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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第10話


 研究室に配属されてから、数日が経った。


 アジュは相変わらず僕を無視している。

 無視――というと正確ではないかもしれない。声をかけると警戒した猫のように、身を固くするのだ。

 一日に交わす言葉は、良くて数語。それも、必要最低限の情報伝達だけだ。


 懐かない猫、という表現がぴったりだ。

 こちらが近づこうとすると、すっと距離を取る。かといって、完全に敵視しているわけでもない。

 まるで、僕という存在を認識しつつも、関わることを拒否しているような。


 前任者の研究日誌を読み進めるうちに、いくつかのことがわかってきた。

 彼女――そう、前任者は女性だった――は、この都市で起きている何かを調べていたらしい。

 だが、その何かについて具体的に書かれている箇所はなく、途中から筆跡が乱れ、内容も支離滅裂になっていく。


 そして、最後のページに、あの一文。

 ――もう、限界だ。誰も信じてくれない。


 彼女は、何を見つけたのだろう。

 そして、なぜ誰にも信じてもらえなかったのか。


 食堂へ行く。初日のような失敗はしない。

 それではお借りしましょう、という声が響くと、僕も周囲に合わせて両手を組み、目を閉じる。


 「お借りします」


 核樹から命を借りて、いずれ返す。そういう意味があるらしい。

 食事を始めると、隣に座った老人が連れの男と話しているのを聞いた。


「また一人、さまよい病にかかったそうだ」


 さまよい……病。

 初めて聞く言葉だった。


「困ったものだな。信心が足りないからだと言うが……」


「いや、穢れだよ。最近よそ者が増えたからだ。あいつらが持ち込んだに違いない」


 僕は、思わず振り返った。

 老人たちは、僕に気づくと、ばつが悪そうに口を閉ざした。


 よそ者。

 それは、僕のことだ。そしてクインタスとカエのことでもある。あの兄妹はネハナ人ではあるが、この都市の外で育ったからか、完全に歓迎されているわけではなかった。

 アジュも、外部から連れてこられた子供だと聞いている。あの歳で、零細研究室に所属していることからも、何か事情がありそうだとわかる。


 つまり僕らは全員、この都市にとっての、よそ者だ。


 食堂を出た後、僕は街の掲示板を確認した。

 そこには、いくつかの張り紙があった。


『さまよい病に注意。罹患者に近づかないこと』

『伝染の恐れあり。異常行動を見たら報告を』

『核樹様への祈りを怠らぬこと』


 さまよい病は、どうやら伝染すると信じられているらしい。

 そして、その原因は、信心不足や穢れとされている。

 病気になるのは本人の責任というわけだ。


 だが、本当にそうなのか?

 伝染するという根拠は? 科学的な調査はされているのか?

 あれだけ高度な研究施設を持つこの都市で、病気の原因が信心不足で片付けられているのは奇妙だった。


 後で調べてみよう。そう思いながら、僕は掲示板を後にした。






 * * *






 研究室に戻ると、珍しくアジュがこちらを見ていた。


「……どうした?」


 声をかけると、アジュはすぐに視線を逸らした。

 だが、完全に無視するでもなく、小さな声で言った。


「……カエ」


「カエ? あの子がどうしたんだ?」


「あいに、いく」


 それだけ言って、アジュは席を立った。

 僕は、少し迷ってから、後を追った。


 アジュについて、僕は宿舎へ向かった。

 クインタスとカエが滞在している部屋は、研究区画から少し離れた場所にある。


 部屋に入ると、クインタスがソファに座っていた。

 その隣には、カエが本を読んでいる――ようにみえる。実際は、意識はここにはなく、内容を理解しているのかはわからない。


「……来たのか」


 クインタスが、僕を見て言った。


「アジュが……」


「ああ。こいつはたまにカエの様子を見にくる」


 クインタスはイライジャから、僕の雑用係に任命されたらしい。殺人鬼が雑用係とは、なんとも奇妙な巡り合わせだが、そのおかげで研究室にはクインタスやカエが来ることがある。

