第一章
不意に、今まで聞いたことのないような、不快感極まりない音が耳に入ってきた。
瀬郷洋輔は読んでいた本を閉じて、ゆっくりと音のした方向へ顔を向けた。
音が聞こえてきたのは、ここからそう離れていないな――。
そう思い、席を立って洋輔は図書室を出た。
洋輔は某有名大学に通う二年生で、教育学部に所属している。専攻は歴史。教育実習生として、洋輔は今日、都内でも屈指の進学校、宝徳学園へとやってきた。
今日は初めてということあって、教室の後ろで世界史の授業を見学しているだけだったが、早くも洋輔の心は折れかけていた。
生徒の出来が、想像以上によすぎるのだ。自分よりも、もしかしたら頭がいいかもしれない――そんな不安が、洋輔によぎった。高校生より頭が悪いと示しがつかない。そう危惧した洋輔は、閉館時間のギリギリまで、宝徳学園の図書室で勉強しようと考えたのだ。
その最中に、遠くから肉の潰れたような音がしたのだ。集中力は途切れ、同時に洋輔の好奇心を駆り立てた。
宝徳学園の敷地面積は広大なため、まだどこに何があるのか把握できておらず、図書室を出てから洋輔は早速迷った。自分がどこを歩いてきたかさえ、記憶が曖昧だった。
とりあえず、出てきたからにはあの音の正体を突き止めなければならない。そんな使命感にも似た思いを抱きつつ進んでいると、窓の向こうに人だかりが見えた。
「なんだ?」
目を凝らして、人だかりを見てみる。
宝徳学園には三つの校舎がある。一二年の教室が主の、第一校舎。三年の教室と、進路のための資料室が設けられている第二校舎。図書室や保健室、食堂などがあるのは第三校舎で、この三つの校舎は縦に三列で並んでおり、二階の渡り廊下によって繋がれている。洋輔がいるのは、第三校舎の一階。人だかりがあるのは、第三校舎と第二校舎の間に位置する中庭である。
洋輔は足早に人だかりを目指した。
外へ出るための通用口を開き、今度は駆け足で人だかりのもとへ向かう。
数十人の生徒たちは、真ん中にあるものを取り囲むようにして集まっていた。
「なんだよ……これ」
動揺する声が、ちらほらと聞こえてきた。中には、嗚咽も聞こえてくる。洋輔の好奇心は、それに比例するようにますます高くなっていった。
洋輔は、生徒たちが取り囲んでいるものは何なのか覗こうと背伸びをしてみるが、如何せん身長には恵まれていなく、しかも前にいる男子生徒の身長がかなり高いため、何を取り囲んで動揺しているのか見えなかった。
「あ、先生」
一人の女生徒が洋輔の存在に気づき、振り返って声をかけてきた。
その女生徒のことはよく覚えていた。今日の昼休み、声をかけてきた女の子だ。
宝徳学園は先ほども説明した通り都内屈指の進学校で、生徒たちはお互いをライバル視しており暗い子が多いのだが、声をかけてきた女子は他の生徒たちとは正反対の明るい子で、食堂でメニューを眺めていた洋輔に、気さくに声をかけてきたのだ。そのため、彼女のことは洋輔の記憶に強く残っていた。
そんな彼女が、今泣いているのだ。目は充血しており、今も頬に涙が伝っている。どうして泣いているのか、洋輔には皆目見当がつかなかった。
心配になった洋輔は、生徒たちを強引に掻き分けて取り囲んでいたものを見た。
それを見た瞬間、絶句した。
洋輔の目の前には、血の池が出来ていた。内臓やら脳が飛び出ている物体が、そこにはあった。見る限り男子生徒のようだが、学ランがなければおそらく判別がつかなかっただろう。それほどに、凄惨な死体だった。これはいったいどういうことなのか。
状況をよく理解できず、洋輔は頭の中で瞬時に様々なことを思い浮かべた。
その中の一つに、投身自殺という四文字がよぎり頭上を見上げた。
唯一、第三校舎には屋上がある。そこから、この男子生徒は飛び降りたというのか。
そう考えると、途端に眩暈が襲ってきて、膝をついた。洋輔に声をかけた女子は短い悲鳴を上げ、前にいる男子生徒は彼女の悲鳴に驚いてこちらを振り返った。
「先生、大丈夫?」
女生徒は、手に握り締めていた紙を丸めてポケットにしまうと、心配そうな声を上げて洋輔に駆け寄った。その声に若干の安心感を抱きつつも、やはり心の中にある不快感を払拭することは出来なかった。
図書室で聞いた肉の潰れる音の正体は、この男子生徒が飛び降りて地面に衝突した時の音だったのだ。
そう思うと背筋に悪寒が走り、吐き気がこみ上げてくる。洋輔が口に手を当てると、女生徒はそれを察して背中に手を当て、さすり始めた。周りの生徒たちは、洋輔達に注目している。
「どうしてこんなことが……」
鼻息を荒くしながら、洋輔は心の底から振り絞るように言った。
「おい、どうしたお前たち」
不意に、遠くから野太い声が飛んできた。生徒たちは、声の主を振り返る。
近づいてきたのは、生徒たちから恐れられている体育担当の教師、山田哲郎だった。
この高校に通う生徒たちは勉強ばかりを必死に取り組み、運動部は一応存在するが所属している生徒は少ない。
つまり皆、体育が嫌いないのだ。
しかし山田は、体育の見学を相当な理由がないと認めなくて、生徒たちは嫌々体育の授業を受けている状況だ。生徒たちが嫌うのも無理はない。
そのゴリラみたいな顔と、身長百八十センチという大柄な体格がまた、生徒たちに別の恐怖を与えているといえる。
「何があった、ええ?」
生徒たちは萎縮して、山田に何も話そうとはしない。
「あれ、瀬郷君。どうした?」
女生徒に背中をさすられている洋輔を見た山田は、一瞬にやついた表情を浮かべ、中腰になって訊いて来た。
「いえ……あの……」
洋輔も、上手く説明することが出来ないので、代わりに男子生徒の自殺死体を指差した。怪訝そうな表情を浮かべつつも、山田は指さされたほうに顔を向けた。
男子生徒の自殺死体を見た瞬間に、みるみる山田の表情を青ざめていき、先ほどまでの威勢は感じられなくなった。
「あ……あ……」
口をパクパクさせ、山田も男子生徒の死体を指差していた。その光景は滑稽だったが、残念ながら洋輔もそれと同じような状態で、笑える立場ではなかった。
「と、とにかく、先生に知らせないと」
独り言のように呟くと、山田はどこかへ走っていった。職員室へと向かったのだろう。
「先生、とにかく保健室へ行こう」
女生徒に優しく声をかけられ、洋輔は情けない気持ちになりながらも、頷いた。今はとにかく休みたいのだ。
体を支えられながら、洋輔は保健室のある第三校舎へと戻った。