと固まるクマへ、百を軽く超える視線が集まる。

「樹海の化け物なのか?」

「違うくま」

「レウパの工作員なのか?」

「違います」

 クマが固く、マジュスが何気に応えると、だよなぁ、と言うように兵士達が一斉に頷く。

 術士であるマジュスが先程の巨大な腕を召喚した可能性もあるが、あの時の呆け振りでは、何か知っていたとは思えず。そもそも砦の人数的に長らく使われず邪魔扱いされていた空きの宿舎を隠していた姿を見せてまで壊しても、破壊工作としては意味が不明すぎる。それに、聞こえていない自分の不利になる言葉を、わざわざ自分達に教えるのも変だ。

 その様子をおどおどと見ていたクマの目に、じわりと涙が浮かぶ。

「ちゃんと信じてくれるくまか」

「どう見ても化け物じゃないし」

「くまだし」

「……!」

 昨日まで誰も信じてくれなかったというのに、黒帽子黒外套の子供、小さな髪の長い女の子、そして、こんな沢山の兵士達さえもがあっさり信じてくれるとは……。

「さっきは罠に掛けて全員でボクを殺そうとしていると、疑って済まなかったくまっ。人間はちゃんと話せばわかるいい人達だったくまっ」

 悔しさと嬉しさでキツク瞑ったクマの目から、涙が二本の筋となって流れ落ちる。

 周りの兵士達が、半数ほどドン引いたように身を後ろに反らし、半数ほど何かわからないが慰めるように手を振る。

「それにしても、どうもわからんな」

「樹海の化け物ってのは確かなようだが」

「よし、兵は化け物の捜索。部隊長はコルジュ大隊長の元へ情報確認」

「あの娘さん二人は?」

「確認は追わせた、後は一番隊と七番隊に任せればいいだろ。各自、動け」

 誰が誰となくそう言い行動がまとまると、先程までのいい加減で和やかな雰囲気は一切消え、三人組を作った兵から既に行くべき場所がわかっているように駆けて行く。

「いたーっ」

「いましたーっ」

 と、広まり薄くなって行く人混みの最後尾から追いつくように、大柄な兵士と中年がかった兵士が汗を光らせマジュスへと走り寄って来る。

「ちゃんと部屋に戻ってください」

「こっ、ここ危ないですよ。何が……危険があったんですか?」

 二人とも破壊された建物の惨状に驚き、ゾッとした顔を瓦礫に向けながらマジュスに言う。

 マジュスのことはどうしょうかと残り見ていた幾人かの兵士が、迎えが来たことで自分達も捜索へと走り出す。

 マジュスはその動きに釣られたように一歩だけ走って止まり、くるりと振り返ると、クマと二人の兵を見比べペコリと一度お辞儀をし、まるで誰かからの伝言を言うように口を開く。

「済みません。ちょっとお願いがあります」



「三人が居ました。止まれー!」

「待て、待っんだぁー!」

「止まれ止まれーっ!!」

「なんか来たよ……」

「スゴイ音したけど、追われる事態になってるの……」

 一つ後ろの建物の角から現れた10人近い兵士が叫んで駆け出し、後ろをチラと振り返ったヘンルータとアネットが、先を歩いては少し足を弛めていたフィラに追いつこうと全力で走り出す。

「フィラさん、姫様この先であってるのかい?」

「居ないと思います。でも、建物の基礎配置からロドニー・イェッツさんの作られた大鍵だと思います」

「居ない……って、ロドニー・イェッツ?」

「60年程前の砦建築の方です。手間のかかる物ほど安全という趣味の方で、二つに分けた」

 ダドダドダドダドダドダダ・・・

「ちょっ」

「うわっ」

 と、追いつきフィラに話しかけている間に、左右の壁に響く兵士達の足音が不揃いに大きく背中へ近づき、ヘンルータとアネットが音にはねられたようにギョッとした顔になる。

 兵士と自分達とでは元々走る速度は違うだろう。だが、兵士は武装の重量がある分すぐには追いつけまい。そう高をくくっていたのだが、訓練が行き届いているのかそれとも妙に体調がいいのか、兵士達は重量差を物ともしないらしい。

 振り返りもせず二人がスカートをバッタバッタと跳ね上げ、靴底を力一杯地面に叩き付け、必死な形相で加速する。

 その前を跳ねるように歩いていたフィラが戸惑ったように振り返る。

「追い掛けてきた用事を聞いた方が?」

「ダメだよ。安全なことなら振り切っていいし、危険なことなら振り切らないと」

「あたしらより姫様。トラブってんならここで合流しないと来た役目を果たせないよ」

「少し威圧的でしたが口調は丁寧なので、捕らえたいわけではないのかも?」

「甘いよっ」

「男ってのは騙す時は丁寧になるもんだ」

「三人とも待ってくださいっ!」

「砦は今危険なんですっ!」

「こういうのが危ない」

「とにかく振り切る」

「でもそこですし」

 言いつつ耳の後ろで叫ばれたかと思うほど兵士の声が近づいている感覚に震え、ヘンルータとアネットが口元をギュッと固くすると、続いて心の中で前言を翻すような大きな笑みを顔に描く。

「ごめん、ここがトリオの解散だ」

「あたし達が食い止めるから、先へ行って」

「それではお願いします」

 自分達の走る速さでは足手まとい。そう、ヘンルータとアネットが身構え立ち止まるように後ろに振り返った刹那、フィラは言ってすぐ左手にある東側の塔の入口へ入り、そのまま扉をキチンと閉める。

 『そこ』って兵士達がそこまで来てるんじゃなくて、目的地が『そこ』? だったら三人で入ればいいのに、と言いたげなヘンルータとアネットの驚愕には目もくれない。

 更にかんぬきもかけ、外から簡単には開けられないことを確認。

 抗議するような漏れ響く叫びには迷い無く扉に背を向け、東塔一階の内へ振り返る。

 そして、空気穴のような小さい窓から光が射し込むだけの、色もくすむ薄暗く部屋の中央では、12人の男が眼を光らせるようにのっそりと立ち上がり、予定外の侵入者へ向けて次々と剣を引き抜いた。



 たったったっと、後ろに崩れた建物も見えなくなった長く四角い建物の通路を走りながら、ディアナが元気な声で言う。

「ちょっと賑やかにしすぎてしまいましたね」

「まぁ~ねぇ~~~」

 野太刀を鞘に仕舞いつつ、ジレルが釈然としない風に言い流す。

 先程のあれは、ちょっとばかりヤバかった。

 人目を避けて陸橋や建物の中だけを走ってハッキリしないが、多分グルリと回るように砦の東端に来た頃。突然のように後ろの階段と通路から、20を超える数の兵士が噴き出したのだ。

 本来なら問題はない。

 全員ブチのめせばいいだけだ。

 だが、そう抜刀した途端にディアナに腕に抱きつかれ、『今度は怪我をさせないようにしてください』と真面目な顔で念を押されてしまった。

 人間を傷つけず昏倒させるのは時と場合と相手しだいでは簡単なことだが、戦闘状態にある兵士を傷つけず倒すなど達人でも至難。しかも、自分達の部屋の前にいた見張りの兵士5人はジレルも驚いたくらいタフで、敵ではないと手加減した初撃では5人とも倒れなかった。

 結局、二撃、三撃と打ち込み、自分は傷を負うことなく倒したが、兵士達には打ち身擦り傷程度とはいえ、全員に傷を負わせてしまったことは少し悔しい。

 それが4倍を超える数。手加減してディアナを守る余裕などない。

 ならばと窓の外を見るが、下には地面を埋め尽くし走る更に数を5倍にした兵士の集団。

 追いつめられた戸惑い揺れる脳内に、誘惑的なセリフが反射的に響く。

 ”これだけ多ければ、怪我どころか全員殺してもいいよね”

 甘美さに問わずにディアナの返答を決め。ディアナを抱え飛び降りようと決意した瞬間。

 下を走る兵士達の中に見えていたマジュスの頭上高い空間から巨大なカニの爪が飛び出し、スレスレで自分達だけでなく後ろに現れた追っ手の兵士一人として怪我させることなく、建物ごと通路を分断するように破壊したのだ。

「わたしがこれだけ必死に手加減してるのに盛大にやりやがってぇ……」

「そもそも、ミリーさんが見張りの兵士を5人とも殴り倒してしまったから、あんなに大勢で追い掛けて来たんですよ」

 悔しさをブツけ先に困ったように手をわきわきさせるジレルに、ディアナが何だろうと少し首を捻りつつも諭すようなことを言う。

 ジレルが、口を閉じ、目まで閉じそうな表情でじっとディアナを見返す。

 そもそも。ディアナが部屋の外を確認せず扉を開け、しかも堂々と見張りの兵士の前を通り過ぎようとしなければ、言いくるめる……のは面倒だったからいいとして。せめて倒した後にディアナが兵士に怪我がないかと一人ずつ確認し「裂傷がありますね、治療薬はないのですか」等と言わずに立ち去れば、これほど早く追いつかれることは無かったはずなのだが……。

「……って、あれ?」

 苦情を言うか迷ったように表情を揺らすジレルが、不意にそれ以上にあっさり追いつかれた理由に今更気付き、ビックリした様子でディアナを凝視する。

”足遅っ!”

 ダンスの練習や城の周りをジョギングをしていたと言っただけあって、ディアナの横顔には汗一つなけれ呼吸の乱れもない。だが、軽やかにしてリズミカルな動きのクセ、やたらと走る速度が遅いのだ。

 同年齢の女の子の速度としては平均はあるかもしれなが、それでも非常時の速度ではない。

 最初からディアナに合わせ遅めに走っていたため気付かなかったが、これを追い掛けようとすれば、多少出遅れても追いつけない方がおかしい。

 昨夜、樹海の闇の中を走った時は、ここまで遅くはなかったはずなのだが……。

 ディアナの背中を押すか手を引こうかと考えるが、もしこの先に隠れた相手に突然飛び出された場合、片手が塞がれた状態では当のディアナを庇えるかわからない。

「あのガキ……ちゃんと役に立ってたんだな」

「もちろんです。去年もわたしの手紙をケルベナまで届けてくださったんですよ」

 口にすることで悩みの一つを押し流そうとするジレルに、ディアナが嬉しそうな声を上げる。

 ジレルが表情を止めて呟く。

「去年……?」

 走る速度は変わらないがハッとしたようにディアナの動きが固くなり、困った表情がジレルに向けられる。

「去年の今頃父と母が困っていて、ケルベナの王族の方と連絡が取れないかと思っていた時にマジュスちゃんに出逢って、手紙を届けてもらったんです。わたしとしてはちゃんと言いたかったんですけど、お使いの途中だったから寄り道したことは秘密ということになってて、ミアシャムさんが居たせいもかもしれませんけど、マジュスちゃんも全然覚えてない、まるで初めて合ったみたいにそのことは黙ってて……。ですからミリーさんもこのことは……」

「いや、単に文通て一年前からだったのか……と」

 タイミング的に他の何かとも重なるのかジレルが一人頷き、大切な秘密をバラしてしまったように焦った顔になっていたディアナが安心した笑みになる。

「と言うか、わたしの方もさっきから本名で呼ばれている気がするんだけど……?」

「それはわざとです。わたしだけ誰か分かられてるのは嫌ですし、二人しか居ないからこれは言っていいかなーと。樹海で二人になったときも言うか迷ったんですけど」

 ジレルが、樹海の中だったにしろ反応に奇妙なところがあったことに今更納得する。

「四年前に顔を合わせただけで喋ってもいない、他国の北方騎士長の娘の名前なんてよく覚えてたな。しかもカッコウもこれだけ違うのに……」

「はいぃ? 会議に訪れた方達のお連れの中で、わたしと歳の近い女の子は貴女様だけでしたし、わたしが苦手だったダンスも華麗に踊られていてそれで練習増やしたんですよ」

 ディアナが何か驚いたような笑顔で見つめ、ジレルが困ったような、面倒そうな、ただ何かしっくり来なくて合わせずらそうに視線逸らす。

 そう言っている間に南側への建物につながる陸橋を見付け、辺りを見回すように掛け抜ける。ジレルが何かかが通路に引っかかりでもしたように振り返り、そのままディアナへと顔を戻す。

