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魔法の小道  作者: 青朔朗
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     二つ目の角 ある日の森の中

予約投稿したはずの話しが投稿されていないようなのでもう一度予約再投稿






   二つ目の角 ある日の森の中



 レウパ王国を真東に抜ける街道から南に逸れたなだらかな丘の向こう。

 ポッンと茂る低木のそばで、腰掛けるにも小さい土の盛り上がりに登り、十代半ばくらいの少女が朝日に向かい両腕を広げ大きく伸びをする。

「ん~……」

「むぅ~~」

 一段下になる地面で黒帽子黒外衣の少年も二音は高い声で同じくノビをする。

 少女が柔軟でもするように体を曲げ、二度寝する表情で止まり、隣で地面にペタリと両手の平をつけていた少年が体を起こすと、目が覚めたように姿勢を戻す。

 少女がスッと手を低く差し出す。下から手が差し出され、支えにならないほど軽く触れただけだが、少女はその手を支点に運ばれるように周りの草花を飛び越え着地する。

「ありがとうございます、魔法使い様。以前といい本当に助かります」

 少女──ディアナ姫の、ハッキリとして落ち着きはあるが、柔らかいというより力を入れることを知らない子供のような声音がうきうきと嬉しげに響く。

 帽子のつばの上で、小さな顔が傾げる。

「以前……?」

「先日もわたくしが乗った馬車が樹海の化け物に遭った時、貴方が現れて押し止めてくださいました。馬車を戻らせようと思ったのですが、化け物を追ってすぐ森の奥へ消えてしまわれたので、お礼が遅れてしまいました」

「そうなんですか」

 帽子の広いつばのせいで見上げ辛いのか、少年が帽子の角度を上げつつ更に一段高くなった驚嘆の声を上げる。

「よく覚えていますね」

「当然です。恩人ですもの」

 胸を張るように一際嬉しげな笑顔。

「おや、姉弟ではなかったようですね?」

「そう見えますか」

 低いながらも重さより気安を思わせる口調が響き、ディアナが『外れ』ではなく『当たり』と勘違いするような笑顔で振り向く。

 その先には荷車一杯にワインが積まれた馬車があり、手前に広げられた三人分の料理の隣には、少しばかり髪が薄く広めの額にふっくらとした顔と体の、やや中年に入った男が座っている。

 帽子のつばに肘をついて寝そべる精霊少女が、現状に少し目を細める。

 昨夜聞いた話しによると、この男は職場を代表して頼まれた初物のハチネロワインを大量に仕入れたのだが、国交復活の前祝いも含めた都の賑わいに帰路が少し遅れてしまい、傾く陽に思い切って街道を離れて近道したところ、見事に馬車の車輪が壊れてこの場所で立ち往生してしまっていたらしい。

「いや~。来るとき樹海側の街道が通れなくて迂回してたら、街道から外れてここを通る人が居てね。追い掛けてみた時は何とかなったんだが、荷物があると流石に無理だったようだ」

 馬の微かな嘶きにそれを見付けた少年が近寄り修理を手伝うと、そのまま毛布を借りてこの場で野営することになったのだ。

 男は緩い笑顔を浮かべたが、予定した道が通れなかったとはいえ来る時から通れるか分からない近道を試さなければならなかったところを見ると、元から日程に対する心構えが弛かったのかもしれない。

「綺麗に直りましたね」

「その子が材料も道具も出してくれたからね」

 昨夜は暗くてよく見えなかったが、陽が昇っても部分的に色が違う以外の修理跡を見付けられない。ディアナが感心した表情らなると、男が後は自前ですとばかりに腕をまくって見せる。そして次ぎに、調理した責任の毒味、というべきか、ふっくらとした頬を更に丸くするように男が料理を口に詰め込み、うんと何か堪能するように首をふってから少年へ顔を向ける。

「保存食と思えない新鮮さ、これもわしの腕かな。さすが大したもんだ」

 少年、ではなく、帽子の上の精霊少女が、溜息代わりに口元を大きく歪ませる。

 車輪を直す道具と材料に続き、この料理の材料も少年が出したものなのだが、四つの包みを焚き火で暖め、三つに分けて皿に盛っただけ。別に、誰が料理したとか腕とかは関係がない。

 ディアナと少年がそれぞれの料理の前に座り、そのままふっくらとした男が喋り続ける中、それなりに明るく賑やかに食事が終わる。

 少年が皿を集めて立ち上がり、ディアナが追うようにハッと立ち上がる。

「洗う水はありますか?」

「それなら……」

「ああ、それも任せてくれ」

 少年の帽子の上から気の無く響いた声を遮るように男が馬車に上がると、ゴソゴソと小さい袋を取り出し、空になった皿の上に振りまく。

 そのまま皿を全て重ねて軽く振ると、皿についた僅かな肉や野菜の汁ごと粉が綺麗に落ちる。精霊少女が身を乗り出すと、落ちた場所には腐葉土的な土塊があるようにしか見えない。

「おじさんも、少しくらい持ってる物を出さないとな」

 粉は、洗浄の術が施された洗剤の一種だったようだ。

 当然ながら普通の洗剤より値段が高く、旅ともなれば水も貴重。食器は使わないか使い捨て、そうでないならそこらへんの土で擦り落として拭いて終わり、という者も珍しくない。どうやら、これでいて準備のいいタイプでもあったようだ。

 いや、少年に向けた言葉や馬車の奥から取りだしところを見ると、普段使わない物を、少し張り合って使って見せたというところだろうか。

 男はそれらを仕舞って馬車に乗ると、馬を反対方向へ巡らして口を開きかけ、何かちょっと考え直してからて疑問系で言葉を言う。

「乗るかね?」

 馬車の修理を助けられておいて冷たいような問いだが、これは気遣いだ。

 男はこのまま近道を進むより、今からでは却って遠くなっても一旦街道へ戻り、車輪への負担が軽い起伏の少ない道を通ることにしたようだ。

 そうなると、遠くない場所へならこの近道を歩いた方がずっと早い。

「お心遣い感謝します。でも、大丈夫です」

「これ以上重たいと、車輪より馬の足が持たないです」

「その服装だと、隣街までかな」

「ケルベナの王都、オリビエまでです」

「ファシィ公国より先か……遠いな。大丈夫かね?」

 ふっくらした男が、少しだけしぼんだように心配した表情になる。

 ディアナが不思議がるように見返す。

「魔法使い様がいらっしゃるから大丈夫です」

 馬車の上からの瞳が、黒帽子黒外套の少年をしばし見下ろす。

 そのままディアナにまた顔を戻す。自慢したくてたまらない子供のような笑みだ。

「とってもすごく心強いんです」

「心強いって……その距離を歩くのは、……まぁ、この土地なら安全だからね」

 考えが巡ったあと、ディアナの笑みが伝染したように、小さく一言。

「じゃ、わしは一度戻るよ。もし街道で逢った時はよろしくな」

 男は軽く手を振ると馬車を進ませ、二人が手を振り返すと、待つこともなく小さな丘を回って視界から消える。

 ディアナがそれと同時にまだ低い陽に振り返ると、軽く両手を握り、片腕を上げる。

 陽に暖まった風が、ぶわりと過ぎる。

「じゃ、わたし達もケルベナにがんばって行きましょ」

「はい。お任せください」

 少年がそれに合わせるようでいて、うっかり三段高くなって合わなくなってしまったようなトーンで拳を上げる。

 もし姿を見ず耳だけ傾けている者がいれば、遊びに出かける前の子供がきゃいきゃいと騒いでいるとしか聞こえない。

 邪魔が一人減ったと表情が明るした精霊少女が、男が居るあいだ溜め込んでいた思いを垂れ流すように口を大きく開く。

「あのさ~、あんたら。今からどれだけ歩く……いや、それより前。コソコソしてないけど、これからコソコソ遠く旅しようというんでしょ。アンタもう少しらしい服装はなかったの」

「おかしいのでしょうか。抜け出すときに使った侍女服は都の外では目立つと、ヘンルータとアネットに着替えさせられたのですが」

 唐突ともいえる苦情に、黒っぽい髪に包まれた丸顔がきょとんとなる。

 精霊少女がイラッと口元を結ぶ。この状況に至るまでの状況を思い返すと、閉じた目を更に一度キツク閉じてからまぶたを上げ、ディアナに向かって不躾な視線をジロジロ這わせる。

 厚手ながら優美な曲線を描くワンピースとハーフコートにスパッツ。

 飾りけのなさが却って際だたせる生地の持つ柔らかな光沢。

 それを纏う軽やかで洗練された姿勢と物腰に表情。

 何もおかしくは無い。

 ただ、ここは街道からも外れた土と木しかないような辺鄙な場所だ。

 その背景と一緒にすると、実に絵になるとともに、微妙な違和感を感じる。

 先程のふっくらした男も、今思えば別にお喋りだから口数が多かったわけではない。

 街を少し出た野山くらいならわかるが、旅をする服装でもなく、子供一人をお供に街の外を歩くような身分のものとも思えず、何となく反応を確かめていたのだろう。

 透き通って中が見えそうな精霊少女の口が、ムズムズと強く動く。

 事実、この少女と出会う原因になってしまった一つはそれだ。

 昨夜、闇に包まれつつあるカドリアの都の一角で、どことなく金持ちのお嬢様らしき姿が、お付きもなく一人で倒壊しかけた家の壁を支えるように立っていたのだ。

 それを見た精霊少女は、思わず納得できる理由を考え込んでしまったが、帽子のつばの下の少年は迷うことなく駆け寄り話しかけてしまった。

 問いに、まるで見つかってしまった悪戯を自慢するように照れた表情を返すディアナ。

 どうやらこの場所で待ち合わせをしていて、相手が現れるまで中で待とうと半壊した家壁に触れたところ、見事にグラつき、支えるために離れられなくなってしまったらしい。

 実際のところは微妙なバランスで倒れずにいた壁が揺れただけで、少年に言われるまま手を放しても倒れることはなかったのだが、今度は万が一に誰か来た時に倒れたら危険と言い出し、少年が壁の穴に角材を三つ通して多少の衝撃では倒れないように支えを作った時には、小さく驚嘆の声を響かせ、殆ど上がらなくなるほど疲れた手で拍手までしていた。

 中身も、服装と釣り合いがとれるくらい浮き世から離れているようだ。

 しかも、自分のマントの内側から出てきたワインを不思議そうに仕舞い直す少年を余所に、感謝に続く言葉を聞いてみると、少年はディアナをケルベナ王国まで案内する約束を引き受けていたとのことだった。

 どこかおかしくもあるのだが、後は話しもそこそこディアナに連れられ、囮になってくれた侍女と落ち合う予定の場所に向かう。そこは追っ手らしき武装した者達に先回りされており、またもちゃんとした会話もないまま都をから離れ、街道も無視するように進み、ふっくらした男の馬車と出逢うと、何故か修理を手伝いそのまま野宿することになったのだ。

「おかしいって言うかぁ~」

 精霊少女が追われているのならばもっと農民にでも見えるようなボロい……、と改めて口を開きかけ、結局すぐに閉じる。

 確かに労働とは無縁そうな衣服は田舎では目につきやすそうだが、ディアナそのものが放つ礼節に親しんだ笑顔と立ち居振る舞いは、農民や下働きの服装には異質で、一度気付いてしまえば却って記憶に残るだろう。

 釈然としないまま、もういいと払うように手を振る。

 ディアナがよくわからないが解決したらしいと笑みを浮かべると、ディアナなりに言い出すタイミングを計っていたように、何故か歯切れ悪く一つの質問を口にする。

「ところで、これは言っても……、聞いていいでしょうか? まだ教えてもらっていませんでしたが、魔法使い様のお名前はなんというのでしょう?」

「名前ですか……」

 少年も初めて淀むように帽子の下で呟き、帽子の上で精霊少女が小さく嘆息する。

「あたしはミアシャム、こいつはマジュス。発音し辛いならマユスでもマジユスでも」

「ミアシャムさんという名前だったんですか?」

「そ」

 マジュスと名を知らされた少年が嬉しそうに瞳だけ上げ、ミアシャムと名乗った精霊少女が肩をすくめあぐらで座り直す。

「あたしはディアナです。改めてよろしくお願いします」

 昨夜ミアシャムを見た途端、自分から名乗ったのと同じ名前を改めて名乗ったディアナが、チョンと小さくスカートの裾を広げるうに一礼してぽややっと笑む。

 それから歩き出すかと思えばマジュスの顔に視線を移し、道の先に視線を移し、次ぎに跡の残っていない食事をした場所に視線を移し、ふと思い出したようにマジュスの顔に視線を戻す。

