三つ目の角 とりつきもの
済みません。
三つ目の角 とりつきもの
樹海の隙間から斜めに射す光に眩しそうに目を落とし、歩き続けで息が切れたヘンルータとアネットが、少し開けた場所に出るとガクと倒れそうな姿勢で立ち止まる。
「ふぅ……、はぁ……。一っ……休みしようか……」
「はぁ……、ふぅ……。あ……ぁぁぁぅぁ、なんてこと、食料持ってきてないよ」
「お弁当とお茶でよければここに」
フィラが背負い袋から取り出しシートを引くと、二人が軽くお礼を言って崩れるように座り込み、かなり遅い昼食を口へ運ぶ。
「やっぱフィラさんの料理は確かだねぇ。それにしても、随分葉が落ちてないかい」
「食料忘れて正解だったわ。はぐはぐ……ごくっ、ここだけ地震でもあったかな」
お腹に入ったエネルギーが四肢の隅々まで届く時間を待つように二人が見回す。葉が落ち、少し明るい東側の木々の連なりを見て首を傾げる。
地震というより、まるで派手な立ち回りがあったうえ、何かとんでもない術技による衝撃が吹き荒れたかのようだ。
事実、その方向にだけまだ緑の葉が大量に落ちているだけでなく、人の手が届かない高さの木の枝も幾つか不可解な折れ方をしている。
お茶を飲み干して椀を置いたヘンルータがどっこいしょと立ち上がり、葉が落ち枝が折れた巨木の一つに近寄ると、しげしげと地面に目を向ける。
「ほら、ここを掘ったみたいに地面がひび割れてる」
「掘ったというより、一度大木を丸ごと引っこ抜いて、また埋め直したみたいな……」
遅れて立ち上がったアネットが、半端に休んで却って重くなった足でヨッタヨッタと歩き、大木を囲むような丸い地面の隙間を覗く。根が割れ目の隙間を縫い止めるように繋がっているのを見ると、自分の言葉にガッカリするようにしゃがみむ。
「葉が大量に落ちたり枝が折れてる木の周りは全部割れ目が出来てるねぇ」
今度は幾つか先の木の様子を見に行ったヘンルータが、崖のような段差がありそこで樹海が一旦途絶えているのか、奇妙に明るい木々の向こうを透かすように眺めながら言う。
「まさか姫様達にここで何かあったんじゃ」
「何かって、戦い? 血の跡はないみたいだし」
「じゃぁ、樹海の化け物とか」
「違うんじゃ……、もしかしてこれ、根から土が落ちないよう魔力で固め、さらに一度倒れた木を埋め直したのかも」
「根を切らずにこの数をかい? そんなスゴイこと、ルフガダムのムゼイ魔術士長ならついでだろうけど、だったらこんな状況になる前に相手ブッ倒れてるだろ」
「ケルベナ国のおっちゃんは? あれでも魔術士長で、姫様を探してくれてるんだし」
「カッコ付けのザコに? そりゃ無茶で酷ってもんだ」
「あははははは、それもそうだね。あれじゃ、70年前この樹海の魔物を修行がてらに討伐に来た頃のルフガダムのアギ剣術士長よりまだまだろうし。むしろブッ飛ばされる側で……」
ガサガサガサ……
と、二人が変に和むと、荒れた広場の最後尾ともいえる位置で木が揺れ出し、二人がハッと顔色を変える。
ついつい本音で話しまくってしまったが、自分達の言葉通りアフリクドも姫を捜しているのだ。まさかこの樹海に来ているということはないだろうが、万が一聞かれてしまっていたら、外交問題などと難癖をつけられ、あの暗殺者達と出くわすとは別の面倒になりかねない。
二人が縦線が似合う顔で、おそるおそる、ゆっくりと音がした方向へ振り向く。
どうやら倒れた木がまだ一本残っていたらしく、周りの木をつかむように葉と枝をしならせ起きあがり、穴を元に埋めるように中へ滑り込み、何事もなかったように静止する。
「ふぅ……、驚いたくま」
目の前の光景に奇妙がりつつも、どこからかのホッとした溜息に同調するように二人も息を吐き、倒木とは別の少し離れた茂みへビクリと同時に顔を向ける。
そこには丸い頭のクマの物としか見えない、驚き見返す二つの瞳。
フィラが、おもむろに立ち上がってとことこと近寄る。
「済みません。ここで十代中頃の女性の方と、黒帽子黒外套の方を見かけませんでしたか?」
ケルベナ王国、王都オリビエ──威圧的な城壁を組んで作られたガロワ城を中心に、頑強な石ばかりを選び敷き詰めらたような大都。
もしも人と生活感を取り除いた街並みだけを見ることが可能なら、殆どの者が街と言うより巨大な要塞と勘違いするだろう。
だが、幸いにも都を包む鉄のような光沢を放つ防壁を抜けた大通りには、他の国と変わらぬ表情をした人々が行き交い、他愛ない会話、リズミカルな足音、荷を運ぶ音や仕事に励む雑音、訪れた者にこれこそが大国の中心だという生命の力強さを溢れるように感じさせる。
ドガッ!
と、通り端を飾るように並ぶ露店の前で、旅慣れたような汚れがこびれつく鎧姿の男三人がまとめて吹っ飛ぶ。石畳にを嫌な音を立てる抜き身の剣に人混みがわっと小さな広場を作る。
「なにしゃがる、テメェ」
「俺達が誰か分かってやろうってのかっ!」
二人が素早く剣を握りなおして立ち上がり、一人が少し遅れて立ち上がる。
その前には、口元をムスリと曲げ、杖を肩に担ぐようにした魔術士風の身なりをした若い男。ただし、目元はどことなくニヤニヤとしている。
周りを見回した状況から察するに、どうやらこの三人が土産物の像を売る露店の主に難癖をつけ、横から突然この男にブッ飛ばされた、といったところだろう。
更に周りを見ると、術士風の若い男に向け、足を止めた通行人がヒソヒソと語らい、露店の主も動揺しつつも乾いた笑いを浮かべている。誰と知り合いというわけではなさそうだが、それなりに有名な人物なのかもしれない。
それに気付くこともなく、最後に立ち上がった男が野太く声を響かせる。
「来い、炎陽」
コオォォォォォ……
途端、男から離れた中空に一抱えほどの小さな太陽が現れ、光と熱が広がり、通りの人々が避けるように身を低くして距離をとる。
「たくよぉ、折角ケルベナまで雇われてやろうと来たってのに、身元が分からないヤツは雇えないだと」
「去年は身元関係無しに雇っといて、戦の一つもなく解雇だし」
「しかも喧嘩まで売ってくる馬鹿まで。国交復活で目出度いんじゃなく、ケルベナの奴ら頭が目出度いんじゃないのか」
怒り任せに攻撃するかと思えば、三人が口々に言葉を乗せ相手の出方を伺う。いや、口元のだらしない笑みを見れば、出方を伺うと言うより十分威圧できたと踏んでの余裕だろうか。
「種類は分からないが、炎系の精霊か」
ガッコガッコガッコガッコガッコ……
魔術士風の男はそれを無視して呟き、杖を棍棒のように片手に持ち直す。周りの石畳の石が連なるように浮き上がり、巨大な大蛇のようにうねる。
「間に合わせとはいえカッコワリィなぁ」
「こっ……そんなゴーレムもどき、格の違いも分からないかっ!」
一瞬怯むようにした男の野太い声と共に腕が振られ、小太陽が数条の炎を放ちつつブワリと前に進む。炎に触れた石の輝きを見れば、人間なら一瞬で骨まで熱が通るだろう。
だが、炎は全て魔術士風の男を庇うように前に出た空中で連なる石畳に防がれ、更に大蛇となった石畳は小太陽へ伸び、小太陽をぐるりと囲み包み込む。
地上の光が消え、通りの人々が今日は曇り空だったことふと思い出す。
契約精霊を捕らわれたはずの男の顔には、晴れやかな笑みが浮かぶ。
「甘い、甘い。炎神と呼ばれる俺の相棒に石なんぞ、すぐにドロ屑だ」
言葉通り、小太陽を押し隠した石蛇には幾つかの光の裂け目が浮かび、そこから溶け落ちた石が、赤くドロリとした粘質な輝きを地面に広げていく。
「こっちも地系の精霊なら芯まで溶かされ……。いや、そんな術の使い方じゃどうもないか」
魔術士風の男が小さく呆れたように吐くや否や、小太陽を取り巻く石の連なりの動きに勢いが増し、全体が収縮したように光の裂け目が埋まって消える。
ビギシーーーンッ
音と言うより、全身で知覚した何かが音に変わったような感覚が辺りに広がる。
勝ち誇っていた男がハッとすると、ノドだけで喋ったように野太くも掠れた声でうめく。
「……まさか…………。力任せで炎が押し潰されるはずが……」
半身が溶けた石の大蛇が絡まりを解くように離れ、中から何かがポタンと地面に落ちる。
逃げ腰のまま成り行きを伺っていた通行人達が覗くように立ち上がると、太陽と言うより、トカゲの顔を描いた薄っぺらいお面の様な物が見える。
それは、すぐにプクリと膨れ上がって丸くなり、横や後ろ側には短い手足と尻尾も描かれているのが見え、そうなって見ると顔はどことなくトカゲより竜に見え、周囲の人々が首を捻る間に宙に浮かぶと、絵ではないと示すように鱗を揺らしてからスッと姿を消す。
どうやら、光っていないと太陽と言うより、出来の悪い風船のような姿の精霊だったらしい。
ボッ
「ぐほっ」
勝負はついたようなものだ。だが、それでも諦めずに男が次の術を使おうとした刹那、既に目の前まで詰め寄っていた魔術士風の男の杖の一撃で、野太い悲鳴と共に倒される。
残りの二人も、ほぼ同時に奇妙な撃音と共に地面にひっくり返る。
倒れた横では、こちらは土産物らしき露店で売られていた像が、ブンブンと腕を振り回す。こちらも、石畳の蛇同様に魔術士風の男に操られたもののようだ。
「威力あっても隙デカ過ぎだろ。相手次第じゃ精霊系は効き悪いし。……これだから借力は。アフリクドのおっさんだったらそんだけで馬鹿にして、お前ら命なかったぞー」
魔術士風の男が一人ゴチた後、口元までニヤニヤと歪めるように言う。
事態が収まったと見た露店の店主が、おそるおそる近づき、引きつった笑みで口を開く。
「ありがとうございました。ただ、コイツらは商品に趣味が悪いだ、キモチ悪いだ、とケチをつけてましたが、ブチのめちちまうほど何かしたというわけでは……」
「いいんだよ。ケルベナに来てその土産にケチつけるんだ。ケルベナに喧嘩売ったようなもんだろ」
騒ぎを聞きつけらしい兵士が駆けつけて、現場の惨状……というか、ひっぺがされまくった石畳を見て顔をしかめ、それでも少しだけホッとしたように溜息を吐く。
「イフトス様。式前の大規模演習が既に始まっています。早く合流してください」
言われた魔術士風の男より、意識があったのか倒れていた男達の方がビクと震える。
イフトスといえば、ケルベナの宮廷魔術士第二頭。現在宮廷魔術士としては最年少ながら、魔術と頭の方はともかく、直接戦闘だけなら魔術師長のアフリクドの上とも言われる術士だ。
魔力の状態が髪の色に出ることもあり、術士の中にはそれを気にして染めている者も少なくないため意識してなかったが、髪もイフトスの噂に聞くサラリとした緑色をしている。
警兵達に捕まる前に隙を見て逃げようとしていた男達の体が、誰に絡まれてしまったか知り、恐怖で動かなくなる。
だが、幸いにも現れたのは警兵ではなく伝令兵らしく、倒れている男達には見向きもしない。
「あー、いいんだよ。そっちは俺が居なくてもどうとでもなるだろ。だが、オリシスと正面からやって勝てるのは俺くらいだ」