「一応聞くが、わたしは姫の護衛が最優先でいいんだよな」

「どちらかというとお友達の方がいいのです」

「まぁ、どちらでもやることは変わらないか」

「はい……?」

 ダメですかと微妙に問うような、それで押しの強い笑みを浮かべていたディアナが、護衛と友達の共通点が見付けられず、戸惑ったように表情を崩す。

 ジレルはその視線には答えず顔を正面に向けると、少しだけ視線を細め、失笑めいた表情を口の端で小さく数えるように二度浮かべた。



 真っ二つにされた建物の通路奥へ消えた二人の姿を追い、北から南へ走る三十人程の兵士達。

 先頭の影に隠れるように兵士達の三番手ほどを走っていたカージスが、手から少しはみ出る細長いい金属管を怪訝そうに目を向け、覗き見えた空洞に少しバツの悪そうに頷く。

「使えねぇのか……」

「おい、それは捨てずに隠しておけ」

 捨てようと振り上げた瞬間、隣を走るドルグが身を固くするように小さな声で止める。

 金属管の正体は、──魔術封印管。

 先端の封を開き目標に向けて意識を集中すれば、込められた魔力付与された物質が矢となり目標を貫く。

 使い切りの魔術道具であり、一昨日の夜──ディアナ姫が行方不明と分かった後に、アフリクドから一つずつ渡された物だ。

 渡された本来の使用目的は、レウパの王都でのアフリクド本人への狙撃。

 の、偽装。

 殺害目標は何故かエンダール国王でもジュセフィーヌ王妃でもなくディアナ姫と決まっていたが、目標が誰にしろケルベナの仕業とわかってしまえばレウパ以外の周辺諸国、何より自国内の民の反応が面倒になる。そのため別の何者か、少なくともケルベナの者ではないと矛先を逸らすための殺害相手を作り出す必要があった。

 水を使ったのは、姫失踪の時点で水霊を連れた子供の情報は手に入れていたからだろう。

 カージスもドルグもアフリクドに使われるのは乗り気でなかったが、前々から気に入らないアフリクドへ見せかけでも攻撃できるのは、少しばかり誘惑が強かった。

 だが、ここぞと杖を持たぬ不意を狙ってみれば、力を見せつけるような余裕の防御。

 元からアフリクドに自信があったからこその行為なのだろうが、ただからかわれてしまったようで歯が擦り潰れそうなほど歯ぎしりをしてしまった。本来なら残ったもう一つで魔従士のどちらかを殺し、より外部の殺害犯の印象を強める予定だったが、作り事の馬鹿らしさに辟易したカージスはそれさえもやめてしまった。

 そして、そのまま手元に残ることになった魔術封印管を、先に分断された建物の向こう側に見えたディアナ姫へ、こういう道具は最初からこう使うべきだと放とうとしたのだ。

「……これが見つかるとさっきのが奴じゃないとバレるか」

 カージスがドルグが言葉の理由に気づき顔をしかめ、数秒すると、何か思いだし、歯だけで声を閉じこめるようにどこかへ笑む。

 未使用だった魔術封印管は、既にクランド十四部隊長へ向けて放たれ、空になっていた。

 砦門内に潜入はしたものの、姫が本当にここにいるかも、自分達の扱いがケルベナ軍で現在どうなっているのかわからない。

 そこで情報を得るため兵士に紛れ、人の流れが奇妙な食堂へと足を運び、兵士達の雑談から他にも北の門から入った客人が居る情報を聞きくと、以前自分達が泊まった建物に居るのではと正体を確かめるべく急ぎその場を離れた。

 だが、慣れぬ砦に迷っているうちに、気付けば自分達をつけてくる不可解なクマが居る。

 何故この砦クマが居るのかわからないが、クマが追ってくるなど露骨に怪しい。

 そこで何か起こる前に始末しようと追いかけたのだが、傭兵時代に何度か顔を合わせたことのあるクランドの元に逃げ込まれ、仕方なく角の陰で様子を見ていると、信じられないことにコルジュ守備大隊長と言い合いをはじめたのだ。

 どうやら自分達の潜入とは関係ないようだが、喋れるのであれば、やはり早急に処理しなければならない。

 だが、二人の前でクマを倒すのも、コルジュとクランドの二人ごと砦の他の兵士達に気付かれることなく倒すのも、流石に無謀といえる。

 と、そこへ黒帽子黒外套の子供が屋根から落ちたように現れ、元々魔術封印管はあの子供に罪をなすりつける為の物だったと思い出したカージスが、手の中で遊ばせていたそれを咄嗟にクランドへ向けて放ったのだ。

 協力するしかなくなった今もアフリクドを誉めたくないが、人の体が吹き飛び壁に張りつくその威力。クマ程の体の大きさもあの子供ほどの異様な防御力もなければ、コルジュのような厚い筋肉もないクランドなら確実に命を失っただろう。

 そして、カージスの狙いに気付いたドルグと共に、コルジュが状況を理解する前に騒ぎ立て、他の兵士達を呼び寄せたのだ。

「あの女が居たんじゃ防がれたろうが、それでも一回きりとはショボくせぇ」

「あの~、捕縛ではなく、本当に殺すのですか?」

 と、カージスの前を走っていた目玉の小さく見える七番小隊長が、期待による興奮と役目による不安の混ざった表情で唐突に振り返る。

 カージスが急いで魔術封印管を兵服の内ポケットに押し込み、独白が聞かれていなかったか疑うように睨む。口元にはゆったりと大きな笑みを浮かべる。

「ああ、もちろんだ。お前達の仲間が5人も倒されていたのは見ただろ」

 ドルグがそれに同意するように隣で大きく頷く。そして、会話を確認するように先頭を走る一番小隊長のまだ伸ばし初めのヒゲ面が振り返ったのを見ると、ディアナ姫達の客室になっていた部屋の前での会話を思い出し、一瞬吹きそうになるのを堪える。

 ディアナ姫達は身分隠すためか、伝える前にトラブルでもあったのか、信じられないことに自分達に襲撃されたことをケルベナの兵へ報告されていなかった。

 そのため、現れた瞬間に斬り結ぶ覚悟をしていたにも関わらず、一番小隊長と七番小隊長は自分達の顔に気付くと、「一体何事?」、「何故兵服を?」、と呆け戸惑うばかり。

 しかも、「ここに来た女は国交復活と婚約を良く思わないレウパ王国に根付く一部の工作員であり、我らはそのいざこざを両国の民に表立って知られないよう、内々に処理するためこうやって潜入した」とドルグが慌てて繕うと、あっさりと信じ込んで協力まで申し出て来たのだ。

「ですが……、一応コルジュ守備隊長にお伺いを」

 一番小隊長が、迷いが出たように唾を飲む。

 七番小隊長も、似た表情で頷く。

 毎度の砦内警備交代までの時間をだらだらと話して過ごす一番、七番、八番の小隊長の前に、クランドを探し現れたコルジュ守備大隊長から受けた命令は、サミヤと共に来たレウパ王国の者達の近くで気付かれぬように待機だった。

 樹海の化け物に魔塔の壁が壊された時と比べてすら、差し迫った表情。

 それでも定かと言えないレオン王子暗殺の報で、更に神経質になっただけだろうと意図的に軽く話し、別命を受けて地下牢へ行った八番部隊長と分かれ、部下を率い来客室とした建物に向かった……のだが。

 建物から慌てふためき飛び出し駆け去る大柄な兵士と中年がかかった二人り兵士。

 まさか、コルジュ守備大隊長の思い過ごしでなく事が起こってしまったのか。

 二人を追おうとした時には既に姿はなく。コルジュ守備大隊長に指示を扇ぐにはあまりにも早すぎる上に情報も少ない。すぐ建物に突入しても何でもなかった場合、気付かれぬ様に待機すべき自分達の存在がバレてしまっては都合が悪い。

 対応に困り、とにかく気付かれぬように建物を一階から確認しつつ三階へと上がれば……。通路では5人の兵士が倒れ、その前に立つ数日前に顔を見たばかりの騎士分隊長の二人。話しを伺えば、とんでもないこと言い始める。

 そして後は内密の任務と言われるまま従ってしまったが、建物を分断した巨大な爪や、その周囲に集まる他の部隊の者達のことを考えると、カージスとドルグが言う以上の大事が砦内で起こりつつある可能性もある。ならば、砦の主たるコルジュ守備大隊長に指揮を仰ぐべきでは。

「だめだな」

「コルジュ殿は気が小さい。不要なことを話せば動揺してなにをするか。報告なら後で我らが責任を取ってする。まずは工作員を見付け騒ぎの真相が広がる前に殺すことだ」

 ガッと片頬を釣り上げるカージスの横でドルグが言い、バレるのではという内心の底冷えに、握りしめていた拳の握力を強くする。

 コルジュは確かに気が小さく頭の回りも遅く、思い込みも激しい。だが、思い込みが激しいようでいて辻褄が合わなければ心の隅で疑い続け、出す答えも紆余曲折して遅いが最終的には正しい答えに辿り着く。何より正義感の強さは人一倍だ。南西国境で判断が遅れてチャンスを逃した時も、多少のキツイ処分があってもおかしくないにも関わらず、ある宮廷魔術士がそう助言したとかで、大隊長のままこの砦門へ配置換えになるだけで済んだとも聞く。

 一度は言いくるめられるだろうが、すぐに姫を始末できなければ、不自然さに気付き細かいことをグダグダ言いだし面倒になることは間違いない。

 ここは、何としてもこのまま押し通し姫を殺さなければ。

「お前達も、手柄は欲しいだろ。それに、俺達の部下にかなり空きが出来ていてな」

 カージスが考えた風もなくニヤリと笑う。そのセリフは流石にマズイ、と言葉を挟み掛けたドルグを余所に、二人の部隊長の顔がパッと明るく輝く。

「まぁ……、これって王都の城に関係した任務ですよね」

「……樹海の化け物とか倒しても、ケルベナ兵はやっぱ強いなで終わっちゃうし」

 ポカンとしつつ、ドルグのアゴが一度上下に動く。

 そういえばこの二人、見覚えがある。自分達がまた傭兵隊に居た頃に、何度か隣り合わせた隊にいた二人だ。傭兵と兵士が揉めては仲裁にしゃしゃり出て、更にもめ事を大きくしていたクランドと違い全然目立たなかったが、その後ろで何故かいつも偉そうに立って傍観していた二人に間違いない。

 兵服を着ていても、自分達の顔にすぐ気付けたのはそれが理由だろう。

 その頃は二人とも兵士で、自分達が騎士になったように順当に出世したようだが……。

 二人がチラチラとカージスを見る表情に、ドルグがもう一度頷く。

 兵士と傭兵なら兵士の方が地位が上でも、兵士部隊長と騎士なら騎士の方が地位は上。

 騎士分隊長は当然更にその上だ。

 考えたこともなかったが、カージスもドルグも一般兵から見れば飛び級的出世頭だ。

 手柄とはかけはなれた砦に居るせいもあってか、二人はその出世、騎士という地位に憧れているらしい。自分達の言葉にあっさり従ったのは、それが最大の理由だろう。

「今回の件がうまくいけば軍の再編成がおこなわれるんだが……」

 ドルグは頭を巡らせると、カージス以上においしそうな言葉を考えはじめた。



 扉は突然開き、すぐ閉じられた。

 内側から閂までかけられた東塔の扉へ向けて、12人の男達が手に剣を持ち睨み振り向く。

 まだ見張りの交代の時間ではなく、彼ら自身も砦の見張りではない。

 その顔に浮かんでいるのは、怒り、殺意。自身を叱責する悲しげな後悔。

 マイナス感情が取り巻く彼らは、カージスやドルグと共にこの砦に侵入した部下の騎士達だった。

 カージスもドルグも、今度は護衛は無視して姫だけを狙うと言っていたが、回りが全て敵となっているかもしれない砦へ二人だけで潜入して、うまく行くとも思えない。

 そして、自分達の傷ではまともに戦えないが、壊れた盾の代わり。僅かな時間稼ぎ程度なら動けないくもない。

 だからと、休んでいろと言うドルグの言葉を押し切り、14人もかと面倒がるアフリクドを説き伏せ、分隊長二人に続いて砦内に転送してもらった。

 しかし、人数分の兵服を手に入れるまでは順調だったが、その頃には潜入前の気合いも尽き、傷と疲労から12人全員がまっすぐな姿勢で歩くことが出来なくなっていた。

 まっすぐな姿勢で歩けない。一見大したことはなさそうだが、砦内を具合が悪そうな兵士が歩いていれば十分に目立ってしまう。

 声をかけられれば、流石に砦の者でないと気付かれてしまう。

 元気な時であれば12人のうち一人か二人はすぐに気づき、間違いなくそうなるから潜入はやめろと言い出す簡単になことだけに、実に情けない。

 そこで急遽予定を変更して隊長達と分かれ、砦の内側も見回しているであろう見張りの塔を占拠し、隠れることにしたのだが……。

 これもまた半分失敗だった。

 侵入に全く気付いていなかった塔の見張り達を捕らえるまではうまくいったのだが、全員がそれだけでバテて、床にヘタリ込んでしまったのだ。

 砦の主な見張り塔は二つ。お役に立つには東だけでなく西も抑えたかったが、もうまともな姿勢どころか西の塔までまともな速度で歩けない。

 こうなったらカージス隊長とドルグ隊長が目的を果たすまで、この東の塔だけでも悟られぬように確保し粘るしかない。ディアナ姫さえ殺してしまえれば、ことの重要さから、カージス隊長やドルグ隊長の言葉を無茶だろうが辻褄が合わなかろうが、砦門の者達も全員真実として受け入れないわけにはいかなくなる。

