第四の生贄
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風のない、しかし肌を震わせる冷気に満ちた夜だった。
寝静まった住宅街は、すでに薄闇のカーテンで仕切られている。等間隔に連なる街灯の仄かな明かり、闇路の両脇に建ち並ぶ家々もまた、窓越しに漆黒を孕んで眠っている。それは朝日を待つ生者の沈黙のようであり、あるいは月を迎えた死者を畏れての拒絶であるのかもしれなかった。
「ふぅ、今晩もやたらと冷えやがる。寒いねえ」
この、松明を標とした洞穴のように細長い闇路を歩く男は、熱を奪う冷気にうんざりした様子だった。
襟をまくし立て隠す猪首、突き出た腹部に鈍重の足。健康的すぎる男の体は代謝が追い着かず、余分な重さに縛られている。
「こりゃ、帰ったら一杯でも飲まんとやってられねえな。芯まで冷えそうだぜ」
彼は精肉店に勤める調理師だった。朝から昼間にかけては馴染みの店へと注文の材料を届け、夕方からは今夜の晩餐に頭を悩ませる客で賑わいを見せる。彼自身の大胆な人柄に好感を持つ者も多く、忙しい仕事の帰りは必然と遅くなってしまうのだった。
もちろん、それは彼にとって嬉しい悲鳴である。妻と結婚して以来、すべてが順風満帆だった。この、通い慣れた道を真っ直ぐ帰れば、美しい妻の手料理が待っていてくれる。結婚して20年も経つが、彼女の笑顔は何ら色褪せることなく自分を迎えてくれるのだ。それが幸せでなくて何だというのか。
彼は幼い頃から肥満体型にあり、それゆえに同年代の友人から笑われることも少なくなかった。自分の体型を逆手に取り、輪の中心に位置することで悔しさは紛れたが、それでも女性に縁のない生活というのは変わらなかった。
実家の後を継ぎ、精肉店で働く彼の出会いはあまりない。休日も少なく、友人と食事することもままならないのでは紹介すらも難しい。親から勧められた見合い相手も第一印象で二度目はなく、自棄酒に暮れる夜が彼を孤独にさせた。
だから彼は思う。妻と出会えたのは間違いなく奇跡だと。友人に誘われたホームパーティー、そこで紹介された女性が運命を象徴することになろうとは、彼自身も信じられなかった。
自分の容姿に嫌悪を持たず、他にも多くの男が言い寄る彼女がまさか、自分と結ばれるなんて。それ以来、彼の人生は一変した。今まで疲労感に苛まれていた日常が、たった一人の女性がそばにいてくれるだけで苦にも感じなくなる。
「今日はどんな料理かな。ああ、待ち遠しいぜ」
自分でも単純だと思う。だが、それが人生だとも思う。ほんの一瞬の出来事で、人は生まれ変われるのだ。彼の世界は祝福に満ち、その幸せが永遠であることを切に願う。「寂しがってるだろうか。今夜は少し、常連から聞いた笑い話を聞かせてやるか」
細い闇路は左右に分かれていた。ここを右に曲がれば、後は自宅まで一直線だ。少し遅い、けれど温かく美味しい夕食を作ってくれる妻の待つ場所への岐路。遠回りをする必要はない。このまま戻るべきだ。
彼は疑問の余地なく足を右に運ぶ。わずかに肌を撫でた風に体を震わせ、無意識に立ち止まった。今夜はいつにも増して冷え込んでいる。昼間の暖かさが嘘のようだ。
「ったく、冬でもねえのに。近頃じゃあ気味の悪い事件も増えてるし、どうなってんのかね、まったく……」
一人愚痴りながら再び歩こうとした時、街灯に凭れかかった人影の姿を捉えた。何かに掴まっていなければ立つこともできないのか、落ち着かぬ足取りがフラフラと、やがて膝を地面につけて座り込んでしまった。
ただの酔っ払いだろうか。この寒さじゃあ、飲みたくなる気持ちもわかるものだ。彼はたまらず人影のそばへと走り寄った。
「おい、アンタ。大丈夫か? こんなになるまで飲んでたんじゃあ、家に帰ったら旦那さんに叱られるだろうぜ」
不調に苛まれている人物は、どうやら女性であるらしかった。長い金髪が美しく揺らめき、仄かな香りが彼の鼻腔をくすぐる。
「ほら、ここで寝ちまったら凍死するぞ。家はどこだ? 具合が悪いなら、俺の家に寄っていくかい?」
これに女性は首を横に振った。近頃は奇妙な事件が起きている。彼女が慎重になるのも仕方ないが、それでも疑われているのは心外だった。
「じゃあ、早く立って家に帰らなきゃな。ほら、手に掴まれよ」
彼女の手は夜の冷気に当てられたせいか、びっくりするほど冷たかった。きっと千鳥足で彷徨い歩いたのだろう。彼はため息をついて、彼女を引き起こす。 彼女は力なく、彼に抱き付くように体を預けた。これにはさすがに男も困惑したが、所詮は酔っ払い。何かに凭れていないと立つことも難しいのだろう。
やれやれ、と彼は仕方なく女性の肩を軽く叩いた。女性に抱き付かれて悪い気はしないが、妻にでも見られたら面倒だ。呼び掛けても応答がないので、彼は優しく女性を離そうとした。
――が。
離れない。それは女性が、彼の力ではビクともしないほど強く抱き付いているせいではない。奇妙なことに、彼の体はまったく力の入らない不可思議な状態にあった。
「あ、……、え……?」
女性の肩に置いた自分の手が、油断すればすぐにでも滑り落ちそうだった。視線すら虚ろに漂わせ、ただぼんやりと力が抜けていく感覚が言い知れぬ恐怖を致命的に麻痺させていた。
何が起きたのか、考えることも億劫な空虚感が全身を冒していく。異常だ、何かがおかしい、と心が訴えていても頭が異常を理解できない。そうして薄れゆく意識の中で、ようやく違和感の正体に気がついた。
(この女……ぜんぜん酒の臭いが、しないんだよな……)
やがて、男は糸が切れた人形のように地面に倒れた。鮮やかな赤が滴る唇を手で拭い、女は街灯に隠していた金鎚を倒れた男の頭部に振り下ろす。
悲鳴すら許さぬ致命傷だった。花火のように飛び散る鮮血が彼女の全身を赤く染め、不吉を謳う殺人鬼が町を密やかに蝕んでいく。
血に濡れた女は、足下に横たわる“肉”を眺めながら、かすかに微笑んだ。