「食事はあれで足りましたか?」

「はい」

「先程の食事フィラさんの作るデザートがあるとよかったんですけど。そうですわこのことが終わったらジブコット城でマジュスちゃんにもつくってもらいましょう。素朴ですけどとてもすばらしい御菓子で……」

 ニコニコうっとりする表情に、ミアシャムが何が言いたいのだろうと少し瞳を細める。

 エンダール王ともジョセフィーヌ妃とも体型は全く似ていないのだが、親子と知る者が聞けば『遺伝』、という言葉を使ってみたくもなるかもしれない。だが、別に当人が先程の食事で食べ足り無かったというわけでもなさそうだ。

「で、アンタを助けてくれたとかいうその侍女達は放置でいいわけ」

 人間が食べるような食事は必要ないらしく、ディアナに勧められても何一つ食べずにじっと見下ろしていたミアシャムが、諦めてはいはいと少し嫌みっぽく促す。

 先程までふっくらとした男が居たからだろうが、その話題がディアナの口から出ないことを不思議がるように、マジュスも瞳を動かす。

「ですよね。捕まっていたら大変ですし、そうでないなら連絡を取ってみるのも」

「捕まったからといって、酷い目にあっているということはありません。いえ、父と母が絶対にそんなことはさせません。それに彼女達にこれ以上迷惑をかけても悪いので、あとは仕事に戻るようにも言ってあります。落ち合うといった場所も、都を抜け出せたと伝えるだけでしたから」

 ディアナが楽しそうなほど自信をもって答え、ミアシャムが怪訝に顔をしかめる。

 余裕ある表情。父と母という単語。追われているというよりに切羽詰まった感じがどこにも無いと思えば、命などは何の関係もない些細な家庭の事情だったようだ。微妙ながら内心ごたごたに興味を持っていたミアシャムがつまらなそうに表情を弛める。それにフィラというのはあの時の侍女見習いのことだろう。本人は知らないと言っていたが、記憶の隅に名前が残っていたようだ。突然あの空き地に走り出したり、落ち合う時間になった途端に街の外れに走ったり、やたらと大量の持ち物をマントの内に備えていたのもそういうことだろう。すると案内役に人違いされている可能性もあると思っていたが、自分が契約するより前に、このことは全て打ち合わせされ決まっていたようだ。

「では~、改めてケルベナへ進みま……」

 と、楽しげに踏みだしかけたディアナが、微かに馬車らしい音を聞いて動きを止める。

 別にさきほどの男の馬車が戻って来たわけでもなく、音も一台ではない。

 振り向くマジュスの横を少し丘を登るように進み、ぷしゅ~と空気が抜けるようにしゃがむ。

 先程ノビをした時より頭一つ分高く昇っただけで、丘と隆起する大地の向こうに、良く知る色合いの建物の連なりが覗いている。

 時間的にそれほどカドリアから離れたとは思っていなかったが、本当に目と鼻の先と言っていいぐらいしか歩いていなかったようだ。

 昨夜は暗く気付かなかったが、街道からも以外と近く、思い切って丘の上まで昇ると、遠く並んで走る数台の馬車や何人かの旅人の姿も見えている。

 そのまま黙って丘を降り、マジュスが交代するように丘を登り、ちょうど顔の高さが同じになったぐらいでディアナが名案を思いついたようにキラリと振り向く。

「リグリーウナの樹海を東南にファシイ公国まで直線で抜けられませんか」

「出来ます」

 即答してマントから地図を取り出し広げる。

 ディアナの手が心の高鳴り現すようにぴょんと伸び、ファシィ公国の国境西、樹海を区切る魔塔の壁の東端を指す。一度樹海を通ろうとして失敗しているが、化け物を押し留めてくれたマジュスが居れば、今度は問題ないだろう。

 帽子のつばの上から突っ込みをしかけたミアシャムが、嫌そうな顔をしながらも小さく頷く。

 近道を行ったとしても、いずれは街道と合流する。街道にはハチネロワインを目当てに来た旅人、買い付けの業者が行き交い人目が多い。しかも先程のふっくらした男の様子だと、追っ手に尋ねられればすぐにディアナのことを、それどころか誰かと合えば会話のネタに聞かれる間もなく話すかも知れない。

 追っ手から逃れるなら、それくらいの思い切りは必要だろう。

 と、指の通った軌道にある樹海の色分けを見て、マジュスの瞳が広がる。

「窪地があるので、一度西へ回り込まないといけないかも」

「任せます」

「わかりました」

 ディアナがあっけなく言い、その顔を不思議なほどじぃ~っと見ていたマジュスもすかさず応える。そしてマントからまた何かひっぱり出しては意外そうに呟いてから仕舞う。

「あれ……、食料もまたまだあるし毛布や他も揃ってる」

 ミアシャムが何か突っ込もうと口を開けて止まり、ただおもしろくなさそうに口を曲げる。

「ホント、そういうことだけ覚えているんだ……」

「覚えている、とは?」

 視線だけ帽子の上へ向けた首の角度のせいか、少し舌っ足らずになった声で問う。

 ミアシャムは無視して自分も地図を見下ろすと、今度はおもしろくないというより困った顔になる。そして「街から離れるのか……」と声に出さず口の中だけで言い、更に諦めるような謝るような暗い顔に一瞬なると、仕方なさそうにディアナに顔を向ける。

「ところで、手伝うにしてもあたしはこいつと契約したばかりで何も聞いていないんだけど、アンタは何者で要するに何が目的なの?」

「わたしもケルベナに向かうことしか」

 マジュスが口を合わせるように何気に言う。

 ミアシャムがホッとしつつも呆け、ディアナは手を合わせたポーズで表情を止める。

「ことがことだけにやはり詳しく話してはいけないのですね。わたしはレウパ王国のディアナ・レーネ・レウパ・タージェン・クアロッツです。貴方達にお願いしたのは、ケルベェナ王国の王子との婚約をおこなう前に、王子様と直接合って話しをしたいからです」

「………………は? 要するに誰? 名前はわかったけど」

 ミアシャムがまぶたを落とすように瞳を平らにする。

「あ……ご、ごめんなさい」

「レウパ王国の姫様ということです」

 マジュスがディアナの顔をじぃーっと見たあと自信を持って言い、その自信にミアシャムが口のなかだけで、またこういうことは覚えてる……、と愚痴る。

「………………アンタ、姫様って言われてあっさり信じるわけ?」

「見るからにそういう顔です」

 結局、ミアシャムも頷いた。



 ちょいちょいちょい……。

 忙しい朝の一時が終わったジブコット城の調理場へ続く中庭が見える廊下。その角に隠れ、ヘンルータとアネットが、少し早足で歩き行くフィラに手招きをする。

 フィラがちょっと立ち止まると、他に人が居ないことをキョロキョロと確認している二人に堂々と近寄る。

「あんたはどうするんだい」

「当然行くだろ」

「ディアナ姫を捜しに行かれるんですか?」

「もちろん」

「こんな不始末を放っておけるかい」

 ヘンルータが息巻いて大きいと言うより太い胸をドンと叩き、アネットが笑いで同意する。

「不始末ではないと思います」

「それを見て見ぬふりしてくださった国王様とお后様からの恩義。あたしをこの城に紹介してくださった方への恩義。返さない分けにはいかないよ」

「次は投げるではなく、剣や斧で直接狙われるかも知れません」

「襲われたのは姫様だ。あたし達なんて見向きもしてない」

「万一襲われても、姫様が襲われたら国の大事だがあたしらが襲われてもただそれだけさ」

 二人が、フッと自分に浸るように口角を上げる。

 フィラが大きすぎる瞳を少しだけ揺らめかせる。

「でも、どうやって探すんですか。待ち合わせの場所に行ってないとすると……」

「だからさ。姫様を探す目は一つでも多い方がいいだろ」

「ここでがんばらないと牢屋に入れられなかった意味がない」

「それもそうですね。仕事は終えたので、準備するまでちょっと待ってください」

 フィラはそれ以上問う様子もなく言うと、返事も待たずに小走りするぐらいの速度で歩いて通路の向こうへ消えていく。

 見送りつつヘンルータとアネットがうむと頷く。

「仕事は一段落しておかないとね」

「遠出の準備もしておかないとね」

 そしてバッと慌てた顔を上げると、やおらそれぞれ遠くで自分の名前を呼ぶ声が響く方向へドタドタと走り出した。



「ようするに~。文通相手に会いたいということですね」

「はい、そうです。その言い方の方が単純でいいですね」

 人の背の倍の高さでうねる波のように上り下りを繰り返す大地を歩きつつ、マジュスの帽子のつばでディアナに渡された手紙の文面を黙々と眺めていたミアシャムが、顔をしかめつつも感心した表情を浮かべ、開いた時より慎重に折り畳んでから手紙を返す。

「でも~、王子様はやっぱり王子様と呼ばないと」

 ディアナが重さを確かめるように受け取ると、唯一の手荷物である文箱の中へ、他の手紙と束になるようにそっと仕舞い、ギュッと抱きしめそのまま浮いてしまいそうな表情を浮かべる。

「なんかもう、確かめる必要なんてなさそうだけど……」

「そう、ですか?」

 好感度頂点越えの様相にミアシャムが呆れ、ディアナが不思議そうな顔で視線を下ろす。

 マジュスが帽子のつばごしに少しだけ見上げる。

「文字もですが、相手の顔も見ないと」

「そりゃ、文字じゃ顔は伝えられないけど」

「ですね」

 ディアナがくすくすと同意する。

「でも、そんなこととは関係なく、王子を見て、王子もわたしを見れば全ては伝わります」

「そういうもん?」

「そういうものです」

「そういうものです」

「手紙の王子様にはちゃんと逢わせてみせます」

「はい、王子様の元までよろしくお願いします」

「………………」

 手紙のお陰で場に馴染んだように見えたミアシャムが、まるで二人向き合って話していたようなディアナとマジュスの息の合いっぷりに、その上の帽子に座っているのに場に置いて行かれたようにむくれ、やるせなく左右と後ろを確認する。

「ホントも、お花畑が無いのが残念だわ」

「はぃ?」

 マジュスが反応すると、少しホッとしたようにそれを無視して顔を正面に戻す。

 整地とは無縁の大地が終わるらしく、遠く見え隠れしていた樹海が地平線からせり上がったように左右にどこまでも広がっている。

 と、その緑の手前にポツンと一つ立て札があり、長物を担いだ旅の者らしき女性が、じっと見つめている。

「手配書でしょうか?」

 ディアナの言葉より早くマジュスが駆け出し、女性の右後ろから立て札を覗く。

 『危険。謎の怪物出現中』

 どうやら最近確認された樹海の化け物についての警告らしい。

 左右を確認すると、遠く巨木と平地の境目に、これより少し大きめの立て札が見えている。

 小走りで追いついたディアナが女性の左へ並び、マジュスがそちらに顔を向ける。

 ボフンッ!

