第20話
カエへの施術は、真理区にあるクインタスの隠れ家で行われた。
トージの手によって製作された精緻な銀細工のような美しいネックレスを使った治療だ。
ただのアクセサリーではない。その中身は、魔力を二つに分流し、位相をずらして再衝突させるための、極小の遅延回路だ。
カエの首にそれを装着し、起動する。
かすかな駆動音が鳴るだけで、それ以外に劇的な変化はない。
魔力視で見れば、彼女の脳内で滞っていた魔力溜が溶けていくのがわかる。
理論上は、これで意識が戻るはずだ。
しかし――。
数日経っても、カエは言葉を発しなかった。
目は開いている。
食事も喉を通るようになった。
時折、視線が動くこともある。
だが、それだけだ。
僕の問いかけにも、クインタスの呼びかけにも、反応しない。
ただ、窓の外から差し込む光を、ぼんやりと見つめているだけ。
「……失敗か」
データ上は完璧だった。
脳内の異常振動は消えている。魔力の流れも正常だ。
なのに、心だけが戻ってこない。
やはり、遅すぎたのか。
長い間、夢の世界に閉じ込められていた彼女の自我は、もう摩耗して消えてしまったのか。
乾いた笑いが漏れた。
そのとき、ふと、視線を感じた。
ベッドの縁に、座っているカエが僕の方を見ていた。
その瞳は、深くて、静かで、何を考えているのか読み取れない。
僕は、吸い寄せられるように彼女のそばに座った。
「……意外とさ、きついんだよ」
誰にも言えない弱音が、溢れ落ちる。
「研究に追われてるときは考えなくてよかったけど、最近ずっとぐるぐるしてる」
どうせカエは反応しないと思って、胸の内を語る。
「僕は結局あの人と同じ道を歩いている。技術に魅入られ、実験に没頭し……その結果がこれだ」
カエの手は、膝の上で組まれたままだ。
「やはり僕は、悪い子なんだろうな。僕に流れる血がそうさせるんだ」
弱音だった。
誰にも見せたことのない、僕の底にある泥のような感情。
反応のない彼女だからこそ、吐き出せたのかもしれない。
そのときだった。
「――飢えた子は泣き方を忘れると言うわ」
静かな、かすれた声だった。
滑舌は甘く、長く使われていなかった楽器のような響き。
僕は弾かれたように顔を上げた。
「……え?」
カエが、僕を見ていた。
その表情は変わらない。だが、唇が微かに動いている。
「辛いことが当たり前になってしまって、心が麻痺してしまうの。食べ物ばかりでなく、感情までも足りなくなってしまうなんて、とっても可哀そうだと思わない?」
「カエ……君、喋って――」
僕は彼女の肩を掴もうとして、躊躇った。
彼女の視線が、僕を通り越して、どこか遠くを見ているような気がしたからだ。
「そうなってしまったら、再び感情を取り戻すことは可能なのだろうか。僕たちだけで、彼の心を救うことは、本当にできるのだろうか」
彼女は続ける。淡々と。朗読するように。
「さあ、どうかしらね。でも私は信じてるわ。あの子の心の中には、ちゃんと親の愛が息づいているって。その芽を私たち二人が大事に育ててあげれば、きっとあの子は大丈夫よ」
「……待ってくれ」
僕は混乱していた。
彼女の言葉は、今の僕の心境にあまりに寄り添っていた。
だが、どこか違和感がある。話し方が、彼女自身の言葉というよりは、誰かの言葉を借りているような。
「カエ、僕の言ってることがわかるか? もしわかるのなら、自分の名前を言ってみてくれ」
「……」
彼女は口を閉ざした。
再び、静寂な人形に戻ったかのように。
「英雄の誕生」
背後から、声がした。
いつの間にか、クインタスが入り口に立っていた。
「英雄の……?」
「俺たちの故郷で有名な物語の一幕だ」
クインタスは、ゆっくりとカエに歩み寄った。
その目は、妹の姿を信じられないものを見るように見つめている。
「今、カエは諳んじていたんだ。戦争孤児となって路上で生きていた幼い主人公を、母親の友人夫婦が見つけ出し、育てる決心をする……物語の序盤の場面を」
「……ああ、そういうことか」
僕は息を吐いた。
「つまり、彼女は知識にある文章を読み上げただけというわけか……」
自我が完全に戻ったわけではない。
断片的な記憶が、僕の言葉に反応して再生されただけかもしれない。
「いや、もしかしたら――」
僕は思い直した。
彼女は、僕の吐露した思いに対して、的確にあの引用を選んじゃないか?
だとしたら、それは、彼女の意思だ。
自分の言葉を失った彼女が、物語の言葉を借りて、僕を慰めようとしているのかもしれない。
「ああ、これが今のカエの言葉なんだろう」
クインタスが頷き、カエの頭に大きな手を乗せた。
カエは、ただ静かに、兄の手の温もりを受け入れていた。
その光景を見て、僕は思った。
救えたのかもしれない、と。
まだ不完全かもしれないけれど、僕たちは、確かに彼女を夢の世界から引き戻したのだ。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
泣き方を忘れた子供にも、まだ育てられる芽がある。
ならば、僕の中にある悪い芽だって、まだ手遅れではないのかもしれない。
そのときだった。
ふと、クインタスの手が震えているのに気づいた。
彼はカエの頭から手を離すと、そのまま崩れ落ちるように膝をついた。
「……店主?」
僕が声をかけると、彼は床に両手をつき、肩を深く震わせていた。
嗚咽が、漏れていた。
「……すまない」
絞り出すような声だった。
「ありがとう……ロイ」
彼は僕の足に縋りつくように、首を垂れた。
ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れたのだとわかった。妹を救うという執念だけで、感情を凍結させ、非情な仮面をかぶり続けてきた。その氷が今、溶け出したのだ。
大の大人が、泣いている。
その姿を見ても、僕は不思議と冷静だった。ただ、彼もまた、傷ついた一人の人間だったのだと、ようやく心から理解できた気がした。
「……礼を言うのはまだ早い」
僕は、彼の震える肩に、そっと手を置いた。
「まだ始まったばかりだ。カエの経過もまだ見る必要があるし、それに、店主に協力してもらうことは山ほどある」
「……ああ」
クインタスは、涙でに濡れた顔を上げ、僕を真っ直ぐに見た。
その目には、もう以前のような冷たい殺意はなかった。
「ああ……何でもやる。お前が望むなら、どんな汚れ仕事でも、俺がやってやる」
それはちょっと重いな、と思いながらも、僕は頷いた。
最強の――そして最も厄介な味方を、僕は手に入れてしまったらしい。