 それまでは……。

 入ってきたのは兵士ではなく、砦には似つかわしくない武装の一つもない少女に見えたが、疑問が頭の中で完成する前に歯を食いしばって駆け寄り、動くなとばかりに剣を突きつける。

 完璧とは言い難いが、不意に12人に剣を向けて迫られれば、まっとうな兵士でも声の一つ上げられまい。

 だが、それぞれの騎士が、自分の剣先を見ながら、力んで固くなった首を傾げる。

 勢い余って刺してもおかしくない12本の剣の隙間を、少女の体が擦り抜けたのだ。

 いや、ただあっさり歩いて通ったと、表現した方がいいかもしれない。

 丸い部屋の中央で、見回すように歩を弛めて長い髪を揺らす少女の背に『動くな』と唸り、言葉とは裏腹に、怒りと焦りを叩き付けるように何人かが容赦なく剣を振り下ろす。

 だが、距離を測りかねたのか、少女の背中は剣の数歩先まで既に離れている。

「あのう、その怪我だとあまり動かない方がいいですよ」

 フィラが兵服姿の騎士達に大きな瞳を向けると、差し出がましいかなと控えるような表情で、その割にはハッキリした声で言う。

 薄闇の中でもそれを見た騎士達の顔に困惑が浮かぶ。

 どこかで見たと思ったが、レウパのジブコット城に居た侍女見習いらしき少女では?

 レウパの者が何故ここに?

 自分達のことはレウパにもバレたのか、だがそれにしては武装もない少女が一人来るなど?

 何か問おうと息を吸い、言葉に出す億劫さから剣を持つ腕を上げ、焦りで今の自分の思考も流され、ただ闇雲に少女に向かって剣を振る。

 だが、騎士同士の体がブツかり跳ねるだけで、手でも触れそうな距離の少女には剣は奇妙に当たらない。

 フィラは空に銀の孤を描く剣の間を何気に歩き抜け、奥の壁にある幾つかレバーの前に立ち、確信を持った動きで一つのレバーを引き、……僅かに下がった睫毛の影で瞳の色を変える。

「あれ……。これであっているみたいだけど」

 ダンッ

 ガッ

 ドガッ

 途端、何かされたと気付いた騎士が自分の勢いと剣の重さに振り回されるまま動き、確実に殺す、ただそれだけの意思を反映させるように床を鳴らしブツかるように迫る。

 フィラは、全くその動きを見ることなく驚いたように数歩下がる。

「もしかして……」

 変わらぬ表情のまま自分が倒したレバーを見つめ、壁まで素通りして振り返った騎士が再び振るう剣の隙間を通って元の位置に戻ると、残ったレバーも引いてみる。

 表情が、木製のレバーを握る掌だけに神経を集中したように変わり、レバーのずっと向こうから響くカラクリが動いた微かな振動に、瞳を大きく開く。

 そして、今度は隙間無く数人によって振られた剣を避けるように、既に引き押されたレバーの上に乗って三つ目のレバーを倒すと、壁で見えないレバーの先を探る表情が全て消え去り、今まで立てていなかった靴音を少しだけ鳴らして二階へと走った。



 カタン

「あれ……」

 クマや二人の兵士と別れた後、西の塔へと駆け込んだマジュスが、奥の壁にあったレバーの一つを倒し、不可解そうに首どころか体ごと大きく捻る。

「どうかしたの……?」

 今にも頭から落ちそうな帽子の垂直になったつばに、ダラリと寝そべっていたミアシャムがかったるそうながらも声をかける。

 外の騒ぎに気付かず上の階に居るのか、外の騒ぎに釣られて飛び出して行ったのか、西の塔の周り、そして一階のホールのような丸く大きな室内を見回しても、兵士の姿は一つもない。

「砦門の扉を開けるには、まず東塔と西塔にあるレバーを操作して鍵を解放しないといけない。んですけど……」

 言いつつマジュスが不思議がるように次のレバーを倒し、奇妙な表情で口を閉じる。

 続いて三本目のレバーを倒し、ビクッと後ろに飛び下がる。

 そして今度は、一気に二階へ駆け上がると、そこにあったレバーも一本倒し、怪しむように少しだけで後ずさりする。

 正直、レバーだの鍵だの扉など最初からどうでもよく、勝手にやってなさい的な視線だったミアシャムも、これまでに無いマジュスの異様さに徐々に体を起こす。

「ですけど……?」

「レバーは何者かに侵入されてもすぐに開けられないように両方の塔に幾つもあって……」

「あって……?」

「一方がレバーを倒て、もう一方の塔でも同じレバーを倒さないと、次のレバーが倒せないんです」

「よく知ってるわね?」

「そうしてくれと書いてありました」

「書いて……」

 促すように相槌を打っていたミアシャムが、首を傾げる。

 二人の兵士が門の開閉が面倒と言っていたのはこのことなのだろう。だが、そういった詳細まで言っていただろうか。

 いや、『言っていました』ではなく『書いてありました』だ。しかし、少なくとも塔の外にも、塔の一階にもこの二階にもそんな図面や張り紙は見当たらない。

 そもそも『くれ』とは。意味はわかるが何故『くれ』なのか。

 これでは書いてあったと言うより、まるで誰かに頼まれたようだ。

 ミアシャムが色々と聞きたくなるが、横道にそれてもよけい分からなくなる。やきもきした表情になるが、なるべく落ち着いた口調で今の話しを進める。

「だからあの二人に東の塔へ行って鍵を開けてって言ってたのね。結構足早いのねアイツら」

「そのつもりだったんですけど、多分あのお二方はまだついていません」

「二人じゃない?」

「しかも、両方倒さないと次が倒せないけど、倒すのは同時である必要はない。にも関わらず、手応えから見て今までの四本ともこちらと全く同じタイミングでレバーが倒されています」

 言うとマジュスは息を整え唇を結び、フェイントでもするように一度二度と大きく空振ってからレバーを足で倒し、ビビクとケンケンで大きく後ろに飛び下がる。

 次は後ろを向いてレバーに近づくと、手探りでレバーを探し、そのまま引き倒すと、ゾッと固まる。

 どうやら五本目と六本目も、手応え的に同じタイミングで倒されたらしい。

 マジュスが三階へと走ると、三本同時かと思うほどの速度で連続してレバーを倒す。

「………………」

 マジュスが愕然と両手を床につく。

 またも、完璧に同じタイミングだったようだ。

「ぇ~っと……、扉を開けないとあのトロそうなお姫様を外へ連れ出せないんでしょ。だったら、開けてくれるの手伝ってくれるんだから、誰だっていいじゃない」

「いいえ、こんなことが出来るとなるとこちらの動きを完全に読む、もしくは気づかない内に私が操られている可能性があります」

 差し迫ったように言い切るマジュスの声に、ミアシャムが帽子のつばにパタンと再び寝そべり、皮肉っぽく口の端だけで微笑む。

 契約状態下に置いているミアシャムに言わせれば、少なくとも魔術によってマジュスが何者かに操られている可能性は100%ありえ無い。

 おそらくこれは、同族嫌悪。と言うべきか、同位置嫌悪。

 物理的な体より、精神的な体に近い精霊ではよくあることだ。地霊玉のように集団活動する精霊ではそうでもないようだが、単体活動する精霊だと、より自分と離れた立ち位置の存在は平気でも、より自身に近い立ち位置の存在の精霊と居ると不安になる状態がある。マジュスは何かと誰かに合わせてばかりいたせいか、誰かに合わされるのが似たように心地悪いのだろう。

 いや……。

 と、マジュスの様子を、精霊同士の場合に当てはめたミアシャムが、何か思い出したように体の動きを止める。

 本当に同じだとすると……。

 単に強いだけの相手なら力の種類の違いにつけ込めるが、上位互換タイプだと僅差でも全く手が出ない可能性がある。

 目的を同じとしても味方でなかった場合と考え、三つ程パターンを思い浮かべるが、どれもこれも最悪。ミアシャムが思い浮かべるマジュスを守りきれない状況のトップ3そのままだ。

 こんなところにタイミングよく居るとはとても思えないが……。

「本格的に早く逃げた方がいいかもね……」

「とにかく早く済ませます」

 急にやたら鬼気迫るミアシャムの声に押されるように、マジュスは四階へと駆け上がった。



 カカカ

 と、軽く音を立て、殆ど同時のように連続して倒せた三本のレバーを見つめ、フィラが瞳を輝かせ、口元を少しだけ小さく上げる。

 先にレバーを倒してこちらを急かすことなく、かと言って決してこちらの動きに遅れることなく、こちらと全く同じタイミングでレバーを倒す。

 一体、西の塔には何者が居るのだろう?

 12人の騎士が、もう滅茶苦茶に振り回すだけの剣の間を、楽しくて踊っているかのように長い髪と服の短い裾を舞わせるようにすり抜け、次の階へと向かう。

 自分が今まで見た誰かなのか?

 それともまだ見ていない誰かなのか?

 最初はたまたま偶然、次ぎも偶然が重なっているだけかと思ったが、ここまで続くと流石に偶然とは思えない。

 最初のレバーを倒したときは、ヘンルータとアネットに行ってもらうわけにも行かず、西の塔のレバーはどうしようかと悩んでいたことも、これほどの味方が居るなら全くの杞憂だった。

 とにかく、多分、きっと、門の鍵を開けて塔を出れば何者かがわかるはず。

 きっと、もっと、急いでもしまっても……大丈夫。

 ちょっと歌い出しそうに口元が弛むが、自分達を目撃したフィラを殺そうと騎士達が一振りごとに重くなる剣に振り回されつつ傷に耐えがんばる姿を見て、悪いことをしかけてしまったように口を少しだけ結び直す。

 そして、歌うにも難しいリズムで三本のレバーを倒し、ほぼ同時に振り下ろされた剣で切り飛ばされ跳ねるレバーの握りがその騎士の顔に当たらないようにつかんでから置き、フィラの顔が思い出すようにまた輝く。

 こんな変則的な動きにすら合わせてくる。

 フィラはその調子で五階の最後の三本のレバーも倒すと、勢いそのままこの階から迫り出すように取り付けられた見張り台へと走る。騎士達に縛られ転がされていた塔の見張り兵三人を見付けると、全員をまとめて頭の上に持ち上げ塔から飛び……。急に下から吹き上げた強い風の中、空色と海色の大きすぎるような瞳をに何かを映すと、不意に表情を静めた。