 と、女性が動いたように感じた瞬間、爆ぜる風がマジュスの頭上から叩き付けるように広がり、ディアナを吹き飛ばさんばかりに長く髪をうねらせ厚手のスカートをはためかせる。

 木々が揺れ、土埃と小石が円形に払われたように回りに落ちる。

 ディアナがびっくりした様子で女性に顔を向けると、女性は刀を振った姿勢から顔だけ右へ向け、きょとんとした様子でディアナを見つめ返している。

 どうやらディアナにマジュスが意識を向けた瞬間、女性がマジュスを狙って左肩から担いでいた野太刀を振り抜き下ろしたらしい。

 マジュスが、帽子の数ミリ上を縦断するように止まってるいる肉厚の刃の左右から、右目と左目で女性の顔をジッと見上げ、剣圧の影響か帽子つばの横に流されたミアシャムもジロリと睨み上げる。

 女性がおもしろがる表情で、わざとらく困ったように口を開く。

「あれ~、手頃な気配がしたんだが?」

「手頃って、何がですか?」

 ディアナがぽかんとすると、女性は素で自嘲した顔になり、視線だけマジュスに向ける。

 そして、刀撃の名残にほのかに浮いていたディアナの髪が梳くこともなく戻ると、十二分に間をとったとばかりに態とらしい咳をしてグルリと立て札に向き直る。

「フフッ、ところでこれは賞金はかかっていないのか?」

「さぁ、どうなのでしょう。賞金稼ぎをしているのですか?」

 戸惑い不思議がりつつも警戒は浮かべず、ディアナが改めて女性を見つめる。

 背まである真っ直ぐな髪は一見茶色いようだが光の加減では赤とも金とも見え、整った顔立ちには意外と感じるほど青い瞳が輝いている。表情は、世慣れたふてぶてしい笑みを浮かべ意思が強そうなものの荒くれた印象は無く、背中に左肩から担いだ野太刀、身に付けた皮手袋やブーツは使い込まれ、太くはないが強靱そうな体に一体化するように馴染んでいる。

 ちなみに、身長はやや高めでじっとして口を開かなければ女性と呼称したくなる雰囲気だが、年齢的にはディアナと同じか少し上程度で少女と記した方が正確かもしれない。

「ハチネロワイン、と聞いてカドリアに向かってたら一日遅れてしまってな。当日でなければ縁起担ぎにならないし、路銀も底をつきそう。そこで、化け物を倒せば修行がてらの稼ぎにもなるとちょい路線変更中だ」

 遠くから仕入れに来る者が居るように、ハチネロワインは初日の物でさえあればいつ飲もうと縁起には関係ない。だがあの都の様子では、カドリアで初物のワインを見付けるのは一苦労だろう。

 女性は何故かククッと勝ち誇るように含み笑い、それでいて悩んだ視線を立て札に向ける。

 ただ働きになる可能性を危ぶんでいるようだが、どちらかといえば、立て札自体が気に入らないといいたげな視線ともとれる。

「そうなのですか……」

 ディアナが小首を捻るように返答に困り立て札に向き直り、

「立ち入り禁止にはなっていないようでよかったです」

 現在の気持ちだけを素直に言う。

 その横で、マジュスが立て札向こうの茂みの下に蹴り込まれたような大小四枚の木切れを見付け、トコトコと近づきそのうちの大きめの二枚をひっくり返す。

 『立ち入り禁止』

 『記・レウパ王国警備兵長セハロ』

 立て札に振り返り改めて見ると、縦横のバランスが微妙におかしい。

 マジュスはキランと黒い瞳の奥を光らせ走り出し、遠くに見えた別の立て札に行き確認すると、またダッと走って戻る。どうやら、何者かが立て札の『立ち入り禁止』の部分を切り落とし、対の位置にある『記・レウパ王国警備兵長セハロ』の部分も切り落とし、更にはバランスを取るために余白も切り落とすと、ここに裏になるように投げ込んだらしい。そもそも、同じ立て札のはずなのに遠くにある方が大きく感じられる時点でおかしい。

 マジュスは疑問に納得したらしく、何事もなかったように文字を下に地面の跡と重なるように板を置き直す。一度もそちらを見ていなかった女性が、うむと力強く頷く。立て札の上下と側面を支柱を傷つけないように細く再び切り落とし、綺麗な四角に整えると実に満足げな顔で野太刀を鞘へと仕舞う。

 ガサッ

 と、ディアナが拍手でもするように手を上げ掛けた瞬間、茂みの奥で何かが響く。

 マジュスが様子を探る、と言うよりただ音が気になったように森の茂みへ突撃。女性も立て札を通り越し、競うように茂みへ消えている。

 追っ手の先回りでしょうかと口にする間もなく取り残されたディアナが、何もない地平を振り返った後、二人を追うように樹海の茂みの中に入る。すぐに一際こんもりとした茂みの前で立ち止まって居るマジュスと女性を見付ける。

 隣りに行き、二人が覗いている重なり合う葉の向こうをそっと見る。

 もしゃもしゃ……ぴょん

「………………」

 一羽の白い兎が草を無心で食べ、一跳ねして次の草へと向かう。

 もしゃもしゃ……

 マジュスが音もなくそそと後ろに下がり、女性もそっと下がり、ディアナもお邪魔しましたと声はなく小さく礼だけしてそ~っと樹海の外に出て、また立て札の前に戻る。

「やつが樹海の化け物か」

「流石ですねかっこいい」

「違います」

 やたら大マジメに驚愕する女性と言い表せぬほどの感動に瞳をキラキラさせるマジュスに、ディアナが明確さをもって言い切る。

「以前一度見ましたがもっともこもこで大きな化け物でした」

「まさかそっちこそ賞金目的なのか?」

「いえ、わたし達はケルベナに急いで行きたいだけで、そういう者ではありません」

「だろうな……だが、化け物を見たことがあるのに樹海を通ってケルベナか」

 何故か一頻り悦に入った笑みを浮かべると、先ほどより更に堂々と品定めするような視線をディアナに向ける。

 度胸も知恵もありそうだが、世慣れていない幼さが滲む丸い笑顔。体は健康そうだが運動に慣れているようには思えない。服装も野原を歩くだけなら動きやすそうだが、樹海の中を歩き汚れることなど全く考慮した様子もない。

 マジュスに視線を向ける。

 帽子とマントはただ黒い見せかけではなく術士独特の何か感じさせ、そのつばの上に座っている精霊は乱れなくきちんとした造形で人型をとっており美しくも自由奔放に自我の強そうな表情で逆にこちらを値踏みするように見上げている。それらをまとう中身は育ちも良く子供と考えない方がよさそうなほど頭が回りそうだが、野山で生き抜くためのタフさ、というものがまるっきり感じられない。

「では、行くとするか」

 女性が何気に言って、手招きするように樹海の奥へ歩き出す。

「え?」

 少し不思議そうな顔になるディアナに、既に横を通り抜け掛けていたマジュスが立ち止まり、女性もどうしたのだろうと問うように振り返る。

「ん……、そうか。こういう場合は契約しとかないと揉めるのか……。なら、後で腹一杯飯を喰わせてくれるってことで」

「ありがとうございます」

 女性の中では、護衛として一緒に行くことは決定事項になっていたらしい。ディアナは少し申し訳なさそうにしたもののすぐに微笑んで歩き出し、マジュスも並ぶように歩き出す。

 ミアシャムが帽子のつば先で、二三度キョドった後、少し潜めた声で言う。

「アンタらさぁ、いきなり信用して森の中へ誘い込んでバッサリとかだったらどうするの」

「でも……」

「これだけ姫様を一度守ってみたかったと顔に書いた方を無視するのは失礼です」

 ディアナが言いよどむ間も無く、マジュスがあっさり言い切る。

 ミアシャムが怪しむように目を細め、次の瞬間ハッと焦ったように問う。

「まさかアンタ、アイツの名前なんて言うかわかる?」

「全然思いつきません」

「……ならいいか」

 却って問題な気もするが、侍女見習いの時のように名前を知っていた訳でもなく、そのまま誰かをどこかへ道案内な契約が増えたりはしなさそうなことに、ホッと座り直す。

 その会話が聞こえたわけではないようだが、女性が振り返ると決めポーズを取る。

「呼ぶときはジゼル、そっちの帽子ガキはジゼル様と呼べ」



「うおりゃああああー……」

「とりゃあああああー……」

 後ろに少しずつ小さくなる雅な建物の集まりに人の生活する匂いを感じられなくなった頃、街で兵士を見てから全力で走り続けていたたヘンルータとアネットが丘陵の中腹で足を止め、汗だくの顔と息の切れた口調でカドリアへ振り返る。

「……ぜぇ、い、いくら姫様探しの真っ最中とはいえ、いい加減な警備だね」

「……ふふっ、これじゃ、怪しい奴が出入りし放題だよ」

 二人を街角で目にした警備兵は何も思うところがなかったのか、一歩も追おうとせず街角へ消えて行った。だが、咎められることなく王都を離れられた喜びから、ヘンルータは気が軽くなり、アネットはテンションが上がっりっぱなしの笑みをそれぞれ勝ち誇る。

「さぁ~……、まずはどこへ向かうかだけど……」

「……はぁぁ、どこ行きゃいいのかねぇ」

 二人が息を整える横で、フィラが背負い袋から取りだした紙をガサリと大きく広げる。

 ヘンルータとアネットがそこに新鮮な空気があるかのように覗き込み、小首を傾げる。

 どうやら地図のようなのだが、色々と印や文字が書き込まれており、現在の警備兵達の捜査状況が一目でわかるようになっている。

「これは……?」

「エンダール王が捜査状況を自室にも張りたいと言われ、警備詰め所からジョセフィーヌ妃の部屋の分もいただいたのですが、ジョセフィーヌ妃は部屋には張らないそうなので、そのまま戴いてまいりました」

 尋ねておいて全然聞いてない表情で、ヘンルータとアネットが地図を食い入るように見つめる。流石と言うべきか当然と言うべきか、ケルベナに向かう全ての街道は、最初の宿場までは既に捜索済み。その先の宿場へも何隊かに分けて捜索隊は差し向けてあるようだ。時間を考えれば、戻り記載されていないだけで、更に二つ先の宿場や村も捜索済みだろう。

「徒歩じゃこれ以上進んでないだろうねぇ」

「馬は借りられてないようだし、見つかってないなら街道は通ってないか」

「ケルベナのおっちゃんまで襲われたとかで街の捜査も増やしたから、荒地まで範囲広げるとやっぱ人手足りてないね」

「来てよかったよ」

「姫様無事だよねぇ……連れってたヤツ大丈夫かな。姫様も少しは相手を確かめてよ」

「まさか一人で行ったなんてないだろうね。それとも追っ手に関係なくどこかで倒れて……」

「大丈夫だと思います。前に樹海の街道で見かけた方です」

 語る言葉がなくなった途端、不安な言葉だけが飛び出しはじめたヘンルータとアネットが、フィラの言葉に不可解そうに顔を水平に横に向ける。

「は?」

「そうなの?」

「はい」

「そういえば物置に戻った時、だから安心出来る方です、と笑顔で言ってたね」

「見ただけですぐ分かります、とも笑顔で言ってたね」

 二人がポンと手を打ち納得したしたように頷く。

「あの使いの人にしては樹海でも助けてる何て気が利きすぎと思ったんだよねー」

「あの使いの人にしては樹海でも助けてるって時間的にも変と思ったんだよねー」

 そして、それぞれ何故それで疑わなかったと押し付けるように視線を互いに向けると、ふとリグリーウナの樹海へ同時に振り向いた。


 くり抜いただけで家になりそうな巨木が前を塞いでいる。

「こっちの下りだ」

「違うと思います」

 池のような広く深い水たまりに遭遇し、仕方なく西へそれると、石垣を作ろうとしてやめたような石の積み重ねが先を塞いでいる。

「この上行けるな」

「やめた方がいいと思います」

 石垣の割れた隙間に道のように倒れた木の上を進むと、棘だらけの密集した茂みがに遭遇し、仕方なく西へとそれる。

 変な匂いと共に極彩色の葉に覆われた木々が視界に入り、目を凝らすと、葉ではなく悪臭を放つ渡り蛾の群が休んでいることに気付く。

「こっち」

「無理です」

 そんなことはないと左手の斜面を上ってみせたジレルが、上にもっと沢山の蛾の群が休んでいる姿を見付け、どうりで臭いが近いわけだと今更鼻を押さえつつ降りる。

「それダメです」

 ならばと右の段差を上がるため、足元のおぼつかないディアナへ渡そうと引っ張ったツタがあっさりと切れ、ブヨンブヨンとバネのように揺れる。

 結局そこも一度下がってから西へ迂回する。

 それを繰り返すこと小一時間。

「………………むぅ」

「大丈夫ですかジゼルさん?」

「ジゼルは没名だった。これからはジレルと呼んでくれ」

「はい」

 上下左右に様々な光と影の形が詰め込まれたリグリーウナの樹海のなか、先頭を歩いていたジレルが突然名を改め、ディアナがまじめな顔で応える。

 ただ、一見カッコ付けで言ったように見えたジレルは、進行方向ではない木々の奥をジロリ、ジロリ、更にジロリと三度ほど見つめ、実は樹海に入る前から内心感じていた苛立ちを押さえるように頬を震わせる。