伝令兵がビクッと回りに目を泳がせ、イフトスがちょっとだけしまったと言う顔になる。
「城内の騒ぎは、秘密だったなぁ……」
「い、イフトス様っ」
聞くものが聞けばある程度予想できそうな言葉に、伝令兵の顔が青くなる。
「分かった、分かったって。こっちの用件が終わったら、もういいって言われても行くから。俺の大鉄像も誰かに運ばせとけ。歩かせるくらいは、宮廷魔術士の誰でも出来るだろ」
言うが早いが、先程から腕を振り回している、イフトスの操るメタルゴーレム大鉄像を元に造られたを土産物の像に爪先だけで乗ると、元の流れに戻った人混みの向こうに自分から投げ飛ばされ、そのまま伝令兵を振り切るように走り出す。
「アフリクドのおっさんもヒシクの野郎なんか連れてかないで、俺様を連れて行ってくれればな~んにも起こらせなかったのにな」
歯を光らせるようにむき出すと、含むように笑った。
リグリーウナの樹海を、北から東へ抜ける街道から少しだけ樹海へ入った窪地の影。昼には苔すらなかったその場所に、周りの土と同化する色の石で作られた小さな建物が出来ている。
窓はなく、部屋は渦巻く配置でドアがつながった四つ。一番奥では、魔術で作られた小さな炎が天井からほの明るく部屋を照らしている。
「食事は気に入ってもらえましたかな」
「味付けが濃いです」
石造りのテーブルと壁に挟まれるように座ったマジュスが、三つの皿の上を綺麗に片付け、最後のパンの一欠片を口に放り込むと、座ることもなく部屋の四方に歩き観察するように見ていたアフリクドの業務的な言葉に、短く本心を伝える。
アフリクドの後ろ、開いた扉からコッソリと覗いていたサミヤが、料理にケチを付けられたことにムッとしつつも、それはこのおっさんの馬鹿舌に合わせたからだと小さく頷く。
入口の左側の影に隠れるように立つヒシクが、その様子に何かフッと吹く。サミヤの目が、ギョロリと動く。
「調味料利かさないと腐りやすいでしょ」
「固定魔術を使えばいいだけだろ。俺は使えないけど、一番弟子ならやっぱ使えて当然だよな」
サミヤが攻撃魔術なら使えるぞとばかりに手の回りに力を集めるが、中の様子が気に掛かるらしく、何とか自制して視線を部屋の中へ戻す。
こんな建物まで魔術で作り出して、アフリクドは何をしようと言うのか。
そもそもリグリーウナの樹海に入ってからがおかしかった。突然ケルベナ王国第一王子付き魔術士オリシスの名を馬鹿にしたように呟くなり笑い、杖で陣を描き風水鏡を幾つも飛ばして広域魔力感知を行うと、複数の生乾きの足跡が樹海から出入りした街道に辿り着き、合わせたようにその場に現れた一人の少年を悠然と出迎えたのだ。
もちろん、姫を捜す。ためには護衛の魔術士を見付けるというのはそう間違ったやり方ではない。だが、この少年が情報通りの護衛なら、今は姫のそばに護衛は居ないということになる。ならば悠長に食事を見守るような時間はない。いや、あの足跡の一つを急いで追ってみるべきだろう。なのに未だ少年に確認の問いすらしていないのだ。これでは、ただ少年をここに閉じ込め、自分達自身をも足止めしているに過ぎない。
「見た目は合格。振る舞いも許容。知能は確認してからだな」
アフリクドは、後ろから露骨に刺す視線を無視して言うとテーブルごしに離れて部屋の中央──マジュスの真正面に立ち、杖で床の上に何か模様を描く。左手に握っていた粉を部屋中に広げるように振りまくと、構成しておいた呪文を爆発させる。
杖も触媒の粉も、全てマジュスが食事をしている間に用意しておいたものだ。
じゃごっ
空気、ではなく、場の魔力の圧縮度が増し、すぐに潮が引くように消え失せる。
ただ、それだけ……。
術を使う前と何か変わったところも誰かの身体の異常も無い。
まるで何が起こるのか解っていたかのように表情一つ変えなかったマジュスと違い、帽子のつばの上で警戒して身構えたミアシャムが、何も起こらないことに警戒するように見回す。
「合格だ」
アフリクドが感嘆と共に静かに口に出す。目には長い緊張が解けでもしたように、少しだけ涙さえ滲んでする。
ヒシクが何をやったのか質問しかけるが、どうやら何の術か解ったらしいサミヤが益々困惑したように小さく首を捻るのを見て、何となく口を閉じたままにしておく。
交渉の席に着く、というより交渉の壁を無くすためか、アフリクドが身を正すのに合わせ、スッとテーブルが床に沈み皿ごと跡形もなく消え失せる。
そのまま言葉に迷うような間が続き、アフリクドが高揚を押しとどめるように顔を引き締めじっとマジュスを見据える。
スッと少しだけ息を吐く。
「その召霊を譲っていただきたい」
マジュスの帽子の上に座るミアシャムが何を言ったかわからなかったように首を捻る。
「紹介が遅れたが、私はケルベナ王国宮廷魔術士長アフリクド・ハマン・スルタジャという者だ。ある事情により使い魔と出来る召霊怪魔を探していたのだが、流通に乗るような使い魔は霊長制限のため見た目はよくても力がない、力があっても見た目が悪い、更には馬鹿ばかり。自ら捕らえにも何度か出向いたが、宮廷魔術士長の使い魔として恥じないだけの見た目と能力を合わせ持つものは一度として出逢うことすら出来なかった。だが、お前の使い魔は残念にも威厳には欠けるが一般の多くの者に希有と感じされるだけの均整を持ち、試させてもらったが力も最低ラインは十分越えているようだ」
言葉は丁寧で控えめだが、口調と眼差しは命令する不遜さで溢れている。この部屋に誘ってからの観察も、マジュスにではなくその帽子の上のミアシャムに向けてのものだったようだ。
その背中を入口の陰から見つめるサミヤが、ぽかんとしつつも納得する。
先程アフリクドが使ったのは、借力契約の強制解放呪文。下位の使役契約しか解除出来ないが、その反応を見れば契約状態にある精霊の格がある程度わかる。何の魔術かすら解らない、あの魔術を攻撃とは感じない反応からすると、平均的な契約精霊よりは高位の能力を持っているはず。つまりアフリクドは少年が連れている精霊の話しを聞いた時から、姫探しより少年、少年よりもその精霊を手に入れることしか頭になかったのだ。
マジュスはそこまで言われても、黒く丸い瞳をアフリクドに向けたまま石造りの椅子の上にちょこんと座っている。
「別に、ただで寄越せなどとは言わん。何と交換なら了承できるか、望みの物を言ってみるがいい」
反応の無さにイラついたように、アフリクドのアゴから垂れた細長い髭がピクピク震える。
マジュスは少しして瞬き、不思議がるようにやっと口を開く。
「もしかしてわたしに言っているのでしょうか。この方と契約されたいのであれば、この方に話しを持ちかけるべきでは」
「その召霊と交渉しろと」
「交渉は当人同士でやるべきでしょう。何故わたしに言っているのですか」
ミアシャムが信じられないとばかりに憤慨して肩を振るわすが、アフリクドはそれに一度視線を送ると、一瞬の戸惑いの後、思い当たったようにピンと眉を跳ねさせる。確認するようにマジュスに視線を戻す。
「お前自身はどうでもいいのか?」
「はい。正直言ってどうしてこの方が帽子の上に居るのか解りません」
「解らない……? 別の話を聞くが、姫の警護はどうした?」
アフリクドが、初めて本来の目的であるはずだった言葉を口にする。
「姫とは……ここはレウパ王国のようですからディアナ姫ですか? わたしはその警護をしていたのですか?」
ここに至ってサミヤが考えるように視線を逸らす。
アフリクドがちょっとした驚きとともに、理解した笑みで僅かに頬を弛め、ゆっくりと息を吐く。
「曲がり者か……」
「曲がり者?」
言葉、と言うより、何かを知る物言いに、これまで表情は変えても一言も発しなかったミアシャムが思わず問いかける。
「ほう……、鮮明に話すな。声も良い。知能もまぁ困らないだけありそうだ」
値踏みするように視線が嫌らしくなるアフリクドに、ミアシャムがゾッと身を竦める。
「そう嫌な顔をするな。その小僧と私は同類と言うことだ。疑うのなら少し講義してやってもいいぞ」
確かに急に親近感を持ったような表情だが、それ以上に勝ちの手札を開くだけになった者のように目の奥が妖しく光る。
「曲がり者というのは、呪力が曲がった者、稀にいる極端に力のバランスが悪い者のことだ。例えば魔力その物が強い者は、その魔力を制御する力も比例して強い。筋肉だけ鍛えてもある程度は平衡感覚も身に付くのと似たようなものだ。だが、時には魔力、特に魔積量が多いにも関わらず、その魔力を制御する力が弱い者が居る。そう言った者はうっかり自分の制御能力を越える魔力を使うと、自分の肉体を傷つけ、時には魔導路の暴走や異型化まですることもある。北の大陸では化形とも言うらしい」
ミアシャムが、姿は変わってないと反論するように瞳を細める。
「ただし、これはある程度成長してからの場合だ。幼いうちにそのような状態になると肉体ではなく、まだ形成が不十分な精神に優先して影響が出る場合がある。人格が突然変わったり、記憶を失ったりだ。少し前に何か魔術を使わなかったかね?」
「使った覚えはありません」
「何度か使ってたけど、ならない時はならなかったわよ」
冷静に言うマジュスの上から、ミアシャムが疑い拒絶するように強く言葉を被せる。
「魔力の放出量や方向性、その時の体力でも差が出るからな。おそらくそのせいだろう」
ミアシャムの強く言い切った表情が、じわりと滲むように崩れる。
そう言えば、ある程度以上離れた相手に魔力を使った後は必ず記憶を失っていた。
「これ……元に戻るの?」
「さて。曲がり者自体が数が少なく、子供のうちにその状態になる者は歴史的に見てすら稀。戻った例もあれば戻らなかった例もあり、どうとハッキリ言えるだけの検証は取れていない」
聞きながらミアシャムも頷く。曲がり者という言葉は知らなかったが、魔力の偏りにより、自身の肉体を変化させてしまう人間の話しは何度か聞いている。大抵は時間で戻るようだが、戻らなかった話しも聞く。精神の場合も似たような物だろう。
「ちなみに契約してからその子供はずっとそうなのかね? そもそも、どういう経緯でそんな未熟なモノと契約したのかな」
困惑振りが楽しいとばかりに、アフリクドの目元と口元が微かに震える。
ミアシャムはビクッと震え、腰を下ろした姿が倒れそうなほど身を逸らす。まるで、別人になってしまったかのように酷く狼狽えた様子だ。
「だって、でも、この子は、あたしが……見付けた時は普通に魔術使ってたわよ」
「杖を、杖の型はしていなくても、近い効力の物を所持していなかったかね」
「もってたけど……、邪魔臭かったからあたしが壊わしちゃって」
記憶を辿りながらそう言葉にした途端、ミアシャムがこの質問の意味を察し透き通るような青緑の顔をただの青に変える。