「ホ~ントこの砦の人達いい人達くまねぇ、今までも武器を向けられても、逃げずに話し続ければ良かったかもしれないくまぁ~」

 てん、とん、たん、とクマがスキップするように建物の角から飛び出し、その目の前を走り抜けた三十人程の兵士達の姿に、ひょいと笑むように立ち止まる。

 まだ、マラソンの続きをしている兵士達が居たのだろうか。

 見回すとここは南門扉の前らしく、自国であるケルベナ領へと続くためか、北門に比べると少し大きめな広場になっている。

 兵士達はその広場の中を、ここからでも少し見上げるような南門扉へと剣と槍を振り回して走り……。

 ガンガキガシャ

 ずじゃじゃじゃじゃ……

 激突する鉄の唸りが耳障りに響き、吹き飛ばされた一人の兵士がクマの目の前を滑り、這い蹲ったまま動かなくなる。

 クマが固まり、後ろ足の指だけで掻くように戦いの音へ向き直り、見えた姿に全身総毛立つ。

 兵士達の起こした土埃の先には、背丈ほどある野太刀を振り回す赤っぽい髪の女。

「無理くま……」

 何故呟いたのかも、何故兵士と女は戦っているのかも、自分でもよく分からない。

 ただ、コルジュの拳に自分でも不可解なほど動けなくなってしまった時以上に、視界が歪み、意識が眩み、血が下がり、体が震える。

 ブボッン……ガジャリゴジュリゴべリ……

 更に数人の兵士が弾けるように飛ばされ、鎧の破片を撒き散らし、受け身も取らず転がる。

「やめるくま……」

 白くなって行くクマの頭の中へ、全身の細胞が兵の三十人程度では勝て無いと悲鳴で告げる。

 このままでは、自分を「化け物ではない」と信じてくれた兵士達が、酷い目にあってしまう。

「やめるくま……っ。やめるくんまぁぁぁーっ」

 間脳と脊髄の奥底から湧き出す恐怖に対抗するように叫び、半狂乱で飛び出す。

 土を蹴り、前足を叩き付け、筋肉を躍動させる。

 クマの出現に驚いたのか、もう立つのが十数人になっていた兵士達が道を作るように隙間を作り、女の前まであっさり辿り着くとハタと固まる。

 この人数で勝てないと分かる相手に、自分が突っ込んでどうするのだろう。

「………………」

 クマだけでなく兵士の時間も止まったような空気の中、目の前に立つ赤毛の女──ジレルが、殺戮の邪魔をされて白けたように顔を上げる

 背丈の差から、見上げた状態なのに、見事なほど相手を見下した視線。

 そして、この雑魚どうしょう、と考えてあげるかのように、野太刀を握ったままの手で頭をかく。

 ゾクッ

 瞬間、その手を包む革手袋に、今まで不明だった恐怖の正体がハッキリする。

 絶対的な力で地面に頭ごとメリ込まされる瞬間に僅かに見えたあの革手袋の拳。

 この女が、樹海で自分を殴り倒した、その後も自分を恐怖で締め上げた正体。

 音が鳴り響きそうな勢いで、目と鼻だけでなく全身の毛穴から液体が噴き出す。

 逃・げ・な・け・れ・ば……。

 だがその恐怖の後ろには、気だても良く、優しそうな少女も居る。

 確かあの黒帽子黒外套の子供を助けようと箱を投げた少女で、その後のフィラ達との会話を考えると、レウパの姫様。もしかして女は、それを守る護衛ということだろうか。

 要するに、凶暴なだけで、悪人ではない?

 そんな訳ないし逃げなければ!

 いや、恐怖という殻で包まれたように思考が脳から出で来ないが、マジュスから何かを頼まれていた二人の条件にも合うような気が……、絶対に違って欲しい!

 とにかく……。

「危険で怖い人でも、悪い人達じゃないから、みんな逃げるくまよぉ」

 場を静めるように兵士達に振り返り、それでいて竦み震える足でジレルから離れなければと、何事もなさを力一杯振り絞って足を踏み出す。

 ゴスッ

 と、クマのふさふさと少し明るめな胸の毛並みに剣が重く吸い込まれる。

 その感覚にクマが呆けつつ、もう一つ呆ける。

 先程の兵士達全員の顔を見たわけではないが、目の前に立ち倒れる30人程の兵士の顔には何故だか全く覚えが無い。

 それでいて、自分に剣を突き刺している顔の皮膚が突っ張った男、その横に居る筋肉の塊の様な男。この二人は、二度ほど覚えがる。

 少し前に食堂に居て、ハンターのような冷たい気配で自分を追い掛けてきた二人。

 今頃になって思い出したが、樹海の中で黒帽子黒外套の子供を殺そうとしていた二人だ。

 目の前の光景を理解したクマが、やっと呆けた最初の理由を無関係のように呟く。

「刺さってないくま?」

 瞬間、刺された胸元の毛が変に盛り上がり、続いて足元から黒く蠢く毛玉が大量に湧き出す。驚く間も無くクマの全身を包み、地面から天へ垂直に伸びる太い柱のように増殖し膨れ上がる。

 一瞬だけ静止すると、柱が節を持つ先程見たようなキチン質の固く強そうな姿へと変わり、重く風が切られる。

 ……グニュン……

 腕の角度と関節の可動域的に無理があったのか、クマを刺した兵士へ振り下ろされた巨大なカニの爪は、その頭に届く寸前の高さで止まった。


 西の塔の見張り台──。

 眼下をあちこちへと走る兵士、数を集めては騒ぐ人の塊を見つめながら、見張り兵士三人が困ったようにポツリポツリと言葉を紡ぐ。

「なんか、すげー騒動になってるな……」

「向こうの宿舎Vの字に割れてるけど、長いこと使われてなかったから点検もされてなかったのかな……」

「誰か聞きに降りるか……」

 自分達は見張りである。

 騒がしいからと言ってこの場を離れるわけにはいかないし、ここから見えたことを報告しようにも既に兵士が集まっている以上、わざわざ下に報告するようにこともない。

 立場的にやりたいことも出来ず、やるべきことも出来ず、ただ非常に心地よくない。

「っておい、東塔から誰か飛び降りなかったか?」

 下から視線を上げた兵士が言い、他の二人が疑わしそうに東の塔の見張り台と屋上の辺りを交互に見つめる。地面は、西の塔からでは建物で完全に死角だ。

「別に……」

「何も見えないぞ」

「いや、それが先ず変だろ。いつもならちょこちょこ動いてるヤツが見えるのに、さっきから誰の影もない。もしかして、向こうの塔で何かあった……ん」

 急かすように言いつつ振り向き、南に顔が向いたところでピタリと表情を止める。

 二人の兵士もその様子に視線を追って振り返り、少し呆けてから動きを止める。

 ややして三人はジャンケンをすると、コルジュ大隊長へ連絡をすべく一人が塔の階段を駆け下りはじめた。


 こんこんこんこん……

「フィラさ~ん、開けてくんないかい」

「この人達、何か砦で騒ぎが起こってるから保護しに来ただけだって~」

「どこからか開けられないのか。騒ぎはこっちへは来てないみたいだが、急がないと」

「流石に中から閉められると……ボロくても砦だしなぁ」

 こぉぉぉぉぉぉぉ……っ………………

 10人近いケルベナの兵と、それとは違う部隊らしい中年ぽい兵士と大柄な兵士。そして、ヘンルータとアネットがどことなくだらだら和気藹々と言い合う東の塔の扉前。

 どこかで風が吹き抜けるような音に誰からと無く見上げ、その視線のまま塔から振り返ったアネットが、視線の下で長い髪が吹き上がるように揺れてから落ちるのに気付き、顔を下ろす。

「あれっ、フィラさん塔からでたの?」

「本当だ、気付かなかったよ」

 ヘンルータも、風音の割りに微風すらないことに不思議がりつつ声に振り向き、怪訝そうに首を捻り直す。

 扉が開いた様子もなく、塔の中にある相手が自分達を挟んだ反対側に居るのも不思議だが、その様子はもっと異様。

 ロープで縛られたケルベナの兵士。その一人でもフィラの体重の三倍を軽く超えそうな男を三人も背負い、今にも埋もれ押し潰されそうな姿勢でフィラがしゃがみ込んでいる。

「ちょっと……、はしゃいでしまいました」

 言葉の指す意味か分からないが、慌てて駆け寄った兵達の助けも借りて三人の兵士を背からそっと地面に下ろすと、深呼吸するように急いで立ち上がりフィラが東塔を手で指し示す。

「ケルベナ兵に変装された侵入者が12人潜んでいます。全員負傷されているうえ気も立っているので、30人ほど集めてから突入して囲み、降伏を促してください」

 まだ縄も解けていない見張りの兵士が体を起こし、何故地上にいるのか戸惑いつつも言葉を絞り同意する。

「……本当だ……っ。俺達の兵服で変装した12人にやられた」

 ポカンとして囲んでいた兵士達の口元が、徐々に納得していくように閉じられる。

 現在、砦内で起こっている騒ぎ──。例え未知の相手だとしても、化け物ごときが自分達に気付かれることなく侵入できるとは思えない。だが、人間が手引きしているとすれば……。

 まだ迷うべき点は幾つかあるが、まるで最初からそう指示でもされでもいたように、三人の縄を解くと兵士全員が塔へ整然と身構える。

「ヘンルータさんとアネットさんは、北の扉へ行って開けてください。鍵は開いているので、近くの滑車のレバーで外扉は下ろせます。内扉は鍵がかかっていなければなんとかなります」

「フィラさんは行かないのかい?」

「何がどうなってるの?」

「思ったより急ぎかもしれません。わたしは南の扉へ行きます」

 フィラは言うなり、まだほけっとしているヘンルータとアネットをあえて振り切るように、建物の隙間をこれまでにない早さで南へ走り去った。


「待ちなさい」

 カシュンッ……

「止まりなさい」

 パシュッ……

「引き返せ」

 ポシュッ……

 建物の間を東の塔へと走るマジュスの帽子の上で幾つもの言葉を叩き付けていたミアシャムが、弾かれるような魔力振動を何度と感じ、ちょっと飽きたように頷いてから座り込む。

「ヤバイ相手ならちゃんと確認しておかないと」

 東塔の一つ前の角に着いたマジュスが、陰から覗くようにやっと立ち止まり、今更のように返事をする。

 ミアシャムが、歪ませるように表情を止める。

 西の塔のレバーを全て倒した後、東の塔の様子を伺おうと兵士三人の後ろ姿が見える見張り台へ出ようとするマジュス。それを「迂闊に出て姿を見られてもヤバイ」と言って止めたのはミアシャムだが、そのまま距離を取るでなく、階段を跳ね下りると自分から東の塔へ近づいたのは予想外だった。

「そういうことじゃなく……て、そういえば、なにかあると近づいちゃう子だったわね」

 考えるとディアナ姫の時もクマの時も、ヤバイ可能性もあったのに平気で近づいて確認していた。自分の都合と違うだけで今まで通りだと気づき、ミアシャムが自分の愚痴に一人頷く。

 そして、マジュスの帽子のつばに居るせいで、自然と物陰から覗く位置になっていたことに気づき、ミアシャムも服と髪を帽子のつばの上に広げるように慌てて伏せ、マジュスの視線の先を追う。

 東の塔の入口の前には、あの中年めいた兵士と大柄な兵士の二人。見覚えのない侍女らしき二人。それに、地面に座っているケルベナ兵が三人と、立っているケルベナの兵士が数人。

 どういう取り合わせかわからないし、何事かあったようだが、どことなく微妙に和やかで、危険な空気は全く感じられない。

「居ないみた……」

 と、ミアシャムが残念と安堵が入り交じった言葉を呟くより早く、マジュスが角から出るとそのままてくてくと東の塔へと歩き出す。

「おや」

「黒くて」

 気付いたヘンルータとアネットが振り向き、黒帽子に黒外套、帽子のつばの上には小精霊が居ることに、思い当たったようにパッと顔を明るくする。

「そっかー、アンタが案内役の魔術士かい」

「思ったよりちっちゃいけど、顔は思ったより可愛いね~」

 その言葉が聞こえていないわけは無いようだが、マジュスは二人のすぐ前で立ち止まると、遠くを見る瞳で不思議そうに東塔と空を見上げる。

「ここだけまっすぐ上に風が吹いたみたいですけど、何があったんですか?」

 マジュスが見慣れない空模様でも見た子供のように言い、ヘンルータとアネットも釣られるように見上げ、不可解そうにすぐ視線を戻す。

 別に、この辺りに風は吹いていない。音だけならしたが、そんな跡はどこにも見当たらない。

「風ねぇ……あ、そんな場合じゃなかった。アンタ今すぐ北の扉へ行ってくれないかい」

「そうそう急がないと。ちょーっと頼まれちゃったけど、あたしも用があって。後はこっちがやって上げるから大人と交代ね。後は、全部任せて」

 言うが早いかヘンルータもアネットも、あえてマジュスに返事をさせる隙を与えないように、フィラの後を追って一気に砦の南の扉へ駆け出す。

 残されたマジュスがちょっと目を丸く大きくして見回し、いつの間にか問うように見ていたケルベナ兵達と目線が合う。

「済みませんが、私も南の扉へ行かないといけないので北へは誰か……」

「あ~、俺達はこの塔の中に居るヤツをこれから取り押さえねばならなくて。それなのにあの二人が、代わりに北の扉へ行ってくれってうるさくて……いや。俺達は砦の中がおかしいから、あの三人をとりあえず避難させるため……あ。今は、樹海の化け物が出たらしくて……え」

 目線があった兵士が、喋りはじめた途端、自分で思っていた以上に事態が分からないうえ、自分達が命じられた任務は全く出来ていないことに気づき、うずくまりたそうに頭を抱える。

 後ろにいた兵士がその兵士の横へ出て、困ったように言葉を引き継ぐ。

「とにかく、コルジュ大隊長へ伝令を走らせてるから。増援が来たら……」

「そのコルジュ大隊長さんの……」

「俺が行ってこよう」

 と、マジュスが口を挟みかけた瞬間、手持ちぶさたに聞いていた大柄な兵士が、手で自分を示すような身振りで言い、隣の中年かがった兵士も頷く。

「よくわからないが、頼まれたことは先にやられちまったみたいだからな。その分は、俺達が北の扉へ行ってやる」

 他のケルベナ兵達がその態度に奇妙そうな顔をするが、二人は自分達の隊の者ではないし、客人の世話係ならこに居るよりその仕事をしてもらった方がいいだろう。

 マジュスは礼を言って南へ駆け出し、大柄の兵士と中年がかった兵士も北へと走り出す。

 その後ろ姿を見送る兵士達がふと思う。南へは正解不正解は別にして行くべき理由は幾つか思いつくが、北へ行く理由はなんなのだろう。

 北の扉へ走る二人も、少しして走りながら互いに首を傾げた。



 南門扉前の広場──。

”あれ~……”

”うわ~……”

”や~ん……”

 ゴッ、ガシッ、……ブォゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾゾッッッ!

