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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第21話


 カエの治療から一週間が経った。


 彼女は徐々にではあるが、確実に回復していた。

 と言っても、普通に話せるようになったわけではない。相変わらず、物語の一節を引用する形でしか言葉を発せない。


 だが、変わったことがある。

 表情だ。


 以前の彼女は、まるで精巧な人形のようだった。目は開いているが、何も映していない。引用して発するセリフにも抑揚がなかった。

 今は違う。

 窓から差し込む光を見て、目を細める。誰かが近づくと、微かに首を傾げる。そして引用する言葉に――感情が、乗り始めている。


 言葉そのものはまだ借り物だ。だが、その借り物をどう使うかに、彼女の意思が見える。

 それが、回復の証だと僕は思っている。


 そして、何よりも変わったのは――。


「カエ!」


 アジュが部屋に飛び込んできた。

 両手にはティーカップを二つ。湯気が立ち上っている。


「今日はね、ハーブティーを淹れてきたわ! すごく良い香りよ!」


 カエは、アジュを見た。

 その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「――友の優しさは、どんな薬よりも心を癒す」


 静かな声で、カエはまた何かの一節を引用した。

 だが、その言葉を口にする時、彼女の唇には、微笑みが浮かんでいるように見えた。


 アジュの顔が、パッと輝いた。


「カエ、今笑った! 笑ったわね!?」


 アジュがカップをテーブルに置いて、カエの手を取った。

 カエはその手を振り払わなかった。それどころか、指先がわずかにアジュの手を握り返している。


「お茶会はいいものだわ。あなたとなら毎日だってしたいくらい」


 アジュは両手を上げて喜び、そのまま僕の方を振り返った。


「ロイ! 聞いた!? カエが毎日お茶会したいって!」


「ああ、聞いた」


 僕は思わず目を細めた。

 アジュがこんなに無邪気に喜ぶのを見るのは、初めてかもしれない。


 普段の彼女は、感情を抑圧している。幼さに不釣り合いの知性が情動を制御しようとして、結果として無表情になっているように見える。

 だが今は違う。カエという友を前にして、その鎧が外れている。


 これが、本当のアジュなのかもしれない。


 ふと、カエがこちらを見ていることに気づいた。

 その目が、何かを伝えようとしているようにも見えた。


「……ありがとう」


 その言葉が引用かどうかはどうでもよかった。これが彼女が伝えたい言葉だという事実が大切だった。






 * * *






「で、これからどうするつもりだ?」


 クインタスが腕を組んで言った。

 カエの部屋を出て、僕たちは隣の応接室で今後の方針を話し合っていた。

 アジュとカエは隣の部屋にいる。二人きりにした方がいいと思ったからだ。


「カエの治療は成功した。整流回路は機能している」


 僕は机の上に資料を広げた。


「問題は、これをどう広めるかだ」


「さまよい病の患者は他にもいるし、今も増え続けている」


 アリスが壁にもたれかかりながら言った。いつの間にか部屋に入ってきている。


「衛生区の隔離病棟。今はそのほとんどの病室がさまよい病の患者で占められているわ」


「何人いる?」


「正確な数は秘匿されてる。でも……かなりの人数よ」


 僕は眉をひそめた。

 さまよい病の根本原因は、核樹の疲弊による魔力汚染だ。そこをなんとかしない限り、何人病気を治しても解決にはならない。


 やはり、統一魔力の社会実装を優先すべきだろう。

 核樹の魔力を統一魔力に置き換えれば、さまよい病は根絶できる。

 それに、核樹はもうすでに限界を迎えていてもおかしくない。今、なんとか都市機能が保てているのは、ハルが体を壊してまで『呼び水の務め』を行い、核樹から魔力を引き出してくれているからに他ならない。


「一人一人に整流回路を装着すれば、理論上は治療できる。だが……」


「時間が足りないな」


 クインタスが言い当てた。


「ああ。だから僕らはさまよい病の治療をしない。僕らが最優先に取り掛かるのは、統一魔力の普及だ」


「でも、それじゃあ他の患者はどうするつもり?」


 アリスが、眉を寄せた。

 僕の目標は、根本原因の解決だ。核樹の負担を減らし、魔力汚染を止める。

 それには統一魔力を都市のインフラとして機能させる必要がある。

 その上で、既に苦しんでいる人々を放置はしない。


「技術を移転する」


 僕は決断した。


「回路の設計図と、治療手順をまとめ、それを中央診療院に提供する」


「それは……無償で?」


 アリスが意外そうに聞いてくる。


「ああ、さっさと使ってもらいたいからな」


「でも、いいの? ロイ君がその気になれば、それなりにお金が取れると思うけど」


「衛生区から取らなくても、どうせ予算は増えるさ。なんせ、僕は統一魔力の生成に成功したんだから」


 すぐにここも、零細研究室とは呼べなくなるな。

 そう思うと、このおんぼろな景色も感慨深く感じる。


 予算について考えたからか、ようやく実感が湧いてくる。

 僕はすごいことをしたんだ。

 さまよい病の治療法だけじゃない。統一魔力の生成だ。

 過去の研究者たちが追い求め、夢半ばに消えていった。その夢のエネルギーを、この僕が。

 エルサだってきっと褒めて――。


 そこで僕は思考を止めた。エルサなど関係ないじゃないか。客観的に見て、僕はすごいことをしたんだ。


「……予算の話じゃないんだけどなぁ」


 アリスはどこか納得できない様子で首を傾げている。


「ところで、アリス」


「なに?」


「隠蔽派について、何かわかったことはあるか?」


「あ、その話ね。いろいろわかってきたよ。ロイ君が前にくれた『悪い人リスト』はちゃんと役立ってる」


「神殿との関係は?」


「……それがね、統治区の役人たちがほとんどで、神殿の関係者が全然出てこないの」


「……そうか」


「ただ、統治区の大物が引っかかったわ」


「大物?」


「うん。統治区長官が隠蔽派みたい」


「長官……というと統治区のトップじゃないか」


「そう。一番上から腐ってるってこと」


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― 新着の感想 ―
ある意味で清々しい腐敗構造してるなぁ…。
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