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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第14話

 還元の儀から数日が経った。

 あの光景が、まだ頭にこびりついている。


 ハルの背中。

 神々しく輝くその姿の奥にあった、今にも折れそうな震え。

 誰も気づいていなかった。僕だけが見てしまった。


 あれから、論文を読む手が止まっていた。

 統一魔力の生成。理論は行き詰まっている。焦っても仕方がない。

 それに、クインタスとの約束を放置し続けるのは得策じゃない。カエを治せなければ、僕の立場はなくなる。

 まずは、目の前の問題から片付けるべきだ。


 そう自分に言い聞かせて、研究室に向かった。






 * * *






 研究室の扉を開けると、アジュがいた。

 席に座り、分厚い本を読んでいる。


「おはよう、アジュ」


 声をかけた。

 アジュは、ちらりとこちらを見た。

 その後、すぐに視線を本に戻した。


 返事はなかった。

 カエに会いに行くようになって、僕に対しても少しずつ態度が柔らかくなっていたと思ったが、振り出しに戻ったみたいだった。

 いや、むしろ最初の頃よりも距離がある反応だ。


「……久しぶりだな。最近、研究室に来てなかっただろ?」


「来てた」


 短い返答だった。

 アジュはページをめくりながら、僕の方を見ずに言った。


「お前がいなかっただけ」


 その言葉に、胸がずきりとした。

 相当周りが見えなくなっていたようだ。


「……ああ、そうか。ずっと論文を読んでて気づかなかった」


 アジュは相変わらず本から目を上げない。


「……カエはもう治さないの?」


 アジュは僕を見ないまま言った。

 言葉が真っすぐ突き刺さる。


「……これから研究を再開しようと」


「嘘」


 アジュの声は平坦だった。感情を殺しているような、あるいは最初から感情を込めていないような。


「ずっと違うこと考えてるの知ってるから」


 反論できなかった。

 事実だからだ。


「……悪かった」


 アジュは答えなかった。

 ページをめくる音だけが、静かな研究室に響いた。


 僕は、アジュの隣の席に座った。

 以前なら、この距離に座っても何も言われなかった。だが今は、アジュの体が微かに強張ったような気がした。


「アジュ」


「なに」


「カエの様子を、見にいこうと思う。一緒に来るか?」


 しばらく沈黙が続いた。

 アジュは本を読んでいるように見えた。だが、ページはめくられていなかった。


「……行く」


 小さな声だった。

 拒絶ではない。だが、以前のような素直さもない。


 用心深く、値踏みするような。

 まるで、一度閉じかけた扉を、もう一度開けるかどうか迷っているような。


 面倒だな、と思った。

 すぐにその考えを打ち消す。そういう損得でしか考えられない思考がアヴェイラムなんだ。

 自分でやったことだ。取り戻すには時間がかかる。


「じゃあ、行こう」


 立ち上がると、アジュも黙って席を立った。

 だが、隣を歩くのではなく、少し後ろからついてくる。


 その距離が、僕らの関係を物語っていた。






 * * *






 カエの部屋に着いた。

 扉を開けると、クインタスがソファに座っていた。

 カエは、窓際のベッドの縁に座っている。目は開いているが、やはりどこか遠くを見つめている。


「……来たか」


 クインタスが、僕を見て言った。

 その声には、責めるような色はなかった。だが、期待もなかった。


「カエの様子は?」


「変わらん。良くも悪くもな」


 アジュが、僕を追い越してカエのそばに行った。

 小さな手で、カエの髪を撫でる。


「カエ」


 呼びかけても、カエは反応しない。

 アジュは、それでも髪を撫で続けた。


 僕は、カエに魔力視を向けた。

 以前と同じだ。頭部への魔力の流れが滞っている。

 だが、以前よりも滞りが酷くなっているように見える。


「……悪化してる」


 呟くと、クインタスが振り返った。


「なんだと?」


「魔力の流れ。以前見たときより詰まりがひどい」


 クインタスの目が、鋭くなった。

 だが、怒りではなかった。それは、切実な何かだった。


「……治せるのか」


 その声は、以前よりも低く、重かった。


 僕は、カエを見つめた。

 この子を救う。それが、最初の約束だった。

 統一魔力なんて大きなことを考える前に、まずこの子を。


「……やってみる。今度こそ」