「ぶげぇっ、さっきの何倍だ。ま~たデカクなりやがったぞっ」

「くたばれっ、出てっ……おりゃっ、化け物なんぞがオリュァァァァ!」

 ゴガギンッギンッ、ガヂンッ、ギギンッ

「こん……硬っ、痛っ、なっ、がっ、がっ、チクショオォォォッ」

「根元はどっから湧き出してるっ。地面か、空間か、何の化け物が分かるヤツ、誰か言え」

「だぁっ、くそクソ糞、本気かてぇ……げぇぇ、剣先欠けたぞ」

 どこからか響くさえずりのような小さな響きなど気にすることなく、三十人近く倒れた兵士達の隙間に立つような二十人程の兵士達が怒りの声を上げる。

 兵達が囲む視線の中央、ほんの少し前までクマが立っていた場所には、地面から極太の柱のような腕を垂直に飛び出させた巨大なカニの爪。先に現場に駆けつけた者の言葉では、目鼻口もない小山ほどに聳え蠢く毛むくじゃらな化け物にも一瞬見えたらしいが、今はそんな名残はどこにも見当たらない。

「化け物め、ここに居たかっ」

「お前らでかした。囲め、逃がすな」

「砦を壊してくれやがってっ、さっきは逃がしちまったが今度はさせねぇぜ!」

 見回すと、建物の向こうから三人……、五人……と侵入した化け物を探して散った兵士達が次々と声高らかに駆けつけ、二十人が五十、五十人が百となり、力任せに剣と槍が豪快に振るわれる。その全てが弾かれる音と憤る悪態にしかなってないが、兵士達の気迫漲る攻撃は益々加熱して膨れ上がる。

 ドゴン……

 と、そうした兵士達の輪の中に佇みつつも、他人事と眺めていたジレルの表情がなるほどと不意に動き、ほぉーっと一息つくように掻いてもいないアゴの汗を手の甲で拭う。

 ボゴグッ……

 どうしてこうなったかは分からないが、現状だけは理解した。

 先ほどはディアナの足の遅さ、と言うより、限られた砦内だけに行き先を読まれたらしく、この広場につく直前に追っ手に見つかり追いつかれてしまった。

 ゴスッ……

 しかも、やや不幸なことに、来賓室前で倒した見張りの兵士五人と違ってやたらと弱い。

 弱いなら楽そうだが、ティアナからは兵士を怪我させないようにとの御言葉が降りている。先程の兵士なら怪我をしない程度に吹っ飛ばしたつもりだったが、一人目は少なくとも三ヶ所は骨折させてしまっただろう。他に囲む兵士達の弱さも同様。それならより手加減すればいいだけのようだが、一撃では倒せなかった見張り兵への悔し……感覚が拭えず、限界まで手加減したつもりでも半殺しレベルでブッ飛ばしてしまう。おそらく地に伏している兵士達のうち、一週間以内に剣を持ち上げられる者は一人としていまい。

 ドスッ……

 そこへ、邪魔臭くもクマが乱入。

 ドムッ……

 面倒なので殴り倒そうと思ったが、樹海に居たやたら弱いクマとは違い強気な気配(注意・同じクマです)。様子を見ると馬鹿みたいにあっさり刺されるが、同時と思えるほどの一瞬で湧き出した毛むくじゃらなモノに包まれ、巨大なカニの爪のような姿に変型。

 場に居た兵士達が呆然と立ちつくす中、次々と新たな兵士が駆けつけると、自分達には目もくれず、化け物へ向かって攻撃を開始したのだ。

 ドッ……

 ジレルが考えをまとめつつ、化け物のカニ爪の動きに気を取られた兵士達に紛れ、自分達をこの場で囲んだ兵士を三人……、二人……、最後の一人、と殴り、何の抵抗もなく倒し終える。

 追っ手を指揮していたと思われる、髭を剃り残し顔の男と白目の多いしょぼ顔の男の二人が既に倒され、そこへ化け物が現れ戸惑った様子もあるが、なによりこの兵士達は他の兵士達に自分達を殺そうとしていたことを知られたくなかったようだ。

 いや、今まで戦っていたジレルの存在を忘れたようにおろおろと見回し、指示を待つように立ちつくした様子を考えると、他に指揮官が……。

「………………あちゃっ」

 ジレルが、しまったとばかりに半端に手を打つ。

 カージスとドルグだ。

 追ってくる背中越しにわかるほど目立ちたがり屋に殺気を飛ばす奴が二人居ると思ったが、間違いあるまい。混戦中に手を出すと加減できずうっかり殺してしまいそうで後回しにしていたうえ、樹海での鎧姿とは違う兵服のせいで目の前に立たれても全く気付かなかった。変装から見ておそらく勝手に侵入し、砦の守備大隊長に知られぬよう、兵の一部に内密の命令とでも言って従わせたのだろう。

 せめてもう少し強ければ、顔はともかく気配を忘れたりはしなかったのだが。

 新たに駆けつけた兵士達が倒れている兵士達を脇へと迅速に運び行くなか改めて見回すが、手下とは別の援軍が現れた段階でどこかへ身を潜めたの全く見当たらない。

「ケルベナ全員が敵という訳ではない確認がとれたとして。せめてあっちの一人、今は二人のなぁ」

「くまさん、食べられてしまったのでしょうか?」

「え、いややや、全然っ」

 と、後ろから響いたディアナの声にジレルがビクと振り返る。元々ディアナには、戦闘中は三歩ほど後ろに居てくれるように言ってあったのだが、不意の声かけに、一瞬兵士達に怪我をさせてしまったことに突っ込まれた思ってしまったようだ。

 幸いなことにディアナはそれについては気付いた様子も、そもそも自分達を囲んだ兵士達が捕らえようではなく殺そうとしていたことにも気付くことなく、とりあえず片づいたとだけは察し、ジレルの正面に回ると少し呆然とした瞳で化け物を見上げる。

「でも樹海の化け物の中へ消えてしまいましたけど」

「何っ、やっぱコイツが樹海の化け物なのかっ」

「はい」

 兵士の一人が噛むように顔をしかめて振り向き、ディアナがまじめな顔で返す。

 周りの兵士から、苦しげな舌打ちに似た声が響く。

「しかも、化け物めクマのヤツを喰っちまっただと」

「そうなのかっ」

「遠目だがクマ喰って膨れ上がるのを俺も見たぜーっ」

「っきしょぉ、宿舎を壊されたときに呆けないで倒しておけば……」

「おいおい、クマ喰ったってことは人も喰うんじゃないか。何人か倒れてたが、喰われたヤツ居るんじゃ」

「コイツ……俺らを喰うために壁壊して、わざわざ入って来やがったかっ」

 侵入された驚きに探しつつも今一つ確信が持てずにいた兵士達が、ディアナの自信の満ちた言葉で確信に変わり、怒りも新たに殺気のこもった視線をカニの爪に向ける。

”え~っ、食べてないよ~”

”壊してないし~”

”人間当たってないのに死んだフリずっこいよ~”

”あれは気絶っていう”

”ミミがカニが強くていいって言ったから……”

”だってあんな大きな建物一撃で壊してすごかったし……”

”必殺だよね~”

”カニ正解~”

”えーっ、そうかな~”

”うんうんカニで良かったです”

 化け物の体に叩き付けられる剣と槍が、岩に叩き付けられた非力な金属棒のようなうるさい音をがなりたてるなか、またも高く小さなさえずりが抗議するように響くが誰も気付く様子はない。

 そもそも、クマを刺した兵士に対してカニの爪を振るったものの当たらず。その後もカニの爪を振り回しこそしても一方的に兵士に攻撃されるだけで一度として誰に攻撃を当てることなく。根本的に周囲に倒れている兵士も全員ジレルがカニの爪の仕業に見せかけるようにブチのめしただけで、一歩引いてみれば気付かない方がおかしいのだが、やっと砦の壁を破壊された怒りを向けられる相手を見付け、しかも駆けつけた時には何人もの仲間が倒されている惨状を目の当たりにしては、冷静に考える余裕などないようだ。

「お前ら、本当に建物を壊したカニの爪と同じと思っているのか?」

「ああ、間違いない。地属性だな」

「こんなのが他に砦内に侵入してるかよ」

 少し呆けたジレルの言葉に、兵士達から誰とも無く返事が返る。

 ジレルに言わせれば、建物を破壊したカニの爪に比べれば長さでは半分も無く、殻の光沢も爪の形もどことなく違い、何より相手から感じる力の強さが段違いなのだが……、変に言って自分がここに居る兵士達を倒したとバレても面倒なので、よしよしと頷きそれ以上は言わない。

「そっちっ、行かせるなっ、押し返せ!」

「完全に囲め。隙間作るな。このままケリをつけっぞ、封じ込めろ、逃がすな」

「変型したり大きさも変わるらしいぞ、変化に気を付けろ」

「不定形の化け物なのかっ……。こんだけデカクても見つからないわけだ」

 いや、中途半端には冷静らしい。そのせいで、目の前の相手こそが探し求めていた化け物であるという自分達に都合いい答えだけを、どんどん導き出していく。

 それに、例え違ったとしても、目の前にいる相手が砦内に侵入した化け物であるという事実だけは変わらない。

”ぁぅー……、なんか人間また増えてくぅー……”

”さっきの魔臭の二人、どこー……”

”ただの人間邪魔、どいて……”

”オーバー様の時は見てるだけだったのに殴ってくる酷い……”

”あの人間このなかには居ないよ……”

”じゃぁこの人間にはどいてもらおうよ……”

”どうやって、この姿じゃ曲がらないし爪も届かないよ”

「関節増やして、爪の数も増やしたらどうくま」

 と、先程から剣撃に掻き消されていた高く小さな響きの中に、もし剣撃が無ければ兵士でも声として聞き取れていたであろう響きが混ざる。

 クマが言った後、何かにぴっちり包まれて身動きできない闇の中で、視線というより意識で現状を確認するように見回す。

 刺された後から視界が消えてよくわからないが、おそらくこういうことだろう。先ず、あの黒帽子黒外套の子供に頼まれて自分の胸元に張り付いていた精霊が剣を受け止め、ほぼ同時に地下に潜んでいた仲間を呼び自分を隠すように包み込んでくれたのだ。カニの爪の形をとったのは、包み込んだ自分を堅い殻で守り相手に攻撃出来る力強い存在としてイメージし易かったかららしい。内心では兵士達を倒してしまうのではと心配していたのだが、どうやら無関係な兵士達へは攻撃の意思はないようだ。それなら、力の限りお手伝いしたい。

”””おおおおおっ、それっ”””

