第四章
数日後、洋輔は順調に回復していき、包帯もとれて自力で歩けるようにまでなった。
「よかったですね、瀬郷さん。あともう少しすれば、退院できますよ」
早朝、洋輔の病室にやってきた担当医師の長谷川は、快活な笑顔を浮かべて言った。
「もう少し時間かかると思っていたんですけどね」
長谷川の口調は、本心から喜んでいるように感じられた。それが、洋輔にとっては嬉しいことだった。
長谷川は医師になって日は浅いが、それ故に患者のことを一途に思える、汚れていない純粋な心を持っていた。年もそれほど離れていないため、洋輔は長谷川という医師に対して親近感を抱いていた。
「本当にありがとうございます」
洋輔も、本心からお礼を言った。
「いえいえ。けど油断しないでくださいね。まだ退院ではないんですから」
長谷川の釘を刺すような言い方も、洋輔は許せていた。
「じゃあ、長谷川先生。そろそろ教えてくれますよね」
洋輔がそう切り出すと、途端に長谷川の表情は曇り始めた。
「そう……ですか」
狼狽を露にして、長谷川は狭い病室を見回している。
「駄目ですか?」
今日こそ引き出してやると、洋輔は心に固く誓っていた。
退院が間近に迫っているのだ。訊くチャンスは、もう残りわずかだ。教えてくれないというのなら、いくら相手が長谷川でも暴れてやる覚悟でいた。
「分かりました。隠していても仕方ないことですし」
ようやく長谷川は、洋輔に話す覚悟を決めた。ずっと粘った甲斐があったと、洋輔は胸中で呟いた。
数日前、刑事たちがここを訪れてから洋輔にはずっと引っかかっていたことがあった。
自分の両腕に巻かれている包帯は、一体何なのか。
食堂で、気分が悪くなり倒れたというところまでは覚えていたが、それ以後の記憶は全くないのだ。倒れただけで腕に包帯が巻かれたとも考えられない。ということはつまり、寝ている間に何かあった、もしくは無意識のうちに何かしていたということになるのだ。
それが分かれば、大分原因を絞り込めるはずだ。
それらのことについて、洋輔は毎朝、長谷川が病室にくるなり訊いていた。しかし長谷川は答えようとせず、ずっとはぐらかしてきたのだ。
今になって、長谷川はその質問に答えてくれようとしている。退院が間近に迫っているので、喋ってくれる気にでもなってくれたのだろう。
「僕からはあまり言いたくなかったんで、ずっと隠してきたんですが。まあ今日、刑事さんもお見えになるそうなんで、どうせ知ることになるでしょうから僕からご説明します」
刑事がやってくるというのは、初耳だった。そのことも、洋輔を動揺させないための親切心から隠していたのだろう。
「まず一つ、お聞きしたいことがあるんですが、いいですか?」
「はい」
洋輔は、並々ならぬ緊張感を感じ取って、思わず生唾を飲み込んだ。長谷川の表情には、いつも浮かべている笑顔はなかった。
「単刀直入に窺います。倒れた当日、何か変なものでも口にしましたか?」
「変な物?」
瞬時に、養護教諭の松平からもらったあの薬を思い浮かべた。
「変な物っていうか……強いて言うなら、薬ですかね」
「薬?」
「ええ。僕、自殺死体を見たときに気分が悪くなっちゃって、保健室へ行ったんです。そしたら、養護教諭の松平先生が薬をくれて」
「どのような薬ですか?」
「吐き気を抑えるための薬、って言っていました」
洋輔は、他人から受け取った薬を飲むかどうか最後まで悩んだが、松平の厚意を無下にすることもできず、結局飲んでしまった。
予感はあったが、やはりあの薬がいけなかったというのか。
「他人から、薬を受け取って飲んだと言うのですか?」
長谷川は咎める口調で言った。
「いや、僕も最後まで悩んだんですけど……」
言い訳をしようとしたが、途中で言葉に詰まってしまった。
つまり、こうなったのも全て悪いのは自分なのだ。言い訳を並べても仕方ない。
「そうですか」
長谷川の目は険しかったが、洋輔をこれ以上責めるつもりはないようだ。長谷川の関心は、すでに別のほうへあった。
「あの、どうかしました?」
重苦しい沈黙に耐え切れなくなった洋輔は、長谷川の目を覗いて言った。
「……けど、ありえない……」
深刻な顔をして、長谷川は一人で思案していた。時折聞こえてくる長谷川の呟きの意味を、洋輔は知りたくて仕方なかった。
「……薬は、関係ないのか……」
数分、長谷川は頭の中で推理を展開していたが、自分なりに納得したのか、二三度頷いてから別の話題を洋輔にふってきた。
「巻かれていた包帯について、お話しましょう」
長谷川は、以前包帯が巻かれていた洋輔の両腕に目を落とし、言った。