「疲れましたか? でしたら先頭はマジュスちゃんに……」

「まさか、御近所では森ロードねーちゃんと呼ばれた私がこの程度で疲れるなどありえない」

「森ロード? 森の領主のお姉さんですか」

「いや、森で迷った時、片っ端から伐採して脱出したら、ロードが出来たと近くの街で喜ばれたんだ」

 湿ってバランス悪くへこむ地面に、ツンと額を押せば倒れそうに直立して見上げるディアナに、ジレルがニカリと笑う 

「ディアナさんこそ、湿地続きで疲れてないか?」

「四年前の舞踏会からダンスの練習も増やましたし、一年前からは城の周りをランニングして備えてましたから。実は馬術もちょっと自信があるんですよ~」

 ディアナは瞬きして言うと、自信ありとこのまま走って見せそうなポーズをとる。

「いやいや、なぐ……確認したいこともあるので、ここはディアナさんはしばらく休んでいて」

 ジレルは安心させるように言ってクルリと背を向ける。ディアナが視界内に入ってこないことを確認し、猛獣が牙を剥くように目を鋭くする。

 視線の先には、何が楽しいのか木陰から木陰へと、止まったら呼吸できない大型回遊魚さながらに駆け回り続けるマジュス。

 最初は何の取り決めもなかったせいか、地図を持つマジュスが先頭を歩いていた。

 その時は樹海も浅かったせいか、まるで樹海の木々がその場を退いて自分達が通れるように道を作ってくれているのではないかと思うほど楽に歩け順調だった。

 ところが、先頭は一番危険とジレルが自ら言って代わった途端、ここ最近は雨も降っていないのに地面が全体的にぬかるみ。水が要所要所に溜まり。それを避けると今度は木々が通せんぼするように立ち塞がり。起伏も激しくなり。何度も何度も変に曲がりくねったコースを取らざるおえなくなってしまったのだ。

 進路の障害の大部分が水である以上、森ロードの二つ名を知らしめるべく眼前の大木を切り裂いても意味はなく、追われている身であれば自分達へと通じる道を残すわけにもいかない。

 ガサッ

 そして、この物音。

 ジレルが野太刀に手をかけ、網のように垂れた蔦と茂みの向こうに視線を向ける。

 感覚的に敵ではない。

 だが、護身に剣を持たせようものならそれで自分を切ってしまいかねない非戦闘員を連れている身だ。勘違いでは済まないため、一々確認しないわけにもいかない。

 しかも、物音は自分が先頭に代わってからは10を軽く越えているのだが、頭に来ることに、マジュスが先頭を歩いている間は一度としてなかった。

 だいたい、全然一緒に居ないくせ、ジレルが間違った判断をする時にそばに来ては否定するマジュスのタイミングの良さが、実に頼もし……気に入らない。

 ──コヤツ謀りおったか!

 そんな思いに捕らわれたジレルが『イライラ』という文字を『フフフフ』と置き換えて誤魔化すように自嘲し、それで足りなかったのか、今度は『クククク』に置き換える。

 その間にディアナは、ジレルの『休んで』という言葉を真面目に取ったのか、座る場所もなく、ただ体の力を抜き筋肉をほぐすようにどことなく振り返り、木々の向こうに小さく見えた青と雲の輝きからそちらが北であると気付くと、その下にあるであろう場所を思い浮かべる。

 ……おそらくあの空の下は、カドリアの都。

 樹海の中を迂回するとは聞いていたが、感覚的にはずっと西へ進み、距離的にはカドリアへ戻り、ケルベナからは遠ざかってしまったかもしれない。

 ディアナは自分を見回すと、少しだけスカートをたくし上げ、少し泥に汚れた靴とズボンを確認する。

「魔法使い様、服が濡れても大丈夫ですから、水溜まりを突っ切ってはどうでしょう?」

 どうやらミアシャムに旅人らしくないと言われた言葉を思いだし、一度カドリアに着替えに戻ろうかと考えたが、結局このまま突っ切った方が良いという結論に至ったらしい。

「途中でバテるからダメです」

「い~、濡れるのは後がよくない、~ち。お前、ちょっと向こう見てこい。ブナじゃなくて、コナラの左の草の茂みだ」

 と、マジュスが自分でなくディアナ、それも少し離れた場所からそう言うのを目に留めると、ジレルは隙物音のした茂みを指さし、森ロードの威厳よろしく樹木名も付け加える。

 ちなみに一つ数えたのは、自分から先頭を代わると言った手前、全く意味がないが、気持ち間を取ったのだろう。

「その木はミズナラです」

「…………」

 マジュスは顔を向け直して木の名前を訂正すると、ジレルの開いた口から二の句が出るより先に、飛び込むように茂みの向こうへ消える。

 手を振るディアナがにこにこと見送る。

「服が汚れる気遣いではなく、距離が短くても疲れれば却って時間かかるということだったんですね」

 と、ディアナが何か言たたげにジレルに振り向き、当のジレルの視線が先にジ~ッと自分へ向けられていることに気づくと、ちょっと反応に困ったように口を閉じる。

 それからハッとすると、今度は焦ったように口を開く。

「えっ……と、ジレルさんの案内よりマジュスちゃんの案内の方が安心できるというだけで、ジレルさんの『濡れるのは後がよくない』を無視したわけでも、それより前に『疲れてないか』と問われて否定したのに、マジュスちゃんの『バテる』を受け入れたのもこれといって他意は無いですよ。……あれ」

 ジレルがキョトンとした表情になるのを見て、どうやらそういうことではないとに気付いたディアナが言葉を止める。だが、その二つ以上に問題のある発言をしていたことに気付くと、恥ずかしがるような申し訳なさそうな様子で一言つけくわえる。

「もちろん樹海の化け物が現れた時はジレルさんにお願いします」

 言ったディアナが、益々戸惑いに身を捻る。

 年の近い女性同士のせいか、それとも何かあるのか、よくわからない読み合いのような物があったようだ。

 ジレルはちょっと考えた顔になるが、読み合いに勝手に勝ったような雰囲気に、なんとなくクスクスとした笑みになる。

「ま、わたしは案内ではなく護衛だからな。野盗でも出るまでノンビリさせてもらうか」

「野盗が居るんですか?」

 萎縮する心のように細くなり掛けていたディアナの瞳が、驚きに大きく丸くなる。

 カドリアの近くは治安も良く、酷魔や呪霊のような邪念しか持たぬ魔物が出ないのは当然、野盗に至っても話しすら聞いたことがなく、考えたことも無かった。

 ディアナがジレルを半分背で庇うように寄り添うと、頭の中がぐるぐる回って目まで回った表情になる

「済みません。そんな危険な場所とは思わなくて……、おもしろそうだから一緒に来てれると楽しそうと思っただけで。貴女に何かあったら……。マジュスちゃんは戻るまでもうちょっとです。それまでわたしが命にかけて護衛をお守りします」

 化け物が居る樹海に自分から入っておいておろおろするうえ、態度と言葉に更に問題がありそうなディアナに、ジレルが少しリアクションに困った表情になる。そもそもジレルとしては野盗の情報があるわけではなく、ノンビリの枕言葉的に言ったに過ぎない。

「わたしがわたしで決めたことだし、むしろ出てくれれないと護衛の立場というものが」

「そういえばっ。でも危険ですよ」

「王子様とお姫様の駆け落ちの手伝いは火傷するくらいじゃないと」

「駆け落ちって……」

 ディアナがカーッと頬を赤くする。

 ミアシャムが気軽に身分を明かさない方がいいというので、手紙のことだけを話したのだが、どうやらいつの間にかそういう話しに思われていたようだ。

 ディアナの耳もほんのり赤くなり、文箱を握る手にも力がこもる。

「で、でもそうですね、駆け落ちですか……。そういうつもりじゃなかったけど、それもいいですね。それでその手紙の王子様なんですけど、手紙の王子様って……」

 スッ

 と、ここぞとばかりに全てを言いかけたディアナの前に、ジレルが塞ぐように手を上げる。

 ジレルの視線は、マジュスが消えた茂みの向こう。

「ちょっと遅すぎる」


「うっうっうっ、そうなんですか~」

「そんなんだくま~」

「森に迷い込んだ人間に落とし物を渡そうとしただけで、化け物扱いされてしまうなんて……」

「それも最初はじっと様子を見ていたのに、話しかけた途端大きな悲鳴を上げて。ちょっと、人間の言葉が話せたくらいではアクマはないくま~」

「それで大勢のハンターに追いかけられて」

「住んでいた森を追われて」

「こんな異国の樹海の中に……」

「今度こそひっそり暮らそうと思ったのにまた化け物扱いくま~」

「酷い。酷過ぎです。くまはくま、化け物は化け物、ちゃんと名称を分けてあげないと」

「なんか違うけどすごく嬉しいくま」

「くまさん、一緒に誤解とを解く為がんばりましょぉぉー」

「手を貸してくれるくまか? もう一度がんばるくまぁー」

 茂みと樹木が小さく開けた広場。300キロはある体が小さく見えるほど力無く腰を下ろし蹲った赤茶黒いクマと、黒づくめの少年がヒシと抱き合い、二人仲良くダラダラと涙を流して熱く嗚咽する声を響かせる。

 その横で、茂みを抜け様子を見に来たジレルが拳の感触を確かめるように仁王立ちになり、陰るように見下ろす。

 マジュスの帽子のつばでダレて寝そべっていたミアシャムが、ポンと地面に回避するように飛び降り、少し離れマジュスとクマをほのぼのと見ていたディアナが何かを感じ首を傾げる。

 ゴスッ!

 クマが首や背骨を折るような勢いでお辞儀して、顔面を地中に埋める。

 ジレルが手応えの無さに奇妙な表情になりつつ、そのまま宙に残されていたマジュスの頭にも拳を叩き付け、

 ゴッ……ぴょい

「あれっ……」

 ドッ……ぽむっ

 ゴガッ……ぺへっ

「おややっ……」

 ジレルが不可解な表情で止まることなく、マジュスを体が平たくなるほど地面に叩き付け、丸く跳ね上がる体を更に打ち飛ばすように殴る。

 ゴスッ……むぴょ、ダゴッ……ふみっ、ビシッ……ほふぉ、ガゴッ……ひょむ

「おいおいおいおい……」

 為す術もなく地面に潰れては空中に浮くマジュスを一音ずつ緊迫していく声で見つめると、野太刀を一気に抜き放つ。

 ドシュオン!