「足りないなら補えば良い。魔力が足りない者が魔術具を使うように、制御力が足りない者も制御するために杖を使う。随分とその子供に迷惑をかけているようだな」
「それは……だけど」
ミアシャムの視線が、自分で解っていて解らないようにしていたこと、無意識に自分自身にしていた隠しごとに気付いてしまったように、ここでないどこか、いや更にその遙か向こうの何かを見つめるように、異様なほど見開かれ彷徨う。
「だ……だいたいアンタは何で宮廷魔術士長にもなって、わさわざ契約精霊を探してるわけ。アンタが曲がり者だろうが杖を何本も持ってるじゃない……」
「仕方ないのだよ」
アフリクドが溜息と共に俯き、過去の記憶に牙をむくように奥歯をゆっくりと噛む。
「曲がり者は制御力はなくともその分だけ魔力自体は強いことが多く、制御以外の面では特に他に劣る部分もないため、極めれば並の者より魔術の才能を発揮することも多い。そのため、術系統によっては曲がり者をうらやむ者さえ居る。だが、それは一般の儀式系魔術の場合だ。宮廷魔術士長ともなれば他者より強力な魔術が使えて当たり前、ただ他の魔術士より劣る部分だけが囁かれる。ちょっとした魔術にも方陣を描く、触媒を用意する、杖を使う。これらは嘲りのネタでしかない。だが、召霊を使う分には、姿が荘厳で強力な力を持ち尚かつ珍しい使い魔を従えることはそれ自体が羨望となり、むしろ権威を高めすらする。今の私の立場は微妙、望まれ得た地位だというのに相応しい目で見る者は少ない。そして、ケルベナの国政も微妙。これらをとりまとめるには揺らぎない私が必要。ゆえに、それら揺らぎを消すためお前が必要なのだ」
「ぁ……あれ、契約精霊が杖の代わりになるのなら」
アフリクドの熱烈な眼差しを無視し、ミアシャムが気づき呟く。
召霊怪魔が杖の代わりなるなら、アフリクドだけでなくマジュスにとっても同じはず。そもそもマジュスの杖を壊したのも自らその代わりをしてあげようという売り込みだった。
「残念ながら、杖ならば持つだけ制御力を上げる特性を持つものもあるが、召霊契約の場合はそうはいかない。術者が召霊を杖として使うためのある程度以上の技量と意思を持っていなければならない。他に方法がないわけではないが全て術者の負担を増やし、術は成功してもより精神や肉体を傷つけてしまう」
ミアシャムが、しゅんと項垂れる。他愛ない限定的な物を除けば確かにその通りだ。だからこそ、今までも自身で勝手に術を使えないわけではないにも関わらず、常にマジュスの言葉を待ち、一度として自分から術を行使することがなかった。
「それにその子供は、根本的にその事を学んでもうっかり自分で魔力を使う度に忘れてしまう。お前の助けを借りれることも思い出せない。言ってみればその子は既にお前が契約した相手ではないのだ。このまま契約していても役に立たず、何かすればただ傷つけかねない。どうだ、その子供と契約を解き私の力になってはくれまいか」
アフリクドが優しく言い切ると、知っている結果発表を待つような満足げな笑みを浮かべる。
ミアシャムは今の会話がショックだったにしても異様なほどうな垂れ、へたり込む上半身をなんとか腕で支え、アフリクドに焦点があっているとは思えない滲んだ瞳を向ける。
「いや。それは絶対にダメ」
声に力はないがハッキリと言い切る。
アフリクドは笑顔を一瞬引きつらせたが、すぐに笑みを戻してマジュスに視線を向ける。
「小霊はこう言っているが、君も事情は分かっただろう。その小霊は君と居ても意味がない。それどころか君の杖を壊してしまったような危険な存在でもある。私が無理矢理契約を解除してしまってもいいのだが、上位契約の強制解除は強力な攻撃魔術みたいなものでね。契約するどちらかが受け入れてくれないと、成功しても運が悪いと小霊は消滅、君も大怪我、もしかすると命すら失ってしまうかもしれない」
「嫌です」
あっさりした高音が響き、アフリクドが言葉が聞き取れなかったように笑顔のまま首を捻る。
マジュスは相変わらずの様子で、ただ丸い大きな目でアフリクドの顔を見つめている。
「この方との契約は解いてもらいません」
「どうでもいいと、その小霊と交渉しろと言ったのはお前だろう」
「決裂されましたよ」
裏切られたように怒りに顔を赤くするアフリクドに、マジュスが淡々と続ける。
「先程は事情が全然わかりませんでした。今も事情はよくは分かりません」
「その聖霊は危険で、無理に解除すると命に関わると解っただろ」
「でも、この方は嫌がってます。それに一つ質問があるのですが、スルタジャさんは契約をしたとしてその後、この方をどう扱うのですか?」
「もちろん我が相棒として敬い大事に扱う」
「後ろの方の顔には『大事になんかする訳がない。例えそのおっさんが本気でそう考えていたとしても、それは一般で言う大事なんかではない。魔水晶に閉じこめ浮遊するだけの魔力塊としてしまうだけだ』と書かれていますよ」
マジュスの目が自分へではなく、いつの間にか自分の後ろの部屋の入口へ向いていることに気づき、アフリクドが驚いたように振り返る。
その視線と合ったサミヤがビクと跳ねるように震えると、染みシワとは縁遠そうなつやつやの白いお肌を両手でこすり、何も書かれていませんよと訴えるようなポーズをする。ただし、その反応でそう思っていたことは丸わかりだ。
アフリクドが、マジュスがやたらじっと見ていたのはこちらの顔色を伺っていたと気づき、やられたとまさに書かれたような表情で視線を戻す。あの質問も、スルタジャとわざわざ名を言ってのも本人へではなく、元から後ろで見ている傍観者の心情を反射で読みとるための誘いだったのだろう。
「ちっ」
アフリクドは舌打ちと共に冷めた顔になると、間を置くことなく杖を構え直す。
それに合わせ、最初から仕込んであったらしい魔法陣が光を放って部屋全体に浮かび上がり、床から岩色の毛玉にしか見えない地霊がぬっと現れ部屋の中心で静止する。
事態を察したサミヤが焦りに硬直しそうな口で何とか叫ぶ。
「アフリクド様っ! 先ずは姫様を探して無事城にお連れし、その後でもう一度じっくり交渉なされてはっ!」
間違いなく、アフリクドはマジュスの精霊契約を強制破棄しようとしている。おそらく一か八か、精霊が消滅したとしてもまた探せばいいだけだ。もし精霊を消滅させる可能性無く解除できたなら、交渉などせず最初からこうしていたのだろう。
「レウパの姫など生きても死んでもかまわん。今の国境、国防、限定された交易が困るのだ。国交が回復せず争いになってもケルベナの有益は変わらない。いや、私の力を正しく城の馬鹿共に教えてやるためには戦争こそ必要なのだ」
「可愛い……っ」
「だいたい私が何故カージスとドルグごときの勝手を許していると……」
「……えっ?」
「何だと……」
アフリクドの怒鳴り声とサミヤの困惑を擦り抜けるように、やたら甲高くも嬉々とした声が響き、二人が呆然と視線を向ける。
見ると、今までずっと取り澄ました顔を向けていたマジュスが、やたらキラキラと輝く瞳で感動したようにアフリクドの召喚した岩の毛玉を見つめている。確かに色はそれほど綺麗でもなく触れば見た目ほど柔らかくもないのだが、毛をふわふわさせて宙に浮く玉は、可愛い、と言われてしまえば可愛くも見えなくはない。
アフリクドが自分の美観では全く思いもしなかった反応に驚き動きを止めつつも疑うようにマジュスを見る。マジュスは毛玉が出現した時から心奪われていたのか、表情からはアフリクドがどう動き何を言っていたのか分かった様子はない。
アフリクドが唖然としたまま、試すようにノドの奥から言葉を押し出す。
「どうだ、この地霊とその水霊を交換してやろうか?」
途端マジュスの大きな瞳から、涙が細い二つの滝となってこぼれる。
両の拳を握り、肩を震わせ、瞳を閉じ、振り切るように顔を背ける。
「いいえ。御厚意は大変ありがたいのですがそんな訳には参りません」
アフリクドのどう変わったか読みとれない程の小さな表情の変化に合わせるように、毛玉がふわりと上に移動する。それに合わせマジュスの涙から覗く瞳の光れが顔ごと移動する。
帽子の上に膝立ちになっているミアシャムは、マジユスがハッキリと契約解除を断ったからかアフリクドの言いように腹に据えかねたのかライバルの出現を脅威に感じてか、先程までの焦り怯えた雰囲気が唐突に消え、何かやたらやる気と怒気に満ちた形相で立ち上がり、アフリクドを睨んでふんぞり返る。
マジュスの表情に落胆と屈辱、ミアシャムの様子に攻撃欲、それらが混在して沸き上がったようにアフリクドが口元を歪め、先の術を完成させようと杖を上げ直す。
「フン。所詮ことの解らぬ子供か」
ドボブッ!
「……くうっ」
と、攻撃の隙に乗じて、アフリクドの杖を取り上げようとした入口から音もなく飛び出したサミヤが、その背にも届かないうちに何かに殴り飛ばされ壁まで弾ける。
見れば、空中の毛玉の真下の魔方陣から石粒で出来た二本の太い柱が吹き出すように伸びており、壁から床に落ちるサミヤを再び殴り飛ばすように天井の隅へと押し付ける。
ガシャ……カララン
一つ一つを認識できないような雑多な衝撃音の中に、サミヤの持っていたアフリクドの予備の杖が床に転がる音だけが鮮明に響く。
アフリクドが魔術を制御する為の杖を持ちつつ、同時に杖代わりと言っていた地霊をも呼び出したのは、マジュスに抵抗された場合、もしくは誰かに邪魔された場合に、半自動的に対応するためだったようだ。
サミヤは半透明の繭のような結界で直撃は防いだらしく大した傷はないようだが、そのままじりじりと押し潰されてでもいるように顔をしかめ、空中の毛玉を睨み付ける。
「アナタ……も少しは手を抜きなさいよ……こんなヤツに力を貸すなんて…………」
地霊玉に文句を言いかけ、ゾッとしたように動きを止める。
パッと見は硬くは無さそうな毛の塊に、僅かながらも歪むように小さなヒビが入っている。
「これって……召霊術じゃなくて、召隷術なんじゃ」
精霊が契約者の下の立場の使役契約となれば呼び出すくらいはほぼ絶対と言ってもいいが、その命令内容までは絶対ではない。人間で例えるなら、主と小間使い、依頼主と傭兵、かなり無茶は言えるが、限度を超えれば従わないし逃げられる。だが、自分の体が壊れかねない程の力を文句一つ無く行っているとなると、主と奴隷。それも手足に枷をはめられ、自分の意思を奪われたような状態だ。
魔術協会でも他の魔術との兼ね合い上の制限基準が難しく、未だ規制されることはないが、度々論議の的になっている呪術行為の一つだ。
サミヤが涙目の怒り顔になって戒め振りほどこうとするが、自らの体を壊しかねないほどの力を使っている地霊玉の石粒の柱はビクともしない。
アフリクドがシラケけた瞳を上げ、結界越しにサミヤを見る。
「余計なことは喋るな。お前はただ私を見てその勇姿を脳に記録しておけばいい……」
ゴギッ!
