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受験戦争  作者: 西内京介
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第八章

「起立、礼」

 ホームルームが終わるのを見届けて、洋輔は三年五組に入った。この教室で、洋輔は一時間目に世界史を教える。これが、初めての授業だった。

「おや、早いね」

 担任の渡井は、興味なさそうな口調で言った。

「落ち着かなくって」

 言って、洋輔は教室を見渡した。

 案の定、ホームルームが終わっても生徒たちは誰一人席を立たず、自習に没頭していた。三年生で受験も近いからというのも影響しているのかもしれないが、他の学年でも生徒同士が喋っている光景を見ることはできないだろう。

 しばらく生徒たちを眺めていると、窓際の一番奥の机が空いていることに気づいた。

「あの、先生」

 渡井は教室を出て行こうとして呼び止められたので、少々不機嫌そうな表情を浮かべたが、振り向いてくれた。

「あの席、空いていますけど」

「ああ。あれは……」

 言いながら、しばらく宙に目を漂わせていたが、どうしても思い出せないらしく、やがて持っている出席簿に目を落とした。

「安東佳代さんだね」

 頭に電撃が走った。あの佳代か。

 空席ということは、佳代は今日休みなのか。念のため、渡井に問いかけた。

「どうして安東さんは休みなのですか?」

「それが、まだ連絡は入ってないんだよ」

 訝しげな表情を見せたので、これ以上佳代の質問をするのは止めておくことにした。

「それじゃぁ、がんばってね」

 抑揚のない口調で言うと、渡井は教室を出て行った。

 すると、入れ替わりに洋輔の授業をサポートしてくれる山下が、ゆっくりとした足取りで、不満げな雰囲気を醸し出しながら教室に姿を現した。

「今日はよろしくお願いします」

「うん、よろしくね」

 手短に挨拶を済ませた後、山下は授業に使う教科書を教壇に荒々しく置き、ため息をついて、隣に立っている緊張気味の洋輔に視線を向けた。

「どう、いけそう?」

「まあ、多分」

 曖昧な返答をしたところで、一時間目の始まりを告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

 自習をしていた生徒たちは一斉にペンを止め、参考書とノートを机にしまい、予め出しておいた世界史の教科書とノートを開いた。

「うわ」

 思わず声が出てしまったほどに、四十人の生徒たちのシンクロは見事で、洋輔は普通に感心してしまった。

 この光景に見慣れているのか、山下は何も言わず教壇に置いた自分の教科書を持って教室の後方に移動した。サポートといっても、山下の仕事は洋輔の授業を見守ることにあった。

 洋輔は喉の渇を覚え、わきの下から汗がにじみ出てくるのを感じ取った。緊張はいよいよピークに達し、頭の中が真っ白になって、これからやろうとしていた授業計画もどこかに飛んでいってしまった。

 助けを求める眼差しを、後ろに立っている山下に向けたつもりだったが、とくに何かしてくれるわけでもなかった。

 教育実習性がパニックに陥っているのにどうして助けてくれないのだと、胸中で思いっきり非難したが、いい加減授業を始めなきゃと思い、口を開いた。

「教育実習生の、瀬郷洋輔です。この時間は、僕が授業を担当します。一生懸命頑張りますので、よろしくお願いします」

 静寂の中、洋輔の意気込みだけが空しく響いた。生徒たちの視線は洋輔に冷たく突き刺さり、早くも心が折れそうな気配がした。

「とりあえず、授業を始めます」

 一刻も早く生徒たちの冷たい視線から逃れたくて、洋輔は黒板に体を向けてチョークを握った。

 その直後、教室の後ろのドアが勢いよく開かれ、洋輔は慌てて振り返った。

「すいません、遅れました」

 謝りながら入ってきたのは、佳代だった。肩で息をし、セットしていない髪が、急いで学校へ来たのだということを物語っていた。

「遅いぞ、安東」

 山下は腕を組み、遅刻してきた佳代を叱責した。他の生徒たちはというと、遅刻してきた佳代には目もくれず、じっと洋輔に注目していて、早く授業を始めろという、無言のプレッシャーを放っていた。

