第三章
現場にいた者たちは、警視庁からやってきた刑事たちによって食堂に集められていた。集められた生徒たちは、こんな状況にも関わらず勉強に励んでいる。
食堂は第三校舎の二階にあり、全校生徒が食事をできるようにかなり広く設計されていて、お互いが向き合う形で作られた、百人座れる長テーブルが縦に六列並べられている。集められたのは三十人で、一つの長テーブルに間隔を空けて座らされていた。
洋輔は貧乏ゆすりをしながら、腕時計に目を落とした。
時刻は、六時を回っていた。集められてからすでに一時間近く経過しているが、それきり刑事たちは食堂に姿を現さない。色々と調べることがあるのだろうと、洋輔は無理やり自分を納得させようとしたが、一向に収まることのない吐き気と若干の眠気がそれを妨げていた。
松平からもらった薬を飲んでも吐き気は収まらず、むしろ飲む前よりも悪化しているように感じ、さらに眠気も襲ってきているのだ。
市販だからといって、やはり他人からもらった薬は飲むものではないなと、洋輔は学んだ。
洋輔は背もたれに背中をうずめると、長テーブルを見渡した。
食堂に集められてから、時間がもったいないとばかりに集められた生徒達が勉強をしている。
この状況で、よく勉強していられるよな――。
軽蔑の眼差しを向け、胸中で洋輔は呟いた。
不意に佳代のことが心配になった洋輔は、一番奥のほうへ座っている佳代のほうへ顔を向けた。両手で顔を覆い、リズムよく肩を動かしている。佳代が負った心の傷は相当深いようだった。
と、ここで洋輔は松平に言われた一言を思い出した。
佳代の様子が変ではないかと、松平は指摘していた。確かにその言葉には、納得のいくところがあった。
あの死体を見てから、彼女はずっと泣き続けていた。何に対して泣いているのか、洋輔にはもはや分からなかった。
死体を見たショックから泣いているのか、それとも……。
「皆様、お待たせしました」
六時三十分――ようやく、二人の刑事が警察手帳を掲げながら食堂に姿を現した。
「警視庁捜査一課の、館林と申します」
「同じく警視庁捜査一課の、海藤と申します」
館林と名乗った男は、いかにもベテランという風格を漂わしていた。素人の洋輔にも、只者ではないと分かる。短髪で、端正な顔立ちをしている館林は、実年齢よりも若々しく見えた。
一方の海藤という男は、少々肥満気味で、スーツを身軽に着こなしている館林とは違い、ラフな格好をしていた。それが、洋輔に不快な印象を与えた。
「すいません。調べたいことがたくさんあって、時間がかかってしまいました」
「調べたいことって、あれは自殺じゃないのですか?」
一人の男子生徒が、勉強している手を止め挙手をして発言した。
「ええ。その可能性は大きいと思います」
にこやかな表情で、館林は答えた。
洋輔は再度、佳代のほうに視線を向けた。依然として佳代は、両手に顔をうずめたままだった。
おそらく館林たちは、死体についての情報を自分たちに話すだろう。佳代は、その情報を聞くのが辛いはずだ。これ以上、佳代の泣いている姿は見たくない――。
そう思い立ち上がった洋輔は、抗議するため館林のほうへ顔を向けて言った。
「これ以上、僕たちを拘束しないでください」
「はい?」
腹の底から声を出したつもりであったが、死体を見た時からの吐き気のせいで、上手く声に出すことが出来なかった。
仕舞いには、その場に倒れてしまった。
「大丈夫ですか!」
海藤が、その巨体を揺らして洋輔に近づいてくる。館林も、心配そうな眼差しを洋輔に向けている。
「館林さん、凄い熱です」
海藤は、洋輔の額に手を当ててから言った。
「どうしたんだ」
先ほどまで静寂に包まれていた食堂は、一気にざわつき始めた。周りの生徒たちは、口々に何か呟いている。
「どうしましたか?」
館林は洋輔のそばまで行くと、洋輔の頬にそっと手を当てて、すぐ離した。
「病院に連絡だ」
いよいよ大事になってきた。海藤はポケットから携帯を取り出し、病院へ連絡を入れた。館林は、動揺する生徒たちを落ち着かせる役目に徹していた。
「大丈夫です。きっと、助かります」
数十分経った頃にサイレンの音が遠くから聞こえてきた。サイレンの音を聞いて、洋輔は薄れ行く意識の中、ようやく事態を把握し、胸中で呟いた。
俺、運ばれるんだ――。
目を覚ますと、病院独特の香りが鼻につき思わず顔をしかめた。大人になっても、この匂いには慣れないなと、洋輔は心の中で自嘲した。
しばらく朦朧としていた意識だが、徐々にはっきりとしてきて、やがて両腕に激痛を感じるようになった。
激痛の正体を確かめるため両腕を上げようとすると、右腕が何かに引っかかり動かすことが出来なかった。
顔を右に向けると、包帯を巻かれた腕に点滴がさしてあった。同じく左腕にも包帯が巻かれていて、洋輔の不安は煽られるばかりだった。
色々とこの状況について聞きたいことが山ほどあったが、あいにくここは個室で、周りには誰もいないため、知ることは出来なかった。
それにしても、何故自分は病院に運ばれたのだろうか。その疑問が、真っ先に脳裏をよぎる。