と、突如アフリクドの頭が衝撃音と共に斜めに曲がり、白目を剥く。唾の滴を口から飛ばしながら崩れる。
その横に、殴った衝撃で折れたらしい杖が小うるさく跳ねる。
「あー、うっせ、うっせ、うっせ、うっせーなーもーーー」
ヒシクが、跳ねる折れた杖を邪魔そうに蹴って部屋の端に飛ばす。床に落ちていた別の杖を拾い、何とか顔を向けようと痙攣する腕を伸ばすアフリクドの背中にもう一撃杖を叩き付け、更にそれが折れるまで殴り続ける。
「ぜぇ……、ぜぇ……、ぜぇ。今までさんざん馬鹿にしやがって、もーゆるせねー。なーにが弟子だ。小さい頃から回りに迷惑かけっぱなしで、ここは気持ちを入れ替え術士になって恩を返そうと気合い入れて一年近く耐えたのになーんも教えねぇし、荷物運びに太鼓持ちばっか。しかも脳に記憶しておけだぁ。今回特別に連れていってやると言うから少し期待しちまったが、要はテメェの手柄の証人かよっ。それもお偉い宮廷魔術士長様だ、困る記憶は全部消すくらいやりゃー出来るだろ。いや、既にやってんのか。この糞オヤジオッチャンがっ。テメーがガキ虐めて美少女精霊取り上げようとしたエロ情けない姿だけはちゃんと脳に焼き付けて風潮してやっからありがたく思えっ!」
丁度杖が折れたからかそれともそれくらいの自制心は残っていたのか、アフリクドが意識を失ってからは怒鳴るだけで殴るのを止めたヒシクが、アフリクドの骨張った肩に足を乗せるとそのままグリグリと踏みにじりはじめる。
アフリクドも別にヒシクを信用していたわけではないが、ことあるごとに反抗的なサミヤに比べるとずっと従順で、しかも受け身で先に行動するということは無かった。そのため、先にサミヤの動きを止めたことによりついででヒシクの動きまで止めた気になり、完全に油断してしまっていた。だが、どうやらヒシクの方が圧倒的にストレスは溜まっていたらしい。地霊の方も、サミヤで手一杯だったのか対応出来なかったようだ。
「うおおおおおあああああああっ。師匠なんてこっちから解雇だぁぁぁ。もう一撃ぃぃぃ」
ゲシゲシゲシッ
「あの~……。そろそろ止めないとアンタ、ただの犯罪者になるわよ」
アフリクドの失神と共に押し付ける石粒の柱の戒めから解かれたサミヤが、完全にドン引きした目でそっと促す。
ヒシクはハッと青ざめると、足を下ろし、ババッと見回すと、倒れたアフリクドからソソッと距離を取る。
「ま、まさか、今更チクったりしないよな」
「誰がやったかだけは不問にしておいてあげるわ。意外と助かったし」
「はい、スルタジャさんと貴女の顔にはほとんど出ないので、そちらの方は助かりました」
マジュスが不意に言い、サミヤがピタと止まって何のことか気付く。
角度的にアフリクドが邪魔になりヒシクはマジュスの位置からは見づらかったため、表情を読まれたのはアフリクド同様自分だと思っていたが、どうやら表情を読まれていたのはヒシクだったらしい。そういえば聞いた瞬間納得してしまったため気付かなかったが、『魔水晶に閉じこめ浮遊するだけの魔力塊としてしまう』とまでは自分は考えてなかった。サミヤが、少し自信を取り戻して頷く。
「なんか、随分と巻き込んでゴメンね」
「いいえ、丁度良かったわ」
何をどこまでどう説明した方がいいか迷い、とりあえずマジュスにサミヤが向き直る。ミアシャムがアフリクドをやたら冷たく見下ろした後、突然けらけらと笑うように顔を上げる。
「丁度、いい?」
「そいつ探してたの。それからそっちもね」
ミアシャムが、今度は空中に浮いく毛玉のような地霊にニンマリとした視線を向ける。
「実はあたし少し前にちょっとした事件で名を上げちゃってて……まぁ、元から有名ではあるんだけど。それで地霊玉の一族から連れ去れれた仲間を助けて欲しいと頼まれてたの」
「なるほど……」
サヤミが理解の頷きを見せる。
「でも高位霊長精霊は制限項目から誘拐として魔術協会に申請すれば」
「そんなの知らないし信用できないわよ。で、力場となる場所から離れるとまともに力が使えなくなるから、地霊玉達と協力してどこでも力が使えるほどの力場となる魔力持ちを探して、こうやって街へ出てきたってわけ。だけど、まさか交渉持ちかける為にぶっ壊した杖のせいでこの子がこんなになっちゃうなんて……。まぁ、結果オーライで良かったわ」
マジメそうではないが済まなそうな顔を少しだけした後、ミアシャムがそれを吹き払うようにまた笑みを浮かべる。
どうやら、アフリクドに精神的に追い込まれていたように見えたミアシャムが、突然威勢を取り戻したのも、目の前に助けるべき相手と憎むべき相手の両方の目的を見付けたからだったようだ。
「でも、どうしましょう。アフリクドの支配契約はあたしでは解けないし、都まで連れ返るにしてもこんな状態だと……」
問うようにミアシャムを見るが、その表情だとその手の術は使えないらしい。
ヒシクに視線を向けるが、表情の前に動作で大きく無理だと否定する。
「先程スルタジャさんが使った術で解けるんですよね」
マジュスがニコリとした瞬間、部屋の中の全ての圧力が霧散したような奇妙な感覚が広がる。
不慣れな感覚に一瞬目を閉じてしまったサミヤがうっすらと瞳を開き、ちょっと警戒するように見回し、空中に浮いたままの地霊玉を見て賞賛の笑みを浮かべる。
「すご……、解呪系は魔方陣や触媒も無しじゃ司級の魔術士でもそうそう出来ないの、完璧に解けてる」
魔術契約が解けても視覚的にはそれほど差は出ないはずなのだが、地霊玉の岩のようだった色合いはツヤツヤとした毛皮のように光り、浮いて揺れる動きも、ふわふわとした毛玉の飾りのように暖かく軽やかで、全くの別の精霊になってしまったかのようだ。先ほど見えたヒビのような傷さえも完璧に消えている。
地霊玉がスッとマジユスの顔のすぐ近くまで行くと、何かを告げるように揺れる。
「……あれ、可愛いですね?」
「恩を返したいから、契約してもいいですかってことよ。その方がまた馬鹿に狙われずに済むから、とりあえずそうしておいた方がいいわね」
「そうなんですか。よくわかりませんが嬉しいです」
にこにこと笑みを浮かべながらも小首を捻るマジュスにミアシャムが説明する。マジュスは一段と顔を瞳を輝かせつつ、不可解そうにもう一度首を傾げる。
「………………」
ミアシャムが数秒考えるように止まった後、ギギギと音がしそうな動きで帽子のつばの下に視線を向ける。
マジュスが黒外套の内側からワインの瓶を引っぱり出し、これまた不可解そうに首を捻り、もう一つ何か取り出し首を逆に傾げ、その両方を黒外套の内に納める。
確かめるまでもなく、どうやら解呪を使った影響でまた記憶を失ってしまったらしい。
そうする間に地霊玉が少しだけ奇妙に動き仄かに光を放ち、そのまま何もしなかったようにマジュスのそばに漂うように宙に浮く。
何が起こるかと期待していたヒシクが、何も変化が起こらないとガッカリするのを余所に、サミヤが驚愕した様子でポツリと言う。
「今のって……」
「契約完了ってことよ」
どうやらあれだけで契約の儀式は全て終わりだったらしい。ミアシャムがマジュスの記憶が消えたことに面倒そうに項垂れつつも、手短に答える。
ただ、それが解っていたサミヤの表情がますます呆れたように崩れる。
「月神って……、取り憑き神のことだったのね」
「あー、そぉ言う人間も居るらしいわね」
「取り憑き神?」
「人間が精霊と契約するというより、精霊が人間と契約しているだけと言えばだけなんだけど、それでこの子、こんなに平気なの」
「平気って?」
「だって今の魔波光だと、とっくにとんでもない数に契約されてるんじゃない」
「契や……おわわっ、なんだコイツっ」
わさり……
と、場の魔術行使の変化についていけず質問を重ねていたヒシクが、突如、床や壁からモコモコと湧き出した奇怪な塊に、一瞬硬直してから仰け反る。
塊は、玉の毛皮で作られた黒い入道雲のような姿となり、マジユスの全身を、更にはその上の天井までも包み、顔も手も足も関節もないことを示すように全身で蠢く。
「樹海の化け物……」
「多分ね」
サミヤの理解したように呆けた一言に、ミアシャムが小さく頷く。
正確には地霊玉の群体、と言った方がいいだろう。アフリクドが使役していた地霊玉と同じ種類の精霊が大量に集まり、まるで一つの巨大な化け物のような姿を形成している。
「力場になる契約者を探すために色々襲ってたから、そう呼ばれるようになっちゃったみたい。勢いで馬車も襲っちゃったけど壊してなんか居ないし、人間にも怪我の一つもさせてないんだけどね」
「もしかしてコイツらも……」
「まとめて全員契約済みぃ~。姿を出しっぱなしはマズそうだから、このみょうちき穴だらけみたいな魔力の歪みのマントを媒介に異界で待っててもらったんだけど、この子が対応してくれないと向こうにコッチの情報も伝わらなくて、それでも無事助けて契約したのは解って出て来たみたいね」
驚きの表情は消えないものの、ヒシクの体から緊張が抜ける。
と、アフリクドに捕らえられていた地霊玉がその中に混ざり、しばらくクルクル話し合うように流動すると、今度は地霊玉の群体がマジユスの前に移動し、一つ一つに分かれ整然と整列して浮く。続き、地霊玉の毛玉のような姿から目の穴のような光が二つ放たれ、すぐその下に口のような裂け目が現れ、同じく光りを放ちつつ大きく開く。
「ありがとうございました」
「ありがとうごさいました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうごさいました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
・・・
・・・
・・・
通常の人間の聴覚では聞き取るのは難しい声音で、千を越えるお礼の言葉が、響き合う鈴の音のように重なり合う。
それを興味深げに瞳を大きく開いていたマジュスが、体が曲がるほど大きく首を傾げる。
さっきまで、確かに宙に浮かぶ毛玉が居たはずなのだが、その口が開き放たれた光が消えた後には、小さく可愛らしいドレスをひらめかせた人型の精霊の姿。
よくみると、全員が二枚貝のように開いた毬栗っぽい物に乗っている。
「へぇ、恐がりの地霊玉達が殻から出て姿を見せるなんて珍しい。どうやったのかわからないけど、よっぽど信用されてるのね」
美しい小精霊達の姿に感嘆しつつ、サミヤが呟く。
言葉で、全てが分かったらしいマジュスが、明らかに気が抜けた響きでポツリ。
「さっきまで可愛かったのに」
「!!!!!!!!!!!!!!!!」
ガーンと、地霊玉達が一斉にショックを受けた表情になると、スッと石の床、というより、異界へと沈むように消えていく。
「……あ」
「まぁ……、そいういものよ」
謝罪する顔になるマジュスに、ミアシャムが手遅れ……と力を入れた目元を軽く伏せる。
「あの汚い毛玉が、あれほど輝く聖霊群だと……」
「大地の動く宝石とも言われてるんだから当然ですよ」
帽子のつばを挟んだミアシャムとマジュスのやり取りに気を取られていたサミヤが、聞こえた濁る声に反射的に返し、言った瞬間驚き固まる。
気付けばヒシクの殴り方が安全過ぎたのか、感じ取れなかったが防御呪文が間に合っていたのか、床に張り付いていたはずのアフリクドが身を起こし杖を構えている。思い出して見れば、アフリクドの予備の杖はヒシクが全て殴り折ったが、最初からアフリクドが手にしていた杖はそのままだった。
ヒシクが言葉にならない怒声を上げて飛びかかりサミヤが慌てて術を構成するが、それより明らかに早く溢れる光に包まれたアフリクドに狂乱の笑みが広がる。