 剣撃の唸りと、直撃したマジュスが飛ばされ大木にメリ込む音が重なって響く。

 ジレルがギリと一つ強く歯を喰いしばると、剣閃の乱れを修正するようにスゥッと息を吸い身の丈ほどある刃を構え直す。

「止めてください。マジュスちゃんが何をしたというんですかっ!」

 ディアナが両手を広げてジレルの前に飛び出し、力強く見つめる。

 表情は困惑に満ち、やっと状況に体が動いたもの自分でもこのあとどう動けばいいか解っていないようだ。ただ、引く考えだけは無いことも一目瞭然だ。

 見つめ返すジレルがマジュスを指さし、不意に耐えきれなくなったように笑顔でポツリ。

「ガードした」

「が~……ど?」

「そうっっ。コイツわたしの攻撃を全部ガードしやがったっ! 打ち込み練習に手頃と感じた直感は間違いじゃなかったぜぇぇぇーっ!」

 ジレルの樹海中に溢れる哄笑に、ディアナが小首を傾げる。

 一応怒ってもいるようだが、自分が予想した怒りとは全くの別種。全体的には、喜びにうち震えると言った方がいい状態のようだ。

 益々困惑し、マジュスに振り向く。

 マジュスはそれを待っていたように大木の凹みからポロリと落ちると、何事も無かったように立ち上がる。平気な顔でただ何かを探すように見回す。

「おっしゃぁぁぁ受け立つか貴様、ディアナ姫そこどいて。もう一撃イィィィィィィィ!」

 一歩間違えたら、危ないいじめっ子叫びが高く上がる。

 だがディアナは振り上げられた肉厚の刃の前から一歩も動かず、マジュスの無事にホッとしつつも、ムゥッと縁取られたように丸い瞳を強くしてジレルに向ける。

「めっ、です」

「………………」

 言い方が予想外だったのか……、ノリが乱されたのか……。

 ジレルが少し引いた顔で視線を逸らし、そっと視線を戻す。

「・・・・・・」

「………………」

 ディアナの瞳には何の揺らぎもなく、ジレルの頬には揺らぎが浮かぶ。

 どうやら、さきほど何の戦いかもわからないままディアナの自滅でジレルが勝ったようだが、今度はよくわからないままジレルが負けてしまったらしい。

 マジュスはそのジレルの顔をしばらく不思議そうに見つめ、何故かマントの内からワインを取り出し、小首を捻り、仕舞い、クタと倒れる。

 ディアナが小さく叫んで走りより、厚めのスカートがバサリと音がするほど勢い良くそばに座り込むが、マジュスは倒れたというより、安らかと言っていい寝息をスヤスヤと立てている。

 動かしてもよいのかと迷うように、ディアナがマジュスに手を伸ばす。

「はーぁぁ、大丈夫。大丈夫」

 と、帽子から降りた後も黙って見ていたミアシャムが、歩き辛そうに近づき、大地に広がる黒マントの端へ飛び込むとマントの肩部分から現れ、長くうねる髪の方向さえ大地を無視した斜めに立つ角度でマジュスの首元に移動する。

「瞬間的に連続して加減なしで魔力使って体がバテただけよ。平気平気。て言うか、あたしに魔力回してくれれば、こんな無駄体力使わず済んだのに」

 朧気な表情だったディアナに、鮮明に理解が広がる。

 どう見ても拳や剣撃を防御しているようには見えなかったが、おそらく目には見えない魔術結界か何かで衝撃を和らげていたのだろう。

 見えていないだけに疑いたくもなるが、月神が言うのだから間違いではあるまい。

 たが、そう言ったミアシャムの表情には一瞬だけ曇りが浮かぶ。マジュスのクマに対しての、言われてもいない安請け合いの約束。実のところまだ内心ディアナとの約束は人違いではないかと思っていたのだが、この様子だと詮索するだけ無駄だっようだ。

 いや、ミアシャムの表情はそれだけにしては何か……。

「修行が足りないなぁ。精進、精進。次こそはあたしに頼みなさいよー」

 ミアシャムは何か飲み込むように気持ちを切り替えると、今度は吉兆でも聞いたようなウキウキとした笑みで、寝ているマジユスの頬をポンポンと軽く蹴る。

 ジレルも、次は一刀両断、と拳を天に向け固く誓う。

 ガザザザザ……

「………………ぉ…」

 ザザザザザザザ……

「…………………………っ……」

 ダダダダダ……

「………………さ…………ぃ……」

 と、静けさを取り戻した樹海の中を、騒ぎを終わらせまいとするように茂みを荒く駆け抜け叫び合う男達の声が、少し遠くから響き、着実に近づいて来た。


 ボゴフッ……ゴンガンゴンゴンゴロンッ

 刃を取り巻く圧力に弾かれた小石の代表とでもいうように、鎧姿の男が一番遠くごろごろと転げ、地面からコブのように出た木の根に当たって動きを止める。

「弱……過ぎ……」

 抜き身の野太刀を肩に、ジレルが戦ったことに恥ずかしくなったように俯く。

 後ろで、熟睡するマジュスを抱きかかえた困惑顔のディアナの周りには、苦悶の表情で落ち葉に混ざるように倒れる12人の男達。

 全員軽鎧姿に長剣だがお揃いといわけではなく、だからといってただ盗賊にしては妙に統一感がある。腕前も動きも、明らかに訓練された物だった。

「この方達が……野盗ですか? わたしが言っていた追っ手はこんなに無作法ではありません」

 不思議がるが、木々の間から飛び出し、問答無用の雄叫びで斬りかかって来た男達からは、物取りなどではなく明確なディアナに対しての殺意が感じられた。

 ディアナが、文箱と一緒にマジュスをギュッと抱きしめる。

 もしここにヘンルータかアネットが居て、闇に紛れるよう装備の一つでも黒く塗り替えれば、自分達を襲った一団だとすぐ気付いたかも知れない。

 いや、その襲撃を知らないはずのディアナも、どこかで見た何か浮かび上がりそうな感覚に脳裏を気味悪くくすぐられる。

「あ……ちなみに弱過ぎというのは、そこにガタガタ隠れてる二人への挑発も含めてだから、まだディアナさんは移動しないでね」

 ディアナの困惑をどうとったのかジレルがディアナの斜め後ろに回り、二つの大木を一度に見据える。

 不思議そうにな面もちで、ディアナが追うように振り返る。

「……………っ…」

「…………………」

 苦笑じみた息づかいが微かに響き、大木の陰からもったいぶるように一人の男が姿を現す。

 隣の大木の後ろからも、もう一人。

 どちらも鎧に大盾に剣と同じ様な装備をしているが、一人は骨格にぴっちり張り付くような皮膚と神経質そうな鋭角な目つきの男で、もう一人の男は鎧の下にもう一つの筋肉の鎧を身につけたようなガッシリとした体つきをしている。歳の方は、少し老けて見えそうな表情を差し引くと、二十代中盤と二十代前半と言ったところだろう。仲間がやられたからか、居場所をあっさり気付かれたからか、どちらも不敵な笑みを浮かべつつも、口元はおもしろくなさそうな曲線を描いている。

 筋肉男が手下に一瞥くれると、軽蔑したように言葉を吐く。

「これだけ揃って攪乱もできんとは」

「本当に弱い虫共だ」

「ヤラレ面だな……」

 ジレルがカッコ付け損したようにダレると、目の前の相手から平然と視線を外す。

 皮膚張り男が鼻で笑うように静かに言う。

「聞いていた腕のたつ魔術士の護衛と全く違うが……」

「ここはもっと派手なヤラレ面が出るトコだろ」

「まぁいいさ、仕事に変更はない」

 ジレルのだらだら挟む愚痴に目も揺らさず、筋肉男も相手の言葉に乗ったら負けとばかりにそれに倣う。

「カージスさん、ドルグさん」

 と、二人が現れてから丸く濃い瞳を巡らせていたディアナが、力が抜けたような声で名前を呼ぶ。

「あの~、これはどういうおつもりでしょうか。わたしと知って……、これは襲ったんですよね。この方達は貴方達の配下の者ですよね」

 鎧をケルベナ騎士隊の物とは変えてあるためすぐには気づけなかったが、ケルベナ王国騎士分隊長のカージスとドルクが現れたことで、ケルべナから大使の付き添いとして参じた、彼ら騎士隊の14人の挨拶を聞いた時の映像をハッキリと思い出す。

 ドルグがディアナの安堵にすら見える表情を馬鹿馬鹿しそうに笑い、斬るぞとばかりに剣を握り直し踏み出す。

 だが、カージスはそれに合わせて動く様子が無く、籠手をした指で耳の穴を軽くほじる。

「はあああぁぁ……、うぜっ」

 文句を言うように顔を向けたドルグの視線を拒絶するように、粘っこくも気の抜けた息まで吐く。

「いや失礼。誰とまでは申せかねますが、ケルベナとレウパが仲良しになると、とてもとてもおもしろくない方がいましてな」

「おもしろくない、とは何方でしょうか? ケルベナとレウパが国交を回復しようとしている今、ケルベナの騎士であるならば、その方をおいさめし、場合によっては捕らえるのが騎士の務めなのでは」

「代々の仕えた騎士ならそうかもしれませんが、我らは今でこそ騎士に取り立てられましたが元は傭兵でして。それも部隊編成の面目上名前だけいただいたような物です。待遇は傭兵時代と対して代わっておりません。つまり武功が無くては我が地位は安泰が成らず、武功の為には争いが無くては困る。王族にはわかりませんでしょうが、金と仕事は大切ということです」

「そもそも今回の件が無ければ、東のファシィ公国、シャクカル連諸国、ロゼランカ王国へと荒れ地ぞいに南東までウザイだけの小国をすりつぶす計画も上がっていたのですが……」

「お金と仕事が大切なら、それ以上を払い我が王国で雇います」

 一言ずつわざとらしく疲れていく声に、戸惑い顔ながらもディアナがハッキリ言う。

 奇妙な間。の後。ドルグが口を薄く伸ばして笑い、カージスが口が裂けるような笑みで歯並びを見せつける。

「ケルベナ王国の騎士ですからな、他国につくような裏切りは出来ません。なにより、戦争になれば間違いなくケルベナが勝ちます」

「それに言葉が足りなかったようですが、私は仕事と金が欲しいというより、人を斬る仕事、戦いの報酬としての金を得たい。貴女が無事では金は入っても戦えませぬ」

「つまりその困るお方はケルベナ王国の者で、お前らに命令できる立場にある者なのか?」

 困惑顔ながらもディアナが手をポンと打ちそうなほど納得した瞬間、ジレルが入れ替わるように視線を二人に戻す。

「さて……」

「……どう言ったものだか」

 カージスが得意げに眉を寄せ、ドルグが悠然と空を見る。

 しばしするとやれやれと二人同時に自嘲して顔をしかめる。少し考えれば思いつかない方がおかしい質問なのだが、今の反応では素人演技にしても肯定過ぎる。

 二人の言葉をそのまま受け取ったのか、ディアナだけ誰の命令なのだろうと困惑したように表情を変える。

「て言うか、お前ら騎士なのに馬どうした?」

 が、ジレルにとってはそんな間や返答はどうでもよかったらしい。

 ただ単に騎士という部分を疑い、それどころか嘘だろと見下すように質問を重ねる。

 ドルグが言葉よりその態度に顔をしかめ、カージスも噛んだ歯の隙間から毒素が混ざっていそうな息を吐く。

 馬は湿地に足を取られては却って面倒なので、事情を知らない従兵に任せ樹海の前で置いてきた。騎士だからと場を無視して馬に拘るのは愚の骨頂。考えればわかることだ。

「半鎧って半人前の騎士って意味か?」

 その質問もどうでもよかったらしい。

 二人が返答する前にジレルがまた質問を変える。

 別に騎士だからと言って常に全身鎧などということは無い。それに呪力も持たない全身鎧でここまで歩いて来たらそれだけでバテて戦うなど不可能。これも考えるまでもないことだ。

「そういうお前はナイト様のつもりではないのか?」

「いや~、わたしは一介の世界最強の剣士だから、騎士様なんて大層なモンじゃ」

 馬も鎧もなく姫を護るジレルへ、逆手を取ったように鬱憤を返すが、ジレルは照れっと頬に手を添える。

 傭兵、剣士、騎士。どれを言われても返せる言葉を用意していたドルグが、世界最強と冠をつけられたことで用意していた言葉を全て向こうにされ、怒るでなく、ただ……面倒な奴、と辟易したように顔ごと視線を逸らす。

 ブオンッ……

 その場の空気が白けた瞬間、

「死ねっ!」

 ゴッ、ジャッ、……ガガジャンッ

「……お、おいっ、カージスっ」

 まるでわざと連携するタイミングを外したようにカージスがジレルに短剣を投げて斬りかかり、出遅れたドルグも慌てながら盾の裏に隠していた手斧をジレルに投げ斬りかかる。

 ジレルは全く焦ることなく野太刀で短剣と手斧を打ち落とし、魔術で瞬間的に速度を上げた足音を聞き流すようにそのままの一閃で二つの剣も打ち払う。

 カージスとドルグは右利きと左利きのせいかそのまま左右に分かれ、カージスはジレルに、ドルグはディアナへ、と見せて左右から挟むようにジレルに斬りかかる。だがこれもジレルの一振りでカージスは大盾ごと跳ね飛ばされ、返す太刀から放たれた地を走り飛ぶ剣撃に弾かれドルグも大盾を構えて飛び下がる。二人の肩当てと肩当てが五月蠅くブツかり、互いにウッと顔をしかめる。カージスとドルグ、左右に分かれて襲ったはずの二人が、気付けば最初よりも寄り添い並び立っている。