「どうして包帯が巻かれているのか、理由を説明されなかったから、気になったことでしょう」
「誰も説明してくれないんですもん」
ふてくされたように、洋輔は言った。
「ええ。言わないほうがいいという、我々の配慮です」
どうりで誰も教えてくれなかったわけだと、洋輔は一人納得した。
「それじゃぁ、この包帯は?」
ついに疑問が解消される喜びと、実はそれを知るのが怖いという不安が入り混じり、洋輔は複雑な心境で恐る恐る問うた。
「暴れたんですよ、瀬郷さん」
「暴れた?」
言葉の意味が解せなくて、思わず洋輔は訊きかえした。
「暴れたって、どういうことですか?」
「瀬郷さんは意識不明の重態で、こちらに搬送されてきました。我々が診察している最中に目を覚まされて、急に暴れだしたんです」
長谷川は真剣な表情で話しているが、洋輔にはどうしても信じることが出来なかった。
「僕には暴れた時の記憶は一つもありません。無意識で暴れていた、って言うことなんですか?」
「そう考えるのが、自然でしょう」
洋輔は、まだ半信半疑な気持ちだった。
「瀬郷さんの両腕に巻かれている包帯も、暴れた際に怪我をしたためです」
言われて、洋輔は両腕に目を向けた。
確かに辻褄は合うが、それでも納得のいかない部分が洋輔にはあった。
「けど、今までにそんな症例あるんですか?」
「私が受け持った患者さんの中に、そのような人は一人もいませんでしたが、前例としては、薬物中毒者の方が突然暴れだすという……」
最後のほうは言葉を濁して、長谷川は言った。
「俺、薬物中毒者と一緒ですか?」
怒りを押し殺しながら、洋輔は言った。
「いえ、そんなことはありません」
慌てて、長谷川は否定した。
「診察した結果、瀬郷さんに薬物反応は出ませんでした。私は、あくまで前例をあげただけですので、瀬郷さんを薬物中毒者だなんて思っておりません」
必死に弁解する姿が、洋輔には滑稽に見えた。
「いいですよ、もう」
冷めた気持ちで言うと、洋輔は気持ちを紛らわすため、窓に映る景色に目をやった。中庭を一望できるこの個室を充てられたことには少なからず感謝していた。
「あれ?」
中庭をこの病棟に向かって歩いてくるスーツ姿の男が見えて、洋輔は思わず声を上げた。
「どうしました?」
長谷川は立ち上がって、窓の近くまで行き外へ目をやった。
「あ、刑事さんですね」
その口調には、どこか安堵した響きが込められていた。
「それじゃぁ、私は刑事さんを迎えに行きますので。しばらくお待ちください」
「はい」
洋輔は刑事が見えなくなった中庭に目を向けながら、返事をした。後ろで、ドアが閉まる音が聞こえてきた。
「お待たせしました」
しばらくすると、長谷川の声とともにドアが開かれる音が聞こえてきた。振り返ると、長谷川の後ろに館林の姿が見受けられた。
「お久しぶりですね、瀬郷さん」
愛想よく館林は挨拶したが、その目は笑っていなかった。
「僕の代わりに説明してくださいね」
長谷川は館林に小声で言った。館林は頷きながら、横目で洋輔の姿を捉えていた。
「分かりました」
一言そう言うと、館林は長谷川に退室を促した。それに従い、長谷川は足早に病室を後にした。
館林は人の笑顔を浮かべて、さきほどまで長谷川が座っていた椅子に腰を下ろした。
数分間、お互い無言のまま見詰め合っていたが、やがて館林が沈黙を破った。
「長谷川先生は、あなたに巻かれていた包帯のことを話しましたか?」
椅子に腰を下ろしながら、館林はゆっくりとした口調で言った。
「包帯は、僕が無意識のうちに暴れて、怪我したから巻かれたんですよね?」
確認を取る口調で、洋輔は言った。
「ええ。その通りです」
「僕が暴れた原因というのは?」
「それはまだ、はっきりと分かっていません」
館林の口調からして、何か隠しているとは思えなかった。
「分かりました」
半ば失望するような気持ちで、洋輔は言った。
「けど、私が今日訪れたのは、そのような話をするためではありません」
刑事の言葉に興味を惹かれ、洋輔は館林のほうを見た。
「事件の説明です」
途端に、洋輔の動機が激しくなった。
「あなたも知っておかなければならない。学園の生徒が飛び降りた事件のことを」
そのことはずっと知りたかった。しかし、この病室にはテレビがなく、出歩いてテレビのある待合室に赴いても事件のことはすでに報道されていないのだ。新聞も読まないため、事件の知識は皆無だった。
まさか、刑事から直接話を聞けるとは。洋輔にとって願ってもないことだった。
「最初から、説明しますね」
洋輔は、館林の言葉に身を乗り出して頷いた。