第二章
「先生って、ついていないね」
保健室に入ってから、棚に並べてある薬品を眺めていた女生徒は、呟くようにいった。
「何が?」
気持ち悪いせいもあって、洋輔はぶっきらぼうに言った。
「だって、教育実習に来たのにこんな事件に出くわすんだもん」
女生徒の言葉には答えず、洋輔はしばらく辺りを見渡して、手近にあった椅子を引き寄せ座った。
「確かにそうだな」
改めて女生徒の言葉を考えてみると、納得のいく部分があった。
洋輔は、一ヶ月とはいえ教師の体験をするために宝徳学園へ赴いたのだ。高校教師というのは、中学生の頃からずっと抱いていた将来の目標でもあった。昨晩は、楽しみと不安でほとんど寝付けなかったぐらいである。
待ちに待った教育実習の初日に、こんな事件に出くわすなんて誰が想像できただろうか。洋輔は狼狽を隠すことが出来なかった。
「あれ……自殺だよね」
女生徒は依然薬品を眺めながら、後ろに座っている洋輔に訊いてきた。女生徒の口調には、まるで自分に言い聞かせるかのような響きがあった。
彼女自身も分かっているはずだ。あれは飛び降り自殺のなにものでもないということを。分かっているが、誰かに問いたかった。洋輔には、そのように見えた。
女生徒の肩がかすかに震えているのに、洋輔は気づいた。そういえば、死体を見ていた彼女の目は赤かった。泣いていたのだ。
死体を見たから彼女は泣いたのか。女の子だから、それが普通の反応なのかもしれない。実際、他の女生徒からも嗚咽が聞こえた。しかし洋輔は、はっきりと根拠があるわけではないが、女生徒が泣いたのは、死体を見た以外にも何か特別な理由があるような気がしていた。
洋輔が何か口を開こうとしたと矢先、奥の部屋から養護教諭の松平邦和姿を現した。その表情は、険しかった。
松平はオールバックにして髪を後ろにまとめており、山田に勝るとも劣らない体格をしていた。昔、いかにもスポーツマンだったという風格を漂わせている。洋輔は、松平と接するのに若干の抵抗を抱いていた。
「はい」
片手に持っていた物を、松平は洋輔に差し出した。それは、一粒の錠剤だった。
「吐き気が止まると思うから」
「けど、いいんですか。勝手に飲んじゃって」
他人から貰った薬を服用してはいけないと、何回か保健の先生に注意されたことがあるのを、洋輔は思い出す。
「大丈夫、大丈夫。市販だから、誰が使っても同じだよ」
宝徳学園には似つかないほど、松平の性格は楽観的であった。
「しかしまあ、驚いたね。生徒が自殺なんて」
松平がベッドに腰をかけた時、軋む音が保健室中に響いた。その音に洋輔は大げさに肩をびくつかせたが、薬品を眺めたままの女生徒は無反応だった。
「佳代ちゃん、詳しい話を聞かせてくれないか?」
と、松平は女生徒のほうへ顔を向けた。佳代と呼ばれた女生徒はようやくこちらへ振り向いた。佳代は、ぎこちない笑顔を浮かべていた。
「私、他の生徒たちのように中庭で勉強していたんです。そしたら突然、耳に不快な音が入ってきて、見たら人の死体があって……」
喋っていくうちに感情が高ぶってしまったのだろう、笑顔を崩し彼女は両手で顔を覆った。松平は後悔した表情を作り、再び洋輔のほうへ顔を向けた。
佳代はとっくのとうに限界を迎えていた。さきほど薬品を眺めていたのも、気持ちを紛らわすためだったのだろう。そして振り返った時、彼女は笑顔を浮かべていたが、やはり無理やり取り繕ったものだった。こちらに悟られまいと、懸命に振舞っていたのだ。
そんな彼女を、洋輔は不覚にも愛おしく思ってしまった。その感情の正体が果たしてどのような類のものなのか、幸いにも洋輔はつかめていなかったが、気づくまで最早時間の問題だった。
「しかし、どうして自殺なんか……」
「君は、自殺と断定しているようだね」
「は?」
松平は意味深な表情を浮かべた。
「自殺ですめばいいんだけどね」
「どういうことですか?」
洋輔が訊くと、松平は突然我に返った顔をして、やがて表情を和ませ言った。
「中年の、独り言だよ」
そんなこと言われても、洋輔には松平の言葉を独り言として聞き逃すことなんかできなかった。
自殺じゃなければなんなんだ――洋輔は、心の中で憤慨した。
「そういえば、君は今日来た実習生の一人だよね?」
「え、あ、はい」
唐突に話題を変えられ若干戸惑ったが、洋輔は頷いて言った。
「ついていないね、一日目だというのにこんな目にあって」
不謹慎だが、洋輔は吹き出しそうになった。佳代と同じ事を言っていたからだった。