 そしてアジュは、カエのことを気に入ったのか、こうして彼女に会いにくるようになった。


 アジュは、カエのそばに歩み寄った。

 そして、小さな手で、カエの髪を撫でた。


 カエの目は、開いていた。

 だが、その瞳には、光がない。

 まるで、魂がどこか遠くに行ってしまっているような。


「……カエ」


 アジュが、小さな声で呼びかけた。

 カエは、反応しない。


「意識はあるんだ。ただ、戻ってこられない」


 クインタスが、低い声で言った。

 カエの症状は、王都の精神病院でナースから聞いていた。常に夢を見ているような状態。起きているのに、意識がここにない。話しかけても、反応は薄い。たまに、口を動かすが、言葉にはならない。


 僕は、カエの様子をじっと観察した。

 彼女の魔力の流れを、魔力視で見てみる。


 精神病院で確認したときと変わらない。

 通常、魔力は全身を巡っている。だが、カエの場合、頭部への流れが極端に滞っている。

 まるで、何かがブロックしているような。


「魔力の流れが、頭部で詰まっている。何かが、正常な脳の活動を妨げているように見える」


「……魔力視ができるのか?」


「え……ああ。店主もできるだろう?」


「いや、ネハナ人でもできる者はそう多くない」


 そうだったのか。グラニカの初代女王であるラズダ姫は、魔力視ができると本で読んだから、てっきりネハナの特殊能力だと思っていた。


「それで……治せるのか?」


「……わからない。でも、調べてみる価値はある」


 クインタスは、僕を真っ直ぐに見つめた。

 その目には、かすかな希望の光があった。


「……頼んだ」


 低く、しかし確かな声だった。

 殺人鬼が僕に懇願する。この感覚は未だに慣れない。彼に悲惨な過去があるのを知った今、同情はできる。だけど、彼が殺した人たちの中には、きっと殺されるほどのことをしていない者もいたはずだ。

 この恐ろしく強い男に頼られるのは気分がいい。同時に、迎賓館で見た彼の姿が頭にちらついて、胸が悪くなる。僕はこの男から逃れたいのかどうかもわからなくなっている。


 アジュは、まだカエの髪を撫でていた。

 クインタスがよく撫でているのを見て、真似しているのかもしれない。

 彼女の横顔は、いつもの冷たさとは違う、どこか寂しげな表情をしていた。


 アジュはカエに治ってほしいのだろう。

 僕だって、治せるなら直したいが、彼女のように純粋な思いからではない。

 エルサの実験の被害者だから治すので。カエを治さねば僕に価値はない。治らなかったら、クインタスは僕にエルサの罪を償わせることを躊躇わないだろう。


 もういっそ、アジュの喜ぶ顔を見るためにカエを治すと考えた方がいいかもしれない。

 その方が健全だ……なんて思ってみるけど、母の罪からは逃げられないという思いが僕を縛り付ける。


 この都市に初めて降り立った日、核樹の壮大さや街の有機的な美しさに僕は圧倒され、感動した。でも今は、この巨大な地下空洞が、どこにも逃げ場のない檻のようで、僕の心を重くするばかりだった。






 * * *






 宿舎への帰り道、僕はまたさまよい病患者を見かけた。

 道端のベンチに座った老婆が、虚ろな目で宙を見つめている。

 周囲の人々は、いつものように彼女を避けて通り過ぎていく。


 僕は、ふと足を止めた。

 あの目。あの、魂がどこかに行ってしまったような目。

 さっき見た、カエの目と同じだ。


 もしかして。

 さまよい病と、カエの症状には、何か共通点があるのではないか。


 周囲を確認する。誰もこちらを見ていない。

 僕は、老婆に魔力視を向けた。


 ……やはり。

 老婆の魔力の流れは、カエと同じように頭部で滞っていた。

 まるで、何かがブロックしているような。


 偶然だろうか。

 いや、二人も同じ症状が出ているなら、偶然とは思えない。


 僕は、急いで宿舎へと向かった。

 頭の中で、様々な可能性が渦巻いていた。


 カエの症状と、さまよい病。

 もし両者が同じ原因から来ているのだとしたら。

 さまよい病を調べればカエを治せるかもしれない。


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