「チッ……、うぜぇぇぇ小娘が」

 スカした表情は捨て去り、カージスが怒りも露わに吐く。

 ドルグがそれを横目で睨み、押しやるようにズイと半歩踏み出す。

「ディアナはお前が殺せ、手柄は任せた」

「ディアナはお前が殺れ、手柄は任せる」

 肩と肩が金属音を響かせ、両者の顔の筋肉が怒りがそこに溜まったように膨れ上がる。

「カージスっ!」

「うるせえっ」

 作戦では、二人同時に短剣と手斧を投げ、相手の反応に合わせ一方が護衛を狙い、その隙に一方がディアナを殺すはずだった。

 ここに現れた目的、命ぜられた使命は──ディアナ姫の殺害。

 だが牽制で放った短剣と手斧に続く最初の攻撃は同時ではなかったため易々と弾かれ、続くカージスの一撃は放つ間もなくジレルに返され、ディアナを狙うと見せてジレルに斬りかかったドルグも盾を堅く握りしめ下がらざるおえなかった。

 カージスがトカゲのように目をギョロリと向け、笑みを鋭くする。

「いーじゃねぇかよ。腹立たしいくらい下んねぇ仕事だ。あんなヤツにも協力しなければならない。ちっとは憂さ晴らしになる方を俺に斬らせろ」

「右利きの長物相手なら俺の方が得意だ。仕事だぞ、遊ぶな、俺に殺らせろ」

「ああっ! お前こそ、ソイツを独り占めしてなぶりたいだけだろがっ」

 憤然としつつもどっしりと構えていたドルグが、忌々しそうに言葉につまる。

 独り占めして切り刻みたいかと言えば、確かに「そうだ」としか言えない。

 どちらも戦いでのし上がってきた来た身。先にカージスが言ったように、報酬以上に、戦い。手下達があっさりやられた時から、ジレルに視線を向ける度に、心の奥で自分が殺す獲物だとうずうずしてしまう。

 分かっていたことだが、カージスが合図を無視して姫と長話しなど始めたのも、自分を出し抜きこの女と一対一で戦う機会を狙っていたのだろう。そしてそのカージスの意図がハッキリ解ってくると、もうジレルをカージスに任せ自分がディアナを殺すという考えは、思いつきはしても実行できる気分ではない。

「なーにっが世界最強だっ……。こういう馬鹿自信過剰タイプはただ殺せばいいってもんじゃない。手足を落とし、そいつの前で型がなくなるまで切り刻み、自分がどうなるか解った後に、薪を割るように頭から真っ二つにしてやらなきゃ楽しくねぇんだ」 

 カージスが、舌なめずり代わりにカチリと歯を噛み合わせ剣を薄く黄色に染める。ドルグも、言葉には同意しかねるが、気合いには同意するように顔を鼻に寄せて小さく笑い、唇を鳴らし剣を薄茜に光らせる。元々そういう能力か付与したのか、鎧と盾の光沢も僅かに変化している。

「わかった。こうなったら早い者が勝ちだ」

「あー……ケッ、仕方ね。先に一太刀浴びせた方が総取りなっ」

 言うが早いか互いを斬りかねない勢いで肩と大盾をブツけ合い、こんな状況でも余裕なのかまた余所見をしているジレルに怒声と共に二人が飛びかかる。

 ガッ、ギンッ、ガチッ、ザンッ、ガシュ、ガッ、ザグッ……

 だが……。剣と太刀、太刀と盾、重い音が打ち合うなかに浅く肉を斬る音が混じり、すぐにカージスとドルグが驚愕して跳び下がる。映像が膨れ上がるようにジレルの笑みが迫り、長く重い肉厚の刃をカージスとドルグが共に大盾で受け止める。

「くっ……」

「ごふっ……」

 カージスとドルグが、脂汗を飛び散らすような顔で必死に耐える。

 二人だというのに、転がり来る大岩に激突したようにあっさりと押される。

 ガッ、ジャッ

「かっ……」

「ぐぁっ……」

 息が上がる。自分達だけが傷を負い、相手はかすり傷一つ無い。

 受ける攻撃に手応えはあるのに、自分の放つ攻撃に手応えはない。

 これまで何年も何百も戦い数度しか経験しなかったことだ。

「なんだこのカスアマがっ」

「馬鹿力女がっ」

 だが、二人の顔に追いつめられた色はない。

 これは過去にも経験したことだ。初めてではない。

 一人では適わないという信じたくない認識に苦しげに吐きつつも、二人の顔にはこれまでにない笑みが滲む。

 相手の強さを見誤った勘違いの余裕の笑みから、相手の強さを理解したからこその笑み。

 これまでの戦いの経験が、一人で戦いたいという感情を押しのけ、二人で戦えという理性の命令を優先して伝え、瞬時に剣と盾の握り方も踏み込む立ち姿まで全てが切り替わる。

 思えば、自分達が傭兵の中から選抜して騎士に取り立てた12人の部下達が、誰一人手傷を与えることもなく一撃で倒されたのだ。あまりのふがいなさにジレルの強さより手下の弱さと痛感してしまったが、欲をかかず最初からこうすべきだった。

 全く打ち合わせした様子もなければ二人の言葉さえ止まったのに、突然上と下、右と左、と単に二ヶ所ではなく、二人同時に離れた二点の隙をつくように剣が振られる。

「くっ……」

 そのまま、二度、三度、と野太刀が切り返し、ジレルの顔色もわずかに変化する。

 練習にもならない。というのが二人を見たときの内心の印象だった。

 練習にはならない。というのが二人と斬り結んだ時の感想だった。

 それが、以前と変わらないようでいて、ただ二人バラバラではなく、二人一対の息を合わせた攻撃になるだけで全然別物。

 そして何よりもその防御。右利きと左利きが持つ大盾が、時には別れ、時には一つに互いの大盾で庇い合う。野太刀という長物の隙を一方が作っては、一方が潜り込む。

 元から二人組なわけではなく完全には隙はなくせていないのだが、見え隠れする僅かな隙も二つの大盾の前にはどう打ち込んでも相手の体まで刃が届くことなく、それ以上斬り込もうとするとこちらの方が相手の剣先に飛び込んでしまう。

 これを破るとなると、

  早く動いて相手の僅かな隙を斬り伏せる

  技で翻弄して相手に隙を増やす

  力で防御ごと吹き飛ばす

 この三つだが、無理をしてこれ以上早く動けばバランスを崩し格好の隙を作りかねない。翻弄し多少の隙を増やしても結局一人ならともかく二人では野太刀が返る前に一方がフォローに入る。力任せにしてもこの二人と戦いながらこれ以上強く打ち込むのも無理というもの。

 考えで無駄に力が入ったジレルが斬り込み損ね、野太刀を大きく弾かれ、慌てて刃先を返し気を引き締め直す。

 だが、カージスもドルグも、ジレルの攻撃を完封しているももの顔に余裕は浮かばない。

 身長ほどもある野太刀による力任せの攻撃に見えるのだが、受けてみるとどちらかといえば技巧派。時には野太刀を片手ですら振るうパワーで、絶妙の角度とタイミングで正確な攻撃が飛んでくる。

 こうなると戦いと言うより、剣を振るう作業を誰が最初にミスをするか、誰が最初に作業に疲れ気を抜くか待ち、と表現した方がいいような状態なる。

 伯仲した真剣勝負では珍しくもない状況なのだが、そんな戦いの終止符は三人とも好みではないらしく、不満の色となって三人の顔に濃く浮き出はじめる。

「………………ふぁぃ」

 と、ディアナにぬいぐるみのように抱きかかえらたまま眠っていたマジュスが、まあるい瞳を顔からこぼしそうなほど開いて目を覚ます。

 状況は全く解っていないようだが、表情から先程のダメージは本当に何もないようだ。

「そいつ下ろして!」

 ジレルが叫び、ディアナがわけが解らないまま戦いの場から数歩下がるとマジュスを地面に下ろす。同時に、ジレルが跳んで下がりマジュスをひったくるように左手で持ち上げる。

 隙だらけの背中にカージスとドルグがここぞとばかりに斬りかかる。

 トトン……

 ザギャッ

 剣で斬りつけたにしては異様に軽い音。続く大盾を持ち手から引き千切りそうな斬撃。

 空間が弾き壊されたような音を立て、足元に四本の線を引いて下がったカージスとドルグが、一瞬思考を奪われかけた光景に改めて目を剥く。

 見間違いでなければ、ジレルは二本の剣をマジュスの体を盾に受け止めていた。

 ディアナがジレルの左手にぶら下げられたマジュスに手を伸ばしながら、わたわたと近づく。ジレルはそれを避けるようにマジュスを盾に突っ込み、カージスとドルグが気圧されるように下がりながら切り返し、黒い小さな体に剣が受け止められる度に益々表情をおかしくする。

 味方を盾に……。いや、それ以前に無茶だ。

 この戦い確かに盾のある無しの差が大きく出ているが、いくら小さいとはいえ人間の子供を盾代わりに片手で振り回すなどあまりにも馬鹿げてる。

 瞬きを忘れたように、カージスとドルグが力任せに剣を打ち付ける。

 ジレルは何の苦もなく、仔猫のように持ち上げたマジュスの体で二人の剣を受け止める。

 それどころが、わずかなズレをマジュス自身が動いて修正している。

 ただ死にたくないだけかもしれないが、見事な連携と言っていい。

 だが、子供が自分達の剣を受けて生きているわけがない。

 ジレルというより、盾になっているマジュスを狙って大振りに剣を二人が叩き付ける。

 しかし、マジュスの体に受け止められた剣からは固めのクッションに棒を叩き付けたような感触が伝わるだけで、いくら斬りつけようと傷一つ出来ない。

 どうやら魔法製の外套マントでただの剣の攻撃程度では切れない代物のようだ。しかし、それでも通常なら剣の衝撃が伝わり、子供どころか大人の骨でも砕いてしまう。それを、マジュスが外套と肌の隙間に微弱ながらも何層もの結界を作ることで衝撃を和らげているらしい。

 カージスとドルグがそのまま20合ほど斬りつけるが、やはりジレルのブン回すマジュスの黒外套にくるまれた体に空しいほど止められる。

 マジュスが何か抗議するように口を開けるが、叫びすら出ないところを見ると言葉を発する余裕はないらしい。

 と、カージスとドルグ、完全ではなかった二人が困惑という感情で息が合い、左右対称に身構え同時に止まってしまった瞬間、ジレルが叫ぶと二つの大盾の間にマジュスを叩き付け無理矢理押し込み手を放す。

「とってこぉぉぉいっ!」

 ガシグイ……

 と、掛け声をそう理解してか混乱してか単にジレルから逃れたかったのか、マジユスがカージスの盾を持つ左腕に自分の腕を、ドルグの盾を持つ右腕に足を絡める。

 だが、それがなんだと。ちょっとは重くなったが、盾を構えるだけなら子供に腕に絡まれたぐらいどうということは無い。マジュス自身には刃のような攻撃力もなく、カージスとドルグの体まではこれでは拳も蹴りも届かない。むしろ、相手の奇妙な盾を奪い取れたと言っていい。

 カージスとドルグは、跳び下がるとここぞとばかりに黒い外套に隠れていないマジュスの顔目掛けて剣を突き出す。

 ……ゴシッ……

 それが狙いだった、とは思えないのだが、意外な程あっさりマジュスが顔をすくめるように二つの剣先を避けた瞬間。ドルグの顔面に投げられた文箱が激突し、その箱から飛び出た幾つもの手紙がカージスの目を覆うようにかすめる。

 マジュスが盾の向こうに押し込まれたのを見たディアナが思わず投げつけたらしいのだが、ジレルとマジュスに気を取れられるあまりそんなことにも気づけなかった。

 カージスとドルグがしかめ顔で、仕切り直すようもう一歩後ろに跳び下がる。

 そして、その両足が地面に着く前に、青ざめるようにジレルの本当の狙いを理解する。

 カージスとドルグに合わせるように同じく後ろに距離をとったジレルの全身が、ほのかに光っている。その光が腕に集まり、長く肉厚の野太刀の刃そのものがうっすらと光を放つ。