「死体を見て、気持ち悪くなったのか」
松平はじっと洋輔の目を見つめながら、訊いてきた。洋輔は見栄を張ることなく、黙って頷いた。
「そうか」
頷きながら、松平はゆっくりと洋輔の手のほうへ視線を移動させ、しまったという表情を浮かべた。
「ごめんね、忘れていた。水だよね。そうだよ、水だよ。水がなきゃ、薬飲めないよね」
言いながら立ち上がって、松平は奥の部屋へと姿を消した。
正直言うと、洋輔はこの薬を飲むのに躊躇いがあった。市販といえども、他人から渡された薬はやはり飲む気にはなれなかった。
「ねえ、先生」
不意に、佳代は声をかけてきた。昼休みの時に声をかけてきた彼女とは思えないほど、その姿は憔悴しきっていた。
その様子に、洋輔はかすかな違和感を抱いていた。
「私……どうしたらいいのかな?」
佳代が何を言っているのか、意味が分からず洋輔が顔をしかめていると、勢いよく保健室のドアが開いた。
ドアのほうへ振り向くと、そこには息を切らした男子生徒が立っていた。
「佳代!」
男子生徒は佳代の名前を叫び、堂々とした足取りで保健室へと入ってきた。
真ん中へ来た辺りで、男子生徒はようやく洋輔の存在に気づいたらしく、嫌悪感を露にしたが、それでも佳代のほうへと近づいて行った。
「何よ」
佳代は今にも泣き出しそうな顔をしている。声も震えていた。
「ここに入ったところを見て、来たんだ」
そう言うと、男子生徒は佳代の腕を掴み無理やり連れて行こうとした。
「ちょっと、何よ!」
佳代は激しく抵抗したが、男子生徒の力には太刀打ちすることが出来なかった。
「俺と一緒に来るんだ!」
「離して!」
「ちょっと、君」
見かねた洋輔は、男子生徒のもとへ行き佳代から引き離した。
「何すんだよ、おっさん」
「おっさん、って」
俺はまだ二十一だぞ、という言葉が喉まで出掛かったが、ぐっと堪えて大人な対応を心がけた。
「彼女嫌がっているぞ」
「俺にはそう見えないね」
この自惚れている男子生徒を、思いっきり罵ってやりたいという衝動を何とか抑え、無感情で洋輔は言った。
「君は彼女のなんなんだ?」
「どういう意味だよ、それ?」
男子生徒は食って掛かってきた。
「お前、佳代の彼氏気取りか?」
宝徳学園の生徒とは思えないほど、男子生徒の気性は荒く幼稚だ、洋輔はそう思った。相手にするだけ、時間の無駄かもしれない。
「俺はな、佳代の――」
「赤の他人だよ、こいつ」
男子生徒の言葉を遮り、佳代は驚くほど冷たい声で答えた。
「な、何?」
「うっさい、本城」
変わらぬ冷たい口調で、佳代は本城と言う男子生徒に、突き放すように言った。
「本城って……」
動揺を、本城は隠そうとしなかった。察するに、冷たくされたのが驚きだったのだろう。
洋輔は、本城と佳代の関係性がつかめなかった。
「なあ、お前――」
「止めて!」
無理やり引き寄せようとする本城の手を、佳代は叫びながら振り払った。その時、ポケットから丸められた一枚の紙が落ちてきた。
「それ……」
本城が拾おうとすると、佳代は覆いかぶさるようにして紙を拾った。
紙を入っていたポケットにしまい、佳代は立ち上がって洋輔のほうへ顔を向けた。
「じゃあね、先生」
小さい声で言うと、目を伏せながら佳代は保健室を出て行った。本城は手を伸ばして佳代を止めようとしたが間に合わず、がっくりと肩を落とした。
「くそっ!」
悪態をついて、本城は洋輔のほうへ顔を向けた。
その表情は何か言いたげであったが、結局何も言わないで保健室を出て行った。その後姿は、どこか寂しげであった。
佳代と本城は付き合っていたのだろうか。しかし、佳代は本城に対して、理由は分からないが怒りを抱いていた。赤の他人だと、佳代は躊躇うことなく洋輔に言っていた。
解せないことはたくさんあるが、今は関係ないだろう、そう自分に言い聞かせ、洋輔は座っていた椅子のほうへ体を向けると、視界にコップを持っている松平の姿が映った。
「あ、先生。見ていたんですか?」
意味ありげな微笑を浮かべながら、松平は洋輔に近づいてくる。
「邪魔しちゃ悪いと思ってね」
洋輔は、その言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。
「二人は付き合っているんですか?」
興味なさそうに素っ気なく訊いたが、内心では知りたくて仕方がなかった。
「いや、違うと思うよ」
松平の答え方も素っ気無かった。
「違うんですか?」
「多分ね」