「愚者どもが、滅び……」
ドゴガゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
周囲を地獄と化したであろう破壊が放たれようとした刹那、圧倒的な衝撃が魔術で作られた石壁を外から貫き人影ごと吹き飛ばし、轟音と振動を残して樹海の奥へと通り過ぎて行った。
樹海を抜ける風にほんのりと甘い香りが混ざる。
「そんなことがあったとはねぇ……」
「とにかく姫様は無事なんだね」
「くまっ。それでお手伝いしょうと思ったけど拳……じゃなくて剣……あれっ抜いてないくま。とにかく怖くて……じゃなくて、かえって邪魔になるかもしれないとその場から逃げたくま」
お茶代わりに出された椀の底のハチミツをナメ取りつつ応えたクマに、二人が神妙な面もちで頷きを返す。ヘンルータとアネットとクマは最初は互いに疑い戸惑うようにギクシャクした感じがあったが、話す内にかなり慣れて来たようだ。
「その後どっちへ行ったかは……」
「ごめんくま~」
クマが弱ったように頭を振る。
一緒に飛ばされたマジュスは怪我はないようだったし、現れた二人の男は自分に対してはともかくマジュスに対して敵対している様子はなかった。それで元の場所に戻ってきてみたが、どうやら時間が立ちすぎていたようだ。
それでいてクマがジレルの拳の威力を思い出し、クラクラビクビクと目眩と震えに襲われ、逢えなかったことにホッと笑顔を浮かべる。
フィラが、葉のざわめきの向こうを大きな瞳におさめるように見上げる。
クマが、最初に話しかけてきたものの、ヘンルータとアネットが喋り初めてからは全く口を開かなくなったフィラに少し疑問視するように笑みを向け、フィラがまるで最初からそちらを見ていたように顔を戻す。
「それでここの倒れた木は、戻ってきたら勝手に元の場所に戻りだしていたのですか」
「そうくま。この木だけ元に戻ってなかったけど、ちょっと揺すったら元に戻ったくま」
「心地よくて……ちょっと寝ちゃってました」
「湿地の方ですか?」
「湿地って?」
「この向こう側は窪地で水が溜まっているみたいです」
ヘンルータとアネットが寝ていたのは誰だろうと見回してから立ち上がり、東側の崖に行って下を覗き込む。
太陽が西に低く影となり、覆う樹海の葉の下は見えないため、幾つか小さな石を投げ落とす。
ドドドどどどどどぉぉぉぉぉ……っ………………
と、樹海全体が苦鳴を響かせたような振動。
一瞬崖の下を凝視するがそんなわけはなく、改めてヘンルータとアネットが見回す。
ここではそれほど激しくはないが、何千何万の大木が根を張る樹海でここまで響くとなると震源地では相当なことになっているはず。
「なにが……」
「どっちの方角だろ……」
東から響いたような気がするが、これは家の中で窓が開いている方向から音が聞こえるのと同じ。なまじ片方だけ木々が開けた場所にいたせいでさっぱり解らない。
「まさか姫様の身に……」
「この先か……、来た方向か……」
ヘンルータとアネットがおろおろと答えを求めるように見回す。フィラが北東と思しき方角をじっと見つめ、二人がその視線の先の崖に沿ってバッと走り出し、ピタと足を止める。
ぴょん……もしゃもしゃ
どこから現れたのか一羽の兎が跳ね、手近な草を食べると、そのまま更に崖にそって跳ね、草を食べながら北へ北へと移動して行く。
「そっちは安全ということかね」
「どうなんだろ……」
自分達より耳のいい野生の小動物が危険な方向へと移動して行くとは思いにくい。
振り返るとフィラの透き通る瞳はうさぎを真正面に見つめている。
ヘンルータとアネットは押し黙ると、ただ困惑し、ふぅと息を吐く。
「警備兵達がその変な鎧二人と鉢合わせして戦ってる可能性もあるし」
「樹海のバケモノって線もあるし」
「下手に追い掛けるより、魔塔の壁の門へ向かった方がいい……のかねぇ」
「そうなるのかな……」
二人が悔しそうに唇を噛みイライラと拳を握るが、視線は足元の影に落ちる。
太陽の光の色も変わりかけている。こんな疲れた体で夜の樹海を歩いて姫を探して、違った場合は体力的に追いつけるとは思えない。
「魔塔の壁の要塞みたいな門くま?」
と、音が響いてから頭を前足で抱えて縮み上がっていたクマが、ひょこっと顔を上げて問う。
「ああ、ディアナ様の御気性を考えると、最短コースを選ぶはず」
「それに他は警備兵さん達がしっかり先回りしているから、普通なら通らないところ、国交が断絶して封鎖されている魔塔の壁にある門に向かっているんじゃないかって。あたしらじゃ、そんなトコ狙わないと却って探してる兵士達の邪魔しちまいかねないからね」
クマが神妙な顔で考え、ちらと横目で見ると何か頷く。
「案内するくま」
「わかるのかいっ?」
「ホント?」
二人がホッした叫びを上げる。
勢い込んで樹海に入ったまでは良かったが、実のところ自分達がちゃんと目的地に向かって進んでいるかどうかさっぱりわかっていなかった。
「でも、よろしいのですか? 巻き込まれて襲われるかもしれませんよ」
フィラがきょとんとした様子で言う。
「大丈夫くま。今度こそ護ってみせるくま。自分からボクに話しかけてくれて本当に嬉しかったくま。感謝くま。この森で生きていける自信がついたくま。任せるくま」
熱く雄弁に早口で言い切る。
フィラが言葉の指す意味が分からず呆けたように瞳大きく動きを止める。
「どうしたくま? 疲れているなら、背中に乗っていいくまよ」
クマがさっと四つ足立ちになり、鼻の先で自分の背中を指し示す。
「ありがとうよ」
「いい、くまさんだねぇ」
実はまだ立つのも辛かったヘンルータとアネットが、ホッとしたように二人してクマの背によじ登る。
「フィラさんはどうする?」
「あたしは元気ですから」
「そうかい、悪いねぇ。後で代わってあげるからね」
「はい」
「………………」
くまは何故か微妙に達観した笑みを浮かべると、背中の二人を落とさないよう、ゆっくりと魔塔の門がある南へと歩き始めた。
「やあっ、やっぱりここか。いや~、入口が開いてたから入ろうと思ったけど、変な魔力や、やたら強力な魔力が次々発生してたんで、とりあえず攻撃してよかった」
何がよかったのかわからないが、粉砕されるように空いた壁の大穴からジレルが覗き込み、真向かいの二重に出来た穴を通って差す傾いた陽差しを受けつつ快活な声を上げる。
幸い衝撃波の軌道からズレていたお陰で無事だったサミヤが、止まりかけた呼吸に咽せつつ髪の結び目に積もった小石と埃を払い落とし身を起こす。
「なに……この森、化け物ばっか過ぎでしょ」
掠れ声で悪態をつきつつも、ジレルにこれ以上攻撃意思は無いらしいと素早く読みとると、残骸の中を見回し、ボロボロになった肉片のような塊を一つ。服の切れ端から、どうやらアフリクドらしい。その向こうにも、一つ。こちらは服と金髪からヒシクのようだ。を、見つける。
どちらも衝撃波の範囲だったが、魔力の流れから判断して不思議と命だけはあるようだ。
念のため周囲の樹海に漂う魔力の変化を、逆に探知され返されないように感覚だけで探り、敵らし接近が無いことを確認して、改めてジレルに顔を向ける。
と、表情がジレルの後ろに立つディアナ姫の顔を見付け、驚きと共に安堵に変わる。
「………………」
当のディアナは、ぽかんとしたどこへともつかない眼差しで立ちつくしている。
周りの土の盛り上がりに紛れるような石の建物を見付けたのはディアナだった。
中から樹海の化け物に出逢った時のような気配を感じると言ったのもディアナだった。
それを聞いたジレルが野太刀を抜き、1分待て、と言ったのも当然と思った。
危険な可能性がある以上、戦いに構えないほうがおかしい。
だが、きっかり五十九秒後、そのまま建物に全力攻撃。
建物だけでなく穴の向こうの樹海を青空の道が見えるほど根本から伐採。
刀撃を放った後の呼吸を整える言葉から攻撃を放ったのは八回。
どうやらジレルが使える技の中では最大の破壊力を持つものだったらしい。
「えっ……と」
一度ジレルの大技は見ていたはずなのだが、その破壊力とそれ以上に躊躇無い攻撃に、何か言わなければと思いつつも思いつけず、ディアナが文箱を胸に抱え直して上を見上げ、困った顔のままそれはそれでいかもというように口を閉じる。
ジレルがウキウキとした表情ながらも奇妙に警戒した素振りで膝の高さすらない壁穴を乗り越え、二つの肉塊モドキには見向きもせず更に向こうの部屋の穴を潜り、芸術的なほど円形にくり抜かれた向かいの外壁の前で立ち止まる。
「ちぃぃぃぃっ、これも防御したかっ!」
歯ぎしりする視線の下には、黒髪に黒外套の小さな姿。
埃こそかかり汚れているが、マジュスの顔にも体にも傷一つ無い。
ジレルがトドメを刺すように野太刀を上げ、すぐ仕方なさそうに舌打ちして鞘へ仕舞う。
と、閉ざされていたマジュスのまぶたがピクリと震えて開き、バネ仕掛けのように上半身を起こすと濡れたように垂れた前髪の隙間からキョトと丸い瞳で見回す。
「1秒遅い……」
ジレルが残念そうに吐く。
外壁から反対側の外壁まで吹き飛ばされた位置から見て、ジレルの撃ち出した衝撃波の中心こそマジュスだったはず。
なのに、相変わらず何のダメージも無いようだ。
マジュスがそばに落ちていたつば広の黒帽子を無造作に拾いかぶると、その下から出てきたミアシャムが、何故帽子の中にと見回した後、跳ねるように走りマジユスの帽子のつばに席を取る。
何か数えていたジレルの手が、よし仕切り直す時間は立った、と断言するように野太刀の柄に伸びる。
「マジュスちゃんに謝ってください!」
と、鞘から出た刃が西日に輝いた刹那、ハッと本題を思いだしたディアナが張りのある声で叱りつける。
ジレルが自分に言ったのかと問うように振り返り、そう言えばそうだったと思いだしたのか、ちょっといじけ顔になる。
マジュスに攻撃こそしたが、一つとして効いた攻撃は無い。この場合腹立たしいのは徒労に終わった自分の方であり、何より謝るべき理由が見つからない。
だが、ディアナの樹海の崖沿いに下りはじめた時に戻ったような無駄に力の入った手と肩、子犬のように輝き燃える眼差しを見る限り、このままでは収まりはつかないだろう。
「死んでたら謝ったのに……」
ボソッ
夕日が扇いだような風にキラリと髪をなびかせ、隠すように一言。
マジュスが首を傾げ、ジレルの顔を見上げる。
「あの~……、どなたですか?」
ゲシ
無視されたという無意識な怒りのキックでマジュスの体が浮く。そのままハッと思いついた笑みで、マジュスの首を絞めるように右腕にガッと抱きかかえる。
「いや~、すばらしい。わたしのしたことを水に流して忘れるか。そんな男気を見せる相手にわざわざ謝っては、却って失礼というものだな。わたしの謝罪は胸の中にだけ控えておこう。お前はきっと将来大成するぞ、うんうん」
余計なことを言われないよう、左の拳で口元をグリグリ。
どの角度から見てもあまりにも態とらしい言いようなのだが、ディアナはそうものなのかと呆けたように固まり、その位置からでは表情の見えないマジュスに返答を求めるように視線を彷徨わせる。
「ディアナ姫様、お助けいただきありがとうございました」
と、いつの間にか立ち上がったサミヤがディアナの前へ移動すると、微妙な間を読んだように傅き礼を述べる。
「確か、アフリクド殿の魔従士を務める……サミヤさん。でしたね」
「はい、実は姫様の命を狙う不埒者の存在を知り、城までお助けするために参りました」