 クマの知恵を振り絞った助言に、一本のカニの爪と腕を形成してみせていた地霊玉の群体が、何千と同時に反響したように一斉に歓喜を上げる。

「なんだコイツ、いま鳴いたかっ!」

「変に可愛い唸り声してんじゃねぇこの化け物っ」

 兵士達の顔に戸惑いが浮かぶが、次の瞬間、兵士達が口元を引き締め武器を持ち直す。

 カニの爪の姿が、変わったのだ。

 腕の関節は二つから五つに増え、しかも爪の部分は十本に裂けたかのように分かれるとそれぞれが先程までのような爪を持ち、またるで独立して鞭のようにしなっている。遠目に見れば節のあるイソギンチャク、違えば沢山の首を持つ出来損ないの竜のオモチャ、と言った感じだが、のし掛かられるように近くで見上げる分には十分な迫力だ。

 だが、兵士は一人として見た目に飲まれる者は居ない。元々変型すると予想はついていた。それどころかカニの爪はオタオタと兵士が少ない方へ逃げるように右往左往移動するだけで、バランスを取るように風を扇ぎ振り回される爪は兵士の頭をかすめこそしても全く届かない。勢い込んで囲んで攻撃したものの、少し気抜けしかけていた兵士達にとっては、相手がやっとその気になってくれたようでむしろ歓迎の様相さえある。

 ズムッ……コセコセコセ………………

 その兵士達の居並ぶ隙間に、十本に分かれたとはいえそれでも馬より大きなカニの爪が差し込まれ、ギクシャクと動く。

 どうやら数千もの個体の集まりで作られただけに、元となるイメージのない姿は地霊玉同士の間でも伝達がうまく行かず、きちんとした形を保ったままでは思うように動けないらしい。

「うわ、なんだ」

「キメぇ」

 兵士達が、あまりにも無様な動きにこちらの平衡感覚がおかしくなったような戸惑いを向けながら、そのカニの爪に自分から体当たりするように斬りつける。

 落ち着いてよくよく見れば、人間を押し倒さずに逃げる隙間を作ろうとしているだけと分かるのだろうが、戦意を持って見る者には動きの鈍い甲殻類が苦し紛れにヘタな攻撃をしているようにしか見えない。

 駆けつけた兵士の数は既に200人を越え、五重に囲み、カニの爪の移動に合わせては入れ替わるよう攻撃を繰り返し、ただ化け物の意を通させまいと興奮するように反射的に行動し、カニの爪から逃れてはむしろカニの爪が押し開き進もうとする方向へ兵の厚みを増やす。

「イケる、イケるっ。苦しんでるぜ」

「殻に傷もできないが、中にダメージ通ってるぽいぞ」

「メイスやハンマーだ。打撃で衝撃を通せ。手の空いてるヤツは持ってこい」

「五番隊、十番隊、術使えるヤツが居るだろ。撃ちまくってハサミを潰しちまえ」

”ぅぇ……、どいてくれない……”

”なんか前より人間が凶暴になったよ……”

”どうしてぇー、どいてー……”

”もう地中に潜ろうよ……”

”だめー、くまが潜れない”

”息と体が潰れちゃう”

”お願い絶対守る”

「くま~……」

 ゴンガンボンゴンガンボンゴンガンボン……

 外殻から伝わる振動が一層激しくなり、魔術と分かる爆発音が切れ間無く重なり、地霊玉の悲鳴がより悲しくなり、助言が逆効果だと気付いたクマが項垂れる。

 しかも、現れ出た地中に潜ろうとしないと思えば、それもクマのせいだったらしい。

「ぼくを外に出して欲しいくま。ちゃんと話せば通じるくま。人間は……」

”さっき刺して来たよ”

”また刺されるよ”

”アイツの魔臭のする二人きっと近くにいる”

”隠れてる”

”見付けたら潰す”

”斬っちゃう”

”出たら、また刺される”

”アイツ嫌、よくない、キモイ”

”次ぎ、守れるかわからない”

 地霊玉達がからそれぞれ一斉に喚くように声が変える。

 クマはいらない追い打ちを自分から浴びた気分になりながら、地霊玉に包まれ倒れられず、ただ心の中で何度も泣き崩れた。



 砦の南門前広場に走り付いたマジュスと帽子のつばの上に座るミアシャムが、建物の影から覗き込みつつ首を傾げる。

「なんなのあれ……」

 クマを包み込んだ地霊玉を化け物と勘違いして──ある意味樹海の化け物としては正しく、兵士達が襲いかかっているようなのだが……。

「先程はカニの爪ではなくヤドカリの爪なのに、どうして樹海の化け物と思ったのでしょう?」

「どう………………」

 どうしてそんな間違えられるような姿にと言いかけていたミアシャムが絶句し、マジュスはその反応を気にすることなくチラリチラリと見回し、もう一度首を傾げ直す。

「ここにも居ないみたいですね」

 珍しく建物の影から出て直接尋ねに行かないのは、どうやら東の塔の相手を気にしてらしい。

「南門の扉は……」

 地霊玉のカニ爪が邪魔で見えずらいが、どう見ても開いている様子ではない。

 扉の開くための滑車のレバーを探すように動いた丸い瞳が、兵士に斬りつけられ続けるカニ爪へと顔ごと戻る。

「あの方達の誤解を解くほうが先かな……」

「そぉーね、さっきのヤドカリの爪呼べば?」

 ミアシャムがカニの爪とヤドカリの爪の違いを今更考えつつ、気の抜けた声で助言する。

 今のところただブン回すだけの剣や、景気付けにもならないような火花同然の魔術ばかりで、一時間は放置しても大丈夫そうだ。しかし、ここは軍事用の砦にして、壁は元は魔物用の防壁。もし対魔物用に魔術強化された武器が備えられ、それを持ち出されたらいきなり様子が変わりかねない。

 だが、目の前の存在以上のソックリさん(本物)が現れればそちらへ攻撃は移るだろうし、さきほどの破壊力なら防御用の壁は無理でも、鍵の外れた扉程度なら、開閉用の滑車レバーを探す間もなく開くだろう。

「なるほど。でも、どうやって呼ぶんですか。さっきは勝手に出てきてくれましたけど」

「名前呼んだでしょ。簡単なお願いなら説明しなくても、同時に念じれば大体適当大ざっぱに伝わるから。扉を狙うように念じて。外れてもどさくさで門を開けて砦から出られ……ぁ」

「それだけでいいんですか、お手数掛けます。えっと……、オーバーサンさん。オーバーサンさん。オーバーサンさん」

 今度こそ自分が力を使って、と今になって思いついたミアシャムが何か釈然としない表情で空へ視線を逃し、マジュスが先程の怪魔の名前を念のため三度呼ぶ。

「………………」

「………………」

 が、しばし待てど何の反応もない。

「名前、違いましたっけ」

「確かそういう名前だったけど……。おかしいな、ちょっとあのオバサンに話しかけてみて」

「話しかける?」

「名前と姿をイメージして話しかければ……界路は常時開放型っぽかったし、何か反応があるはず。それでダメなら……」

「オーバーサンさんっ、いらっしゃいますかっ?」

「声、大きさ関係ないから」

 マジュスが遠くに呼びかけるよう大きめの声を響かせ、ミアシャムが片目を渋く瞑るように注意する。マジュスは今度は小さくと言うより、口の中でモゴモゴと言葉を続ける。

「………………。………………。………………。」

 反応があったのか、マジュスの表情が少し変わり、左手で何かをつかみ、右手で何かを開く動作をすると、そのまましばらく会話するような口元と頬が動きが続ける。

「あ、はい、わかりました。では、次の機会にご縁があればよろしくお願いします」

 最後はうっかり口に出して会話を終え、無意識に閉じていた瞳を開く。

「どうしたって?」

「姪の子守を頼まれ旅行中で、しばらくこっちへ来れないそうです」

「ありゃ~、そりゃ一週間は来れないわね」

 術者の立場が上の使役契約なら問答無用で呼び出せたのだろうが、祈願契約は呼び出される側の立場が術者より上。精霊や怪魔の方が契約主と言ってよく、祈り願って来てもらうような相手だ。向こうの都合、それどころか気分次第でどうお願いしても来てくれないことも珍しくない。それにそもそも、直接ではなく黒外套を媒介にして契約していた様子を見ると、正式にマジュスと契約しているかも怪しい。もっとも、自分も地霊玉達も媒体者の負担を減らす為に似たようなことをしているのだが。

 ミアシャムが何かセーフセーフと自分の胸に手を当てると、仕切り直すようにニヤリと笑う。

「それじゃ、こんどこそあたしがっ……」

 と気勢を上げるミアシャムを余所に、マジュスは何かを見付けたのか帽子のつばをクルリと回転させるように少し後ろに顔を向けた。


「砦の外に出ましょう」

 カニの爪に群がり攻撃をする兵士達といつ肩がブツかって飛ばされてもおかしくないような中にありながら、どこかポツンと取り残されたように立つディアナがハッキリと言い切る。

 視線や表情を見れば他に気に掛かることも言いたいこともありそうだが、結局の所、それが一番気に掛かるらしい。

 ただ、言われたジレルは全く反応がない。ディアナの意見に反対というわけではなく、先程から鞘に野太刀を仕舞うのも忘れたように急に動きを止め、カニの爪を見つめているのだ。

 ディアナはちょっと考えるようにジレルの表情を覗くが、それならと広場を改めて見回す。

「あれが扉を開けるレバーでしょうか?」

 砦に居る全員が集まってきたかと思うほどの兵士が駆けずり回り視界は悪いが、南扉の右手前に滑車型のレバーが見える。そこへとことこと歩き出し、ふと、門の上部に続く極太の鎖の反対側に、別の鎖が伸びていることに気付く。

 視線を上げると南扉から広場端へ伸びる鎖は二本。

 左にも同じ滑車型のレバーがあるようだ。

 巻き上げではなく、扉を下ろすのであれば自分一人でも動かせそうではあるが……。

 これは一方ずつ動かしてもちゃんと稼働するのだろうか?

「マジュスちゃんは……」

 口にした名前を探すことなく、ディアナまるでその名前の人物がその先で既に用意を調えてくれていると確信したような顔になると、先ずは右側の滑車へと足を進めた。


”どうしよっかー”

”どうしよ~”

 毛玉のような外殻を変化させてカニの爪型にくっつきあった地霊玉達が、兵士達の攻撃の中を、姿勢のいい酔っぱらいの様に地面に足もなく滑るようにのらりくらりと彷徨う。

 十数本に枝分かれしたカニの爪が空を裂くようにしなり、放たれた魔力弾を片っ端から打ち落とすと、周囲が赤い霧のような火花に包まれる。

”こそばゆいけどしばらくここで待つ~?”

”こそばゆくない。かゆい”

”この鉄の音ヒドイ”

”この人間達の魔力肌触りワルイ”

”これなるべく離れた所で打ち落とす”

 地霊玉達が、のんびりと雑談するような調子で言う。

 兵士達に囲まれ無数の斬りつけられ、魔術による攻撃までされて慌てたものの、これくらいなら自分でも不思議なほど平気なことに気付き、不意に落ち着きを取り戻したようだ。

 …………、ドンッ!

 一瞬攻撃の音が止み、魔術を使える兵士全員が一点集中同時攻撃をしたような大音が響くが、それすらも気にならない。

”ここの匂い酷いよね~”

”これ壁や門の強化に使った魔力が酷いんだよぉ”

”ここで何か他にすることあるんじゃなかったっけ……”

 耳にしたクマが、クマ型の容器に押し込まれ身動きできぬまま立ちくらみを起こしたように不自然に目と脳を回すと、死体が目覚めでもしたようにハッと上擦った叫びを上げる。

「それくまっ! ぼく南門を開けるように頼まれたくま。それを手伝って欲しいくま」

 言った後、クマが愕然と自ら固まる。

 先程は余計なことを言って失敗してしまった。今回も言わなければ良いことを言ったのでは。

 その恐怖じみた閃きと共にクマの体が少しずつ後悔に震えはじめる。

”えっら~い”

”それそれ”

”よく思い出した”

”姫な女の人と怖い女の人間と合流して開けって”

”手伝うようお願いされてた”

”姫な人どこ、怖い人間っていっぱい居る”

 だが、そんな思いはどこへやら、そもそもクマの失言など無いとばかりに、無数の鈴が鳴り響いたような歓声が上がる。

”門どうやって開ける”

”知らない”

”聞いてない”

「たしか開くためのレバーがあるくま」

 クマが夢か現か訝るような顔になりながら、テンション高く応える。

”そうでしたー”

”鎖の先のぐるぐる丸いのレバー?”

”あれ姫な人?”