 ジレルが振りかぶった光る刃を、カージスとドルグ目掛けて大きく振り抜く。

「………………っ!」

 その叫びは誰のものだったのか……。

 ほとばしる力の光彩で目に見えるほどになった剣の衝撃が、ガージスとドルグの大盾を砕き二人の体、背後から二人を殴ろうとしていた黒い巨体、その向こうに生える数十本の大木をも根元から吹き飛ばす。

 大技を放つための距離と溜と気付いた時には、間合いを詰め直すことも、マジュスに絡まれ左右に分かれることも出来ず、ただ受け止めるしか無かった。

 森から空へ吠える斬音が消え、雨が降るように葉と手紙がボタボタと落ちてくる。

「……マジュスちゃんは」

 呆然とするディアナの先には、果ての空まで見えるような空間が樹海の中にポッカリと続いている。

「竜閃……二の太刀、三の太刀、四の太刀」

 一撃と見えて三回太刀を振るっていたらしく息を整えるようにジレルは言うと、木漏れ日に長い髪を揺らしニッと勝利の笑みを浮かべた。



 太陽の方角には、なだらかに地平まで続く道とうねり広がる葉の少な目な草原。

 その手前には、樹海の南はここまでと知らしめるように壁でつながる塔の連なり。

「二千百九十九、二千二百……二千二百一、二千二百二、二千二百三……」

 その人工物の中心に位置するような二つの高い塔の一方で、大空を見るように腹筋をしていた男が、体勢を切り替えると息切れをした声のまま腕立てを続ける。

 階下で幾つかのレバーの調子を見ていた数人の兵士達の一人が、いつまで続けるのだろうと階段を上がってそろりそろりと覗き、手足の長さに対して太すぎるような筋肉を伝う汗が見えた途端、何者かに腕を捕まれ潜めた声で注意される。

”見てまた悲鳴上げてドヤされるぞ”

”悲鳴なんて上げませんよ。ただあれから大隊長の筋トレ増えすぎじゃないかなーて”

”それな。実はガロワ城から連絡があって”

”はへぇぁぁぁー、何ですかそりゃ無責……”

「ヤッヘ、トルシェ。鍵の調子は直ったか」

「はい完璧です」

「可動良好です」

 天井扉の向こうから響いた力強い声に、大柄な兵士とその腕をつかんだ中年がかった兵士が、跳び上がるような声で応えてそのまま階段下へ着地する。

 痛そうな足音を聞きながら、筋肉を解放するように男が立ち上がり樹海の緑を眺める。

 汗ばむ体にも突如強すぎる風が吹き、遠く樹海の彼方では、巨大な生物が蠢いたように濃い色の葉が太陽の光をさざめき返す。

「ヒッ、ひぃぅぅぅぅぅぅぅ……」

 男は何かを押しとどめるように全身の筋肉に力を入れると、必死で回数を思い出し、今度はスクワットをはじめた。



「な……何をやってるんですか! マジュスちゃん吹き飛びましたよ」

「やーだなー。大丈夫大丈夫。さっきわたしに殴られて平気だったろ。主線上からも外してるから大丈夫」

「そう……なんですか」

 悪びれず自信を持って言うジレルに、ディアナが納得と困惑が混ざった表情を向ける。

 と、十数メートル先の倒れ落ちた木々の間からカージスとドルグが立ち上がり、キッとこちらを睨んでから森の中へ駆け込みそのまま姿を消す。

「あれ~」

 ジレルが残念そうに言い、二人が立ち上がった倒木の辺りへ歩くと、ガッカリとした溜息をつく。

 半分になった盾が四つ落ちているところを見ると、確かに盾までは粉砕出来たらしい。だが、こちらが攻撃力上昇系の剣術と魔術を合成して使ったように、相手も防御系の術か何かを使い、更にはジレルのようにマジュスを盾として使ったらしく、倒すまでには至らなかったようだ。

 そもそも木々も派手に遠くまで吹き飛んでいるように見えたが、その方向に少し行くとすぐ崖になっており、大した威力と言えば威力だが、見た目と自分が思っているほどの破壊力ではなかったようだ。

「気のせいだったかな……」

 ジレルが悔しがりつつも、何かしら奇妙そうに目を細める。

「マジュスちゃんは?」

 ディアナが同じくその辺りにマジュスが倒れて居ないかと木の葉を除けつつ見回る。

 だが、一通り見回した限りでは、マジュスも纏う黒外套も全く見当たらない。

「ミアシャムさん」

 契約精霊なら居場所は分かるのではと振り返るが、その姿もどこにも無い。

 なんとなくクマの方も見るが、丁度射線上に倒れていたはずなのにこちらも姿がない。

 と、ジレルが崖下向こうの樹海の空を指さす。

「黒いのが向こうに落ちるのだけは見えた」

 こういう場合でも人によっては清々しいと誉めてしまう良い笑顔だ。だが、ディアナはそういうタイプではないのか即座に崖の縁まで行くと、数メートル下に広がる、でこぼこと緑色の煙が固まったような分厚い樹海の蓋を見下ろす。

「………………大丈夫ですよね」

「残念ながら」

 それも見えていたのか、ジレルが悔しそうに眉間にシワを寄せる。

 ディアナは困惑したように崖の左右に目を走らせると、道が分かったように小さく拳を握り、元来た方向へと小走りするような速度で崖沿いを歩き始める。

「あの~……、どちらへ?」

「ジレルさんにはマジュスちゃんに謝ってもらいます」

 すごく嫌そうな苦笑いを浮かべながらも、ジレルは素直にその横へと並んだ。



 少しだけ枝という支えの存在を見せるように隙間を作りつつ広がる緑の葉の雲。

 その中の不思議と蔦が網のように絡まる窪みに、黒帽子と黒外套にくるまれた小さな塊と、黒い毛皮で包まれた大きな塊が重なり合って宙に浮かぶ。

 クマは周りを見回し、地面を見、高さを認識するとお尻の下に敷いているマジュスを揺らすように少しだけ小さくなって震えた。



 樹海の朽ちた木やコケの生えた岩を乗り越えつつ、ディアナが思い出したように不意に口にする。

「さきほどクマは樹海の化け物ではありませんから」

「解ってる」

 いつの間にか先を歩いているジレルが、ポージングで陽を受けていた目障りな大トカゲをの足首をつかんで遠くに投げ当然のように言い、ズズンという音を遠くにディアナが怪訝な表情になる。

「知っているんですか」

「殴った手応え。あれじゃ、馬車を一撃でなんて噂にはならんだろ」

 それに、大きさからすると肉を主食としてもよさそうだが、ジレルの記憶が正しければあの図体で植物を主に食べてる比較的大人しい種類のクマのはずだ。

 ディアナがそういう物なのかと、かしこまるように素直に感心する。

「そう言えばあの倒れた方達は……」

「死んではいないが、高位の治療師でもいない限り数日はまとも動けないはず」

 ジレルとしては殺さなかったというより、ただの一撃で死ぬほどは弱くなく、確実に仕留める必要があるほど強くなかっただけなのだが、ディアナが少しホッとしたように頷く。

 ジレルはその様子をまたもどこか納得したような感心したような面もちで盗み見み、ふと、ディアナの視線が左手で胸に抱えるように持つ文箱に度々落ちていることに気付く。

 手紙の文箱は、崖沿いを走りはじめてすぐに思いだして引き返して拾ったものだ。撒き散った手紙はジレルが手伝い全て集めたはずなのだが、文箱を投げる前は手応えを確認するように持ち直すことはあっても、こんなに何度も視線を向けることは無かった。

「汚れちゃったのは済まなかった」

 ジレルが、流石に悪びれたように言う。

 文箱だけならまだしも撒き散った手紙は、折れ曲がったり葉の汁がついたりで、拾い集めた時にはかなり汚れていた。

 その時も謝罪はしたのだが、ディアナが早足で動き回って手紙が集まるなりすぐにまた崖に沿って走り出したため、ハッキリとは言ってなかった。

「はい?」

 だが、ディアナはさも不思議そうに顔を向ける。

「いや、だから大事な手紙汚してしまってぇ……」

「そうですね。きっと王子様もよくやったと誉めてくれますよ。男の方って、傷とか記念品にするみたいですし」

 言うなり、ディアナが何か妄想でもしたように照れた丸い笑みを浮かべる。

 それなら先ほどの視線はと疑問に思いかけたジレルが、突然ピタと立ち止まる。

 ディアナも何も言われないままピョンと木陰に跳んで、文箱を抱きかかえる。

 案内はともかく護衛に関しては、先程の戦闘も手伝いジレルへの信頼度は結構上がっているようだ。

 それにジレルはジレルで、先程の戦闘まで奇妙に周囲を気にしていた焦りが今では何故だかすっかり消えている。

「道だ……」

 あまり戦闘とは関係なさそうな言葉を聞き、ディアナが表情に迷ったように顔を上げ木々の向こうを覗くように見つめる。

 元々湿地を迂回するように斜めに進んでいたためそれほど奥には入っていなかったのだが、崖を回り道で降りるさいに方向を見失い、どうやら樹海を北から東南に抜ける街道まで戻ってきてしまったらしい。

 そういえば、どことなくこちらの方向が白く明るく見えていた。

 これでは、マジュスを迎えに行くつもりが、却って落ちた方向から離れてしまったかもしれない。とは言え、自分が樹海のどこへ居るかも分からず、辺りに誰か別の気配はないかと探りつつ、位置を知る手がかりを求め街道へと出てみる。

「………………」

 密集した木々が洞穴をかたどったような、馬車も走りやすそうな見通しの良い一本道。

 目印になるような物も何も見えない。

 流石に追っ手とバッタリ合うこともないようだが、街道に出たぐらいでは結局自分の位置はわからない。

「マジュスちゃんが落ちたのは向こうでしょうか?」

 ディアナがなんとなく思った方向に手を向ける。

 と、その少し斜め先。

 街道のド真ん中に一人の男の姿。

 先程見回した時には誰も居なかったはずだ。一体いつそこまで近づいたのか。

 男は、背が高く細身に筋肉が詰まったような体格だが、茶色い髪は揃えようという気が無いようなボサボサで無精髭も見え、服も鎧も剣も野ざらしにしていたように痛みと傷が激しい。

 二人に気付くと、汗ばんで垂れた前髪の隙間からギロリと傷のある顔で睨み、腰の剣に手を掛け野盗のごとく数歩間を詰める。だが、息を飲むディアナを庇うようにジレルが半歩動くと、身構えつつも何かにブツかったように立ち止まる。

「お前達、カドリアから来た者か?」

 男がこちらを殺さんばかりにスゴ味の利いた声で問う。ただ、声質は根本的な野太さに欠け、汚れた服も鎧も、近くで見ると意外なほどキッチリと整えている。野盗というより、旅の傭兵崩れといったところだろうか。顔も汚れと日焼けで分かりづらいが、歳もせいぜい十代後半だ。

「そうなるかな、カドリアの前で引き返して来た者だが」

「引き返した? 何かあったのかっ」

 声を重く強くするが、ジレルの不貞不貞しいほど落ち着いた表情を見ると、我を思いだしたように少し視線をそらしボソリと続ける。

「……いや、ちょっとキナ臭い噂を聞いてな」

「ハチネロワインに婚約祭りと目出度続きのあの都にか?」

「ならば、カージスとドルグという男の話しは聞かないか?」

「知らん」

 にべもない。

 男が見下されたようにムッと唇を噛み、口の中で焦るように悪態を付いて気を落ち着ける。

「そうか、そいつらは傭兵上がりの騎士なんだが、今度ヤバイことを起こすと誘われていてな」

「ヤバイとは、何をなさるのですか?」

 ディアナがおずおずと尋ねる。視線をギロと向け返した傭兵男がピタと止まり、瞬きを二度。それからただ困った顔になると、威嚇する構えも忘れてジロジロと無作法にディアナを上から下まで見回す。