「それでは、あれはアフリクド殿と……」
幾つもの考えが脳内で交差したのか、少し寝ぼけたような表情になったディアナが、部屋の中央に倒れる人間サイズの肉塊を見つめる。
サミヤが面倒そうに一瞥して、顔を戻す。
「ただの反逆者と足手まといなのでお気になさらず」
その言葉で交差が終了したのか、ディアナが意識がハッキリしたように顔を戻す。
「色々苦労されたようですね」
「いえ、これが務めです。では、陽が落ちる前に城へ急ぎましょう」
「わかりました。ケルベナに行き早く王子様と逢いましょう」
ディアナの神妙な頷きに、サミヤが笑みを固くする。
「姫様……。遊びの時間は終わりです。レウパ王国のジブコット城にお戻りください。現在も何者かが、姫様のお命を狙っているのです」
「カージスとドルグの他にも居るのか?」
ジレルが傭兵男のお陰でうろ覚えしていた名前を横から言い、サミヤが顔を緊張させつつもあまり驚いた様子もなく息を整える。
アフリクドの言葉から予想していたことであり、何よりそういうことが起こらないようにと命ぜられたアフリクドがそれを見て見ぬ振りをしていとことが分かったばかりだ。精霊を追いかけていたのも、欲していただけでなく、二人が姫を始末するまでの暇潰しでさえあったかもしれない。
「既にそうでしたか……。あの二人は倒したのですか?」
「いや、多分また来る」
「では、やはり急がねばなりませんね。それに正確な数は分かりませんが街で怪しげなことが幾つか。他にも一人か……二人か……三人か……。いえ、とにかくお急ぎください」
王都カドリアの真ん真ん中でアフリクドに放たれた水撃。
そして、カドリアでも、樹海でも、杖も使わず探知も行わないアフリクドでは気付く様子が無かったが、自分の感覚がおかしくなったかと思うほど異常な気配を感知している。もしも、アフリクドの状態を見てあえて杖を持ったり探知魔術を使った時だけ気配を隠し、それでいて下っ端の自分にだけ気付くように気配を晒しているのだとしたら、挑発的にしてかなり途方もなくヤバイ相手かもしれない。
サミヤの差し迫った顔がますます引き締まる。
「姫様。状況を把握するためにも先ずは城にお戻りください。王族は生き延びるのが使命です」
ディアナの元々年齢より幼く見える顔が、一瞬だけ本当に子供になってしまったかのようにむくれ、困ったような涙目にまでなる。だがブラ下げられたまま外套の内からワインと手紙を取り出し何か困っていたマジュスの顔が自分に向けられたことに気付くと、力が抜けたようでありながら姿勢が伸び、柔らかい微笑みを浮かべる。
「魔法使い様は、今回もちゃんと届けてくれますよね」
「はい、王子とちゃんと逢わせます」
ミアシャムがまたこれは覚えてるとそれだけでなく小首を傾げるなか、マジュスはジレルの腕からあっさり抜け出ると、ディアナの元に歩み寄る。外套の内へワインを戻し、そっと両手で手紙を差し出す。受け取ったディアナの表情がパアッと明るくなり、文箱に入れて抱えると、顔に力強い自信が満ちる。
「それでは、わたしは王子様の元へ向かいます。ジレルさんとサミヤさんは、ジブコット城にわたしの無事を知らせておいてください」
「それはサミヤさんとやらにお任せ」
気付けば、ジレルもディアナの横へ来て野太刀を背負い直す。
「あの~、本当に危なくなってしまったらしいのですけど?」
「危なくなかったら、護衛は要らない」
「済みません……、わざわざこんな」
「いや、だから~。最初から姫様とバレてるんだし気にしない気にしない」
目を丸くして驚くディアナに、ジレルがノリの違いを悲しむようにグダる。
「それでは、サミヤさん。後のことはお願いします。マジュスちゃん、道は解りますか?」
「魔塔の壁の門ならあたしが案内します」
と、ディアナ達の会話を、二度、三度と頭を捻るように聞いていたサミヤが、不意に意外なほど安堵した声で突然そう言った。
西の空が茜に変わったと思った次の瞬間には、陽を覆い隠したように暗くなった樹海の中を四つの足音が急ぎ進み行く。
ヒシクが運んでいた魔術触媒の箱はジレルの攻撃で粉砕されてはいたが、治癒効果を上げる触媒が幸いにも残っていた。アフリクドは傷が深かったが治療は最低限におさめ、迂闊に動けないように包帯の上に封術も施し、残りの触媒は範囲こそ広いが意外と傷が浅かったヒシクに全部使ったため、こちらは明日の朝には動ける程度には回復しているだろう。
後は、ディアナ姫を捜してうろついているはずの捜索隊に何とか連絡をとってもらえばいい。念のため保護結界も張ってきたため、血の臭いを嗅ぎつけた獣に襲われることもないだろう。
しんがりを走るジレルが、マジュスに手を引かれて走るディアナに目を向ける。
空には月が出ているようだがその光は葉の天井の下までは届かず、影に入ると物の輪郭すら分からずディアナの足取りは危うくなっていたが、マジュスに手を引かれてからは森に慣れた人間のように動きが安定したようだ。
ジレルは周囲にも後方にもらしき気配がないことを確認すると、ちょっと速度を速めて何か色々そわそわいらいら悩んでいるようなミアシャムごと追い抜き、先頭を走るサミヤに並ぶ。
「どうして案内する気になったんだ?」
「聞いてくれますか?」
サミヤが、疑うような言葉に嫌な顔……でなはく、すごくホッとした感謝の顔になる。
あの建物での会話は、あのあと自分が魔門の塔の砦門まで案内すると言った途端ディアナにそれは助かると大歓迎されてしまい、そのまま何の質問も説明もなく移動になってしまった。その為、意見を翻した理由を何一つ言えなかったサミヤとしては、却ってすごくもやもやしていたようだ。
「その方が安全と判断したからです。ケルベナ王国全体がレウパ王国と事を構えるつもりなら、あたしにこんな任務が来るわけがない」
「任務?」
「アフクリド自身自分が信用されてないと思っていたみたいですけど、実際そうで、あたしはアフリクドの監視をするために村から呼ばれたんです。そのために突然弟子募集をすることになって、一人では疑われないよう無関係な若者をちょっと巻き込んでしまいましたけど」
済まなそうな言葉の割りに、却って邪魔だったとうざそうに顔を振る。
「とにかく、ことを画策しているのは一部。大勢の中に入ってしまえば安全。食べ物や場所、一人にならないよう注意は必要でしょうけど。そういったタイプの暗殺者が居るのであれば、警備の薄いジブコット城とさしたる違いはない。だったら、ジブコット城に無理矢理戻すより、さっさとケルベナに行った方が速やかです」
「だが、安全を考えるだけなら、自分一人でジブコット城に向かい捜索隊を呼んでくればいい。今なら都に戻るまでに捜索隊に合う確率は高い。樹海にいてどこに向かうまで特定できれば、後は魔塔の壁に到着するまでに簡単に追いつけるだろ」
特に意識した様子もなくジレルが言い、的確な突っ込みが出来ることにサミヤが緊張を解くように少し息を吐く。
「他にも理由は二つ。一つは最悪ではなさそう。と判断したからです」
「あれかなぁ……」
「おそらくそれでしょ。姫を狙う者がルフガダム王国だった場合。おそらく、あたし達はこの樹海から外に出ることは不可能です。実際、ちょっと異常な存在を樹海で感知しています」
本当にそのことを言っていたらしく、ジレルが重く頷く。
「ああ、お陰でイライラさせられて、カージスやドルグの接近に反応が遅れてしまった。ただあれは……」
「同意見です。あの王国がそれほどの使い手を派遣するほど本気なら直接戦争を仕掛けた方が早い。こんな警戒させるような真似をせず準備無く攻勢を受ければ、ケルベナ王国ですら数日、大義名分など口にする間もなく陥落するでしょう」
「大陸最大とはいえ軍事強国相手にそこまでとんでもないのか」
「三つの兵力の噂は信じるに値するそうです」
「お荷物付きでは遭いたくないな……」
ジレルが言葉の割りに舌なめずりした顔になる。
「……。えと。ルフガダムの一部好戦派の可能性もありますが、一部の者の仕業ならケルベナもルフガダムも大して変わらないでしょう」
「なるほど。だが、変わらないのならやはりカドリアへ戻った方が確実と思うが……あれか?」
ジレルがこれまでに無いほど、急に気の抜けた嫌そうな顔になる。
サミヤもそっと後ろのディアナとの距離を確認すると、はぁーと深く溜息を吐く。
「です。もう一つにして最大の理由。リィンハルト第二王子……」
「嫌なヤツなのか」
「顔はそこそこで、頭も良く、要領も良く、国政に関しては第一王子より既に色々活躍されているようです。ただそのぶん傲慢で自尊心が強くそれでいて神経質というやっかいな方のようです。あたしは城の中に居ても遠目に見たことがあるだけで、直接話したことも無いのですが、お付き合いしろと言われたら、絶対にごめんこうむります。だいたい、魔術の腕が立つという理由だけでアフリクドを宮廷魔術師長に推薦したのもリィンハルト王子だそうです。効率性格馬鹿の見本です」
サミヤがリィンハルト王子の姿を思い出したのか、悪辣な言葉以上のものが感じられるほど身震して肩をすくめる。
「きっとお手紙では相当うまいこと書かれているのでしょうが、直接逢った時の反動を考えると、結婚してからショックを受けるよりは、婚約前から知っていた方がショックも少なくて済むのではないでしょうか……。それに、これで拗れてうまく破談になれば、いえうまく破談にしてあげないと、あんな奴が相手では政略結婚が王族の宿命とは言え姫様が可哀想です」
言って、サミヤが後ろを振り向く。
暗闇を走るディアナの足取りは、城暮らしの慣れない体にはそうとうの疲労が溜まっているはずだが、目的地に近づく嬉しさからか、走り出した時よりも軽やかにすら見える。
ジレルもその姿をしばし振り返って眺めると、なにかやるせない表情で速度を落とし、ただ無言でディアナの後ろを護るように走り続けた。
樹海にただよう朝靄が陽に輝き、小鳥のさえずりと共に風に乗ってゆっくりと晴れていく。
その空気とは逆に、喉という洞窟から漏れ響いた小さな声が薄気味悪く響く。
「あの小娘がぁぁぁ……っ」
カージスが砕けろと念じるように小石を蹴飛ばす。湿った巨木の間を跳ね転げ、砕けることなく元の姿で止まると、カージスがカッと目をむく。
「傷は全員大丈夫か?」
ドルグの声がすぐ後ろで響き、気を逸らされたカージスがふてくされて振り向く。
そこには、根が腐った枯れ木のように揺れる男達が12人。
目立つ外傷もなく命に関わるような者も居ないが、立って歩くのがやっと。その気になれば剣も抜けるだろうが、三、四回も振れば倒れてしまうだろう。
「チッ、一度しっかり休ませないとマズイな」
「休息はとったろ!」
同意を求めるように吐くドルグに、煩わしいとカージスが熱い息ごと言葉を叩き付ける。
ドルグは顔をクシャリとしたあと無言で横を向く。
吹き飛ばされた後なんとかその場から離れ、確かに一度は全員休息を取った。
しかし、あのジレルという女の使った技を更に強力にしたような、夕べの衝撃。
現場へ急げと叱咤するカージスを、辿り着くまでに陽が落ち相手も逃げだすだけだと何とか留めたが、結局樹海が白む前に全員を叩き起こされ、衝撃が起こったと思しき場所へと向かうことになってしまった。
「今度はブッ殺す」
カージスが歯ぎしりしつつ声を絞り出す。
ドルグも同意こそ見せないが心中に熱い怒りがこみ上げる。
相手の手の内は分かった。
全員が万全に装備と体調を整え、もっと正確な連携を取って戦えば今度は倒せる!