”鎖を巻いたぐるぐるもう一つあのますよ”

”じゃぁ、あっちへゴーゴーゴー”

””あっちわかんないけどゴーゴーゴー””

 ゴゾゾゾ……ゴギン

 と、右と左のレバーのどちらへか分からないがとにかく急ぎ移動しようとしたカニの爪姿の地霊玉達が、不可解な衝撃を感じる。

 全員が開閉レバーかディアナのどちらかに気を取られ、進行方向にあった何かにブツかってしまったようだ。

”どうしよう……”

”人間、潰しちゃった?”

”移動は誰、ちゃんと前前前見てよ”

「お前らなかなか頑丈だな」

 進行方向から見て後ろ側の地霊玉が言うが、何かがおかしく、同時に、感心より冷やかしを含んだ笑みが見えるような声音が、変にハッキリと響く。

 外面的にはカニの殻そのままに全く動かず、形成する地霊玉達が中で位置だけ入れ替わり、それでも見えぬ者へと伝達が届き、全員が悲鳴じみた戸惑いをもらす。

”ぇぇ~っ”

”どういうことなの”

”ビクともしない”

”地面が異常、うそっ”

 千の倍を超える目で見れば、他の兵士達のような兵服も纏わず、他のどの兵士達よりも長い片刃の武器を構えた女性が、片手で自分達の進もうとする動きを止めている。

「色々終わっちまったみたいなんでな。さっきのヤツに比べると物足りないが、目立たれ損も悔しいし、閉幕前にちょっと戦ってもらおうか」

”戦わないです”

”逃げてます”

”樹海の化け物と呼ばれたけど違います”

”馬車壊してないです”

”壁壊してないです”

「知ってるから気にするな」

”…………………………………………………………………………………………………………”

 これまでの兵士達のように会話として成立しないと分かって叫んだ言葉に、ジレルの口元が微妙に上がり、それが見えていなかった地霊玉達にまで同時に理解と悪寒が走る。

”聞っ、聞こえてます。のにっ”

”分かって言ってますこの人間?”

「当然だ」

”いや……”

”怖い女の人間怖いっ”

”聞こえてない人間より変っ”

”ど、ど、ど、ど、どうしよ嫌です。プリーズ”

 常人では聞き取れない悲鳴が重なり、これまでは人の居る高さまで降りても決して人間には触れないように動かされていた十本のカニの爪が、ただ感情のままに押し除けようとジレルに向かって大風を伴い振り子のように叩き付けられる。

「うわっ」

「どひぃぃ」

「ぎゃうぉぉぉっ」

 ゴブッ……ドゴッ……ゴボフッ

 周りには当たらない角度だったはずだが、枝分かれしても人よりはるかに大きいカニの爪に迫られ、兵士達が怒声を上げて倒れ込むように避ける。ほぼ同時に、もし倒れ込んでいなければ当たっていたであろう場所を通って三つのカニの爪が腕を伸ばしきるように跳ね返される。

 信じられないことに、ジレルは一瞬だけカニの爪の根本から離して振った左手の一本だけでそれを行ったようだ。

「お前ら、勝負に手加減は失礼じゃないのか。まだ余力あるだろ」

 再び押し止めるようにカニ爪の腕の根本に左手を添え直したジレルの瞳に、ヨダレが似合いそうな笑みが輝く。

”いゃぁぁぁ~”

”怖い”

”嫌、嫌、嫌っ”

”なんで”

”ちょっちょっあっちけっ”

 ゴギン、ゴゴ、ゴギッ、ボフッ、ドゴッ……

 あまりの予想外にパニックになった地霊玉が、押しのけるではなく、殴り飛ばすようにカニ爪を振るう。が、どれもこれもジレルは視線一つ向けることなく左手でカニ爪を弾き飛ばす。

”嘘っ”

”全力でやっちゃって”

”やっちゃっていいのっ”

”力使いきったら目的が果たせなくなるっ”

「ここで全力出さないと目的もなにもないぞ」

”それダメ、絶対ダメっ”

「よし全力でやってしまえ」

”違うっ。それダメ、絶対ダメっ”

「いやいやそこは全力だろ」

”前に前進、全力前進、みんながんばる押しきって進む”

”地面がっ、飲まれてるっ!”

 突如再び的な悲鳴が弾け、地霊玉全員が理解する。

 いくら化け物じみた力の持ち主だったとしても、体の重さも、足の接地面における摩擦力も全然違う。それで進めないのはおかしいと思えば、ジレルが放つ魔闘気の影響で、その足元の地面の土が別物のように変質してしまっている。

 要は別に片手で止められていたわけでもなく、地につながる精霊であるがために却って地にそっての移動が出来ていない。

 浮遊しようともするが、地の精霊の浮遊力は地面が近くてこその力。単体で浮遊可能な高さを越える部分のカニ爪を構成する地霊玉が重石になって、全くと言っていいほど浮かべない。

「いけいけ、いいぞねーちゃん」

「やったれぇぇー」

「ばーか、お前らも行くぞ、このまま固めてブツ殺せぇぇぇ!」

 考え無しの攻撃を繰り返してばかりで流石に疲れが出ていた兵士達が、一方的に押さえ込み攻撃を弾き続けるジレルに、どこの何者と気にすることもなく覇気を取り戻し、剣撃と魔弾にここぞとばかりに全力を込めトドメを刺すかのように盛大な攻勢をかける。

”痛いっ、痛いっ、痛いっ”

 カニの爪の中で地霊玉達の混乱が混乱を呼び、何か衝撃がある度に悲鳴がこだまする。

”違う違う、違う、待つ、全然痛くない。これも痛くない”

 だが、そこまで混乱していなかった地霊玉の一人が慌てるように訂正する。

”あ、ホント。痛いけど、これ攻撃じゃない。怖い女の魔闘気が肌に痛い”

”この人間の攻撃も大したことない”

”違う違う、それも違う”

 気の抜けた言葉が続いた後、ハッと全員がこれだけ攻撃を受けても平気だった理由に気付く。

”うわ、どうしょう”

”すごくごめんなさいっ”

”不味いですわ”

”パワーすごいけど”

”だからダメっなのっ”

”逃げなきゃ”

”くまさんっ……”

「ごめんくまっ。ぼくが門を開けようと言ったのが悪かったくま。もう自分で走って逃げるから外に放り出して欲しいくまっ」

 クマが地霊玉に包まれ外が見えないまま、今までの恐怖とは違う焦りと悲壮感が溢れる声に、相手が何か言いきる前に反射的に謝る。

”それ”

”それ”

”それ”

”名案”

”くま、走る、門開ける、外出る”

”砦の外~逃げる~”

”レバーもういい、体当たりっ”

”くま力貸して”

「がんばるくまっ、全力くまっ」

 地霊玉達が何を言っているか全くわからないが、予想以上にあっさり放り出すことに同意されたとちょっぴり哀しくなった瞬間、それとは全く違うことを再び賞賛されることに気づき、クマがどうすればいいか分からないまま全身全霊でガンバルというポーズをとる。

 途端、カニの爪の姿が崩れ、黒くもこもこ蠢く塊に戻ったかと思うと、そのまま魔門の壁の天辺にも届きそうな巨大なクマの姿になり、中身のくまそのもののポーズを取る。

 どうやら、手本が自分達の中にあり、しかもカニの爪に比べればずっと自由に動けるクマの姿に変型することを思いついたらしい。

「人型じゃダメだったくまか?」

”ダメなの”

”うけ悪い……”

”……そうなんです”

”可愛くないって……”

”もふもふもふもふもふも……”

 地霊玉それぞれの小さな囁きから自分の姿に変型したらしいこと気付いたクマが、目の前にいくらでも手本のある人間の姿になるのが早かったのではと呆けると、地霊玉達が何か悲しい過去でもあったような溜息をもらす。

「げっ、な、何っ、クマ? コイツ喰った相手の姿になれるのかっ」

「姉ちゃん、もう一押しだガンバレ」

「くそっ、どこでカニ喰った。俺も喰いたいっ」

「誰だ、カニカニうるせぇ。喰うより斬れ」

「形が変わっただけだ惑わされるな、全員もう一押し、ブツたぎれぇぇーっ!」

 兵士達がテンション上がりまくりな叫びを上げ、ジレルに声援を送り、攻撃命令を連呼し、好き勝手叫び、残った力を振り絞って攻撃を続ける。

”とにかくっ、これなら行けますっ”

”地面からジャンプ”

”くまさん二本足ありがとうっ”

 飛び跳ね駆けることの出来る姿を手にした地霊玉は、一度体を曲げて伸ばすと、その反動で周りの様子などお構いなしにジレルとその足元の異質化した地面を飛び越え走り出す。

 本来クマが走る時は四本足だとかは気にすることもなく、地面が風と同化したように後ろへ流れ、魔門の砦の南扉が迫り、更に加速させ顔面と腹から張り付くようにブツかる。

 ドコン……

 そのままピタリ、動かなくなる。

”………………”

”………………”

”………………”

「くま?」

 どうやらこのサイズと勢いでも、鍵が外れてすら扉につながる鎖と滑車を動かさず、二重になっている扉を開けるには力不足だったようだ。

「自分からその位置へ行ってくれるとは」

 兵士達がなんとなく目を丸くして見つめる中、ジレルはそれだけ言うと、カニの爪の移動を止めた後も、複数に分かれたカニの爪の攻撃を弾く間も、右手に握った野太刀の刃が光り輝くほど溜めていた魔闘気を乗せ、巨大クマが張り付く南扉へ向けて剣閃を撃ち放った。


 目も眩む程の八つの光の溢れるように伸び、重い砦の扉を穴ぼこにしてへし曲げ吹き飛ばす。その中心にいた巨大クマを形作る三千体ほどの地霊玉を、輝きの中へ消し去る。

 威力はそれだけでは納まらなかったのか、門のはるか遠くでも破壊の輝きを散らす。

「おやぁ~……」

 身を固くしていた兵士達が納まり行く輝きに目を徐々に開く中、ジレルが少し不可解そうに呆ける。

 いくら混乱しているとはいえのんびり滑車を回して外門を下ろし、更には両開きの内門扉と開く時間はなく、かと言って一応レウパ王国の姫の護衛としては、理由もなく南門を破壊するのも流石に不味い。

 そこで、化け物と力比べついでに、一緒に門までブチ壊そうとしたのは予定通りなのだが、ちょっとおかしい。

 ジレルが目を細めるように見、理由に気付く。

 北門を通った時に、門には五本程の太い柱のような金属棒が鍵として通されるようになっていたことを確認していた。それごと壊すとなれば、全力の連撃を放っても一息で足りるか少し危うかったが、鍵であり支柱でもある金属棒はどういうわけかハズされていたらしい。

 誰か何かしたのだろうか。

 門の辺りでは、オーバーサンの爪の大きさに少しでも近づけようと、一人一人が一抱え程もある毛玉へ巨大化していた地霊玉達が、元の拳程の大きさに縮んでは力尽きたように地中へ沈み消えていく。

 ジレルが事情を話すか、クマか地霊玉が話しかけていれば互いに協力し、本当にブッ飛ばさなくてもそれっぽい演技で何とかなったかもしれないが、今となっては今更である。

 扉があった場所の中央にドンと置かれたように取り残されたクマが、丸く寝そべったたままただ深く息を吐き、ただ息を吸い、意識無く体を揺らす。

「うっしゃ、化け物はバラバラに消し飛んだぜ」

「倒したのか。倒したかっ。逃げられただけじゃないんだな、誰か分かるヤツ確認」

「見ろよ、くま。呼吸してるっ。生きてるんじゃないか」

「おおおおおっ、よかった」

「喰われたヤツは誰も居ないな。兵士も全員無事だな」

 兵士達が、勝利を祝うように明るい声をそれぞれ張り上げ、何人かが倒れたままのクマへと走り出す。

 だが、門を囲むように立つ兵士達の後方、砦の奥側から戸惑いうザワメキが響き、何事かとかと兵士達が訝るように後ろから順々に、ほぼ全員が振り返る。

 その視線の先は二つ。

 一つの先には、コルジュ大隊長を背に、クランド第十四番小隊隊長に剣先をノドに突きつけられ、剣を捨て膝立ちになっているカージス。

 もう一つの視線の先には、十数名が並ぶ第八番小隊を背に、傭兵のような身なりの若い男とアフリクドの魔従士のはずであるサミヤに剣を向けられ、カージスと同じく剣を捨てて膝立ちになっているドルグ。

