第21話
カエの治療から一週間が経った。
彼女は徐々にではあるが、確実に回復していた。
と言っても、普通に話せるようになったわけではない。相変わらず、物語の一節を引用する形でしか言葉を発せない。
だが、変わったことがある。
表情だ。
以前の彼女は、まるで精巧な人形のようだった。目は開いているが、何も映していない。引用して発するセリフにも抑揚がなかった。
今は違う。
窓から差し込む光を見て、目を細める。誰かが近づくと、微かに首を傾げる。そして引用する言葉に――感情が、乗り始めている。
言葉そのものはまだ借り物だ。だが、その借り物をどう使うかに、彼女の意思が見える。
それが、回復の証だと僕は思っている。
そして、何よりも変わったのは――。
「カエ!」
アジュが部屋に飛び込んできた。
両手にはティーカップを二つ。湯気が立ち上っている。
「今日はね、ハーブティーを淹れてきたわ! すごく良い香りよ!」
カエは、アジュを見た。
その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「――友の優しさは、どんな薬よりも心を癒す」
静かな声で、カエはまた何かの一節を引用した。
だが、その言葉を口にする時、彼女の唇には、微笑みが浮かんでいるように見えた。
アジュの顔が、パッと輝いた。
「カエ、今笑った! 笑ったわね!?」
アジュがカップをテーブルに置いて、カエの手を取った。
カエはその手を振り払わなかった。それどころか、指先がわずかにアジュの手を握り返している。
「お茶会はいいものだわ。あなたとなら毎日だってしたいくらい」
アジュは両手を上げて喜び、そのまま僕の方を振り返った。
「ロイ! 聞いた!? カエが毎日お茶会したいって!」
「ああ、聞いた」
僕は思わず目を細めた。
アジュがこんなに無邪気に喜ぶのを見るのは、初めてかもしれない。
普段の彼女は、感情を抑圧している。幼さに不釣り合いの知性が情動を制御しようとして、結果として無表情になっているように見える。
だが今は違う。カエという友を前にして、その鎧が外れている。
これが、本当のアジュなのかもしれない。
ふと、カエがこちらを見ていることに気づいた。
その目が、何かを伝えようとしているようにも見えた。
「……ありがとう」
その言葉が引用かどうかはどうでもよかった。これが彼女が伝えたい言葉だという事実が大切だった。
* * *
「で、これからどうするつもりだ?」
クインタスが腕を組んで言った。
カエの部屋を出て、僕たちは隣の応接室で今後の方針を話し合っていた。
アジュとカエは隣の部屋にいる。二人きりにした方がいいと思ったからだ。
「カエの治療は成功した。整流回路は機能している」
僕は机の上に資料を広げた。
「問題は、これをどう広めるかだ」
「さまよい病の患者は他にもいるし、今も増え続けている」
アリスが壁にもたれかかりながら言った。いつの間にか部屋に入ってきている。
「衛生区の隔離病棟。今はそのほとんどの病室がさまよい病の患者で占められているわ」
「何人いる?」
「正確な数は秘匿されてる。でも……かなりの人数よ」
僕は眉をひそめた。
さまよい病の根本原因は、核樹の疲弊による魔力汚染だ。そこをなんとかしない限り、何人病気を治しても解決にはならない。
やはり、統一魔力の社会実装を優先すべきだろう。
核樹の魔力を統一魔力に置き換えれば、さまよい病は根絶できる。
それに、核樹はもうすでに限界を迎えていてもおかしくない。今、なんとか都市機能が保てているのは、ハルが体を壊してまで『呼び水の務め』を行い、核樹から魔力を引き出してくれているからに他ならない。
「一人一人に整流回路を装着すれば、理論上は治療できる。だが……」
「時間が足りないな」
クインタスが言い当てた。
「ああ。だから僕らはさまよい病の治療をしない。僕らが最優先に取り掛かるのは、統一魔力の普及だ」
「でも、それじゃあ他の患者はどうするつもり?」
アリスが、眉を寄せた。
僕の目標は、根本原因の解決だ。核樹の負担を減らし、魔力汚染を止める。
それには統一魔力を都市のインフラとして機能させる必要がある。
その上で、既に苦しんでいる人々を放置はしない。
「技術を移転する」
僕は決断した。
「回路の設計図と、治療手順をまとめ、それを中央診療院に提供する」
「それは……無償で?」
アリスが意外そうに聞いてくる。
「ああ、さっさと使ってもらいたいからな」
「でも、いいの? ロイ君がその気になれば、それなりにお金が取れると思うけど」
「衛生区から取らなくても、どうせ予算は増えるさ。なんせ、僕は統一魔力の生成に成功したんだから」
すぐにここも、零細研究室とは呼べなくなるな。
そう思うと、このおんぼろな景色も感慨深く感じる。
予算について考えたからか、ようやく実感が湧いてくる。
僕はすごいことをしたんだ。
さまよい病の治療法だけじゃない。統一魔力の生成だ。
過去の研究者たちが追い求め、夢半ばに消えていった。その夢のエネルギーを、この僕が。
エルサだってきっと褒めて――。
そこで僕は思考を止めた。エルサなど関係ないじゃないか。客観的に見て、僕はすごいことをしたんだ。
「……予算の話じゃないんだけどなぁ」
アリスはどこか納得できない様子で首を傾げている。
「ところで、アリス」
「なに?」
「隠蔽派について、何かわかったことはあるか?」
「あ、その話ね。いろいろわかってきたよ。ロイ君が前にくれた『悪い人リスト』はちゃんと役立ってる」
「神殿との関係は?」
「……それがね、統治区の役人たちがほとんどで、神殿の関係者が全然出てこないの」
「……そうか」
「ただ、統治区の大物が引っかかったわ」
「大物?」
「うん。統治区長官が隠蔽派みたい」
「長官……というと統治区のトップじゃないか」
「そう。一番上から腐ってるってこと」