だが、12人の部下達は今の様子では案山子にもならず。カージスとドルグは戦いに支障が出るほどの傷はないが、大盾は無い。このまま行けば、勝ち目はない。
ドルグが籠手を壊さんばかりに拳を握る。
悔しい。だが、ここは治療と食事と装備。そしてもう一日は休まなければ。
だが、一日として有余はあるのか……。
ドルグが別の心配に溜息を落とす。
あれはあまりにも軽率。やすやすと殺せると侮り、姫に正体を明かしたのは不味かった。
姫が人目を避けている以上まだ大丈夫だとは思うが、情報が伝わればレウパの兵士に追われ、それだけでなく、自分達に命じた者もあっさりとこちらを切り捨て、ケルベナからも追われてしまう可能性が高い。騎士の称号はもらっても元は傭兵、使い捨てにはもってこいだ。
こうなっては、無理でも姫を殺す。ケルベナとレウパには戦争になってもらはなければ帰る場所はない。
ドルグ決意を新たにするように踏みしめ、違和感に顔を上げる。
先を急いでいたカージスも、泥汚れが目立つ巨木を回ったところで足を止めている。
隣へと小走りして近づき、見回し、理解とともに剣の柄へ手を伸ばす。
周囲は森を揺らす大技が放たれたにしては何の伐採された跡もなく、平和にすら感じるが、目の前には盛り上げた土を石にしたような不自然な建物が一つ。
壁には、建物を貫通しているであろう大穴。
震源地はここで間違いないようだ。
ドルグが更に感覚を研ぎ澄まし、ホッと息を付き……、安堵してしまった自分に悔しそうに頬にシワを描く。
とうにこの場を立ち去っているとは思っていたが、あの女の気配がないことを喜んでしまうとは……。
怒りを溜めるように気持ちを整え、レウパの警備兵と鉢合わせしないよう急ぎ立ち去ろうと背を向ける。
だがカージスはそのままスタスタと建物に近寄ると、剣を抜き、刃を低く唸る黄色に光らせ、そこに見えない壁があるように空間に突き立てる。
一呼吸後、何かが弾け消え、ドルグの早くここを立ち去ろうとする感覚までも霧散する。
どうやらそこに、獣や通りがかった者を別の場所へ立ち去らせようと意識させる結界が張ってあったらしい。術その物の難度は高くないが、幾つもの現場をこなした者に結界の力と悟らせないとは、術者の技量はなかなか高いらしい。
カージスは顔色一つ変えることなく、無造作に壁の大穴から中へと入り見回す。
「よくぞ来てくれたな……」
そして、目を覚ましたものの傷による体力の消費で全身が鉛になったように動けず、外からの足音をただ夢うつつに聞いていたヒシクは、少し離れて倒れる包帯でグルグル巻きにされた人型の塊から、意外なほど力強いアフリクドの声を聞き、とりあえず死んだ振りをすることに決め込んだ。
「ぷはぁーっ、新鮮な水ってのはいいねー」
「へー」
「タオル・・・、ありがとう」
革袋に溜めた水をジレルが一気に飲み干し、サミヤがただ感心したように見つめ、流れ落ちる水で顔を洗ったディアナがマジュスから受け取ったタオルで顔を拭く。
「ふふん、ま、このくらいならね」
ディアナを連れ一夜走り続けるのは流石に無謀。
アフリクドが作った泥岩の建物から安全と思える距離を取ると、葉と枝を集めて囲いを作り、獣除けと遮蔽用の結界をサミヤが張り、後はジレルとサミヤが交代見張りと睡眠を取ることにした。
そして樹海が朝の光に満たされると共に、マジュスがマントの内から携帯食を並べだしたのだが、突如……どことなく以前から狙っていたようにミアシャムが空中から水を湧き出させたのだ。
一応、飲み水、程度の量ならマジュスも持ち合わせていたのだが、気兼ねなく飲み、こんな場所で顔まで洗える水はとてつもなくありがたい。
帽子のつばの上でミアシャムが得意げに笑う。
「この子に負担をかけないよう力を押さえてたんたけどね、ここって水が意外と豊富じゃない。だからこのくらいなら借力しなくても力が使えるかなぁって」
「もうちょっと量か大きな入れ物があればなぁ……」
ジレルが、ちょっと惜しそうにマジュスを見る。
サミヤが、言葉につられたように自分の服を少しつまむ。
見た目はそれほど汚れていないが、この樹海の湿気の中を走り回ったのだ。髪の先端も服の裾先も汗でグッショリだ。
ミアシャムが言うだけあって見回せば、水たまりというより池のように木の根を沈める水が樹海の至る所に見えているのだが、上澄みは綺麗でも周りのドロや落ち葉の腐り具合を見ると、煮沸なしにいただけるものでは無いだろう。
ミアシャムが軽く首を横に捻り、しばししてああと軽く首を縦に振る。
「人間の服や体ってそうだったわね。ま……、サービスし過ぎだけど」
バシャッバシャッブシャッ……
途端、空中からチョロチョロと湧き零れていた水が固まるように横へ飛び、ジレル、サミヤ、ディアナの順で全身をビッショリと濡らす。
「いや……、あの」
言い出しっぺのジレルが、押さえるように目を少し伏せ唇をヒクつかせる。
シャワーやフロに入れないかというちょっとした催促だったのだが、これではただ全身ズブ濡れになっただけだ。
「待ちなさいって」
ミアシャムが高らかに言って仰け反るように上げた手を振り下ろすと、三人の体を濡らしていた水が服を残して服が抜け落ちたような型に流れ落ち、辺り一面に薄く水たまりを広げる。
サミヤが服をつまんで先程より強くひっぱり、ディアナが髪をパタパタとさわり、ジレルが腕を鼻に寄せると深く息を吸う。
服も髪もほどよく乾いているし、汗や泥汚れらしい匂いも残っていない。
どうやら昨日、傭兵男と中年男の前でマジュスが体を振るだけで泥を落としたものの応用のようだ。
「ほどよく乾燥したと感じる程度に水を残しつつ汚れごと水を流し落とす。見事なもんでしょ」
どうやら自力だけでは限界近い力を使ったのか、脊椎動物だったら体中の骨がヨボヨボになっていそうなほど不自然に体を傾かせ、偉そうに言い切る。
「こんな器用なことが出来るほどの精霊って」
「まさか湯船蛇口要らずで朝シャン朝フロ連日オッケーなのか」
「こんなすばらしい力をお持ちの方とは……」
常識が覆ったようにサミヤが目を白黒させ、ジレルがずいっとミアシャムに迫り、夜が明けた途端に露骨に友好的になったミアシャムに少し戸惑いのあったディアナも、戸惑いなど吹き飛んだように目を輝かせる。
「そうだ、あの手紙ドロ汚れがついたのがあっでしょ。それも洗ってあげるわ」
「いえ、手紙はそのままがいいです。それに、そこまで無理をさせてしまうのも悪いです」
「そーぉ?」
ミアシャム自分の力を信用されなかったのではとカチンとした顔になるが、ディアナの顔を見る限りはそうではないらしく、戸惑ったように表情を変える。
「どうだそんなガキ見捨てて私と契約しないか、そいつと同じ帽子をかぶれというなら遠慮するが」
「あ……あたし。あたしは貴女様ほどの精霊が望むなら帽子被っていいです」
「マジュスちゃん。この件が終わったら今度こそジブコット城で暮らしませんか。とてもおいしい御菓子付きです。もちろん、ミアシャムさんも御一緒に」
そんなやりとりなど無視してジレルとサミヤがミアシャムに迫り、それで思いついたようにディアナも嬉しそうな声で言う。
ミアシャムがちょとだけニヤリとすると、帽子のつば越しにマジュスへ視線を落とす。
「アンタの意見としてはどうなの?」
「さぁ、こういうことは私にはわかりかねます」
マジュスは珍しく不思議なほど困惑したように、真正面にある顔をじっと見つめつつマジメな声で応えた。
一瞬樹海が終わるかと思うように天を覆う木々の葉が減り、その開けた視界の底辺を何かが左右に厚く広がり占領している。
「あれがー」
「あれかー」
ヘンルータとアネットが、疲れと元気が同時に出たような顔で淡々とした歓声を上げる。
陽は今から頂点になろうとしているのか少し見づらいが、幾つもの尖塔を壁で埋めつなげたような堅牢にして重厚な威圧感は、まさしく話しに聞く魔塔の壁の姿だ。
「ちょっと高くなってる二つの塔を囲むように大きな砦があってそこに門があるくま」
「もうちょいだけど遠いねー」
「昼御飯時にお邪魔かー」
「口にあうかねぇ」
「あんなとこに駐屯してる門番て何喰ってるんだろ」
ホッとしたように言ったくまが、背中の上で交互に続く二つの声に疲れたように目を落とす。
「大丈夫ですか?」
「も……もちろんくま。もう一人乗っても平気くま」
横にいたフィラがちょっと考える視線でくまに顔を向けてから言い、クマがビシリと元気をアピールした顔になると、顔を向けた当初の考えを口にする。
「二つの塔の横の崩れたへこみはいつ頃のものかご存じですか?」
「へこみ?」
「フィラさん?」
「それは一体?」
クマが不思議そうに目を凝らし、ヘンルータとアネットもやたらと緊迫した声で問う。
ただし、ヘンルータとアネットの見下ろす視線の先はフィラ。
「「どーしてメイド服を着ていないんだ」い」
「はい?」
ヘンルータとアネットが語尾以外揃えて言い、フィラがぽかんと呆ける。
「メイド……侍女服のことですか?」
見れば、ヘンルータとアネットはジブコット城で働いていた時の侍女服のままなのに対し、フィラは動きを重視したような簡素な旅服で身に包んでいる。
「なんてこったいっ。くまさんがもう一人乗っても平気と言うまで、一人だけ服が違うことに気付かなかったよ」
「昨日、街を出たときからこの服ですけど……」
「魔塔の壁の門まで行ったとき何て言うつもり。旅人が突然現れて、レウパ王国のジブコット城から来た者ですけどディアナ姫知りませんか、なんて言ったっても誰も応えてくれないだろ」
「こういう所を歩くのならこういう服の方が自然で歩きやすいですし、侍女服で現れたからと言って、はいそうですかと信用してくれる門番では番にならないと思います」
「そういう問題じゃないよ。気合いだよ、気合い」
「あたし達は一蓮托生。バラバラのカッコで言うより、三人揃ったカッコで三人揃って言ってこそ、真剣さと説得力というものが生まれるのさ」
「ぇ……と」
フィラが納得は出来ないが反論も出来ずただ困った棒立ちで、長い髪だけを風に揺らす。
そして、まるでその隙を突いたかのように、突然バシャバシャと泥を跳ねさせ木陰から飛び出した十人を超える槍で武装した男達が、三人と一頭を囲むように迫ってきた。
「ふむ……、豆はいいはずなのにイマイチじゃな」
捜索の前線拠点として、樹海を眺めるように建てられた大がかりな野営地の中央外れ。
風に揺れる天幕を背中に、焚き火で豆茶を煎じていた頬にへこみのある男が、暢気な口調で残念がる言葉を呟く。
「セハロ警備兵長、ここにいらっしゃったのですか」
まだ警備兵になって日が浅そうな若い男が数人駆け寄り、セハロ警備兵長が視線を上げるとサッと立ち止まり一礼する。
「どうだった?」
「探知にかかった樹海の地点には魔術により建てられた四つ部屋の家が一軒。建物を貫通する大穴もありましたが、それ以上は何もなく姫様との関係は不明です」
「そうか、ご苦労だった。休んで次の行動へ備えよ」
「「「はっ」」」
若い警備兵の少しホッとした和音が響き、重りがついたような足音ながら少し早めのテンポで野営地の反対側へと去っていく。
声と足音の変化を聞き流し、少し間を置いてから呟く。
「……先の報告の通りだな」
どうやら、調査に向けた捜索隊が戻る前に別の捜索隊がアフリクドが建てた建物を見付け、報告は既に入っていたらしい。
時間もこれだけ立てば情報は次々入っても、それが重複しない方が珍しい。それを兵士達に告げても詮無きことだ。
ただ、セハロがふと、笑みとも溜息とも取れるなんともいえない息を吐く。
実は、こちらが調べるでなく飛び込んできた情報がそれより更に前に一つあったのだ。
どうやらファシィ公国で武術士や魔術士の仕事の仲介を請け負っている防安ギルドからハチネロワインを買い付けに来た者が、一昨日の晩から昨日の朝まで一緒に居たらしい。
内密にするためコチラからは報せずにいたものの、そちらに入る情報は探らせていたのだが、今朝まで全く自分の耳には届かなかった。
防安ギルド内ですら情報がすぐに伝わらなかった理由は二つ。
一つは、何もおかしなところがなかったから。
もう一つは、本物だったから。
セハロ警備兵長が、どこかを見るように奥歯を噛む。
防安ギルドの支部はレウパのカドリアにもある。にも関わらず、わざわざファシィ公国から買い付けに来たとなると、それなりに実力のある者がレウパとケルベナとの国交回復について調べに来たというのが本音だろう。
それが、おかしなところがなかった?