 少し離れた斜め後ろには、第三食堂で昼食を作ってくれていた少女の姿もある。

「なんなんだ……」

「おっ、クランド部隊長生きてる」

 妙な緊迫した空気のなか、誰か状況がわかるヤツが答えてくれないかと探るように兵士達が適当に声を広げる。

 ジレルが、残念そうな苦笑いで野太刀を鞘に仕舞う。

 混乱の中、カージスとドルグの位置を最初は見付けられなかったが、獲物に迫るコルジュとクランド、それにベイルとサミヤの動きには気付いていた。自分が派手に動けば、こちらを注意した二人に近づき剣をノドに突きつけるなど造作もなかっただろう。

 カージスが首を捻るように見上げて、クランドを睨む。

「お前、何をしているのは解っているのか?」

「砦に侵入し、兵服を盗んだ泥棒を捕らえただけだ。他にも罪状があるのか?」

「ふざけるな……。あの水撃で平気なことといい、まさか最初から気付いていたのか?」

 憎々しげな言葉に、クランドはのほほんと笑い返しつつも、剣を持つのとは逆の手で自分の体を触る。確かにあの攻撃で、服がびしょ濡れになっただけで傷一つないのは、どういうことだろう。

「状況が理解できたのはカージス殿、そしてドルグ殿の声のお陰だ」

 コルジュ大隊長が、いつになくどっしりと落ち着いた顔で言う。

「まぁ、その前があってだがな。オリシス殿とはあまり話したことなかったが、無駄な争いは好まぬ思慮深いお方だった。それが、突然この砦に現れてレウパに向かい夜には戻り、その後の報では丁度王都に居られぬ頃に自分が仕える第一王子を殺したという。これは、何かの思惑が動いている。もしかすると我が国の為であるかもしれない。だが、おそらくは邪心を抱く者。ありえないとは思うが、邪心を抱く手の者が砦にも紛れているかも知れない。そう誰にも話せずに居たが、カージス殿とドルグ殿が私に気付かれぬように侵入していると分かった時点で、正義の場所はわかった。いざという用心に配置させた、一番隊と七番隊かあっさり騙されてしまったのは予想外だったが、オリシス殿が王都へ戻る際に賞賛されていたマジュス殿と剣術士殿なら大丈夫だろうと、レウパの使者には囮になってもらい、後はお前達の手の者が他に砦に居ないと確認して捕らえたということだ」

 クランドが、カージスを見据えたまま少し感心した声をもらす。

「あんまり言うことも行動も変なんで、迂闊に言葉にして聞かれちゃ困る敵に侵入されているとは予想できてましたが、あの声だけで、よくこの二人だと分かりましたね」

「みんな私と顔を合わせてくれないからな、声で相手を特定するのは得意になってるんだ」

 酷く不満げな声に、クランドが苦笑う。

「クランド隊長がそばに居なかったにしても、それで変に叫ぶだけだったんですか」

「捕らえろ、侵入者だ、と喚くクセ、目の前を何度走っても他のこと言わないから何かあるんだーろーなー。と思ってましたけど、そういうことでしたか」

「お前、それ言ったの俺、お前は今日はいつも以上におかしいなーって」

「ぅおぇ、いや、いいだろそんなことっ……」

 近くでその会話が聞こえた兵士達が、笑い合うように軽口を叩く。

 ミアシャムから見ると兵士達の行動は不自然だったが、兵士達から見れば守備大隊長の行動こそ不自然。何者かの声でレウパの工作員だのクマの化け物だのと聞いた者も居るようだが、この砦を指揮するコルジュが、兵士が前を通ろうがその兵士達とマジュスやクマが仲良く走ろうが、これと言ってハッキリした命令を一切出そうとしない。要するにここは迂闊に動くべきでないと判断し、各自それに備えていたようだ。

 ただ、コルジュ当人としては確かに侵入者の攪乱に引っかかった振りをして騒ぎ、敵の目を引きつつ幸いにも無事だったクランドに裏で動いてもらい、マジュスにも事態収拾まで逃げて時間を稼いでもらいたい……と、全て思った通りに事が進んだのだが。あの無視されっぷりは流石に思い出すと結構悲しい。カージスに隙を見せないためにジッと睨んだその瞳には、ほんの少しだけ涙が滲んでいた。


 コルジュ達から距離が離れているせいで、こちら側では唯一その会話を聞き取れたサミヤが、困惑したように後ろに控える第八番小隊に笑いかける。

「そういうことだったの……。だったら、そう言ってくれればよかったのに」

 何人かがどういう意味だろうと顔を見合わせ合い、何となく察した隊長が口を開く。

「我らが受けた命令は、牢に避難させたサミヤ様をお守りしろというだけで……」

「監視にしては何か雰囲気がおかしいとは思ったけどね……、あたしの方だったのかぁ」

 サミヤが照れるように苦笑いしてから、ひょいと視線を後ろに立つ小さな姿へ向ける。

「お嬢ちゃん、報せてくれてありがとうね」

 突然現れたフィラが立ち塞がる警備の兵士をなにげに挨拶しながらすり抜け、迷いなく牢の扉を開けるのが少し遅ければ、おそらく騒ぎのうちにここに駆けつけ、ドルグを戦わずにして捕らえるなど不可能だっただろう。

 ドルグはその会話を聞き、何度も何度も奥歯と唇を噛みしめ、悔しげに声を絞り出す。

「俺の部下達はどうなった」

「東の見張り塔にいます。傷の方は、何日か治療すれば全員回復すると思います」

「全て終わったということか」

 もう一人外に残っているはずだが、ドルグとしては今更頼る気など毛頭ない。しばらく目をキツク閉じるが、どことなくせいせいしたように一つ息を吐く。

 それに、南西の国境でコルジュの為に口利きをしたとかいう宮廷魔術士。自分と関わり無い相手にそんなことをする物好きなど、考えてみればオリシスくらいしか居ない。その恩義からか、最初からこの件について何かの罠と疑い動いていたのだろう。

 だが、フィラはそんな周りの様子とは裏腹に、少し戸惑ったような表情になる。

「いえ、これからが大変なんじゃないかと……」

 不可解そうに顔を向けるサミヤを余所に、西塔から降りた見張りがやっとコルジュ大隊長を見付けると、慌てた顔で駆けつけ自分が見た南の地平への光景を報告しはじめた。



 南門広場を見渡せる建物の陰の一つ。

「どうしたんだい、この子?」

「倒れて動かないけど、いいの?」

「いいの、いいの、寝てるだけ」

 困惑したように言うヘンルータとアネットに、これまでも何度かあったように倒れて動かなくなったマジュスの帽子の上に立つミアシャムが、面倒そうに手をひらひらさせる。

 ヘンルータとアネットは意気込み現場に駆けつけたものの、巨大な化け物や数多い兵士達の争乱振りに戸惑いそこから足を踏み出せずに居た。

 そこへ先ほど身代わりに置いていったはずの黒帽子黒外套の術士が現れ、こちらが何か言う前に気づき振り返ると、突然固まった様に動かなくなり、しかもそのまま倒れてしまったのだ。

 ヘンルータとアネットが、南門の騒ぎは静まったと感じつつ、マジュスの様子が気になってまだ進めないとばかりに顔を見合わせ合う。

 ミアシャムが、大丈夫だからと説明しようか迷うように二人の顔を見上げる。

 マジュスが倒れたのは、これまでと同じ大魔力放出による急激な体力の消耗。

 数は多いとはいえ個々の力はそれほどでもない地霊玉達が、あれだけの攻撃を受けても平気だったのは、取り憑き媒体であるマジュスが積極的に魔力を供給していたおかげだ。

 おそらく、突然動かなくなったのはジレルの参戦で必要供給量が跳ね上がったせい。

 そして倒れたのは、ジレルのあの攻撃で限界を超えたせいだろう。

「魔力……というり、体力を使い切ったのかねぇ」

「溜め込んだ魔積量が多くても、その基本的な魔力使用には体力も居るからねぇ」

「……?」

 術士が、その体の大きさに見合わない爆発的エネルギーを使えるのは、己の内やその回り、または別の空間に普段から自分の身から発する魔力を徐々に溜め込んでいるお陰だ。そして、術を使う時は蓄えられた魔力を使うため魔積量が少ない者や無駄に術を使う者などは、体力は有り余っているのに術が使えないという事態に陥る場合が稀にある。そして、それとは逆に、元は蓄えられた魔力を使うといっても行使に全く体力を使わないわけではないため、稀の中の稀として、魔力に余裕があっても先に体力が尽きてしまう場合がある。

 どうやら魔力の影響を受けているはずの契約精霊が平気でいることから察したのだろうが、術士には言うまでもない基礎的な知識でも、そうでない者は意外なほど知られていない知識だ。何に魔力を使っていたかまでは分かっていないようだが、ミアシャムが説明の必要が無かったことに訝る先で、ヘンルータとアネットは互いの顔を不意に怪しむように見つめる。

 その下で、マジュスは目を覚まして上半身を起こすと、いつも通りマントの内からワインを出しては不思議そうに見つめ、不意に瞳をキラキラと光らせるように南へと向けた。



 化け物の消滅を確かめ、クマを助け起こそうと、開け離れた状態になった南門へ駆け寄った兵士達が、門からうねり地平へ広がるケルベナ領を見回し、半端呆然と空笑うように言う。

「討伐隊が今日来るなんて連絡あったっけ」

「まーたイフトスの野郎デカ鉄ゴーレム持ち出して……、ありゃ、壊れてないか」

「この数どこまで続いてるんだ。それに化け物は今俺達が倒しちまったぜ」

 その門が白くしか見えない広場の後方、西の塔の見張りから連絡を受けたコルジュ大隊長が驚きに問い返し、クランドが呆けたように言葉を発する。

「リィンハルト様の御旗の軍だと?」

「第二王子様が何しに?」

 見張りの兵は応えずただ困った顔になる。呼び寄せた兵士がカージスを縛り上げ、魔封呪の印を施した猿ぐつわを噛ませるのを確認するのももどかしく、コルジュとクランドが自身の目で確かめようと南門へと走り出す。

 見張りの兵の言葉が正しければ、その行軍は騎士兵士運搬兵合わせて軽く一万。

 近々樹海の化け物討伐の為に、精鋭部隊を派遣するとは聞いていたが、予定では三千。

 それでも大がかりな討伐になると思っていたのに、その三倍。

 レウパ王国の姫との婚約前の景気づけだとしても、第二王子までもが現れるとは……。

「自らの手で憂いを討伐し婚約に華を添えたいとしても、国境でそんな規模で兵を動かせばいらぬ誤解を生みますぞ」

「誤解じゃなくて、そのまま何じゃ」

 南門を抜け、遠く緩やかにうねる地平まで続く軍の行進を目に呆然と言うコルジュに、横からクランドがちょっと硬い声でいう。

「済みません。砦と樹海の方ばかり気にして……。そうでなければ、後一時間早く報告出来たはずなのですが……」

 二人に追いついた先程の見張り兵が、顔を伏せるように謝罪する。

 門からうねり地平へ続く土の色が違うだけの道には、その色が確認できないほどビッシリと兵馬が居並び、戦闘用に飼い慣らされた獣魔、大型兵器、戦闘や野営に必要な補給物資を山と乗せた荷車などの姿が幾つも見て取れる。

 先頭は先程のジレルの剣閃の余波で少し乱れ行進が鈍りかけていたが、速度だけは持ち直し、叫べば声が届くのではと思う程までに近づいている。

「お前の落ち度ではない」

 唾を飲み、語気強く言う。

 落ち度といえば落ち度かも知れないが、そういう問題ではない。これだけの数の軍の到達、それも王族が加わるともなれば前日の内に連絡が届いていない方がおかしい。

 もしも、秘密裏に行動するためにあえて連絡をしなかったのであれば、クランドの言葉通り。誤解ではなく、完全に戦時行動ということだ。

 向かう先は、この砦を抜けた先の樹海ではなく、更にその先──レウパの王都か?

 コルジュが困惑に、パンと自分の顔を打ち、いつものクマドリ風と違い、手の平の形に顔が赤くなる。

「まさか、カージス殿とドルグ殿の方が正義だったかっ」

 その横を、こちらへ向かってくる軍の行進など気にした風もなく、それでいて明らかに軍の行進の先頭を目指して、光沢のある厚手の衣服に身を包んだ一人の少女が通り過ぎた。



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