「貴族か?」

「称号だけのな」

「ああ……」

 傭兵男が今更考えるように小さく何度も自分に頷く。

 爵位があっても爵位だけではお金など入らない。税を取り立てる土地も持たねば、国の管職でも無く、平民に混じって商売で生計を立てている称号だけの商人貴族も見て分からぬだけで探してみれば少なくない。逆に、儲けた金で爵位を買い、更には官職を目指す元は平民商人の貴族も居る。

「はぁ……。それもそうだな。こんな所に居るわけないしそうだよな」

 また、何か考えるような……何かを諦めるような溜息。

 そして、もう一度だけ深く息を吐いて少しスッキリ顔をディアナに向け胸を張る。

「よし、俺が護衛してやろう」

 ディアナが少しだけ小首を傾げる。

 傭兵男は当然と胸を張りポーズも決める。

「実はケルベナの王子とレウパの姫の縁談を邪魔し、ケルベナとレウパの戦争に持ち込もうとする動きがあるらしいんだ。ま、元々国境の小競り合いだけじゃ飽きたらず遂に東から南西へ遠征する計画かあったんだが、国内事情で中止。そのまま長年放置してた北のレウパと平和な話しになって、意気込んだ力を燻らせているヤツも多くってな」

「知ってる。わたしもそれで付くならレウパだと思ってこっちに来てたんだが、護衛の仕事が入ってな」

「な、なるほど……、勝つのはケルべナだろうからな」

 話しの腰を折るジレルの言葉に傭兵男が言いよどむ。落ち着かない表情でなんとか鼻で笑うと、あえて逆の国名を勝利者として上げる。

「それで俺も便乗しようと思ったんだが、今更マジメに手を貸すのも馬鹿臭い。ここは美人のお嬢様の護衛をするというのが潔いってもんだろ」

「力量不足だ」

 ジレルが露骨に面倒そうな顔で、声の方はあっさりと言い切る。

 傭兵男が潔くない顔でジロと睨む。

 ディアナが後ろで小さく口を開き、ジレルがそれを止めるように後ろに振り返る。

 と、傭兵男の顔が醜悪に染まり、隙を逃さず剣へ手を伸ばす。だが、右手には馴染んだ柄の手応えが感じられず、気付けば間を詰めていたジレルが、手にしていた長剣を下から上に振り上げる。

 ペッチーン

 傭兵男の太股の辺りで変な音が響き、傭兵男がそのまま回転して少しだけ宙に浮く。

 斬られたという驚き、そうではないという違和感、強くはないが太股に張り付くような不可解な痛み。それらの入り交じった混乱が終わり、ジレルが右手に持つ剣が自分の長剣であると自覚し、腰へと手を伸ばす。だがそこには馴染んだ柄の感触が無いだけでなく、鞘の感触すらない。

 ドベダッ

 地面に張り付く背中の感覚と共に恥ずかしさで震える四肢を固く力を入れて押さえ、自分に向けられたジレルの左手の先を見る。見覚えにある鞘を見付け、力が抜けて行く手足を地面に触れさせる。

 どうやら、脅しに一撃見せようと踏み込んだ瞬間ジレルに先に自分の剣を抜かれたうえ斬りつけられ、しかもそれに動きを止めた瞬間に次は鞘を奪われ、その鞘で足を弾いて空中に跳ね上げると、背中から落ちるようにひっくり返されてしまったらしい。

 ジレルが、剣を鞘に仕舞うとポイと男の傍らに投げる。

「……貴様ッ」

 傭兵男が長剣を拾って立ち上がるが、言葉が止まる。

 不意打ちとは卑怯、と言いたかったが、盗賊や化け物がこれから襲うと一報してから打ち掛かって来るわけもなく、しかも今は自身が半分不意打ちで仕掛けたものだ。

 倒されるだけならともかく、曲芸道具のように扱われたことに傭兵男の顔がピクピク震える。

 ──柄を握ってからなら、流石に奪われないか……。

「こんなところにおいででしたか」

 と、傭兵男が更なる醜態を晒しかけた瞬間、後ろから声が響く。

 振り返ると、堅苦しそうなピッシリとした衣服を纏った細身長身にして爽やかイケメン顔の中年男が、生真面目な歩調で近づいてくる。

 男が傭兵男に耳打ち。傭兵男の顔が露骨に嫌そうに歪む。

「国王がって時に第一王子が……。リィンハルトのヤツどこまで俺をコキ使うんだ」

 言ってからしまったと口をすぼめ、ディアナとジレルを見ると悔しそうに顔を背ける。

「急ぎ帰るぞ」

「はい」

 二人は、その言葉を追い越そうとでもするようにジレルとディアナの横を足早に擦り抜ける。

 ジレルとディアナも拒絶するその雰囲気に合わせて距離を取るように少し歩き、ディアナがジレルにそっと囁くように顔を近づける。

「手荒すぎませんか?」

「弱っちいから手荒にしないようにしたんだけど……。いや、気を抜きすぎてるからですよ。マジメにやれば、さっきの二人と……一人づつ戦えば……勝てる……日もあるかも」

 ディアナの表情にジレルが途中で言葉を変える。が、ディアナはすでにそれとは別のことが気に掛かるような顔でそっと振り返る。

 二人の言葉から察するに、ケルベナの者であることは確かだ。

 それに、リィンハルトと言えばディアナの婚約予定の第二王子の名。

 だが、ディアナは声をかける事もなくほけっと動きを止める。

 別れてほんの数秒しか立っていないのに、傭兵男と中年男の姿がどこにも無い。

 殆ど直線の路だ、現れた時と同様に姿が見通せないはずはないというのに。

「帰るのに、戻らないでわたし達の来た方向へ通り過ぎましたよね」

 ディアナがポツリと言い、ジレルが面倒そうな顔になる。

「気付いたか……」

「これはあの人達も樹海の中を通って現れ、樹海の中へ戻ったということですか。すれ違ったのは、わたし達に樹海に入るところを見られないように後ろへ回っただけ。つまりこれは……」

「ケルベナ行きは諦める?」

 あの男の言葉を考えればケルベナに関係する者で、騒ぎが起ころうとしている事は確かだ。事実、ディアナはあの男の言うケルベナの騎士に命を狙われ済みだ。

「いいえ、もちろん王子様の元へ向かいます」

 ジレルか解っていたように笑い、仕方なさそうにおそらく二人の男が消えた辺りの樹海へと先導するように歩き出す。

 キュッ

 だが、そのジレルの腕をディアナが何故かしっかりつかんで引き留め、一言釘を刺す。

「その前にマジュスちゃんを見付けてジレルさんには謝ってもらいます」

「………………」



「そっちです」

「お任せくまっ」

「左左」

「違ったくまっ」

「右ぃぃぃー」

「くまままままままままままままままっ」

 巨木の群に絡まるような細い木々と蔦の間を、黒帽子黒外套の子供とクマが駆け抜ける。

 クマが足元の泥を跳ねさせてジャンプし、空中をヒラリと舞う一枚の手紙に手を伸ばす。

 穏やかな風が吹き、手紙が回転するとうねるような軌道でクマの手から遠ざかり、落ちると見せては再び吹いた風に高く舞い上がる。

「くままぁんっ」

「分かりました」

 マジュスが泥の上を滑るように走って手紙を追い越すと、手を下に組んで構えるように振り返って止まり、そこへクマが勢い込んで走り込む。

 クマがマジュスの組んだ手に片足をかけ、木漏れ日の中に静止したような手紙へ一気に跳ね上がるように踏みしめる。

 ズボフッ!

 どうやら見た目以上に地面が弛かったらしく、クマの片足がマジユスの体ごと泥の中に潜り込む。

「くんっまあああああああーっ」

 クマが慌ててマジュスを泥の中から引きずり出す。

「腕力無くてごめんなさい」

「ダイェットするくまー」

 マジュスが謝りクマが反省の叫びを上げる。

「土台が逆じゃ……」

 と、そばから男の声。

 マジュスとクマが尻餅状態で見上げると、傭兵男の汚れの目立つ顔がすぐ上にある。

「お前、喋れるのか?」

「くぅぅぅまっ!」

 長剣の柄にかかっていた男の手が放れ、迷うように軽く握った拳がクマの顔に向けられる。途端、クマが剣を見た時以上に混乱した悲鳴を上げ、泥の上を転げるようにどこかへ走り去る。

「あれ、くまさんどうかされ……。優しいくまさんありがとうございましたぁぁーっ」

 マジュスがちょっと戸惑った後、パタパタと手を振ってクマを見送り、おもむろに傭兵男に振り返り直す。

 その隣に、奇妙に晴れやかな笑顔を浮かべた細身長身男が現れる。

 傭兵男が振り返らず、その細身長身男の気配に向けて小さく言う。

「今のは? まさか樹海の化け物……ではないようだが」

「でしょうな、喋れてもクマにあんな化け物じみたことは出来ますまい」

「もちろんですよ。どこのどなたかも名乗らず、木の蔦に絡まっている見ず知らずの私を助けて、しかも同じくひっかかっていたらしい手紙の回収まで手伝ってくれたんです」

 マジュスが泥まみれの顔が光りそうなほどにっぱりと笑う。

 傭兵男は全然納得していないようだが、左にもっていた一枚の手紙を右に持ち替え差し出す。

「ほらよっ」

 どうやらマジュスとクマが拾い損ねた手紙らしい。泥がついている所を見ると、流石に地面に着く前の回収は不可能だったようだ。

「ありがとうございます」

 手紙を固く握る男の革手袋をした手を見た瞬間、マジュスの脳裏に拳に何発も殴られ続けるイメージがフラッシュバックし、長すぎる睫毛の動きが一瞬止まる。

 おそらくクマも同じ様な幻覚に襲われたのだろう。

 マジュスが覚えのない拳だけの記憶に不思議がりつつ、思いついたように傭兵男へ顔を戻す。

「ところで、この手紙の持ち主はどこに居るか知りませんか?」

「あ……ああ、もしかしたら街道に居た文箱をもったお嬢様かな。急ぐといい」

 傭兵男が何か気に掛かる目でマジュスを見つめつつ、自分達が来た街道の方を指さす。質問しかけるが、言葉がノドの奥に引っかかったように結局口を閉じる。

「感謝です。では、”負けず”にがんばってくださいね」

 マジュスは地面から帽子をつかんで立ち上がると、一礼して木々の間を走り出す。

 そして、今の奇妙な言葉が気に掛かったように傭兵男が振り返ると、少し離れた木々の間でマジュスがピタリと立ち止まり次の瞬間バタバタと体と頭を大きく振る。まるで犬が水を跳ね落とすような動きだが、それだけでマジュスについた泥が綺麗サッパリに跳ね落ちる。

 そのまま再び走り出すと、先程は気付かなかった少女のような姿の精霊が帽子のつばの上に現れ、こちらを疑うような顔つきで遠ざかりつつ見つめる。

「………………」

 傭兵男が、何も分かっていないのだが、雰囲気的には何か解ったような気分になって表情を戻し、樹海の奥へと歩きはじめ、結局やはりスッキリしないように足を止めて振り返る。

「えっと、アイツはどうしてるんだっけ……」

「それはお任せください。それより、一度戻って事態を把握しなければ」

「レオン第一王子様々殿の方が先か……」

 細身長身男が少し口調を早め、傭兵男が変にもったいぶった声で泥を跳ねて走り出す。

 それでも後ろ髪引かれるのか、足は止めないもののまた愚痴をこぼす。

「だいたい、オリシスが魔術士長になればよかったんだ」

「残念ながら私ではアフリクド様にかないません。それを言うなら、ベイル様が城でお守りをしていれば良かったのです」

 オリシスの言葉に、ベイルが苦しげに顔を伏せる。

「ちぇっ、急にレウパとの国交復活と言い出したから変だと思えば国王様は病気。怪奇騒ぎの復活か樹海が荒らされ、次は相手国の姫様は命を狙われる。更には第二じゃなく第一王子様が家出して行方不明って……みんな俺をコキ使いすぎだ」

 命じられたわけでもなく、勝手に動いてるクセに……。

 隣の細身長身男はそうたしなめたげな顔をしたが、その件については何も応えなかった。






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