本物だった?
お忍びの姫と気付いたからこそ、コチラに情報が流れないよう控えたというのだろうか。
もしかすると、必死に探す自分達を嘲笑うように、数多くの諜報活動が動き、無数の情報が黙殺されているのだろうか。
暗殺の危険がなければそういうものかと笑ってしまうところだが、流石にそうはいかない。
情報を受ける前より、自分の体の手足が重くなったように感じる。
そのまま顔を天幕に阻まれ見えないカドリアの方角へ向けようとして、布の隙間から見えた何頭かの馬に視線を止める。
その手前には、ヘタリ込む数人の男達。
各所の伝令に走り回っている騎兵部隊の者達だ。一見すると乗り手の方がバテているように見えるが、実際は馬の方がバテしまい動こうとしなくなったのだ。
長時間の移動。高速の移動。馬はそのどちらにも用いられる生き物だが、条件次第では実はそれほど向いている生き物でも無い。
既に王都に向けては新しい馬と増援を向けるよう連絡してある。ずっと休まれては困るが、それまでは丁度良い休憩時間としてもらおう。
「王も王妃も先に事情を話しておいてくれれば最初から配置して……」
セハロ兵長が馬と兵が揃ってからの捜索予定を頭の中で整理しながら、ポツと言葉をもらす。
出した言葉の代わりと豆茶をズズズッと飲み、その黒い水面に自分の深くコケた頬が映っていることに気付く。
ここまで疲れが。と一瞬思ったが、今まで気にしていなかっただけで思えばかなり以前からこういう顔になっていた気がする。
自分が警備兵になった頃はディアナ姫はまだ生まれておらず、警備兵長となってディアナ姫に挨拶をした時には頬は痩せてはいたがほぼ真っ直ぐだった。
姫もいつの間にか成長し、周りは自分の預かり知らぬところでどんどん変わっていった気がするが、自分も十分に変化していたようだ。
ふと、エンダール王とジョセフィーヌ妃の、初めて見た時から変わらぬ丸々とした頬を思い出す。こんな時ながらちょっと笑い、ディアナ姫が将来ああならなければいいがと心の奥底で姫の今の居場所以上に心配になる。
「それにしても、わしに気付かれぬうちに文通など姫様はどうやってはじめられたのだろう」 と、大地に幾つもの馬の蹄の音が大きく響く。
セハロは出迎えるように立ち上がり、天幕の中をカドリアの方角へ歩き始めた。
湿気除けのマントを跳ねる泥水で濡らしながらを駆け寄る武装した男達にクマが二本の足で立ち上がる。背中から落ちたヘンルータとアネットが、意外にも泥スレスレで身を捻って二本の足で着地し、スカートの裾を悲鳴と共に持ち上げバシャバシャとすぐ後ろの木の向こうへと隠れる。
「この人に手を出すなくま」
クマが大声で叫び、駆け寄っていた男達がピタリと止まる。
厳つい表情が呆け、『今の』、『何だ』、と言うように互いの顔を目線だけで探り合う。
フィラがしばらくクマを見上げてから後ろに振り返り、目から上の顔だけを木の横から覗かせているヘンルータとアネットに問うように自分を指さす。二人がうんうんと頷く。どうやら『この人に手を出すなくま』と言う言葉が自分を指していると納得しするとちょっと嬉しそうに笑むが、すぐそのままクマの横で不思議そうに首を捻る。
それに釣られたのか、輝く槍の先を向け半円に囲む十数人の男達も、やっと自分達の疑問を口にするように首を捻る。
「喋ったよな?」
「やはり魔物か?」
「魔力は低いから怪魔じゃないし、竜馬みたいなもんとか?」
「魔物がくまに化けてるってのは?」
「人間の術士の変化もありえるんじゃ?」
「するとこいつが樹海の化け物の正体か?」
「違うくまーっ! ぼくは化け物なんかじゃないくまぁぁぁーっ」
クマが、バッと恐怖に抱きつかれたような叫びを上げ、嫌々するように太い腕まで振り回す。
迎え撃つとばかりに、男達が険しい顔で低く構え直す。
「じゃあ、何なんだお前」
「薄気味わ……」
「くまです」
と、突然のように響いた声に男達がちょっと驚いたように見回し、その声が目の前、クマの隣にいる少女から発せられたと気付くと、何を自分は探しているんだと残念がるように全員がフィラに視線を向ける。
男達の視線がやがて半円に囲む中程に立つ男に集まり、逆毛だった脱色したような茶髪男が気持ち前に踏み出す。
クマに一瞥を向け、ジロリとフィラを見下ろす。
「こいつが、くま……だと?」
「くまに見えませんか?」
「人の言葉を喋ってるぞ」
「つまりくまは人の言葉を喋るんです」
「………………」
周りの男達が、ああ、と納得したように頷くと、「くまって喋るんだ」「そういや俺くまと話したことないからなぁ」「くまが話さないなんて話しも聞いたことないよなぁ」と口々に言い、逆毛の男がフィラにではなく、仲間の男達に軽く目眩を覚えたように眉間に指を当てる。
「いや……驚かせて済まなかった」
だが、逆茶髪男も納得はしたのか、そう溜めた息を吐き緊張を解くと、槍を引き、周りの男達も一斉に槍先を空に向けるように構えを解く。
「実は我らは、樹海の化け物を捜索をしていてな。とてもあんなことが出来る化け物には見えなかったのだが、少々試させてもらった」
「化け物には見えなかったくまかっ……」
涙目だったクマが、男達のあっさりした変化に唖然としながらもホッと表情を和らげる。
「化け物捜索?」
「アンタ達何者だい?」
アネットとヘンルータが、ずずっと口元の高さまで木の横から顔を出す。
一昨日の晩の姫襲撃のように迫り来る勢いに押され、フィラとクマを置いて木の後ろに逃げ込んでしまったが、落ち着いてみて見ればあの襲撃者達とはどこかが違う。
それにこう言っては何だが、全員精悍な顔つきで微妙ながらもイケメンだ。
男達が、身を包むマントを正し、胸に大きく描かれた紋章を見せる。
「我らケルベナ王国北国境守備大隊所属第十四部隊の者だ」
威張ることもなければ声を大きくすることもないが、幾度も繰り返して来たことを見せつけるように声が一つ揃う。
「近い内にこの樹海が解放されるというのに、化け物の出現。ここまで荒らされ放置しては、我らの誇りに傷かつく。出来れば討伐、それが無理としても本城から討伐隊が出てくる前にはその正体だけは明かしておきたい」
逆茶髪男がそうつけ加え、唇を少し曲げる。
周りの男達も、それぞれ同意するような深刻な表情になる。
「本当かねぇ、樹海の化け物ったってねぇ」
「だいたい紋章入りの服見せられただけで、ケルベナの守備隊か信用出来ないよ」
ヘンルータとアネットが、紋章があるのが却って信用できないとばかりに目を細める。
そしてそのまま、実はあたし達を騙して姫に近づこうとしている暗殺者達じゃないのか、と言いかけるが、それは慌てて口の中に留める。
例え本物の守備隊だったとしても、ケルベナ王国とレウパ王国との国交回復を阻止しようとする者が混ざっていないとは言い切れず、そうでなくても、一国の姫の無謀な行動ともなれば変な先入観を与えかねない。遠回しに、それとなく来ているか来ていないか問わなくては。
男達は全員露骨にムッとするが、それには言い返さず逆茶髪男がフィラに顔を戻す。
「それで、あなた方は一体?」
「レウパ王国ジブコット城の侍女さ」
「それも王族のお世話をしているね」
ヘンルータとアネットが木の後ろから今だとばかりに飛び出ると、バーンと揃って侍女服のスカートを広げポーズを決める。
「実は」
「ある」
「証拠は?」
揚々と言う侍女の服をジッと見た茶髪逆毛男が、不機嫌そうに言う。
疑うというか、疑うのとは関係ないのか、男達の数人が何か同意するように頷く。
ヘンルータとアネットが、涙目になってフィラの左右の肩をすがるようにそれぞれガッシリつかむ。
「ほら~、やっぱり」
「三人じゃないから信用してくれない」
「そういう問題とは違うような……」
「いや、絶対それだよ」
「今から着替えて三位一体、あーっ、着替えがないっ」
気圧されながらも言うフィラを、二人がブンブンと振るように揺らす。
だが、そもそも現在のレウパとケルベナの関係は表向きだけにしても国交断絶。
守備隊や使者の連絡速度を考えるとケルベナ側は門を抜けて勝手気ままに樹海を通っているようだが、レウパからの使者はファシィ公国領を経由しての遠回りでしか派遣されていない。つまり、レウパの者だと証明されてすらまともに話しを聞いてもらえるという保証はない。でなければ、例え人手不足のうえ化け物が出るにしても、ディアナ姫を捜す警備兵達がリグリーウナの樹海だけ捜査の手を弛めるのもおかしい。
「で、そう言う君は?」
最終宣告前の確認のように、逆茶髪男が今までより重い表情でもう一度問う。
顔を戻したフィラが、吟味するように少しだけ言葉を溜める。
気迫を込めた宣言が樹海の風と広がるように響く。
「流しの料理人です」
国境守備隊の男達はしばらくジーッとフィラを眺めた後、三人と一頭が向かっていた魔塔の壁の門へと、三人と一頭を丁重に連行することにした。