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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第18話


 ノックのあと、研究室の扉が開いた。


 扉の方を振り返った僕は、息を呑んだ。

 純白の神官服。襟元に輝く金糸の刺繍。そして、氷柱のように冷たい瞳。


 ハルだ。

 神官の中で最も能力が高く、将来を期待されている者が選ばれるという、当代の還し手である。

 衛生区で僕に「二度と私の前に現れるな」と言い放った男でもある。


 アジュが椅子から飛び上がり、僕の背中に隠れた。


「……用件は」


 僕は警戒を隠さずに言った。

 ハルはゆっくりと室内を見回した。古びた本棚、埃っぽい実験器具、積み上げられた資料。彼が欲しがるような特別なものはないはずだ。

 彼の視線には、軽蔑も嫌悪も浮かんでいなかった。ただ、何かを確かめるような、慎重な光があった。


「さまよい病の研究をしていると聞いた」


 簡潔な言葉だった。

 さまよい病はこの街では口に出すのも憚られるような病気だ。それを研究しているという噂は、すぐに広がった。神官の住む神の手地域にも、その噂は届いているらしい。


「そうだが……それがどうした」


「聞きたいことがある」


 ハルは一歩、室内に足を踏み入れた。

 アジュが僕の服を掴む手に力を込める。


 ハルは右手を持ち上げ、手袋を外した。細く、白い指が現れた。

 しかし、よく見ると、指先から手首にかけて微かに青白い筋が走っていた。


「ここに、滞りがある」


 ハルは淡々と言った。


「これはさまよい病か?」


 僕は、目に魔力を集中させ、魔力視で、ハルの右手を観察した。


 さまよい病患者には、脳に魔力の滞りが見える。規則性があり、ざらざらとした不快なパターンだ。

 そして、ハルの右手にも、それと同じものがあった。


 魔力溜まりは、指先から手首にかけて蓄積している。

 まるで、水道管に汚れが詰まるように、クオリアの残滓が魔力の通り道を圧迫していた。


「……原理はさまよい病と同じだ」


 僕は言った。


「核樹の異常魔力が蓄積して、正常な魔力の流れをブロックしている」


 ハルの目が揺れた。

 その瞬間、声が震えた。


「……これは、他人(ひと)に、うつるのか」


 その問いに、僕は眉を寄せた。

 さまよい病が伝染するという風説は、この都市に広く蔓延している。だが、衛生区の中央診療所によれば、身体接触による感染は確認されていない。


 ……いや、待て。

 今の質問は、自分にうつるか、ではなく、他人にうつるか、だった。


 違和感が、胸の奥で引っかかった。

 その瞬間、衛生区での出来事が蘇った。

 ぶつかった僕に向けられた「触るな!」という叫び。

 僕の手を振り払う姿は、僕をよそ者の穢れとして扱ったからだと思っていた。


 だが、もし違ったら?

 もし、この男が、自分がさまよい病に感染していると疑い、他人にうつすことを恐れていたとしたら?


 あの拒絶は、差別じゃなく……自分から僕を遠ざけようとしていた?

 思えば、トージを魔法で突き飛ばしたときも、トージに手を掴まれた直後だった。


 考えすぎだろうか。だが、都市のために体を張る彼を知ってしまった今、彼の高潔さを信じ始めている自分がいる。


 あのとき、僕は彼を疑った。この高潔な彼が、さまよい病を蔓延させている黒幕ではないかと疑ったのだ。

 誰よりもこの都市を思い、身を捧げる男を、僕は疑うべきではなかったのではないか?


「……身体接触では感染しない」


 僕は罪悪感を隠して答えた。


「原因は、核樹から供給される魔力に乗るノイズだ。人から人へうつるわけじゃない」


 僕がそう言うと、ハルの表情がわずかに緩んだ。

 その反応を見て、やはりこの男は他人を傷つけることを恐れていたのだと確信する。


「君の場合、普通の人間なら脳に溜まるはずのものが、右腕に出ている。魔力量が桁違いに多いからだ。脳に蓄積する前に押し返せている。でも、酷使している右腕だけは例外だ。大量の魔力を流し続けた負荷で、そこだけ防御が追いついていない」


 部位は違うが、さまよい病と同じ原理だ。

 つまり、僕が開発しようとしている治療法は、この男にも効く可能性がある。


「……治るのか」


「今のままでは無理だが……」


 僕は、一瞬だけ迷った。

 この男は、僕に敵意を向けていた。還元の儀で見た孤独な姿に心を動かされたとはいえ、神殿の人間だ。まだ完全に信頼していい相手ではない。


 だけど、彼の右手の状態は深刻だった。

 このまま放置すれば、いずれ魔力が流れなくなる。還し手としての役目を果たせなくなる。


「……僕がさまよい病の治療法を開発すれば、君の右手も治せる」


 ハルは、何も言わなかった。

 しばらくの沈黙の後、彼は手袋を戻し、背を向けた。


 扉に手をかけたところで、足が止まった。


「ロイ・アヴェイラム」


 ハルが僕の名を呼んで、振り返った。


「あのとき言ったことは、忘れてくれていい」


 それだけ言って、ハルは去っていった。

 扉が閉まった後も、僕はしばらく立ち尽くしていた。


「……ロイ」


 アジュが、僕の服を引っ張った。


「あの人の手も治して」


「……ああ」


 もう彼に敵意はなかった。

 最後に放った、忘れてくれていい、という言葉。あれは、衛生区で僕に言い放った「二度と、姿を見せるな」という言葉を撤回したということだ。


 僕は窓の外を見た。

 許容量を超えた魔力の激流に耐える孤独な背中と、今しがた垣間見た彼の抱く恐怖や他人を傷つけることへの恐れ。それらすべてが、彼の高潔さを証明していた。


「……僕にはできないな」


 僕は、自嘲気味に呟いた。


 治療法を完成させなければならない。

 カエのためだけじゃない。

 この都市のため、そして――あの男のためにも。


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― 新着の感想 ―
続きが気になりすぎる…
このまま妨害とかが無ければいいんですけどねえ ひと悶着あっても全然おかしくないが、いかに…
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