思わず聞き返してしまった洋輔に、松平は訝しげな眼差しを向けた。
「いや、ほら、なんかそんな雰囲気があったから」
慌てる洋輔に、松平はにやけながらコップを差し出した。
「よかったな」
「何がですか?」
松平が何を思ってよかったと言ったのか、本当は洋輔自身も分かっていたはずだ。けど、それを認めたくない自分がいた。
「佳代ちゃん、男友達いるからなぁ」
聞き流そうとしたが、無理だった。
「さっきの彼、ええっと……そうだ、本城君とも仲いいし、それと誰だったかな、凄い頭のいい子……やっぱ思い出せないわ」
無理に思い出そうとして頭を悩ませている松平を尻目に、洋輔は佳代のことを思い浮かべため息をついた。所詮、自分と佳代は、教育実習生と生徒の関係なのだろうと。
「そういえば、君は佳代ちゃんと仲がいいのかい?」
「え?」
思わず声をあげてしまったのは、心の奥に秘めているものを松平に見透かされたからだと思ったからだ。
しかしすぐそれを打ち消し、松平の質問に答える。
「まあ、仲いいかは分からないですけど、彼女のほうから声をかけてきてくれて、少し話したんです」
「なるほどな」
どうやら、松平は納得の様子だった。
「この学園では珍しいくらい、明るい子だ」
松平の言うとおり、彼女の明るさはこの学園に似つかわしくなかった。実際、洋輔は教育実習生として今日、この学園を訪れてから生徒たちが仲良くお喋りをしている風景を見ていない。皆、人と接することを嫌い勉強ばかりをしていた。正直、洋輔はうんざりしていた。せめて楽しく、教育実習をしたかったのだ。そう思っていた矢先に、彼女と出会った。洋輔は少し救われた気がした。
佳代に特別な感情を抱いていることは、言うまでもないだろう。だが、洋輔はそれを決して認めはしなかった。そんな不純な動機から、教師になったと思われたくないからだった。
「保健室にも、前は時折顔を見せてくれる程度だったが、最近はよく来てくれてね。私の話し相手になってくれているんだよ」
頷きながら、洋輔は松平にかすかな嫉妬を感じていることに気づき、自分を叱咤した。
「けど、彼女の様子少し変じゃなかった?」
「変ですか?」
佳代の普段をあまり知らない洋輔に言われても、答えられるわけがなかった。まさか松平は、自分の気持ちを知ってわざとこのような質問をぶつけたのではないか、そのような疑いを洋輔は向けた。
私は、普段の彼女のことを知っているよ――。
松平の目は、そう言っているような気がした。
「なんか、いつもと違うような」
やっぱりだ。洋輔は冷ややかな気持ちで松平を見つめた。
「けどさぁ、普通人が死んだくらいであんな泣くかねぇ」
「さあ」
洋輔は素っ気無く返し、さっさと薬を飲んでこの保健室を出て行こうとした。
一錠の錠剤を口に含み、水でそれを無理やり体の中に流し込む。松平はその動作に目をくれず、なにやら腑に落ちない点をあげているようだった。
「なんであんなに泣くのかな。やっぱり死体を見ると、悲しいのか。彼女だったら、泣くのか。けど……」
コップをテーブルに置いて、保健室を出て行く準備を始めると、松平は声をかけてきた。
「ねえ、やっぱり佳代ちゃんに限らず、普通の女の子であればショックで泣くのかな?」
佳代に限らずというのと、松平の目がいっそう真剣になったので、洋輔は少し答える気分になった。
「そう言われると、そうですね」
洋輔は、死体を見ていた時の生徒たちを、脳裏に思い浮かべていた。
死体を囲んでいた生徒たちは狼狽を浮かべていたが、涙を流している者はほとんどいなかった。女子は、何人か嗚咽を漏らしていたが、佳代みたいに号泣している者はいなかった。
あれが彼女だといわれればそれまでだが、普通に考えれば、誰か分からない死体を見ただけで目を赤くするほど泣く者はいない。
「私の、気にしすぎかもしれないけどね」
そう言って、松平は重くなった空気を和ますかのように笑いながら言った。つられて、洋輔も笑った。
けど、心中は穏やかじゃなかった。
松平のおかげで、佳代という女の子のことをもっと知りたくなってしまった。
その中には好意というものもあるが、それだけじゃない。松平が口にした疑問が、洋輔の中でも引っかかっていた。
「薬、ありがとうございました」
ここで長く考えていても仕方がない。洋輔はお礼を言って、足早に保健室を出て行った。
見送ると、松平は静かになった保健室を見渡し、そして佳代たちが来る前までやっていた実験を再開するため、奥の部屋へと消えた。