第18話
ノックのあと、研究室の扉が開いた。
扉の方を振り返った僕は、息を呑んだ。
純白の神官服。襟元に輝く金糸の刺繍。そして、氷柱のように冷たい瞳。
ハルだ。
神官の中で最も能力が高く、将来を期待されている者が選ばれるという、当代の還し手である。
衛生区で僕に「二度と私の前に現れるな」と言い放った男でもある。
アジュが椅子から飛び上がり、僕の背中に隠れた。
「……用件は」
僕は警戒を隠さずに言った。
ハルはゆっくりと室内を見回した。古びた本棚、埃っぽい実験器具、積み上げられた資料。彼が欲しがるような特別なものはないはずだ。
彼の視線には、軽蔑も嫌悪も浮かんでいなかった。ただ、何かを確かめるような、慎重な光があった。
「さまよい病の研究をしていると聞いた」
簡潔な言葉だった。
さまよい病はこの街では口に出すのも憚られるような病気だ。それを研究しているという噂は、すぐに広がった。神官の住む神の手地域にも、その噂は届いているらしい。
「そうだが……それがどうした」
「聞きたいことがある」
ハルは一歩、室内に足を踏み入れた。
アジュが僕の服を掴む手に力を込める。
ハルは右手を持ち上げ、手袋を外した。細く、白い指が現れた。
しかし、よく見ると、指先から手首にかけて微かに青白い筋が走っていた。
「ここに、滞りがある」
ハルは淡々と言った。
「これはさまよい病か?」
僕は、目に魔力を集中させ、魔力視で、ハルの右手を観察した。
さまよい病患者には、脳に魔力の滞りが見える。規則性があり、ざらざらとした不快なパターンだ。
そして、ハルの右手にも、それと同じものがあった。
魔力溜まりは、指先から手首にかけて蓄積している。
まるで、水道管に汚れが詰まるように、クオリアの残滓が魔力の通り道を圧迫していた。
「……原理はさまよい病と同じだ」
僕は言った。
「核樹の異常魔力が蓄積して、正常な魔力の流れをブロックしている」
ハルの目が揺れた。
その瞬間、声が震えた。
「……これは、他人に、うつるのか」
その問いに、僕は眉を寄せた。
さまよい病が伝染するという風説は、この都市に広く蔓延している。だが、衛生区の中央診療所によれば、身体接触による感染は確認されていない。
……いや、待て。
今の質問は、自分にうつるか、ではなく、他人にうつるか、だった。
違和感が、胸の奥で引っかかった。
その瞬間、衛生区での出来事が蘇った。
ぶつかった僕に向けられた「触るな!」という叫び。
僕の手を振り払う姿は、僕をよそ者の穢れとして扱ったからだと思っていた。
だが、もし違ったら?
もし、この男が、自分がさまよい病に感染していると疑い、他人にうつすことを恐れていたとしたら?
あの拒絶は、差別じゃなく……自分から僕を遠ざけようとしていた?
思えば、トージを魔法で突き飛ばしたときも、トージに手を掴まれた直後だった。
考えすぎだろうか。だが、都市のために体を張る彼を知ってしまった今、彼の高潔さを信じ始めている自分がいる。
あのとき、僕は彼を疑った。この高潔な彼が、さまよい病を蔓延させている黒幕ではないかと疑ったのだ。
誰よりもこの都市を思い、身を捧げる男を、僕は疑うべきではなかったのではないか?
「……身体接触では感染しない」
僕は罪悪感を隠して答えた。
「原因は、核樹から供給される魔力に乗るノイズだ。人から人へうつるわけじゃない」
僕がそう言うと、ハルの表情がわずかに緩んだ。
その反応を見て、やはりこの男は他人を傷つけることを恐れていたのだと確信する。
「君の場合、普通の人間なら脳に溜まるはずのものが、右腕に出ている。魔力量が桁違いに多いからだ。脳に蓄積する前に押し返せている。でも、酷使している右腕だけは例外だ。大量の魔力を流し続けた負荷で、そこだけ防御が追いついていない」
部位は違うが、さまよい病と同じ原理だ。
つまり、僕が開発しようとしている治療法は、この男にも効く可能性がある。
「……治るのか」
「今のままでは無理だが……」
僕は、一瞬だけ迷った。
この男は、僕に敵意を向けていた。還元の儀で見た孤独な姿に心を動かされたとはいえ、神殿の人間だ。まだ完全に信頼していい相手ではない。
だけど、彼の右手の状態は深刻だった。
このまま放置すれば、いずれ魔力が流れなくなる。還し手としての役目を果たせなくなる。
「……僕がさまよい病の治療法を開発すれば、君の右手も治せる」
ハルは、何も言わなかった。
しばらくの沈黙の後、彼は手袋を戻し、背を向けた。
扉に手をかけたところで、足が止まった。
「ロイ・アヴェイラム」
ハルが僕の名を呼んで、振り返った。
「あのとき言ったことは、忘れてくれていい」
それだけ言って、ハルは去っていった。
扉が閉まった後も、僕はしばらく立ち尽くしていた。
「……ロイ」
アジュが、僕の服を引っ張った。
「あの人の手も治して」
「……ああ」
もう彼に敵意はなかった。
最後に放った、忘れてくれていい、という言葉。あれは、衛生区で僕に言い放った「二度と、姿を見せるな」という言葉を撤回したということだ。
僕は窓の外を見た。
許容量を超えた魔力の激流に耐える孤独な背中と、今しがた垣間見た彼の抱く恐怖や他人を傷つけることへの恐れ。それらすべてが、彼の高潔さを証明していた。
「……僕にはできないな」
僕は、自嘲気味に呟いた。
治療法を完成させなければならない。
カエのためだけじゃない。
この都市のため、そして――あの男のためにも。