 アジュが、ちらりとこちらを見た。

 その目には、疑念があった。

 また裏切るんじゃないか。そう言っているようだった。


 僕は, その視線を受け止めた。

 言葉で約束しても意味がない。行動で示すしかない。


「さまよい病と、カエの症状には共通点がある。前に見つけた手がかりがある。そこから調べ直す」


 クインタスは、黙って頷いた。


 アジュは、何も言わなかった。

 だが、カエの髪を撫でる手が、少しだけ止まった。


 聞いている。

 信じてはいないが、聞いてはいる。


 それで十分だ。

 まずは、そこから始めよう。






 * * *






「ロイ君、ちょっといい?」


 呼ばれた声に振り返ると、アリスが部屋の入り口に立っていた。

 いつの間に来ていたのか。相変わらず気配がない。


「何?」


「少し、話したいことがあるの。隣の部屋で」


 僕はアジュとカエを見た。

 アジュはカエがページをめくるペースで、カエと一緒に本を読んでいる。


「……わかった」


 クインタスに目配せして、僕は部屋を出た。






 隣の部屋は、小さな応接室のような場所だった。

 アリスは窓際に立ち、僕が入るのを待っていた。


「話というのは?」


「アジュのこと」


 アリスは、真っ直ぐに僕を見た。


「あの子がどういう境遇か、知ってる?」


「……外から連れてこられた、という話は聞いた」


「それだけ?」


 僕は黙った。

 それ以上のことは、知らなかった。知ろうとしなかった。


「あの子もね、いわゆる、よそ者なの」


 アリスは窓の外を見ながら続けた。


「どこから来たのか、誰が連れてきたのか、それすら記録が曖昧。養護施設で育ったけど、あの子の頭の良さについていける大人がいなくて、ずっと、手に余る子扱いだった」


 胸が締め付けられるような感覚があった。

 六歳の子供が、誰にも理解されずに育つ。それがどういうことか。


「で、やっと心を許せる人が出来たの」


 アリスの声が、少し沈んだ。


「ロイ君の前任者。女性の研究員。あの子はその人を、姉のように慕っていたらしいわ」


「……前任者って、日誌を遺した……」


「そう。自殺した人」


 アリスが振り返った。その目は、いつもの軽さを脱ぎ捨てていた。


「やっと心を許した人が、ある日突然いなくなった。自分を置いて死んじゃった。あの子にとって、それがどういう意味か、わかる?」


 リーゼの顔が思い浮かんだ。

 親友がある日突然いなくなり、心を閉ざしていた彼女と被る。


「だから、あの子は簡単に人を信用しない。心を許しかけても、また裏切られるんじゃないかって、怖いの」


 アリスは、僕を真っ直ぐに見据えた。


「ロイ君、あの子は最近、あなたのことを信用し始めてた。カエの治療を真剣にやってくれるって、期待してた」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


「でも、あなたは途中で放り出した。イライジャ様に呼ばれてから、カエのことを忘れたでしょ」


「……僕は」


「あの子にとって、それは、また裏切られたということなの」


 アリスの声は責めるようではなかった。

 ただ、事実を告げているだけだった。


「責めるつもりはないわ。そもそもロイ君を誘拐した私たちが君を責められるはずもないし。それに、今のロイ君の立場がとても大変で辛いものなのも知ってるしね。でも、あの子の事情も知っておいた方がいいと思って」


 僕は、何も言えなかった。


「……教えてくれて、ありがとう」


「ん。まあ、がんばって」


 アリスはいつもの軽い調子に戻り、部屋を出て行った。


 僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 アジュの冷たい態度。あの距離感。

 今なら、少しだけ理解できる気がした。


 僕は隣の部屋に戻った。

 アジュは、まだカエに寄り添っていた。


 今度こそ正しい道を選ぼう。ここで間違えたら、僕は結局、アヴェイラムやエルサと同じだ。

 人を思いやることは、後天的にだって習得できる能力のはずだ。

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― 新着の感想 ―
エルサですら言葉では伝えてたけど、ようやく思い至れたか…。 とはいえ結果が出るまで油断できない気性なのも事実なんよなぁ。
割れたビーカー?に残ってた薬や、そもそもカエは何時・何故こうなったのかとかの話はまだかー
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