 察知できていた洋輔だったが、思わず佳代に見とれてしまっていた。辛いことがあったばかりなのに、遅刻してでも学校へ来た佳代が、愛おしくてしょうがなかった。

「瀬郷君」

 いつまでも授業を始めない洋輔を、山下は軽く注意した。

「すいません」

 名前を呼ばれたことに気づき、山下に体を向けて浅く頭を下げたが、どうしても佳代のほうへ視線を向けてしまうのは、男としての本能故なのか。

 ノートを開き、今日の授業のテーマを生徒たちに向けて発表する時でさえも、佳代の方を盗み見ていた。

 自分の席について、佳代はカバンから世界史の教材一式を取り出した。洋輔はその間、黒板にはチョークを走らせずに、授業内容について軽く説明をした。そんな中、生徒たちはとりあえず授業を進めてほしいという空気を漂わせていた。洋輔はそれを察していながらも、一秒でも長く佳代の顔を視界に入れておきたいという気持ちから、生徒たちに背を向けられないでいた。

 それが数十秒続いた頃、洋輔が佳代のほうを盗み見た時、ついに目が合ってしまった。

 刹那、動機が激しくなり、すぐに目を逸らした洋輔だったが、罪悪感がこみ上げてきた。

 慌てて平静を取り繕うも、無理があった。唐突に、洋輔の様子がおかしくなったことに、生徒たちは不信感を抱き、後方で見守っていた山下は、ある種の危惧を感じていた。

「さあ、それでは、これから黒板に文字を書いていきます」

 急に声を張り上げたのは、心の中にある恥ずかしさを紛らわすためだった。顔が上気している。額から汗が止まらない。早くこの場を抜け出したいが、まだ授業は始まったばかりだ。早くも自分が何を発したのか分からなくなった矢先、何かが洋輔の中で引っかかった。

 それは今どうでもいいことで、気にかける必要もないのだろうが、そう意識しても頭から離れることはなかった。

「じゃあ、今日は――」

 何だ。この引っかかりは――。

 黒板にチョークを走らせながら、洋輔は考えていた。

 佳代の瞳が、悲しみの色を帯びていることについて。

 一週間も経つというのに、佳代はまだ姫島の自殺を引きずっているというのか。

 だとすればもう、一つしか考えられない。

 姫島と佳代には、何らかの接点があった――。

「瀬郷君」

 洋輔はいつの間にかチョークを止め、思索にふけっていた。山下は、訝しげな視線を洋輔に向け注意したが、推理することに夢中でもはや注意など耳に入ってこなかった。

 姫島と佳代に接点があっても不思議ではない。同じ三年なのだから。しかし、クラスが違う。宝徳学園は学力向上を目指し、担任とクラスは三年間変えないという方針だった。この学園の生徒たちの性格を考えると、佳代と姫島が出会うきっかけはほぼないという結論が必然的に導き出される。

 それに、仮に姫島と佳代に接点があったとしても、自殺死体を見て号泣していた時の説明がつかない。佳代はあの死体が姫島のものだと分からなかったはずだ。性別だって、学ランであったから、男だとかろうじて判断できたのだ。それぐらい、凄惨な死体だった。

 佳代は、見ず知らずの死体を見て涙を流したというのか。今思い返すと、まるで身内でも亡くしたかのように、彼女は泣いていた。

 その光景が、どうしても腑に落ちないでいた。

「瀬郷君」

 不意に耳元で、山下の無感情な声が響いた。振り向くと、山下の顔があった。

「代わろう。私が授業をするから、君は後ろで見学でもしているといい」

「いや、あの――」

 反論する間もなく、手からチョークを奪われた。山下は黒板に続きを書き始め、洋輔はその姿を呆然と見つめていた。

 やがて自分の愚かさに気づき、後悔が津波となって洋輔に押し寄せてきた。そんな洋輔に生徒たちは目をくれず、黒板を注目していた。

 重苦しい雰囲気が漂う中、教室の後ろに移動して先ほどまで山下がいた場所に立った。

 洋輔は思い知らされた。今の精神状態では、授業をやっていくのが厳しいということに。

 事件のことが頭から離れず、佳代のことも同じくらい気になっていた。自然と、佳代の後姿へ目を向けているのが、何よりの証拠だった。

 佳代の後姿は、他の女生徒と比べても美しさが際立っていた。背筋が伸びていて、自信がみなぎっているように見える。

 しかし何故、瞳は輝きを失っていたのだろうか。

 解せない疑問を胸に抱きつつ、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り終わっても、洋輔は佳代の後姿だけを見つめていた。


 


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