普通に考えればおかしかった。死体を見て気持ち悪くなって倒れたとはいえ、病院に搬送され、両腕に包帯を巻かれて点滴がさされているという状況になるはずがなかったからだ。
今思えば、体調が急激に悪化したのは保健室を出てからである。保健室にいた時、自分の身に何かあったのだ。
病院に搬送される理由を決定付けた、何かが。
「目が覚めましたか」
思案する間もなく、病室に二人の男が入ってきた。警視庁からやってきた、館林と海藤だった。
「随分、苦しそうですな」
洋輔のこの状態を見て、海藤はそう発した。口調には、デリカシーの欠片も込められていなかった。
隣の館林のほうへ目をやると、まるで洋輔の姿など目に入っていないようで、思索にふけっているように見えた。
「しかし、驚きました。いきなり倒れたんですもん」
洋輔は、海藤という男にあまりいい印象は持っていなかった。口調といい、その格好といい、腹立たしさが湧いてくる。が、当然そのようなことは口に出せず、代わりに目で訴えていた。
海藤はそれに気づく様子もなく、べらべらと喋り始めた。
「瀬郷洋輔さんでしたっけ。聞きましたよ、職員の先生から。あなたはあの城東大学に通っているんですってね。なかなか優秀じゃないですか。まあ、優秀じゃなければ宝徳学園の教育実習生なんて務まらないですもんね。本当、すごいです。けど、ついていませんよね。初日からこんな事件が起きちゃ。大学に戻ることになっちゃうんですかね」
我慢できなくて、助けてもらうつもりで館林へ視線を向けた。
しかし館林は全く気づかず、依然として考えを巡らせているようだった。
館林にとって何か引っかかることでもあるのだろうか、そう思い始めた洋輔の耳には、最早海藤の言葉など耳に入ってこなかった。
「僕も教師になりたいと思った時期はあったんですけど、高校二年生のときに転機が訪れましてね。警察官に助けてもらったことがあるんですよ。落し物を届けてくれたんです。警察官って意外といい仕事なのかもな、って思い始めて、そしたら決断するまで早かったですね。大学への進学も当時は考えていたんですけど、僕は警察官になろうと思って――」
「ちょっといいですか?」
館林は強引に話を遮り、洋輔のほうへ顔を向けた。海藤は話を邪魔されたことへの不快感を隠そうとはしなかった。
「すみません、お疲れのところ。状況を軽く説明してから、一つ質問をさせてください」
海藤の話を永遠されるよりかは、館林の質問を受けていたほうがはるかにましだった。
「医師の方に無理を言って面会をさせてもらっている状況なんで、手短にすませますね」
館林の言い方には、暗に海藤への非難が込められていた。
「この三日間で分かったことが一杯あるんですよ」
「三日間?」
洋輔は思わず聞き返した。
「三日間も僕は眠っていたんですか?」
「まあ、そう……なるんですかね」
歯切れの悪い返答に、洋輔は首を傾げた。
「非常に危険な状態だったと、担当の医師から聞かされました」
脱力してしまった洋輔を尻目に、館林は続けた。
「あなたは第三校舎にいたそうですね」
力なく、洋輔は頷いた。
「中庭に向かった際、誰かと会いませんでしたか?」
「誰か?」
館林の質問の意図が分からず、洋輔は首を傾げて呟いた。
「とくに誰も見ませんでしたけど……」
と、ここで洋輔はようやく館林の考えに気づいた。あの思案顔も、これで合点がいく。
「もしかして館林さんは、これを自殺じゃないと考えているのですか?」
洋輔の鋭さに館林は少なからず動揺を見せたものの、刑事というだけあってすぐに立て直した。
「詳しいことはお話できません」
本心から発せられた言葉だった。これ以上は、いくら粘ってもきっと話してくれないだろうと、洋輔は潔く諦めた。
「目が覚めたとはいえ、まだ絶対安静なんですから。また後日、お伺いします。その際、他の方々に提示した情報はお話します。それと、あなたの身に何が起こったのかも」
そんなことを言われても、落ち着いて眠れそうになかった。この三日間、何があったのか。何故警察は他殺の可能性も視野に入れているのか。
きっと、自分以外の現場にいたものはある程度の情報は聞かされているのだろう。高熱で倒れさえしなければ、こんなもどかしい気分など抱かなくてもすんだのにと、洋輔は後悔していた。
「それでは、また。お大事に」
言うと、館林は足早に病室を去っていった。海藤は、さきほど話を遮られたのをまだ根に持っているのか、不機嫌さを露にして館林の後に続いた。
洋輔は枕に頭を押し付けて、ゆっくりと瞼を閉じ、これからのことを頭に思い浮かべた。
当然だが、教育実習は中止になるだろう。生徒の自殺騒動が起こり、その上高熱で倒れてしまい、教育実習どころではなくなってしまった。数ヵ月後には、平凡な大学生活を再開しているに違いない。そう思うと、気が滅入ってくる。
一度でいいから、生徒たちに授業してみたかったな――。
洋輔は、胸中で呟いた。
悔しかった。何も出来ないのが非常に悔しくて、情けなかった。
けど、どうすればいい。宝徳学園はおそらく休校になり、洋輔は大学へ戻ることを余儀なくされる。
自嘲気味に、洋輔は笑った。
どうしようもないじゃないか。
保健室で何があったのか考えるのを忘れ、洋輔は悔しさのあまり声を押し殺して涙を流した。